カロンセギュールの香り

作:Angelina



第一章


ネイルサロンから帰ってきたあたしはもうどきどきしていました。

マニキュアは清楚で控えめな桜貝のようなピンク、そしてペディキュアは誘うような真紅。新調した黒のレースのブラとショーツを身に付け、あたしは玄関に降りていきました。ブラのストラップを飾るレースの花が時折ノースリーブのシャツから見え隠れし、白い肌がいつもに増して艶やかに見えます。


そんなあたしを主人は誇らしげに見つめ、何も知らず、“AYA,きれいだよ。でもお別れ会の幹事が、見送られる本人より輝いてちゃもうし分けないよな。ちゃんと主役を立ててやれよ”と屈託のない笑顔を見せて快くあたしを玄関まで送ってくれるのです。“うふふ、いやだ、ダーリンたら。そうね、今日は絵梨香の行きたいところ全部付き合うから遅くなると思うわ。彼女、ニューヨーク最後の晩だもの。今晩は寝ない方が明日のフライトでぐっすり眠れる、って彼女も言ってたし。”

そう言いながらあたしは紅潮する肌を隠すようにスプリングコートをはおり、ヒールにペディキュアの足を通し、マンハッタンの摩天楼の中へと足早に歩き出しました。


****

来月ニューヨークに出張に行きます。時間が合えば飲みにでも行きませんか。”


木田さんからE-mailをもらったのは2週間前。そう、彼が駐在を終えて日本に帰ってしまってからあたしは彼に会いたくてたまりませんでした。

落ち着いていて、余り目立たず一見インテリ風の彼を、最初はなんとも思っていませんでした。でもあるプロジェクトで木田さんと一対一で話す機会が増えるにつれて、7歳年上の彼の大人の男の深い魅力、包容力そしてインテリメガネからは想像していなかった明るいユーモアたっぷりの彼にあたしはだんだん惹かれていったのです。彼が私のことを好意的に思っていたのもなんとなく気付いてはいました。そして彼がニューヨークを経つ前日、あたしはグランドセントラル駅の前で抱きしめられ。。。でも二人とも思いを口に出さないまま、驚いた目で彼を見上げるあたしをタクシーに乗せ、角を曲がるまでずっとあたしの乗ったタクシーを見つめていた彼の姿を思い出すたび、あたしは後悔の念で胸が張り裂けそうになるのです。


それから約6ヶ月。木田さんが、来る---


***

セントラルパーク脇の細い路地に入ると、ヒールの足音が胸の鼓動になって聞こえます。

“Ristrante Cocco Pazzo。ここだわ。。。”

小さな窓のガラス越しから、ほんのりとロウソクの灯がともったシックなバーカウンターが見え、そして ミ あの背中が見えました。あたしはコンパクトを取り出し、さっと化粧を直し、軽く深呼吸をしてからドアを開けました。

“ボナセーラ!”陽気なイタリア人のウエイターがあたしを迎えます。その声に木田さんが振り向き、一瞬まぶしそうにあたしを見つめてから、あの懐かしいやさしい笑顔に戻り、落ち着いた、それでいて喜びをかみしめたような声で


“待ってたよ”


そう、あたしも、あたしもこの時をずっと待っていたの…!


あたしたちはレストランの奥の方の角の席に案内されました。あたしの背中にそっと添えた木田さんの手にあたしはもう敏感になっていました。


案内された席は、向かい合わせではなく、隣同士になっている、角の小さなテーブルでした。あたしは木田さんの隣に座ると、肩が軽くふれあい、あたしは胸の鼓動を聞かれないようにするので大変でした。

その小さなテーブルに、不意に小さなカクテルが二つ置かれます。

“あの、これ、オーダーしていないんですが…”

マリオ、だとか名乗っていた陽気なウェイターはにっこり微笑み、

“木曜日の夜はカップルの方にサービスなんですよ。素敵な夜を!”

あたしと木田さんは顔を見合わせ、少し照れてあたしは目線を落としてしまいました。

するとグラスを握るあたしの手に彼は軽く手を添え、

“AYAはワインが好きだったよね。ニューヨークに入る前に出張先のフランスでお客さんからもらった上等のワインがあるんだ。飲まずにとってあるから後で一緒に空けようか?”


それからレストランでどういう話をしてどうやってホテルまで辿り着いたか、あたしは“その後”の事で頭がいっぱいになっていてなんだか覚えていないのです。ただただ、隣に座っている木田さんの、時折あたしの肩に触れる感触を、横顔を、ほのかなコロンの香りを、そしてやさしいまなざしを楽しみ、次から次と溢れ出る会話にあたしは時を忘れ、暖かい幸せを感じていました。時よ、このまま止まってしまえ…




つづく

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