片翼だけの天使たち
 プロローグ:幼年期の終わり

 それは遠い昔の記憶

 昼過ぎから振り始めた雨は、陽が暮れるころには雪へと代わって、今では本格的な降りになっていた。細かい雪の粒が高速で地表に降り積もる。

 気がついたら、ここにいた。

 雪の薄い膜で覆われ始めた土手のサンクリング道路にスニーカーの跡を刻みながら一人の少年が歩いていた。
 年齢は10歳ぐらい
 よっぽどの暴れん坊なのか、全身の至るところに出来たばかりの傷跡がある。この年頃の少年にしては鍛え上げられた身体をしているが、顔を上げようとはしない。
 ただ、少年は雪の舞い散る道を歩いている。
 どこに行こうという宛てもなく、ただ一人きりで。

 雪が降り落ちている。

 やがて、少年は転がるようにして土手を降り、河原まで落ちるとそれっきり動こうとはしなかった。
 疲れている。歩くのも走るも指を1mm動かすことさえにも疲れている。
 涙を流すことさえも

 雪はあいもかわらず降り積もっている。
 全てを覆い隠すように降り積もっている。
 夜の闇でさえも塗りつぶす勢いで降っている白い粒。
 少年もまた、そのまま白い風景の一つとなって埋もれていくのだろう。朝になればどんな姿で見つかるのだろう。そんなことはどうでもよいことだった。
 少年の目は降り落ちる雪を見つめている。
 寒い。身も凍るぐらいに寒いけれど、そんなのさえ、どうだってという気がしてくる。

 おれ……
 つぶやきが雪に隠れて消えた。
 おれ……かあさんのもとにいけるのかな………

 傷つき、体力もなくし、寒さを感じる感覚をさえなくした少年に残されたのは母親への想い。
 優しかった母親はつい先日、妹として生まれるはずだった赤子と一緒に逝った。
 気がついたら、家を出てこんなところを歩いていた。
 かあさん……
 涙なんてとうに枯れ果てていたはずなのに母親のことを思うと涙が出る。辛い稽古、毎日、大木に千発、二千発、三千発も木刀を叩きつけ、幼いのに容赦なく父親に打ちつけられ痣が耐えない日々、そんな少年を庇い、優しくいたわってくれたのが母親だった。打たれた跡に湿布をし、寝付くまで側にいてくれた母親。
 今はもういない。
 雪は降り積もる。

 かあさんは死んだ。

 精も根も尽き果てているのにそれでも立ちあがることを要求する父親から、守ってくれた母親はいない。
 かあさんが死んで、どうなるんだろう。
 その先のことは想像もできない。
 そんなこともどうでもいい。

 雪が降り落ちる。

 かあさ…ん……

 雪が降り落ちる。
 雪が降り落ちて雪が降り止んだ時、少年は母親の元にいっているはずだった。

 ………!!
 不意に少年の五感が鋭くなった。
 なにがくる…
 かあさんの元に行きたい、とは心はおもっていても感覚のレーダーに何が捉えると全身に力がみなぎりいつでも即応できる態勢を整る。
 闘える姿勢。
 いつでも迎撃完了な状態。
 嫌だろうがなんだろうが、この世に生れ落ちてすぐの頃から、無意識のうちに戦闘態勢がとれるように少年は育てられていた。
 上半身が起き上がり、座っている、どの方向から襲いかかられても反撃できる態勢になっていた。視線が獲物を探す狼のように動き出す。
 土手からは誰も降りてこない。前にも後ろにもこない。河からはこない……か。
 ふと少年は父親のことを思った。
 少年の父親ならば気配を消して接近することができる。しかし、父親はこないだろう。そういう奴だ。もしやってきたら、どんな顔をする?
 強烈な感覚が後ろからした。
 落ちた!?
 そう思った瞬間、少年は駆け出していた。
 ほんの少し走っただけで、それはすぐに見えた。

 動きが止まった。

 


 降り積もる雪の中に女の子がひとりいる。
 雪の上にたたずみ、身体の下で下敷きになった身長の倍はある黒髪が乱れていた。
 五歳ぐらいだろうか。
 手のひらに包み込めそうなほどに小さく、その肌は雪よりも白く、その全身を惜しげもなくさらしている。

 そして、背中に生えた大きな翼。

 てんし?

 女の子を見た瞬間、何もかも忘れた。

 その女の子は人のものとは思えないほどに美しかった。しかも、鳥のように大きくて白い翼が生えているのだから尚更だった。地上に舞い降りた天使、天使ってこのようなものだったかと少年は思った。
 心臓が一回、とくんと高鳴った。
 そして、赤錆の浮いた刀を心臓に突き立てられたような気がした。
 身体が凍り付く
 それは雪のせいではない。女の子の身体から放たれたものが少年の動きを封じた。
 泣いている?
 女の子は泣いているように見えた。
 目を泣き腫らし、大きく見開かせたまま凍りついていた。
 どうして、そんなに悲しい顔をする。
 今の女の子を見るとせつない。
 赤錆の浮いた刀で全身を切り刻まれるように苦しい。
 でも、苦しさを味わうたびに胸が熱くなる。
 どくん、どくん、どくんと心臓が激しく鼓動し、顔が赤くなる。
 どうしてなんだろう?
 少年の視線は女の子を見たまま、ずっと外さない。

 がさっ

 緊張に耐えきれなくなったように足が雑草をこすった。
「……・っっ!!」
 それはかすかな音だったけれど女の子が反応するには充分だった。
 少年を見るなり、女の子は身構えては敵意を露にする。でも、それは臆病な飼い犬が誰彼構わず吠えまくるのと同じように恐怖から来ていた。
「ちょっと、いや、通りかかっただけで……」
「ハウテ!!」
 女の子は叫んだ。
 異国の言葉のような不思議な言葉で
「ハウテ!! ハウテ!! ハウテ!!」
 言葉の意味はよくわからないが、ひどくおびえている様子から女の子から拒絶しているのはわかる。
 だけど、少年はゆっくりと女の子に歩み寄っていく。
 拒絶されようがなんだろうが接触を持ってしまったからには引き下がることはできなかった。
 あの悲しい表情を見てしまったからには
 おびえながら拒絶の叫びを上げているのを目の当たりにしていたから

 ここで消えたら二度と女の子に会うことはない。
 本能で感じている。

「ハウテ!! ハウテ!」
 女の子は逃げようとする。だけど、悲しいことに足がすくんでしまっていて意思とは裏腹に身体が動いてくれなかった。
「ハウ・・・・・っ」
 少年は密着するぐらいに女の子に接近するとしゃがんで女の子と顔をあわせた。
「だいじょうぶだよ」
 最初から拒絶されてショックを受けないといったら嘘になる。
 でも、女の子の悲しみを癒してやりたい気持ちがショックを塗りつぶしていく。
 女の子が何故、泣いているのかわからない。
 女の子の抱いている悲しみを少年は知らない。
 だけど、知らないからといって悲しみを癒す資格がないことは絶対にない。
 
 真心さえ篭めれば
 女の子のことを想っていれば
 悲しみを癒してやりたい。

 混じりけ一つのない真心を持って、一生懸命に接すれば女の子の悲しみを癒すことが出来る。
 少年はそう信じた。

「俺が・・・・・・」
 
 その想いを裏切るかのように女の子の指先が少年の顔目掛けて伸びた。
 行き場を失った恐怖が、近づいてくる身知らぬ少年への攻撃という形で爆発したのだ。
 女の子でさえも何をしているのかわかっていないだろう。
 殺意も怒りもない、ただ助かりたいだけのシンプルな一撃。
 それだけに速く、しかも1流ピッチャーのボールのように勢い良く伸びてくる。
 でも、虚を突かれたとはいえ少年には余裕でかわせる。
 女の子の小さな爪が目に入った瞬間に身体は回避運動に入っていった。

