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2001.06.12
[ひとりごと]

大麻の変性意識(6)

人類我=集合無意識を体験するノウハウ

 古本屋で偶然手にした1冊の文庫本がある。素人っぽい装丁で『自己探求の心理学』というタイトル。「非現実の現実」という副題がついている。臨床心理学が専門の水島恵一という人が30年近く前に出した本だ(初版1977年)。地味なイメージの現代教養文庫の1冊だが、こうした書誌データからは、思いもよらないエキセントリックな内容である。それは著者が本文中で読者に対しこんな警告をしているぐらいだ。
 「……第4章の中途でおことわりしたように、非現実感にひきこまれて自己が乱れてしまう危険を感じられた方は、197頁の要約だけ読むか、少なくとも185頁から193頁まで避けて読みようにしてください」
 なぜ「自己が乱れてしまう危険」があるかというと、この本の目的が、人間の個的自我を超えた「人類共同存在」(=「集合自己」「人類我」/著者は同じ意味として使っている)を実感的に体験するための方法を紹介しており、その際のリスクについて言及しているのだ。つまりこの本を読んで、著者の試みたような心理的実験を行うと「人類我」の実感が得られるというのだ。
 ところで大麻の向精神作用のひとつに、被暗示性が高まる(暗示にかかりやすくなる)ことがある。大麻の効いている状態下で、この本で試みられている実験をしてみたらどうなるだろうか? わたしはそんな問題意識で以前、実験をしていたとき、自分なりの人間の集合無意識(人類我)のモデルを思い着いた。また「大麻の変性意識について(2)」では「マリファナのストーンは大体、無心から無我の手前あたりに相当する意識レベル」だと書いたが、「人類我」は意識レベルとして、無心や無我とどういう相関関係にあるのだろうか。そういった話を展開していきたい。
 まず最初に本の大まかな内容を紹介する。といっても結構、長くなり、今回はほとんど本の紹介で終わってしまうことになってしまった。

『自己探求の心理学』の概要

 まず「人類我」の説明をしておこう。著者によれば、それは自己意識が人類と共に過去の人々において生き続けてきたし、未来においても他者、ないし人類とともに存在し続けるという自覚だという。それは個人的な自己を超えた普遍的な心と言ってもよく、ユングの集合無意識に近いものだ。
 著者は、カウンセリング、イメージ面接や自己催眠のような手法を用いて、自分自身の注意を極度に集中させながら、自己意識を段階的に操作していくことで「人類我」の自覚に達したという。本全体は6章に別れていて、3章までが多重人格や離人症のケースをとり上げながら集合自己というキーポイントに至る導入部になっている。後半の4〜6章で心理的実験を行うのだが、そこは2つの段階に分かれている。
 最初の第1段階は、集合自己の実感を徐々に育てるために次のような手順を踏んでいく。まず個人の生まれ変わりを認めたとして、過去のある人物を自分の前世とする(仮に読者が輪廻を信じていなくても、ここでは信じている気持ちになって実験していく)。そして、その人物の内面になりきって人生を再体験していく。その人物の目で、当時の生活の思いや感情、喜怒哀楽を実感するように試みる。
 過去のある人物の人生を自分の前世だと思えるように想起していくためには、自分が感情的に同一視しやすく、しかも具体的な歴史的事実が分かっている人物を選ぶようにするのが望ましいという。確かに血縁や住んでいる土地、感情的な共感性などの面でつながりを感じられる人物を想定した方が心理的に没入しやすいというのはもっともだ。著者は三鷹市の玉川上水の近くに住んでいるということから、江戸時代、玉川上水を掘った町人、庄右衛門、清右衛門(玉川兄弟)を自分の前世に偲ぶことにしている。
 本には、著者が郷土史を調べて玉川兄弟の人生を回顧しつつ、実際に玉川上水を散歩し夢想に耽るシーンが描かれている。ある場所では、水道工事に奮闘している庄右衛門になりきり、その心境を想起してみたりしている。こういった練習を繰り返していくうちに歴史的過去を自らのものとして想起できるようになっていく。
 庄右衛門に十分なりきれたら次に、少し時代が移った武蔵野の農民、さらに幕末の江戸町人としての人生を再生してみる。こういった実験を繰り返していく中で、著者は「平安時代の人びと、室町時代の経師平作、島原の農民、玉川上水をめぐる人びと、幕末の甲商店の小僧等々として、代々の生を生き、そして現在の私としての生をいま生きつつあるという実感を育ててきました」という。
 第2段階では、特定の個人生活史を再生しようとした第1段階から、過去に生きた人々の生活経験の断片を実感することに重点が移る。この段階では、経験の主体が誰であるか、特定の誰が自分の心の祖先であるかということは問題ではなくなってくる。
 そして著者は「有名人の生涯も無名人の生涯も、健康的な生活も不健康な生活も、すべて人類の歴史の流れの中にあり、本質的にはのちの世代の意識の流れの中に受け継がれていく」という自覚を経て「人は過去現在のすべての人において生きてきた」という人類我の実感に至った。どうも一冊の本の粗筋だけを紹介しているので、この文章だけでは到底、著者と同じ実感を得るのは無理だと思うが、この実験の理論になっている<知覚の構えの「図ー地」反転>という方法(詳しくは次回にふれる予定)は確かに有効ではないかと思った。
 ここに於いて人類我という目的地に着いたのだが、続いて著者は未来の自己意識への旅をつけ加えている。

