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2007.11.09
[ひとりごと]

肝の心の大きな人たち

 すごい事件記事を見つけた。中国のこと。7月の段ボール肉まん事件は妙に人の想像力を刺激し、国際的な話題にもなったが、こちらは男女関係のもつれから起きた事件で、しかも極めて珍奇な話しなのであまり知られていない。
 
「9月26日付けの中国の英字紙、上海デーリーによるとキスで男を殺した女性に裁判所は死刑判決を下した。
 河南省新郷市に住むN被告は今年1月、浮気相手の男性が別の女性と親しくなったことに腹を立て、男性にキスをした上で、ネズミを駆除する殺鼠剤入りカプセルを口移しで飲ませたとして起訴された。男性はカプセルをそのまま飲み込んで死亡した。
 数年にわたり交際していた2人は、「もし浮気をしたら。まともな死に方はさせない」と互いに誓いあっていたという。」(韓国の新聞「朝鮮日報」の日本語HPから)
 
媚術と暗器

 男は、意識の消える最後まで女性の殺意に気づかないまま亡くなったのか? この女性は、男に別の女との関係を絶ってほしいとも言わずに、即、殺そうと決めたのか? この手口は、突然、アイデアが浮かんできたのか? ぶっつけ本番ではなかったはずだが、予行演習もしていたのだろうか? 
 中国でも珍しい事件だから報道されているのだろう。でも、あまりに極端で突飛。同じ状況設定に置かれた女性がいたとしても、日本ではこんな行動に出ることはありえないはず。全く想定外の展開で、この事件を小説化やTVドラマ化したとしても荒唐無稽な作り事になってしまう。
 
 中国には古来「媚術」といって一種の性魔術、閨房術があったという。恋は盲目とか恋は曲者といったりもする。現在でいえば、かわいい、綺麗とか、色気とか、そんな女性の魅力で男を骨抜きにする技といったところ。男の性的本能、心理を操るマインド・コントロールともいえる。
 元来、媚という漢字は、古代中国では巫女のことであった。眉は眉飾を示し、目の呪飾をしていた巫女を媚と書いた。媚術は、最初は相手の心を惹きつけ、惑わすまなざしのことだったのではないかと思う。中東には邪視といって相手に害を与える呪いのまなざしがあった。媚術も邪視も目の力、目力のパワーだった。
 媚の薬が媚薬。媚薬はラブ・マジックの道具、もともとは媚術に使われたシンボル、護符、薬草をひっくるめた呪物だった。現代では、呪術的思考が廃れてしまったので、科学的に薬効を説明したりしているが、いかがわしさがつきまとっている。そのいかがわしさは、零落した呪術の、なれの果ての姿だ。
 一方、中国武術の中には「暗器」という身体に隠し持った小型武器がある。小さくて他人には分からない、あるいは日常品に偽装されていて気づかれない武器をそう呼んでいた。
 護身用のほか、権力者に近づき暗殺するために暗器の種類や使い方が洗練されていった。刃物に毒を塗って効果を高めたりもしている。先ほどの中国のキス殺人のような技があるのか、少し探してみたがはっきりしたことは分からなかった。
 日本の忍術には、針を直接口に含んで相手の目を狙って飛ばす「吹き針」技がある。また、時代劇には、お城のお毒味役が出てくる。殿様の食事に毒がもられていないか事前に食べて確かめる役だ。とはいえ、これらは隠したり騙したりするにしても、割とストレートで、先の女性の事件のような訳の分からなさ、不可解さはない。
 
 先の女性の手口は、媚術と暗器を組み合わせている。武術や格闘技、K1もムエタイ、グレイシー柔術も、リングの上という条件付き世界での強さだが、現実の世の中では、この暗器と媚術の組み合わせに勝るものはないのではないか。
 女性被告にとっては、こんな分析などどうでもいいだろうが、普通の頭で考えて出てくる発想には思えない。水と油をひとつにしたような発想。どこからそんな発想が生まれてきたのか。
 