 それは生まれた時から絶え間なく続いている修練によって生み出された、反射的な動作。
 だけど、少年はそれがもたらす結果を知りながら勝手に動こうとする身体を意識して押さえつけた。

 視界の半分が真っ赤に染まる。
 体験したこともない痛みが少年を襲った。

「………おまえ………いがいとえぐいことするな………」
 女の子の指が少年の右目に打ちこまれていた。
 根元まで少年の眼窩に埋まっている。
 少年は女の子の指を引き剥がす。
 抜けた指先は衣をまとったかのように赤い血で覆われていた。
 指が抜け終わると女の子の指先を受けた右目には自然と瞼が落ちる。でも、それでも出血は止まらなくて瞼の隙間から血が流れ落ちては地面に滴り落ちて、白い雪に紅い痕を残していく。
 
 女の子がしたこと。
 いきなり視界が半分になり、焼けた鉄棒を突っ込まれたような痛みが駆け巡った。
 何もすることもできない。
 立つこともできず、痛みのままにそのままもがき苦しみたかった。
 それを少年は歯を食いしばって耐えている。
 耐えることによって痛みが更に倍増しているのだけれど、それでも少年は耐えた。倒れるわけにはいかなかった。
 ここで倒れたら、親父に笑われる。
 少年は女の子を残った左目で見た。
 女の子は顔を雪よりも白くさせたまま硬直していた。
 凄い顔になっているんだろうな・・・・・
 そんな女の子を見て少年は苦笑する。痛みをこらえるために歯を食いしばり顔が強張っているのを自覚していた。
 
 女の子はもうどうすることも出来ない。
 這うことも、叫ぶことも、怒りを爆発させることもできず
 空ろな表情で凍り付いていた。

 少年の恐怖を本能的に悟ってしまっているのだろう。
 これから自分に降りかかるであろう惨劇を想像しては、避けることのできないイメージに女の子はひたすらに恐怖することしかできなかった。
 できないあまりに女の子の心が現実に耐えかねて壊れようとしている。

 少年は手を伸ばす。
 それに反応して女の子は目を硬く閉じる。

 ”ころされる”と思っているのだろう。
 そんなことないのにと少年はそう思いながら、女の子の頭にそっと手を乗せた。
 「わるいな……おびえさせちまって」
 言葉が通じるかどうかそんなことは考えてなかった。

「だいじょうぶ、だいじょうぶだから」

 どんな形でもいいから想いを伝えたかった。

 女の子の悲しみを癒してあげたい
 この女の子をずっと守っていきたい。

「ハ…ウ レイ……ジスト?」
 
 頭を優しく撫で続けているうちに、女の子は少年が害を与える存在でないと悟ったらしい。
 上目遣いの大きな瞳から恐怖の色は消えていたけれど、その代わりに不安と戸惑いが浮かんでいた。
 
 どうやら危害を加える相手ではないことをわかってもらえたようでホッとしかけるが、少年がどういう人間なのかまだ判断をつきかねているようだった。

「だ、だいじょうぶ」
 少年は上目遣いで見つめてくる女の子に慌てながら答えた。
「オレは敵じゃない」

 やっぱり言葉がわからないのだろう。
 意味がわからずに女の子は困った表情を浮かべている。

 どうやれば意志を伝えることができる?

 少し考えたあと、少年は笑った。

 ほんとうは笑えなかった。
 右目を貫かれた痛みが一秒ごとに激しさを増している。
 普通の人間ならば立つことができずに地面をのたうち回っているほどの激痛にも関わらず、少年はしっかりと大地を踏みしめて痛みに耐えながら、それでも笑みを浮かべていた。

 痛いけれど
 この子を守らなくちゃいけないから
 この子を幸せにしてあげたいから
 この子にはずっと笑顔でいてほしいから

「あっ」
 
 だから、少年は女の子をそっと抱きしめる。

「だいじょうぶ。だいじょうぶ」
 
 夜風の寒さに震えずに済むように
 降り積もる雪の冷たさに凍えずに済むように
 
 一人ぼっちの寂しさに心が壊れないように

「オレがぜったい、ぜったいにまもるから」
 小さいけれど熱かった。
 雪の冷たさや、冬の冷気を跳ね返すほどにその声は熱かった。

 そんな想いを篭めて
 少年は女の子を優しく抱きしめた。

「なにがあっても、どんなことがあっても絶対に守ってみせるから悲しまないで。もう、痛くなんてないんだから、苦しくなんてないんだから」

 背中に生えていた白い翼が光の雫になって散っていく。

「だいじょうぶ、だぞ」

 あったかさが女の子を包み込む。
 涙がとまった。
 雪が溶けるように、女の子の顔がほころんでいく。
 安堵感が全身に満ちていく。

 顔が不意に曇った。
 
 女の子はその少年を見る。
 閉じた右目からは血が泪のように流れていた。
 おそらく、もう使い物にならないだろう。

 女の子の瞳からじわっと涙が溢れ出した。
「お、おい……」
 女の子は泣きじゃくった。自分のやったことに対する取り返しのつかないことにきづいたらしい。
 少年は声をかけようとしたが、女の子はひたすらに泣くだけだった。声をかけることもできずに少年は苦笑いをする。
 笑える自分がとっても不思議に思った。
 雪が降っている。
 女の子は少年の腕の中で泣き続けている。声をかけようと思ったけれど、やめて空を見上げた。
 雪が降っている。
 少年は空を見上げた。雪は降り積もっている。それ以外のものは見えなかった。周りは寒く、全身がまるで一本の棒になったようだ。指先がかじかんでてうまく動かない。右目がひたすらにいたい。煌煌と燃えているたいまつを突っ込まれたような熱さが右目、いや右の眼窩から浸透している。物凄く痛い。痛くて、動きたくない。
 なんか、おっかしいな。
 動かなければ死ぬだろう。少年も女の子も。
 そのことを期待していたはずなのに。
 しかし、少年は女の子の身体をかつあげる。みかけの割にしても女の子の身体は軽い。かつぎあげると少年は歩き始めた。生きるために、人の世界へ帰るためにその一歩を踏み出した。

 少年はこの時に悟った。
 少年がこの世界にいる意味を。
 存在する理由を。

 少年はこの子を守るために生まれてきたのだと。


              ・・・・・・・


 中津川遼はゆっくりと瞼を開けるとあけるとおもむろに目をこすった。
 ほんの少しのつもりだったのに、かなり長く寝入ってしまったらしい。
 窓から差した夕陽が遼のいる翔陽大附属病院の待合室をオレンジ色に染め上げていた。
 外来の受け付け時間も残り少なくなって、広い待合室もがらんとしている。
 クーラーの設定する涼しさがあんまりにも気持ちよかったようだった。
 
 いつまでものんびりしていられない。
 時は刻一刻と過ぎていって、入院患者でないものが病院に居られる時間が後僅かになってきていることを遼は悟っている。
 早急にアクションを起こさなくてはいけない。

 なのに遼は動かない。
 額に右手を当てて、見ていた夢の記憶を反芻していた。

 それは懐かしい記憶。
 舞い散る雪が見せた一つの奇跡。

 あれから、もう10年が経つのに
 昨日の出来事のように鮮明に思い出すことができる。

 それは身を裂けるぐらいに悲しくて
 とっても痛い記憶だったけれど
 同時に温かい記憶だった。

 右目を抑えた。
 あの時、指を貫かれたことによって遼の右目は完全に失明してしまい、摘出された眼球の代わりに義眼がはまっている。
 視界がいきなり半分になってしまって生活に不都合が出た。
 遠近感が取れなくて、無くした右目を補うのにより苦しい修練を強いられた。

