外灯都市〜短歌について3






■吉本隆明の『抒情の論理』を読んでみる


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 ネットで短歌関係のページを見ていたら吉本隆明の『抒情の論理』という本のことをあちこちで見ました。図書館にでもあったらちょっと読んでみようかなと思ったのですが、ネットで検索してみるとこれは吉本隆明の初期の本で、かなり昔に絶版になっているようで、図書館でも見つからなそうな予感がしました。が、このような目次はネットで見つけました。


 吉本隆明 『抒情の論理』  1959 未来社

   恋唄
   エリアンの手記と詩
   異神
  1
   日本の現代詩史論をどうかくか
   前世代の詩人たち
   現代詩批評の問題
   「四季」派の本質
   現代詩の問題
   日本近代詩の源流
   短歌命数論
  2
   西行小論
   宗祇論
   蕪村詩のイデオロギイ
   鮎川信夫論
   戦後詩人論
  3
   現代詩の発展のために
   定型と非定型
   番犬の尻尾
   くだらぬ提言はくだらぬ意見を誘発する
   三種の詩器
     あとがき


 それなら、収録されてる文章を別の本で探してみようかと図書館に行ったとき見てみると、案の定『抒情の論理』はなかったかわりに、『吉本隆明全著作集』(勁草書房)というのが揃ってまして、そのうちの1、5、7巻に『抒情の論理』の内容は全部載っていることがわかりました。
 ということで、この3冊を借りてきまして、『抒情の論理』収録の部分を中心に読んでみました。

 いや、おもしろかったです。いままでも吉本隆明の本は何冊か読んだことはありますが、どうもダメになってきてからのを中心に読んでたみたいです。
 もっと後のほうになってくると吉本隆明はマルクス主義用語みたいなのを多用してへんに難解になり、何言ってるんだか論旨がよくわからないような本を書いたりするわけですが、この頃の吉本隆明はまだ言葉もイキイキしていてへんに難解になったり曖昧になったりするところがないようです。

 さて、これは基本的には日本の詩についての本で、まず冒頭に3つの詩があり(ここは1巻に収録)、それから日本における近代・現代詩、短歌などを歴史をたどりながら論じた部分(ここは5巻に収録)と何人かの詩人の作家論(ここは7巻)からなっています。
 ぼくはいままで日本の詩というのはほとんどまともに読んだことはなく、歴史についても知らなかったので、それ自体新鮮な気持ちで読めました。出てくる詩人の名前は知らない人ばかりなんですが、どういう詩を書いた人なのか見てみると、詩というのは作品を短時間で読めてしまえるものなんでいいですね。いろんな人の詩を少しづつ読んでみて、こんな人がいたのか……などと楽しんだりしました。
 北原白秋なんて人も童謡の歌詞を書いた人という程度にしか知らなかったんですが、いわゆる前衛短歌の言葉は白秋の『邪宗門』に似ているというんで見てみたら、たしかにそんな感じで、この時代の詩人がつくった文体が後の小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』とか、ああいったものの流れをつくっていったんだなと思いました。
 あと、個人的な興味としておもしろかったのは岡井隆との論争の部分です。
 もともとは吉本が「前衛的な問題」という文章で岡井の作品をほかの詩人のものと並べて批判したのに岡井が噛み付き、吉本が岡井をけちょんけちょんに論破していったもののようですが、『抒情の論理』にはそのモトとなった「前衛的な問題」は収録されてないようで、この『全著作集』5巻には収録されています。ということで、わざわざ調べて借りてきたかいがありました。
 さて、この論争の部分でおもしろかったのは、吉本が岡井の短歌を口語破調として訳してみるところです。


どの論理も〈戦後〉を生きて肉厚き故しずかなる党をあなどる  岡井隆

どの論理も〈戦後〉を生きてきて
肉が厚いから
しずかなる党をあなどっている         吉本隆明による口語訳


 吉本は「これが短歌作品として、ばかばかしくて読めるか」といい、このような岡井の短歌作品は、この程度の貧弱な文学的内容でも短歌の定型の枠のなかで書けば、けっこう作品として読めるという例だといっているわけです。
 ぼくはいままでいわゆる前衛短歌というのを読んでみて、塚本邦雄はおもしろいとおもったのですが、岡井隆の短歌はおもしろいとおもわず、でも、好みの違いかな程度にかんがえて、なんでそうなのかとはあまり考えてみてなかったのですが、これを読んでそうだったのかと気づきました。
 つまり、ぼくは無意識のうちに短歌を内容で読んでいたようで、しかし、岡井の短歌は文語定型の短歌としては一見ものものしく見えるんですが、内容を訳して読んでしまうと実にくだらないんですね。


海こえてかなしき婚をあせりたる権力のやわらかき部分見ゆ   岡井隆

海をこえて
かなしい結婚をあせっている権力の
やわらかい部分が見える             aruka による口語訳


月かげのあふるるばかり肩ありき魔の鳥つどう夜半というべし  岡井隆

月かげがあふれるばかり肩があった
魔の鳥が集まってくる夜半というべきだ      aruka による口語訳


 ほかに例をあげませんが、どれをみてもこんなかんじです。
 それに比べて塚本邦雄のほうは口語訳しても詩として読めるんです。


しかもなほ雨、ひとらみな十字架をうつしづかなる釘音きけり  塚本邦雄

しかもなお雨が降っている
人々はみな十字架を打つ
静かな釘音をきいていた              aruka による口語訳


 このように文語の短歌は、口語に訳してみると、それがどの程度の内容をもった作品なのかわかります。
 もちろん、短歌作品を口語訳して理解すること自体が邪道であり、文語定型のまま読まなければならないんだ、という意見もあるとおもいます。それは、最終的にはそうでしょう。しかし、文語定型でみると一見ちゃんとした作品に見えはするが、訳して読んでしまうとメチャクチャな内容というので、はたしていいのかということです。
 吉本隆明はそれに反対の意見のようです。つまり、貧弱な内容を文語定型という枠をもたせることによって何となく立派に見えるようにしてある程度の作品ではだめなんじゃないか……といいたいのでしょう。
 個人的には、この点でいって吉本隆明に全面的に賛成ですね。
 いくら外見だけ立派に見せかけても、内容がつまらないものはつまらないですよ。なんだかんだ理屈をいったって、それが真実じゃないでしょうか。
 つまらない内容を立派に見せかける技術を磨くことよりも、おもしろい内容のものを書く技術を磨ことのほうが、よっぽど生産的だと思いますよ。同じだけ努力するなら。

 もっとも、岡井チルドレンというのもいるようで、若い世代の歌人のなかにも実に空疎な冗談みたいな内容を実にものものしい文語で飾りたてた短歌をつくっている人も、何人かみかけますが……。
 まあ、そうしたくてしてるんでしょうから、ほっとけばいいんですが。


 
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 この本は短歌の世界の人からはとくに「短歌命数論」など短歌滅亡説が書かれていることで有名なようです。
 で、読んでみたのですが、それほどのものかと思いました。この「短歌命数論」って、この本のかなじゃ一番ダメダメな部分におもえるのです。
 というのは、現代語脈を導入するのなら区切りが五七調から変化してこざるをえない。それでいながら五七調を守るのは矛盾だというのですが、なんで現代語脈を導入するのなら五七調から変化してこざるをえないのか、その理由がきちんと述べられてなく、説得力がないのです。現在の日本のポップス、ロックの歌詞などみても、調べてみるとけっこう意外な曲が五七調で書かれていて、現代語でも五七調を守ろうとおもえば守れないものとは思えないわけです。
 さて、このような吉本の主張の根底にあるのは「定型と非定型」などにある、「散文(小説)の発想から短歌を書くべき」という主張です。
 吉本は上に引用した岡井隆の短歌の例をあげ、

