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[サイケデリクス]

新世紀初キノコ

(ゆきこ)

 世紀末の昨年(2000年)は、一年を通じて、様々な事が立て続けにおきた。私の周囲には、どうやら一般的よりは、特殊なことが起きる確率が高いらしい。事前に回避できるようなものでもなく、考えたところでどうしようもないので、「平均的なことばかり起こる人なんていないだろうし…」と思うことにしている。
 「今年は、あまり突拍子もないようなことは起こりませんように。」と新世紀早々八幡様にお願いをしに出かけた。それなのに、(だからなのかもしれないが)松が明けた直後、キノコでかなりインパクトのある体験をした。
 昨年の晩秋、素面で過去生が見えてしまった。それ以降、敏感体質に拍車がかかったのか、ハイライト一本でトリップするようにもなってしまった。日常生活の中で十分すぎるくらいの体験をするようになったので、あえてキノコを飲む必要はない.と思っていた。また、昨年キノコでいろいろな体験(★「ふにゃこん通信」参照)をして、今更天地がひっくり返るような強烈な体験をすることもないであろうと思ってもいた。キノコをバカにすると必ずしっぺ返しが来ることは十分すぎるくらいわかっていたはずなのに。懲りない…..本当に懲りない。
 
 この日、私は一つの決断を迫られていた。『家を出るか、それともこのままとどまるのか』元々、独立する構想はあった。しかし、祖母の介護等もあって、延ばしのばしとなっていた。昨年祖母が亡くなり、新年を迎えようやく家族も落ち着きを取り戻し、今がチャンスかという思いがあった。おあつらえ向きの物件も見つかり、数日中に返事をしなければならない状況にあった。
 今にして思えば、どう考えたって結論は一つ『家をでる』でしか、なかったのであるが、様々な思いが頭を駆け巡り、考えがまとまらなかった。
 ぐるぐるした頭でふと、「キノコの精に、ゆだねてみようかな〜」と思った。ちょど、前回のワークショップの時に購入したキノコがあった。二袋0.6グラム(コペランディア・サイアネセンス)。この種類は『効きも速いし、醒めも速い』という話を聞いていたので、少し遅めの時間ではあったが、午後4時に飲んだ。3時間で必ず醒めるという妙な確信があった。 30分ほどで、そこそこの効果があらわれた。昔の記憶やものめずらしい映像が、ちょこちょこっと浮かんでは消えた。目を閉じて、ぼ〜〜っとながめていた。その時「今回はあまり、おもしろくないな」と思ったことを記憶している。その後、目立ったピークもなくダラダラと醒めていった。2時間ほど過ぎ、テレビでもみながら余韻を楽しもうと立ち上がり、電気をつけた。この時点では、完全に醒めていると思っていたのだ。 
 ピークは突然きた。こちらはもうすっかり醒めていると安心しきっているところにである。不意打ちであった。どこかに連れて行かれたという感覚ではない。テレビの音も映像もきちんと認知できていた。最初は、私の周囲には平和な日常生活が営まれているのに、そこから外れてしまっているという戸惑いであった。「手をたたくと痛みを感じる。確かに私の肉体は存在しているのだ。でもこの違和感はなんだろう?」ほんの一瞬考える余地はあった。が、一気に巻き込まれてしまった。
 <ありのままの自分>が目の前にポンとあらわれた。甘ったれで、ええかっこしいで、しょうもないくて、ずるくて…と現実の私の姿があった。もちろん私にそういう面があることは知っていた。しかし、こんな駄目な自分は本当の自分ではない。努力さえすれば、『評価してもらえる自分=本当の自分』になれると常日ごろ幻想を抱いていた。しかし、この場で<ありのままの自分>を拒絶することはできない。認めざるを得ない。知識の上からは、体験の中に入ることがベストであると知ってはいる。ワークショップでシッターをする際も、体験者にはそうアドバイスする。言うは易し、行うは難しだ。無駄とはわかっていても抵抗を続けた。肉体的な苦痛は全くなかった、痛みで気を紛らわすことすら許されなかった。まず、音楽の中に逃げ込もうともした。しかし、どの曲をかけたところで全てが私の存在がよりリアルになるだけで、辛い状況をさらに誇張させるだけであった。気分を落ち着けようとお茶を飲んだとたん、不安感がふくれあがった。「このお茶に毒が入っていないなんて、本当に信じていいの?」自分の思いに心底ぞ〜っとした。また一方、「これおいしいよ〜」と誰かに言われたら、化粧水も飲んでしまいそうな思いもあった。さらにぞ〜っとして、周辺にある液体を慌てて視界から遠ざけた。人を疑う面とお人よしの面―両極端な面がいきなり浮上したようであった。どちらも私自身だ。
 こうした状況下においても、これを自分自身の問題として取り上げたくはなかった。これを夢でかたづけたいと思った。とにかくキノコが効いている状態でないと信じたかった(これが効いている状態であれば、私にとっての真実だから認めざるを得ないこととなる)。この場におよんでも、まだまだシツコイ抵抗は継続していた。
 