 でも、あの時の女の子がずっと側にいてくれているのだから
 右目を失ったことは後悔していない。

 この10年の間、遼と女の子はずっと一緒だった。
 まったく楽というわけではなかったけれど、
 女の子が側にいてくれて幸せだったと断言できた。

 だけど、これから先も幸せなのかと聞かれたら
 遼は明快に答えることができない。

 答えることができるのであれば、こんなところにはいない。

 もはや、あの時の想い出は単純に懐かしいものではなくなっていた。
 これから進むであろう未来に想いを馳せると
 胸に痛みが走る。

 それは忘れていたと想っていた痛み。
 臓腑の大部分をごっそりと持っていかれるようなそれは
 愛していたものを喪失する痛みだった。

 最上階にあたる15階にたどり着くと廊下を歩き、個室のドアをノックした。
 反応はない。
 かまわず遼はドアを開けた。

 差して来たオレンジ色の光が眩しくて遼は手をかざした。
 正面にある窓から夕日が差している。
 待合室よりも狭いだけに空間を埋め尽くす光量の密度が高く、そのむせ返るほどに濃い光に一瞬だけ圧倒された。
 でも、綺麗だと遼は思った。
 見事なまでの夕焼け。
 その病室のベットであの女の子が半身を起こして、じっと外を見つめていた。
 あれから女の子は年輪を重ねている。
 身体も、手も、足も、13歳の女の子としてはやや小さめながらも生育している。
 身長を越えてなおも余りがあるぐらいに伸びた黒髪は、今では肩につかないところでばっさりと切り落とされてはいたものの、その白い肌も、バニラの匂いが漂ってくる愛らしさもあの時の代わらないままに成長した女の子がそこにいる。

 遼は声をかけようとしてためらった。
 女の子は窓から切なそうに空を見つめている。

 その顔はとっても透き通っていた。

 海底の底から汲み取った深層水のように。
 不純物がまったくない透き通った表情をしていた。

 そんな女の子を見ていると遼は不安になる。

 あんまりにも透き通りすぎているが故に
 存在感を欠いているように見えるのだ。

 目の前にいるのに
 水に映る像のように手を伸ばせば触れることができず
 あっさりと消えていってしまいそうな気がする。
 
 目の前にこうして存在しているのに。

 だけど
 それだからこそ女の子はとっても綺麗だった。
 透き通った美しさに遼は言葉を失っていた。

 少しの逡巡の後、遼はそのまま帰ろうとした。
 その純粋さを汚してしまうような気がしたからだ。

 その矢先に声がかかった。
「遼?」
 ふんわりとした甘い声。
 反応しないでいると再度、声がかかる。
「遼? いるんだよね」
 こうなるとそのまま帰るというわけにはいかなくて、病室の中に足を踏み入れた。
「よっ」
「こんちわ、遼」
 ベット側の椅子まで歩いていく遼を真衣は笑顔で出迎える。その横顔には人を寄せ付けない透明さは消えうせていた。
「元気そうだな」
 病室のベットに半臥してはいるもののそのちっちゃな身体からは元気さが溢れている。さっきの透明さは元気さの色に跡形なもなく染められているようで、遼は心の底から安堵した。
「まあね」
 女の子ははにかんだ。
「ちょっとだるいかな」」
「そっか」
 女の子の身体についての話だと、内心が悟られかねないので遼は話題を変えようと辺りを見回した。
「すっげーなー」
 遼は枕元に見事な蘭が生けられていることに気がついた。
 白い花びらがいっぱいっぱいに展開していて、小林○子の舞台衣装を彷彿とさせるような艶やかさを誇っていて、主人である真衣を押しのけて自分が主役なのよといわんばかりに主張している。
「おばさんからもらったんだ」
「あいつがやりそうなことだな」
 おばさんというのは隆盛の友人、前園孝太郎の嫁さんのことで、息子夫婦に子供がいないため遼と女の子を実の子のように可愛がっていた。
「高そうだな・・・・・・」
 蘭が高い植物であることは遼も知っていたけれど、女の子が笑顔で言った答えにはさしもの遼も度肝を抜かれた。
「うん。100万っていってたよ」
「ひゃくまん!???」
 高校生にとっては天文学的な金額だった。
「・・・・・・MREの一箱、何箱買えるかな」
「そんなもので数えないでよ」
 遼らしいとは思いつつも真衣は苦笑を抑えることができなかった。
「道端で咲いている雑草でいいのに。んなもんにかける金があったら、お年玉の額をあげろよ・・・」
 おいおい。
「もうっ遼ってば」
「・・・・・・って、ほんとに雑草生けてる」
 ド派手な胡蝶蘭の隣にあって、それはとっても慎ましやかに見えた。
 大きな蘭の隣に、小さい花瓶があってそこに黄色い花弁に白い花びらをつけた花が生けられている。菊っぽいその花はあんまりにも小さくて100万もする蘭が何処ぞの国のお姫様だとするなら、その花は灰にまみれながら台所仕事してる下女を思わせた。
「雑草じゃないよぉ」
 女の子は小さく抗議を上げた。
「カモミールだよ」
「どう見ても真野川で摘んできた雑草にしか見えないんだけど」
 雑草と一口にいうがオオバコなりイヌノフグリなりとそれぞれにちゃんとした名前がついている。
 この白い花はあんまりにも庶民過ぎて、そこらの河原で何気なく生えて、犬や人の立ちションを栄養分にして咲いてきたようにしか見えなかった。
「オレのプロファイリングによるとこれ持ってきたのは相当いい加減なやつだな」
 遼は勝手に論評を始める。
「まずい料理作っても愛情があればカバーできるって考えてる奴だ」
 その時になって遼はやっと女の子の視線に気付く。
「なにがおかしい?」
「なんにも??」
 そうは言っているが女の子は明らかに笑いをこらえていた。
 おもいっきり気になる。
「でも」
 遼よりも女の子のほうが速かった。
「MREが美味しいなんていう遼に料理のことをとやかく言われたくないんだけど」
 一瞬の沈黙
 そして。
「・・・・・・いったいなあ。なにすんだよ、遼!!」
 頭をこずかれて女の子は涙目になりながら文句をいった。
「MREの何処がまずい?」
「エチオピアの人だって食べないものの何処が美味しいって?」
「うまいじゃないか。No.1のステーキなんか」
「ハムみたいなのをステーキなんていわない」
 にらみ合う2人。
 しかし、その後で2人とも笑顔を浮かべる。
 他愛のない喧嘩。
 そういうのも悪くはなかった。

 中津川真衣。
 これが女の子が名乗る名前

「……こんなんものなんだろうな」
 体温計の水銀が安全ラインより僅かに上がっているのを見て、無理やり納得させると遼は体温計を収めた。
「最近は退屈なんだ」
「わかるわかる」
 本人としては元気なつもりなんだけれど、基本的にベットに寝ていなくてはいけない身の上なので手持ち無沙汰気味になるのはしょうがないことだった。
「わりーな、退屈させちゃって」
 そのことについて遼が謝ると、真衣は慌てた。
「ううううん、そんなことない、そんなことない。遼が居てくれて本当にありがとうだよ」
 6月に真衣が倒れて病院に入院して以来、遼はずっと看病に当たっていた。最初のころは泊り込みで、症状がやや緩和した後も朝から晩まで、一日の大半を真衣の面倒を見るために費やしていった。
 そうして、中津川遼の高校3年生の夏は通り過ぎていった。
「ごめんね、遼」
 海に山へと楽しい夏、あるいは予備校通い等、自分の将来についてのターニングポイントになるはずだった遼の夏休みを、真衣の看護に費やしてしまった。その事で真衣が自分を責めていることを遼は知っている。
 だから、遼は真衣の頭をそっと撫でる。
 艶やかな黒髪の手触りがとっても気持ちよかった。
「オレは楽しかった」
「でも・・・」
「あのさ」遼は呆れた顔で言った。「だいたい休みだっていうのに教室で勉強のほうがよっぽどつまんないってーの」
 高校3年生といえば受験生。普通だったら夏休み返上で勉強である。
「遼は受験生なんだから」
 選択を決めるのに遊び歩いているほうがおかしい。
「受験生たってエスカレーターで進学できるんだから問題ないだろ」
「そりゃそうだけど・・・・・・」
 遼の通っている学校は小学校から大学までのエスカレーター方式である。無条件で進学できるわけではないが受験することに比べれば遥かに容易い。
「でもでも。夏っていったら山だよ、山っ」
「何、力説してるんだよ。真衣」
 力説ぶりがあまりにもおかしかった。
「山? 山の何処がいいんだ? 疲れるだけじゃないか」
「遼の軟弱者ーっ!!」
「毎日が地下闘技場なんだから、疲れることなんてしたくない」
 遼としては毎日がオクタゴンで闘っているような日常だから、せめて休日だけはのんびりと寝ていたかった。
「やっぱ、海だよ。海」
「遼」
 真衣の眼差しが冷ややかなものに変わる。
「遼、目つきがやらしい」
 その眼差しから、遼が何をもって海がいいといっているのは明白だった。
「なははははは・・・・・」
「もう、遼ってば」
 そういって真衣は顔をそむける。
 そこへすかさず、遼の言葉が飛んできた。
「真衣と一緒だったら何処でも楽園だよ」
 これは遼としての正直な感想だった。