どの論理も〈戦後〉を生きて肉厚き故しずかなる党をあなどる  岡井隆

どの論理も〈戦後〉を生きてきて
肉が厚いから
しずかなる党をあなどっている          吉本隆明による口語訳

 このように口語訳すると内容的にはくだらない短歌と口語の詩のあいだには発想上の断層があるとし、詩と短歌と俳句は発想が異質だといいます(このあたりの説明がぼくにはよくわからず、下部構造だの何だのレトリックでごまかしてるだけのような気がしてしまうのですが)。そして、

   日本の現代詩歌の課題は、この近代詩と短歌と俳句との間にある発想上の断層を、
  解消する条件を見出すことにかかってくる。この条件が見つかれば、詩と短歌と俳句
  とは、たんに非定型長詩と定型短詩との相違にすぎなくなるのである。
  (中略)日本の詩歌の発想を統一する原型は、文学的内容、いいかえれば、詩歌にお
  けるコトバの文学性に求めざるをえないのだ。そして、この文学性は、散文(小説)
  的発想からする文学性とまったく同一なものを指している。
                          (吉本隆明「番犬の尻尾」)
       
 というのですが、この吉本の主張に矛盾があるのはあきらかです。
 たしかに詩と短歌と俳句との間に発想上の断層なんてものがもしあるのだとしたら、その統一を作品の「内容」に求めることには賛成できます。けれど、その場合でも「詩」の言葉と「散文」の言葉が別物であるのは、まえにここに書いたパスの『弓と竪琴』が分析しているとおりです。
 そもそも詩と短歌と俳句との間に発想上の断層なんてものがあるのか、ぼくにはわかりません。その短歌的発想の例として上げられているのが岡井隆の口語訳にするとくだらなくなる短歌ですが、ぼくにいわせれば文語など難しげな言葉や言い回しを使用することによってくだらない内容を高尚な文学的作品であるかのように見せかけるのはゴマカシの手法の一種であって、短歌的発想などというべきものでもないでしょう。
 例えば自由詩だって、くだらない内容の作品でも読者が読み慣れない古語や難しげな漢語を多用すれば、一見高尚な作品のように見せかけることはできるのです。あるいは学者がきちんと説明できないことを質問されると、難しげな専門用語を並べたてて質問者を煙に巻いたりするのもこの手法の一種でしょう。(吉本がここでいっている「下部構造」だの何だのレトリックもぼくにはこの手法のように見えます)
 岡井の短歌の吉本による口語訳の意味は、短歌的発想の作品を自由詩的発想で書き直すとくだらなく見えるということではなく、難解ゆえに高尚に見せかけられていた作品を、わかりやすく現代語訳すると、くだらない内容であったことが暴露されたというところにあります。
 おそらくこの、あるのかないのかわからない、あったとしてもたいしたことのないような詩と短歌と俳句との間の発想上の断層なんてものばかり気にして、確実に存在し、かつまた重要なものである詩と散文との間の断層に気がつかなかったところが当時の吉本隆明の限界でしょう。
 つまり、散文(小説)の発想で書くのなら散文(小説、評論など)を書けばいいのであり、「散文の発想で書かれた短歌」なんていう中途半端なものを書く必要なんてまったくないのです。
 そうであっても吉本の「散文(小説)の発想から短歌を書くべき」という意見も、それはそれで一つの意見ではあるでしょう。けれど、この吉本の主張は短歌だけでなく自由詩にも当然あてはまるはずです。つまり、おそらく吉本は自由詩も散文の発想で書くべきだと主張しているのでしょう。
 けれど、これも散文の発想で書くのなら散文を書けばいいのであって、「散文の発想で書かれた自由詩」なんていう中途半端なものを書く必要なんてまったくないのです。
 さて、これを「短歌命数論」と呼ぶのなら、これは当然「自由詩命数論」でもあります。
 そして、この「短歌=自由詩命数論」の予言どおり、間もなく、当時は詩人でもあった吉本隆明のなかで自由詩の命数が尽きて、吉本は詩を書かなくなり、散文(評論)専門になりました。これは吉本隆明という個人のみの問題としてはまったく正解だったのでしょう。
 しかし、それが吉本隆明個人をはなれて一般論にはなりえないことはあきらかです。
 それは、もしいま詩なり短歌なり(面倒なので、全部まとめて広義の「詩」といってしまいます)を書こうとしている人間がいるとすれば、それは詩的発想から生まれる何かを書きたいからそうするのであって、散文の発想で書きたいのなら、はじめから詩は選ばないからです。
 詩の散文に対する独自性というのは、それが詩であることにあり、それ以外にはないのです。だから、詩は散文の発想で書くのではなく、あくまで詩の発想で書かなければ意味がありません。詩の発想で書くからこそ詩を書くのです。散文の発想で書くのなら、詩なんか書かずに散文を書けばいいのです。

 ぼくにいわせれば、このあたりの文章の意義はむしろ、文語などで難解を装い、一見高尚に見える作品でも、内容がくだらなければくだらない作品じゃないかと指摘したところにあるとおもいます。一種の「王様は裸だ」的な意見です。
 そしてその対象は短歌だけではなく、とうぜん自由詩でも散文でもあてはまります。難解な単語を駆使して一見高尚に見える散文でも、わかりやすく書き直してみて内容がくだらなければくだらない……ということを言わなければならないのです。
 そして、その一方として、いや、内容なんてどうでもいいのであり、外見こそが大事だとするマニエリスム的な美学の持ち主というのも存在します。これも定型でも非定型でも、とうぜん散文の世界でも存在します。


 
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 吉本隆明の『抒情の論理』を読んでいると、日本の近代以後の詩の歴史について書かれています。ぼくは日本の詩っていままであまり読んだことはなく、詩史を意識して系統だてて読んだことは皆無でした。そんなもんで、知らない名前がたくさん出てくるので、この機会にちょっとばかり読んでみようと思い、Book-Off で筑摩書房の日本文学全集のなかの『現代詩集』という巻を買ってきました。105円でした。ま、この手の文学全集はわりと Book-Off の105円の棚の常備品ですね。
 でも、この『現代詩集』はこいういう時にはなかなかスグレモノで、計23人の作品が一詩集づつ収録されていて、『抒情の論理』に出てきたいろんな時代のいろいろなタイプの詩人の作品がこれ一冊でだいたい辿れるかんじです。
 それに、詩っていうのは、そんなにじっくり読んでみる気がなくても、いろんな人の作品をちょっとづつ覗いてみるのに便利ですね。

