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「公共事業見直し」を迫る小田急高架事業問題

10年を超える小田急高架事業に対する住民訴訟。地域の利害を超えた、環境問題、都市再生の視点からも、公共事業見直しのときだ。

「エコノミスト」誌 2003年10月28日号掲載

                           斎藤驍(ぎょう) 弁護士・小田急訴訟弁護団長

小田急電鉄の高架事業に反対する沿線住民が、国土交通省と東京都を相手どって事業認可の取り消しを求めた住民訴訟控訴審の最終弁論が10月30日に開かれる。この訴訟は、近年の公共事業見直し気運の高まりに大きな役割を果たしてきた。とりわけ、住民勝訴を言い渡した東京地裁判決(2001年10月)は、市民主導での公共事業見直しにつながるものとして高く評価されている。控訴審結審を前に、この訴訟の意味をあらためて考えてみたい。

「高架が安い」の嘘

 小田急は東京・新宿を起点として神奈川県の箱根まで走っている電車である。問題になっている小田急高架事業とは、新宿から相模大野までの35`を高架にして複々線にしようという、旧建設・運輸両省(現在は国土交通省)や東京都、小田急電鉄による計画である。その計画のなかで、沿線住民の反対運動が起きたのは、東京・世田谷区内の6・4`区間(成城学園前駅付近から環状7号線手前の梅ヶ丘駅付近まで=39ページの図)だった。
 住民による運動と裁判が始まったのは1990年だったから、10年以上も続いている。その間に運動は、従来型のたんなる反対運動に終わらずに、"進化"してきた。高架化の計画に対して、地下化の代替案をし提示し、その経済性を証明した。さらには、跡地利用の提案にも跨み込んだ。その過程で、情報公開を求め、結果として公共事業の不透明さを浮き彫りにすることができた。

 その一例は、運動の発端である「高架か地下か」の問題で見られた。94年3月、住民側の訴訟によって、基礎調査の非常に重要な部分である鉄道計画が初めて情報公開された。官側は、高架は1900億円でできるが、地下にすると3000億〜3600億円かかる、だから事業費の点からいって地下は到底無理という説明を、住民説明会や東京都議会で行ってきた。
官側は事業費の算定根拠として、線路用地の幅について高架式が18・9b、地下式は22・6bになるとした。現在は複線だから12bだが、複々線にすれば高架の場合18・9b必要とされ、6bほど増やせばいい。一方、地下にした場合は10b以上広くしなければいけない。その分、用地費だけでも高くなるという説明である。

しかし、実際は違った。高架式にすると最低6bの環境空間(側道)が両側に必要となり、全体の幅は30b以上となる。他方、地下式の2層2線にすると、現在の12bの線路幅で済む。線路の真下にシールド工法(既に地下鉄技術の主流であった)で2層のトンネルを掘れば、用地費はほとんどかからない。これだけで1500億円も安くなる。にもかかわらず、東京都はこれを全く比較検討しなかったことが情報公開で明らかとなり、高架式が安いという説明は真っ赤な嘘であることがわかった。

不透明な事業目的

事業の不透明さは、それだけではなかった。そもそもこの事業自体が、線路を高架にするだけのものではなかったのである。実はこの事業は、正式には「連続立体交差事業」という。たんなる鉄道事業ではない。問題になっている6・4`区間には踏切が17カ所ある。それを通る17本の道路に加えて、新しく8本、合計25本の道路を新設、または拡幅する事業なのである。

もう一つ忘れてはならないのは、建物の建築基準は、基本的に道路幅によつて決定されることである。6・4`に25本の道路といえば、およそ250bに1本の割合で幅10〜15b以上の道路が造られる。そうすると建物の建ペい率や容積率、あるいは低層・中層・高層というレベルの線引きや用途地域も大きく変わっていくわけで、この沿線周辺の再開発ということになる。つまり、連続立体交差事業とは、鉄道、道路、再開発が三位一体となって行われる非常に大規模な公共事業なのである。

鉄道区間としては短くても、投資される金額は、この区間だけで鉄道が2400億円、道路が3000億円、再開発が5000億円と、1兆円を超える事業になる。

このような大規模な都市の再開発を目指した鉄道と道路の連続立体交差事業は69年9月に、現在は統合された旧建設省と旧運輸省が「連続立体交差化に関する協定」というものを締結して生まれることになった。

このお役所同士の協定の趣旨は、鉄道の立体交差化について、基本的に道路特定財源を投下するということである。道路特定財源は、そもそも道路以外に使ってはならないはずのものであるが、そういう財源を投下して連続立体交差事業を遂行すれば、道路をいくらでも造れる、と考えたのだ。だからこそ、住民が望んだ地下方式は一顧だにされなかったのだろう。

