集団即興と対話型アドリブ





 ウェザーリポート以後のコンセプトとなった集団即興というものについて自分なりに説明してみよう。
 ジャズのアドリブにはモノローグ型のものと対話型のものがある。その演奏者のソロとなったら一人でずっとアドリブを展開し、共演者は伴奏に徹するという形(モノローグ型)と、共演者と楽器によって対話しながらアドリブを展開させていく、という形(対話型)だ。
 例えばマイルスという人は一生モノローグ型のアドリブのみでやっていた人だ。これはマイルスのアドリブがあらかじめだいたいの構成、キメのフレーズなどを考えてから演奏するという、いわばアドリブのきかないアドリブだったために、対話ができなかったためだ。つまり、一人で演説させておくと雄弁だが、観衆から質問が出ると途端にしどろもどろになってしまう講演者みたいなものだ。
 これに対して対話型のアドリブを追求していたミュージシャンには、例えばセロニアス・モンクがいる。ホーン奏者の後ろでモンクの強力なピアノの音が響き、と、ホーン奏者はそれに応え、対話しながらアドリブを展開していくのがモンクの方法だった。マイルスが自分がソロの時にモンクのバッキングを拒否したという有名な話は象徴的だ。アドリブのきかないマイルスにはモンクに話しかけられてもそれに応えることはできないからだ。
 その後、オーネット・コールマンが集団即興の可能性を大きく広め、ビル・エヴァンスがピアノ・トリオの形で対話型のアドリブを行い、80年代ではキース・ジャレットのスタンダーズが、やはりピアノ・トリオの形で、より自由な形での対話型のアドリブを追求していたと思う。

 それで、ショーターはどうなのかというと、当初はやはりモノローグ型の人だったと思う。が、60年代後半から少しづつ対話型への探りを入れていった。60年代後半といえばコルトレーンのモノローグ型のアドリブで泥沼のような燃焼を見せていた時であり、ショーターとしてはモノローグ型のアドリブの行き詰まりを、対話型へと移行させることで新しい可能性を切り開こうとしたのではないかと思う。
 さて、ウェザーリポートはマイルス・バンドをやめたショーターが本格的に対話型のアドリブ・集団即興を追求しよう組んだバンドだということができる。
 もともとの発想が対話なのだから、自分がバンドリーダーとならず、三人対等の関係でバンドを組織したのは否定されることではない。
 そして、このあたりからショーターのソロのありかたが変化していく。つまり、前面に出てきてバリバリ吹くのではなく、他の楽器との対話のなかでソロを吹いていく方法だ。そのため、聴くほうもショーターのサックス音だけを聴くのではなく、同時にバックのキーボードやベースなども同時に聴いて、各楽器がどんな対話をかわしているのか聴いていかなければ、本当のおもしろさはわからない。
(たとえば『Sweetnighter』の冒頭の"Boogie Woogie Waltz"。13分以上ある長い曲で、ショーターはほぼずっとソロをとっているが、ショーターのソロのみを聴いていると、それほど盛り上がらず、調子が悪いんでは……という気になる。これはショーターのサックスの音だけ聴くのではなく、キーボード、ベースの音を同時に聴いて、その対話を聴きとらなければ面白さがわからないわけである)
 そのような方法をとったために、ウェザーリポートの音楽を、ショーターはバリバリ吹かない→ショーターの影が薄い、ととっている人がいるように思えるが、このような見方は演奏者の意図を理解していない、間違った解釈であることはおわかりだろう。


03.6.3



『ウェイン・ショーターの部屋』





「超絶技巧」とはミュージシャンをケナす言葉である。





 とくにフュージョン系のファンの文章を読んでいると、テクニック偏重ともいえる価値観に出会うことがある。超絶技巧などということがホメ言葉のように使われ、こちらのミュージシャンのほうが速いとか、テクニックではこの人に少し劣る……とか。
 個人的な意見を言わせてもらえば、「テクニックが凄い」というのはむしろそのミュージシャンをケナす言葉であり、テクニック偏重の聴きかたをしている人は、音楽を音楽として鑑賞することができていない人だと考えている。

