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2002.02.04
[ひとりごと]

大麻の変性意識(9)

生の幻想の交響の法悦

 「晩年とは孤独に耐える年である。晩年は時間を楽しめる遊びを持つほうがよい。もっと言えば、終日何もしないで、雲のたたずまいを見ていて、退屈でもなければ、虚無感もない晩年というのが、最高の収穫である。晩年は矛盾に満ちた年代である。だから麻薬の楽しさを十分に味わわせて、アルコールの楽しさを持てない老人に、生の幻想の交響の法悦を知って欲しい」(松田道雄)
 この一節は、大麻についていろいろ調べているという方から送られてきた手紙に引用されていたものだ(詳しい出典はよく分からない)。「生の幻想の交響の法悦」とは絶妙な表現ではないか。――幻世の交わり響きあいの恍惚とした歓喜、エクスタシー。「生」「幻想」「交響」「法悦」、それらの言葉が愚直に畳みかけるように重ねられたとき、なんだかこの世的なものではない異貌の光りが放たれる。松田道雄という人は、市井の小児科医、著名な進歩派文化人として知られ、社会主義に親近感を持っていた人物であった。精神的・宗教的な方面の人ではないと目されていたが、晩年は浮き世の柵から解放されて自由に魂を遊ばせたのだろうか。世間の目や義務、役割、それに仕事・労働から解放された魂、あるいは老境のリアリティにしてはじめてこのようなインド的な精神性と親和性を持ち得たのだろうか。
 医師であった松田道雄にとって「麻薬」とは、阿片やヘロインのことだったかもしれない。しかしその文章からインスピレーションを得た側からすれば、「麻薬」という言葉の意味は、本質的にはサイコアクティブなドラッグの総称ととらえるのが自然だ。そして「生の幻想の交響の法悦」を楽しむ、遊ぶには、やはり大麻が一番相応しいだろう。
 オランダの文化史家ホイジンガは、人間にとっての「遊び」を考察した大著『ホモルーデンス』の中で「遊びというものが現にあるということが、宇宙のなかでわれわれ人間が占めている位置の超論理的な性格を、絶えず幾度となく証明する理由になっている」と述べている。
 「遊び」というと、余暇とか息抜き、自由時間といったように、人生の主題からは外れた余興のようなものと見なされてきたのではないかと思う。しかしホイジンガは、古今東西の遊びを比較して人間の文化は遊びから始まった、人間とは遊ぶ存在であるという。真面目な、普通の大人の生活からは、外れたものの方に人間の本質が貫かれているというのだ。
 『ホモルーデンス』には過去の「遊び」の定義を列挙しているくだりがある。例えば生命力の過剰の放出、あるいは先天的な模倣本能、緊張からの解除、将来の仕事の練習、自制の訓練、競争心の欲望……といったものだ。
 ホイジンガは、それらの説は遊びを遊び以外の何ものかのために行われる、ある種の生物学的目的に役立っているという前提から出発しており、どれも不完全な定義だと退ける。そういった定義には、遊びの面白さ、人を夢中にさせる力に対する着目が抜け落ちている。ホイジンガはそこにこそ遊びの本質があり、遊びに最初から固有なあるものが秘められているという。
 少しばかり引用すると「遊びの「面白さ」は、どんな分析も、どんな論理的解釈も受けつけない。……「面白さ」とは本質的なものだということである。つまり、面白さとは、それ以上根源的な観念に還元させることができないものであるということの、いわば証明になっているのが、この言葉なのだ」(『ホモルーデンス』)。
 多くの人にとって義務教育前の子供時代は遊びが生の時間の中で大きな位置を占めていたはずだ。成長するに従い、勉強し、仕事に就き、家庭生活を営むというような人生コースの中では、遊び・面白さは、脇役の位置に追いやられる。遊びが生の時間の中で復活する可能性があるのは老境に至ってからだろうか。
 わたしは、ホイジンガの「遊び」の定義は、多くの人が大麻を好む理由の本質的な部分を衝いていると思う。というのは、大麻を好ましく思っている当人がそれを自覚しているか、無自覚であるかはさまざまだが、結局のところ面白いから、楽しいから大麻が好きだということに尽きるのではないかと思う。それはまさしく遊びである。遊びだからといって、悪いことや後ろめたいことはない。ホイジンガの語っている意味に於いて、遊びは不健全でも、不必要なこと、幼稚なこと、下らないことでもない。それどころか人間とは遊ぶ存在なのだから、それは生にとって本質的なことだ。

