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2006.03.20
[ひとりごと]

東京音頭と踊狂

東京音頭 昭和8年(1933年)
『決定版 昭和史 6 』毎日新聞社より
  最近、「226」という映画を観た。決起した青年将校が東京の中心部、霞が関から三宅坂周辺を封鎖して立てこもったとき、町内会風のおばさんたちが決起部隊の兵隊に炊き出しをしている。その横で着物姿の一団が東京音頭を踊っているシーンがあった。226事件とは、昭和11年2月26日未明に陸軍の一部青年将校が約1500名の兵隊を率いて起こした反乱事件、二人の大臣ほか警護員を殺害、戒厳令が布告され29日に平定された。
 雪景色の中で「ハアー 踊り踊るならチョイト 東京音頭 ヨイヨイ」と人々が盆踊りを踊っている光景はなんとも奇異な感じがしたが、たしか史実としてそんなことがあったという話しを昔、どこかで読んだ。
 
黒船と「ええじゃないか」

 226事件が起きた直後、庶民はどんなふう事件を受けとめただろうか? 決起した青年将校が味方なのか敵なのか判断停止状態に陥ったのではないか。青年将校たちの義憤に共感する心情と、暗殺や武力行使への違和感、国を揺るがす大事でありながらその善悪、正邪が分からないそんな緊迫した心理が極まった末、東京音頭になったという解釈はできないだろうか。
 社会的な緊張が高まると、唐突的に踊り出す、そんな歴史がちらほら目につく。幕末、黒船が江戸の沖に姿を現したとき人々はひっくり返るぐらい驚いた。極限的なパニックは人間の意識を変容させる究極のテクノロジーだという。つまり黒船=シャーマニックな存在という見方ができること。存在極限的なパニックこそ、その状況に最も見合った意識をもたらすという話しを以前紹介した(ひとりごと/日本的霊性──集団的神懸かり)。
 
 その状況に最も見合った意識とは何か? 黒船の来航、さらには大地震、津波と幕末の社会不安・パニックからええじゃないかと呼ばれる大規模な踊狂が起きている。踊狂(流行性集団踊狂)とは、多くの人々が突如として踊りだす熱狂的な流行のことで、ええじゃないかは、東海地方からはじまり近畿、四国、信州に広がって、「ええじゃないか」の囃子をもった唄を高唱しながら集団で踊った。
 ええじゃないかがどんなものであったかというと、阿波踊りと盆踊りをミックスさせたようなもので、滅茶苦茶な暴動みたいなものではなかったらしい。いまイメージしようとすると盆踊のようなものだったらしい。
 踊狂という現象は世界中にあるが、日本の場合、最古の記録は大化改元の1年前の「常世の神」の歌舞で、最後にそれが起きたのは今から70年ほど前の東京音頭だったといわれる。
 
東京音頭の意識

 昭和8年(1933年)夏、東京音頭は熱狂的なブームになり、公園、社寺の境内、校庭。空き地などそこら中から毎日、夕方になると太鼓の音が聞こえてきたという。そしてまたたく間に全国に広がっていった。
 東京音頭のレコードをかけた店先で、子供、出前中の店員が踊り出し、走っていたタクシーも停めて踊り出したとか、神田では昼間、本屋の若い店員、学生も踊り出し、通行人も参加して市電は一時停車したが、警察はなんの処置もとれず、無政府状態に陥ったという話しが伝えられている。
 と、なんだかすごいことになっていたようだが、大正末に生まれた年輩者に聞いてみたら、子供の頃の記憶で憶えているという。「東京の京浜地区に住んでいたが、当時は、町内会や商店街の行事がよくあって、その度にみんな夏冬関係なく踊っていた。そのころは不景気で楽しみも少なかったからみんな夢中になったんだと思う。土日はもちろん平日も夕方から踊っていたと憶えている。」と言っていた。
 踊狂は集団的神懸かりといえなくもない。でも、東京音頭を踊って忘我状態になったとか、憑依と結びつけるのは無理があるようだ。浮かれた意識というか、素面(しらふ)に近い軽いハイだったのではないか。踊っているときは、一時でも日常を忘れる、頭の中が空っぽになる。それは、遙か昔、個人と部族集団の意識がひとつだった古代的意識とどこかつながっている、そんな感じがするのだが。
 東京音頭の動作は、舞(まい)で、体の動きが平面旋回運動で音楽に合わせてすり足で回るというのが特徴という。舞は、古くさかのぼると巫女の動き(=憑霊型シャーマニズム)に由来しているといわれ、神楽も同じ系譜にある。東京音頭は、何もこれだけがというのでなく、こういう舞踊には日本人の古代の精神性とつながるものがあり、それが昭和8年の世相というセット(環境)とマッチして踊狂が起きたのではないか。
 
