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2006.11.17
[ひとりごと]

南千住「回向院」のグラウンド・ゼロ

  (南千住の回向院は、JR・都下鉄日比谷線「南千住駅」を降りて徒歩数分。散歩で歩くときの参考に、オリジナルな見所のポイントをあげてみた)
  
手前から鼠小僧次郎吉、高橋お伝、片岡直次郎(直侍)、腕の喜三郎のお墓 (南千住、回向院)
浅草の北

  南千住に回向院(えこういん)というお寺がある。江戸時代の有名な「犯罪者」や幕末の「政治犯」の墓があることで知られている。昔、ここに浅草はりつけ場と呼ばれた刑場があった。回向院は行路病死者や刑死者を弔うために建てられた寺だ(刑場跡地は、いまは延命寺という寺に分かれている)。
  江戸の町から見ると浅草寺の表玄関が雷門、裏の北側には田圃が広がっていた。田圃の中に悪所と呼ばれた芝居(歌舞伎)小屋や遊郭(吉原)が置かれていた。悪所というのは遊蕩をする場所のことで、いまだと風俗業といったところ。町中から不便な土地に悪所は移されてきたのだが、そんなことはおかまいなしに大変な賑わいだった。歌舞伎や吉原の近くには、皮革生産にたずさわっていた被差別の人々の居住区や重病者や15歳以下の犯罪人を囚禁した非人溜と呼ばれた施設があった。
  その先に浅草はりつけ場があった。さらに先は大川(隅田川)が行く手を塞ぐようにして流れている。最奥に位置しているのが刑場で、そこを過ぎると日本橋を発して最初の宿場町、千住となる。現在は川を渡ると北千住、手前が南千住となっている。
  江戸時代、回向院の辺りは小塚原村と言っていた。小さな塚のある原野だった。原野といっても低地で池や沼がところどころにあり、背丈よりも高いアシが生い茂っていたはずだ。
  近くの神社や寺に伝えられている逸話によればキツネやタヌキも住んでいた。子タヌキが親タヌキの敵討ちをしたとか、白狐が像の周りを三回まわったとか、そんな話しからは里人と親しい関係にあったことが分かる。
  いまは全く想像できないが、辺りは水郷のような土地で、夏には菖蒲や蓮の花、朝顔などが色鮮やかに咲いている情景が目に浮かぶ。幕末にイギリスの植物学者が近くの向島を訪れたときのことを書き残している。そこで描かれている景色はバリ島の田園地帯を想わせる。
 
  そんな麗しい風景の中に刑場の獄門台が置かれていた。往時、亡骸は一応、穴を掘って埋めたが、ごく浅いもので雨水ですぐに亡骸が現れ、それを野犬やイタチが食い散らかし、残月に晒された光景は壮絶な様だったという。美しい田園と人間世界の凄惨さ、この極端なコントラストに圧倒させられる。
  1万分の1の地図で見ると、浅草の北は釣り針のような形で蛇行している隅田川によって閉じられた袋小路になっている。幕府は当時の都市計画に基づいて、この袋小路に悪所やはりつけ場を配置した。当時の為政者にとって秩序を保つ上で、好ましくないがなくすこともできないもの、あるいはタブー視するものを町中から隔離し一箇所に集めた。
  そこには人間世界の生と死がリアルに剥きだしになった世界が垣間見える。
 
  今の世の中、そんな場所や施設を一箇所に集めることは難しくなっている。しかし完全になくなったわけでもない。かといって分散化しているわけでもない。
  強いていえば希薄化しているといった感じになるのではないか。いろいろな社会的クッションがあり、あるいは拡散され、カモフラージュが施されたりして生と死のコントラストが曖昧にされている。そんな世の中で、人間の生は、まるでのっぺらぼうのように平板化している。
 
都市の異界

  回向院に来ると、いつも独特の雰囲気を感じる。何か不可解なリアリティがある。南千住から三ノ輪にかけて、街に昭和の雰囲気が残っている。懐かしいようなホッとするところがあって歩くのが好きだ。でも、これから述べるのはそれとは別のこと。
  ここではのべつ幕なしに電車が通過している。延命寺側にいると、右も左も線路に挟まれており、常に両側で電車が行き来している。ずいぶん近くを走っている。軋むような通過音がいつも聞こえるのは線路がここで大きくカーブしているからだ。
  貨物列車の汽笛が頻繁に聞こえるのも気になる。ここは広大な、見渡すと遠くまで無人の敷地が続いているJRの貨物駅の入口にあたっている。そんなこともあって人通りもないのに、何だか忙しないような、工事現場のような雰囲気がある。
  回向院と隣接している延命寺の敷地を合わせても、さほど広くはないのだが、常磐線と貨物線がそこを寸断している。さらにこの辺りで、地下鉄日比谷線が地上を走っているが、その線路もこの敷地を寸断している。地下には2006年に開通したつくばエクスプレスが通っていて、結局、敷地は鉄道の線路で切り刻まれている。地霊のリストカットとでも言うのだろうか。
 