 「第三者に判断してもらおう」とキノコを購入したオルタ―ド・デイメンションに電話をした。動揺というのは、隠せば隠すほど相手に伝わるらしい….。結局、キノコを飲んだことは告白した。そして、『キノコが効いている最中であること』『反省モードのかなり強い状態であること』を確認・自覚することができた。不安な中でもひとごごちついた。仮に一晩苦しい体験が継続しても、いざとなったら電話でサポートしてくれる人がいると思えば安心だ。過去の経験から99%電話をすることはないとわかっていても、存在自体がものすごくありがたかった。ここでようやく、じたばたするのは止めて体験の中に身をおく覚悟ができた。 
 すると不思議な静寂が訪れた。私の存在が極めて不透明になっていった。自分自身が本当にこの世に存在しているのか、それともしていないのか? 曖昧な不安定な状態に陥った。ずぼずぼと自ら砂の中に埋まっていく私とそこから這い上がろうとする私が同時に存在していた。
 気がついたら、「大丈夫、大丈夫だから」とドンドンと胸を叩きながら、自らを励ましていた。そんなの気休めでちっとも大丈夫でないことは、自分自身が一番わかっていた。<大丈夫ではない自分>をどうしたら<大丈夫な自分>にできるのか、しばしその問題と格闘した(といっても、体をぐねぐねさせていただけではあるが)。そのあたりから、心理的にはすっかり反省モードとなった。
 私が様々な人に対して発した言葉の数々が再現された。『私のことを理解しようとする誠意が感じられない!』『いい年こいて何甘えてんのよ』他、活字にできない言葉の数々―穴があったら入りたい。身の置き場がなかった(今書いていても相当恥ずかしい)。そうした言葉は、私自身にむけられるべき言葉であったのだ。この体験は、醒めてからもかなりのダメージが残った。最も激しい言葉を浴びせた相手には、後日謝罪した。さすがに、キノコを飲んで反省しましたとは言えなかったが。
 7時半ごろだろうか、ようやく極限状態から脱した。「あなたはあなたなんだから」必死に自分に言い聞かせていた。
 その後、家族と食事を共にし、私自身の立場を理解した。子供時代は既に終わっているということをだ。
 
 今まで私は自分自身で勝手に作り上げた幻想の世界で生きてきた。自分自身のことも含めて現実に目をむけていなかった。「しっかりしないといけないな〜」と強く強く思った。今の今までそういう意識すらなかったことを本当に恥ずかしく感じた。言い訳しないで一歩踏み出さないといけないなと、心底思った。
 今回、キノコの精は、私の心のクモリ―<思い込み><言い訳>等々―を取り払ってくれたようだキノコ体験で、お目にかかることができなくなった天使の存在を日常生活の中でふと感じることがある。以前キノコで感じたような濃厚な至福感ではない。
しかし、日常生活の延長線上でその存在を感じられることはとても素敵だ。
 それと引き換えなのだろうか?キノコを飲むたびに等身大の私自身の姿を見せられ、責められ、消耗しきる。自業自得ではあるが、体験直後は飲んだことを激しく悔やむ。一週間後に飲もうだなんて絶対思えない。一月後もちょっとキツイ。まだ無理だ。半年ほどたって、体験の反省が薄れてくると飲む機会がめぐってくる。そして、浮ついた、いい加減な私に渇を入れてくれる。
 キノコと私のお付き合いは、このように続いていくのだろう……きっと。

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