 真衣の看護で通り過ぎる夏、それは表面的にはさびしい夏休みかも知れなかったが実際のところは真衣と一緒にいられて楽しかった。
 真衣の寝顔をじっと見守っていたり、真衣の体温を測ってやったり、真衣のために林檎を剥いてやったり、真衣とトランプで対戦したり、時には真衣に監視されて夏休みの宿題をやったり、その時の真衣との会話をかわしたり、真衣の表情を見ていたほうがとっても楽しかった。
 クーラーの効いた予備校の教室で授業を受けたりするのはおろか、単純に海で泳いだりするのよりも楽しいって断言できた。

「もうっ 遼ってば・・・・・・」
 その、照れもない確信に満ちた一言に真衣は打ちのめされた。 
「そんな恥ずかしいことを平気で言わないでよ」

 うれしかった。
 でも、悲しかった。

「……真衣?」
 真衣は壁にもたれては顔をそむけて、表情を遼に見られないようにしていた。
「なんでもないよ」
 真衣はそういうが、その声は震えていた。
 何かを我慢しているように見えた。
 
 何を言おうか迷っていると、真衣が再び向き直った。
「だいじょうぶ」
 真衣は笑っていたけれど、ギコちなかった。
「だいじょうぶ。だいじょうぶ。・・・・・・ほんとに大丈夫だから」
 だいじょうぶなんかようには見えない。
 身体のどこかが傷ついているのを必死になってこらえているように見える。

 痛いのに我慢している真衣を見たくはなかった。

 だけど、その事を指摘するのは真衣を傷つけるような気がした。
 真衣は「大丈夫だ」って言っているのだから、その意志を尊重してあげたかった。

「よしっ。来年行こう」

「来年?」
「そうだ、来年だ」
 自信たっぷりに傲然と遼は言い放つ。
「ちょっと時間がかかるけれど1年経てばまた夏がやってくるんだ。そん時までにゆっくりと身体を治せばいい。また夏が来たら真衣、オレと遊ぶんだ。軽井沢の高原でのんびりとか、あるいは常磐ハワイアンセンターで泳ぐとか、絶対にそうしよう。そうするんだ」
「今は常磐ハワイアンセンターじゃなくて、スパリゾートだってば」
 遼は無言で軽く真衣の頭をこづいた。
「いったいなあ、遼」
「そういう突っ込みするな」
 そうはいうものの、悲しみはすっかり取り払われた。
「そっか。来年の夏を待てばいいのか」
 歌うように真衣は繰り返す。
「そういうこった」
 遼はたずねた。
「夏になったら何処に行きたい?」
「そうだね・・・」真衣は人差し指を口元に当てて考えていたが、やがて空を見上げて言った。
「お空にいきたい」
 その言葉は遼の心臓を軽く撫でていった。
 しかし、真衣の瞳が透明になったのも一瞬のことで、再び色が宿る。
「空? 空だったら簡単じゃないか。飛行機に乗っていけば」
「そういうことじゃないの」
「そういうことじゃないって?」
「それは・・・ボクにもわからないんだ」
 真衣はわからないことを本気で悲しんでいるようだった。
 そんな真衣の頭を撫でながら遼は言う。
「空だったら、オレが連れてってやる」
 真衣が望む空はわからない。
 でも、遼は本気だった。
「ほんと??」
 真衣の顔が途端に喜色に輝きだす。
「お前の願い事を叶えなかったことってあるかよ」
「いっぱい」
 真衣が即答すると、遼は真衣の頭を軽くこずいた。
「・・うぅ〜 いったいなぁ〜」
「てめぇがそういうことを言うからだよ」
 拳に息を吐きかけてちょっとすごんでみせる遼であったが、真衣の次の一言に言葉を失った。
「遼のバカぁ・・でも、ありがと」

 その時、真衣は笑っていた。
 おひさまのように明るい笑顔で。
 どうしてこんなに明るくいられるだろうかという笑顔で。

「じゃ」
 時計を見て、面会時間が残り少ないことを悟ると遼は名残惜しそうに椅子から立ち上がった。
「いっちゃうの?」
 真衣も名残惜しそうだった。
「なら残るが」
 面会時間はほとんどなくなっていたが、病院に居残る手段はいくらでもある。でも、真衣は首を振った。
「だめだよ。おとうさん調子悪いんだから」
「何が悲しくて野郎の面倒を見なくちゃなんないんだか」
「そんなこと言わない」
 父親のことになって不快さを露にする遼を真衣が嗜めた。
「あれでもお父さんなんだから」
「孝太郎じいちゃんみたいな親らしい親だったらな」
 親が親らしいことをしてくれるから子は敬う論理から言うと、遼の父親はとてもじゃないが親らしいとはぜんぜんいえなかった。
 その一言に真衣は苦笑を浮かべたまんま沈黙してしまう。
「ま、遼も頑張ってるよね」
「誉めてくれ誉めてくれ。大変なんだから」
 父親であり師匠でもある隆盛が倒れたのは真衣が入院したのと同じ時期だった。
 真衣みたいに入院することはなかったものの健康体でないことには代わりなく、地獄の悪鬼のように実の息子をしごいていた隆盛が痩せ衰えて布団に頼りなく病臥している姿を見ていると複雑な気持ちになったものだった。
「おとうさん・・・・・だいじょうぶかな」
「大丈夫だろ」
 真衣の心配を遼は笑い飛ばす。
「あいつがそう簡単にくたばるタマかよ」
「……そ、そうだよね」
 引きつりながらも認めるしかなかった。
「おとうさん。死神だってあっさり撃退しちゃいそうだもん」
 たとえ死神というものが目前に現れようとも力づくで撃退できるだけの力を持っているのが中津川隆盛という男だった。
「死んでほしい奴に限ってなかなか死なないんだよな」
「遼……それ危険」
 物騒なセリフを嫌味ない口調でのたまう遼に真衣も反応に困っているようだ。
 しかし、遼の本気なのか冗談なのかわからない軽いけど物騒な言葉に真衣の緊張もだいぶほぐれたようだった。
 遼は悟られないようにそっと胸を撫で下ろす。

「ほんじゃな。またな」
「またね」
 明るく挨拶をかわすと遼は真衣の前から立ち去ろうとする。

「遼?」
 ドアに手をかけた時、真衣が声をかけた。
「なんだ?」
 振り返るとベットで真衣が半身を起こした状態で固まっていた。
 言いたい言葉があって、言おうかどうか迷っている。
「ううん。なんでもない」
 しばらくして真衣は笑顔、不安に苛まれている心を癒すような笑みを浮かべると横になる。それを確認した遼は無言で病室から出ていくとドアをそっと閉めた。