  日比谷線に乗っていると車内から延命寺側がよく見える。もうひとつ注意を引くのは、延命寺の墓地の西側、その先っぽにある空き地だ。線路に挟まれた中州のようなこのスペースは長年、何も使われていない様子。そこは二百数十年の間に延べ24万人余りが処刑されたグラウンド・ゼロに当たる場所のはずだ。
  その空き地は、秋になると茂ったブタクサで一面、黄色に染まって見える。灰色にくすんだ街の中で、唯一、場違いに派手な黄色は目をひく。死を忌み嫌う日本人の感覚からすると、最も消してしまいたい場所のはずだが、そこが一番目立ってしまうのは、ばつが悪いというか、なんというか。
  空き地はどこからも通路がないので近づくことができない。三ノ輪、南千住界隈を都市の異界空間と呼ぶ人もいるが、あの空き地ここそ正真正銘の異界の入口。この世のどこでもない場所だ。
 
強烈な気魄

  はじめてここを訪れたとき、吉田松陰の墓の隣に磯部浅一の墓が並んでいるのを目にしてびっくりした。
  松蔭は今でいうと体制(幕府)に反逆したテロリスト(未遂)として処刑された人物。明治維新の先駆者。磯部は、226事件を起こした青年将校の中心人物として処刑されている。磯部らは、自分たちの志しを昭和維新と呼んでいた。松蔭も磯部もともに志し半ばでこの世を去っている。
  松蔭の隣に墓を作るというのは磯部の意思だったはずだ。幕末と昭和の維新の先駆者が一緒に並んでいる。両者が並んでる様は劇画的というか、あまりにできすぎている。わたしにとっては発見だった。(2006年夏に墓地改葬事業があり今は隣同士ではなくなったが、すぐ近くにある。見所1)
 
  「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」、松蔭の辞世の句。肉体がなくなっても自分の志し、魂はこの世に残すという決意は尋常ではない。強烈な意思だ。
  磯部の方も松蔭の墓の隣に席を占めるとは、負けず劣らず強烈な意思。死にたじろがない、死を乗り超えた意思が形(墓石)になっている。磯部夫婦の墓は今回の改葬で新しくなっていた。清楚で控え目、こじんまりしている。そこにいたとき、唐突に、鬼神もたじろぐという言葉が浮かんできた。
  ここまではなかなかできない。なかなかではなく、とてもできない。命がけでも大変なのに、死後まで射程に入れているなんて尋常ではない。
 
  魂魄という言葉がある。死者のたましいのこと。中国ではそれを「魂」と「魄」の二つの要素から成り立っていると考えた。「魂」は霊魂、アストラル体、「魄」は生命霊、エーテル体といった意味がある。アストラル体やエーテル体は人智学の用語。その考え方によれば、人間は、自我、アストラル体、エーテル体、肉体の4つによって構成されている。いまの一般的な考え方では、人間は自我と肉体だが、それにアストラル体とエーテル体、つまり魂魄を加えている。
  そんな見方で解釈すると、松蔭の句は、自分の肉体と魂魄の魄はなくなっても、魂=アストラル体はこの世に居続ける、居残ると言っていることになる。少し補足すると、自我とアストラル体は一括りに想念の世界を構成している。肉体を持っている、生きている人間の想念世界が自我で、肉体と切り離された想念世界がアストラル体という関係にある。肉体・エーテル体が親和的な関係にあり結びついているのは、全ての生物に共通するあり方だ。
  人智学では、人間を構成する4つの要素は、その組み合わせ方が時代とともに変化してきたと考えている。この説によれば、人間の意識は、古代人と現代のわれわれでは同じではない。この考え方は、サイケデリックス体験をはじめとする変性意識の体験を解釈しようとするとき、曖昧模糊とした意識の体験を整理するとっかかりになるのではないかと思っている。……あまり横道に入らず本題に戻る。
 