大麻の安全性

 ごく普通のご年輩にも「麻薬の楽しさを十分に味わわせて」(松田道雄の言葉から。以下、「麻薬」を「大麻」に読み替えて話を進める)というからには、大麻が心身に危険なものなのかどうかについて簡単にふれておきたい。フグの卵巣がいくら美味だといわれても、もし危険なものならば、安易には人に勧められないだろう。
 大麻が有害・危険なものなのかどうかというとき、オランダ、ベルギー、イギリス、ドイツ、スペインなど西ヨーロッパの主な国々では、大麻に著しい危険性はないという共通認識ができあがり、自由化(「非犯罪化」と呼ばれる)が実現しつつあるという現実がその答えになっているのではないだろうか。西ヨーロッパがサイエンス、健康や環境に対する配慮、人権感覚において世界で最も発展している地域であることには異論がないと思う。そういった国々が、心身に有害・危険な薬物を容認するわけがないというのが、なにより明快な答えではないか。実際に大麻を自由化しても何か問題が起きているという話は聞かない。
 そうなると文字に書かれた資料にあたるのは、副次的な意味あいしかないかもしれない。それでも何か資料に頼るとしたら『メルクマニュアル医学情報[家庭版]』をあげておきたい。メルクマニュアルはアメリカで1世紀を越える歴史を持っている医学手引き書で、世界的に高名な専門家200人が執筆に加わっているという。高い信頼性や学問的権威の裏付けがある資料だ。そこには大麻(マリファナ)について、次のような記述がある。
 「マリファナについては身体的依存の決定的証明はない。アルコールの使用と同じように、マリファナは、目に見える社会的あるいは精神的機能不全、または嗜癖を起こさずに、多くの人が断続的に使っている」その後、大量使用や長期使用に伴う弊害が幾つか指摘されているが、それも心身への大きなダメージとはいえないような症状であって、公平に見ても著しい危険性があるとは言えないというのがメルクマニュアルの評価である。
 実のところ大麻は有害・危険どころか、逆に欧米では薬として注目を集めている。難病として知られる多発性硬化症や慢性の痛みの治療薬として、あるいは癌やエイズの化学治療の副作用として起きる悪心・嘔吐の改善、偏頭痛、不眠症、気管支喘息、緑内障などの治療に大麻は有効なことが明らかになっている。カナダやイギリスなど医療用に大麻を合法化する国も出てきている。

