外灯都市〜短歌について1







■はじめに(短歌の世界の迷子)


 なんだか突然マイブーム的に短歌を書きはじめ、短歌というものがどういうものなのか、いろいろ調べたり、かんがえたりしてきました。
 だいたいぼくはいろんなものに首を突っ込みたがるほうなんですが、それにしても、短歌の世界というのはヘンな世界だと思います。
 例えば、なんでわざわざ読者が読みにくい古語(文語)を使って書く人がこんなに多いのか、いまだにわかりません。ふつうなら、自分なりのこだわりを持って、あえてそんな美学をとおすなら、自分が何にこだわってそういうことをするのか意志表示や方法論の提示があるものなのですが、短歌の世界の場合、いままでいろいろ読んできても一つもそういったものが見つかりません。なんでそんなことをしているかも説明されず、問われないまま、しかし、それでも古語(文語)を使って書きつづけられます。
 一人の歌人のなかだって180度も定義がかわってしまう〈私性〉というのもへんな言葉で、いまだに何のことかわかりませんが、いまだに使われてるのをよく見ます。
 そんなことはごく一例で、なんだかわからなくてヘンなところがすごく多いのです。
 わからないなら本でも読んでみようかと、短歌の世界で有名な入門書のたぐいを読んでみたりもしたのですが、なんだか何を言いたいのかわからないものが多く、それでも短歌の世界では優れた本として絶賛されてたりします。ますます何だかわからなくなります。

 短歌の世界では「読み手=書き手」であることが問題だといわれているらしいです。つまり、書いている人間くらいしか読者がいなく、純粋な読者はいないと。
 でも、そんなことはまったく問題でないとおもいます。というのは、短歌なんて、誰だって書けるものだからです。(デキの良し悪しは別にして)
 これが小説であれば、読むのは好きだったとしても、自分で長編小説を書きとおすのは大変でしょうが、短歌なんて書く気になればすぐに書けるもので、少しでも短歌に興味をもったなら、読むだけでなく書いてみるのは、ごくしぜんなことだとおもいます。
 問題はむしろ、そうしてできあがった作品を、どのような基準で良し悪しを言うのか、その批評的な視点のほうのような気がするのですが、そのような点がなんだかよくわかりません。
 短歌の世界がわからないのは、みんないわば短歌村という閉鎖的な村社会の人間で、村でしか通じない言葉で話をしているので、外部から来た人間には理解できないのかな……などと思ったりもしました。
 でも、個人的には迷子になるのって、けっこう好きだったりします。
 つまらない日常のなかで、いつも通る道ばかり歩いていると、たまには迷子になってみたくもなります。
 そんなわけで、短歌の世界を迷ってみると、それはそれでおもしろい発見もあるもので、個人的にはオクタビオ・パスの『弓と竪琴』やらアンドレ・ブルトン『魔術的芸術』やらをこの機会に、短歌に引きつけて読んでみて、詩というものの意義がわかってきたことはかなりの収穫だったとおもっています。


06.8.22



 
■短歌とブルース


 なんでぼくが短歌を書こうなどと思ったのかということを書いてみます。
 ぼくにとって短歌というのはマイ・ブームみたいなもので、特に何かのきっかけがあったわけでもなく、誰に習ったわけでもなく、とつぜん思いついて書きはじめたものなんですが、それでも何でぼくが短歌を書こうなどと思ったのかというと、それは、短歌って、ブルースに近いもんじゃないかって思ったからです。
 ブルースというのは一定のコード進行をする十二小節の音楽のことです。非常に単純な一定のコード進行です。(なお、日本のふるい歌謡曲には「(なんとか)ブルース」っていうタイトルがついたものがけっこうあるのですが、その「(なんとか)ブルース」というのはたいていブルースではありません)
 しかし、ブルースがずっと好んで演奏され続けるのは、このおそろしく単純な構造に理由があります。つまり、初対面のミュージシャンがなんか一曲演奏しようと言い出したとき、ブルースならその場ですぐに共演できるわけです。単純だから。
 といって、ブルースというのは伝統的というわけでもありません。例えば、マディ・ウォーターズやB・B・キングなどだけをブルースと思っている人が、チャーリー・パーカーなどビ・バップのブルースを聴いたら、とてもこれがブルースとは思えないような気がします。実際、ビ・バップのブルースはめちゃくちゃ複雑なコード進行をします。しかしそれは装飾的にいろいろ加えてるだけで、基本は同じなわけです。
 原型が単純だからこそ、いろいろアプローチを変えてみたり、いろいろなことをその単純さの枠内でできるわけです。
 短歌っていうのも「57577」っていう、おそろしく単純な構造でこれだけ続いているということは、ブルースみたいなものかなと思ったわけです。つまり、何でも、どんなことでも「57577」で書けば短歌だというみたいな。
 でも、単に「57577」でどれだけおもしろいものができるのか、というだけでやれればいいんですが、こういうのって、「短歌とはこういうものである」とか「こういう書き方が短歌らしい」とかいうお稽古事のお師匠さんみたいなことを言い出す人が必ず出てきて、ヘンなふうになっていってもしまうもんですよね。
 ぼくは単に「57577」になってれば何でもいいみたいな気持ちでやりたいんですけど。

2006.1.28


 
■象徴主義ってなんだ?


 ポーについて書いたところで、象徴主義ということをいいましたが、実は白状してしまうと、ぼくは象徴主義というものがよくわかっていません。なんとなくこんなものかな……ていどのイメージはあるのですが、いま一つわからないのです。
 その大きな理由は、ぼくがフランス語が読めないからだと思います。
 どうしても象徴主義というとボードレールからマラルメへ流れるフランスの詩人の作品を参照にしないと掴める気がしないのです。とくにマラルメあたりが中心でありそうな気がしています。けれど詩というものは本来翻訳が不可能に近いものであることは、かろうじて読める英語の詩を読んでも理解できます。それでも優れた翻訳であれば、かなり魅力を伝えられるものもあると思うのですが、どうもマラルメの詩というのはあらゆる詩作品のなかでも特に翻訳が困難・不可能なものであるようです。それでもう一つ掴めないのです。
 そのため、なにか象徴主義についてきちんと説明した本がないかと探したこともあったのですが、どうも「これ!」というものに巡り会えませんでした。
 だから、たぶんこんなものじゃないのかな……という程度のものなんですが、少しそのあたりの、ぼくが調べて想像している途中経過みたいなものを書いておきます。

 象徴主義の詩はボードレールから始まるともいえるのですが、ボードレール自身は象徴主義ではないとみるのが一般的なようです。
 それはボードレールが書いた『悪の華』のなかの「万物照応(コレスポンダンス)」という詩が象徴主義の理論的基礎になったそうで、その影響によって象徴主義が生まれたのですが、ボードレールは理論を詩にしただけで実践はしていないということのようです。
 さて、このボードレールの「万物照応(コレスポンダンス)」という詩には、実はモトネタというか、先駆的な作品があります。エリファス・レヴィが書いた、全く同じタイトルの「万物照応(コレスポンダンス)」という詩です。
 このレヴィの「万物照応(コレスポンダンス)」が澁澤龍彦の『悪魔のいる文学史』(中公文庫)のなかで一部翻訳されていまして、これがおもしろかったのです。詩としてみた場合ボードレールの作品のほうがはるかに優れていると書かれているのですが、ぼくはフランス語が読めないので何ともいえないのですが、翻訳でみるかぎりレヴィの詩のほうが少なくとも分かりやすい気がします。ボードレールの詩が抽象的な表現をしているのに対し、レヴィのほうは具体的だからです。
 なお、レヴィは詩人というより魔術師であり、『高等魔術の教理および儀式』(1856年) という本が最も有名です。ボードレールの他、ユゴー、マラルメ、ランボー、リラダン、イェイツ、ジャリ、ジョイス、ヘンリー・ミラー、アンドレ・ブルトンなども彼の思想の影響を受けたと澁澤は書いています。
 ボードレールの詩のほうは有名なものなので本屋で『悪の華』を見ればすぐに見つかると思いますが(おそらくネットでもどこかに載っているのでは?)、レヴィの詩のほうはこの本に引用されているのしか見かけたことがないので、ここにその翻訳引用されている部分(全十節のうちの第四節と第八節だそうです)を引用しておきます。


   「コレスポンダンス(万物照応)」
             エリファス・レヴィ  澁澤龍彦・訳

  目に見える言語で形づくられた
  この世は神の夢だ。
  神の言葉は、この世のもろもろの象徴をえらび、
  聖霊は、この世を神の火で満たしたもうたのだ。
  愛の、栄光の、はたまた恐怖の
  この生きた書物を
  イエスが我らのためにふたたび見出し給うた。
  それというのも、あらゆる秘密の学問は
  エホバの聖なる名前から
  発した文字にほかならないからだ。

  自然の法則を解しうる者にとって、
  自然の一切は決して沈黙してはいない。
  星々には文字があり、
  野の花々には声がある。
  闇夜に輝く言葉、
  数のように厳正な語句、
  すべての音が一つの反響でしかない声、
  かつて祭司たちの叫び声が
  エリコの城壁を震動させたように
  ありとあらゆるものを動かす声。