 いつも通りに明日が来るなんてわからない。

 人はいつものように起き、いつものようにご飯を食べ、いつものように仕事、あるいは学業につき、いつものように家に帰って、いつものように寝る。そうやって一日が過ぎ、明日がやってくるものだと信じているが、それは確実なようで土台のないところにマンションを建てるかのようにあやふやだ。ちょっとしたことで崩れるもろいものだということに気づいていない。その上で人々は踊っている。

 今日の真衣はとっても元気そうだったけれど、
 明日には死ぬかも知れない。
 
 昔から
 いつ来るかわからない死刑執行の宣告におびえていた。

 真衣のことを助けてやりたいのに、
 見守ることしかできないのが悔しかった。

 外来の受付が終了して、大きな待合室はひっそりと静まり返っている。
 だが、人っ子一人もいないと思われたその広大な空間に一人の老齢の紳士がいた。
「あ、じっちゃん」
 紳士を見ると、遼は救われたような笑顔を見せた。
 紳士も遼と顔を合わせると笑みを浮かべる。
「こんにちは、遼くん」
 この紳士は前園孝太郎。
 この翔陽大附属病院を含める翔陽学園グループの総帥は遼の父親、中津川隆盛の莫逆の友で遼と真衣を実の孫のように可愛がっていた。遼も実の祖父のように孝太郎を慕っていた。
 いや、ちゃんとクリスマスのプレゼントやお年玉を暮れるのだから幼い頃は何度、前園の家に生まれたかったと枕を涙で濡らしたものだった。
「ちょっと話さないかね」
「ああ」
 ベンチの隣を薦められて遼はどっかりと腰を下ろすと、入れ違いに孝太郎は立ち上がって自動販売機の方へ歩いていく。
「何がいいかね?」
「なんでもいいっす」
 孝太郎は料金を投入するとボタンを押して、二人分の飲み物を買うと遼の元に戻ってくる。
「ゴチになります」
 コーヒー牛乳の紙パックを受け取ると、パッケージの外側についているストローを引き剥がし、保護していたビニールを剥くと紙パックにストローを突き立てる。
 ストローに口をつけて紙パックを両側から押すとコーヒー牛乳が吸いあがってくる。
 苦味を喪失した甘ったるい液体で喉を湿らせていると孝太郎が話し掛けてきた。
「隆盛の事なんだが、真衣ちゃんにはちゃんと話したかい?」
 
 紙パックを押す指が止まる。

 「……話してない」
 「そうか」
 
 それだけ言うと遼はコーヒー牛乳を吸い始める。
 その横顔には冬の気配が漂っていた。

 肝臓ガン。
 全身に転移しており完治することはない
 余命1ヶ月

 今日、孝太郎から告げられた父親の病名だった。

 父親が末期ガンなんて遼には信じられなかった。
 病気だとはいうにはあまりにも現実味を欠いていた。
 往年に比べて痩せたとはいえ、起きなかったら頭を踏み潰しにくる危険さは顕在でそんな男が死病に取り付かれて想像もつかないことだった。
 
「ただでさえ危ないんだから、余計な心配をかけさせたくない」

 死にそうには見えないとはいって現実に末期ガンの宣告がなされているわけで、家族である以上は真衣にも伝えるべきなのだろうけれど、真衣もまた病気の身体で父親を心配するあまりに病状を悪化させたくなかった。

 ほんの僅かな揺らぎが致命傷になる状況に真衣はいる。
 
 でも、わかってるんだろうな……

 去り際のことを思い出すとひとりでにため息が出る。
 あの時、真衣は遼に何かを言いかけて口ごもった。
 何を言いたかったのかはっきりとしたことは言えないのだけれど、真衣のことだから遼の思っていることなんて読めているのだろう。
 遼が隠しているから、真衣もはっきりとはいえなかったわけで。

「その不良老人はどうしている?」
 孝太郎は首を横に振った。
 末期ガンのくせに遼の父親は外をほっつきまわっていて今日は一度も顔をあわせていない。非常識極まりない。隆盛が非常識なのは生まれた時から思い知らされてはいたけれどだからといって不快さが減じるわけでもない。
 孝太郎も隆盛の動向をつかめていないようだ。
 「実は隆盛から遼君への手紙を預かっているんだ」
 その代わりに孝太郎は懐から茶封筒を取り出すと遼に渡した。
 遼は受け取るとその中身を取り出しては一読した。

「老いたる修羅は若き修羅の贄となるべし」

 最初の文句が目に入った瞬間、遼は激怒した。
 遼の身体から熱気を帯びた空気が放出され、身体を守るように取り巻いて制空権を形作った。
 突然、太陽がこの待合室に出現したように熱量が膨れ上がっていく。
 孝太郎は遼の身体から溢れ出る殺気を前に、逃げることもできず顔に恐怖を浮かべたまま、ただ硬直していた。
 遼は手紙を握り締めると、その手をゴミ箱の上にかざす。
 
「……はぁぁぁぁっ、はっ!!」
 遼の身体を星雲のように取り巻いていた空気がはじけた。
 握り締められた手紙は一瞬で塵のレベルにまで分解され、指を広げると塵はその下のゴミ箱に落ちていった。その直後、遼を取り巻いていた熱量は一瞬で消えうせて、硬直している孝太郎に向かって済まなそうにした。
 「悪りい」
 こんなところで殺意を出したら孝太郎のような一般人に恐怖という名の心理ストレスを与えることはわかっていた。
 心臓の弱い人間ならプレッシャーのあまりに心臓発作を起こしかねない。
 
 でも、怒らずにはいられなかった。
 父親のあまりの身勝手さに
 
 身勝手な人間であることは昔からわかっていたことではあったけれど
 最後に至るまで身勝手で
 その身勝手さ故のことを思うと激怒せずにはいられなかった。

 その怒りが覚めたのは、孝太郎の一言だった。
「隆盛は薬を完成させたといってた」
 前後の文脈を忘れて遼の顔がほころぶのを孝太郎は見逃さなかった。
「隆盛なりに責任を果たしたということなんだろうね」
「そっか」
 薬が完成した事実を素直に喜んでいた遼であったが、すぐに表情を引き締めた。
「もちろん薬が効くかというのは未知数だ。投与するか否かは遼くん次第だよ」
「わかってる」
 希望が見えてきたのは救いだけれど、それがか細いものでしかないことは遼も知っていた。
「行くのか?」
 その一言には隆盛と遼、刎頚の友であり、その友の子で我が孫のような存在の2人を心の底から思いやる心情に満ちていた。
「ほんと悪りい。出来の悪い親が迷惑をかけて」
 隆盛が孝太郎に遼への手紙を託したということは、その前に2人の間で何かしらの合意があったというより他ならない。その合意というのは隆盛がこれから起こすであろう行動の後始末に他ならなかった。
 その後始末が大変迷惑なものであるのかわかっているだけに、遼としても大変心苦しいものだった。
「気にしなくてもいいよ」
 孝太郎は微笑みを浮かべると、孫のような少年の肩を優しく叩いた。
「隆盛に迷惑をかけられるのには慣れっこだから」
「・・・・・ったく、親父ってきたらまったくのダメ人間なんだから」
 情けなさすぎるような孝太郎の言葉に、ついつい遼も呆れてしまう。
「僕はいい。良心を封じ込めればそれだけで済むことだ。大変なのは僕じゃなくて遼くんじゃないのかな?」
「まあね」
 他人の心配なんてしている場合ではなかった。
 父親がやろうとしていること
 孝太郎を巻き込むことが心苦しいのは、それは隆盛と遼の2人だけで決着をつけなければならないからで、望むと望まない関わらず正面から相対せねばならない遼のほうが遥かに大変なはずだった。
 いや、大変で済ませられるほど生易しい話ではない。
 「大丈夫」
 にも関わらず遼は平然としていた。少なくてもプレッシャーがのしかかっているようには見えない。
 「・・・・・・そうか」
 何が大丈夫なのか遼は語らなかったけれど、孝太郎としてはうなずかざる終えなかった。孝太郎としても2人の決断に口挟むことはできない。できるのは事後処理だけ。
 運命が遼と隆盛にどちらに転んだとしても

