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2001.02.17
[ひとりごと]

「梵我一如」体験(上)
  ――5MEO−DMTの世界(4)

死後の世界=梵我一如の意識レベル 

 これまでの話で5MEO−DMT体験は、死の向こう側、死後の世界を垣間見ることだと述べてきた。それは凡我一如(=無分別三昧)の意識という言い方もできる。もちろん未だ生きているわれわれには、そのように考えられるという推測の域を出ないことだが、自己の5MEO−DMT体験を解釈していくと、この推測はそれほど的外れではないように思える。その裏付けとなったのはラーマクリシュナの講話であった(以下、引用は『ラーマクリシュナの福音』より)。
 ラーマクリシュナは、死後の生活はどういうものかと尋ねられたとき、次のように答えている。意識は生と死を繰り返しても継続し続けているが、人が無知であるあいだ(梵我一如の意識を知らないとき)は、転生し、またこの世に生まれてくる。この世は意識がマーヤー(夢幻)に惑わされている世界であり、それに気づくとマーヤーから覚め、その人は再びこの世に戻ってこない。これはインドの伝統的なヒンズー教の教えでもある。
 梵我一如とはインドのヴェーダーンタ学派といわれる宗教哲学のなかで唱えられている。最初に言葉の一般的な説明からはじめよう。
 「(ブラフマン=梵)は最高者とも呼ばれ、人格的存在・純粋の精神的実体・純粋の有であり、常住・遍在・無限・不滅である。万有の生起と存続と帰滅との起こるもとのものであり、万有の母胎である。……世界創造の目的はブラフマンの単なる遊戯にすぎない。……世界の創造・存続・帰滅の過程は無限に繰り返される。個我(アートマン)はブラフマンの「部分」であり、それと別異、かつ不異であるが、無始以来の流転輪廻を続けている。人生の目的は解脱であるが、それはブラフマンとの合一である」(中村元『インド思想史』)。ブラフマンとアートマンがひとつだということを梵我一如という。
 梵我一如の考え方をまとめあげたのは8世紀後半の神学者シャンカラだが、それは仏教の唯識に近いように思えるのも興味深い(唯識と5MEO−DMT体験の共通性については、「5MEO−DMTの世界(1)」でふれている)。
 ラーマクリシュナの伝記を読むと、彼は生涯にわたり日常的にサマーディと呼ばれる忘我状態に入っていた。講話の記述からは、サマーディのとき梵我一如の意識状態にいたことが窺える。彼の教えは全て梵我一如を説くことに尽きている。時と場所によりいろいろなテーマで語りかけているが、結局、自己(個我=アートマン)とブラフマンは同一(=梵我一如)だと語っているだけである。
 その講話を読んで、内容を知識として理解するのは簡単だが、リアリティとして直接体験できない限り、本当に分かったとはいえない。ラーマクリシュナはいつも、それ(梵我一如)は言葉では説明できないと語っている。感覚や感情でなく、言葉や思考、概念、論理、知識でもないことを理解するのは難しいことだ。
 前述したようにラーマクリシュナの講話の内容はヴェーダ、ウパニシャッド、ギータなどインドの古典と同じことである。当時、ラーマクリシュナの周りの人々が彼が梵我一如に達していたことの証をどこに見ていたかというと、頻繁にサマーディに入る姿を目撃していることが大きかったようだ。
 つけ加えるとそれ(梵我一如)は意識体験なので、それを言葉で他者に説明しているときは、本当に体験した人間ならではの見識やリアリティのある比喩、その意識からのスタンスに基づいた即興的な表現がなされているかといった点に注目すべきだろう。5MEO−DMT体験を踏まえ、そのような(換言すれば古神道の審神のような)目で『ラーマクリシュナの福音』を読んでみたが、彼はそれを実際に体験していたように思われる。
 「宇宙は消滅した。空間それ自体がもはや無い。はじめのうちは、思想の影が精神の暗い深みの中に浮かんでいた。やがてこれも溶け去り、あとには我の意識の単調な鼓動が残った。それも止まった。魂はアートマンの中に没した。二元論は消えた――言葉を超え、思想を超えて、二なき一、ブラフマンに到達した」(ラマクリシュナの最初の梵我一如体験/『インドの光』田中嫺玉)。強いて客観的に表現すると、梵我一如はこのような精神のありようになる。
 ラーマクリシュナはカルカッタ近郊のカーリー寺院に居を定めていたが、彼の話を聞くために毎日多くの人々が訪れていた。その中には宗教家や学者、知識人もいた。無学文盲のラーマクリシュナに彼らが何を求めていたのかというと、単にヴェーダの教えを聞くというよりも、大覚者と称されたラーマクリシュナの口からヴェーダが語られるのを聞きに来ていたのだという。ヒンズー教社会のインドに於いても、梵我一如は稀にしか起きなかったようだ。
 再度、確認しておくと、梵我一如は直接体験である。誰でも体験できる可能性がある。それは「(最も深いレベルの)意識」、あるいは「仏性」とほとんど同義語であるように思える。

意識の地図

 わたしは5MEO−DMT体験と『ラーマクリシュナの福音』、『秘教の心理学』(ラジニーシの講話集/特に「第7章七つの身体の超越」の部分)という2冊の記述を照合することで、それが梵我一如であったと確信するようになった。順番としては、最初に4年ほど前の(当時は)理解不能の5MEO−DMT体験があって、それが何だったのかいろいろな本を読み漁っていく中で、それを説明する2冊に出合った。
 これから5MEO−DMT体験とラーマクリシュナ、及び瞑想家ラジニーシの言葉を比較してみよう(ラジニーシについては、講話を読むと無我を知っているのは確かのようだが、そこから先は危ういようなところがある。しかし、その一瞥は知っていたように見えるので補足的に使わせてもらう)。
 それにしても真の超越的体験が起きる地平からは、人間のどんな修行も、所詮、ドングリの背比べ程度の差でしかないことが見えてくる。無心とか無我のレベルでは宗教的な修行の有無が、大きな開きとして立ち現れてくるかもしれないが、意識の深部に至るにつれ開きはなくなってくる。そして凡我一如の世界になると、もうほとんど無関係といってもよくなる。
 長期に渡り荒行や瞑想を続けてもそれを得られない人もいるかもしれないが、一度の5MEO−DMTでそこに至る人もいるかもしれない。ここではこれ以上書かないが、サイケデリックスの種類や体験回数といったこととは別に、体験者が1.(自覚的にか無自覚にかは問わず)ギャーナ・ヨガの視点を持っているか、2.ラーマクリシュナのいう「ニティヤシッダ」、「クリパーシッダ」というタイプに属しているかの2点が大きな要素を占めているように思われる。逆に言えば5MEO−DMTを体験すれば誰でもそれが起きるというわけでもない。
 ラーマクリシュナは当然ながら5MEO−DMTを使わずに凡我一如を体験していた(大麻は好きだったようだが)。だから可能性としては、より難易度は増していくがキノコやLSDでも、あるいは何も用いずとも、それに至ることができるはずだ。

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