 まず、吉本隆明が前衛短歌に似ていると指摘する作品ですが、白秋などは別巻で大きく扱われているようで載っていませんが、その先駆というべき蒲原有明の『有明集』や、伊良子清白の『孔雀船』という詩集が収録されていて、だいたい感じがつかめます。
 1920年代からはじまったというモダニズム、プロレタリア詩運動系の詩人では、萩原恭次郎の『死刑宣告』、安西冬衛の『軍艦茉莉』、北園克衛の『円錐詩集』などなど十数人が載っています。
 この「モダニズム」というのはどうやら日本独自の意味あいらしく、ダダイズムやシュールレアリズムの影響を受けた詩人のことを指すようです。「モダニズム」という言葉自体は欧米にもあるのですが、そっちは違う意味であり、ダダイズムやシュールレアリズムの影響を受けた作品のことではありません。ここはあくまで日本の「モダニズム」ということで、たぶん「モボ」とか「モガ」とかが出てくる、あのくらいの時代の流行のことでしょう。
 で、このへんを読んで気がついたのですが、短歌の世界で90年代にニューウェーブと呼ばれた人がやっていた、記号の使用やタイポグラフィ、図の使用、言葉を意味から切り話すようなことって、ほぼこの時代のモダニズムの人がやっていたことと重なりますね。ぼくはああいうのって、ギョーム・アポリネールとか、あのへんの真似かとおもってたんですが、もっと身近なところでこの日本の戦前のモダニズムというのがあったようです。
 例えば萩原恭次郎の『死刑宣告』というのは記号を多用したり、タイポグラフィや、アルファベットを使用したり、文字を90度、あるいは180度回転させたりと、あらゆる遊びを駆使しています。北園克衛という人は意味を切り離した言葉のイメージで作っていく作風で、興味をもってネットで調べてみたら、グラフィック的な「見る詩」というところまでいっていたようです。
 吉本隆明はこういった人たちのことを、ヨーロッパの同時代の詩を外側だけまねてよそおっただけのでたらめきわまるものと批判しているのですが、ぼくとしてはまだ、いくらも読んでないんで、評価については保留しておきます。
 さて、彼らがしようとしたことが何なのかといえば、日本的な叙情性の否定でしょう。
 それをいえば、有明や白秋の『邪宗門』などがしようとしたこともそれなわけです。つまり、有明や白秋らは象徴主義の影響を受けながら、難しい漢語や比喩を多用して独特の美文を作り出すことで日本的な叙情性から抜け出そうとした、モダニズムの詩人たちはダダイズムやシュールレアリズムの影響を受けながら、意味を切り離したナンセンスな言葉使いや記号の多用などで日本的な叙情性から抜け出そうとしたといえそうです。
 それはつまり、西洋からの思想や言葉、美学などを受け入れていく過程で、それを学び援用しながら自分たちの思想・言葉・美学を革新し前進しようとする試みだったと思うのです。それは明治維新以後に文学者たちがやっていた、言葉を作り変えることによって社会を、国家を、そして自分たちの感覚や思想を作り変えていこうという試みの一環だったととらえられそうです。
 それが例え吉本のいうとおり、たとえある時点で不完全だったとしても、そしてそれは決してわるいことではないし、それを理由に否定すべきものでもないと思うのです。
 詩史をみていくと、この後、モダニズムのムーブメントが去ると三好達治やら中原中也など「四季」派と呼ばれる人たちが台頭してきて、このへんの詩は意識して読んでなくてもそれなりに知っているものが多いです。
 が、これらはあきらかに日本の伝統的な叙情性への回帰であって、一周まわってもとに戻ってしまったかんじです。つまりこれは、自分たちを革新し前進しようとする試みが失敗に終わって、またぞろ伝統的な日本の美にもどってしまったものであって、そう素直に肯定もできないものであったことが見えてきました。
 とはいえ、一周まわってるだけ、それなりにモダニズムの成果なども踏まえているところが単純な回帰ではない点のようで、でも、三好達治でいえば初期の『測量船』などではまだ見られたモダニズムの残滓が、後の作品になるに従って消えていき、徐々に単なる日本的な抒情詩にすぎなくなってくると吉本は指摘しています。
 そして、このあと戦後詩に入るのですが、それ以後は省略します。

 さて、ぼくが思うことは、この有明や白秋の『邪宗門』と類似性がかんじられる前衛短歌、モダニズムと似ているニューウェーブ短歌というふうに、ここまで似てくると、とうぜん短歌のここ何十年かの歴史は、詩の歴史を何十年か遅れで真似しているのに過ぎないのかという点です。
 ぼくの現在の意見をいえば、真似かもしれないし、少なくともあれらを新しい試みだったと思い込むことは間違いでしょうが、それでもあれはあれでいいんじゃないかとおもいます。つまり、試みていることや外見がどう似てようが、問題は結果であり中身だとおもうのです。
 結局のところ流行というのはいつも移り変わっていくもので、時間がたつと一度過ぎ去った流行が戻ってくるというのも珍しいことではないでしょう。詩や短歌における意匠というのも似たところがあるんじゃないでしょうか。たとえばニューウェーブ短歌の試みがモダニズムのコピーだったとしても、結局はその意匠のなかから優れた作家なり作品なりが出てくるかどうかが問題で、卓越した作家・作品が出てくるのなら意匠自体は過去の一時代のコピーであってもいいんだし、逆に卓越した作家・作品が出てこなければ、それがいかに新しくてオリジナリティ溢れる意匠だったとしても、結局意味ないんじゃないでしょうか。

 それにしても、この本を読んでてだんだん日本のモダニズムというものに興味が出てきました。
 ぼくは映画ファンなんで、1930年代が日本映画の最初のピークだっていうことは知っていたし、その時代の映画もけっこう観てるし、一般の人には伝統的な日本的な文芸作品を作ったと思われている小津安二郎が、実はとびっきりのモダンボーイ(モボ)だってことも意識していたのですが、いままで映画を離れてこの時代の日本の文化というのを意識して見てみたことはなかったのです。
 ということで、いま、少しづつこの日本のモダニズムというのを調べていってみようかなと思っているところです。



2006.7.17-20


 
■西脇順三郎の詩の定義


 前回からの続きで、そんなわけで日本のモダニズムについて少しづつ調べてみてるんですが、どうもこのモダニズムから登場した最も有名な詩人は西脇順三郎のようで、実はこの人は名前を聞いたことはあったんですが、読んだことはありませんでした。
 そんなわけで、この前と同じく Book-Off で筑摩書房の日本文学全集のなかの『萩原朔太郎・三好達治・西脇順三郎』の巻を105円で買ってきてみました。
 で、西脇順三郎の部分をぱらぱらと読んでみていたんですが、詩もおもしろかったのですが、その後にエッセイというのか詩論というのか、「PROFANUS」という文章が載っていまして、少し読んでみたところ、すごくおもしろい文章にぶつかりました。少し引用してみます。

   人間の存在の現実それ自身はつまらない。この根本的な偉大なつまらなさを感ず
  ることが詩的動機である。詩とはこのつまらない現実を一種独特の興味(不思議な
  快感)をもって意識さす一つの方法である。(中略)
   習慣は現実に対する意識をにぶらす。伝統のために意識力が冬眠状態に入る。故
  に現実がつまらなくなるのである。習慣を破ることは現実を面白くすることになる。
  意識力が鮮明になるからである。       (西脇順三郎「PROFANUS」)

