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2002.02.02
[ひとりごと]

大麻の変性意識(14)――大麻と観照

CD 「OBRIGADO」SANTA LUZ「観照」(曲・歌詞 Shavdo&Ohia)
 
 考える必要も 感じる必要も
 なんにもないときは あなたの中にいる
 考える必要も 感じる必要も
 なんにもないときは
 ただ呼吸を見てる

 たとえばあなたが 寂しいとき
 それを見ている あなたがいる
 それを見ている あなたがいる
 たとえばあなたが 嬉しいとき
 それを見ている あなたがいる
 それを見ている あなたがいる
 
 考える必要も 感じる必要も
 なんにもないときは あなたの中にいる
 なんにもないときは あなたの中にいる
 なんにもないときは ただ呼吸を見てる

 たとえばあなたが 寂しいとき
 それを見ている あなたがいる
 たとえばあなたが 楽しいとき
 それを見ている あなたがいる
 たとえばあなたが 生きているときも
 それを見ている あなたがいる
 今を生きてる あなたがいる
 
 CD(「OBRIGADO」SANTA LUZ)でこの歌をはじめて耳にしたときのこと、「それを見ているあなたがいる」というフレーズの繰り返しが妙に印象に残ったことを憶えている。しかし、あなたが寂しいとき、あるいは嬉しいとき、楽しいとき、生きているとき、それを見ているあなたがいるなんて矛盾しているではないか。「あなた」を聴き手である自分に置き換えてみれば、自分が楽しいとき、それを見ている自分がいるということになってしまう。自分を見ている自分がいる――なぞなぞみたいな歌詞の意味は日常意識下でいくら考えても解けないが、あるレベルの変性意識のもとではありありとした実感だ。
 「観照」といっても、普段、それほど馴染みがない言葉だ。辞書では「(1)主観を交えず、対象のあるがままの姿を眺めること。静かな心で対象に向かい、その本質をとらえること。「人生を観照する」(2)美学で、美を受容すること。自然観照と芸術観照がある」(大辞林第二版)とある。
 歌詞にある「観照」の意味は、辞書の説明の(1)に近いだろうか。それは「対象のあるがままの姿を眺め」たり、「静かな心で対象に向か」う、つまり心(=自我)は働いているが、そこにとらわれない、拘らない、悩まされない心――つまり無心の状態ということになる。
 無心は、分別なき心とか、思案なき心、どこにも置かぬ心とか、いろいろな言い方があるが、日本の伝統的な精神文化の中ではひとつの理想とされてきた。昨今、流行っている(らしい)相田みつをという書道家の語っているリアリティは無心をベースにしている。本屋さんでその本を立ち読みするぐらいでも分かる全く自明なことだ。こういう例は、思いつくまま幾つもあげられる。
 例えば、「全人幸福社会の実現」を目的にした「ヤマギシ会」は新しく会員になる人に対して特別講習研鑽会という泊まり込み合宿を行ってきた。それが洗脳なのではないかと一時期、騒がれたことがある。合宿により、その人が今までの社会生活で培われてきた思考パターン(「ヤマギシ会」が公表している文書の言葉によれば「決めつける観念、固定する観念」)を外すことを目的にしている。それは「人間革命」とされているが、無心(「無我執」と呼ばれる)の意識のことであることが分かる(会の文書を読んでみると、それは無心の具現化と言えなくもないが、事実上、組織から強要されるところに危うさがあるように思える)。
 あるいは、新興宗教(と言っていいのだろうか)の「法の華三法行」(福永法源教祖を筆頭に教団幹部が信者から金を騙し取っていたとして逮捕された事件で騒がれた)の中心的な教義である「頭を取る」という教えも無心の意識のことだ。そのことは福永の名義で執筆された本に目を通せば明らかだ。相田みつを、ヤマギシ会、法の華三法行と並べてみると(社会的評価では大きな違いがあるが)、その主張は、共通して無心に意識の焦点が当たっている。
 本題に戻って、いまふれてきたように無心のリアリティでは先入観や、その時々の喜怒哀楽に揺り動かされることはないが、「それ(あなた)を見ているあなたがいる」という歌詞は相変わらず謎のままだ。
 ここで簡単に整理しておくと、これまで「大麻の変性意識」でふれてきたように、無心は無我よりも自我の世界であるこの現実に近い、日常意識に隣接したリアリティである。日常意識から無我に至るまで、大まかに言って日常意識→無心→心身一如→集中・ストーン(三昧)→観照(無我)という過程を経る。大麻のもたらす変性意識は、だいたい心身一如から三昧あたりだ。