幸福感をもたらす草

 『メルクマニュアル医学情報』(家庭版ではない方)では大麻(マリファナ)の「症状」を次のように記している。
 「マリファナは、脳活動を低下させて、観念にまとまりがなく、制御できない感じがする夢幻状態を生み出す。時間、色と空間の知覚はゆがめられ、強まる。色はより輝かしく、音はより大きく思われ、食欲は増すことがある。マリファナは一般に緊張を軽減し、幸福感を与える。高揚感、興奮、及び内面的快楽(ハイ)という感覚は、薬物摂取した状況と関係があるようだ。例えば一人で吸うかグループで吸うか、その場の雰囲気である」(最初の部分で、脳活動を低下とか、あるいはまとまりがなく、制御できないなど、否定的な印象を受ける。しかし別に脳死や睡眠状態になってしまうわけもなく、確かに普段の頭の働きとは違うにしてもそれをポジティブに表現すれば、既成概念や日常の思考パターンの条件付けや自我の抑制から自由になった心の状態という言い方さえもできる)。
 メルクマニュアルによれば、大麻は「幸福感」や「内面的快楽」をもたらすというのだ。全体的にもネガティブな「症状」ではないように読める。「幸福感」や「内的快楽」をもたらしてくれるというのは結構なことではないか。 
 つけ加えると、大麻は味覚を飛躍的に増幅させるという類稀な作用があって、食べ物の旨さを堪能するに魔術的効果がある。それは舌の歓びとでも言うのだろうか。素材や調理をいくら極めても、大麻が効いているときに味わう「病的」なほどの美味しさにはかなわないではないだろうか。拒食症の人であっても大麻により食欲を甦らせるという話を聞いたこともある。どんなものでも美味しくなるし、いくらでも食べられるのが摩訶不思議だ。
 生まれてからこんな美味しいものを食べたことがないと感嘆しながら深夜のファミリーレストランで大食いしたり、コンビニのスナック菓子を食べ続けたなんて話はよく聞く。ただの食パンや御飯だけでも美味しいし、口当たりがねっとり、とろけるようなものは特にいい。デザートやチョコレート、おしるこなど甘いものもいい。わたしは、大麻によって甘味という味覚が人に満足感をもたらすという向精神作用があることを知った。
 さらに大麻は触覚・皮膚感覚も繊細、敏感に、ディープに増幅させる。大麻と温泉・入浴や整体・マッサージを組み合わせると、もう忘我の快感を味わえる。体の芯まで波のような温かさが染み込んでいく感覚、内臓感覚にまで届く解放感は、普通じゃない域にまで達する。いい空気と水、それにプラスして、この世の「生の幻想の交響の法悦」を知る年代になったなら、そんな快楽を楽しんでもいいのではないかと思う。
 美味と快感、それにラーフィング・ハイ(大笑いするハイ)もおまけにつくのだから、それは地上天国といってもいいのではないか。それがひと昔まで、どこにでも生えていたただの草(大麻)から得られるのだからおかしな話だ。どんな環境でも育つ1年草で春に植えれば秋には収穫でき、1本の株から何人かの1年分の消費量が得られるというのだから極めて経済的な産物だ。万人に幸福感・快楽を与えてくれるこの草(大麻)を法律で取り締まり、禁制品にしているのは全くおかしな話だ。後世の人々は、大麻をめぐる現在の倒錯した状況をどのように解釈するだろうか。

邯鄲の夢

 「邯鄲(かんたん)の夢」という中国の諺がある。唐の時代、官吏登用試験に落第した盧生という青年が、趙の都、邯鄲のはたごやで、道士呂翁に身の不平をこぼした。道士は彼に栄華が意のままになるという不思議な枕を貸してくれた。夢の中で、廬生は名家の娘を妻にむかえ、次第に立身出世する。一時、冤罪で失脚するが復活し、富貴を極め幸せな晩年を送り生涯を閉じる。が、目覚めると、枕頭の黄粱(オオアワ)がまだ煮えないほど短い間であったという。人生の栄枯盛衰の儚さを垣間見た廬生は道士に礼を言って立ち去った。
 道士というのは、神仙術、つまり不老不死の仙人になる術を修めた者のこと。彼らは薬草の知識にも深かったから青磁といわれる枕に大麻が詰められていたのでは……と想像を逞しくする。
 昔の中国の薬草書には大麻のこんな効果も記されている。「五労七傷を主治し、多く服用するとその人をして鬼を見さしめ、狂走せしめる」(1世紀、中国最古の薬物学専門書として知られる『神農本草経』より)、「弘景(5〜6世紀の薬学者、陶弘景)曰く、麻勃(大麻の雌花の部分)は方術には用いることが稀だが、術家では人参(チョウセンニンジン)と合わせて服し、未来のことを予知する。時珍曰く、按ずるに、范汪の方に健忘を治す方があって、七月七日に採取した麻勃一升、人参二両を末にし、蒸して気を全部に巡らせ、毎就寝時に一刀圭づつを服すれば、能く四方の事を尽く知るとある」(16世紀、李時珍の手による「本草綱目」の解説書『新註校定國訳本草綱目』より)。
 「鬼」という文字の由来は、人屍の風化したものを称したといわれ、そこから中国では死者の霊魂のことを鬼と呼んでいた。つまり霊魂を見るということである。死者の霊魂を見たり、あるいは未来を予知することは、昔の中国の術家(仙術)、現代でいえば超能力になる。
 かなりの人が大麻が効いているとき、その手の体験をしているのではないだろうか。何も喋らなくてもその人の思考を読みとったり、離れた所から思考を伝達するというテレパシーのような体験をしたという話はそれほど珍しくない。ロシアのESP研究で行われていたという触覚視(指先で色や数字を読む)は、ほとんど大麻のもたらす「共感覚」と紙一重である。以前は、はっきりとは分からなかった体の気(気功の気)の流れが大麻をしたとき感じられるようになったという話もよく耳にする。
 こういった体験は、アストラル意識下でのリアリティであり、人はその意識にいるとき霊的世界の目が開かれる。それはケン・ウィルバーによる意識の基本的構造では、トランスパーソナルな意識領域のうちで、入口にあたる「心霊的」意識に該当している。ウィルバーは、人間が「心霊的」レベルの認識に目覚めれば、日常の感覚的世界で岩や木や家を、その心的世界でイメージや表象を知覚するのと同じように心霊的現象が現実的になると述べている。
 大まかに整理すると、アストラル意識と「心霊的」意識は、表現は異なっているが同じ意識領域を指している。またこの間の「大麻の変性意識」の中での言い方では、無心と無我の間に挟まれた意識の領域にあたる。以前、「日常意識を深めた意識レベルとして無心があり、さらにその先に無我があるのだが、マリファナのストーンは大体、無心から無我の手前あたりに相当する」(大麻の変性意識(2))と書いた通りである。