 たしかに音楽を表現するためにはテクニックが必要である。しかしテクニック自体は音楽を演奏するための前段階であり、音楽そのものではない。これは例えば、そのミュージシャンがどんな楽器を使っているかといったことと同じだ。いい音で音楽を表現しようとすれば、いい楽器を使う必要があるだろう。しかしいい楽器を入手するということは音楽を演奏するための前段階であり、音楽そのものではない。
 例えば、あるミュージシャン志望者がオーディションなどで演奏したとしよう。そして審査員が感想で一言「きみ、いい楽器つかってるね」とだけ言ったとすると、それはつまり楽器以外にホメるところが何もなかったということであり、はっきりいえばケナされているのである。
 テクニックもこれと同じだ。「凄いテクニック」というのは、それ自体では曲芸の一種であって、音楽ではない。本来ミュージシャンはテクニックがどの程度かではなく、そのテクニックを使ってどんな音楽を演奏するかという点で聴かれ、評価されなければならない。そして、ミュージシャンが自己の優れたテクニックによって、もし見事な音楽を演奏したとしたら、リスナーに感動を与えるのはその音楽のほうであって、そのミュージシャンは音楽によって評価されるはずだ。
 しかし、あるミュージシャンの演奏がテクニックのほうが印象に残ったのだとしたら、それはつまり、そのミュージシャンの演奏している音楽がたいしたことのない、印象にも残らないような音楽だといういうことであり、だからこそテクニックしか印象に残らなかったということである。テクニックなどというのは、つまり他にホメるところがない時に仕方なくホメる要素だ。
 つまり、このプレイヤーは凄いテクニックの持ち主だ、とばかりいうのは、つまりその人はミュージシャンとして無能であり、曲芸師になったほうがいいんじゃないかとケナしているのと同じである。
 しかし、もちろん曲芸だって人々に感動を与える芸の一つであり、あるプレイヤーが超絶技巧のテクニックを見せびらかすような演奏をすれば、その曲芸に感動する者もいるだろう。先述した「テクニック偏重の聴きかたをしている人」というのはその類であり、つまりその人が感動しているのは曲芸であって、音楽ではない。こういう人が音楽を音楽として鑑賞することができていない人だと書いたのはそういう理由だ。
 しかし、音楽という側面から見るならば、超絶技巧のテクニックを見せびらかすような演奏というのは、例えばミュージシャンが自分の持っている高価な楽器を観客に見せびらかして自慢しているのと同じだ。たしかにいい音楽を演奏するにはテクニックも必要だろうし、いい楽器も必要だろう。しかしそれ自体を見せびらかしても仕方がないではないか。

 さらにいおう。
 いい楽器を観客に見せびらかして自慢するなら、なるべく高価な楽器のほうがいい。例えばヴァイオリンのストラディバリウスなんて、高価な点では一番かもしれない。しかし音楽という点でいえば、サックスプレイヤーやギターリストがストラディバリウスを持ってたって意味はない。たとえ比較的値段が安かろうと、自分が音楽を表現するために必要充分な楽器を入手することが重要で、それさえあれば高価なヴァイオリンなんていらない。
 テクニックもそれと同じであり、たしかにテクニックそのものを見せびらかすような曲芸をするなら、テクニックは高度であれば高度であったほうがいい。しかし、自分の音楽を演奏するために使用するなら、自分の音楽を表現するのに必要充分な以上のテクニックはいらない。これはどういうことかというと、真にミュージシャンである人は、自分の音楽を表現するのに必要な以上のテクニックをもし持っていたとしても、とくに必要な時以外、これみよがしにそのテクニックは使ったりはしないということだ。
 ぼくの経験でいうと、初心者のときに聴いて、演奏がウマいのかヘタなのかよくわからなかったミュージシャンというのは、本物であったことが多い。つまり、持っているテクニックを必要以上に使わないミュージシャンというのは、初心者から見ると、高度なテクニックが見えないので、上手いとは判断できないことが多い。だんだんと音楽を聴き込んでいくうちに、その巧さがわかってくる。
 それに対し、高度なテクニックを見せびらかす演奏者は、初心者から見るといかにも上手そうに見える。しかし、だんだんと音楽を聴き込んでいくうちに、その底の浅さがわかってくることが多い。
 もちろん、それほど高度なテクニックを持っていなくたって、そのテクニックで自分の音楽を充分に表現できるのであれば、それは優れたミュージシャンであり、テクニックばかり高度でたいした音楽を作り出せないミュージシャンよりずっと上である。それは高価な楽器を持っていてもそれを演奏できない人より、安価な楽器しか持ってなくても上手に演奏できる人のほうがミュージシャンとしてずっと上、というのと同じだ。