影法師と無限ループ・トリップ 

 「観照」の歌詞の「それ(あなた)を見ているあなたがいる」リアリティは、無我の意識で起きる直接的自覚だ。そこから、この歌のリアリティは無心と言うよりは、無我に焦点が当たっていることが分かる。これは瞑想の意識体験を歌詞にした稀な歌だと思う。
 わたしなりに解釈していくと、「それを見ているあなたがいる」という歌詞の「あなた」とは、具体的な人間としての「あなた」ではなく曲のタイトルでもある「観照」のこと(状態)である。観照の直接的自覚は、自分でもあり、周りの世界でもある意識、両者を同時に意識している状態とでも表現できるだろうか。それは論理的に想定した架空の状態ではなく、直接体験として自覚できる状態である。
 歌詞で、自分が楽しいというときの、自分とは通常の私、自己、自我である。そして、それ(私、自己、自我)を見ている第二の自分(観照)というのは、すでに私、自己、自我ではない。実感的には「見ている」というのも目で見る枠を超えて、自己-非自己を超えた気配の現実感、視覚的リアリティを伴った想念、いや、もっと正しくは自己意識が情景全体の中に遍在しているというはっきりした明快な自覚、気づきだ。
 それは何も特異な体験ではなく、実は自分の一切の思考の背景に、常に超然といる純粋な気づきであることが分かる。それは常に変わらない、静かに人の内面を眺めている繊細な何か。それは普段、心の作用が作り出している濃度の世界に比べて遥かに淡く微細だが、意識の混濁や酩酊、覚醒度の低下によってもたらされるのではなく、むしろその反対に極めてクリアーで、明確な、厳然とした自覚だ。それは日常意識の世界では、感覚や感情、思考の連続的生滅、大河の激しい濁流(=心的世界)に紛れてしまい気づけないリアリティ。自己の内面と外側(まわりの世界)が共通の素材で作られている世界から注がれる視点。ヨガの系統では真我、わたしの言葉の使い方では「意識」になる。
 ところで、大麻が効いているとき街を歩いていると、なんだか急に背が伸びたような奇妙な実感、自分の意識が頭の上方にあるような浮遊感を体験することがある。夕陽を浴びたのっぽの影法師を見て不思議な気持ちになった記憶を想い出す。昼間よりは静かな夜の方が自覚しやすい。それほど珍しいことではなく、大麻体験の中でこのような体験をした人はたくさんいると思う(滝行の体験者の中にも同じような話をする人がいる)。確かに目でまわりの情景を見ているのだが、意識の実感は体よりもっと上の方にある――これは観照の一歩手前の意識ではないかと思う。「それを見ているあなたがいる」にもかなり近いリアリティだ。
 クンダリーニ・ヨーガでは(広く見て類縁のハタ・ヨーガも)、チャクラ(人体にある7つあるといわれる霊性の座)を活性化させ、意識が体の下部にあるチャクラから頭頂(サハスララ・チャクラ)に登り、抜け出ること(クンダリーニの覚醒)をもって解脱としている。自己意識を自覚する位置が体外、頭の上にある実感として、大麻の影法師体験とヨーガのクンダリーニの覚醒は、近い状態なのではないかと思う。ヨーガの場合は、アーサナ(体位法)やプラーナ(呼吸法)をはじめとしたプロセス(換言すると、特定の宗教的な文脈)の中で起きるのだが、大麻のハイの場合は、全く唐突に結果だけが起きる。
 一方、大麻で次のようなトリップ体験をした人もいるのではないか。ふと、自分が何か考えているとき、それを考える自分がいて、さらにそれを考える自分がいて……と、自分の考えが無限ループにはまりこんでしまう。あるいは、こんな情景がイメージの中に現れる。鏡を2枚向かい合わせにして、こちらの鏡の中に映る向かいの鏡の中にこちらの鏡が映って、その鏡の中には向かいの鏡が映っている……と延々、同じ情景が続く。これらは眩暈感を伴ったバッド・トリップの一例として語られたりする。
 これらの体験は、無我の意識領域にいながら、心が思考(考えている自分がいて……)、あるいはイメージ(鏡の情景)として作用しているときに起きるのだと思う。瞑想の伝統では、いろいろな心的技法で心の作用を止めるトレーニングをした後に、無我に至るのだからそんなことは起こらない。 
 部屋で、週末にどこに行こうか考えながら、ふと、それを考えている自分がいることに気づく。その自分について、考えようとすると、その背景に、それを考えている自分に気づく……心(自分)がそれ(「意識」)に微かに気づき、捉えようと焦点を当てるやいなやそれは消失し、その抜け殻として「自分」という自覚が生まれる。同時に、それ(「意識」)は心(その心理的構造体が自我)の更に前提に現出する。
 心は森羅万象を対象として掴もうとするシステムだから、心を超えた自らの母体であるそれ(「意識」)をも対象として見なそうとする。日常意識の心の世界では、それはとても微細なので気づけないが、大麻が効いているときは気づきが起きている――無限ループのトリップで起きていることは、こういうことだと思う。