日想観

 浄土教の中に「日想観」という一種の瞑想がある。西方に向かって正座し、心を動かさずに一心に太陽を見つめるというもの。日没の太陽を観想することで極楽浄土への往生を願うという。太古の狩猟詐取の時代から人類は日々、夕陽を目にしてきた。日没を目にすると、なんとなく感傷的な気持ちになるというのは、数万年にわたり堆積してきた人類の集合無意識なのだろうか。
 先日、なにげない光景の中にハッとする場面を見た。冬晴れの夕方、都会の高層ビルの最上階で、日没を見ていたときのこと。まわりは話し声で騒々しい。すぐ隣に保険の外交員風のおばちゃん二人が向き合って、なにやら一生懸命に喋っている。
 太陽の下端が遠くの丹沢の山に接した。と、そのときお喋りの途中、偶然二人とも窓の方向に首を傾けたのだが、そのまま黙り込んで動きが止まってしまった。それから数刻、太陽が完全に沈むと、二人は何事もなかったかのようにお喋りを再開した。ストップモーションがかかったようなあの数刻の間、おばちゃんたちの胸に何が去来していたのだろうか。
 熱帯の島で見た夕陽のことを想い出す。陽が西に傾くころ、水平線の見える物見塔に仲間が三々五々、集まってくる。らせん階段を昇ると、四方が見渡せる物見塔の部屋がある。そこでガンジャ(大麻)のジョイントを回しながら西の空を眺めるのが唯一の日課だった。
 目の前に田圃が広がり、その先にヤシ林がある。さらに向こうは海で、せり上がって見える水平線が左右に伸びている。海と空の色が刻々と変わるのに目を奪われている間に、白色の大きな太陽がジリジリと下降していく。いま目にしている天地の中で、太陽だけが切り抜きのように完璧な円なのは、なんとも奇異な感がする。
 スマトラ・ガンジャは軽いものでストーンはしていないが、海風を一層心地良く、起きている光景への没入感をハイレベルに高めてくれる。みんな沈黙したまま太陽を凝視している。言葉が出ない。ただ太陽を見るだけだ。大空、大地、雲、海、太陽の一刻一刻変化するドラマが展開されていくのに引き込まれ、極まってしまう。
 そのころから集中しようとする意思を手放しても意識が太陽に止まり続けるようになっている。まわりの姿形はすでに意識から消えている。沈んでいく太陽の最後の一片に注意を止め、それがだんだん小さくなり、かすかな光りの点になり海に消えた瞬間、フッと一切の思考や想念が止まる。……どのぐらい時間がたったのだろうか。ふと気づくともう辺りは夜の帳に包まれていた。

[ひとりごと]