大胆な女囚

 『氷川清話』の中にこんな逸話がある。明治維新のとき幕府の重臣だった勝海舟の回顧録。以前、古本で買った角川文庫で、一度は読んでいたはずだが、ほとんど印象に残っていなかった。でも、いま読むとけっこう面白い。昔は読み飛ばしていた箇所から、隠されていたような新しい意味が伝わってくる。
 海舟は、「ここにおれの感服した人間が三人ある。それはいずれも囚徒(犯罪人)で、維新の際におれが放免してやったやつだ」と話しはじめる。三人とも囚人で、そのうち二人は男の強盗で、三人目は女。どんな人物かというと、
 
 「また、もう一人は、三十歳あまりの女囚だが、おれはその罪状を聞こうと思って、わざわざ人を払って、その女と差し向かいになって訊問した。ところが、その女は、「これまでだれにも話さなかったけど、安房守様(海舟)だけには、お話し申しましょう」と前置きして、さていうには「わたしの顔のきれいなのを慕うてか、多くの浮かれ男が寄りついてまいるので、そのうち、金のありそうなやつには、心を許したふうをみせ、○○のときに○○をひねってこれを殺し、金だけを奪いとってそしらぬ顔をしていた。すると医師が見ても死体に傷がないからなんともいたし方がない。この方法でもって、これまでちょうど五人殺しました」と白状した。
 実に大胆きわまるではないか。
○ すべて、こんなやつは、皆生まれつきなので、適宜に教育でもしたなら、それはえらいものになったのであろうに、惜しいことには卑賤の身分に生まれ、生涯衣食に追われて十分に腕をのばすことができなかったのだ。
 しかし、それがため国家とか政治とかいう小理屈を並べながら、たいそうな悪事をやらなかったのは、世間のためにはかえって幸いだったかもしれないよ。とにかくおれも彼らにはかなわない。」(『氷川清話』/○○は文庫版では伏せ字になっている)
 
 人が死んだからには役人に届けていたはずだ。医者や坊さんが検視をしていたのではないか。とはいえ、こんなケースは腹上死と見なされていたと思われる。
 美人に惚れられたと相手を浮かれさせ、あるいはエクスタシー状態に導いて、その隙を突くという戦術は尋常ではない。被害者の男からすれば最高と最悪がひとつになった境地だったはずで、もっともそれは第三者の目であって、当の本人はエクスタシーのまま逝ってしまったのかもしれない。
 死ぬことを逝くと言うが、性的なエクスタシーをイクと言ったりもする。エクスタシーは、忘我、有頂天、恍惚といった意味だが、いまは専ら快感といった意味で使われている。ekstasis(「外」と「立」の合成語)というギリシア語に由来し、魂が世界を超えてある状態のことだという。
 少し調べてみると、イクは江戸ッ子の粋(いき)から派生した言葉らしい。もともとは、息気(いき)といって、心に溢れる活力、気だてよく、心ばえがあり、気っぷがいいといった意味で使われていたのが、花柳界で粋と呼ぶようになった。いきな人、要はかっこいい、素敵な、惚れた相手と、性的エクスタシーに達したいという憧憬がイキたい。惚れた相手に心を奪われた状態がイカれる、イカれたになり。そして、相手を身も心も自分のところにこさせたい、能動的な所有願望がイカしたいなのだという(『鬼の大事典』沢史生)。
 そうなると、この女囚、「○○のときに○○をひねって」と肝心のところが伏せ字になってまどろっこしいが、相手をイカして魂を肉体から抜き取った隙に、無抵抗の肉体を始末したのではないか。すごい神技だ。江戸時代、たぶん花柳界だと思うが、こんな技があったのだろうか。どうも昔の居合術や合気術とも近いものを感じる。
 