 翻訳についてはどこまで忠実なものかわからないです。例えば3行目の頭に「神」、4行目の頭に「聖霊」、7行目の頭に「イエス」とありますが、ご存知のようにキリスト教ではこの三者「神(父)」「イエス(子)」「聖霊」で三位一体となるわけで、なんで「イエス」だけ2行とんで7行目なのか、原文もそうなのか翻訳の関係でそうなったのかなど知りたくなるのですが……。
 さて、しかし、内容のほうはというと、おそらくこれは比喩的な表現ととるべきでなく、具体的な説明ととるべき内容だと思います。
 1〜2行めにある「この世は神の言語によってつくられた」という考えかたはキリスト教に古くからあるものです。つまり「神は2冊の書物を人間に託した。一冊は聖書であり、一冊はこの世界そのものである。人間はこの世界という書物を読むことによって神の意志を知ることができる」という思想です。一神教とはこの世界はすべて神が造りたもうたもの……と考える宗教ですから、神が造りたもうたこの世界そのものが神の意志であるというわけです。
 そのため「星々には文字があり、野の花々には声がある」、つまり世界の一つ一つのものは言語として読むことができるという考え方になります。自然の一切は沈黙しているのではなく、すべて象徴として意味を示していると。
 つまり「世界」=「象徴の森」である。というのが象徴主義の基礎的な考え方です。(「象徴の森」という表現はボードレールの「コレスポンダンス(万物照応)」のほうに出てきます)
 さて、ここに訳されているのは二つの節だけなんで、これだけではこの詩が全体として何を言っているのかわからないのですが、手がかりとして「コレスポンダンス(万物照応)」というタイトルがあります。ボードレールもそのまま使っているタイトルです。
 この「コレスポンダンス(万物照応)」というのはもともとルネサンス期に一世を風靡した魔術思想のうちにあった考え方です。言葉どおり、あらゆるものは照応している。ミクロコスモスとマクロコスモスは照応しているという考え方です。
 人体とはミクロコスモスだと考えられていました。そしてそれはマクロコスモス(宇宙、夜空に輝く星々)と照応している。つまり、夜空の星々の動きを熟知すれば人間の運命等が理解でき、また星々のパワーを自分のものとして利用することも出来るという思想が生まれ、これが西洋占星術の基礎となります。
 世界と照応した劇場(世界劇場)を作ろうというアイデアも生まれ、シェイクスピアで有名なグローヴ座がその世界劇場であったというのも一部のあいだでは有名な話でしょう。
 この「コレスポンダンス(万物照応)」という言葉や、マラルメが夢みた「世界を一冊の本に……」という考え方をみると、おそらく象徴主義というのは、象徴による森である世界を象徴をつかって詩(あるいは本)へと再構成し、一編の詩(あるいは、一冊の本)がそのまま世界に照応するような作品をつくろうとしたものではないかというのが、ぼくがボードレール〜マラルメを中心に見当をつけていることです。
 でもこれは、先に書いたとおり、ぼくはフランス語が読めないので、どうにも確かめようがないです。

 こんなふうに詩作品の背景に魔術思想があるだなんて書いていると、ひょっとすると奇異な視点のように思われるかもしれません。しかし、芸術作品の背景にある思想があるのはむしろ普通のことだと思います。
 たとえば、日本ではいまだに多くの詩人・歌人がとっているとおもわれる私小説的リアリズムの手法(作者=作品の視点となって、自分の身辺のことを描いていけば優れた作品ができるという考え方)もまたそういった思想の一つに過ぎません。しかも、私小説的リアリズムというのは日本が西洋文学を取り入れていく過程での誤解から生じた、日本にのみ存在するものであり、なんの普遍性もなく、日本の伝統的なやりかたでもありません。
 西洋文化を見ているとルネサンス期以来の魔術思想というのは底脈として流れているのを感じることは多いのです。それはその思想が正しいかどうかということとは別問題です。

 とはいえ、もう一方で、象徴主義というのはもっと広い意味で使われているように感じることも思うこともあります。つまり、象徴的な表現をおもに使用した芸術作品を一般的にそう言っているのではないかと。
 しかし、そうとらえると象徴主義というものの範囲はどんどん広がっていってしまうのです。
 もともと象徴というのは隠喩というレトリックとかなり似たものであり、記号論でいうところの記号とかなり重なりあうところがあります。
 記号論では言語は「信号」という扱いになるのだそうですが、それでも語源まで遡ったり、漢字の成立などをみると言葉や文字自体がかなり「象徴」の性質もあるのです。もともと人間は象徴をつかう動物なのですね。ボードリヤールの『象徴交換と死』などでみるように、経済活動においても象徴というのが重要な役割を担っているともいえそうです。商品が象徴性をおびるわけです。
 そのため、そう考えてしまうと、どこまでが象徴主義なのか、ほとんど境界がなくなって広がっていってしまいます。
 それこそショッピングをしている人を、彼は象徴主義の買い物客だ……といってもおかしくない、というようなことに……。


2006.3.6


 
■日本語の乱れ



 ところで、よく最近、日本語が乱れているという人がいます。ぼくもそういうところがあるとは共感します。
 でも、そんなとき多くの人が指摘するのは若者の妙な言葉使い、仲間うちでのみ通じる言葉などなんですが、ぼくはそんなものが日本語の乱れだとは思いません。仲間うちでの隠語や言葉遊びはいつの時代にもあることで、そんなことで日本語が乱れたりはしません。
 重要なのは他人や不特定多数の人々に自分の意見を述べたり、きちんと説明したりしなければいけないときに、きちんとした言葉を使えるかどうかです。仲間うちでどんな奇妙な言葉を使っていようが、そういう場できちんとした言葉を使うことができるのならば、その人の日本語は乱れてはいません。
 むしろ問題なのは、現在の日本には他人に自分の考えや意見をきちんと説明しなければいけないときに、きちんとした言葉できちんと説明することができない人たちが数多く存在することです。というより、そういう場において意識的にきちんとした日本語を使わない人たちが数多くいることです。

 たとえば裁判の判決文など、法曹界の人が使う日本語は乱れているとぼくは思います。判決文は被告の人生を左右する重要なもののはずで、誰にでも理解できるようにきちんと書かれているべきものだと思います。しかし判決文は非常に読みにくい独特の言葉使いで書かれていて、しかも苦労して読んでみると論理的にめちゃくちゃで筋が通ってないということもあるようです。(このへんのところは、いしかわじゅんの『鉄槌!』(角川文庫)に、とてもおもしろく書かれています)
 しかもあれは判決文を書くほうも、わざわざあのような変な書き方にするために、かなり苦労してやってるのだそうです。ばかばかしい話としかいいようがありません。
 それに、役人・官僚の使う日本語も乱れていると思います。自分が責任を逃れるためなのか、いわゆる玉虫色の、意味が何通りにも解釈できるようなわかりにくい言葉を意識的に使っています。若い官僚が文章を書くときは、わかりやすい文章を書くと上司から注意され、もっとわかりにくくなるように訓練されるのだそうです。これもわざわざ努力して、一般の人々が意味を汲み取りにくいように書いているわけです。
 このように日本語の乱れは、硬直化した権威主義にべったりとよりそっている場でおこります。相手に自分がおもっていることをいかに伝えるかということに努力するのではなく、自分の権威を保持するために言葉を選んでいるとき、自分の背後にある組織や上司・権威ばかり意識して言葉を使っているときに、日本語はどんどん乱れていくのです。

 さて、ここで最初にいった短歌の話になるのですが、ぼくは現代の短歌における文語の使用も、日本語の乱れとしか思えないのですが、どうなんでしょうか。
 もし短歌が他人・不特定多数の人々に読んでもらいたいと思って書かれるものだとしたら、なんで一般の人がわかりにくい文語をわざわざ使うのでしょう。なぜ、自分の表現したい内容がきちんと読者に伝わるように、読者にとって理解しやすい言葉を選ばないのでしょう。
 短歌の文語使用が権威主義のために生じた日本語の乱れではなく、きちんとした必然性があってのものだというなら、ぜひその必然性を教えてもらいたいものです。
 といっても、ぼくにも必然性があって文語を使っていると理解できる歌人もなかにはいます。次回はそれについて書いてみます。


2006.3.10


 
■塚本邦雄を読んでみる


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 ぼくはマイブームでいきなり短歌を書きはじめたので、書き始めるまでほとんど読んだことはなかったのです。もちろん全く読んだことがなかったわけでもないですが(学校でも習ったし)、自分で興味をもって読んだとかいう経験はなかったのです。
 では、書き始めてから読みだしたのかというと、やはりしばらく読みませんでした。これも、まったく読まなかったわけでもないんですが、例えば新聞の投稿欄に載っていたり、NHKでたまにやっているような、ああいったタイプの短歌には興味がなかったし、本屋や古本屋にたまたまあったものを手にとってみても、魅力的に感じられるものはほとんどなく、次第に読まなくなっていったのです。
 そうして、まったくアソビのような感覚で自分勝手に書いてきて、いまごろになってようやくいろいろな人がいろいろなタイプの短歌を書いていることがわかってきて、そのうちの興味があるあたりを読んでみようかなどと思っているところです。
 そんなわけで、読んだ短歌の感想なども少し書いてみようかと思います。