昭和8年という世相

 東京音頭は昭和8年から3年あまり大流行している。226事件が起きたのは3年後の昭和11年なので映画のシーンはちょうど符合している。昭和に入ってからは、経済恐慌と農村の凶作が続き、さらに昭和6年に中国との戦争がはじまりと、庶民のあいだでは厭世気分が蔓延していた。
 昭和8年は死の流行ともいうべき奇態な事件が続き、一方、軍需景気で経済的には明るさが見えはじめた不吉さ・ナンセンスさと浮ついた空気が混じりあった妙な世相であった。世の中、国が狂いはじめるときの兆候というか、そんな出来事が次々に起きている。日本が対米戦争に向かって雪崩こんでいったのは、この年からだったといわれる。
ヨーヨー大会
昭和8年(1933年)
『決定版 昭和史 6 』
毎日新聞社より
   この年、ヨーヨーが大流行し、子供もから大人まで学校でも職場でも夢中になった。議会の警備をしていた巡査が勤務中、ヨーヨーをしていて罰俸されたエピソードもあった。ヨーロッパ、アメリカでの流が入ってきたもので、爆発的なブームになり1年でぱったり下火になった。狐につままれたような現象だった。
 
 昭和8年2月、伊豆大島の三原山の噴火口に女子学生が飛び込み自殺した事件が発端になり、その年、男804人、女140人もが三原山で自殺している。
 3月、満州事変をめぐり日本は国際連盟を脱退する。後に、戦前の日本が世界から孤立していく大きな分岐点といわれることになるのだが、連盟理事会で脱退を宣言した松岡洋右外相が帰国した際、熱狂的に支持する群衆に迎えられた。
 6月、戦前の共産党の最高指導者2人が獄中で転向声明を公表し、その思想的影響によって戦前の共産党は瓦解。また、7月には死のう、というスローガンを掲げて黒装束で集まったところを警察に連行され当時の新聞で大きく報じられた日蓮会殉教青年党というグループの「死のう団」事件が起きている。
 そして8月1日、芝公園で開催された盆踊りで東京音頭が初登場する(一説には7月とか)。 

文字通り、庶民は踊らされたのか?

 東京音頭は、今も盆踊りの定番なのでよく耳にするが当時の歌詞は現在と違っていた。
 「ハア東京よいとこ 日の本照らす 君(きみ=元首、天皇のこと)が御稜威(みいつ=天皇のご威光)は 君が御稜威は天照らす(あまてらす=天に輝いておられる)」(2番)、「ハア 君と臣(たみ=臣民、国民のこと)との千歳(数えつくせないほどの年月)の契り(約束) 結ぶ都の 結ぶ都の二重橋(皇居の橋)」(5番)といった歌詞は戦後、消えている。
 それにしても妙に小粋で浮いたノリなのが今から見ると怖い。もともとは精霊の供養や鎮送のために行われた盆踊りだが、この東京音頭の歌詞の行き着く先は、一晩で10万人が焼き殺された東京大空襲であった。
 