  古代人の自我とアストラル体は、現在人よりも簡単に肉体とエーテル体から分離したと考えられている。それは、体から魂が抜けることがよくあった、脱魂しやすかったということで、誰もがシャーマンのような世界に生きていたはずだ。
  現代人は、夜の夢と日常の意識は別の世界だと見なしているが、古代人は、はっきり区別できない渾然とした世界に生きていた。またそのころの自我やアストラル体は、はっきりと個人が部族集団と分かれていない世界だった。
  現代人の自我は、肉体とエーテル体に強く結びつくようになったので分離できなくなった。これには人間の個我意識、自分とは自分個人のことだという意識が芽生えてきたことと連動している。自分は他の誰でもない自分、あたり前のことを書いているようだが、古代の人々は自分のことをそんなふうには感じていなかったはずだ。
  古代世界から文明世界に移っていくに従い、徐々に少数のシャーマンしか脱魂ができなくなっていった。現代の一般人の場合、僅かにサイケデリックス体験や臨死体験のとき、稀にそんなこと(脱魂現象)が起きるぐらいだろうか。
  現代人の自我は肉体・エーテル体と強く結びついているので、肉体・エーテル体の死が即、自我の死と感じられるようになった。もし古代人のように、自我とアストラル体が肉体とエーテル体から容易く分離することができたら、死後もアストラル体はこの世に居続けるということが可能になる。これが松蔭の句のリアリティではないか。
  ここで古代人といっているのは、日本だとだいたい弥生時代以前、縄文の時代の人間に該当する。
 
  松蔭の句にある大和魂は、字義的には民族固有の魂のことだが、そう解釈すると江戸時代に国学が生まれてからできた比較的新しいイデオロギー的な概念になる。たぶんそんなふうに捉えるのが一般的だろう。そうだとすると、この世に留めておくというのは、自分のイデオロギー(大和魂)を引き継ぐ人間の中に同じ考えが留められるということになる。これは近代人的な解釈だ。
  しかし、辞世の句通りに、この世に魂を留めておくとしたら、それは魂魄の魂と解釈すべきではないか。もし、そうだとするならばその大和魂は古代的な魂だったはずだ。それは民族の成立するずっと以前、縄文時代の部族的な集団的自我の世界にならざを得ない。それは、自分という実感と、自分が属している部族集団という実感がほとんど重なった世界で、松蔭の魂はそこに同調していた。
 
悪役ヒーローの墓

  回向院は今年、墓地改葬事業があり、吉田松蔭、橋本左内といった歴史上の有名人物の墓は真新しい石塀で囲われた一区画に集められていた。磯部夫妻の墓もそこにある。松蔭の隣ではなく、安政の大獄で処刑された志士たちの墓の手前、松蔭からは少し離れたところ。
  区画の中には、鼠小僧次郎吉、高橋お伝、片岡直次郎(直侍)、腕の喜三郎の墓もある。四人は、江戸から明治にかけての悪役ヒーローで、一つの台座に並んでいる。鼠小僧は、江戸末期、武家屋敷専門に忍び込み、金3000両あまりを盗んだ盗賊。後世、小説、講談、戯曲で義賊として有名になった。
 
  最初に目に付くのは、腕の喜三郎の墓。石でこぶしを握った一本の腕が彫られている。きっぷのよさは確かだが、突飛というか、どうもふざけた、与太った雰囲気。真面目一筋の松蔭や磯部と同居しているアンバランスさが妙な感じだ。(見所2)
  腕の喜三郎は、喧嘩で切られた腕を鋸で切断したという逸話で知られる侠客。後に歌舞伎で演じられ名を上げた。墓はその腕一本を讃えて作られたようだ。直侍は、詐欺、ゆすりの常習者だったが、亡くなってからやはり歌舞伎で名を上げた。江戸時代の歌舞伎は、今の舞台、映画、テレビ、ビデオ、BVD がひとまとめになった存在だったから、腕の喜三郎も直侍も庶民の間では伝説的なヒーローだった。
  高橋お伝は、明治のはじめに起きたスキャンダラスな殺人事件の犯人、悪女(「毒婦」といわれた)として話題になった女性。
 
  四人が並んでいるのは、犯罪者兼ヒーローのような存在が人気を集めていた時代があったことを示している。庶民は、彼ら義賊や任侠、博徒の侠の精神に喝采を送った。義賊、義侠の「義」は儒教に由来しているが、「侠」は史記の遊侠列伝に由来し、江戸っ子の粋(いき)や鯔背(いなせ)にも通じている。
  江戸末期でも6〜7世代前ぐらい前の世界だ。その時代に生きていた人々の心の内を、現代人が追体験しようとしてもなかなか難しい。昨今、日本の伝統としてよく語られる武士道や禅といったリアリティは、その時代を生きていた大多数の庶民にとっては縁遠かった。反面、ほとんど語られることのなくなった侠のリアリティは野の自由であり、人々はそれに強く憧れていたのではないだろうか。