第1部:12月


 1st TRACK:生と死を分かつもの

 音もなく、遼の意識が覚めた。
 
 薄目を開けると枕元を探って、置いてあった巨大な目指し時計を取り上げた。
 時刻は午前3時を少し回ったところ。
 目をつぶっても睡魔は訪れず、目を何度も瞬かせたところで寝るのを諦めると遼は起き上がった。
 布団の中と冷え切った部屋の室温との差に遼は身体を震わせる。
 エアコンのリモコンを手に取ると遠隔操作でスイッチは入れたが、電気はつけずに起き上がったままの姿勢で考え込んでいた。
 まだ真っ暗闇の部屋の中で遼はそっとため息をつく。
 もう、こんな朝早くから起きなくていいのにも関わらず
 予めタイマーでセットしてあったかのように意識が勝手に覚めてしまう。
 必要がなくなったからといって長年続けていた習慣がそう簡単にやめられるわけがない。意識は寝ようと思っていても身体がつい起きてしまう。
 刃のような冷気を首筋に感じて、遼は首をさすった。
 3時を過ぎても起きなかったら、隆盛が頭を蹴り潰しに来ると思うと起きずにはいられない。
 いつもは隆盛が部屋に入ってくる前に目覚めたので問題はなかったけれど、極稀に隆盛の接近を許した時には血の雨が降った。
 首を上げたところに隆盛の足がハンマーのように通過していったり、逆に隆盛の足を取ってアキレス腱固めをかけたりと目覚めた時からアルティメットだった。
 もはや隆盛が頭を蹴り潰しに来ることはなくなったとはいえ、長年続いた習慣というのは恐ろしいもので、遅寝を志しても速い時間で意識が冴えてしまう。
 体内時計が新しい状況に順応するまでには、まだまだ時間が必要なようだった。
 ……あの8月から3ヶ月が過ぎたというのに。

 部屋があったまってくると遼は立ち上がった。
 電気をつけて明るくするとパジャマからジャージに着替えてそのうえからドテラを羽織ると、電気とエアコンを切って部屋から出た。
 部屋の外はシーンと静まり返っている。
 水の中にいるように空気が冷たい。
 鳥肌を立てながらニ階から一階に降りると洗面所に行った。
 コックを捻って水を出すと、その水に手をつける。
 水の温度は既に真冬になっているかのように冷えていた。遼はいったん躊躇するものの構わず、冷たい水を真っ向から顔に受けてゴシゴシと洗った。
 タオルで拭いた後は、髭剃りで最近に生えてきた髭を剃り、右の眼窩にプルシアンブルーの義眼をはめ込んで遼の朝の身支度は完成する。
 鏡に映っているのは10代の少年だった。
 180cm代の背丈につりあった体格をしている。
 年齢は18であるが最高でも15にしか見えない童顔。
 ハムスターやリス系の顔立ちで、義眼で色違いにした瞳もあいまって黙っていれば美少年という顔立ちをしている。
 最近、前園のおばさんには「母さんに似てきている」と言われている。
 おばさんは誉め言葉で言ったのだろうが、男の遼とってそういわれるのはちょっと複雑だ。
 頬をパンパンと張って態勢を整えると洗面所から出て行った。

 裏側にある玄関に行って、愛用のKELMEのスニーカーを手に取ると居間に行った。
 カーテンを一気に開けても外は真っ暗だった。
 新聞屋がようやく活動を始めたばかりだから夜が明けていないのも当然である。
 ただ、日が昇るのが遅くなったと遼は思う。
 庭に面する大きな窓を一気に開けると、冷え切った外の空気が怒涛のごとくなだれ込んできて、思わず遼は震えた。
 それでも、ドテラを脱ぎ捨てると木刀を手に取って外へ飛び出していく。

 中津川家は瓦屋根の何処にでもあるような二階建てで、もともとは農家だったために庭を広い。接骨院を開業していた関係で一階部分を改装してガラス張りの待合室を設けているのが特徴である。
 その庭の片隅には大木が群れで植えられているが、そのどれもが立ち枯れて幹だけをさらしている
 よく目を凝らして見れば庭の土に霜が降りていないことに気付くだろう。

 遼は縁側に木刀を置くとウォーミングアップを始めた。
 硬くなっていた筋肉をほぐし、関節を柔らかくしていく。
 ついでに開脚なんてやったりして
 足を広げていくとしまいには股が硬い地面に触れた。それから身体を前に倒していく。
 身体があったまると遼は柔軟体操を切り上げて縁側に置いていた木刀を手に取った。
 長いこと使い込まれた木刀で、指先の当たる部分が鋭くえぐれている。
 手に取ると、大木から10m離れたところへ歩いていった。
 大木を真正面に捕らえると、木刀を上段に構えた。
 拳を突き上げるように、おもいっきり高く構えた上段。
 両膝を確かめるようにたわめる。
 一瞬の静寂。
 「ちぇぇぇぇぇぇぃっ!!」
 気合い一発、遼は駆け出していった。
 一瞬で10mほどあった距離を詰め大木に接近しつつ木刀を振り下ろす。
 木刀が連続で叩きつけられ、
 その打撃で大木が悲鳴を上げるように揺れる。
 摩擦で木の幹から煙が立ち上っていく。
 ある程度の回数を打ちこんだところで、大木から離れ、再び大木目掛けて突っ込み、打ちこむ。
 木刀を打ちこむたびに眼差しが鋭く、凄愴さを増していく。
 この稽古は遼の修練にとって基本的なもので、習い立ての頃はひたすら打ち込みだけを行う。木刀を大木目掛けて叩き続けることによって足腰が鍛え上げられ、一撃で敵を三万地獄の底まで叩き伏せる力を持つと同時に剄を練る鍛錬にもなる。
 遼は物心ついたころ、生れ落ちてすぐから木刀を大木に打ちこみ続けていた。暑い日も寒い日も途切れることなく、何千回、何万回も。
 
 軽く5000回もの打ち込みを終えると遼は小休止を決め込むことにして縁側に上がった。
 最初は寒さで震えていたけれど、運動することによって熱が蓄積されて今では全身が火照っていた。だから、その寒ささえも心地よかった。
 遼は縁側でスニーカーを脱ぐと再び、居間に上がった。
 エアコンをつけっぱなしにしておいたから居間は暖まっている。

 運動で失われた水分を補給するために台所に行こうとした遼であったけれど、不意に足を止めた。
 遼の視線は壁を掘りぬいて作ったスペースにある、白い布にくるまれた木箱に注がれていた。

 遼は力を抜いたような笑みを浮かべるとそのまま床に座り込んだ。
 その木箱の中に入っているのは隆盛の骨の粉だった。
 隆盛が逝ってから3ヶ月が過ぎた。
 夏のうだるような暑さは消え去り、青々と茂っていた稲は刈り取られ、街路樹は茶色や黄色に色づき、早くも冬の寒さが到来していた。
 生活には困っていない。
 隆盛が予想以上の遺産を残しておいてくれたせいで当分の間は遼は働かずに生活していける。
 遼の脳裏には隆盛が居た時の情景がよみがえる。

 隆盛に叩き起こされ、ウォーミングアップから立木打ちへ。
 それからは今のようにインターバルを挟んで、乱捕りへ
 いや、乱捕りという生易しいものではなかった。
 立木打ちならまだしも、2人が組稽古をやるとそれは必ず喧嘩になった。
 なんでもあり
 時と場合によっては刀を持ち出しての死闘になったのもしばしばだった。
 それは傍から見れば組稽古ではなく殺し合いのように見えただろう。
 事実、遼も殺しあっていると思っていた。

 8月のあの日までは。

  脳裏に隆盛の声が蘇る。

「親父。今日は何をする?」
「そうだな」隆盛は顎に手を当てて考えた。「……今日も組み手いってみようか」
「だったら久しぶりに真剣使わん?」
「おっ。真剣か」
隆盛は子供のような笑みを浮かべた。
「……いいねぇ。ここは久方ぶりに真剣といってみますか。なあ、助さんや」
物騒なまでの明るさだった。
「いいですなぁ。ご隠居ぉ」
「一ついってみますかのう」
 サラリーマン同士で酒を酌み交わすような気楽さで危険なセリフがポンポンと出てくるところにこの親子の救いの無さが現れていた。
「こらっ」
 そこへ真衣が中身の入ったポカリのボトルで2人の頭をコツンとぶっ叩いた。
「気軽に真剣、真剣なんていわないの」
真衣はぷりぷりと怒っていた。
「怪我したらどうすんのさ。とにかく、ダメだかんねっ」
「しょうがねえなあ。なんでもありで妥協してやるか」
「素手限定だよっ♪」
 先手を打たれて遼はおもいっきり落胆した。
「ケチだなぁ。真衣は」
「じゃあ使ってもいいけど、壊した分は遼が弁償だよ」
「あぐっ」
 どれくらいの額になるかわからないけれど高校生のお小遣いでは弁済できない額になるのは明白だった。
「遼も真衣の前では形無しだな」
 言い返すことができなくて沈没する遼の隣で、隆盛が無遠慮にも笑い転げていた。
「じじぃ・・・・・・覚えてろよ」
 殺意をこめて睨みつける遼だったが隆盛に効果がないのは言うまでもない。
 しかし。
「じゃあ、親父。負けた奴が弁償でいこう」
 こらこら。
「おっし。それでいこう」
 そういう提案をする子も子なら、乗る親も親だった。
「もう。こらぁっ!!」
 その2人を掣肘すべく真衣が怒鳴った。
「いいかげんにしろっっ!!!」

 こうやって3人で笑いあっていた時が楽しかった。
 時には高層ビルと高層ビルの間をロープではなく刀で綱渡りするような危険な会話を繰り広げて、時には血の雨が降り注いだわけではあるが今にして思えば楽しかった。
 全てが過去になってしまったとしては
 過去には戻れない、過去を覆すことができない。
 ましてやその結果が不本意なものではなく、仕方がなかった末の結果なのだからしょうがないと納得するしかないのだけれど、一人で練習する味気なさには代わることがなくて、この味気なさに慣れるまでにはまだ時間が必要だった。

