ALTERED DIMENSIN
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2006.05.15
[ひとりごと]

近視眼的世界の話し

 最近 たまに世間話をしに寄ってくれる人がいる。世代も職業もさまざまだが、サイケデリックスの世界や変性意識について関心がある人が多い。
  Aさんもそんなひとり。Aさんは40代。20代のはじめ「運命学」を極めたい、占い師の仕事をしたいと、家を飛び出し、ずっとその世界で生きてきた。化学の研究者だった父親と大喧嘩した末の家出だったという。何かの自覚に達したようで、いまは占い師を卒業している。アニメや古いTVドラマの収拾にもこっていて、たくさんの作品をPCに納めている。いわばオタク第一世代でもある。
 
  春の宵、久しぶりにAさんと会った。ちょうど夕食時。ふたりとも下戸なので季節の魚にどんぶりご飯。ハモを熱い湯にさっと晒し、梅肉をつける。さくっとした歯ごたえ。それと、ふぐの白子。茹でてポン酢をつける。なんともクリーミーなねっとりした味。夕方、地元で人気の魚屋さんで食べ方を教えてもらったばかり。普段と違うちょっとした贅沢で雰囲気はずいぶん変わってくる。
  美味しいものといい話し相手がいれば、それで十分すぎるほど満たされるという感じ。何でもサイコアクティブの変性意識と結びつけて考えるのは、悪い癖だが、カンナのレベルといったところだろうか(注※)。
 
  「自分はこの歳になるまで何をしてきたのだろうか、と最近、考え込んでしまうんですよ」とA さん。
   男の場合、大厄、数え年で42歳の頃、何らかの人生の転機に遭遇している。そんなケースをよく目にする。リストラ、転職、事故、生活習慣病(成人病)、親の介護が必要になるとか……と形はさまざまだが、その年齢ぐらいに人生のひとつの正念場があるのではないかと思う。
  Aさんの言っていることはよく分かる。若い頃、会社や役所といった組織に入ってそこで年月を重ねてきたのではない、ひとりで自分の道を求めてきた人生であるだけに、この辺りの正念場のプレッシャーはすごく大きい。
  少し横道に逸れるが、なるほどと思った話しがある。Aさんは日本人離れした大柄、身長は190センチぐらいだろうか、体格もよくてプロ野球の選手になっていたらハマの大魔人佐々木投手ぐらいのところまでいけたのではないか。理科系の頭で、世間的な道を歩んでいればそれなりに出世していたんだろうな、そんなことはどうでもいいことか。Aさんは自ら家出することで、そんなシステムから自発的に外れたのだから。
  この人と話していると、何か世界の根源、根本を求める魂の志向性が頑固にあって、それが世の中の枠には収まりきれなかったのではなかったかと感じた。
  Aさんはいわゆるオカルト好きで、いわばプロでもあったが、経験的にオカルト好きを二つの系統に分けている。ひとつは、力を求める人たち。成功、願望を実現したいという目的で超能力や魔力を求める人たちがいる。もうひとつはこの世界の究極的な真理を求める人たち。生と死、この世の秘密を知りたいという願望からオカルトに入る人たちがいる。
  自分は後者のタイプだとAさんは言う。だから超能力や呪術、密教系の方にはどうも懐疑的、それに効果がないと言っているのではない、祈祷師や占い師に知りあいが多いので、かなりの効果があることは知っているが、それによって得られる願望実願が人生にとって本当に意味のあるものなのかどうかに懐疑的だという。
  当然ながら、Aさんのタイプのオカルトは、立身出世とは正反対の方向なわけで、それに人智を超えたあまりに高望みの目標を定めてしまった。大厄を迎え、気持ちは日暮れて道遠し、まさに正念場なんだと思う。
 
どこか違うけど、それがどこか分からない

  ふと、「麻生さん、わたしの顔を見て何かいつもと違いがありませんか?」と尋ねられた。はて、そういえばどこか雰囲気が違うな、いや、全然違う。でも、何だろうか?
  「どこか今までと全然違うはずなんですが」とニコニコしている。
  うーん、確かに。でも、どこといって、髪型? 痩せた? 陽に焼けた? 整形手術はまさか……でもかなり違う。若くなったような、柔軟になったような印象。
  「実は、メガネをかけていないんですよ」
  そうか! この日、すでに1時間は喋っていて自然に馴染んでいたが、以前は黒縁の大きなメガネをかけていた。どうして気づかなかったのか、人間の印象ってずぶん曖昧なんだな。
  「自分は近視だったんですが、この間、近視のレザー治療を受けてきたんです。元気に活動できる年齢は幾つぐらいまでだろうかと考えたとき、あまり悠長にはしていられないと思ったんです。
  後で説明しますが、どうも近視の世界というような中でこれまで自分は生きてきたのではないか。自分の不全感の原因に近視ということがあったのではないかと思うようになったのです。だからこの治療には結構、お金がかかるんだけど、3年遅れると3年、1年遅れると1年、時間を無駄にすることになるのではないかということで手術を受けました。
  以前の視力は0.03でしたが1.5になりました。メガネをかけなくなったら世界が全然、違って見えるんですね 。」
 
