特別阿房列車重箱帖
百間先生、申し訳ない。「門構えに月」の字はプラットホーム (駅の歩廊のことではありません _o_) に依存せずに表示させる方法が見つからなかったので、「門構えに日」で代用させていただきました。これだって、止むを得ないものは即ち、止むを得ない、のです。所謂、「新仮名遣い」で、漢字平仮名交じりなのも御目こぼし願い度。
尚、特に断らなければ、年号は西暦。
「特別阿房列車」が雑誌小説新潮に掲載されたのは 51年 1月号
旅客列車編成
←特急3列車 大阪行. 特急4列車 東京行 (はと)
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|ハニ| ハ | ハ | ロ | ロ | シ | ロ | ロ | ロ |イテ|
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牽引定数は 500t だったようだ。54年5月1日 (かなり後の時代、ですな) から550t に向上され、多客時 3等車 2両増結。
鉄道対粁普通旅客運賃表
東京 - 大阪 553.7km
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| | 程粁 粁|運賃 円|
+====+===========+=======+
| 3等| 542 - 574 | 620 |
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| 2等| 550 - 566 | 1,240 |
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| 1等| 1等は2等の| 2,480 |
| | 2倍 | |
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急行料金表
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| 種 別 | 地帯別| | 3等 | 2等 | 1等 |
| | | 円 | 円 | 円 |
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|特別急行|600粁まで| 400 | 800 |1,200|
+--------+---------+-----+-----+-----+
|普通急行|300粁まで| 120 | 240 | 360|
| |600粁まで| 200 | 400 | 600|
+--------+---------+-----+-----+-----+
寝台料金表
+----------+-----------+-----------+
| ¥ 等級| 2 等 | 1 等 |
+----¥-----+-----+-----+-----+-----+
|種別 ¥ | 上段| 下段| 上段| 下段|
+==========+=====+=====+=====+=====+
|列車寝台 | 800|1,000|1,500|2,000|
+----------+-----+-----+-----+-----+
| 〃 特別室|1,200|1,500|2,250|3,000|
+----------+-----+-----+-----+-----+
入場料金表
+----------+-----+------+
| 種 別 | 料金| 記事 |
+----------+-----+------+
|普通入場券| 5円| 一回 |
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運転日
「忘月忘日の日曜日」に特別阿房列車は運転されたようである。他の記述と併せて考えて、どうも日曜日であることは確かなようだ。「多分今日あたりの見当だろうと思って、お見送りにまいりました」と椰子氏が見送りに来ている。
50年10月の日曜日は、1, 8, 15, 22, 29 日であるが、特別阿房列車の起稿日は 50年10月26日 (福武書店版文庫本解説) とのことなので、時間が前後にすべっては具合が悪いから、運転日は、1, 8, 15, 22 日に限られる。
と書いていたら、平山三郎氏の著書に、22日と記されていた。
(捕捉)「時間が前後にすべっては」と折角書いたのに、「区間阿房列車」は出発前に原稿用紙 20枚分も書かれていたようだ。百間先生の世界では時間は自由自在らしい。
時刻
↓1230 (発) 東 京 (着) 2030↑
1256 (〃) 横 浜 (発) 2002
1359 (〃) 熱 海 (〃) 1854
1501 (〃) 静 岡 (〃) 1752
1602 (着) 浜 松 (〃) 1651
1607 (発) (着) 1646
1732 (〃) 名古屋 (発) 1522
1853 (〃) 米 原 (〃) 1407
1952 (〃) 京 都 (〃) 1306
2030 (着) 大 阪 (〃) 1230
写真フィルムの値段と1等車の洋装の美人
富士のネオクローム 定価。
富士寫眞フィルム株式會社が時刻表 (日本交通公社) 昭和25年10月号 p.8 に出した広告から。当時既に「銭」は日常のお買いものの取引単位には使われていなかっただろうに、「.00」の表記がされています。この次のページには「つばめ」の展望車デッキの柱につかまって身を乗り出した黒い服を着た女性の写真がある。「下卑た薄笑いをしている」かどうかは本人に訊いてみた方がよいかもしれない。また、次の次のページには「はと」の展望車デッキで白い服を着た女性が男の子を抱き上げており、その横には女の子がデッキにもたれ掛かっている写真がある。
なにもこのフィルムでないといけないことはないが、椰子氏はお見送り前にフィルムを方々で捜しても見つからなかったらしい。生産流通体制も今とは違うだろうし、カメラ人口も少なかっただろうし、軍事施設の撮影を嫌って、フィルムの供給が絞られていた、との説もある。
食堂車のメニュー
メニューと価格が分かると面白いのだが、その情報ははっきりしない。
49年6月にはアルコール類がメニューになさそうである。特別阿房列車では、食堂車でお酒を飲んでいるし、あとで座席に麦酒を取り寄せているのだが。
百間先生は食堂車に出かけて直ぐに席がなかったようだが、49年の 11, 12 列車「へいわ」の食堂車の定員は 30席だったらしい。50年10月現在の食堂車保有両数が全車食堂車のものが7両、全車を連結している列車で時刻表に載っているのは、「つばめ」「はと」だけなので、たぶん、同じ車両であろう。当時は駐留軍専用列車も存在したのだから。
メニューがそんなに豊富なわけではなく、米飯を食べるには外食券が必要であったと思われる。食堂車で対価を払って米飯が食べられるようになったのは 51年3月頃かららしい。「区間阿房列車」(51年 2月) には外食券で横浜の駅弁を買う話が出てくる。
<参考資料>
列車食堂営業史, かわぐちつとむ, 鉄道ジャーナル, Vol. 30, No. 3, p. 145, 1996
百間先生の錬金術
百間先生はどのくらいの額を錬金術で得ただろうか?