 でも、修練に復帰できるだけマシなのだろう。
 修練もできない、日々の鍛錬をこなす余裕もない時に比べれば。

 遼は立ち上がると外に出る。
 スニーカーを履くと再び修練を開始した。

 
 ・・・・・・・・・・・


 朝の光は明るくて、まぶしい。
 音のない静かな世界。
 部屋の空気は冷たく乾いている。

 熱は・・・・・そんなにない。
 身体がちょっとだるい程度。

 真衣は目が覚めても起き上がろうとはせず、ただじっと天井を見つめていた。
 白い壁と白い天井。
 そして、グレーの床。
 移動可能なベットにサイドテーブルとパイプの椅子がある病室。
 それだけが真衣の世界だった。
 ベットのすぐ側に窓がある。
 窓の外には真野新町の市街が広がっている。
 ビルとマンション、一戸建ての家屋で構成された町並みが何処までも広がっており、その中を志茂電の高架が貫いている。
 今日はいい天気なのだろう。
 空は起きたばかりの朝日に照らされている。雲はそんなになく遥か遠くまで見渡すことができて、その向こうにはかすかに白い雪に覆われた富士山が見えた。
 
 耳を澄ませば色々な音が飛び込んでくる。
 
 風の音、車の音、志茂電の高架を突っ走る列車の音。
 様々な人の声。
 街は既に目覚め、人々は活動を開始している。
 国道は東京や埼玉北部へ向かう車でうまって渋滞になっており、高架の上を白とブルーを主体としたカラーリングの志茂電の列車がだいたい10分置きに駈けてぬけている。
 通勤や通学のラッシュが始まっているだろう。
 列車が東真野の駅につくとたくさんの乗客を吐き出す代わりに、これまたいっぱいの乗客を乗せて東京へと運んで行く。
 駅前は通勤通学のサラリーマンや学生たちで賑っているのだろう。
 いつものように。
 真衣はそれらを見ることができる。
 人々の営みが生み出す音を聞くことができる。
 だけど、真衣のいる世界はそれらを生み出している世界から切り離されていた。

 あれから既に数ヶ月。
 30度のラインを平気で突破していた気温は10度のラインから落ち込み、大地を焼く勢いで照らしていた太陽も分厚い雲にさえぎられ、雲の隙間から僅かに覗く光も老人のように弱弱しくなっていた。
 気象庁の予報では今年は寒くなると言っていた。
 一人だけの静謐な空間にため息が漏れる。
 ふりかえれば、ついこないまでは夏だったような気がする。
 うだるような熱さ、真っ青な蒼い空。
 蝉の声が聞こえていたはずなのに今では鈴虫の鳴き声すらしない。
 外の世界を気にする余裕がなくて、気がついたら冬になっていた。
 真衣が感じた時間の流れと外の世界との時間の流れにギャップが生じていて、真衣は戸惑いと憂鬱を感じた。
 世界だけではなく、時間からも取り残されたような気がする。
 だけど、真衣は被りを振って無理やり憂鬱さを振り払った。
 切り離されているのがなんだというのだ。ズレているのがなんだというのだ。
 切り離されていると感じたのならばつなければいい。
 ズレているのであれば修正すればいい。
 時計の針は戻らないけれど、未来は好きなように描くことができる。
 真衣には失った時間を取り戻すことができる。
 未来を描くことができない人たちにとって真衣の立場は羨望に値するものだ。その事を思ったら憂鬱になっていられない。前に向かって走り出すしかなかった。
 日常を取り戻すために血の涙を流した人がいるのだから。
 真衣の少女は激しく咳き込んだ。
 薄い胸が激しく震え
 咳が喉をも裂かんばかりの勢いで立て続けに繰り返される。
 肺の中で爆発物が爆発したようで、荒々しい暴走がもたらす痛みを前に少女は身をかがめて、ただ耐えるしかなかった。
 永劫に続くかと思われたが
 咳は目に見えないぐらいのゆっくりさで弱まっていき、やがて咳は完全に収まる。
 なんとなく苦笑を浮かべるとドアをノックする音が響いた。
「真衣ちゃん。いい?」
「はーい」
 真衣が表情を作ると同時に看護婦が入ってくる。
「おはよ。真衣ちゃん」
「おっはよう。西川さん」
 真衣は明るく朝の挨拶をする。
「気分はどう?」
 容態を聞かれて真衣は胸中に複雑なものを覚えながら、はきはきと受け答えをする。
「ちょっとだるいけど、だいじょうぶ」
 すると看護婦は眉間に皺を寄せた。
「真衣ちゃんのだいじょうぶって信用できないのよね」
「ひどいよぉ それ」
 真衣はわざとふくれてみせた。
「遼の「安心しろ」のほうがもっと信用できないよ。頭から血をドバドバ流しながらいってもぜんぜん説得力ないから」
 比較対象がかなりズレているような気がしないでもないのだけど看護婦はうなずいた。
「ほんと、真衣ちゃんのお兄さんって人間じゃないものね」
「そうでしょそうでしょ」
「真衣ちゃん。身体、診るわよ」
「はぁい」
 真衣は細い腕を差し出して朝の検温が始まった。
「……ほんとだったのね」
 電子体温計に表示された数字を見て、看護婦はわざとらしくため息をついた。
「だから、最初からいってるじゃないですか」
「この様子がずっと続けばそのうち退院できそうね」
「退院!?」
 そんな言葉が聞けるとは思えなかった。
 「ええ。今のところ体温も普通だし、脈拍もそう変わりないもの。先生の判断次第と思うけど、ひょっとしたら退院もあるかもね♪」
 「そっか」真衣は胸に手をあてて考え込んだ。「退院かぁ・・・・・・・」
 嬉しさがこみ上げてくる。
 病人にとって退院というのは憧れでもあり、生きる気力の源でもあり目標でもある。
 人は誰でもこの白い牢獄から解き放たれることを夢に見るのだ。
 ましてや病院に入院した時、真衣は二度と家には帰れないんじゃないかと思っていた。
 人が何の力も借りずに空を飛ぶこととと同じように適わぬ夢だと思っていたものが、目の前に形となって現れてきたことに真衣は呆然とする。
 これは夢で、実は寝ているんじゃないかと思った。
 でも、実際に真衣は起きている。
「西川さん。嘘つきなんだから信用できるかなぁ?」
「なんだと? こら」
「いたっ」
 笑いながら看護婦は真衣の額にデコピンを喰らわせた。
「あたしを信用できないとぬかすか」
「ボクを信用できないという人を信用できるわけないじゃん」
「むうっ……」
 ごまかされていたようで実は覚えていたらしい。
「辛いかも知れないけど先生のいうことはちゃんと聞くんだよ。人生、悪いことばかりじゃないんだから」
「はぁい」
「ま、それは真衣ちゃんが一番良く知ってるか」
「なんのこと?」
 看護婦はニンマリとした。
「あんなにかっこいい兄ちゃんに看病してもらえるなんて幸せじゃない」
「か、かっこいい!?」
 まったく予期してなかった一言に真衣の顔が一瞬にして真っ赤に染まる。
「遼の何処がかっこいいの?」
「えーーっ!!」
 看護婦は真衣と同い年ぐらいの少女のようにすねてみせる。
「あれでかっこ悪いんだったら、真衣ちゃんは眼科にいったほうがいい」
「眼科ですか」
 ベッドの上で真衣は何故か肩を落とした。
 看護婦の言うように、遼はかっこいい部類に入る。
 アクション映画や特撮番組にスカウトされないのが謎だった。
「蒼緑妖瞳っていうのが素敵じゃない」
「……素敵じゃないって」
 目を輝かせている看護婦を尻目に、真衣はすっかりジト目になっていた。
「西川さんが幻想抱くのは勝手だけど、遼はジ○ニーズの皮を被った範馬勇次郎なんだから。甘く見ると痛い目見るよ」
 スカウトされないのは黙っている分には美形なのだけれど、動き出したら世界の果てまで突っ走る暴走ぶりが見透かされているのだろう。
 見た目はアイドルグループのように見える遼だけど、その中身は北極熊よりもはるかにデンジャラスな肉食動物だ。その現実を真衣は痛いほどに思い知らされていた。
「まあね。真衣ちゃんのお兄ちゃんと長い付き合いになるから」
「はぁ……」
 看護婦がそういえるだけの期間、真衣が入院しているということなので笑うに笑えなかった。
「あのお兄ちゃんがとんでもないことはわかってる。でも、そこまで一途に想ってくれる人なんて滅多にいないわよ。病院に入院させたまま、後はあたしたちに任せて放っておく家族だっているんだから」
 その言葉に真衣は思わず頭をぶん殴られるような衝撃を受けた。
 入院している間、遼は付きっ切りで真衣の看病をしてくれた。
 今でこそ家に帰れているが、ひどい時期には家に帰れず、病院の待合室で寝泊りしていた。
 辛いとき、苦しいとき、常に遼が傍にいてくれて励ましてくれた。
 おそらく遼がいなかったら真衣は病気を乗り切ることなんてできなかった。
 遼には感謝してもしきれない。
「……ごめんね」
 どうやら負の感情が表情にあふれ出ていたらしい。
 いつのまにか静まり返った空気に看護婦はすまなそうに謝った。
「真衣ちゃん自身が分かっていることなのにね」
「いえ。こちらこそすみません」
 真衣が曖昧な笑みを浮かべて、止まっていた空気が流れ出す。
「まあ、わたしのいいたいことはあそこまで尽くしてくれる人なんて天然記念物並だっていうことで……これは釈迦に説法かもね」
「でも、遼と付き合うのは大変だよ。やることなすこと無茶苦茶だから、どんだけアンビリバボーなことがあっても耐えられる神経が必要だと思う」
 なんたって毎日毎日、奥義の限りを尽くして父親と戦っていたのだから、分身が高速で飛び交う戦場を目の当たりにしても耐えて仲裁ができるほどの神経がなければやっていけない。
 でも、看護婦が遼と本気で付き合ったとしたらと真衣は想像してみた。
 顔は綺麗で、性格も悪くない。きっと遼とでもやっていけるだろう。
「ん? どうしたの?」
「いえ、なんでもないです」
 想像してみたら辛くなってきたのでやめた。
 真衣の葛藤に気づいていないのか、それとも気づいていて敢えてぼけているのかスルーすると呆れと切なさが混ざったような声で呟いた。
「冗談よ」
 その時の真衣の顔は見ものだった。
「冗談だったんですか?」
「確かにお兄ちゃんはイケメンだけど、あんな化物を御しれるわけないじゃない」
「うんうん。それが懸命だと思うよ。遼なんかよりもかっこよくて性格のいい人ならいっぱいいるんだから」
「……よくそこまで実の兄を貶めることができるわね」
「それが妹というものじゃないですか」
「そうともいうかもね」
 看護婦は同意をしながらも爆弾を落としてきた。
「一番の理由は真衣ちゃんってお兄ちゃんにラブラブなんだから、横取りするのがとれるはずがないじゃない」
「えーーーーーっ!!」
 真衣は思わず大きな声を上げてしまった。
「なんでボクが遼とラブラブなんだよーっっ!! あんな単細胞とラブラブなんて。絶対に違うよ。そう見えたのは目の錯覚なんだよっ」
 必死に否定しようとするがなんて頭から湯気が立っているのだからバレてるも同然だった。
 否定しているにも関わらず看護婦がくすくすと笑っているのを見て、真衣は布団にもぐりこんだ。
「あはは。ごめんね」
 看護婦は再び謝るけれど顔は笑っていた。
「それじゃ、またね」
 布団の上から看護婦の言葉が降りかかり、その後に看護婦の立ち去る音が聞こえてドアを閉める音を最後に真衣はひとりぼっちになった。
 布団を頭からかぶってじっとしているうちに熱は冷め、自然と甘い笑みが浮かんでくる。
”・・・・・・おにいちゃん”
 看護婦の前では遼をクソミソにけなしていた真衣であったけど本音はその逆だった。
 中津川遼という奴は真衣が誰よりもよく知っている。
 遼という奴についての評判はあんまり芳しくないし性格的に色々な欠陥があることはわかっているけれど、それをひっくるめても真衣にとって遼はかけがえのない人だった。
 初めて出会った時から遼はずっと近くにいてくれた。
 あの雪の冷たさから、必死になって温めてくれた。
 ひとりぼっちの寂しさに凍えないように
 誰もいない哀しみに二度と傷つかないように。
 そして、出会ってから今までの10年の間
 遼は大切なもの、かけがえのないものをいっぱいいっぱいくれた。
 遼と隆盛と3人で過ごした日々は
 とっても輝かしくて、思い出の一つ一つが黄金に勝る宝物だった。