 東京音頭が大流行した背景には国民の意識をひとつに束ねようとしていた内務省や軍の後押しがあったといわれている。特に青少年を国策に沿うような人間にするため、当時の言葉で「思想善導」のために盆踊りも奨励されたという。そういえば、幕末のええじゃないかのきっかけになったのは、空から神札が降ってきたという不思議な話しからだった。めでたいこと、瑞祥なので庶民は踊り出したというわけだ。
 はじめの頃、伊勢神宮の御祓いのお札(大麻と呼ばれる)が降り、その後、各地で豊川稲荷、金比羅、大黒天など数十種の神社仏閣のお札、それに仏像、貨幣なども降ってきたという。なかに赤ん坊、馬の骨、生首、腕まで降ってきた地方があったという。
 そのとき神札が各地で見つかったのは事実で、一見、怪奇現象みたいだが、倒幕をめざした尊皇派が各地で密かに配布した一種の世論工作だったともいう説もある。ええじゃないかは1867年の夏にはじまったが、その11月には大政奉還で江戸幕府は倒れ、王政復古の明治維新が起きた。
 東京音頭の歌詞、ええじゃないかの神札と、両方とも尊皇思想とつながるというのも妙な感じだ。東京音頭を作詞したのは大正から昭和、詩人、童話作家、流行歌作詞家と多彩な活躍をした西条八十という人。この人は、そのときどきの時代の空気、日本人の情感の機微をつかむ才に長け、それを歌詞にして世の中に送り出した。自分が特定のイデオロギーを持っているというのではなく、世の中の空気を読んで、それを言葉にした。
 
東京音頭は最後の踊狂?

 東京音頭の大流行以降、日本では似たような踊狂現象は起きていない(と思う)。
 1979年夏から80年代はじめにかけて東京原宿で、毎週日曜日に路上で踊る竹の子族が社会的に話題になったのを想い出す。しかし、当時、竹の子族がどれぐらい盛り上がっていたのか、その程度を調べようとして、雑誌、新聞、映像に目を通したが、どうもイメージがつかめない。雑誌の記事は、読み手を意識して面白いように、誇張気味に書かれていたりする。
 実は、そのころわたしの職場が原宿にあり目にすることもあったので自分なりに見当がつく。竹の子族の当事者たちは、街中で目立ちたいというぐらいで、ここでいっているような踊狂とか変性意識ではなかったように思う。自分が直接、見聞きしたわけではない出来事について、メディアの情報だけで判断するのは難しいものである。
 
 幕末のええじゃないかを描いた絵が残されているが、それを見ると群衆のデモというかメチャクチャな騒乱といった印象を受けるのだが、結構、誇張されているという話しも聞く。
 昭和史の本を読んでいると東京音頭の流行についてはどの本でもふれている。しかし、その加熱ぐあい、盛り上がりの程度がどれぐらいだったのかいまいち掴めないもどかしさがある。例えば2002年のワールドカップのときの世間の盛り上がり方なら体験で知っているのでリアリティが掴める。日本戦のときは、道を二本隔てたカフェでTV観戦していた人たちの歓声が響いてきた。最初は何が起きたのか分からず外に出て声のする方に歩いていったら、カフェの前の歩道に20〜30人が群がって応援していた。この町で、こんなふうに人々が興奮した姿を見るは初めてだった。
 90年代末、山の中や人里離れた海辺、島で真夜中行われていたレイヴは集団的な変性意識が起きていたと思う。とはいえ、大体が数十人から数百人の規模で、当事者以外誰もその存在を知らないまま行われていたので、ここで扱っているテーマとはずれているかもしれない。集団で踊る人数の規模でいえば徳島の阿波踊りか?とネットで調べると、徳島に次いで東京高円寺の阿波踊りもかなりの規模のようで、ともに見物客の数が百何十万人と誇らしげに紹介されているが、どうもショーというか、観光イベントになっていて、やはりここでのテーマとはずれているようだ。
 
神話的世界に生きていた?