未来から照射される自己意識の実験

 ここでも最初は、21世紀の自分(この場合は著者が生まれ変わった人物)の自己意識を味わう実験をする。次に21世紀に生きているU治という著者とは血縁的にも、生まれ変わり上も無関係な人間がいて、彼がこの本(『自己探求の心理学』)を読んでいるという想定をする。このあたりからがこの本の佳境なのだが、話は少しややっこしくなる。
 著者がこの本の原稿を執筆しているのは1975年のことだが、そこから21世紀のU治の目を通して1975年時点での著者の人生を回顧するという展開になっていくのだ。ひとしきりU治の調べた1975年頃の著者の内面が紹介された後、著者は1975年の自分に戻ろうとする(このとき<知覚の構えの「図ー地」反転>が起きる)。この先、少し長くなるが1ページほどを引用しておく。
 以下の引用文は大麻が効いているときに読むと、日常意識のときとは異なった強い印象――川で砂金を浚って人が、たらいの底に黄金色の粒を発見したような鮮烈な閃きを懐く。自己意識そのものは透明人間のようにつかみようがないのだが、その輪郭を浮かび上がらせることで自己意識に気づくという仕掛けがある。
 
 「ここで1975年末、ちょうどこの本の原稿のこの部分を書いていた著者が、どんな気持ちになっていたかということを述べてみたいと思います。じつは著者は、ここまで書いてきて、執筆をひとやすみし、20世紀現在の著者個人にもどろうとしていたのです。ところが著者はすでに21世紀の存在になりきっていたので、うまく20世紀の自分に戻ることができないのでした。そのときの著者の言葉をそのまま記していきましょう。
 『いま、これを書いている原稿用紙も、机も、部屋も、そして東京の街も、あたかも過去の記憶像のように思えてなりません。私は奇妙な感じになってきました。1975年現在この仕事部屋で起こりつつあることは、21世紀にいて思い出した過去の記憶、しかも自分を弟三人称にした記憶のようになってしまっています。そして、その記憶が刻一刻展開しているような感じなのです。そこで、私が現在の主体としてペンを持とうとすると、それはあたかも過去の彼(著者)がペンを持とうとしている記憶像のようになり、現在の主体としての私は離人的になっているのです。
 私は試みに散歩にでてみました。するとやはり、20世紀の過去の玉川上水付近の記憶像としての感じの方が強く、〈本当の私はいまここにいる〉と思おうとすると、やはり軽い離人感が起こるのです。
 実に奇妙な感じでした。本当の主体が21世紀に存在していて、あたかも1975年現在のことが記憶として冷凍にされ、21世紀になってだれかがこの場面を想い出しながら散歩するときに、この冷凍が溶けて、そこでやっと実感になってくるという感じだったのです。」
 
 ここまで来るともうあと最後の一歩である。著者は自分の感じている離人感が21世紀のU治からの視点にとどまらず、U治と同じような21世紀の他の読者、さらには1990年代、80年代の未知の読者からの視点でもあると自覚するようになる。最終的には本の読者であることも必要なく川の流れや、生活文化に集合の心を見出す人がいるならば、彼らの存在は、みんなU治からの視点と同じではないかという地点に至る。それは第三者(集合自己)の視点に行き着いたということである。
 
 「……第三者がみている著者を含んだこの生き生きとした世界、もちろんそれは俗に体験される見る自分と見られる自分の分離ではありません。見ている主体はあくまで第三者です。そして生き生きとしたその視野に、著者個人は、他者や動物や草木とまったく平等に位置づけられているのです。
 この不思議なリアリティに魅せられて著者は再び戸外に出てみました。住宅街もいつもより活気を帯びて感じられます。そして玉川上水べりまで出てその自然に接したときです。著者はいつになく美しさ、荘厳さ、調和を感じたのです。相変わらず自分が見ているという感じではありません。むしろ神が自分を含めたすべてを照覧している、あるいは神においてすべてが生き、著者も動いているという感じだったのです。」

 上記の記述は無我に近いリアリティを描写したものと読める。著者は「不思議なリアリティ」として「照覧」(「あきらかに見ること。神仏がごらんになること」広辞苑)という言葉が使われているが、それは実感をよく表していると思う。
 それはラジニーシの説く観照者、クリシュナムルティの「観察者は観察されるものである」というリアリティと同じものであり、それを直接体験したときの描写だということが分かる。わたしにとって興味深いのは、著者が瞑想や禅とは関係のない道を歩みながら結果的に同じリアリティに至ったというところだ。そのことは意識の世界を客観的に語ることができるという証のように思える。
 わたしも、昔、はじめてキノコを食べたとき南の島で同じような直接体験をしている。最後にそのときのことを書いた文章を引用しておこう。前掲の著者による「不思議なリアリティ」の記述と較べると、周りの環境・情景は異なっているが、内的世界での自覚としては同じことを語っている。著者の語る「照覧」は、わたしの「トータルに気づくこと」と読み変えても全く同じように理解することができる。
 「……<自分>は肉体とは別の意識主体であるばかりでなく、さらにその<自分>をも観ているということに気づいた。鏡もビデオも使わずに自分が自分を観るなんて矛盾している表現だけれど、キノコによる変性意識状態下での認識を日常意識下の論理で表現するのはなかなか難しい。形式論理ではパラドックスになってしまうリアリティが、確かに実感をもったリアリティとして感じられるのだ。
 「そうだったのか!」といった一種の啓示、閃きとしてこの気づきが起きた。
 この状態は幽体離脱、体外離脱といわれる体験とは異なっている。自分の肉体を外部から見るとのと違い、舞っている容器のような自分の肉体、それを自覚している自分(自己意識)、その自分は同時にガジュマルの樹の枝や肉厚なふくぎの葉を眺めている――これらをトータルに気づくこと、そんな意識状態だった」(『オルタード・ディメンション』7・8合併号より)

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