協定が結ばれた69年といえば、日本経済の高度成長と歩調を合わせて、日本が車社会になる最初の高揚を迎えた時期である。首都圏で言えば、裸奈川、千葉、埼玉等の東京に隣接する地域に、いわゆるベッドタウンが次々に生まれて急速に人口が膨れ上がり、通勤ラッシュの問題の一方、車も増えて交通問題が生じ、東京周辺は大きな混乱に陥った時期である。同時に車の保有台数が増えたことから、道路特定財源は潤沢になっていた。その頃、車社会に拍車をかける、連続立体交差事業という、この巨大プロジェクトが生まれたのである。

連続立体交差事業が行われると、ひとつやり方を間違えれば、大変な都市環境の破壊になる。説明するまでもなく、道路がたくさんできれば大気汚染等の弊害が出てくるし、高架鉄道の場合には、騒音の問題、景観の問題等が出てくるのは誰が考えてもわかることだ。

歴史的な地裁判決

一昨年(01年)10月3日、東京地裁(民事第3部、藤山雅行裁判長)は小田急高架事業に対する建設大臣の認可は違法である、として認可を取り消す判決を出した。公共事業に対しては全国でさまざまな反対運動があり、裁判が行われたが、都市計画事業であるこの種の公共事業について、事業認可の取り消しが行われたのは、この判決が初めてである。
それまでは、事業に問題があっても結局、行政のしたことを裁判所が追認してしまう流れがあった。それを東京地裁判決は初めて「ノー」と言ったのである。

にもかかわらず、工事は進んでいる。官側はこの判決に従い、事業を根本的に見直すべきであったし、世論もこれを求めていた。ところが、あえて控訴した。時間を稼ぎ、その間に工事を進め、既成事実をつくるのに躍起となっている。控訴と同時に、官側は何をしたか。住民との誓約があって第1審までは行えなかった日曜・祝日を問わぬ24時間の突貫工事を強行したのである。住民側は夜間工事等差し止め仮処分を提起、今年7月、和解の形で裁判所に認められた。夜間・休日という一部ではあれ、公共工事が差し止められたのもまた、初めてである。

この運動の特色の一つは、住民だけではなく、経済学や都市計画などさまざまな専門家や研究者が応援団として加わったことだ。そうした人たちの開から提起されたのが、跡地利用としての「緑のコリドー(回廊)計画」である。

鉄道を地下にすれば、上に緑道や緑のコリドーなどを造り、都市計画のうえで地表を生かせる。都市を再生する、人間のための都市づくりを実現するうえで緑はとても大切である。いろいろな生物がそこで暮らせるような、そういう緑の空間を作っていかなければならない。今の東京は、緑地はいくらか残っているものの、それぞれ孤立して、点としてしか存在していない。そのために、限られた生態系となる。従って、点ではなく線にしなければならない。小田急線の場合でいえば、新宿に新宿御苑があり、多摩川の方に行くと砧公園がある。新宿御苑と砧の緑地を結ぶような緑地帯は、小田急線を地下化すればそれが可能になるのである。これは工事が相当進行していても、また仮に工事が完成しても、十分可能である。隣接する下北沢地区が地下方式となったので、なおさらである。

第一人者からの意見書

裁判に対する評価は、憲法、行政法はもとより、ゼネコン学会と言われた立木学会に至るまで流れは広まっている。控訴審の結審に向けて、「自動車の社会的費用」で知られる経済学者、宇沢弘文・東京大学名誉教授は現下のような意見書を寄せた。

「日本のこのような車社会、土建国家を准進したのは、いうまでもなく『公共事業』である。これを取り仕切ってきたのが政・官・財であることはいうまでもない。しかし、行政の責任はそこに権力があるだけにとりわけ重い。・・・・・・この事業が道路、鉄道、再開発を一体とした、我が国最大の都市型公共事業であることが分かるにつけ、21世紀の都市をつくり変えなければと考え、学際的な研究を続けてきただけに、その思いは強いものになった。・・・・・・『緑のコリドー』づくりという新しいタイプの公共事業によって、より人間的な雇用が生まれ、日本経済の深刻な停滞を超える有効な政策にもなるだろ
う。・・・・・・原判決は文字通り歴史的な判決だと改めて思い知らされる。・・・・・・私が日本に抱いている危機意識をまさに共有している。この事実を控訴審も是非虚心に受けとめて欲しいと心から希望する」

また、憲法学の重鎮である奥平康弘・東京大学名誉教授も同様に、次のような意見書を提出した。

「本件訴訟は実は、好むと好まざるにかかわらず、裁判所において行政の民主化を求める色彩を濃く帯びていることがわかる。democracyというコンセプトはまことに多義的である。しかし、抽象的スローガンではない。いま流行のことばを使えば、ユビクィタス、具体的な争点の形をとって、『達成すべきなにものか』として現れるものである。本件訴訟は、期せずして司法を通じた行政の民主北を問うものになっている。そうだから、事業地周辺に居住する市民のレベルを超えて、広く一般公衆の関心の的になっているのである」(「公益私益二元論の誤り」)

東京高裁での控訴審判決は、年内にも出るであろう。公共事業を市民の手に取り戻すべく、東京地裁に続き、東京高裁もまた、歴史的勇断をふるうときではないのか。


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