 まえに書いたとおり、ぼくには短歌における必然性のない文語使用は日本語の乱れとしか思えないのですが、では必然性のある文語使用というのもあるのかというと、あると思っています。
 ぼくがそれを感じるのは、例えば塚本邦雄という人の短歌です。この人は現代の短歌の世界においてかなりの大物のようですが、ぼくは最近になって知りました(^_^;)。(いままで短歌を読んでなかった人間なんて、そんなものです)
 そんなわけで、この塚本邦雄という人について、ぼくのような初心者が、それも最近になってようやく知ったような人間が書くこと自体に問題があるのでしょうが、初心者の第一印象ていどの感じで書いてみようかと思います。

 塚本邦雄という人は1950年代末から60年代にかけておきた「前衛短歌」というムーブメントの中心人物として有名なんだそうです。実はぼくはこの「前衛短歌」という言葉じたい最近になって知ったのですが……(^_^;)。
 なんだか、いま「前衛」と聞くと、かなりアナクロで古臭い印象がありますね。しかし60年代というのは「前衛」という言葉がカッコイイ時代だったようです。ロックでも「プログレッシヴ・ロック」(直訳すると「進歩的ロック」)というのがありました。「進歩的」というのもアナクロで古臭いですね。
 なんでいま「前衛」とか「進歩的」というのが古臭い感じられるかというと、これらの言葉はマルクス主義と関係があるからだと思います。マルクス主義では歴史を進化するものと考えますから、それならば自分こそがその進化の最先端にいる者だということで「進歩的」とか「前衛」とかいう言葉が好んで使われたようです。
 60年代の学生運動は「日米安保条約反対」とか「日本にも共産主義革命をおこして、日本を北朝鮮のような素晴らしい社会主義国家にしよう」とかいうスローガンでもりあがっていたわけで、まだマルクス主義には人気があったわけですね。いまとなると信じられないような話ですが、でも、まだまだその生き残りは根強く存在しているので困るわけですが。
 さて、いまとなるとそのマルクス主義の信用も地に落ちたわけで、かえって「前衛」だの「進歩的」だのいう言葉にまどわされずに、その作品そのものがどうなのかという見方でみることができる気がします。そういう目でみると、この塚本邦雄という人の短歌は後期ロマン主義や、あるいは象徴主義などの流れを強くひくもののように見えます。
 ずっとこのブログで書いてきたオペラの話でいくと、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』や『パルシファル』からリヒャルト・シュトラウスの『サロメ』やドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』などに流れていく流れです。
 そもそもこの人は60年代の人というわけでもないのですね。最初の歌集『水葬物語』は1951年に出てます。出版が51年ということは、おそらく書かれたのは終戦前後あたりからなんじゃないでしょうか。となると詩人でいえば鮎川信夫や田村隆一など、終戦直後に戦争の衝撃を受け止めるかたちで書き始めた人と同時代人とみたほうがいいのかもしれません。ただ、彼のやっていたことが時代の波長に合って、ムーブメントをひきおこしたのが60年代に入るごろということなのではないかと想像します。
 『水葬物語』から3首ほど引用してみます。

割礼の前夜、霧ふる無花果樹の杜で少年同士ほほよせ      塚本邦雄

ダマスクス生れの火夫がひと夜ねてかへる港の百合科植物    塚本邦雄

檻ぬれし夜はねむられぬ羚羊に色硝子製受胎告知図       塚本邦雄

 これだけ見ても塚本邦雄のねらいは明確かと思います。
 まず感じるのは異国趣味ですね。これはロマン派の特徴であり、ロマン派が手本にしたシェイクスピアにも異国趣味がありました。
 それから同性愛を匂わせる、どこか頽廃的な雰囲気ですね。そもそも世紀末的頽廃というのも日本の60年代の流行だったそうで、ビアズリーなど当時の大学生に人気があったそうです。
 そして難しい漢字を意識して使用していることです。「ガラス」と書かずに「硝子」、「イチジク」でなく「無花果樹」と、読みづらい難しい漢字を意識的に使用しています。
 こういう難しい漢字をわざと使用する美学というのも60年代に流行ったようです。たとえば、渋沢龍彦ではなく必ず「澁澤龍彦」と表記するような。(「彦」の字も違うのですが、出ませんでした)
 その澁澤龍彦の本はいまではたいがい文庫に入ってますけど、たまに古本屋で初版本などを見かけると異様に豪華で美麗な装丁になっています。読んでみると内容はわりとライトなんですが、このように内容よりもものものしい字面や装丁で飾りたてることに重きをおく美学があるわけです。やはり60年代に流行ったというホッケの『迷宮としての世界』でいうところの、マニエリスムというやつです。
 マニエリスムというのは、例えば言葉が伝えたい内容を的確に伝えるための手段であるというところから倒錯して、手段であったはずの言葉の使用そのものに耽溺するような美学であり、いわば独自の言葉使いさえできれば、そのために内容がわかりづらくなっても一向にかまわない、そもそも内容はどうでもいい……というような美学です。(本当はそう簡単に要約もできないんですが、今回はそういう意味でいわせてもらいます)
 だから文語使用でわかりづらくなってもかまわないし、難しい漢字をわざと使用して、それが読者が読めなくてもかまわないわけです。というか、こういう趣味の読者は自分が読めない漢字がたくさん並んでいるのを見て喜ぶわけですね。
 まあ、塚本邦雄がそういう趣味だけの人かといってしまうと問題があるんでしょうが、確実にそういう面ももっていると思います。個人的には、だからこそ文語を使用することの必然性も感じられるわけです。
 では、そのようなロマン派的な、あるいはマニエリスム的な方法を用いて塚本邦雄は何をしようとしたのでしょうか。


 
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 ところで最近、オペラ『ペレアスとメリザンド』を聴いてから、ドビュッシーに興味をもちまして、いろいろ聴いてみました。そして思ったことは、ドビュッシーという人は、新しい音楽を創造しようとしたというよりは、むしろ従来の音楽ではないものを音によって表現しようとした人なのではないか、つまり、苦心して「音楽っぽくない音楽」を書こうとした人なのではないかということです。
 つまりは「音楽家」というより「反-音楽家」というのがドビュッシーが目指したところなのではないか、と感じたわけです。
 ドビュッシーはよくラヴェルと並んで語られるわけですが、この二人はだいぶ違ったタイプの音楽家ですね。ラヴェルはドビュッシーから影響を受けていますが、伝統的な音楽家であって、「反-音楽」は目指してないでしょう。むしろドビュッシーがしたことを伝統的な音楽の流れのなかに戻そうとしているとも思えます。
 そして、ドビュッシーが作りだした「反-音楽」もまた、けっきょくは演奏家の一レパートリーになり、「牧神の午後への前奏曲」も多くのロマン派の名曲と並んでオーケストラが演奏する曲目の一つへと回収されていきます。
 そうして「反-音楽」をめざしたドビュッシーもまた「音楽史」の1ページへと回収されていくわけです。それを皮肉というのか、あるいはそういうものを「歴史」と呼ぶのかもしれません。
 でも、そんなふうに「反-音楽」ということを思っていると、ドビュッシー以外にもシェーンベルクやアルバン・ベルク、ストラヴィンスキーなど、必死になって「音楽っぽくない音楽」を書こうとした「反-音楽家」たちの系列というのも見えてきた気がします。
 そしてそれ以前にも、例えばワーグナーが「交響曲」や「協奏曲」などを書かず、オペラだけを、しかもそれまでとは違ったオペラだけを書こうとしたのも「反-音楽」の姿勢だったのかもしれないし、ベルリオーズが何だかわからない物語的交響曲を書き続けたのも「反-音楽」の姿勢だったのかもしれません。
 つまりは音楽史というのは、その時点での「音楽っぽい音楽」を否定しつづける人々が作りだした「反-音楽」の歴史という面ももっているような気がします。

 そんなことを思いながら塚本邦雄をかんがえると、彼が書こうとしたのは「短歌っぽくない短歌」「反-短歌」だったのかもしれないという気がします。そして彼が短歌の歴史のなかで重要であるとすれば、そのためだったのではないでしょうか。
 おそらく塚本邦雄は後期ロマン派的なものやマニエリスム的なものや、それらさまざまな方法を用いて、短歌という形式をその向こうへと開こうとしたのではないでしょうか。

 
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 では、塚本邦雄以外に短歌を開こうとした人はいるのでしょうか。
 ぼくは正岡子規はやはりそうした人ではないかと思っています。
 しかし、子規が短歌を開こうとしたのは、写実という方向でした。