 これはいい詩の定義ですね。
 たぶん詩というのは、冬眠状態になっている感覚を生き生きとよみがえらせ、現実を鮮明でおもしろいものにしようとすることでしょう。
 それが言葉によって書かれるということは、おそらく人間は言葉によってものを感じ、言葉によってものを考え、言葉によってものを作る動物だからでしょう。
 感覚を冬眠状態にさせ現実をつまらなくする原因は、この文章が指摘するとおり、習慣であり、伝統でしょう。現実を「こういうものだ」という固定観念でとらえてしまう、無意識のうちにみんなと同じような言葉をいい、みんなと同じように感じ、考えてしまう。もっといろいろあるはずなのに、無意識のうちに同じレールの上ばかりを意識がトレースしてしまう……ということが感覚を眠らせ現実をつまらなくすると思うのです。
 そう考えると、ぼくが文語などをつかった伝統的な短歌を書くということにまったく興味をかんじない理由もわかった気がしました。
 こう書くのが伝統だ、みんなこう書いている……という習慣があって、それに縛られていたら、むしろ感覚は冬眠状態に入り、それは詩ではなくなっていくでしょう。伝統や習慣は破らなくては意味がありません。
 とはいえ、破ることもそれはそれで難しいものだとおもいます。というのは、伝統や習慣を破るにしても、誰もが思いつくような普通の破りかたをしたり、たんにめちゃくちゃやっていたんでは、それは伝統・習慣と同じくらいつまらないわけです。つまり単なるアンチテーゼじゃ逆向きの伝統・習慣にしかならないわけで、それでは向きが変わっただけでおもしろくない、優等生もつまらないけど、絵にかいたような不良もつまらない……とおもうわけです。
 たぶん、おもしろい伝統・習慣を破りかたって、もっと微妙なズレのなかにあるような気がします。その微妙なズレを見つけて、それが成立する微妙なバランスをとりつづけることがおもしろいんじゃないでしょうか。


2006.7.21


 
■言葉の古さ、新しさ


 どんなものでも時間がたつと古くなるものです。古くたって良いものは良いのですが、いくら良いものでも古びたものは古いびたものであるのも事実です。「時間がたっても少しも古びない名作」なんていうのは嘘で、実際は古びているけど現在でも価値を失わない作品がそう呼ばれているわけです。そのように「時間がたっても価値を失わない作品」というのもありますが、それだって時間がたてばたっただけ古びてはいるのです。
 でも、日本のいわゆるモダニズムの詩を読んでいると、奇妙な感覚にとらわれます。70年以上も前の作品なのに、言葉がぜんぜん古びてないのです。
 西脇順三郎と北園克衛の短い詩を一つづつ引用してみます。


  「眼」
      西脇順三郎

白い波が頭へとびかかってくる七月に
南方の綺麗な町をすぎる
静かな庭が旅人のために眠っている
薔薇に砂に水
薔薇に霞む心
石に刻まれた髪
石に刻まれた音
石に刻まれた眼は永遠に開く
              (『Ambravalia』1933、収録)



  「MIRACLE」
            北園克衛

夏の踊子は片足をあげて沈んでゆく。とつぜんに水平線がちぎれて
純白の塔のうへに菫色のヨットが現はれてくる。
                 (『円錐詩集』1933、収録)


 どちらも70年以上も前に書かれたものですが、一部旧かな遣いをしている点を除けば、そのまま最近書かれたものだと言われても信用してしまうくらい言葉が新鮮です。というか、最近書かれた短歌など読んでみてもこれほど新鮮な言葉にはなかなかお目にかかれません。
 けれども、この時代の詩の言葉がどれもこれほど新鮮なわけではありません。
 例えば同時代の三好達治の詩を少し引用してみてみます。


  「乳母車」
           三好達治

母よ──
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花いろのもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり
時はたそがれ
母よ 私の乳母車を押せ
泣きぬれる夕陽にむかって
   (以下略)
            (『測量船』1930、収録)


 これはいかにも70年前の古い時代の叙情詩というかんじがします。「ふるなり」なんて言い方は、いまではコロ助しかしないでしょう。でも、そういった古めかしい言い回しを外して現代語訳したとしても、やはり古めかしさは拭えないとおもうのです。「泣きぬれる夕陽」とか、表現も古いですね。
 といっても古いからダメだといいたいわけではないです。が、古びていることはたしかだとおもうのです。
 ちなみに、この三人の生まれた年を書くと、西脇順三郎が1894年生まれ、北園克衛が1902年生まれ、三好達治が1900年生まれで、だいたい同世代の詩人といっていいでしょう。
 だいたい同時代に書かれた同年輩の詩人の作品の言葉が、どうして一方はこれほど新しく感じられ、一方はこれほど古びているのか……。これはこの時代の言葉とか、世代論とかに帰せられる問題ではなく、この三人の資質や目指しているものの違いに理由があるとみるべきでしょう。
 つまり、西脇順三郎と北園克衛が当時のいわゆるモダニズムと呼ばれた運動のなかにいた人にいた人であるのに対して、三好達治は中原中也とか立原道造とか「四季」系と呼ばれてるらしいグループにいる人なんですね。だいたいこの「四季」系の人々が書いたものはすべて、いま読むと古めかしいのです。
 その古さと新しさの印象の違いはどこからくるんでしょうか。
 少しかんがえてみたいとおもいます。

 ぼくが上の三つの詩を見比べてまず感じることは、西脇と北園の言葉がはっきりした輪郭をもっているのたいして、三好の言葉はぼんやりした印象を感じるということです。
 三好の詩を見てみましょう。
 まず母に呼びかけてから、「淡くかなしきもの」が降るといい、「紫陽花いろのもの」が降るいうわけですが、それが何なのかはわかりません。その形容詞にしても「淡い」「かなしい」「紫陽花いろ」と、どれもぼんやりした印象をもつ言葉で揃えられています。
 第一、最初は話者がどういう状況にいるのかもわかりません。後からそれが並木道であり、たそがれで、風が吹いていて……などと少しづつわかってきます。わかってはきますが、あまり具体的ではない、ぼんやりした印象で、なんだか霧のなかからぼんやりと情景がすこしづつ浮かびあがってくるのようなかんじがします。
 こういうふうに、物事をはっきりとは書かず、ぼんやりとした曖昧さのなかに感情移入させようとするのが、日本的抒情の定番の手のようです。こうしたぼんやりとした抒情に、たぶん当時でも既に古めかしいものであったとおもわれる言葉遣いを合わせるところに、当時の三好たちのグループの目指しているものがあったんでしょう。
 それは、あえて単純に言ってしまえば「ぼんやりと古めかしく書いておけば良い作品にみえる」ということでしょう。

 対して西脇の場合、すべてが明確なんですね。まず「白い波が頭へとびかかってくる七月」と、それが何時なのかが動的に示され、「南方の綺麗な町」と場所が示されます。そして「静かな庭が旅人のために眠っている」と、さらに細かい場所と主人公がそこを旅していることが示されます。すべてが具体的であり、しかも無駄のない言葉できっちりと描かれているのが特徴的です。映像がくっきりと鮮明に見えてくるわけです。
 北園克衛の場合は、意味から切り離された言葉のコラージュのような作品なわけですが、「夏の踊子」「片足をあげて沈む」「水平線がちぎれ」「純白の塔」「菫色のヨット」と具体的なイメージが一つ一つの言葉で明確に書かれています。これも映像が鮮明に見えてきます、シュールな絵ですが。
 どちらにも、三好のように「淡くかなしきもの」とか「泣きぬれる夕陽」とか、ぼんやりとした言葉は出てきません。霧のなかからぼんやりと浮かんでくるような情景ではないわけです。
 両者に共通していえることは「輪郭のはっきりした鮮やかなイメージを的確に伝える」ことにこころがけていることでしょうか。

 言わせてもらえば、三好達治の詩のような言葉って前近代的なんですね。明治以後の文学が苦労して否定してきたものがこれなんです。形式こそ萩原朔太郎以後のいわゆる自由詩ですが、言葉が近代以前に戻っていってしまっている。
 でも、その前近代的な叙情性にもそれはそれで良さというのもあるわけで、このような曖昧で体感的とでもいうような言葉を極めていくという方法もあるとおもいます。というか、最近の短歌を読んでいると、そっちのほうの流れの人っていくらでもいるような気がしてるんです。
 対して西脇・北園の言葉は近代を通過しているという意味で現代的な気がします。つまり遠近法的に空間・時間が把握されていて、言葉を透明な道具として使いこなすことができている。