妖怪サトリの逸話

 しかし、影法師体験と観照の間には壁がある。そこから観照に至るには、ちょっとした意識のジャンプをしなければならない。それは夜空で小さく淡い星雲、例えば冬のオリオン座にある馬の首星雲を肉眼で見つけるときのコツと似ている。三ツ星の位置から馬の首星雲のあたりの見当がついて、そこを凝視しても元々微細な星雲は見えてこない。そういうとき、目の焦点を少しずらすと、星雲は視界にその姿を現すのと同じように、それ(観照)が起きようとしているとき、それに意識を向けてはいけない。既に作為の、意思の働きが何事かをもたらす領域を超えているのだが、敢えて語ると、この眼前の、見聞きしている全体、全ては何かと注意を深めることである。
 サトリという変わった名前のUMO(未確認動物)というか、妖怪にまつわる伝承がある。山奥で木こりが斧で木を伐っていると、すぐそばにサトリが現れた。サトリは人の考えていること、心を全て読み取ることができる妖怪だ。木こりは、物珍しさからサトリを捕ろうとするのだが、行動を起こす前に心を読まれてしまい、手出しができない。遂に頭にきて斧で打ち殺してしまおうと考えるのだが、その心も読まれ、サトリは逃げる身構えをする。
 これでは何をしても無駄なので、結局、サトリを相手にすることは諦め、木を伐る仕事に戻った。暫くするうち、木こりは汗が流れ出て、斧を振るうことだけに専念するようになる。もうサトリのことは頭になく、ただ斧と自分が一体化したとき、偶然の出来事が起こる。斧の頭が柄から抜け飛んでしまい、サトリに命中したのだ。おかげで木こりはサトリを生け捕りにすることができた。
 この話しは、無心(一生懸命、がんばって斧を振るう)から意識の集中(斧を振るう、それだけ)が極まって無我(サトリの捕獲)に至る技法を伝えようとしたものだと読むことができる。星雲を見つけるときのコツにも通じていて、それに意識を向けてはいけない。
 「それを見ているあなたがいる」のに気づくのは簡単でもあり、難しくもある。それは普段は気づかないがいつもあるものであり、いくら考えても思考では分からないが、全ての前提に先立つ、全く単純なことであり、一生涯気づかないかもしれないし、いまこの瞬間に気づくかもしれない。
 観照について、たくさん情報を集め、知識を増やしても、それだけでは理解に限界がある。いくら知っても、何も知ったことにならない。観照は論理的には解釈できない。それは作為の働きでは届かないところにある一種の「心理的状態」であり、知る、分かるのではなく、起きる、気づくというのが相応しい。