 だから、どうしても胸の中で問い掛けてしまう。

 ボクは遼に何を返せたんだろう。
 ……返せることができるのだろうか?

 出し抜けに窓を叩く音が響いて、真衣は我に帰った。

「ラプンツェル、ラプンツェル。髪を垂らしておくれ」
 聞き覚えのありすぎる声が窓から響いてきて、頭痛を感じながら窓を開けると外壁に遼がへばりついていた。
 外壁のわずかばかりの凹凸に両足と左手をがっちりとひっかけて、右手を真衣に向かって伸ばしていた。
「遼・・・・・・なにやってるの?」
 頭の痛さが増していた。
「なにって、フリークライミングだけど」
「何階だと思ってるの?」
「10階だろ」
 そう。真衣の病室は10階にある。
10階という高さと風の強さ
 外壁のよっぽど接近して見なければ分からないほどの微妙な凹凸でしか身体を支える場所がないというのにも関わらず、ロープもハーケンも何にもなしに素手と足だけで10階まで登り切って、しかも転落するそぶりなど感じられない様子に真衣はため息を抑えることができなかった。
「なんで、わざわざ壁登ってるのさ」
 受付に行って正規の手段で面会すればいいだけのことで、今日に限って非合法なことをやっている意味がわからなかった。
「いや〜」
 とっても危険なことをやっている自覚がないままに、遼は能天気に笑った。
「一回ラプンツェルの真似やってみたかったんだ」
 真衣はどういったらいいのか迷った。
「ボク、そこまで髪長くないよ」
 真衣の髪は肩から少し伸びた程度でとてもじゃないがロープ代わりには使えない。
 ただ、手を背中に回すと黒髪が手に触れた。
 背中全体を覆っているわけではなく少し下に指を滑らせると背中の硬い感触になるのだけど、入院する前は髪を短く切っていて背中には直に触れただけに、背中を軽く覆う髪の柔らかい感触と気がつくと重くなっていた頭に真衣は時の流れというのを感じた。
 いずれにせよ遼の童話のワンシーンをやってみたかったという動機には呆れるけれど、その一方でやってみたくなる気持ちもわかるだけに真衣にとっては複雑だった。
 むしろ、いつかはやるだろうと予期しておくべきだったのかも知れない。
 迷ったすえ、真衣は微笑みを浮かべた。
「お父さんみたいだね」
「・・・・・あのロリコンと一緒にするなよ」
 隆盛と同類扱いにされて遼はふてくされた。
 しかし、遼がふてくされようが暴れようが遼は隆盛のDNAを間違いなく受け継いでいて、その発想や行動パターンが父親に似てきているように見えるのは真衣だけではなかった。
 人間、誰でも時として突拍子もないことをしたくなることがある。
 普通の人間だったら突拍子もないことを実現させる能力がないからやらない(できない)のだけど、遼や隆盛には幸か不幸かありえないことを実現させる力があった。
 目の前に果実があり、それが簡単に手に入れると知っていて手に入れるかそれでも手に入れないかは別で、遼は簡単に手を伸ばしてしまうのだから明らかに隆盛に似ているといわざるおえなかった。隆盛もそんな人間だったからだ。
 笑いがこみ上げる。
 遼は父親に似ていると言われるとふてくされるが、こんなんじゃ似ていると言われるのも当然だ。
「はい、王子様」
 笑いの発作を抑えると真衣は髪の代わりに手を伸ばした。
「ボクのところに来てね」
「サンキュ」
 真衣の手を遼の手が掴む。
 その時、真衣の身体に過重がかかるがほんの一瞬で消える。
「おっす♪」
 目を開けると遼は膝を曲げた状態で窓枠に立っていた。
 ふわりと音もなく病院の床に着地する。
 が、唐突にドアが開いた。
「おはよ。お兄さん」
「西川??」
 看護婦が口元に笑みを、こみかみに青筋立てながらつかつかと遼に近寄っていく。
 遼は「やっちまった」といわんばかりの表情で固まっていた。
「い、行ったと思ったのに何故?」
「通報があったのよ。「病院の壁に怪しいスパイダーマンが張り付いてます」って。そんなアホなことするの、お兄さんぐらいだもの」
「あぐっっ」
 そりゃ目立つだろう。
 この辺りでは一番目立つ病院の外壁に、これまたありえないものが張っているのだから目につかないはずがない。
「さあて、理事長先生にこってり絞られてもらいましょうかねえ」
「・・・ちぇっ。しょうがねえの」
 見つかった時点で終わっていた。
 ここで口封じのために殺すわけにもいかず、かといって最終的には孝太郎にまで迷惑をかけると思ったら暴れるわけにもいかず、すごすごと遼は西川に連行されていった。
 後にはまた真衣が取り残される。
「遼……かわいそ」
 表情はぜんぜんかわいそうだとは思っていない。
「……ったく、遼ってばバカだよ。おとうさんと同じぐらいにバカだよ」
 真衣はひとりきりになると我慢していた笑いの発作を一気に爆発させた。
 