 「日本的霊性──集団的神懸かり」(ひとりごと)で1945年8月16日、敗戦の翌日に海軍の厚木基地で神懸かりになった司令官のことを書いた。
 敗戦は国家には極限的なパニックである。この日から数日間、日本の普通の人たち、庶民がどんな気持ちでいたのかブラックボックスだ。記録が曖昧なのは、それをタブーにする暗黙の意識が働いていて、日本人が総意で目を背け、記憶を消し去ろうとしてきたからではないか。
 「熊本のある地方では終戦の日から何日何夜も人々が踊り狂ったという話しを聞いたことがある」という一節が『国民の歴史』(西尾幹二/扶桑社)という本にあった。当時、小学生だった著者は8月15日を疎開していた茨城の山村で迎えたが、その直後の光景をこんなふうに書いている。
 
 「丹精して育てていた稲を未成熟のままに大急ぎで刈り入れる者がいた。当時労働力として各農家でこのうえなく大切にしていた牛や馬を、谷川の上流でつぎつぎに殺戮した。そして村の人々に肉を共同に分配するなどの行動が伝染病のようにあいついで行われた。下流は紅い血に染まって、そこを横切るときの私たちの驚きは大きかった。
 終戦詔書から間もなく起きたこの物の化に憑かれたような集団行動は、私の少年期に、ある恐怖のイメージを刻印している。……
 まだ実らない稲を刈り取ったり、牛馬を殺害したりする農民の自暴自棄は、都会からの流言だけでは説明がつかない。米軍による食料強奪がなされる前の緊急処理と説明されたが、それだけとは思えない。まぎれもなくここには自己破壊の衝動があった。未来への拒絶があった」
 
 心の病の症状として語られる世界没落感みたいな印象を受ける。(──全然、違う分野の話しを挟んでしまい、どうかと思うのだが、リアリティとしてはLSD、マジック・マッシュルームの体験に相当しているのではないか)。
 日米開戦を決めた東條首相が戦時中に書いていた手帳の一部が数年前に公開された。ほとんどの手帳がが破棄された中で昭和18年の分だけが残っていたという。そこには戦局が悪化していく中で、自らの心の支えとした言葉が綴られている。この人は能吏、実務化タイプの人だったといわれているが、手帳には、有史以来、一度も他国に占領されたことがない。有史以来、天皇を奉っている。そんな国には、世界中で日本しかない……といった一節がある。
 勇気ずけなのだが、大筋で確かにそんなふうに言えなくもない。どういうことかというと、神話(皇国史観)と20世紀の現実(国際情勢)が結びついた世界に生きていたのだと思う。それなりの歴史的な裏付けがあるので、この人の内では神話は大昔の物語・文学ではなく信憑性のある客観的事実としてあった。戦後のわれわれは現実を現実としてしか見れないが、この人の心の底には民族の神話が生きていた。それは当時の日本人の集合的無意識でもあったのではないか。
 
 前脚類恐竜のコンプソグナトゥスという、機敏に動く小さな恐竜だが、この仲間は、進化の過程で羽毛を持っていた。最近、ウロコを持った化石が見つかり、一度、羽毛を持つたのがその後、先祖帰りしたのではないかという可能性が指摘されている。日本人の意識にもそんなことが起きていたのではないか。
 古代的意識、たぶん狩猟採取時代の縄文的意識への先祖帰りがその頃、いつからとはっきりした区分けはできないが、顕著になってきたのはここでも紹介してきたように昭和8年頃から復活してきたのではないか。国民が尊皇攘夷(=日米戦争)に丸ごと身を投じてしまうという一体化、集団的な意識の形は、もっと古い縄文的古代の意識に先祖帰りしていたというふうに感じる。
 そういう意識は、そのとき新しく生まれた(例外的な、何かの間違い)というよりも、もともとあったものが当時の世相を契機にして復活したのだと思う。日本人の内にあった古代的意識を、文部省や軍、内務省は目覚めさせてしまい、その結果、天皇も含めて誰もその奔流をコントロールできなくなってしまったということではないか。
 