 ぼくは現在の自由詩のほうはほとんど読んでないんで知らないんですが(というか、短歌だってそんなに読んじゃないですが)、目につくかぎりで現在の歌人をみると、西脇・北園のような言葉を使う人はいない気がするんですが、どうなんでしょう。
 ぼくは現在でも通用するのは圧倒的に、西脇・北園のような言葉じゃないかとおもってるのですが。


2006.7.24


 
■萩原朔太郎の「猫町」を読みながら


 有名な作品だけど、興味はあるんだけど、だいたいどんな内容なのか人から聞きで知っているもんで、読まないままになっているものってあると思うんですけど、ぼくの場合、萩原朔太郎の「猫町」もそんな作品の一つでした。が、この機会に読んでみました。もともと短編なんで、読む気になればすぐ読めるわけです。
 これを読もうとおもったきっかけの一つは菅野覚明の『神道の逆襲』という新書を読んだからで、ここで日本の神道がいう「神」とはどんなものなのか、その絶好の例としてこの「猫町」があげられていたからです。
 これは(ご存知のかたが多いと思いますが)、よく知っている町の通り(日常)をたまたま逆向きに歩いただけで、そこに非日常の町が出現し、そこで「猫町」の幻想が生じるという内容なのですが、この日常の空間のなかにとつぜん非日常の空間が出現するというのが、いわゆる「神がかった」状態であり、神道でいう神とはそういうものだというのです。

 さて、この前、オクタビオ・パスの『弓と竪琴』を読んだ感想を書いた部分で、パスの意見をもとに、「詩」というのは「神聖なるもの」や「ヌミノーゼ(戦慄すべきもの)」、「絶対的他者」と対峙したときの儀式的な呪詛、あるいは祈りのようなものから生じてくるものではないかという意見を書きました。
 ですが、「聖」の反対語は「俗」であり、もし「詩」が「聖性」からうまれるならば、その反対である「俗」「日常」といったものは「詩」にはならないことになります。
 となると、短歌は定型の短い「詩」だと考えるとすると、「日常」を題材にすればそれは「詩」ではなくなり、短歌でもないことになります。
 と考えると、おそらく反論が出てきそうな気がします。というのは、短歌ではごく日常のこまごまとしたこと、身辺雑記のようなことが書かれる場合が圧倒的に多いわけです。これは歴史的にみればアララギ派の影響とかあるんでしょうが、『サラダ記念日』だってそうだし、新聞に載るような短歌(実はほとんど読んでませんが)だってそうでしょう。
 では、あれらはすべて短歌(詩)ではないということなんでしょうか? それでも日常を描いたものは短歌(詩)でもないのでしょうか?
 実はぼくはその通りなんじゃないかと思っています。
 つまり、やっぱり日常を描いたもの、単なる身辺雑記的な内容のものは詩でも短歌でもないんじゃないかと。
 でも、「日常」と「非日常」の境目はかなり微妙なものだとも思うのです。
 それは最初に書いた「猫町」のようなものです。よく知っている町の通り(日常)が、少し見方を変えただけで非日常の町にかわる、そのとき、その非日常に対峙したときに、詩(短歌)がうまれるような気がするのです。
 たぶん、「日常」と「非日常」の差というのは題材そのものにあるわけじゃなくて、ちょっとした見方の差のようなところにあるんじゃないでしょうか。「猫町」がそうであるように、ごく住み慣れた「日常」の通りが、かんたんに「非日常」の空間に変化してしまったりするんだとおもうわけです。

 と、考えると、実はそういった意味でも「非日常」になってなくて、たんに「日常」を書いただけの通俗的な短歌って、すごく多いんですが。


2006.7.27


 
■アンドレ・ブルトン『魔術的芸術』


 日本の昭和初年のモダニズムはダダイズムやシュールレアリズムから影響を受けたものということで、なんとなくまたシュールレアリズム関係の本が読んでみたくなりました。
 そんなとき近所の古本屋で、数年前出たアンドレ・ブルトンの『魔術的芸術』の普及版を見つけまして、この手の本の常としてあまり安くはなってなかったのですが、いい機会だと思って買ってきて読みました。しかし、店先でぱらぱらっと豊富な図版を見ただけで、安くない値段は少しも惜しくなくなる綺麗な本ですね。

 さて、内容を読み出してみて、けっこう意外に感じました。
 ブルトンの本ということで、題名からみても、一種の詩的なエッセイみたいなものかと想像していたのですが、まるで苦労人の学者が書いたかのように手堅く論理的に書かれた本です。
 どうやらブルトンという人は澁澤龍彦とか、あの手の趣味的にしかなりえないタイプの人より一枚も二枚も上手のようです。ブルトンってむかし『ナジャ』だけぱらぱらっと読んでみて、こういうもんなのか……と思ってただけだったのですが、見る目が変わりました。
 書かれた時をみてみると、1957年が初版だということで、ということはこの本は日本のモダニズムには影響を与えてはいないってことに気づきました。そして、どうもパスの『弓と竪琴』と共通するようなものの見方があるような気がしました。

 まず内容へいきます。
 最初は「魔術」と「宗教」の違いを定義するところから始めて、長く生命力をもつ芸術作品というのは、偶然か意図的かにかかわらず、人間の無意識に強く訴えかける、魔術的な力をもっているのだといいます。(美しい女性が魔術的な力をもっているというのは、けっこう本質をついているのだ……とかいって、「魔術」の定義をかなり広く定義しています)
 そして、その視点から古代や未開社会の美術品(?)からはじまって、あらゆる時代の芸術作品を再検討していきます。
 そしてルネサンス以後の西洋美術の技術的向上を、芸術の本質を忘れて見かけだけの巧さを求めたものであり、かえって芸術の本質を見誤らせ、芸術を危機に陥れたとみます。そして近代的な意味での高度なテクニックやセンスをもった画家、アカデミックな芸術家を否定し、そのような風潮にまどわされずに鑑賞者の無意識に訴えかけてくるような魔術的な作品をつくってきた作家を評価していくわけです。
 つまり基本的には従来とは違った価値観による美術史の書き換えといった内容になっています。
 芸術の本質とは何か? と問うたとき、古代からのより広いパースペクティブでとらえているブルトンの視点こそ真実と見ざるをえないところがミソだとおもいます。つまり、近代的な芸術観でみてしまうと古代や未開社会の美術品(?)は、単に原始的で下手な作品と見ざるをえないわけで、そのような作品をなぜ人間は作ってきたのか、そしてそのような作品がなぜ現代人にも強い印象を与え、ピカソなど現代の才能ある画家までがなぜそういった作品を手本にし、その魅力を積極的に自分の作品にとりいれようとしたのかが説明できないからです。
 かといって、では、ルネサンス以後の美術の技術的な向上を無視していいのかというと、そういうものでもないような気が、個人的にはしてるんですが。