 どうも子規の功績の大きい部分は「文」あるいは「写生文」とよばれるジャンルを創出したことのようです。この「文」とは現在でいえば「描写」であり、自分の身のまわりのことを、たんにそのまま描写していく……というジャンルだったようです。日本の文学(という言葉が当時あったかわかりませんが)に欠けているものは、そのような写実的で客観的な記述だと考えたのでしょう。じっさい子規の時代においては、それは有効なことだったように思えます。
 そして同郷の友人で評論家志望の夏目漱石に「文」を書かかないかともちかけ、漱石はただ描写だけではつまらないと思って、猫の視点からの描写をした「文」を書き、これが好評で次々に続編が書かれてまとめられたのが『吾輩は猫である』だということも有名なはなしのようです。
 短歌や俳句においても子規の方法は写実という方向でつらぬかれています。
 しかし、改革というのは、その時点においては必要な改革だったとしても、それが一定の成果を得て定着したときに、次の改革を行わずに放置しておくと、むしろ悪しき伝統と化してしまうものです。
 例えば日本は明治維新においてそれまでの幕藩体制、士農工商の身分制度を廃しました。これはその時点において必要な改革でしたが、その結果、薩長閥という新しい身分制度(悪しき伝統)を生み出してしまいました。猪瀬直樹の『ペルソナ』(文春文庫)を読むと、その時に再度改革を行い、その薩長閥を廃したは原敬だったようです。
 しかしその際、原敬が「たとえ薩長出身でなくても、帝大で教育を受けた者は同じに扱う」としたために、やがて「帝大で教育を受けた者」という部分が重い意味をもちすぎて、ついに学歴社会というものを生み出してしまいました。この学歴社会が悪しき伝統と化したときに必要な改革を行う者がいなかったために、受験戦争で苦しめられたかたはたくさんいらっしゃると思います。
 でも、確かに学歴社会だって薩長閥と比べれば公平性のあるものであり、少なくとも生まれた段階では有効な改革だったのだと思います。あくまで問題なのは、それが悪しき伝統と化したときに、改革を行わなかったという点にあるのであって。
 短歌も同様、写実という手法、自分の身のまわりをただただそのまま描く、見たまま、あるがままを描くという手法は、子規の時代においては革新的な手法であり、有効な改革だったのだと思います。
 が、単にあるがままを57577、あるいは575にまとめるのが短歌や俳句であると常識化してしまい、表現として痩せ細っていってしまったときに、やはりそれを否定して新しい方向に開く必要があったのだと思います。
 ぼくは短歌に詳しくないので、子規と塚本邦雄の間については知らないのですが、ひょっとすると子規が行ったものの次の改革を行ったのが塚本邦雄だったのかもしれません。


2006.3.11-13


 
■岡井隆『現代短歌入門』を読んでみる



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 岡井隆という人は塚本邦雄とともに前衛短歌のムーブメントの中心になった人のひとりだそうです。
 去年の秋、短歌について読んでみようかなと思い始めたとき、たまたま図書館にあったこの岡井隆という人の『短歌の世界』(岩波新書)という本をぱらぱらと読んでみたところ、その内容があまりにもチンプンカンプンだったので、その感想をここに載せたことがありました。難解というのではなく、どういう前提でものを言っているのかわからない、当然前提とされるべき知識が前提とされていなく、なんだかわからないものが前提となっているようで、いったい何を言っているのか理解不能の文章に思えたのす。
 けれど、それは削りまして、というのは、ちょこちょこっと読んだだけで批判ともとられかねない内容の文章を書くのもどうかと思ったからです。否定するにしろ肯定するにしろ、書くならきちんと読むべきだろうと。
 そのことがどこか気持ちに引っかかっていたのか、ネットをあちこち見ているときに、この岡井隆という人の本としては『現代短歌入門』というのが有名だと書いてあるのを見て、それなら読んでみようかと思ったわけです。

 読んだ感想ですが、1960年代前半に書かれた本ということで、すでに時代遅れになっている部分が多いのは否めないのですが、少なくとも前に読んだ『短歌の世界』よりはきちんと理解できました。
 とはいえ、やはりこの人は物事を冷静に論理的に考えるタイプではなく、自分がこうしたいという思いのほうが前へ出て、自分が望む方向に強引に話を引っ張っていってしまう人のようです。論理はあちこちで破綻しており、よく読もうとするとかえって何を言っているのかわからなってくなるのです。それでも分かりやすかったのは、おそらくこの本が書かれた意図が明確だったからではないかと思います。
 つまりこの本は当時短歌の世界で支配的だったというアララギ派の考えを批判し、自分たちのやっていた前衛短歌を擁護する姿勢で書かれているのです。論理は破綻していても結局は強引にそこにもっていくので、なにか迫力で納得させられてしまうようなところがあるのです。けれども、多分こういうタイプの本というのは心情的に共感している読者からは熱狂的に受け入れられるかも知れませんが、そうでない人にはどうも……という種類の本ではないかと思いました。
 それでも部分的には興味深く、示唆された部分もありました。
 ちょっと感想を書いてみます。

 まず問題点のほうからいくつかあげると、『現代短歌入門』というタイトルながらまったく入門者向けでないというところがあります。つまり、作者が「そのくらい知ってるだろう」と判断した部分はまったく説明してなく、そのハードルがけっこう高いのです。つまり入門者ならまず知らないだろうと思われることまで説明しません。
 例えば批判している対象の「アララギ派」というものに対しての説明が不充分です。どうも私小説的な考えをもつ一派だということは説明されているのですが、そもそも何なのかが説明されてません。ぼくはネットで調べてみました。と、これは正岡子規の流れで明治末(1908年) に創刊された同人誌に集まった歌人たちのことのようです。ついでに「私小説」もネットで調べてみたところ、嚆矢となる田山花袋の『蒲団』が1907年だそうで、大正時代に全盛期を迎えたものなので、同時代の現象として「アララギ派」も「私小説」の影響を受けたようです。このへんも説明しといてほしいですね。入門書なら。
 それから第9〜10章にまたがる「喩法について」という部分は佐藤信夫の『レトリック感覚』(1978年) などを読んでしまった目から見ればあまりにも粗雑です。直喩と隠喩の機能をきちんと説明してもいないし、喚喩や提喩など他のレトリックについては一言も触れていません。そしていきなり短歌的喩などというところにいってしまいます。それが書きたかったのかもしれませんが、レトリックについてほとんど知らない人がこれを読んで喩法が理解できるようになるとは思えません。
 それから、論理を歪めて、とにかく強引に自説を押しつけてしまうところが多くみられるのですが、例えば第12章の「文語と口語」という部分は、作者が文語を使いたいという意志がありありとわかり、とにかく文語肯定のほうに強引にもっていってます。「口語と文語、古語と新語、外国語と日本語、和語と漢語といった既成の分類を、まずはじめに捨てることです」というのですが、それならもし外国語と日本語の分類を捨てた歌人が短歌をすべてヘブライ語で書いたとしたら、きちんと評価できるのでしょうか。たいていの人は読めもしないのではないでしょうか。短歌は読者が読める言葉で書くのが当たり前で、ながいあいだ短歌でのみ文語が使われつづけているのは、結社など文語が読める狭い集団のみを対象としてきたからだというのは自明ではないでしょうか。もっと広い読者層に読んでもらいたいなら当然文語は捨てるべきであり、普通に考えればそういう結論に至ってしまうのがわかりきっているので、強引に論理を歪めている気がします。
 その他、穴はあちこちにみえるのですが、それでも理解できるは、先に書いたとおり本が書かれた意図が明確だったからでしょう。スタンスが明確なので、とりあえず著者が書きたいことはだいたい想像できるのです。
 こんどは示唆された部分です。
 個人的にはこの本でいちばん興味深かったのは第四章の「場について」の部分です。
 とはいえ、はじめに断っておきますと、この部分も著者は頭が整理されてない状態で書いたらしく、「場」という語をいくつもの定義で混同して使っており、論理的には破綻しています。そのため、読めば読むほどわからなくなる文章ではあるんですが、そのうちのある部分が最近ぼくが考えていた問題と重なるところがあったので、興味深かったのです。
 まず、この章で書かれていることを、ぼくなりに想像して整理してみます。
 ここの主眼は、短歌というのはその置かれている「場」によって読まれる、「場」が変わってしまうと読まれかたも変わってきてしまうものだ……ということです。
 著者は第一にそれを、その歌が詠まれた状況への知識という意味で使っています。例えば「ある特定の病気で病床にある作者が死ぬ直前に詠んだ歌」ということを読者が知っていれば、そのような背景をもったものとして読まれ理解されるだろうという意味です。(A)
 第二には、その歌がどのように発表され読まれるのかという「場」。つまりどういう本のどのような位置に置かれているか、前後にどのような歌や文章が載っていて、その作品とともに読まれるのかという意味で使っています。たとえば連作のなかの一首として書かれていれば、そういう目で読まれるだろうし、連作でなくてもある歌の並びのなかで読まれれば、別の並びのなかで読まれるのは違った目で読まれるという意味です。(B)
 第三には、特定の短歌結社のイデオロギー的な意味で使われています。具体的にはアララギ派の伝統のなかで短歌を学んできた人は、アララギ派的な読み方をするというような意味です。(C)
 この本はアララギ派の批判というスタンスで貫かれているので、けっきょくは「C」の意味で、「場」というのは近代になって初めて登場してきたものであるとし、これを批判するところで終わるのですが、「B」の意味でいうなら少なくとも「場」とは万葉集の成立した時点ではあったはずであり、結局は「場」の定義がわからなくなるのです。
 ついでいっておきますと、「C」の意味でいったとしても、著者の「場」というのは近代になって初めて登場したという知識は間違っていると思います。とはいえ、岡井の意図はアララギ派の「場」を批判することにあるので、彼にとっては他はどうでもいいのかもしれませんが。