 極端に味の薄い病院食を食べ終わっても遼は来なかった。
 どうやら長い時間、しぼられているらしい。
 ドアがノックされて遼がようやく戻ってきたのかと思ったのだけど、入ってきたのは遼ではなく医師だった。
「……お兄さんでなくて残念だったかな?」
「全然残念でもなんでもないです。なんであんな兄を尻尾振りながら待たなくちゃいけないんですか」
 看護婦ならともかく、医者にまでそう冷やかされるとたとえそうであったとしても素直は認めたくないものである。
「ごめんごめん。それじゃあ診察を始めようか。身体の調子とかおかしいところはないかい?」
 医者は謝罪すると早速仕事に入った。
「こんな言い方は変ですけど至って健康です。熱もないし痛くもないしだるくもないし、特に変なところはないです」
 医者は軽く真衣を見つめた。
「うん。西川くんの言うように特に問題はないようだね」
「なんでボクの言うことじゃないんですか」
「こういうのは主観よりも客観のほうが重要だからさ」
 医者はさらっとかわすと真衣を促した。
「さて、始めようか」
「はあい」
 真衣は不満そうにうなずくと腕を上げた。
 ……数分後
「体温は平熱、脈拍心拍数共に平常。ほんとに何の問題もないね」
「でしよでしょ」
 医者は顎に手を当てて、しばらく考え込んだ後。ようやく表現するに一番ふさわしい言葉を見つけたように口を開いた。
「検査する必要はあるけれど、僕が思うに真衣ちゃんはこのまま退院してもいいんじゃないかと思うんだ」
「退院……?」
 医者から言われて俄然、退院が現実味を帯びてきたがそれでも真衣の表情が晴れることはなかった。
「真衣ちゃんは嬉しくない?」
「もちろん嬉しいですけど、実感がわかないというかなんというか…」
 医者に怪訝な表情をされて、真衣は無理やり笑顔を作った。
「実感が沸かないのも無理もないかもね。正直言って僕も真衣ちゃんの回復具合には驚いているよ」
「そ、そうですよね」
「そんなに暗い顔をしない」
 負い目を感じているような真衣に向かって医者は言った。
「驚くことは驚くけれど真衣ちゃんが元気になってくれてよかったと思っているんだ。僕は奇跡を望みながら死んでいった患者とその御家族を見てきたからね。みんなは生きたいと望んでいた」
 医者はこれまでの生活の中でたくさんの死を見取ってきた。
 患者の死に方は様々ななのだけど、ある者は白血病、ある者はガンに全身を犯されて治る見込みがないと判断されながらもそれでも最後の瞬間まで生きようともがき苦しみ、その願いが叶うことなく死んでいった。
 「御家族の方々は患者さんが治ることも望んでいたし、僕もそうに望んでいた。真衣ちゃんは奇跡が起こったことを感謝すべきなんだよ。お兄さんのためにも、お父さんのためにも」
 まだ素直には喜べないところがある。
 :けれど、治すことに命を賭けてくれた隆盛と遼のことを思うと喜ばないわけにはいかなかった。
 二人は真衣が元気になれることをひたすら願っていたのだから
「なんか嬉しくなってきました」
 ……想像してみたら、嬉しくなってきた。
 いつでも外を走り回ったり、学校に行ったりその帰り道に商店街に立ち寄って買い食いしたり、休日には山や川に遊びに出かけたりと自由に過ごすことができるのだ。
 この白い牢獄から解き放たれるのだ。
「ただ、ちゃんとした医学によって真衣ちゃんを回復させることが出来なかったのが悔しかったりするんだけどね」
「怪しく蘇ってすみません」
 真衣も冗談で返せる余裕が出てきた。
「いやいや。これは僕の愚痴だから」
 医者は苦笑を浮かべながら立ち上がると部屋の外へ歩き出した。
「それじゃ、また」
「はい」
 軽く挨拶をかわしながら医者は部屋から去っていった。
 後には真衣が取り残される。
 しばらくの間、ベッドの上で半身を起こしたままでいた真衣だったが俯くと両手で布団の端を握り締めた。
 変な病気にもなったように手が震える。
 そして、真衣はタオルでも放り投げるように両手を高く突き上げた。
「やったーーーーーーーっっ!!」
「……なにがやったーなんだっ?」
 真衣が歓喜の叫びを上げたのとやつれたような遼が入ったきたはほとんど同時だった。
 両手を挙げたまま固まる真衣。
「もぉっ、遼ってば」
 頭から火が立ち上ったように突っ伏すと真衣は文句を言った。
「部屋に入るときはノックしてって言ってるじゃない」
「わりぃ…ちょっと疲れてて」
「もしも、ボクが着替えしている時だったらどうするのさ」
「見せるほどの身体か……」
 言い終わらないうちに枕を投げつけられた。
「遼ってほんとにデリカシーないんだから」
「デリカシーなんていうものは、これまでの修練で捨てた」
「開き直るなっっ」
 そんなことでえばる奴は例外なく嫌われる。
「遼。どうしたの?」
 最初は錯覚かと思ったのだけど本気で気分が悪いようなので不安そうになる。
「阪倉の野郎……ながながと説教しやがった上に血まで抜きやがって」
「……それしょうがないよ」
 普通は怒られるに決まっている。病院の外壁をフリークライミングするのは。
 阪倉というのは婦長で言うまでないというか当然というべきなのか遼と喧嘩している仲だった。
 喧嘩といっても今日のフリークライミングから分かるように遼がトラブルを起こして、阪倉が文句を言うのが昔から延々と繰り広げられているパターンだった。
 余談ではあるが隆盛も遼と似たようなことをやらかしては阪倉に怒られていたのだから、親子ともども救いがないというべきか。 
「ほんと、成長しないんだから」
 同じことを繰り返しているのだからそういわれても仕方がないのだけど、遼はぐしゃぐしゃと真衣の頭を撫で付けた。
「いつから生意気な口を叩くようになったんだ?」
「遼もお父さんと同じこといってる」
 生前の隆盛も遼と同じようなことを言っていた。パターンというのは立場を変えて繰り返されるものなのである。
「こらっ」
 そして隆盛がやっていたように遼は真衣の頭を軽くこづいた。
 似ていることを否定しているんだけれど、無意識で模倣しているのだから否定のしようがない。
 こづかれたのに真衣はにへらと笑い、その笑みに釣られように遼も笑みを浮かべた。
「血を抜かれたのは災難だったね」
「しょうがないだろう。あるにこしたことはないんだから」
 真衣の顔は一瞬、曇ったがすぐに陰りは消えた。
 ……遼にばかり負担をかけさせているような気がするのだけど遼は気にしていないんだから、気に病むのは却って失礼にあたる。
「嬉しそうだな。真衣」
 遼が話題を変えると「聞いて聞いて」と言いたげな顔になる。
「さて、そのこといい事とはなんでしょう」
「懸賞でMRE一年分が当たった」
 そんな懸賞があるわけがない。
 真衣は白い目になった。
「じゃあ、MRE2年分が当たった」
「いいかげんにしろっ」
 真衣はペチペチと遼の頭を叩いた。
「なんでボクがMREを応募しなくちゃいけないのさ」
「オレだったら応募するけど」
「あのね。誰もが遼と同じ味覚だと思わないように」
 更にぺちぺちと叩くと呆れたように、その嬉しい訳を話した。
「ひょっとしたらボク、退院できるかも知れないんだ」
「たいいん……?」
 遼にとっては想定外だったらしい。
 完全な不意打ちになって、遼は呆然とする。
「自衛隊員にでもなったのか?」
「お約束のボケありがとう。でも、その隊員じゃない。やっと、ここかから出られるようになったんだよ」
「退院……できるのか?」
「うん。できるんだよ」
 遼はようやく言葉の意味を理解した。
「よーこはまっ、ちゃちゃちゃ、よーこはまっ、ちゃちゃちゃ、よーこはまっ、ちゃちゃちゃっ」
 遼は不思議な踊りを踊りだした。
「…………」
「あーれっ、あーれっ、オレたちよっこはまオーレーっ。あーれっ、あーれっ、オレたちよっこはまオーレーっ。えーおっ」
 腕や脚、身体をタコのようにくねらせて踊る姿はとっても不気味で見るもののMPを吸い取っていく。
「変な踊りをおどるなー。気持ち悪いっ」
「そうか」
 真衣の抗議を受けて、遼ははたと踊るのをやめた。
 しかし、その目は寝ぼけているように焦点があってない。
「阪神優勝ばんざーいっっっ!!」
 窓に向かって突っ込んでいこうとしたので、真衣は大急ぎで飛び起きると遼の背中にタックルをしてはそのままはがい締めにする。
「止めるな真衣っっ。道頓堀に飛び込ませろっっ!!」
「道頓堀は飛び込む場所でもないし、道頓堀でもないっっ」
 大阪市内でもなく、ここは地上十階の高層ビルである。
 このままスルーしてもよかったのだけど、周囲にかける迷惑のことを考えたら飛び込ませるわけにはいかなかった。
「離せ、真衣っっ!! ここで飛び込まなかったらいつ飛び込むんだっっ」
「だから飛び込むなってっっっ!!」
 なおも腕の中で暴れるので、真衣は遼の股間に膝を蹴り上げた。
 本気度100%の膝が金的にもろに入って、遼は一瞬で動きを止めた。
 真衣が手を離すと遼は床の上に崩れ落ちて、そのまま痛さにのたうち回っていた。
「情けないなあ。ボクごときの膝をまともに食らうなんて。おとうさんが見てたら激怒どころじゃすまないと思うよ」
 仮にも神煬流継承者が金的を強打されて悶絶しているのだから、これが実戦だったら遼は死んでいたかも知れないと思えばかなり情けなかった。
「うるせえなあ……」
 金的の痛みが治まったのか遼は立ち上がる。
「嬉しかったからに決まっているだろう」
 普段の遼だったらいくら真衣といえども金的に打撃を入れさせることを許しはしない。
 意識しなくても身体が勝手に防御してくれるはずなのだが、防衛回路が作動しないぐらいに遼は有頂天になっていたということなのだろう。
「でも、なんか実感が沸かないんだよな」
「ボクだってそうだよ。ほんの一週間前までは大霊界に片足突っ込んでたっていうのに。今までの苦労はなんなんだって言いたくなるよね」
「こんなことだったら、親父の薬をもっと早めに投与すればよかったかな?」
「しょうがないよ。おとうさんのくすりって効くかどうか分からなかったんでしょ」
「……まあな」
 遼の表情にやや苦さが浮かぶ。
「遼が躊躇うのも当然だもん。どっちにしてもボクが生きているんだから、それでいいじゃん」
 真衣は大きく腕を伸ばして、こきこきっ関節を鳴らした。
「実際、病気っていう感じはしないんだよね。このまま退院してもいいかなーって思うんだ」
 熱もないし痛みもない。身体がだるいというわけではない。
 身体が意思の命ずるままに動く。
 医者に言われるまでもなく真衣は自分が健康であることを感じていた。
「だったら、今から退院するか?」
「えっ?」
 遼の言葉の意味を計りかね。少ししてその真意を理解すると真衣はおもいっきり慌ててた。
「そんな脱走するのはダメだよっっ。西川さんや阪倉さんが迷惑するじゃないかーーっっ!!」
 遼の力だったら強行に退院させることも可能だ。
 というより本気になった遼を止められる者は誰もいない。
 このまま外に出かけていっても問題がないように思えるのだけど、このような形で出て行かれると病院関係者によく思われるはずがない。真衣としてもきっちりとした形で退院したかった。
「真衣は引きこもっていたいのか?」
 遼は人情の機敏を分かっていないかのように、真顔で言っていた。
「もちろんここから出たいけれどそれとこれとは話が別だよっ だいいちじっちゃんも迷惑するじゃないかっ」
「むうっ」
 やりたいことがあったら目の前にどんな障害があっても突っ込んでいくのが遼のスタンスではあるが、恩人でもある孝太郎に迷惑をかけると思ったら二の足を踏む。
「先生も退院できるって言ってたんだから慌てることもないよ。これまでのことを思えばたかだか数日なんだから我慢できないわけないでしょうが」
「それもそうか」
「そうだよ」
 季節は11月下旬で季節は秋から冬へと移項していた。
 真衣が入院していた時は焼けるぐらいに熱かったのに今では冷たい湖の中にいるように冷え切り、青々としていた木々は残らず葉を落としていた。
「……もう三ヶ月ぐらい経つんだよね」
 入院している間に通り過ぎていった時間を真衣はしみじみと振り返る。
 暗くなりかけた真衣だったが、急ににぱっと笑った。
「クリスマス。楽しみだなっ♪」
「だな」
 戻らない過去を気にしてもしかたがないから、これからの未来を見ていたほうがいい。
 真衣には時間があるのだから。
「クリスマスはどうする?」
 12月といえばクリスマスにお正月というイベントが控えている。
「クリスマスかぁ……」
 遼は顎に手を当てて考え込んだ。
「カップルたちでも襲撃するかな?」
「あのね」
 本気なのか冗談なのか分からないが故に真衣は顔をしかめた。
「ボクたちだってカップルなんだから、何が悲しくてもてない男たちのような真似をしなくちゃなんないのさ」
「カップル……誰が?」
「ばかっ」
 真衣は遼の背中を叩いた。
「ったく、近くにこんなに可愛い女の子がいるのに」
「可愛いって……」
 藍色の澄んだ瞳
 艶やかに伸びている黒髪
 雪のように白い肌
 幼くて愛くるしい顔立ち。
 「誰が?」と続けようとしたのだけど、たとえ冗談であったとしても否定するには真衣はあまりにも可愛すぎた。
 この場で抱きしめて、押し倒したくなるぐらいに可愛い。
 ……その先のことを想像してみたら真義としては色々な燃えてきた。
 体温が一二度上がり、打撃を食らった股間に力がみなぎってくる。
「遼……?」
「いや、なんでもない。なんでもないぞ」
 遼は笑ってごまかそうとするが妄想していたことがバレバレなだけに真衣は思わずジト目になる。
「ったく、遼ったらスケベなんだから」
「なにを……てめぇに誰がも……」
 「萌えない」なんて絶対に言えない。
 特に隆盛の戦いで「真衣以外には萌えない」ときっぱり言い切ってしまったのだから。
「も……って、その続きは?」
 その先が読めているだけに真衣は思わずネズミを追い詰める子猫のようににんまりとしながらと問い詰めてくる。
「うっせえなあ。どうでもいいだろ」
「……つまらないなあ」
「ほっとけ」
 真衣としては「も……」からどうやって切り返すか期待していただけに芸のなさにがっくりなんだけれど、遼にお笑い芸人のような機知を期待しても無駄というものである。
「真衣は何処に行きたい?」
「んと……そーだねえ」真衣は考え込む。「やっぱり遊園地かな。ディ○ニーランドとかディ○ニーシーに行きたい」
真っ当というか極普通の反応だろう。
「それで米国鼠狩りでもすると」
この男の発想はまともじゃなかった。
「なんでそういう発想になるのさーっ!!」
「いや、あの間抜け面見ているとぶん殴りたくなるんだよなー」
「遼だけだよっ」
 世間から乖離した遼に真衣はむくれるとため息をついた。
「遼と人並みなデートは無理なのかな。やっぱり」
「どういうデートを望んでるんだ?」
「そりゃもう……アトラクションを一緒に楽しんだり、感想を言い合いながら食事をしたり、最後には手をつなぎながら帰るのが一番じゃん」
「定番だな」
「一番支持されるから定番になるんだよ。遼はボクとデートしたくないの?」
 真っ向から真衣に見つめられて、遼は僅かに後ずさった。
 真衣みたいな女の子にうるうるとした瞳で見つめられた普通の男だったらたじろがずにはいられないわけで、普通とはほど遠い遼であったとしてもメンタリティはそこらにいる男とはちっとも変らない。
「そりゃまあ……」
 遼は照れながらもじもじと指で鼻をかきながら呟いた。
「デートしたいかな。やっぱし……」
 とてもじゃないけれど「したくない」とは言えないし、仮に言ったとしてもごまかしているのがバレバレだから遼としては正直に言うより他なかった。
「正直でよろしい」
 そんな兄の頭を真衣は撫で撫でする。
「ボクだって遼といっぱいいっぱい遊びたい。今まで動きたくても動けなかったんだから、その分をこれから取り返してやるんだっ」
「その意気だ」
 なにはともあれ元気になってくれた真衣に遼は安堵する。
 夢を見られるということはとっても素晴らしいことだ。
 数週間前までは遼も真衣も夢を見る余裕なんてなかった。
 それだけに先のことについてあれこれ語れるのは幸せだ。
 しかも見果てぬ夢ではなく、手を伸ばせば届く夢のだから。
「……ようやく人並みな年末を送れそうな気がする」
 遼がしみじみと呟いた。
 隆盛の居た頃の中津川家の冬休みは、夏休み同様雪山でキャンプを張るのが普通でいつも以上に密度の濃い修練を繰り広げていた。それは人並みの年末とは程遠かった。
「ボクは好きだったよ。お父さんの連れて行くところってどこも綺麗で素敵な場所だったもん」
「そりゃ真衣は傍で見ているだけでよかったもんな」
 後から思うと旅行に出かけているようなものだったから、真野新町では見ることができない雪に感激したりとかスキーやソリや雪合戦で遊んだりとかそれなりに楽しかったものだった。
 ここぞとばかりに隆盛にしごかれるのを除けばだが。
「北海道か東北辺りの温泉に行くのもいいかもな。もちろん泊まりで」
「今からだと宿は取れるの?」
「……無理やり取らせる」
「暴力反対。そんなことやると絶交だよ」
 真衣が絡むと遼の頭から良識や常識などが消え去るだけに、真衣は遼にあらかじめ釘を刺しておいた。
「ちぇっ」
 世の中の全てのものを敵に回しても意に介さない遼だとはいえ、真衣は例外である。
「おとうさんが言ってたじゃない。「神煬は世界を破壊をする力を持つんだから、その力を使うにあたっては慎重にならなければいけない」って」
「息子をぶん殴るのも慎重に考えた末だっていうのか」
 滑走路に落ちていたゴミ一つで飛行機が墜落して大惨事を招くように、巨大な力というのはほんの僅か反れただけで回りに巨大な被害をもたらすものである。覆った水は決して盆には戻らないのだから隆盛の言葉はもっともなんだけれど、遼にとっては戯言にしか聞こえなかった。
 軽々しく使っているような奴が言っても説得力はない。
「おとうさんはおとうさん、遼は遼だよ。弱いものいぢめする遼なんて嫌いなんだからね」
「わかってるって……真衣も冗談を真に受けるなよ」
「遼が言うと冗談には聞こえないから怖いんだよ」
 隆盛がいなくなった以上、この世界の中で遼を止められるのは真衣しかいない。
 本気で暴走したら取り返しのつかないことになるからストッパーとして責任重大とはいえ、真衣には苦にならなかった。
 その時、ノックの音と共に男性の声がした。
「入ってもいいかな? 真衣ちゃん」
 その声は紛れもなく孝太郎の声だった。
「じっちゃんなら大歓迎だよーっ」
「右に同じ」
 遼と真衣から歓迎されながら孝太郎が入ってくると真衣はベットに入りなおし、遼は孝太郎にパイプ椅子を勧めた。
「真衣ちゃん、遼くん。おはよう」
「おはようございます。じっちゃん」
「おっはよ」
「具合はどうだい?」
「至って健康そのものだよっ……というより、何時までこんなところでじっとしてなくちゃいけないのさっていう感じ。とっとと退院したいよ」
「元気そうでなによりだよ」
 暴れ足りないといわんばかりに脚を上下に揺らす真衣を見て、孝太郎は笑みを浮かべた。
「二人の話す声を聞いて私も楽しかったんだけど遼くんは受験、どうするつもりなんだい?」
「うがー……」
 遼は受験生である。
 忘れた現実をナイスミドルの爽やかな微笑から思い出せられて遼はそのまま頭を抱えた。
 翔洋学園は小学校から大学までの一貫校ではあるが高校から大学についてはそのままエスカレーターというわけではなく1年から3年までの期末の結果によって査定される。入試を受けることに比べるば遥かに大甘ではあるものの確実ではないから受験生としての苦しみを味わうことになる。
「そっか。遼は受験かあ。それじゃどこにも遊びにはいけないね」
「いや、絶対に遊びにいく」
 拳を握り締めて遼は断言する。
「夏休みは遊べなかったんだから、真衣とあんなことやあんなことやあんなことやあんなことをするんだーっっっ!!」
 熱い男の叫びだった。
「あんなことってどういうことなんだーーーーーっっ!!」
 呆れながら突っ込みを入れる少女であった。
「遼くんの今までの成績なら無事に大学に進学できるとは思うんだけど、問題はそこではないね」
 思わせぶりな孝太郎の言葉に二人は顔を見合わせてはハテナマークを点滅させる。
「なんだよ。問題って」
「そろそろ11月も終わりに近づこうとしているね」
「さっさと教えろよ」
 遼は最初から考えることを放棄していた。
「12月といえばどんなイベントがあるかな?」
「クリスマスと大晦日だろっ」
 単純な奴である。
「それは年末の話だね」
 孝太郎は切れることなく温厚な教師のように粘り強く続けた。
「月の初めに重大なイベントがあったと思うんだけど」
「……ああーーーーーっっ!!」
 ようやくそのことに気づいた真衣が大声を上げた。
「期末だよ期末だよ。期末テストだよーーーーーっっ!!」
「なにーーーーーーーーっっっ!!」
 翔洋学園では12月の月初に期末テストが設定されている。
 それは中学でもあっても、通信教育課程であっても代わりない。
 期末の存在を思い出し、そして二人同時に顔が青くなる。
「ボク、ぜんぜん勉強してないよーーーーーっっ!!」
「マジかよっっっ!!」
 指を折って数えてみたところ、期末テストが始まるのは後数日後だった。
 つい数週間前までは生死の境をさまよっていた患者とその家族が期末対策できるはずもなく、残された時間はあまりにも短い。
「ボ、ボク……なんだか具合が悪くなっちゃった。熱が出てきたみたい。頭が割れるように痛くて吐きそう」
「そうだ。学校を破壊しよう」
「ちょっと待った。それはなしそれはなしだよっっっっ!!」
 容態が急変したふりを装って現実逃避を計ろうとした真衣だったが、遼が熱に取り付かれたような爽やかさで窓に向かってダッシュしようとしたのでさっきと同じように後ろからがしっとはがい締めにする。
「うるさい。オレはこれから真衣とデートしたり真衣とデートしたり真衣とデートしたり真衣とデートしたり真衣とデートしたりするんだ。オレ達のこれからの明るい未来を何人たりとも邪魔させるものか。邪魔する奴はなんびとたりとも」
「それはダメぇっっっっっっ!!」
 真衣の拳が遼の身体に押し当てられた状態から、銃弾のように遼を打ち抜いた。
 背後から肝臓を強打されて、遼は陸に上げられたホオジロザメのようにのたうちまわる。
「この様子だと無事に授業は受けられそうだね」
「はうっっ」
 このまま放置していたら本気で翔洋学園を破壊しかねないだけに遼を止められたのは快挙だと言ってもいいが、その代償として仮病だったのがバレてしまって真衣はへこむ。
「真衣ちゃんは大丈夫だと思うよ。真衣ちゃんが病気なのは先生だって分かっていてくれているから」
「それって足りなかった部分は補修で補えっていうことじゃないですか」
 遼が痛みからあっさりと立ち直りつつぼやく。
「オレの場合はその救いさえないということかよ……」
「遼くんはきちんとレポートを提出してくれたじゃないか」
 通信教育課程においては授業に代わりにレポートを出すことのほうが重要になってくる。
「神煬流の宗家なんだから、その程度のことでおたついていたら隆盛に笑われるだろう」
「あのクソ親父が成績優秀だったなんてそんなことは絶対にありえねえ」
「結局ボクは大変なままなんだね」
 真衣がしょぼくれたところで孝太郎はようやく本文を切り出した。
「遼くんに話があるんだ」
「オレに? わかった」
 重要な話なのだろう。遼は外に歩き出した。
 遼の背に真衣の声が投げかけられる。
「遼……期末、どうしよう……」
「大丈夫。任せろ」
「先生たち皆殺しというのはなしだよ」
 遼の動きが止まった。
 肩がそっと落ちた。
「……それ以外だったらオレに出来ることはない」
「はうぅぅぅぅっ」