「変わらないなあ」
 孝太郎の口元に笑みが浮かぶ。
 還ることのない何かを思い出しているような目になっていた。
「隆盛は勝手にひとりで突っ走って、勝手にひとりで決めてしまう。相手のことなんておかまいなしに力づくで」
「それで大抵のことはまかり通しちまうんだから。あきれるよな」
 遼がセリフにあわせた。
「まったくだ。でも、隆盛のそんなところは君にも受け継がれている」
 そういわれた時の遼の顔は見物だ。
「あのバカに似ているなんて心外だな・・・・・・」
 
 ただ、これだけはいわずにおれなかった。
 
「僕と隆盛は親友だった。隆盛は無茶苦茶で苦労させられたけど助けられたこともあった。隆や遼くん、絵梨香さんや真衣ちゃんに出会えて僕はとっても幸せだったと思う。でも、君たち中津川の一族は僕たちとは違うんだ」

 中津川の一族は普通の人間達は違う。
 常人からかけ離れた能力も持つが故に世間の人々を縛るモラルの外で生き続けている一族だった。
 どれだけ近づこうとしても埋めることのできない溝が存在する。

 孝太郎の言葉は受け取りようにとってはひどいものだった。

 オレ達は普通の一族じゃない」

 しかし、遼は怒ることもせず
 孝太郎を慰めるように優しい笑顔を浮かべた。
 
「でもさ、近づいてくれてありがとう」



 午前12時を回り、真野川の河岸は静まり返っていた。
 昼間は遠くに見える鉄橋を走行する車の音がひっきりなしに聞こえてくるのだけれど、深夜になれば通行量もまばらになる。
 こういう時は得てして暴走族が騒音と排気ガスを撒き散らしながら暴走しまくるのだけど、この界隈では暴走族が出ることはない。
 ずっと昔に遼が暴走族に、遼の家の近所で暴走することのリスクを懇切丁寧に刻み付けてやったからだ。
 世界は夏の闇に覆われていて、送電線の鉄柱のつけられた赤いライトが蛍のように闇の中で瞬いている。
 昼間は砂漠のように熱かった空気も、夜になって少しは凌ぎやすくなっている。
 風はない。

「遅いぞ」

 土手の斜面を下って雑草が生い茂る河川敷に降りると、そこでは遼の父親、中津川隆盛が不快さを露にしながら待っていた。
 
「12時と書いてあったはずだが」
「その程度でムカついてたら勝負は見えてるぜ。親父」
 
 父親の抗議を遼は鼻で笑い飛ばした。
 約束の時間が12時だということはわかっていたが、遼は敢えて違えた。

「なんの用だ? こんな時間に呼び出して」
「わかってるはずだろ」
「わかっんねーよ」

 遼はいらだちを隠さずに地面を軽く蹴り上げる。
 息子のその様子を見て、隆盛は口元に笑みを浮かべる。

「そこまで遼が低脳だとは思わなかった・・・・・・いや、それでも俺を親だと思っていてくれているということか」
「ちげーよ」
 何処でどう間違ったらそんな解釈が出来るんだ、といわんばかりには遼は否定する。
「真衣が入院してるつーのに、てめぇを殺して殺人罪でパクられたくないだけだ」
「それについては心配ない。どちらかが死んでも孝太郎が自然死として処理してくれる」
「親父ってほんと最低だな。最後に至るまでじいちゃんに迷惑かけやがって」
 解決策とはいえない解決方法に遼は不快感を隠そうともしない。
「最後に至るまでというが・・・・・・」
 隆盛は言葉尻を捕まえてはツッコミを入れる。
「最後と決め付けるにはまだ早すぎるんじゃないのか?」
 
 ほくそえみながら隆盛は軽く殺気を放出させた。
 放出された殺気は星雲のように隆盛の身体にまとわりついては必殺の防空圏を形作る。
 不用意に踏み込めば瞬殺されるフィールドの範囲は広い。

「わかっているはずだろ?」

 優しい言葉とは裏腹に空気の温度はゆっくりと上昇していく。

「俺が長くない、ということを」

 本当のところはわかっていた。
 孝太郎に告げられるよりも早く、感覚で父親の余命が長くないことを遼は知っていた。

 いつの頃からだろう。

 父親が弱くなっていると感じるようになったのは
 
 朝、起こされる時
 一緒になって立ち木を打ち込んでいる時
 それから素手、武器、なんでもありの実戦との見分けがつかない組み手を行っている時。
 父親の動きが自分に比べて一拍子も二拍子も遅れてきていることに遼は気付いていた。
 スピードやパワーにおいても父親を凌駕している。
 特にスタミナ面では著しい衰えを見せており、もはや遼に追随することができなかった。

 その事を遼は寂しいと思った。
 
 遼がこの世に生れ落ちてきたその時から、隆盛は壁として遼の前に存在していた。
 まだ母親の乳を吸いたい遼を無理やり引き剥がして、虐待としかいいようがない修練を強いてきた。
 逃げ出したいと思ったことが何度でもある。
 思ったどころか何度も実行したのだけれど、その度に襟首つかまれては引き戻され、殴られ蹴られながら修練を強制された。
 殺してやりたいと何度思ったのかわからない。
 組み手の時、100%殺すつもりで拳を放ったことがあるがその度に激烈極まりない迎撃を受け、圧倒的な力で叩きのめされた。
 遼にとって隆盛というのは父親である以前に、師匠でありライバルであり仇敵であった。その牛頭馬頭でさえも踏みつけるほどの憎々しい力で行く手を阻む、極身近にいる敵だった。
 時の摂理であるとはいえ
 いや、それだけにその強敵が老いさばらえていくのを見るのがとっても切なかった。

 その時だった。
 孝太郎から隆盛の病名を告げられたのは

「俺は老いた」
 
 その瞳は寂しさがよぎっていた。
 いくら強くても時は容赦なく強さを奪っていく。
 わかっているのに身体は思うようには動いてくれない。

 己が衰えているのは己がよく知っている。

「よって貴様に神煬を継いでもらう」

 神煬
 それは怒りの業火より生まれ、憎悪の海に生き続けている流派の名前。
 
 2000年前の春秋戦国の末期に生まれた無手と刀法を主体とした武術で、現代に残る武術としてはもっとも長い歴史を持ち、人を殺すことを極め尽くすした技術として武林や黒社会、政府さえからも恐れられ続けていた。
 
 ただ、最強を目指すために恐竜のごとく狂った進化を遂げた一族。
 
 何者にも勝つために。ただそのためだけに長き渡って修練と闘争を続けていた一族に遼は生まれ、最強を目指す一族の宿命に従って育てられてきた。
 最強を目指す一族の世代交代の時が近づいている。

「貴様に神煬を名乗る資格があるのか試させてもらう」
 
 隆盛が構えを取ると殺気は一気に炎となって立ち昇る。
 地獄にいるように周囲の気温は上昇する。
 普通の人間には一秒とも耐えることできない熱さが2人を取り囲む空間に滞留する。

 遼は構えをとらず、ポケットに手を突っ込んだまま表向きは涼しい顔で隆盛と対峙していた。
 
 手紙に書かれてあった言葉
 「老いたる修羅は若き修羅の贄となるべし」
 
 神煬流は一子相伝。
 先代を倒すことによって受け継がれる。
 スポーツになってしまった武術とは違い、あくまでも殺人術としての命脈を保っている神煬流の戦いである以上、戦いが終わった後で2人とも健在でいることはありえない。
 一人だけが生き残るか、二人とも死ぬか。
 それほどまでの激しい戦いになる。