 それから、ブルトンの趣味というか、価値観というようなものが読んでておもしろかったです。ルーベンスやドラクロアをケナして、アングルを評価しています。最初の二人をケナすのは流れ上しぜんですが、アングルを評価することころがおもしろいですね。アングルってそんなに見たことなかったのですが、いろいろ見てみたくなりました。
 それから、カンディンスキーを手ばなしで賞賛して、クレーをケナしています。……これはぼくにはわからなかったです。どういうところに本質的な差をみてるんでしょうね。
 一般的にはシュールレアリスムというとダリを連想する人がけっこう多いようで、でも実際にはダリはそんなにシュールレアリスムとは関係が深くなかったんだという話は聞いてましたが、この本でもブルトンはキュビズムを賞賛するのの返す刀で、ダリの絵のフォルムなんかは、その前のキュビズムの試みによって、ダリが描く前からとっくに時代遅れになっていたんだと否定しています。ぼくもダリがいまいち好きでないのは形がつまらないからだったんで、共感しました。
 それから、こういう傾向であれば当然ウィリアム・ブレイクは誉めるかと思うと、たしかに評価はするのですが、詩で描いたものを画で描いただけと奥歯にものがはさまったような言い方をして、ビクトル・ユゴーのデッサン(水墨画だと書いてありますが)を評価しています。
 ぼくは以前、ユゴーのデッサンというのを、なんだか崖っぷちに建った城のようなものの絵を見たことがあるのですが、それが妙に印象に残っていて、ほかにも見てみたい気になったのですが、残念ながら図版には入っていませんでした。
 それから、以前、ルネサンス期の絵をいろいろ見ているとき、ウッチェロという人の絵が、なんだか下手な気もするんだけど妙に好きだってしまったのですが、どうやらウッチェロという人もこんへんの人が再評価して名が知られるようになった画家だということを、この本を読んで知りました。
 その他、キリコとかモローとかも好きだし、けっこうぼくは意識しないうちに、このへんの人たちが見つけた画家たちを好んで見てきていたようです。

 最後にぼくが感じたパスの『弓と竪琴』との共通点についてですが、見てみると『弓と竪琴』の初版が1956年ということで、どうもどちらかがどちらかを読んで影響を受けたというわけではなさそうです。でも、二人ともこれより前から書いていたので、これ以前の著作から影響を受けたということも考えられます。とくにブルトンからパスの流れは……。
 ぼくが感じた共通点というのは、『魔術的芸術』は美術を扱っていて、詩やら小説やら、文学の方面のほうは扱ってないのですが、この理屈を文学に敷延させるとかなり『弓と竪琴』と同じようなスタンスになりそうな気がするのです。
 つまり、パースペクティブを古代や未開社会から現代までの広いスパンでとって、そこにおける文学の力というものを探っていくと、これはどうしても詩にいくしかないんですね。小説や散文では近代だけになってしまいます。(日本では『源氏物語』などがありますが、これは世界的にみればかなり興味深い特殊例とみるべきで、別個に扱うべき課題でしょう)
 そして、近代〜現代においては、詩は小説や散文にかなり押されてしまっているようにみえるのですが、これもブルトンのいう「魔術的芸術」のおかれている状況と重なります。
 たぶんパスが『弓と竪琴』で詩が本質的に魔術的で儀式的なものだといったとき、ブルトンと同じような考えがモトにあったような気がするのです。


2006.7.29


 
■アルトー『演劇とその分身(演劇とその形而上学)』


 アンドレ・ブルトンの『魔術的芸術』で味をしめまして、もう少しシュールレアリズム系の本が読んでみたくなり、アルトーの『演劇とその形而上学』を古本屋で買ってきて読みました。
 これは『演劇とその分身』というタイトルで新訳が出ています。が、ぼくは古本屋で安価で売ってるのを買ったんで、読んだのは旧訳のほうです。おそらく新訳のほうがいいんでしょうね。旧訳は訳者があとがきでこの本を「独断と偏見と誤謬に満ちた詩人の叫びでしかない」とか書いていて、おもわず「おいおい」とツッコミを入れたくなってしまいました。そんな理解で訳してたんですね。
 けれど、ブルトンの『魔術的芸術』あたりを補助線にして読んでいけば、それほど奇説が書いてあるわけでもない気がします。それでも充分に普通ではないのですが、「独断と偏見と誤謬に満ち」ているとは思いません。
 それにしても凄い本ですね。

 アルトーの演劇に対する見方はブルトンにおける「魔術的芸術」に近いところにあるようです。実際、自分のいう演劇について「魔術行為としての演劇」といってもいます。つまり、アルトーは古代や未開社会からのパースペクティヴで「演劇」というものをとらえているので、ここでいう「演劇」は、いま劇場で演じられている近代的な演劇一般のことではありません。
 未開社会で祝祭などに使われた仮面がブルトンの『魔術的芸術』では図版として載っているのですが、アルトーはこういった仮面などを「魔術的芸術」と呼んだブルトンとは少し違った見方をします。というのは、そういった仮面は祝祭のなかでそれをかぶって儀式を行ってこそ力を発揮するものであり、そのような仮面をもってきて美術館や博物館に並べて鑑賞するというのは間違っている……という考えがアルトーの基本的なスタンスに思えます。
 つまり「魔術的芸術」というものは生きられて初めて存在するもので、一部分だけ切り離してもってきて鑑賞するものではない……それがアルトーにおける「演劇」ということのような気がします。
 最初の章ではえんえんと中世のヨーロッパにおけるペストの惨状が書かれていて、いったい何がいいたいんだと思うのですが、ある家人が全てペストで死に絶えて開け放たれた家に、貧しい人々が入りこんで富を盗もうとする、が、それが何の意味もないと知ったときに「演劇」がはじまるといいます。
 つまり、自暴自棄になって、品行方正だった息子は父親を殺し、守銭奴は金を窓から投げ、町を守った英雄はその町を焼き払う……。そういった、いままで抑圧されていたものを解き放つ、まったく無償の行為こそが「演劇」だと……。
 別の箇所では、人々が自分の「生」を所有できない時代においては、犯罪が「詩(ポエジー)」になるとも書いています。
 おそらくこういった「演劇」観というのは、「演劇」というのはチケットを買って劇場で鑑賞する娯楽だと思っている人には、何をいっているのかわからないでしょう。
 けれど、例えばバタイユの『呪われた部分』の消尽の理論などを補助線にするとよくわかるような気もするのです。つまり、「演劇」というのは古代においてはおそらくアルトーのいうような行為だったような気がするのです。ある特定の(聖的な)時間・空間において、日常生活で抑えつけられたものを解き放ち、そうすることによって自分を取り戻し日常生活に生気を取り戻すような……。
 それが時代の流れとともに「演劇」が大衆娯楽として洗練されていき、古代の演劇がもっていた社会的な意味や力を失って、似ても似つかないものになってきた、そこをアルトーは古代の、あるいは非西洋社会の演劇を、生きたものとして取り戻そうといっているのだと思います。

 さて、ぼくがおもった素朴な感想というのは、たしかにアルトーの気持ちもわからないではないのですが、そんなことが本当に可能なんだろうかということです。社会の変化というのは必然的なものなので、昔がよかったからといって昔に戻れるものではないでしょう。古代の演劇を取り戻そうとしても、古代社会に戻れるわけではない……。
 アルトーもそのことには気づいていたようで、自分のやりたい演劇が受け入れられるためには別の文明が必要なのだとか書いているのですが。