 8月30日にマッカーサーが厚木に到着し、占領行政がはじまってから日本人は、新しい世の中を受け入れたかに見える。占領軍はこれまで日本国民は軍部に支配されてきた、騙されてきたという考え方を打ち出し、日本人の多くはそれになびいた。そうなるとアメリカは敵ではなく、自分たちを軍国主義から解放してくれた解放軍になる。敵と味方が入れ替わった180度違うリアリティなのだが、それまでの神国日本という憑き物が落ちたといった感じだったのだろうか。
 しかし、と疑問が湧いてくる。そんな切り替えの前に、瞬間的に奈落のような亀裂があったのではないか。8月15日から歴史の中では、ほんの数日の短い時間のことにこだわって書いている。敵が都市への無差別空襲や原爆を投下した背景には、人種的な目があったと当時の人々は感じていたはずだ。
 神話的な世界が崩れる体験、日本民族にとって2600年に一度のショック(紀元2605年)だったはずで、それからせいぜい60年ぐらいしかたっていない。
 
肚と頭の神懸かり

 1945年の7月22日、日本が敗戦する3週間ほど前、意思とは関係なく肚(腹)の中の神の言葉を喋りだし出し、日本の敗戦を予言した女性がいた。山口県(周防)の農家の主婦、北村サヨという人で、戦後、天照皇大神宮教(てんしょうこうだいじんぐうきょう)という新宗教の教祖になる。昭和20年代、体が自然に舞い出す様子が「踊る宗教」と呼ばれ際物的な話題になった。
 この日から自然に体が動きだしてしまう舞いをしながら歌説法をはじめた。これは神道系の霊動法や憑霊型シャーマニズムとだいたい同じ意識なのではないか。
 8月12日、敗戦の3日前、天照皇大神がサヨの肚に宿り、翌昭和21年を「神の国開元の年」とすると述べる。同じ日、厚木基地では司令官が戦争終結の事前情報を入手し、戦争継続を訴える活動を必死に行っていた。この人は4日後に神懸かることになる。農家の一主婦のサヨと海軍の司令官を霊性という面で比べると、女性の方が国家の枠も超えていてスケールが大きいなと感じる。
 サヨがはじめて神懸かりしたのは、前年の5月4日。そのとき頭ではなく肚に神が宿るという体験をし、以後、それが続く。これはサヨという人が体の腹の心を感じることができるようになったということで、エーテル体の心、身体感覚なのだと思う。弥生人(古代の中国長江文化圏の末裔といわれる稲作を持ってきた人々。倭人)のシャーマンはこの系統の能力の持ち主だったのではないかと思う。
 その頃、サヨに憑いていたのはトウビョウ(蛇の憑き物。野槌(のづち)=ツチノコみたい)だったが、だんだん神格が変化し、8月12日には肚の中に皇大神という男神とその妻の女神、天照大神が一体になった天照皇大神(宇宙絶対神)が天降った。天照大神は天皇の祖先神で伊勢神宮に祀られている。肚が神殿とは……戦時下で、不敬罪のあった時代である。
 
 厚木基地の司令官は神懸かりになったとき、天照大神を二度、そして天壌無窮、絶対必勝と叫んだという。その言葉はスローガン的・イデオロギー的でいかにも男のリアリティというか、大義を踏襲している形なので創造性はあまり感じられない。現世的・政治的な世界の範囲内のことだ。
 一方、サヨという人は、自分の内で神との結婚、神の妊娠という神話的な物語を創出した。その創造性には驚くばかりだ。それが自分の肉体の中で起き、身体感覚として感知したというのには、女性性の力というか、ただ脱帽するばかりだ。
 
(参考)
ええじゃないかの発端について
http://www.toyohashi-cci.or.jp/joho/200511.html