「話ってなんですか?」
「正確には僕からじゃなくて主治医の御影先生からだね」
「ていうことは検査の結果が出たと?」
 孝太郎はうなずいた。
「こういうことはまず最初御家族の方に伝えておいたほうがいいかなと思って」
「実は真衣の容態は悪いんじゃ……」
 遼の表情が沈みこむ。
「そんなことはないと思う。真衣ちゃんの容態が実は悪化していたなんてそんなことは僕でも許さない」
「じっちゃん……」
 孝太郎の眼差しは老齢ながら力に溢れていて、遼でさえも目を見張った。
「ま、一週間前に比べればどうっていうこともないか」
 遼の眼差しが遠くなる。
 数週間前に比べれば元気はつらつとしているのだから、ひたすらに耐えるしかなかったあの地獄の日々を思えばどうとういうこともなかったし、医者から言われる結果も楽観できるものであると確信できた。
「それと真衣ちゃんの前だと色々と言えないことだってあるだろ?」
「……まあね」
 遼は真衣が大好きだ。
 大好きで大好きでたまらなくて、あの雪の日に出会ってから、この子を守るのが自分の運命だと思い定めたほどだった。
 それ故に弱いところ、女々しいところなんて見せられなかった。
 自分は真衣を守る盾なのだから、その盾が崩れてはいけない。
 だけど、無痛病患者のように痛みを感じないからといって実際のダメージを無にできるわけではない。
 我慢すれば我慢するほど、痛みは錐のように深く突き刺さるのだ。