  話しを聞いていて、自分が考えもしなかった視点、面白い洞察だと思った。どうも近視の世界というリアリティがあるようなのだ。それは当事者には当たり前すぎて気づかないし、近視ではない人にはもちろん気づかない。そんなリアリティだ。
 
近視眼的世界とは?

  「日本人に近視が多いというのは昔から言われていたんですよ。時代劇にもメガネをかけた商人なんかが出てくるでしょ。それで、なぜ日本人に近視が多いのか真剣に考えてみたんですよ」
 
  わたしは近視でないし、そういうことを考えたことはなかった。改めて、近視ってどういうことか、辞書の解説には、眼の水晶体の焦点距離が短すぎ、あるいは網膜に至る距離が長すぎるため、遠方の物体が網膜より前方に像を結び、そのために鮮明に物を見ることができないこと、とある(広辞苑)。外から目に入ってきた光が、網膜より手前でピントが合ってしまうことにより、映像がぼやけて見える状態、遠くにあるものがはっきりと見えないこと。
  明治時代の外国の風刺漫画には、日本人の定番のような姿がある。よく出っ歯でメガネで描かれている。戦後はそれにカメラを下げていたりする。欧米の映画に出てくる日本人もだいたいがメガネをかけている。
ネットを検索してみると日本の近視人口は4000万人にもなるという。
 
  「芸能人のオスマン・サンコンって人がいるでしょう。あの人、たしかケニヤから来た人で向こうでは視力が6.0あったとかいうんだけど、日本で生活していたら視力がどんどん落ちてきたっていうんですよ。これって日本の国の特徴、特異性なんじゃないかと思うわけです」
 
  なるほど、なるほど、肩こりも日本特有の産物だという話しを聞いたことがある。それまで肩こりという現象を知らなかった外国人が日本で生活するようになると肩こりが起き出したという。近視も日本の風土とか文化にそうなりやすい要因があるのかもしれない。
  ネットには、湿気の多い日本に住む日本人は他の民族に比べて体内水分量 が多く、そのせいで眼球が膨らんでしまいレンズの焦点距離が変わり、遠くの物が見えづらい近視の状態になりやすいといった説明もあった……でも、これはどうかな、そういう風土的な、生理的な説明はどうもよく分からない。むしろ社会的な要因によるのではないかと思うのだが。
  近視の人って世界がどう見えてるんですかと聞いてみた。
 
  「近視は遠くがぼやけて見えるんです。例えば、桜の木でも、離れた所にある木はピンクの綿菓子のような塊に見えるんです。特に色が近いものだとと、物と物の区別がなくなり色の塊みたいに見えるんです。
  はっきり見えないというのは、そこで諦めてしまうんですね。自分の諦め癖は、そこから来ていたんじゃないかと発見したわけです。
  物事をクリアーに理解するということでは、言葉でも明晰とか、明解、明瞭と視覚に関係する表現が多いですよね。視覚がぼやけているということは、思考にクリアーさが欠けているということだと思うわけです。」
  「自分は、身の回りで二人、ものすごく視力のいい人を知っている。二人とも視力が6.0なんです。そして二人ともマインドが鋭い、第六感が鋭い。ひとりは女性の霊能者、もうひとりは男性の心理療法家で、このふたりに共通しているのは何かと考えていたら、ふたりとも視力が人並み外れていいんです。」
  「ところで、なぜ近視が多いかということを考えているうちに、つくづく日本人は近視眼的だなということに思い当たりました。「近視眼的」って、近いところ、狭いところにだけ気をとられて、大局の見通しのないことです。
  遠くのものが見えないというのは、日本人の習性なんですね。」
 
  そうか、遠くのものが見えないというのは、別の言い方をすると近くのものだけが存在している世界ということか。狭い世界に生きているんだな。鎖国的、自己閉塞的な世界と言ってもいい。そんな世界で生真面目に生きていくってことは肩もこるよな。
  それは現世的・現実的というか、普遍的な論理や価値には割と疎い、あるいは戦術レベルでは強いけど戦略がない、そんなリアリティともいえるのではないか。黒船来航からはじまる日本の近代史をこういう視点から読み解いていくと、とても分かりやすい。
 