 こうやって整理しようとすると、再読するたびにどんどん何が言いたいのかわからなくなってくる本なのですが(そのため、上の整理のしかたも間違っているのかもしれませんが)、それはここまでにして、ぼくがこの「場」の部分になぜ興味をひかれたのかという話にすすみます。


 
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 まず、短歌について、最近ぼくが考えていたことからいきます。
 よく「行間を読む」ということが言われていまして、短歌は短いだけに「行間を読ませる」ように書くべきであり、読むほうもその短歌の「行間を読める」人が良い読み手であるかのように言われることがあるわけですが、ぼくははたしてそれは良いことなのかと思っているのです。
 つまり「行間を読む」とは作者が書いてもいないことを読者が勝手に読んでしまうことであり、その行間が作者の意図どうり読まれているのかはわかりません。「行間を読む」とは、いってみれば誤読なのかもしれません。
 もちろん、読者がその作品から何を読みとるかは読者の自由に任されているかもしれませんが、なかにはとんでもない誤読だってあると思うのです。
 そんなことを考えだしたきっかけの一つは、この短歌でした。

水族館にタカアシガニを見てゐしはいつか誰かの子を生む器    坂井修一

 この歌はいろいろなアンソロジーに収録されていて、傑作だということになっているようです。しかしぼくは最初これを一読して「最低の歌だな」と思いました。
 この歌は水族館へいって、どこかの女性がタカアシガニを見ているのを見て、その女性のことを「子を生む器」だと言っている歌です。女性を単なる「子を産むための道具」と見るのはなんだかセクハラに近い偏見で、「封建的」という古臭い悪口が似合いそうな軽蔑すべき視線だと思えたわけです。
 しかし、図書館で借りてきたアンソロジーで(書名は忘れました、すいません)この歌が解説されていて、「この歌は水族館でタカアシガニを見ている自分の恋人を見て、その恋人をいつか(自分以外の)「誰かの」子を生む器……だと感じたことを歌った歌だ」というようなことが書いてありました。
 そしてぼくはそういう解釈でこの歌を読み返してみました。すると、最初に読んだときよりずっと良い歌に思えてきました。これが女性一般ではなく、自分の恋人だとすると、「いつか誰かの子を生む器」と見る視線の意味がちがってくるわけです。
 しかしその後でまた疑問を感じました。上の短歌にはタカアシガニを見ているのが自分の恋人だとは一言も書いていません。31字しかないので書き込めなかったのでしょうか。しかし「水族館」という場所や「タカアシガニ」という見ている対象物は具体的に書かれており、このへんを少し削るなどすれば恋人だと説明することはできそうです。
 ぼくが見たところ、この歌の女性が恋人なのか、あるいはたまたま見かけた女性なのかはこの歌の内容を決定づける重要な情報であり、場所が水族館かどうか、見ているのがタカアシガニかどうかよりもはるかに重要な情報だとおもいます。作者だってそのことは気づいてるはずです。では、なぜそれを書かなかったのでしょうか。あえて書かなかったとしか思えません。
 そして、作者が重要な情報だと気づいていながらあえて書かなかった以上、この女性は恋人ではないと考えるべきではないかと思うわけです。
 つまりこういうことです。確かにこの女性が恋人であったほうが読者(ぼく)としては良い歌だと思う。そこで「行間を読んで」これは恋人であると解釈したくなります。しかし、女性一般に対して「おまえらは誰かの子を生むための器にすぎない」と言う自由も作者にはあるはずだとおもうのです。読者がそれに共感するかどうかは別問題です。
 つまり、読者が共感できないような事柄を、作者があえて書いたときに、しかし読者がその作者の意図を無視して勝手に行間を読んで自分が共感できるような事柄と解釈してしまうことが許されたとしたら、作者は読者が共感できないことは何もメッセージできないことになってしまいます。
 そう考えると、作者が書いてもいないことを、読者が勝手に想像して「行間を読み」すぎてはいけないのではないかと思うわけです。つまりこの歌の場合、この女性が恋人であるという重要な情報を作者があえて書いていない以上、この歌のなかでタカアシガニを見ているのはただの通りすがりの女性、女性一般であると読まなくてはいけないということではないでしょうか。

 さて、ここで「場」の話になります。
 岡井隆の『現代短歌入門』の第四章に書かれていたことは、つまりこういった場合に読者と作者のあいだに介在してくるのが「場」であるということだと思います。どのように行間を読むかは「場」が決定するということです。
 例えば前に書いた「C」の意味で「場」を考えてみます。
 例えばある結社などの「場」で「歌のなかに誰か作者以外の人間が出てきた場合、これを作者の恋人とみなそう」という約束ごとがあったとします。そうであれば、いちいち恋人だと説明しなくてすむのですから31文字で恋愛の歌は書きやすいということになります。そして、上の短歌がそういう「場」で書かれたものだとすれば、歌に出てくる女性は何の説明もされてなくても恋人であると解釈できるわけです。
 しかし、とするとその「場」で、男性歌人が歌のなかに男性を登場させたら、この歌人はゲイでこの男性と恋人関係にあると行間を読まれるわけで、母親のことを歌ったらこの歌人は近親相姦者だと読まれることになります。つまりこういう「場」がもしあったとすると、その「場」にいる歌人はあまり自由に歌を書くことができなくなる気がします。
 もう一例あげます。次のような歌があります。

ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は    穂村弘

 これも有名な歌ですが、これはどういう歌なのでしょうか。
 例えば社会主義プロレタリア系の「場」でこれが読まれたら、これは過酷な労働をしながらも貧困にあえぐ労働者の生活苦をうたった歌だと行間を読まれるかもしれません。
 60年代の安保闘争など学生運動を行っていた「場」で読まれたら、これは体制側に屈服した活動家の心の苦さをうたった歌だと行間を読まれるかもしれません。
 これが少年少女の恋愛ものばかり歌っている「場」で読まれたら、確実に失恋の歌だと行間を読まれそうな気がします。
 どれも作者の意図とはまったく違うものかもしれません。そもそもそんなに自分勝手に「行間を読んで」しまっていいのかという気がします。しかし、作者がもしそのうちのどれか一つの「場」に属し、その「場」にいる者だけに向けてこの歌が作られたとしたら、作者の意図は伝わることになるでしょう。
 以上は前に書いた「C」の意味の「場」ですが、当然、「A」「B」の「場」で行間を読むこともできるでしょう。
 つまり、もし作者にこの歌を作ったとき実人生で不幸な事件に遭ったという情報が知れ渡っていたとしたら、その意味で読まれるかもしれないし(A)、ある恋愛を描いた連作のなかで、失恋をうたった歌の後に置かれていたとしたら、そういった意味で読まれるでしょう(B)。
 例えば上のタカアシガニの歌も、もし初出でこれが連作のなかに置かれ、この歌の前後に恋人と水族館にデートに行く歌が置かれていたとしたら、この歌自体にはタカアシガニを見ているのは恋人であると書かれていなくても、この女性は恋人であると読むのが自然になってきます(B)。(ぼくはアンソロジーなどで読んだのみなので、初出でどうだったのか、申し訳ないですが知らないのですが)


 
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 さて、この「場」による読みというものはいいものなんでしょうか。否定すべきものなんでしょうか。
 上で整理した「A」「B」「C」のうち、ぼくは肯定すべきは「B」だと思っています。これは連作や、自己の歌集の場合など、作者が意識的に操作できるものだからです。
 これに対する批判としては、短歌の独立性という点があるでしょう。短歌である以上、一首だけで独立して味わえるべきではないかという意見です。
 しかし、例えば音楽でロックやポップスが好きな人は、一曲ごとに独立しているんだから一曲だけで味わうべきで、アルバムを聴くなんて邪道なんでしょうか(だとすると、シングルCDも2曲以上入っているので邪道となります)。そういう意見は言ってもいいのですが、あまり生産的ではないと思うのです。
 残る「A」と「C」は、ぼくは少なくと積極的に肯定はしたくないです。
 「A」がよいこととされると、読者はその歌人の私生活について予備知識がないとその歌人の歌が読めないということになり、「B」よりもはるかに短歌の独立性が阻害されます。「B」であれば載っている短歌を順に読めばいいだけなのですが、「A」であれば、まずその歌人の人生を勉強してからでないと歌は読めないということになります。これはヘンだとおもいます。
 また、「C」の場合、その結社などでの「約束ごと」があまり複雑で多岐にわたってくると、歌を読む前に膨大な基礎勉強をしなければならなくなるし、その「約束ごと」が歌を作ることの自由を阻害していきます。では「約束ごと」を少なくしておけばいいのかというと、それならそもそもそんな「場」を作る必要もないということになってきます。
 そういうわけで積極的には肯定したくないものの、これらには、とくに「C」のほうには、否定したくてもできないような深い部分があるようにおもっています。
 少しそれについて書いてみます。