 個人的には演劇ってそんなに観てなくて、映画ファンなもので、映画のほうに連想をひろげてしまうのですが、アルトーのいう台本にたよらない演出による劇って、映画でいうとグルジェフみたいなかんじのものなんでしょうか?
 アルトーの提唱している「残酷劇」というのは、これも誤解を生みそうな名称ですが、ここでいう残酷というのは人間の生をありのままをとらえるということのようで、反対語は「きれいごと」となるでしょう。となると、アルトーのいう残酷さに最も近いのは小津安二郎の映画の残酷さだと思ったりしました。
 とはいえ、アルトーのようなスタンスに立つなら、複製芸術である映画ではなく、演劇にこだわらざるをえないんでしょうね。
 まあ、その気持ちもわかります。
 最後のほうでマルクス兄弟の『けだもの組合』と『いんちき商売』をホメているのもおもしろかったのですが、そのマルクス兄弟やバスター・キートンのような、あるいはハワード・ホークスやルビッチが撮っていたような破壊的なまでにスラップスティックなコメディ映画も絶えて久しいもので、現代の映画・ドラマなど、映像による表現力は世界的に危機的なまでに低下していることをひしひしと感じる現状でもあります。


2006.7.31


 
■中井英夫『黒衣の短歌史』を読んでみる


 中井英夫という人はぼくにとっては『虚無への供物』などを書いたミステリ・幻想系の小説家でした。彼が小説家になる以前、短歌雑誌の有名な編集者であったことは今年になってはじめて知りました。
 まあ、そもそもぼくは短歌というジャンルに知識がほとんどなくて、塚本邦雄という名前も前衛短歌というのも去年初めて知ったくらいなんで、そんなもんです。
 その中井英夫が短歌について書いた『黒衣の短歌史』というのが有名なようなんで読んでみました。
 「黒衣」とくるのが中井英夫らしいとおもったら、これは舞台での「黒子」のことで、編集者とはいわば俳優を陰で支える黒子の役割である、その黒子からみた短歌史……といった意味のようです。
 創元文庫から出ている中井英夫全集の『黒衣の短歌史』の巻はこの『黒衣の短歌史』のほかにそれ以後の短歌論を集めた分厚い本で、中井英夫の短歌論がまとめて読めておトクなかんじです。

 中井英夫が短歌雑誌の編集の仕事をしていたのは1950年代から60年代にかけての10年あまりのことのようで、その頃の話が中心になります。
 ぼくはこの前、岡井隆の『現代短歌入門』という本を読んでみて、何を言いたいのかわからない文章に苦労しながらも、この時代の短歌の歴史みたいなものがわかったのは収穫だったと思っていたのですが、どうも、同時代を中井英夫の視点からみると別の見え方がしてきて、やっぱり歴史というのは一人の人間の意見をみるのではなく、かならず複数の視点からみないとわからないものなんだと思いました。
 最初、予備知識として、中井英夫は前衛短歌のムーブメントをおしすすめた編集者だみたいな説明をどこかで見ていたのですが、読みはじめるといきなり、前衛短歌は嫌いだという書かれていて、あれっと思いました。
 ぼくは何だかわからないけど塚本邦雄、葛原妙子、寺山修司、岡井隆、春日井建あたりを全部まとめて前衛短歌というらしいといういい加減な知識しかなかったのですが、同時代を後ろから支えてきた中井からすれば、そういうものではなかったようです。
 まず「前衛短歌」という名称自体、中井とは関係のないところでできたもので、中井はその名称も傾向も嫌いだったようです。どうも、もともと「前衛短歌」とは岡井とそれに合流していった、短歌で社会問題などを扱うべきだとしていった一派を指す言葉だったようです。中井は近藤芳美が言った言葉を引用して「短歌を有用なもの」としようとした一派のことだと説明し、中井のほうは短歌は無用なものであり、無用だからこそ素晴らしいものだという考えを一貫してもっていたようです。
 中井は岡井自身についても、馬力は認めるものの作品や思想は評価していないようです。それでも70年代に書かれた岡井の全歌集の書評では岡井に対する偏見もようやくなくなったと書いているのですが、80年代にはまた岡井がした仕事をわかっていないなどと発言していて、岡井への評価は最後まで微妙であったことがうかがえます。
 そして中井は塚本邦雄も「水葬物語」のときには短歌界の救世主のように評価しても、岡井と気が合って「日本人霊歌」などへ作風を変化させていったことを苦々しくおもっていたようです。
 そして中井がそんな嫌いな「前衛短歌」に対抗するつもりで推したのが春日井建や浜田到だったようで、しかし当時のジャーナリズムによって、そのへんも全部まとめて「前衛短歌」と呼ばれるようになっていってしまったと書いています。
 つまり、どうも「前衛短歌」というのは、最初はある考え方に依拠したジャンルとして定義できるものだったのが、やがてムーブメント全体を指す、定義としては曖昧な言葉となっていったようです。まあ、日本ではよくあることですね。

 岡井隆と言っていることが違うと思ったのは、『現代短歌入門』では岡井は当時の短歌界を牛耳っていたのはアララギ派の「写実」という方法論だといい、それを否定して、自己の方法論を主張しているわけですが、『黒衣の短歌史』を読むと当時の短歌界を牛耳っていたのは「写実」などという方法論やアララギ派でさえなく、短歌結社のもつ固定化した年功序列のヒエラルキーだと書いてあります。
 つまり、年齢や歌歴の長さによって歌壇における地位が上がり、一度偉い先生になってしまえば、つまらない身辺雑記のような短歌ばかり書いても雑誌に堂々と載り、誰もそれを批判せず、若い歌人はどんなに才能があろうがいい作品を書こうが評価されることはない。大先生の推薦で雑誌に作品が載る新人というのは、その大先生の下で長い年月修行したお気に入りの弟子だけ……というような世界です。
 岡井の言っていることと中井が言っていること、どちらが正しいんでしょうか。
 ぼくは当時の知識はありませんが、間違いなく中井が正しいと思います。
 知りもしないのにどうしてそう言い切れるのかと思われるかもしれませんが、たしかにぼくは当時の短歌界なんて知りませんが、日本人というものは生まれてから現在までうんざりするくらい見てきて、ある程度知っているつもりだからです。
 そして、ぼくの経験からいえば確実に、日本人の集団というのはイデオロギーや方法論の相違で動くことは無く、共同体の論理によって動くものなんです。中井が書いている固定化したヒエラルキーというのは、今も昔も、日本人の集団・組織が風通しの悪くなると必ず陥る弊害であり、現在でもあちこちでうんざりするほど見せつけられてきた日本人の姿です。
 たとえば数年前再ドラマ化された『白い巨塔』で批判されていたのは大学病院のヒエラルキーでしたね。ああいうことは最初に小説が書かれドラマ化された数十年前も批判の対象になり、しかし、現在でもほぼ同じ姿で批判の対象となる、数十年間批判されてもまったく変化しない日本的なヒエラルキー、日本人のもって生まれた性質から生まれたみたいなところがあるものだとおもいます。
 どうも『現代短歌入門』というのは、若かった岡井が鼻っぱしらの強い若者特有の自己本位な意識で書いた本のようです。同時代を別視点からみたこの本を読んでいて、それが見えてきました。