  「それともうひとつ。メガネがなくなって気づくことがあります。メガネをかけているときは、常にフレームの枠にとらわれて世界を見ているんです。視野にフレームが入っているんです。
  日本人は枠にとらわれて物事を見ているというのはここから来ている。枠の外にあるもの、遠くにあるものは見えません、分かりませんと言ってきたのだと思います。
  だから視野の外にあるもの、遠くにあるものは、それが存在していると分かっていても無視する、目に見えないと言ってきたのだと思います。」
 
  これも結構、当たっているのではないか。人間の思考は、概念や言葉からして世界を区分する枠なのだから、多かれ少なかれ枠にとらわれていて、それにとらわれない人間など存在しない。一方、濃淡というか、こういう生き方のスタイルが濃厚な地域もあり、それは日本だけでなく朝鮮半島も共通しているように思う。あちらは日本以上にそれが濃いように見える。
  東アジア、ちょうどかって儒教が根付いたような地域はそんな傾向が強いように感じる。人間の思考にフレームを付けられれば、型に填った思考をする人間ができ、秩序や安定という面では盤石な体制が築けるはずだ。とはいえ、儒教的な価値観は、古代の権力者の支配を支えるものだったというふうにネガティブにとらえるのは一面的で、それなりにポジティブな面もあったと思う。世の中が乱れてメチャクチャになっていた時代、儒教的な考え方によって、現実的に平和や安定、秩序がもたらされた。それは今から2500年ぐらい前の人間の意識に対応していたのではないかと思う。
  人類の歴史では、近代になると人間は、自分の内にある精神に基づいて考え、生きるようになってきたが、その前は、外から与えられた規範や教義に基づいて考え、生きていた。それは中世ぐらいまでの人間の意識だったのではないかと思う。
  競馬には、ブリンカーといって、 ほかの馬を気にしたり、よそ見をする癖のある馬に、集中力を高める目的で 視野を制限する装具がある。 人間の思考ソフトにそういうものが組み込まれているとしたら、ゾッとする。
  しかし、救いはある。Aさんは、そのことに自ら気づいたのだから。誰か全く異文化の人間に教わったのではなく、自ら気づいたというのは大きい。なぜなら、それは枠に気づくことで、その拘束力を無化することができるからだ。一番手強いのは、それに気づかずに、あたかも自由意思かのように思っている自分の心が実は、条件付けられている場合だ。つまりそれに気づくということは、即、それから自由になること、解放されることなのだ。
  Aさんの話しには希望がある。日本人論や日本文化の本を読んでそこに書かかれていることを口にしているのではない、誰かに教わった、聞いた話しでもない。自分で、自分の人生を見つめ直していく自問自答の中で、日本人の思考に気づくというのは、すでにそれを超えているということなのだから。
 
(注※)カンナ……簡単に。アフリカ原産のサイコアクティブ・ハーブ。有史以前から気分を変える物質として牧畜民や狩猟採取生活者に使われてきたといわれる。伝統的に噛んだり、喫煙したり、あるいはパウダーにしてスナッフされた。気分を高め、不安やストレス、緊張を軽減する効果がある。抗不安や抑うつ作用という面で、かなりの有用性があるのではないかと指摘しておきたい。
  大麻について抗不安、抑うつ効果を期待する意見があるが、事実、体験からそういう意見を語る人がいる。カンナは大麻によく似ていながら、向精神性のレベルでは大麻が3〜4ぐらいなのに対し、1〜2ぐらいの強さなので、そういう用途にはずっと使いやすいのではないかと思う。
  ナチュラルなハーブ、ケミカルドラッグを問わず自覚的効果としてカンナは大麻に最もよく似ている。大麻と効きの方向性が同じなのはカンナだけだと言っても過言ではない。異なっているのは、大麻より遙かに薄い効きで、人により効いているのが分からないということもあるかもしれない。
  興味深いのは、大麻でハイになっているとき、カンナをすると意識の変化が明瞭に分かることだ。数分後には一瞬、シラフの日常意識に戻ったように感じるが、それが落ち着き、抗不安作用の現れであることが分かる。心の活発な変化が鎮まることにより、より静謐な世界に入っていく。また、色感がはっきりと変化して、世界が瑞々しく、淡い光まで輝きが増してくる。
  と、書いているうちに簡単にと言っていたのが、だんだん長くなってきたので、この辺りまでにしておく。