 もちろん、その人の目指す音楽そのものが高度なテクニックを要求する場合もあるので、高度なテクニックを駆使するミュージシャンを全否定する気はないが。


04.2.6



『ウェイン・ショーターの部屋』


ハードバップって何だ?





      目次
    ■ハードバップって何だ?
    ■ハードバップって存在するのか?
    ■ハードバップはいつはじまったのか?



■ハードバップって何だ?

 ジャズの専門用語の中には内容がわかりにくいもの、何でこんなふうに呼ぶようになったのかわからないものがある。「ハードバップ」なんてそのいい例だ。
 最初に「ハードバップ」と聞いたときには、ぼくは「ハードロック」と同じように、ジャズの中でもハードで過激なもののことなのかと思ってしまった。が、それは間違いで、「ハードバップ」とはご存知のように、ビ・バップをよりソフトに親しみやすくしたタイプのジャズのことなのだ。なら「ソフトバップ」といえばいいじゃないかと思うのだけど、すでに「ハードバップ」という言葉が定着してしまっているので、いまさらどうすることもできない。
 しかし、いろいろなジャズ関係の本を読んでも、なんでソフトなのに「ハードバップ」と呼び出したのかは諸説あってよくわからず、しかも「ハードバップ」の定義づけ自体もあまり明確ではないのだ。
 本ページの中でもこの「ハードバップ」という言葉を使っているので、少しこの「ハードバップ」について考えてみたい。



■ハードバップって存在するのか?

 ハードバップって存在するのか? と問うと当惑されるかもしれない。たしかにあることはある。しかしここで問題にしたいことは、ビ・バップとハードバップの境目とはほんとうに存在するのかということだ。
 たしかにビ・バップとハードバップでは雰囲気が違うように感じる。しかし、コード進行に基づくアドリブという方法論はビ・バップでもハードバップでも同じであり、雰囲気が違うというだけなら、同じサブ・ジャンルの内にだって多少雰囲気が違う作品を作るミュージシャンが出てくることはむしろ当然ではないか。それは個々のミュージシャンの個性・作風の違いというだけの話だろう。
 しかし、ビ・バップとハードバップにはミュージシャンの個性・作風の違いという以上の明確なジャンル的な区分がはたしてあるのだろうか。
 ある人がハードバップ系のジャズマンに、ビ・バップとハードバップの違いは何だと聞いたら、ハードバップって何だ? オレ達はずっとチャーリー・パーカーと同じスタイルでやってるんだ。そんなのどっかのジャズ評論家が勝手に考えた言葉じゃないかと答えたそうだ。
 はたして明確な違いはあるんだろうか。まずその違いの点から考えてみよう。

 ビ・バップとハードバップはどこが違うのだろうか。
 まず単純にいえるのは、時代が違うということだろう。ビ・バップとは40年代に流行したスタイルをさし、ハードバップとは50年代のスタイルをさす。しかしこれはジャズ評論家が勝手に区分しただけのものかもしれず、音楽の内容と関係ないので、却下しておこう。
 次に1曲の演奏時間の違いがあると思う。ビ・バップは1曲3分ていどに収めなければならない。それは40年代はまだSP盤の時代であり、レコードの片面に収録できる曲の長さの限界が3分程度だったからだ。50年代になるとLPが出てくるので、長時間の連続演奏の収録が可能になり、結果長い演奏の曲が多くなった。そうなると当然メンバー一人あたりのソロ・パートも長くなり、ビ・バップのように短いソロ・スペースで一気に全てを言い切るのではなく、時間をかけてじっくりとアドリブを展開していくことが可能になった。この違いは大きいのではないかと思う。
 そして編曲性の導入である。つまり、ビ・バップの即興演奏に賭けたアナーキーな演奏ではなく、一人のリーダーが演奏全体をコントロールし、サウンドをかたちづくっていくような方法がより多く導入されている。これはビ・バップとハードバップの間に流行したクール・ジャズからの影響だろう。
 しかし、ビ・バップにだって最低限の編曲はあるわけだし、その編曲性を他人より重視していたジャズマンだっていた。ハードバップ時代にだって編曲のことを考えないで即興演奏のみに賭けていたようなジャズマンもやはり存在する。これは個人差に還元できてしまう面も大きいように思える。おそらく全体的にはだいたいそのような流れがあったことは間違いないだろうが、明確にこれ以上編曲性が強かったらハードバップ……という区分も出来ないのではないか。