「こんにちは、遼くん。理事長先生」
 診察室に入ると医者が二人を待っていた。
「こんにちは、御影先生」
「ちーっす」
 二人はそれぞれの表現で挨拶をすると用意されていた椅子に座った。
「まず検査の結果ですが真衣さんは寛解しています」
 医師の口から検査の結果を告げられると硬くなっていた遼の表情が和らいだ。
「真衣さんの骨髄には白血病細胞が見られず、造血細胞が正常どおり分化しています。完全寛解といってもいいでしょう。もちろん完全な治癒に至るまでには5年ぐらいかかりますし、それまでに再発する可能性もありますがまず安心していいでしょう」
 白血病はガンとは違って腫瘍が消失したのを目で確認できたわけではないので治癒という言葉ではなく寛解という言葉を使う。寛解の状態が五年続けば治癒とみなされるわけで完全に治ったというわけではないが安全圏に入ったのは確かだった。
「おっしゃぁぁぁーっ!!」
 遼が高らかに片腕を挙げ、孝太郎は暖かい笑みを浮かべる。
 医者も満ち足りたような表情になっていた。
 家族に患者が死病に侵されたことを宣告することに比べれば遥かに気が楽、というものじゃない。
 たとえ、治癒に至った経緯に少し腑に落ちない点があったとしても
「ほんと僕も驚きました。あの状態からここまで回復できるなんて奇跡としかいいようがないですよ」
「まさか、隆盛の作った薬がここまでの効果があるとは思ってもみなかった」
 それは遼でさえも躊躇うほどのギャンブルだった。
「これからのことなんですが近日中には退院しても大丈夫でしょう。いや、明日あたりでもOKです」
「随分と急ですね」
 医者の何を隠しているような態度が遼には引っかかった。
「なにやら真衣を追い出したがっているように見えるんだけど」
「当然ですよ。病院は学校の保健室みたいにさぼりの場所じゃないんですから。救いの手を待っている患者はたくさんいるのにベット数は遥かに足りないんですよ」
 冷酷な表情を作っておきながら、医者は力を抜いたように苦笑を漏らした。
「一番の原因は隆盛さんの薬が大変なことになっているからなんですよ」
「大変なことって?」
「隆盛さんの薬のことがどっかが漏れたらしくて、患者さんが投与してくれとせがむんですよ。けど、あの薬の危険性は遼さん御存知なはずです」
 遼の反応が遅れた。
「……なるほど」
 隆盛が真衣のために残していった薬は、真衣のためだけに作られた薬であって他人のことなんてまったく考慮していない。
 その効力はまったく未知数で、遼でさえも使ったのはかなりギリギリになってからだった。
 賭けにかったから安堵していられるのだけれど、もしも失敗していたらと思うと震えが止まらない。
 それはともかく、これだけは言える。
 真衣以外の人間には害にしかならないと。
 そもそも隆盛の作った薬を使うのは薬事法違反であり、使用することができたのも孝太郎がこの病院のオーナーであったことと中津川家が日本政府にある程度の影響力を持っているからである。
 そして、事は薬だけには留まらない。
 通常の人間なら毒物に値するもの真衣は治ってしまうのだから、その真衣の身体はどうなんだという話になってしまう。
「ですから、なるべく早く真衣さんに退院してもらったたほうがいいですね。こんなこと言うのも変な話ですが」
 医者に当たるのはいいとして、真衣と同じような疾患を抱えた患者が遼たちの目前に現れたら遼としても対応に困る。
 末期に入っていると知りながらもその患者の生存を祈り願う気持ちは遼も理解できた。
 真衣が傷つけらようものなら遼は傷つけた人間に容赦なく鉄拳を叩き込むが、かといって鉄拳を振るう前に逃げたほうがいいに決まっていた。
 話が広がる前に。

 いくらか話をして、診察室から出ると遼と孝太郎は一緒に歩き出す。
「なにはともあれよかったじゃないか」
 複雑な表情を見せる遼に孝太郎は話しかけるが変化はなかった。
 やがて孝太郎も同意したようにため息をついた。
 真衣と暮らしだしてはや10年近くが経つ。
 その中で思い知らされたのは真衣が普通の人間とは違うということだった。
 見た目は人間だが血液型や薬の効き方まで普通の人間からは信じられないような差異があり、特に今のようにはっきりとではないがを差異があることを人から告げられるとさしもの遼もへこんだ。
 取り囲む、決して埋まることがない堀の存在に気づかされるのは羆さえも即死するほどの豪拳で殴られることよりも辛い。
「寒い時代になったものだなって……昔からか」
 ガンダムのセリフを言ってから、一人突っ込みを入れる。
 辛いことは辛いけれど、差異が生じているのは昔からでありみんなと同じようになるのは不可能だ。
 落ち込むことは落ち込むし、痛いことは痛いのだけれどそれを受け止めていくしかない。
 問題はない。その差異が真衣にとっての危機になるのなら身体を張って守ればいいだけだ。
 そうやって生きていたのだから問題はない。
「僕からしてみれば真衣ちゃんは人間だし、大切な孫だから」
「そういってくれると心の底から助かる」
「それじゃ僕は出かけるよ」
「……ありがとう。じっちゃん」
 孝太郎は小学校から総合大学までの学園の総帥だから数少ない自由になる時間を割いてくれて遼としては感謝だった。
「言っただろ。可愛い孫のために時間を割けない祖父なんていないと」
 孝太郎は軽く一礼をすると遼の前から立ち去っていた。
 その後姿が廊下の向こうに消え去るまで敬礼で見送っていた遼であったが、その後で遼はどうしようか困った。
 何もなければここのまま真衣の病室に行くべきなんただろう。
 けれど、遼はくらげのようになんの目的もなくこの空間にたゆっていたかった。
 真衣とは顔が合わせづらくて
 何故、あわせづらいのかわからない。
 このまま真衣の病室に行かない理由なんてないのに
 正体不明の潰瘍を抱えているようで遼は戸惑った。
 ……くそっ
 遼は頭を振って答えのでない思考の深淵から意識を脱出させると、現実を確かめる意味で周りを見回した。
 視覚よりも先に、薬の臭いが鼻腔に触れた。
 ここは翔洋大学病院の通路で人通りはあまりない。
 住宅地まっただなかにあって、決して静かな環境だとはいえないにも関わらず静謐な雰囲気が漂っていた。
 大抵の人間が病室で病と闘い、死んでいくのだから病院というのは生と死の境目に立つ場所だった。それ故に俗世から遊離した空気が漂っているのだろう。

 遼にとって死はすぐそこにあった。

 顔面すれすれで通り過ぎる岩をも砕く豪拳。
 かわしたところに鳩尾をピンポイトで貫く膝。
 強烈な一撃に頭が真っ白になったところに雨あられと降り注ぐ連打と轟く罵声
「貴様、それでも神煬かっっ!?」
 ……今であれば本気で殺そうとしているのではなく遼を殺さないようにコントロールされていて本気ではなかったが、かといって一瞬でも気を抜けば死ぬ攻撃であり、立会いという名の修練の中で遼は常に死に晒され続けていた。
「てめぇっ」
 隆盛の猛攻をぎりぎりのところで凌ぎながら、一歩踏み込み顔面めがけて飛んでくる豪拳を右手ではたき落とし、続けざまにその手を隆盛の鳩尾に叩きつけるが隆盛の鳩尾は鉄板のように硬く、却って殴ったほうが痛くて拳がぶっ壊れたような衝撃に一瞬、動きが止まった。
「……このバカがっ」
 容赦なく側頭部にフックが炸裂して、遼は壊れた人形に吹っ飛ばされる。
「何度痛みで動きを止めるなといったらわかる」
 遼は数m宙を飛んだ後に地面に叩きつけられる。
 今までのダメージがある程度に達したのかすぐに立てない。
「これで終わりか。遼っっ!!」
 実の息子であるにも関わらず、隆盛は片足を遼の頭に乗せながら仇を見るようにを憎々しげに吐き捨てた。
「この程度のことで倒れて、そんなんで真衣を護れると思っているのかっっ」
 その一言に遼は立ち上がる。
「ふざけんなっっ!!」
 生と死の狭間に立って、死神の息吹を耳に吹きかけられながらも真衣がいたからこそ遼は生きていられた。 
「オレは……」
 殴られ蹴られ関節を極められて、身体がボロボロにされながらも立ち上がることができた。
「オレは真衣を護るっっっ!!!」
 真衣を護ると心に誓ったからこそ遼は戦えた。
「ならば、その言葉を身体で証明してみせろ」
 この隆盛という地上でもっとも恐ろしい相手に立ち向かっていくことができた。

 ……修練じゃないよな。
 稽古というにはボスキャラとの最終決戦をやっているように熱すぎる戦闘を365日飽きもせず繰り返し続けられたことに呆れてしまうけれど、過酷すぎる戦闘に生き残ってきたからこそ遼は強くなれた。

「なあ、遼」
 再び脳裏に父親の声が蘇る。
 その声は修練の時とは違って痛みと苦悩に染まっていた。
「真衣は母さんと同じなんだ」
「かあさんとおなじ?」
「同じだから、母さんのように早く……逝ってしまう」
「なんでそんなのわかるんだよ」
「いっただろ。真衣は母さんと同じなんだって」
 いつもだったらぶん殴っていたのかも知れないが、隆盛は遼が駄々をこねるを見守っていた。
 背中に深々と槍が突き刺さっているような痛い眼差しで
「母さんはしょうがなかったんだ。……あれが寿命だったんだ」
「ふざけんな。オレ達は神煬なんだろっっ!! どんなに理不尽なことにでも勝って見せるのが神煬じゃないのか。そうだろ、親父っっ!!」
「俺だって許容できるわけないだろ」
 隆盛は鼻で笑い飛ばすと獣のような笑みを浮かべた。
 そこにいるのはいつもの隆盛だった。
「だから、遼には地獄を見てもらう」
「オレが……地獄?」
「真衣が病気になった時に備えて薬を作るんだ」
「それで真衣は生きられる?」
「わからん。だが、あの子は母さんとは同じで、遼には半分だけ母さんと同じ血が流れている。ひょっとしたら助かるかもしれん。確証はできないけどやらなかったら真衣は死ぬだけだ」
「わかった。オレ、がんばるよ」
「言っとくが、薬を作るためには実験が必要だから遼には生贄になってもらわなくてはならない。地獄だぞ。俺の攻撃なんか比でもないぐらいに痛いし苦しいぞ。後悔しても遅いんだからな」
「わかっているよ」
 幼い絶叫が鼓膜に蘇る。
「真衣を護るって決めたんだから、なんだってやってやる」