 中井英夫は母親の影響で幼少の頃から短歌の心得があり、しかし、短歌雑誌の編集者になったときにはもう短歌への興味を半ば失い、読者として見る目はあるものの作歌はしていなく、あくまで仕事として就職し、編集者になったようです。
 このような、短歌の世界にとっての「外部の人間」によって短歌界の革新が行われたという事実はなかなか意味深いところがあるとおもいます。
 当時の短歌界のような旧態依然としたヒエラルキーのなかで自足してしまっている集団というのは、その集団の内部にいるような人間にはどうすることもできなくて、「外の価値観」を持っている人にでないと意味のある革新はできないものなんじゃないでしょうか。
 ところで、そんな短歌界の旧態依然としたヒエラルキーというのは、現在の短歌界ではもう無くなったものなんでしょうか?
 どうも、最近、ネットで短歌関係のページをあちこちサーフィンしてまわってたんですが、なんだかまだ厳然として残っているような気配がしてきているのですが……。
 どうもぼくは、そのような日本的な村社会のヒエラルキーが嫌いで、でも生きていくためにはつきあっていくほかないところもあって、でもそこに埋没するのも嫌なんでいろいろ趣味をもったりするのですが、そうやって趣味で覗いてみたどの世界にも似たような村社会のヒエラルキーがあるのを知らされると、だんだんうんざりしてくる気持ちがあります。
 なんだか、ほとんど短歌について知らないままマイブームとしてアソビのつもりで短歌をやってきましたが、事情がわかるにつれ、やはりここもそうなのか……と嫌〜〜っな気持ちになってきたところです。

 と、まあ、直接内容と関係のないようなことばかり書いてしまいましたが、『黒衣の短歌史』はおもしろい本です。いままで読んだ現代短歌に関する本のなかではいちばん良い本だと思いました。


2006.8.21


 
■短歌って文学か? 芸術か?


 短歌関係のページをネットサーフィンしてみて、いろんな人の発言を見ているうちに、ある事に気づきました。
 それは短歌を「文学」だと言う、というか、積極的に言いたがる人のページというのがあって、たぶんこれは、そうでない人とはっきりと分かれそうな気がしてきたのです。
 なぜ、そんなことを書くのかというと、ぼくはどうも短歌や小説を「文学」と書くことにかなり違和感があるのです。
 前にここにブルトンの『魔術的芸術』について書いたとき、「文学」という言葉を使いました。『魔術的芸術』が絵画や彫刻など美術について書かれた本なんで、それに対して詩や小説など言葉を使ったジャンルをひっくるめて指す言葉として、ほかの表現が思い浮かばなかったから使ったわけです。でも、「文学」という言葉を使うのには違和感があって、書きながら、なんか、ちがうなって気がして、居心地がわるいかんじがしながらも、他の言葉が思いつかずにしかたなくつかっていたのです。
 その「文学」とともに違和感があるのは、「芸術」という言葉です。
 なんでも昔の一時期、短歌の世界に影響を与えたのに「第二芸術論」というのがあって、短歌は「第二芸術」だとする評論なんだそうで、これもネットをいろいろ見てて知りました。
 けれど、第二かどうかはともかくとして、短歌を「芸術」だということには、個人的にはかなり違和感があります。
 でも、かなり積極的に「短歌は文学だ」とか「芸術だ」と書いている人もみかけるのです。どうも、そういう人たちはまったく違和感なく、むしろプライドをもっていっているようです。
「いやしくも短歌は文学だ」というフレーズまでどこかで見ました。
 これって世代的な差なんでしょうか? それとも文化圏が違うということなんでしょうか?

 いったい、短歌って「文学」なんでしょうか? 「芸術」なんでしょうか?
 けれど、これはほとんど考えなくてもわかることで、そういう問い自体が無効なんです。
 なぜなら、短歌は「文学」よりも「芸術」よりもずっと古くからあるからです。
 つまり、短歌は「文学」なのか、「芸術」なのかと問うことは、たんに「文学」とか「芸術」という言葉ができたときに、短歌をその枠内のものとして定義したかどうかという問いでしかないわけで、まったく本質的な問いにはならないのです。
 「芸術」という言葉が生まれたのは何時かというと、これは前に聞いたことがあって、19世紀のことだそうです。
 それまでは絵は絵であり、音楽は音楽、小説は小説であり、それらを全部ひっくるめて「芸術」と呼ぼうという考えはなかったわけです。つまり短歌は「芸術」なのかといわれたら、そのときにひっくるめて定義されたうちの一つだったのかどうかという意味でしかないわけです。
 「文学」という言葉が何時から使われてるのかは正確には知りませんが、おそらく近代に入ってからであり、日本に入ってきたのは明治以後でしょう。
 いっぽう短歌は万葉集の時代からあるわけで、しかし、それは日本に文字が入ってきて書き記されだしたのがそのくらいの時代ということで、実際はもっと古くから、広義の「詩」としていうなら、おそらく人類の歴史とともにあったようなものです。
 それを「文学」と呼ぼうが「芸術」と呼ぼうが、しょせんは後づけの定義にすぎず、本質的なものではないのです。

 では、なんでプライドをもって「短歌は文学だ」といいたがる人がいるのでしょうか?
 それはおそらく「文学」というのが権威の装置だからではないかと、ぼくはおもっています。
 つまり、「これは単なるエンターテイメントではない、文学なんだ」というと、それが権威のある、1ランク上のものであるという意味になるとおもっているからでしょう。
 しかし、この「文学」の権威というのもあやふやなもので、例えば夏目漱石なんて生前は、遊びで小説を書いているエンターテイメント作家だと思われていたようで、しかし当時「文学」だと言われていた作家はすべて忘れられ、夏目漱石が「文学」として読みつがれてきたわけです。海外の場合でも、例えば今では優れた小説家の代名詞というべきフローベールは、しかし当時のフランスの文壇が評価したのは、現在ではフローベールの才能のない友人としてしか名をのこしていないデュ・カンのほうだったというのは蓮実重彦の『凡庸な芸術家の肖像』に詳しく書かれているところです。
 ディケンズにしても、ドストエフスキーにしても、当時はめちゃくちゃ売れた作家だったわけで、べつに文学として権威筋に評価されたからああなったわけでもないようです。
 かといって「文学」を否定してエンターテイメントのほうが優れているとするのも、それはそれで一面的な見方でしかないわけですが、つまりは「文学」なんてものはもともと根拠の薄いあやふやなものであって、本来は「文学」だからどうってことでもないものなんです。
 夏目漱石が『文学論』を書こうとして悩み、ついにものにできずに小説家になったのは、「文学」というものの普遍的な根拠がみつからず、疑いつづけずにはいられなかったからでしょう。しかし、だからこそ夏目漱石の小説が「文学」として読みつがれているともいえるわけです。

 さて、しかし漱石らによって一度日本に文学が根づくと、その根拠を疑うことは忘れられ、文壇という村社会ができてヒエラルキーができ、その村へ入るための通過儀礼としての各種新人賞などができました。そうして「文学」というのは、共同体として存続してきたんだとおもいます。
 でも、そういった文学というのが疑われることなく存在したのは、たぶん1970年代まででしょう。
 日本の文学者は誰かというと、例えば大岡昇平、大江健三郎、中上健次あたりまではいかにも「文学」という感じがするのですが、村上龍、村上春樹となってくると、ちょっと「文学」と呼ぶことに違和感がでてきます。たぶん、このへんが分かれ目だったんじゃないかと個人的には感じています。

 それでも、現在でも、「文学」というのを信じている人はいるんでしょう。
 自分を信じろ……なんて、スポーツなどでは言われますね。
 でも、「文学」なんてものは逆に、疑うことに意義があるもんじゃないでしょうか。夏目漱石がそうであったように、「文学」なんてものを根本のところから徹底的に疑ってみることこそが、逆にいえば「文学」なんじゃないでしょうか。
 つまり、「短歌は文学だ」なんていってしまったら、短歌は文学としてダメなんじゃないでしょうか。


2006.8.21



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