 実際のところ、ハードバップとは誰かジャズマンが新しい方法論で斬新な演奏を始めたことから発生したサブ・ジャンルではなく、ハードバップとビ・バップの明確な区分は無いのだと思う。
 ただ、ビ・バップの流行の後、クールジャズが流行した。そして50年代にはいって再びバップが流行し始めた時、そのリバイバルしたバップは40年代のビ・バップに比べて、『1、LPの登場によって長い時間をかけてじっくり演奏するようになっていた』『2、クールジャズの影響によって、より編曲性が重視され、耳ざわりの良い音楽になっていた』という雰囲気の違いがあったために、なんとなく印象で区別してハードバップと呼んだのではないかと思う。
 なんでソフトなのにハードバップなのかについては、クールジャズと比較したときハードという意味ではないだろうか?



■ハードバップはいつはじまったのか?

 ハードバップはいつ頃からはじまったんだろう。
 先述したように、ハードバップとは誰かが新しい方法論で斬新な演奏を始めたことから発生したサブ・ジャンルではないので、その源流を遡っていっても答えは出ない。遡っていけばビ・バップに行き着くだけだ。
 例えば最初のハードバップはマイルスの『Dig』(52) だとする説がある。どうしてかと考えればすぐに理由はわかる。先述したようにハードバップの特徴の一つは、LPの登場によって長時間かけてじっくり演奏した点にある。そして『Dig』はジャズで初めてLPによってリリースされたアルバムだから、ここでの演奏はなんとなくハードバップっぽく聴こえるのだ。
 さて、『Dig』はハードバップだろうか。そうだともいえるし、そうでないともいえる。もともとビ・バップとハードバップには明確な区分はないわけだから、どうともいえる。つまり、そのようなことはいくら言ってても無駄ということだ。
 では、どこで見るべきなのか。
 重要なのはクールジャズの流行に対して、ビ・バップのリバイバル、ハードバップのムーブメントはどこから始まったのかという点だろう。つまり本質的ではないのだから、影響力という点で見るべきだと思うのだ。
 そう考えると、アート・ブレイキー、クリフォード・ブラウン、ホレス・シルヴァーらが結集した『A Night at Birdland』(54) と見る説が、ありきたりではあるけれども正しいのではないだろうか。ハードバップのムーブメントはこのあたりを起点としているように思う。
 とくに注目したいのはここからのクリフォード・ブラウンの動きである。この後彼はブラウン=ローチ・クインテットを組むわけだが、同バンドの旗揚げは西海岸であり、東海岸へと移ってくる。それがそのまま西海岸を中心としたクールジャズから、東海岸を中心としたハードバップへの動きだったように見える。
 そして一歩遅れてマイルスのコルトレーン入りのクインテットが登場する。マイルスはいつも先頭集団から一歩遅れて登場する。
 しかしこの場合、ハードバップの精神をもっとも典型的に体現したのはマイルスだったように思う。つまり、編曲性を重視した耳ざわりがよく親しみやすいジャズ、ビ・バップの大衆化という点だ。
 そしてマイルスにとっても、案外このハードバップというのが一番自分に合ったスタイルだったのではないか。この後マイルスは63年頃までハードバップを続けるが、一時引退後の80年代のマイルスの音楽は、エレクトリック楽器を使用してはいても、なんとなくハードバップ的な雰囲気を感じるのだ。
 つまり、編曲性とアドリブ性を適度にブレンドさせた、ソフトで親しみやすいジャズという意味だが。


04.2.6





『ウェイン・ショーターの部屋』


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