 勝海舟は、この女囚を大胆きわまるでないかと持ち上げている。明治維新で活躍した人物や戦国武将に並んで、唐突に無名の女囚がとりあげられている。よほど強い印象を与えたようだ。
 勝の回顧録を読むと、人物を評価する基準として、肝の大きさ、肝の座った人をあげている。幕末から明治にかけて、歴史的な激動期には、そんなタイプの人間でなければ世の中をまとめられなかったのだろうなと思う。その面から西郷隆盛は特筆すべき人物であったと述べている。女囚も、人間として同じ資質を持っていたと海舟は感服している。
 肝は、肝試しとか肝に銘じてとか、心の宿る臓器だと見なされてきた。近代化の以前、江戸時代には、肝や腹の心、内臓系の心がいまよりもはっきり自覚されていたはずだ。頭で考える思考が大脳新皮質の心なのに対し、内臓系の心は、自律神経系(植物神経系)の心、生命活動を維持する心である。人間の心は、その二つから成り立っている。気功の「気」は、内臓系の心だと思える。日本をはじめ東洋では、長い間、人々は内臓系の心を生活の機軸にしてきた、そんな人生を生きてきたのではないか。
 そして、大胆という言葉は、一見、男っぽい世界でこそ通用するようでありながら、その実、生理のサイクルという体の中の自然とつながって生きている女性に濃く具わっている、女性性の資質なのではないか。
 
林彪の発想

 林彪(りんぴょう)という人がいた。中国の指導者のひとりで、文革の時代、毛沢東の後継者として名を馳せた人物だったが、1971年、国防相のとき失脚して飛行機事故で亡くなっている。この人のあだ名は戦争の天才。
 まだ弱小勢力だったころの八路軍(共産党の軍隊)を率いそれまで無敵といわれた日本軍にはじめて平型関の戦で勝利した。その後、国民党軍との内戦で勝利を決定的にした。朝鮮戦争ではアメリカを主力にした国連軍を追いつめた。この人は戦争にあけくれた人生を送り常に勝ち続けた。
 文革の渦中で発表された「人民戦争の勝利万歳」という林彪の政治論文にはこんな一節がある。
 
「殲滅戦はわれわれの作戦の基本である。敵を深く誘い込んでこそ、人民はさまざまな行動で作戦に参加できる。敵を引き込んでこそ、敵を有頂天にさせ、両足を泥沼に落ち込ませることができる」
 
 要は攻めて勝つのではなく、受け身で勝つと言っている。女性原理の戦争ということだと思う。また、この文章には、何か普通ではない雰囲気がある。有頂天という言葉の持つエクスタシー、絶頂感の魔力、意図的に気がふれるところにまで相手を誘導していく、そんな意思の薄気味悪さだ。
 1960年代、アメリカやソ連(ロシア)と中国の国力の差は大きく開いていて、米ソとも自分たちにたてつく目障りな中国を叩きたいと考えていたが、結局、手出しできなかった。当時の中国からすればアメリカはずっと仮想敵国であったし、ソ連とも対立を深めていたので、戦争の起きる可能性は高まっていた。
 敵が攻めてきたら国土を侵食されないように国境線を守るというのが普通の考え方だ。ところが 林彪は、国土の内に敵を引き込むと言っている。この発想、もともとは毛沢東の抗日ゲリラ戦略を踏襲しているのだが、それをさらに極端にした考え方だ。
 敵からすれば領土の一部を占領できたのだから勝利も近いという気持ち、有頂天になる。敵を有頂天、得意の頂点に持ち上げておいて、やっつけるというこの発想は普通ではない。そして、勝海舟が感服した女囚、先の中国の女性被告と共通した気質がある。
 
 欧米の力の論理は単純明快にパワーを意味している。戦争は国家と国家の力の論理の争いだ。毛沢東や林彪のいた中国は、それとは異質の力の論理を持っていた。食虫植物や蜘蛛の補食パターンに似ている。人口、人間の繁殖力、その核心にあるのは生命エネルギー(エーテル体の力、気の力)を武器にした戦争なのではないか。
 林彪には先の女囚の大胆さ、キス殺人の女と通じる気質が感じられる。林彪がどんな人だったかよく知らない。若いころから病弱な人だったそうで、写真を見ると線が細い人で、どこか歌舞伎の女形のような雰囲気を感じる。
 結局、アメリカもソ連もこういう相手にはどうにも手に負えなかった。仮に相手をやっつけられたとしても、自分たちが払う人的犠牲を考えると手が出せなかった。
 はじめにとりあげた中国の女性被告、勝海舟の感服した女囚、西郷隆盛、林彪といった人たちは、普通人よりも肝の心の大きい、そんな資質を持って生まれてきた人たちのようだ。