 真衣のためだったから、地獄にも耐えることができた。
 その果てに遼はいる。

 ふと病室から人が廊下に出てきたので遼は注意を向けた。
 出てきたのは三十代ぐらいの夫婦で、妻が泣き崩れて夫が懸命に慰めるものの、その目には涙が光っていた。
 夫婦に見覚えがあった。
 夫妻の子供は真衣の入院仲間で真衣とは仲がよかった10歳の女の子だった。
 明るくってイタズラ好きで、遼とも仲が良かった。
 むしろ遼とつるんで遊んで、後で婦長の阪倉や真衣に怒られたものだった。
 ……そして、小児ガンだった。

 病院では毎日誰かが死んでいる。
 延々と続くロシアンルーレットのようなものだ。死神のリボルバーが周り、運悪く弾丸が発射されたら死ぬ。
 例外なんてない。
 隆盛は死んだ。孝太郎も遼もいつかは死んでいく。
 真衣も死ぬ。
 結局のところは弾丸が一回目に来るのか、6回目に来るのかその程度の違いでしかない。

 ソニックブームを浴びたように記憶がフラッシュバックしていく。

 そこは病室だった。
 薄暗く、室内の大半を生命維持装置等の機械で埋め尽くされていた。
 その真ん中に真衣が病臥している。
 酸素マスクがつけられた顔に表情はなく、身体に接続されたたくさんのパイプがとても痛々しく、真衣が生きていることを指し示すのは心電計から断続的に鳴るビープ音と、僅かに波打っている波形だけだった。
「まい……」
 妹の名を呼ぶ声にいつもの力はなかった。
「なあ、生きてるんだろ」
 無駄と知りつつもどうしても問わずにいられなかった。
「生きてるんだったら返事しろよっっ 真衣っっ!!」
 無茶だと分かりつつも叫ばずにはいられなかった。

 真衣がいない世界なんて想像もできないのに
 その真衣が遼の手の届かない場所に行こうとしていた。
 
 遼は何もできないまま、ただ見守ることしかできなくて

 
 目頭が焼けた鉄のように熱くなったことに気づいて遼は愕然とする。
 
 真衣がいなくなるということは立っている大地が崩れ去るということ意味していた。
 崩れてしまえば、何処も寄るべきないのだから遼は落ちていくしかない。
 何処までも何処までも、ブラックホールのように底のない世界へ
 あの時は真衣を失うことの恐怖と絶望に切り刻まれた。
 それがもたらす痛みと苦しみに比べれば、隆盛の一撃なんか子供の一撫でしかすぎない。
 ゆったりとしたペースで着実に真衣の命が削り取られていくのと同じように、遼の意思もまた削られ続けていた。

 ……もう、二度と味わいたくない。
 大好きな人がいなくなるこの絶望と苦しみは
 その人間が生き続ける限り、大地が崩れ去って虚無へと飲み込まれる局面に立たされるとわかっていても。

 遼の目の前では夫婦がまだ泣いている。
 それはあのまま薬を投与していなかったら遼の身にも降りかかっていた光景であり、そのことを思うと遼は呆然となる。
 真衣が失うのが怖かった。
 どうすることができなくて、すがれるものがあるのならなんだってすがった。
 
 でも、真衣は生きている。
 危篤の状態から驚異的な回復を見せて、退院でさえも手の届くところまで近づいてきた。

 素直に真衣の元に戻りたくなかったわけが、ようやくわかった。
 嬉しかったからだ。
 真衣が危篤の時に感じた絶望と同量の歓喜が怒涛のように襲い掛かって、遼は崩れそうになった。
 けれど、そのまま飲み込まれるわけにはいかなかった。
 真衣を妹にしてから遼は泣かないと決めた。
 真衣を護る存在としてどんなに痛くても辛くても崩れるわけにはいかなかったからだ。
 崩れてしまった壁は、防壁としての役目を果たせないから真衣の前では決して弱いところなんて見せるわけにはいかなかった。
 弱さを見せる自分が許せなかった。

 しばらくすると目頭の熱も収まってきた。
 これでもう、大丈夫。
 気をなんとか静めて、涙腺が止まったことを確認すると
 遼は口元に肉食獣のような笑みを浮かべて再び歩き出した。

 
 病室に戻ると遼は一瞬、立ちすくんだ。
 真衣がテーブルを展開させてはノートと格闘としていた。
 周りにはノートと教科書がうず高く積み上げられていて、鬼気迫る真衣の様子に遼でさえも圧倒される。
「……必死だ」
 泣きそうな目で睨まれて遼は口ごもる。
 にらみ付けた後、真衣は再びノートと教科書に視線を集中させては勉強に勤しむ。
 表情は真剣そのもの。会話すら交わさないのだがら、どれだけ必死なのかは言うまでもないだろう。
 そんな妹を見て、遼はため息をつくと持ち込んでいた米軍放出のアリスザックを引き寄せるとパナソニックの「TOUGH BOOK」を取り出すとスイッチを入れて、ウィンドウズを起動させた。
 遼だってあまり人のことはいえない。
 タイムラグを置いて、ようやく使えるようになるとマイドキュメントをクリックして、ブラウザを表示するとそこから何枚のテキストファイルを展開させる。
 翔洋学園の通信教育課程ではFAXか電子メールで課題が生徒の元に送信されて、生徒はレポートを仕上げて先生に送信。添削されるというシステムを取っている。学校に通うのは体育の授業を受けると期末試験の時ぐらいなもので真衣の入院中の間は看病しつつ、病室で課題をこなしていた。
 いつもと変らずにこなすだけなのだけど、それでも緊張してしまうのは期末が数日後に迫っているにも関わらず、勉強してなかったという点に尽きた。
 試しにメールソフトを起動させてみると受信トレイにメールが何本か入っている。それらの全てが通信科の先生たちからのもので主に期末に出る範囲を指し示している内容だった。
「期末ぐらい免除してくれたらいいのにさ」
 重病の患者を抱えていたんだから期末ぐらい免除してくれてもバチは当たらないとは思うのだけど、それでも親切がまったくされないよりもマシだということも理解していた。
 一通り、課題が出される範囲を確認すると頭の中で仮想テストを始めて、どれくらいの得点が取れるのか採点してみる。
 英語と社会は高得点。
 国語はまあまあ。安全圏には入れる
 ……数学と理科がかなりやばい。

 遼の場合、得意科目と不得意科目の得点の差が激しくて一番の英語では100点を取れる自信があるのに、数学や理科関係の科目はだめだめで全科目を総合すると平均点になるのが今までの期末の戦績だった。最後となる期末もこの傾向には変わることはない。
 欠点を埋めるか、それも赤点科目は捨てて残り科目だけで規定をクリアするか悩みつつ真衣に話しかけた。
「調子はどうだ?」
「う〜ん。ぜんぜんダメ」
 ようやく言葉を返す余裕ができたものの、それでも真衣の表情は重たかった。
「ラインは超えそうか?」
「死ぬ気でがんばれば超えられると思う……だから、心配しないで」
 ダメだと言えば本気で学校を壊しに行きかねないので真衣は汗をかきながら笑ってみせた。
「そっか」遼はほっとしつつも不穏な言葉を付け加えるのを忘れなかった。
「ダメだと思ったら素直に言えよ。オレがなんとかしてやるから」
「いいよ。おじいちゃんの学校、壊したくないし」
こういうのをありがた迷惑という。
「遼こそ他人の心配なんてしてられるの? やばいんでしょ。理数系が」
「……うぐっ」
 ひょっとしたら殴られたり蹴られたりするよりもひどいかも知れない。
 肉体のダメージはほっとけば消えるが、赤点取った時の影響は後々まで響いてくる。
「なんでこの世に数学とか科学とかってあるんだろうな……数学なんて使わないじゃないかよ。方程式なんて使うか? 計算なんて電卓使えばいいじゃんかよ」
 このあたりは数学が苦手な学生特有のぼやきだった。
 誰もがうなずけるところなのだけれど、真衣は言う。
「医学部志望で理数系がダメって、「おまえはもう死んでいる」じゃないのかな?」
「あうっ」
 医学部志望で理数系がダメというのは行くなと言っているに等しい。
「思い直したほうがいいんじゃない?」
 どちらかといえば得意科目が文科系なのだから文科系目指したほうがいいはずである。
 本人の志望と持っている資質の方向性が異なっている場合、夢は諦めて持っている資質を極めることを目指すのか、それともあくまでも夢に向かって突き進むのかというのは難しい選択の一つだろう。その選択次第で今後の人生が変わってくるのだから。
「夏休みが来る前は大学行って塾講師やって、女の子食いまくりだぜーって言ってたじゃん」
「言ってたか?」
「言ってたよーっ。大学入ったら食って食って食いまくってやるぜーって……いったい、なにを考えているのやら。それ聞いてたら、じっちゃんは泣いていたと思うよ」
「そりゃなあ〜 選り取りみどり食い放題で手を伸ばさなきゃ男がすたるじゃないか」
 ほがらかに笑う遼に真衣はため息をついた。
「あのね。塾講師やったからといってモテモテになるわけじゃないんだからね」
 いったい何処から来たのだろうか?
 塾の講師になれば女の教え子にモテモテになれるという誤解は。
 もっとも、英語については教えられるほどの技量があり容姿も悪くないのだからモテモテになる可能性は高いだろう。問題は……ボロを出さなければなのだが。
「ボクは遼がどんな道を選ぼうとも応援するけど」
「さんきゅ」
「ただ、応援するだけだけどね」
「こら」
 遼は真衣の頭をこづいた。
「でもさ、ボクが声出す以外にできることがあったら、それって悲しくない?」
「どういうこと?」
「中学生に理数系を教えてもらうっていうことは、その中学生以下の能力しかないっていうことじゃん」
 生徒よりも能力が下な先生なんているわけない。
 しかも遼の理数系の能力は真衣と同等レベルだというのが情けなさに輪をかけていた。
「あのさ、真衣。飛び降りてもいい?」
「じっちゃんに迷惑をかけなければ」
 さっきと同じ繰り返しである。
「ええい。真衣、散歩に付き合え」
 どうやら今までのやり取りで完全にぶち切れてしまったらしい。
「おーーーっと、早くも現実逃避だぁっ」
「うるさい」
 まさにその通りなので遼としては言い返すこともできなかった。
「今の状態で内容が頭の中に入るかっつーの。それだったら散歩して気分転換を図ったほうがましだぜコンニャロめっっ」
「開き直ってるねー」
 開き直りであることは確かなのだけれど、頭に詰め込めなければならない情報の多さに脳味噌がウニになっているのも事実だった。ただ、だらだらとやればいいものではない。一心不乱に集中することが大事なのだ。
 もっとも逃げであることも否定はできないのだが
「真衣も逃げるか?」
「うん。そうだね」
 真衣は両腕を伸ばして、硬くなった関節をこきこきと鳴らした。
 勉強も大切であるが、真衣にとっては退院後の生活に備えて身体を動かしておくのはもっともっと大切なことだった。
 真衣も頭がウニになっていて、逃げたかったというのも事実なのだけど。
 なにはともあれ、真衣はベットから飛び降りた。
 着地の際によろめいたが転ばずに済んだ。
「だいじょうぶか?」
 遼が不安そうな表情をするのは滅多にない。
 自分の身よりも真衣を優先するそんな兄に真衣は大丈夫だよと微笑むと遼はそうかとうなずいた。
 真衣の身体が浮き上がる。
「り、遼、ちょっとちょっと恥ずかしいよ」
 遼にお姫様抱っこされて真衣はたちどころに赤面する。
「思ったよりも軽いな。ちゃんと飯は食ってるのか?」
「人の話を聞けーーっ」
 真衣はすっかり赤くなってはいたものの、満更ではなさそうだった。
「さてと、何処に行こうかね」
「行こうかねって、病院の周りぐらいしかいくところないじゃん」
「ちぇっ つまんない奴だなー、おまえ」
 脱走しようという展開にならなくて遼はふくれる。
「他人に迷惑をかけるぐらいだったらつまらない奴でいいもん♪」
 さらりとかわすと念のために釘を刺した。
「いっとくけど、飛び降りるっていうのもナシだからね」
「ちぇっ」
 ……本気で考えていたらしい。この男は。