 まずこの歌をみてください。

東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ   柿本人麿

東野炎立所見而返見為者月西渡           柿本人麿

 万葉集のなかの有名な歌ですね。上が一般的な読み下し文、下が万葉仮名による原文です。
 いまはどうしているのか知りませんが、ぼくは学校でこれは自然の風景を描いた短歌だと教わりました。しかしご存知のかたも多いと思いますが、これは自然の風景を描いた短歌なんかではないわけですね。ぼくが万葉集というものに疑問と興味を持ちはじめたのは、このへんからだったようにおもいます。
 なぜこれが風景を描いた歌だといわれ、しかし違うと言えるかというと、「場」でいうところの「B」と「C」の食い違いが理由です。
 つまりこういうことです。万葉集は歴史上一時期は忘れられかけていたのですが、江戸時代に国学者によって再発見され、明治時代に入って本格的に復興したんだそうです。しかし当時の人々の万葉集の読み方とは、自分たちが求めているものを強引に万葉集から読みとろうとするような、いわば意図的な誤読だったようです。つまり、自分たちの「場」を強引に万葉集にあてはめ、その「場」から見た万葉集のみを評価したわけです。ここでいう「場」とは「C」の「場」です。
 なぜそのような意図的な誤読をしたのかといえば、もちろん当時の人々にはそれなりの理由はあったようです。しかし一度、意図的に誤読された万葉集は、そのまま誤読されつづけ、次第にその誤読が意図的なものであったことが忘れられて、たんなる誤読だけが後に残ってしまった。そのためにこの歌を自然の風景を読んだ歌だと学校で教えるという事態にまで至ったのでしょう。
 ではなぜこの歌が自然の風景を読んだものではないと言えるのかというと、今度は「B」の「場」がその理由になります。つまり、ご存知のかたは多いでしょうが、この短歌は独立したものではなく、万葉集のなかに長歌一編と短歌四首がセットになって、内容的につながりのある連作として載っているもののなかの一首なのです。当然これはこの連作をセットで読むべきものであり、一首だけ独立させて読むこと自体に問題があるわけです。そしてこの連作を並べて読むと、この短歌の意図がけっして自然の風景を詠んだものではないことがわかるわけです。
 では、なぜこの一首のみが切り出されて、有名な短歌となったのでしょうか。それはこれを評価した人々が、自然の風景を詠んだ歌を評価したかったから、という理由のようです。そして、そういう目で万葉集を読んでみたら、たまたまこの歌が自然の風景を詠んだようにもみえることを発見し、そのため自然の風景を詠んだようにみえるこの一首だけを連作のなかから切り離して、自然を詠んだ歌として評価したわけです。
 いい加減で自分勝手なことをやるもんだとは思いますが、そもそも万葉集の扱われかたなんてそんないい加減な部分が多かったんじゃないでしょうか。例えばこの歌を上の読み下し文と下の原文と読み比べてみてください。かなりいい加減な読み下し文だとおもえないでしょうか。
 例えば「月西渡」を「月傾きぬ」とするのはあまりに意訳すぎます。「西渡」の「西」は冒頭の「東野」の「東」に対応しているのはあきらかだし、そもそも「月が西に渡った」とは単に「月が傾いた」という意味なのか、おおいに疑問があります。「炎」を「かぎろひ」と読ませて「夜明けの光」と意味としていますが、ほんとうにそうなのか、これもおおいに疑問があります。「立所見」の「所」も読み下しでは消えてしまっています。「所」を入れると57577で収まらないからでしょうが、そうだとすればそれはこの読み方自体が間違っていることの証明のはずであり、間違った読み下しの都合上原文の文字を消すというのは主逆転倒しています。
 これだけ有名な歌でもこれだけ問題点が多いのですから、他の歌でも読み下しの精度は推して知るべしでしょう。たぶん万葉集の時代的に初期に書かれたあたりは、万葉仮名の原文で読むべきなんだとおもいます。

 話を「場」の話に戻しますが、なぜこのような誤読が横行してしまうのかというと、万葉集の歌が書かれたときにあったはずの「場」が消滅してしまったからでしょう。そのために江戸時代の国学者、明治の人々は自分たちの「場」で読んだわけです。それは意図でもありましたが、もともとの「場」が消滅しているわけですから、しかたがなかったという面も少しはあるのです。
 しかし本来なら、万葉集を理解しようとするなら、その消滅した「場」はどういうものだったのかを万葉集の歌のなかからふたたび掘り起こしていく作業をしなければならないはずです。そうしなければ作者の意図どおりに読むことはできません。

 ここまで書いてきて、ここでいっている「場」が、そもそも岡井隆の『現代短歌入門』でいわれている「場」と同じなのか、違う意味で使ってしまっているのかわからなくなってきました。
 しかし、短歌に限らずあらゆる芸術作品は、その時代の思考、「場」のようなものに支えられています。それは批判しても批判しきれるものではありません。批判する思考もまたその時代の「場」に支えられているわけだし、そもそもそういった時代の思考、「場」の影響を全く受けてない思考というのはありえないからです。


 ところで、ここで書いておきたいところがあります。
 ぼくの知人でぼくよりもずっと詩や短歌などに詳しい人がいるのですが、その人が以前こんなことを言っていました。それは、万葉集を読んでいると、長歌より短歌のほうがおもしろい……ということです。
 ぼくはこの言葉に共感と疑問を感じました。
 というのは、ぼくも最初にぱらぱらっと万葉集を読んでみたとき、長歌より短歌のほうがおもしろいと感じたからです。しかし、それはおかしいと思うわけです。
 なぜなら、長歌を書いているのも短歌を書いているのも同じ作者の場合が多いわけで、そうだとすると同じ作者の書いたものが、それも、万葉集に収録されるほどの傑作だと編者に判断された作品が、長歌と短歌で質にそう差があるわけがないんです。同等であって当たり前で、むしろ長歌のほうが、長さに縛られずに自由に表現できるぶんだけ傑作・力作が多いほうが自然な気さえします。
 ではなぜ長歌より短歌のほうがおもしろく感じたのでしょうか。
 それはたぶん、こういうことだと思います。
 短歌の場合、もともと短いものなので、書きたい内容のごく少数の要素しか書けません。いわば核となるような部分だけを書くわけです。
 そうなると、それ以外の部分は読者が想像でおぎなって理解する読み方がふつうになってきます。つまり「行間を読む」わけです。
 しかし長さに縛りがない長歌であれば、読者にそんなに「行間を読」んでもらわなくても、書きたい内容を書きたいだけ書けます。
 つまり長歌より短歌のほうがおもしろいと感じている読者は、読者が自分の想像力で「行間を読」んだ作品はおもしろいが、作者がぜんぶ書いたものはおもしろくないと感じているわけです。
 これはどういうことかといいますと、読者が読んだ「行間」と作者が書いた内容のあいだに著しい差があり、その読者の「行間の読み」かたはかなりの誤読であり、その読者は短歌は誤読できるので、誤読できるぶんだけおもしろいと感じているということになります。つまり読者がおもしろいと感じているのは万葉集に載った作品ではなく、自分の「誤読」そのものなのです。
 そういう読み方がいけないのかと問われれば、たぶんそういう読み方も一つの読み方であるということにはなるでしょう。
 しかし、万葉集を理解するという点でいえば、それは理解にはほど遠い読み方です。つまり、万葉集の作品が作者の思ったとおりにきちんと読めているなら、長歌も短歌もおなじくらい良いものとして読めるはずなのです。

 ということを考えて、ぼく個人としては自分勝手に行間を読むのではなく、当時の人々は何を考えてこのような歌を作ったのかという視点で万葉集を見直してみました。探してみると、そういう視点で書かれた本も出ていました(いちばんいいのは白川静の『初期万葉論』(中公文庫BIBLIO)だと思いますが)。
 そうして読んでみると、はやりこの時代の人々というのは、ぼくらと違う現実のなかに生きていたということを実感せざるを得ませんでした。彼らは彼らの世界観のなかで、彼らの感覚の内で歌っていたわけで、それを現代人が自分の感覚で読んでしまうと誤読にしかならないでしょう。現代人が読むには、知識と想像力を総動員して当時の人々はどういう世界のなかで生きていて、どういう気持ちでこう歌ったのかをかんがえなから読まなければ、とうてい理解には達せません。
 というわけで、万葉集に載っているような歌というのは、ぼくらとは別の文化の産物であり、現代の短歌作者がそこに使われた言葉や表現をなんとなく良さげにみえるからと自分も使用してみて、万葉集っぽい歌を作れたと自己満足することは、ほぼ最悪の誤読だとおもいます。
 そういう態度は古典に親しむ態度とはほど遠いものでしょう。
 さてしかし、そのようなことを推奨する意見もあるようです。つまり、良い短歌を作りたいなら文語で書かれた本を読み、それも内容など理解しようとせずに速読して、なんとなく良さそうに見える言葉だけをもってきて語彙を広げ、それで短歌を作るのが上達への近道……とする意見です。
 そしてこれがまさしく岡井隆の『現代短歌入門』に書かれている意見なのです。