作品中の記述と上記鉄道運賃, 料金から ¥15,000- と考えたのだが、どうだろうか。
百間先生一行は東京 - 大阪間で運賃+料金で ¥11,440- かかっている (東京駅八重洲口→丸の内口の駅長室の入場券代を含まない)。市ヶ谷→東京も普通に乗車券を買ったに違いない (3等 5円)。この他に、宿泊代 (女中の心付けはやったようだが、帳場への茶代は つけに奉仕料とあって、「茶代を置く程のもてなしも受けなかった様である」(東北本線阿房列車) から、払わなかったらしい。酒代は相当なものになりそうだが), 東京駅の精養軒食堂でのウイスキイ (杯を追加している), トウスト, 往路の 1等車のボイへのチップ, 食堂車での食事, 往路の車中での麦酒, 復路の浜松でのバナナ等の支出が少なくとも予測される。
「この旅行の為に施した錬金術のお金は、勿論そっくり持って来たのだが、みんな無くなって足りなくて、山系が用心の為に持っていたお金を随分遣い込んだ。」ので、¥10,000- 以上と思われる。
往路百間先生「はと」の1等、山系先生3等の特急料金だけ、復路は2人が1等寝台特別室の上下、という組み合わせでも¥15,490- (普通の 1等寝台上下なら =13,740-)。「お金が十分なら帰って来ます。足りなさそうなら一晩ぐらい泊まってもいいです。」とも書かれているので、¥15,000- は妥当な線。
百間先生往路「はと」1等, 復路 3等, 山系先生往復とも 3等の特急料金だけなら
¥5,500- というような経費から考えて。
平山三郎氏の著書に書かれていること
- 「特別阿房列車」の出立は 10月22日 (日)
- 百間先生の旅行の話ははじめはあいまいだが、決まったとなると慌ただしい
- で、平山氏がいつも出張旅行で持ち歩く皮の鞄の取手の部分がほぐれて修理に出してあったのが間に合わなくなった。
- で、やはり取手の部分が少々傷んでいるズックのボストンバッグを持っていった
- 平山氏はそのボストンバッグに石鹸とタオルを入れて出かけた
- 百間先生は旅行中のあらゆる雑品を用意して旅立たれたが、この時も、「もし停電したら不用心だから」の理由で自転車の先にくっつける電灯をバッグの奥に押し込んで出発。
- 百間先生宅での集合時刻は 10:00
- 百間先生が平山氏にお酒に関する訓辞を垂れたのは家で、ということになっている (「特別阿房列車」「区間阿房列車」のいずれでも中央線の電車の中で、と解される)
- 自動車は頼めばあったが、わざわざ市ヶ谷駅から国電に乗って東京まで出かけた
- 百間先生は国電の中で既に「はと」の特急券が帰るかどうかしきりに気にしていた (「特別阿房列車」の記述に従えば、東京駅で国電を降りて、「歩廊に降り立った途端」と読める)
- 当時の東京駅長は加藤源蔵氏。面識はあったようだ。
- 「椰子君」…小説新潮編輯部の小林博氏。よく今日あたりの見当がついたものだ、と平山氏は書いている。
- 百間先生の写真嫌いは有名。小林氏はそれをからかったのかもしれぬ、が平山氏の意見。
- 平山 三郎 氏(ひらやま・さぶろう=作家) は Mar. , 24, '00, 午前6時7分、心不全のため東京都三鷹市の杏林大病院で亡くなりました。82歳。
- まだあるようだが、以下詳細調査中
大阪は江戸堀の宿屋の朝御飯の膳には、昨夜寝る前に飲んだお酒の肴に出た物がまた出ていただけでなく、平山氏の膳に乗っていた「がんもどき」が百間先生の方にはなかったらしい。(「御馳走帖」中の「がんもどき」他から)
bluemt@lib.bekkoame.ne.jp
Last Modified : June 18, 2000