 若き修羅は老いたる修羅を喰らうことによって大人になり
 老いたる修羅は若き修羅が成長するために、喜んでその身を捧げる。
 それが神煬流の掟

 もはや戦えないと判断した隆盛が次の宗家たる遼に死合を挑むのは極自然なことだった。
 ましてや隆盛は死病にかかっている。
 世間の良識がある人々がこの現場を目撃していたら隆盛に、わざわざ死へ暴走する無謀さと血を分けた息子と戦う愚かさを諌め、寿命が尽き果てるまで生きることを説いたに違いない。それが世界のモラルというものだ。
 だが、神煬流の人間達はそんな常識の外で生きている。
 人々を縛り付ける法やモラルから脱却するために最強を目指したといってもいいのだから、そんな一族に常識を説くのは笑止としかいいようがない。
 
 遼と隆盛は人間ではないのだ。
 目の前に立ち塞がる敵を倒すために生まれてきた修羅
 人の世界とは違う法とモラルによって生きている。

 隆盛の思考は読めている。
 18年間も親子という名の腐れ縁で繋がっていたのだ。
 
 理性では隆盛の主張が理解できる。

「……てめぇ、卑怯だぞ」
 感情がいまいち整理できていない。
 父親への恨み節がつい口から迸った。

「何が卑怯だ」
 息子に対する殺意を惜しみなく放出しながら、隆盛は嘲笑う。
「真衣が病気だというのに、自分だけとっと逝くのが卑怯だと言いたいわけか」
 まったくもってその通りなので遼は答えなかった。

 真衣は入院している。
 今のところは小康状態を保ってはいるけれど容態の好転を期待はできない。
 看病を続けているうちにそんな現実を痛いぐらいに突きつけられていた。
 ひょっとしたら健康になるかも知れないと希望をもつことはできる。
 でも、ただそれだけで真衣が日を追うごとに衰弱していくのをただ見守っていくことしかできない、そんな辛い日々が待っているのだけことは予想ができた。
 それだけに隆盛のさっさと逝こうとする無責任さが遼には許せなかった。

 不意に隆盛は殺気を和らげた。

「遼。俺はお前が神煬を名乗るに足る奴だと認めている」
 
 その時の隆盛の表情はとても優しいもので、人格的にかなりの問題はあるけれど遼の師匠ではなく一人の父親として遼を見つめていた。

「誰かに頼るような奴を神煬とはいわない。己の足だけで大地に立つのが神煬だ」

 隆盛は遼のことを大人と認めていた。
 家を背負うに足る大人だと認めていた。

 大人であるからには誰かを背負う事はあっても、誰かを頼ることはできない。それがちゃんと自立した大人というものだからだ。

 殺したい、憎んでも憎んでも飽き足らなかったはずなのに
 無意識のうちで頼っていたのかも知れない。

 でも、もう頼ることはできない。
 隆盛が誰かを背負って歩くには、残された時間は限りなく短かった。

 理性では隆盛の言葉を是と認めている。
 でも、遼は隆盛から放射される空気の中にただ立っているだけで踏み込むことは愚か、隆盛に対抗して殺気を放射をすることさえもしなかった。
 出来なかった。

 辛くて逃げ出したいと思った日々
 その度にこの男が憎いと思っていたのにも関わらず
 自衛隊の雪中行軍よりも凄まじい修練の日々が懐かしく思えてならなかった。

 なんだんかんだといって隆盛は親なのだ。
 虐待のような修練を受けていたとはいえ、自分の感情の赴くままに交際相手の子に乱暴を働く男と同列に扱ってはいけない。
 日々の修練は耐えがたいものではあったけれど、その時の想いや経験が血肉となって身体を形作っている。
 師匠として
 仇敵として
 父親として
 失うにはあまりにも巨大すぎる存在だった。
 武術家?として 一人の修羅として
 中津川隆盛は偉大すぎる存在だった。

 だから、遼は一歩を踏み出せないのもかも知れない。
 遼の本性が人ではなく修羅だとしても、これまでの人生を人として生きていたのだから、人としての情があくまでもこの戦いを避けたいとブレーキをかけているのかも知れない。

 けれど、この戦いが避けられないものであることをわかっていた。
 
 戦わないことを本気で願うのだったら、約束を破ればよかったのだ。
 来れば感情はどうあれ戦うことになるのはわかっていた。

 自分を殺そうと思っている奴を目の当たりにして、身体が戦いを拒否することはできない。
 逃げようとしても、隆盛がここから生かして帰すはずがない。
 なぜなら、この場は隆盛の気で満ちているからだ。
 遼と隆盛はいつものように親子の会話をかわしているが、そんなさりげなさとは裏腹に2人がいる空間には殺気が渦巻いていた。その殺気は恐ろしいぐらいに濃密で一般人は愚か経験を重ねたプロの格闘家や実戦を重ねた軍人でさえも立てないほどの重圧に満ちている。
 遼でさえも、汗を流している。
 心の底で何かがざわついているのを遼は懸命になって抑えていた。
 そいつを自由に最後、そこで終わる。
 冷静さを欠いた人間を殺すのは1+1の数式を解くよりも容易い。
 この場から生きて真衣の元に帰るためには、隆盛を殺さねばならないことを肌で理解していた。
 
「なあ、遼」
 
 プレッシャーが消える。
 修羅ではなく一人の子として躊躇っている遼に隆盛は優しい眼差しを投げかける。
 だが、次の瞬間。空間にたよう空気が一気に固まった。

 そう、固まった。
 空間に漂う大気が一人の男が走った気によって固体化した。
 いきなり深海の底にワープしたかのように
 重苦しい空気が遼を押し潰しにかかる。

 下手したら心臓を押し潰されるほどのプレッシャーをかけながら隆盛は言い放った。

「俺の生死は俺だけのものだ。誰にも渡さん」
 
 その命が尽きるまでじわじわと病に身体を壊されながら生き長らえる生き方があるのであれば、残り少ない命を一気に燃やし尽くす生き方だってあるはずだった。

 人は誰でも死を迎える。
 でも、その死に様はさまざまだ。
 
 常人だったら立つことさえできないプレッシャーの中で、遼の身体からほのかに熱の篭ったオーラが立ち昇る。

「やる気になったか」
 遼の口元に獲物を見定める獣のような笑みが浮かんでいるのを見て、隆盛の口元に同じような笑みが浮かんだ。

「……しょうがねえな」

 枷が外れた。
 
 死に場所を見つけた父親にもはや言う言葉はなかった。
 隆盛が言うように己の死は己で決めるものなのだ。
 想像を働かせて隆盛の立場になってみたら、隆盛と同じことを思うことを遼は自覚する。

 神煬流の修羅にしてみれば病でじわりじわりと力を削り取られて生きながらるよりも、後継者との戦いに残りの命を燃やし尽くす死に方のほうが理想なのだ。

 他人がどう思うとそれは関係ない。
 これは遼と隆盛の問題なのだ。他人にとやかく言われる筋合いはない。
 遼に倒されることが望みであるのなら、その遼が倒してやるのが神煬の流儀における親孝行だった。
 ここで倒れても遼に負けるのであって、病に負けるのではない。
 避けられない死だからといって、あくまでも死神にさえ逆らうのが神煬だった。