 
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 前に塚本邦雄について書いたときに一種のマニエリスムの要素があるのではないかと書きましたが、結論をいってしまうと、ぼくは岡井隆もマニエリスムの人だと思います。それは第三章の「語彙と模倣」にあらわれています。
 上記したように、ここで岡井隆は短歌を上手くつくる方法として、本などを読んで語彙(ボギャブラリ)を広げることだといい、文語訳の聖書や辞書など座右におき、内容にこだわらずに速読して語彙を蒐集することを勧めています。
 はたしてそんなやりかたで良い作品がつくれるようになるのでしょうか。

「いや、そんなわけがない。作者は自分の言葉で、自分が言いたいことを的確に表現するのに必要充分なだけの語彙があればよく、不必要な語彙を広げて難しい言葉を豊富に使用して短歌の字面を飾りたててみたところで、しょせんそれはうわべだけ上等であるかのように見えるだけで、本質的にはまったく上達したわけではない。
 もし良い作品を作りたいなら、自分の感性や思想を磨くことによって成長し、自分の言葉を使って良い作品が作れることを目指すべきだ。例えば聖書を読みたいのならば、重々しくみえる語彙を盗むために文語訳を速読するといったいい加減な態度で読むのではなく、理解しやすい口語訳などを読んで内容をきちんと把握し、考え、身につけたうえで、得たものを自分の言葉によって表現することが重要である。
 必要以上に語彙を増やして字面を飾りたてる技術をおぼえることは、きちんとした表現者になるうえでかえってマイナスである」

 という批判が、まず考えられます。これはマニエリスムに対するところの古典主義的な考え方というものでしょう。
 そもそも、本を読むのに内容なんてどうでもいいから語彙を探すために速読しろと勧めるような人は、底の浅い薄っぺらな人間であるという印象を抱くかたも多いではないかと思います。つまり文語訳聖書から語彙を盗んでいかにも重々しく深みのありそうな短歌を書いていても、それは外見だけ難しそうにみえるだけで実は中身なんか無いということを告白しているわけですから。
 しかし、ある種のマニエリスムというのは底なんか浅くていいし、中身なんかなくてもいい。外見にこそこだわるべきだとする美学なのです。つまり、短歌も内容の深みなんかよりも字面を飾りたてることが重要だとするわけです。文語訳の聖書の内容にこだわらない速読などを勧める岡井隆の短歌に対する考え方もこのような考えに依っているのでしょう。
 この本は岡井がアララギ派が写実という約束ごとにがんじがらめになってマンネリに陥っていると批判している本でしょう。しかし実はそのアララギ派のほうも、一種のマニエリスムなのです。例えば文語を使うことによって理解しずらくてもいいから古典調の雰囲気を出すことを優先しています。
 ところでこの「マンネリ」という言葉の語源はマニエリスムにあります。内容もなく新奇な語彙など表面的な装飾性にのみこだわっていると、内容的な発展性のない同工異曲に陥りやすいのでしょう。そういったワンパターン化したマニエリスムを批判する立場から「マンネリ」という否定的な言葉が生まれてきたのでしょう。
 さて、そのマンネリ化したアララギ派のマニエリスムを批判するのに、前衛短歌のムーブメントは、しかしさらなるマニエリスム的手法をもってきたようです。文語を批判するのに、現代語や口語ではなく、超文語を使用したわけです。なぜそうなったのか。ひょっとすると塚本邦雄ひとりの個性に引きずられたものなのかもしれませんが、よくはわかりません。

 さて、このへんでぼくの意見を書かせてもらえば、本書の「本を内容なんてどうでもいいから語彙を拾うために速読しろ」といった文章にぶつかったときは、正直いってかなり脱力しました。結局それだけかい……という気分です。
 というのも、ぼくは前にこのブログに書いた「曖昧な短歌」での疑問、つまり「短歌というのは内容をきちんと表現しなくていい。曖昧でよくわからないように、しかし意味ありげに書いておけば、読者が勝手に深読みしてくれて、奥行きのある良い作品だと思い込んでくれる……」程度の姿勢が、短歌の世界ではけっこう幅をきかせてるんじゃないかという疑念をもちつつこの本を読んだからです。
 もちろん、そんな疑念を粉砕してくれる意見、短歌っていうのはそういった見せかけだけの薄っぺらなものではなく、中身があるものなんだということを期待していたのですが、そこで出会ったのは、短歌の上達のためには内容なんてどうでもいいから本を速読して語彙を拾え、そういった語彙を並べておけばいかにも立派な短歌に見えるだろう……というような内容だったからです。
 短歌なんて所詮うわべだけの見せかけのもの、いかにも難解そうで奥深そうに見えたとしても、そう見せかけてあるだけで内容なんてない薄っぺらなものなんでしょうかね。もちろん、違うと否定してほしいのですけど。
 ぼくは上にあるような古典主義的な考え方というのは、なんだかまじめくさった感じがして好きではなかったんですが、やっぱりそういう考え方は力を持っている必要があるだな……と実感してきました。
 それはつまり、こういう意見です。

『短歌作者は自分の言葉で、自分が言いたいことを、読者に伝わるように的確に表現すべきであるとし、そのため読者に伝わりにくい文語を使用する短歌を、アララギ派以来の写実の流れも前衛短歌の流れもともに全否定する。
 そして、表現や言葉を盗み語彙を広げるために古典(万葉集など)や文語版聖書を読むような姿勢を最悪の勉強態度だと否定し、学ぶ気があるのであれば、古典であれ聖書であれ、語彙を盗むのではなくその思想や内容をしっかりと学び、そこから得たものを(借り物の言葉ではなく)自分の言葉で表現するように勧める。
 そして前に「曖昧な短歌」で書いたよううな「短歌は曖昧で意味ありげに書いておけば、読者が勝手に深読みしてくれる……」的な態度も否定し、自分の表現したい内容を明確にわかりやすく表現するべきだとする。
 それら、拾ってきた言葉で飾ったり内容を曖昧に難解にすることで作品を上等であるかのように見せかけていく技術を全否定し、そんな小細工をして作者が自分をより大きく深い人間に見せかけようとすることは無駄だとする。
 つまり、作者は自分自身の大きさ・深さを超えるような作品なんて作れるわけないのだから、より優れた作品を作りたければ、そういった見せかけの技術を学ぶのではなく、作者が自分の感性や思想を磨き、自分自身が人間的に成長していくことによって、等身大の自分の言葉をつかっても良い作品を表現できるような人間(作者)なっていくことを心がけるべきだとする』

 このような考え方だけが正しいとうと異論のあるかたもいらっしゃるでしょう。が、少なくともこのような考え方が一方で力をもっていないというのはおかしいと思うのですが、どうでしょう。


 
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 もう終わりにしようかと思っていたのですが、やはりもう少しだけ書くことにします。第十一章の「私文学としての短歌」の部分についてです。
 もともとぼくがこの本を読もうと思ったきっかけは、最初にも書きましたが、去年の秋ごろ短歌についての本を読もうと思いたったときに、たまたま図書館に同じ著者の『短歌の世界』(1995年刊) という本があったのでぱらぱらと読んでみたところ、何を前提にしてものを言っているのかわからずチンプンカンプンで理解不能な部分があまりに多かったことにあります。
 その『短歌の世界』のなかで特に違和感を感じたのは「事実と絵空事」という章でした。この章では塚本邦雄と浜田到の「一見絵空事のようにみえる」短歌をとりあげ、しかし、そこに歌われている「母」が「塚本が少年の頃亡くなった彼の母ではないか」とか、浜田の場合も「浜田の少年期に亡くなった実母である」という極めて私小説的な解釈へ流れ、「浜田や塚本の場合ですら、個別的な母が普遍的母性のうちにひそんでいた」といい、「これは、短歌が、私小説的な意味において、いわゆる〈私性(わたくしせい)〉のつよい文学だから、そうなるという点も、むろん、あずかって力を貸していようが、そもそも、人の書きものには、そういう性質が、本来、存在するものだともいえるのである」と結論づけてしまいます。(それにしても、もってまわった文章ですね)
 つまり岡井は、塚本邦雄や浜田到の書いた短歌を「絵空事」だといい、しかしその「絵空事」にも奥には私小説的な事実はあるのだといって、私小説の価値観の側から塚本邦雄や浜田到を評価しようとします。
 ぼくにはこのような文章はチンプンカンプンでした。
 一つにはなぜそうなのかという根拠を示さないまま強引に自説を強弁してしまう、客観性の欠如です。
 その例はいろいろありますが、一番重要なとことはここです。
 「短歌が、私小説的な意味において、いわゆる〈私性(わたくしせい)〉のつよい文学だから……」などと著者は書くのですが、なぜ、そうだというのでしょうか。
 ぼくは短歌の〈私性(わたくしせい)〉というものについては正確な定義は知りませんが、「私小説」については通り一遍の知識ぐらいは得ているつもりです。
 「私小説」とは明治期末期に、日本が西洋の小説を学び取り入れていく過程で生まれた、日本独特の小説の形式であり、おもに大正時代に流行したものです。よって明治以前には「私小説」はまったく存在しておりません。万葉集の時代からあった短歌という形式について「私小説的な意味において、いわゆる〈私性(わたくしせい)〉のつよい文学」などと定義する驚嘆すべき説を、なぜ根拠も説明しないまま、当然のことのように述べられるんでしょうか。ぼくにはまったく理解ができませんでした。
 しかも、「私小説」が支配的だったのは大正時代のことで、1960年ごろになると中村光夫や江藤淳らによって徹底的に批判され、いわば時代遅れの方法になっていったようです。1995年の時点でなんで「私小説」に絶対的価値を見出し、塚本邦雄や浜田到の書いた「絵空事」っぽい短歌にも私小説的な事実はあるのだといって、私小説の側から塚本邦雄や浜田到を評価しようとするのでしょうか。まったく理解できませんでした。
 むしろとっくに時代遅れになっている「私小説」を超える可能性をそこに見出せないもんなんでしょうか。

 しかし、今回おもしろかったのは、その『短歌の世界』より三十五年前に書かれたこの『現代短歌入門』の「私文学としての短歌」の章では著者は私小説的な方法論を批判しているようなのです。
 「ようなのです」という曖昧ないいかたをしてしまいましたが、実はここのところも岡井隆が何を言いたいのか、ぼくにはよくわからないのです。どうも岡井隆は「写実」と「私小説」的という言葉を混同して使っているようです。いったい岡井隆は「写実」という言葉の意味を知って使っているのでしょうか?
 写実主義(リアリズム)の小説と私小説の違いがわからない人なんて、そんなにいるもんなんでしょうか。いるとすれば問題ですね。
 ぼくはそのへんには詳しいわけではないのですが、こうなると一応説明しておかなければ、という気になってきました。ということで、いちおうぼくの知っている程度のことを書いておきます。(たいがいの人にとって釈迦に説法というレベルのような気もするんですが)

 「私小説」とは田山花袋の『蒲団』(1907年) を嚆矢とする世界でも日本にしかないタイプの小説のことです。それは、田山花袋が西洋小説を読んで、作者でなく主人公に過度に共感し、自分(花袋)が主人公になって小説を書こうと思い立ったところに始まったという話です。
 つまり「作者=小説の語り手(視点)=主人公」となり、作家が自分の身のまわりにおこったこと(事実)をそのまま書いていくという手法が、私小説の手法です。
 西洋小説においては、主人公の一人称で書かれた小説の場合でも、その主人公は作者とイコールであることはないし、その小説に書かれている内容が作者の実生活とイコールであることはないわけです。
 例えばプルーストの『失われた時をもとめて』のような小説の場合、たしかに作者をモデルとした主人公の一人称で書かれ、作者の実生活そのものが小説の素材にはなっていますが、それでも作者は主人公とイコールではないし、作品世界は作者が自分の生活をモデルにして創作したフィクションであることが意識されています。
 私小説の全盛期は大正時代であり、この頃の日本の小説家は私小説に過度の自信をもっていたそうです。つまり、フロベールの『ボヴァリー夫人』とかドストエフスキーの『罪と罰』とかいった小説は、しょせん絵空事(フィクション)であり、通俗小説に過ぎない。事実を描いた「私小説」こそが真実の文学……だと思っていたそうです。その過度の自信の背景には日露戦争で白人相手の戦争に勝利したことによる民族高揚みたいな雰囲気があったようです。
 べつに日露戦争に勝ったからって、田山花袋がドストエフスキーより優れていることにはならないのですが……。
 それが昭和に入ると私小説に対する否定論も出てきたそうです。つまり「作家の身辺雑記みたいな事実しか書けない私小説は、つまりは作者にストーリーや作品世界の創造力、構成力が無いからだ」とか「作者の視点とは本来、主人公の行動や物語に対して客観的な視点として存在しているべきであり、作家=主人公である私小説では、作家の主観しか書けていない」とか、つまり「私小説」は日本が西洋文化を学びとっていく過程で、西洋小説を真似しようとして真似しそこなった、失敗から生まれたデキソコナイであると全否定する説です。
 対して蓮実重彦のの『「私小説」を読む』(1979) などは私小説擁護の姿勢で書かれたものでしょうが、これは(いい加減に要約すれば)事実を書いたといわれる私小説であっても、その人間がとらえる事実というもの自体に虚構性があるので、私小説もまたフィクション(小説)であるとし、全否定するのではなく私小説以外の近代小説と同じように扱い、評価に値する作品は評価すべき……というタイプの擁護です。
 どの説をとるにしても、現在においては「私小説は事実を描いているので、私小説だけがほんとうの文学」なんておもっている人はまずいないでしょう。

 さて「写実(リアリズム)」とはこんな「私小説」とはまったく違うものです。
 例えばスタンダールとかバルザックはリアリズムの小説を書いたでしょうが、自分の身辺の事実を小説化する「私小説」なんかを書いたわけではありません。
 「写実」とはロマン主義に対して、現実的なドラマを描いていく手法であり、例えばバルザックの小説では、当時のフランスのどんな地域に暮らしていた人々がどんな生活をおくっていたのか、きわめて客観的に調査され綿密に描写されています。たとえば主人公が地方で暮らす農民だとすれば、このクラスの農民の家のテーブルの上にはどんな物が乗っているのか、戸棚のなかには何が入っているかまで描写されていきます。
 こういう事実を念入りに調べて正確に描き込んでいく手法が「写実」です。が、そうやって描かれているのは作家の身辺におきた事実ではありません。
 例えば「写実的な絵」というのは、画家のプライベートな事実を描いた絵のことではありません。どんな題材だって、写実的に描けば「写実的な絵」と呼ばれます。
 このへんのところって、わからない人ってほんとうにいるのでしょうか。

 岡井隆は「ウソがない」のが「写実」であると書いていますが、どんなウソなのでしょうか。
 作者には兄がいないのにいると書いたら「私小説」ではNGでしょうが「写実」ならOKです。
 「私小説」であれば、語り手はイコール作者でなければならず、作者が事実を書くことが方法論です。しかし「写実」においては語り手イコール作者ということはありません。一人称で兄がいると書いたら、それはフィクションの登場人物である語り手には兄がいるという設定であると判断されるだけでしょう。

 さて、けれども混同しているのは岡井隆ではなく、岡井隆以前から「写実」と「私小説」が混同している状況があったのかもしれません。そのため岡井はそういう言葉を使ったのかもしれません。
 しかし、ぼくはその場合でも言葉は正確な意味で使っていかないといけないと思います。そうしないと何を言っているのかわからなくなるからです。事実、ぼくは岡井隆が何を言いたいのか、かなりの部分、わかりません。
 つまり、岡井がいうように「アララギ派」は「写実」を標榜し、しかし実際は「私小説」的な価値観で短歌を押し進めていたのかもしれません。しかし、その「アララギ派」を批判するのに、「写実」を批判してはいけません。きちんと「アララギ派」の「写実」とは実際は「私小説」であるといい、「私小説」を批判しなければなりません。
 そうしないと、誤解を生むからです。
 それは、「アララギ派」は正岡子規の流れを汲んでいるからです。そして子規が標榜したのも「写実」です。そうすると、「アララギ派」を批判するのに「写実」を批判すると、子規まで含めて、その方法論を批判している印象になります。そういう意図でやっているならそれでいいです。が、重要なのは少なくとも子規は「写実」を標榜しても「私小説」的な価値観はもっていなかったということです。なぜなら前に書いたとおり「私小説」が始まるのは1907年ですが、正岡子規は1902年に亡くなっているからです。
 ぼくは短歌には詳しくないので「アララギ派」がいつ「私小説」的になったのか、誰が「私小説」的にしたのかわかりません。しかし、「アララギ派」の「私小説」的な価値観を批判したいなら、それを調べて、そこを批判しなくてはなりません。
 つまり「アララギ派」を批判するのに「写実」を批判すると、いったい何を批判しているのかわからなくなります。

 そして、あまりよくわからないながらも、この『現代短歌入門』では「私小説」的な価値観を批判しているように見えます。けれど、それから三十五年たった『短歌の世界』ではなぜまた「私小説」的な価値観にもどってしまうのでしょう。
 この『現代短歌入門』の「学術文庫版まえがき」ではその『短歌の世界』のついてふれ、「『現代短歌入門』のころ考えていた短歌観が、そのまま三十五年経て生きつづけているのを感じました」と書いています。そのままどころか、少なくともこの私小説的な方法にたいする考えかたのあたりは、おおいに変化しているようにみえるのですが、自分では感じてないようです。


2006.3.26-4.1

★注
 この後、ここで岡井が使っている「写実」という言葉は、リアリズムの訳語の意味ではなく、子規が提唱した「写生」などを方法論とする考え方のことだと知りました。こっちの意味でいう「写実」というのは、短歌をはじめるまで聞いたことがなかったです。
 こういう短歌独特の言葉なら、最初にそれを説明してほしいですね。入門書なら。
(2006.8.21)



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