 そして、現世での責任を果たし終えた父親に子がしてやれることは
 彼岸に笑って送り出してやることだけだった。

「そんな死にたいか」

  一線を越えてしまえば後は簡単だった。

 隆盛を師としてライバルとして尊敬する裏側にあるもの。

 隆盛は父親でもあるが
 同時にすぐ側にいる強敵、目の前に聳え立つ万里の長城だった。

 昔からこの相手と戦いたいと思っていた。
 修練ではない、生きるか死ぬかの戦いをこの男とやってみたいと思っていた。

 今までは親子という間柄や様々な問題が重なって本気で戦うことはなかったわけではあるが、最初で最後の最大のチャンスを迎えたことによって遼の心は燃え上がっていた。
 親だろうが兄弟であろうが関係ない。
 修羅は2人もいらない。1人でいい。
 
 遼も隆盛もそういう生き物だった。
 三度の飯よりも敵と戦うことが大好きなそういう種族に生まれついていた。

 遼の身体から迸る熱量が、その濃度を高めていく。
 渇きがいっそう遼を駆り立てる。

 ”こいつを殺したい”と

「親父。蹴りで殺されるか、拳で殺されるかどちらがいい?」
 その顔にもはや子としての気遣いも遠慮もない。
 明らかに獲物を見る目で隆盛を見ていた。
 
 縛り付けるものから解放されて
 遼は身も心も楽になっていた。

「何をぬかす。貴様が倒れるのかも知れないのだぞ」

 隆盛もむざむざと命も宗家も遼に譲り渡すつもりはない。
 身体こそやせこけてはいるものの、遼の前に仁王立ちして空気ごと敵を押し潰すほどのプレッシャーを放っているその姿から、この男が末期ガンにかかっているなんて想像もできなかった。
 油断すれば、そこで終わりだ。
 間違いなく隆盛に殺されるだろう。

「真衣の面倒は俺が見てやるから安心して往生しろ」
「任せられるっかっつーの」
 
 あんまりの言い草に遼は苦笑する。

「貴様ごときロリ・・・・・・・・」

 いきなり隆盛が消えた。
 
 軽口が途中で止まった。
 距離をとって対峙していたはずの隆盛がいきなり目前に、しかも三体に分裂して迫っていた。
 動き出しの動作が全然見えず、突然現れた。
 「・・・・・・ちぇぇぇぇぇっっ!!」
 遼は目の前に迫ってくる3体の隆盛を無視して、振り向きざまに左脚を旋廻させた。
 3体の隆盛は幻のように消えうせて、遼の背後に隆盛の実体が現れる。
 繰り出した左脚は大きな鉈と化して隆盛の身体を粉砕にかかるがインパクトの直前で隆盛の身体は消え失せ、次の瞬間には魔法のように遼から少し離れたところに現れて遼と対峙する。
「まだまだだな。遼」
「衰えたな。親父 あそこで逃げるなんて親父らしくもない」
 遼の知っている隆盛なら回し蹴りの時に現れた姿さえフェイクで、回し蹴りを放つ遼の背後に回りながら強烈な靠で遼を吹き飛ばすはずだった。
 
 でも、いきなりだった。
 隆盛が高速移動で分裂しながら自分に迫ってくるのを遼は捉えることができなかった。

「おめでたいやつだな。手加減されたことに気付かんとは」
 もちろん、あの三体の分身のどれかを本体を見誤っていたら今頃、遼は地獄に落ちていたはずだ。
「終わらせるのは簡単だが、つまらんだろ」
「本当の力を手加減って勘違いしてるなんてめでてーな」

 神煬流宗家・中津川遼
 その功夫はいまだ衰えず

 軽口を叩くけれど
 冷や汗が流れ落ちる。
 畏れが心を刺激しまくる。

 隆盛は父親である以前に怖かった。
 とっても恐ろしい存在だった。

 しかし、恐れとは裏腹に
 さっきの攻防だけで隆盛のコンディンションを見極めている。

「生鋭孔も使わなきゃ足腰立たないくせに、余裕かましてるんじゃねーの」

 生鋭孔というのは神煬流に伝わる経穴の一つで、使用者の筋力、反射神経などを戦闘に関わる能力を短時間だけ数十倍に引き上げる代わりにその身体をオーバーレブしたエンジンのようにボロボロにしてしまう。
 捨て身で相手を屠りたい時に使う禁断の経穴だ。
 
 落ちぶれたな、おやじ

 生鋭孔まで使ってしまった隆盛の心情を思いやっていると、隆盛が鼻で笑った。
「ふっ」
「何がおかしい」
 隆盛はいわばドーピングをしているようなものである。
 ドーピングしている人間が余裕なんてかましてはいけない。
「しおりたんを見たら、コンマ0.000001秒で勃つぞ」
 
 目が点になる。
 
 ……何処かでカラスが鳴いているのを聞いていた。
 隆盛の動きに注意しながら遼はあさっての方向に飛んでいきそうになる心を懸命になって引き留めていた。
 「ちぃっ・・・・・流石に隙がないか」
 これが気をそらすための策略であるというのであればまだ救われただろう。

「その勃つじゃねえだろ!!」

「怒るな怒るな」
 あんたが言うな。
「しおりたんはかーいーぞぉ。あ、このみたんとななみたんもいいな」

「いい年したジジイが”たん”なんて呼ぶな!!!」

 ・・・・・・こんなの血を継いでいるなんて遼はとっても悲しかった。
 修羅の血は別なところで隆盛に殺意を覚える。
 
「しおりたんとこのみたんの魅力がわからないなんて、遼も見る目がないなあ」
「うるさい。このロリコンオヤジがっ!!」
「ほぉ。俺はしおりたんとこのみたんがロリキャラだなんて一言も言ってないんだが」
「あっ」
 地雷を踏んだことを悟ったが遅かった。
 隆盛の顔がはっきりとにやけたものに変わる。
「さては知ってるな、やってるな、萌えてるな」
「萌えてねーよ」
 展開が予想もしない方向に転がっていた。
「遼ははじるすシリーズでいったい誰に萌えたんだ?」
「だから!!!」
 遼は叫んだ。

「真衣より萌える女なんているかボケェッ!!!」

 ……ものすごく熱い青年の主張だった。
 まさに漢の雄叫びだった。

 しばらくしてから、呆けと呆れがまぜこぜになったような表情で呟いた。
「……逃げたな」
「何が悲しくて、他人に萌えなくちゃならないんだよ」
「ほんとに真衣にラブラブなんだな」
「おう。あたぼうよっ」

 遼は言い切った。
 一点の曇りのない、気持ちのいい顔で
 
 そんな漫才のようなやり取りは裏腹に互いの気は高まっている。
 二人の身体から放射される気が空間に満ちて、気温が溶鉱炉の中にいるかのように上昇する。
 それでいて、何事もないように笑っていられるのだからこの親子は尋常ではない。

 確かに隆盛は怖い。
 でも、その恐怖が遼を留まらせることはない。

 ただ、帰ってこないんだと思った。

 遼と真衣と隆盛とで激しくも笑いあっていた日々。
 毎朝早起きして、3000回の立ち木打ちから始まる朝の修練を2人でこなして、練習に一区切りがつくと真衣から熱く熱したタオルを渡されてそれで顔を拭うことによって一息つけた。
 修練は痛くてキツいものだったのにも関わらず、思い出してみたら涙が流れるぐらいに温かく思い出される貴重な時。

「……さよなら」

 当たり前だと思っていた日々はもう訪れることはないのだ。

 「・・・・いく」
 隆盛が叫ぶよりも早く遼は駆け出していた。

 人間にはとてもじゃないが出せない速度で空間を駈け、
 高速機動でその身を三つに分裂させながら隆盛に襲い掛かる。


 こうして父も子もない
 修羅同士の戦いは始まった。

 

 Toshitsugu Himuro PRESENTS

 
片翼だけの天使たち

 
 逝く者は何も思わなくてもいいが
 残される者は、逝ったものがいない世界で生きなければならない。

 重すぎる存在が消えたあとに
 どんな世界が広がるのか、この時の遼にはまだ見えなかった。

 
 

[NEXT]