 空はだいぶ明るくなってはきたものの気温は空の明るさほどには上がらず、冷たい風が吹き抜けていた。
「空が綺麗だね」
 病院の中庭に出て、真衣は空を見上げると喚声を上げた。
 冬の空気は澄み切っているため、いつも以上に空の蒼さが透き通っているように見える。
「空ならいっつも見ているじゃないか」
「見ているだけのと、こうやって感じているのとではぜんぜん違うよ」
 遼が突っ込みを入れると真衣はむくれては両手を広げた。
「ほら。捕まえた」
「何をだ?」
「風をだよっ」
 真衣はしきりに指を開けたり閉めたりしていた。
「それで捕まえているつもりか?」
「ちゃんと捕まえてるよ、ほら」掌を広げてもそこは何もなかったが真衣は言い放つ。
「バカには見えないだけなんだよ」
「なんだと。こらっ!」
 遼は真衣を捕まえようとするが、真衣は妖精のようにするりと遼の腕から逃げた。
「遼なんかにつかまるかよーっ」
 真衣は遼を挑発するとそのまま逃げ出した。
「待ちやがれっ」
「待てといわれて待つやつがいるかよ」
 遼は追いかけ、真衣は逃げていく。
 中庭の中での追いかけっこ。
 真衣は楽しそうに、遼は必死になりながらもそれでも楽しそうに続けられていたが、二人の追走劇はあっさりと終わった。
「……つまんないなあ」
 遼につかまえられて真衣はむくれた。
「なにも本気にならなくてもいいのに」
「冗談で逃げたのか?」
 本気になっている遼に真衣は頭が痛くなった。
 いつ、どんな時でも本気を出すのが遼という人間なのだ。
 それは一面から見ればとっても好ましいのであるが、空気を読むことなんてその発想自体がないから時には場がしらけてしまうことがある。そんな配慮を期待するのは戦う時を除いては間違っていると真衣は今更ながらに思い出した。
「しょうがない……ボクがバカでした」
「何がバカなんだ?」
「ううん。なんでもない、なんでもないよ」
 話題をごまかすにしては作為が見え見えだったけれど、遼はそんなことは気にせずに話題を変えた。
「身体の具合はどうだ?」
「ぜんぜん平気」真衣は腕をぐるぐると回してみせた。「まだまだ余裕っていう感じかな。身体が軽くてまだまだ暴れたりないっていう感じっ」
 真衣は言葉を証明するかのようにくるくると回って見せた。少し遅れて入院中に伸びた黒髪も回っていく。
「そんなに欲求不満ならオレと一緒に暴れてみたいか」
「やだよ」
 躊躇も何もなかった。
「カツ上げするほどボクは欲求不満でもなければ悪者でもない」
「するとは言ってないだろうが……」
「ボクが欲求不満だとすれば、遼なんか臨界すれすれの原子炉っていう感じだもん」
「そう見えるのか?」
「うんっ」
 はっきりと断言されて遼は顔をしかめたが、すぐに苦笑する。
「えいっ」
「な、なにするんだよ〜」
 遼は真衣の頭をかき混ぜた。
「妹のくせに生意気だぞっ」
「……そういう奴に限ってロクでなしだったりするんだよねー」
「このやろこのやろこのやろ」
「もぉーーっ いたいよぉくるしいよぉ〜」
 頭をさんざんなでられて真衣は楽しそうに笑っていた。
 遼も同じように笑っていた。
 真衣は逃げようとして、遼は捕まえては熊のようにじゃれあったりする。
 その逃げようとする動作や表面上は嫌がりながらも実は受けていれている真衣からは元気さと明るさが弾けていて、とてもじゃないが入院患者のようには見えなかった。
「ったく、もう遼ってば……」
 遼がようやく手を止めると真衣は芝生にへたりこんだ。
「だいじょうぶか?」
「……大丈夫。心配しなくていいから」
 ちょっと不安がる兄に向かって真衣は元気なそぶりを見た。
「西川さんや先生が言うにはボクは退院できるかも知れないって言ってたから、そう心配することもないでしょ」
「そうだな」
 言葉よりも、極めて自然で無理している様子がないことに遼は安堵した。
「退院って言ってたけど、明日にも退院ができるそうだ」
「退院?」
 いきなりのことだったので真衣はすぐには把握できなかった。
「先生が言うにはまあ……治ったということだから今すぐにも出ることが可能なそうだ」
「退院かぁ……」
 遼と遊んでいたときのことよりも疲れた表情を見せた。
「うれしいんだけど……複雑だよー」
 退院するということはほんの僅かな時間で期末という名の戦場に突入することを意味していた。
「しょうがないだろ。退院するんだからさ」
 その時の遼の顔はお世辞にも上品だとは言えなかった。
「いだだだだ、じ、持病の癪が……」
「さあ、真衣も一緒に地獄に行こうぜ」
「いやあ……嫌だ嫌だ〜っ!!」
 試験の惨状を想像すると真衣は絶望に心振るわせた。冗談なのかマジで怯えているのかは本人でさえもわかっていないのだろう。
「痛いのも怖いのも最初のうちだぜ」
「……うう〜っ」
 うめいた真衣であったがため息をつくと目前に迫っている現実を受け止めた。
「しょうがない。がんばるか……」
 肩に1トンぐらいのウェイトをかけられたように憂鬱になるが受け入れたのは、これ以上落ち込んでいると遼が本気で学校を破壊しかねないからだ。
 遼は真衣が絡むとその世界から常識の一切が消える。
 冗談や妄想が冗談や妄想だけでは済まなくなるほどの力と行動力を持っているだけに、時として真衣は刃の上を渡っているような緊張感を迫られることがある。
 嫌だというわけできないのだけれど、困ると思うのも事実だった。
「でも、大丈夫じゃないのか?」
 遼は真衣の心境を知ってかしらずか、慰めるように肩を叩いた。
「うちの先公連中だって鬼じゃないんだから、ある程度はサービスしてくれるだろ」
「そっかな」
「そうだって。それよりも退院できることを素直に喜んだらどうだ?」
 疑わしそうな真衣に向かって遼が真面目な顔で言うと真衣は考え込んでからうなずいた。
「……そうだよね。喜ばなくちゃいけないんだよね」
 孝太郎、おばさん、西川、阪倉婦長、御影先生
 たくさんの人たちが真衣が生きることを願い、そのために力を尽くしてきた。
 彼らの必死の尽力も空しく真衣は衰弱し、死の淵から奇跡的に蘇った。
 最後の瞬間まで生きることを願い、戦いながら死んでいった人たちのことを思うと復活することができたことを感謝しなくちゃいけない。
 誰に感謝したらいいのだろうと真衣は考えたが、すぐに愚問であることに気づく。
 感謝するべきは真衣のために力を尽くしてきた人々だ。
 みんなは真衣のために頑張ってきたのだから、今度はその人たちに感謝を返すべきだ。
 ただ、歩けばいい。
 踊ればいい。
「真衣はこんなに元気になりました」と感謝の気持ちで笑えばいい。
 真衣の微笑みは、どんなに硬い人間でも溶かしてしまうほどの威力があるのだから、それだけで報われたような気持ちになれるだろう。

 そして、誰よりも一番真衣の生存を願っていた男たちにも

「そう緊張するなよ。真衣の人生なんだからな、何も考えなくてもいい」

 遼は軽く言うがその肩が僅かに震えているのを見逃さなかった。

 素直じゃないんだから

 派手に喜びたかったに違いない。
 一目をはばからずに泣きたかったに違いない。

 喜ぶことはあっても決して泣くことはできない。
 泣きたい時や辛いこと、逃げ出したいことがあってもそれらの全てをねじ伏せて困難に立ち向かった遼を見つめ続けていただけに遼の心情を思うと泣きそうになった。
 でも、遼が泣かないのだから真衣も泣けなかった。
 泣いてしまったら遼を傷つけてしまうような気がしたから。

 遼は護ってきてくれた。
 小さな背中がとっても大きく見えた。

 自分のために遼が気づくのは悲しい。
 だけど、悲しんでたらいけない。

「これからもよろしくだよ。遼」
「……ああ」
 真衣に微笑まれて、世界最狂最悪の流派の継承者が子供のように頬を赤らめてはそっぽ向いた。
「えいっ」
 真衣は遼の腕に腕を絡めるとそのまま身体を押し付けた。
「……っておい、ちょっと人が見てるだろ?」
「見てないよ」
 個人はおろか軍隊を相手にしたって一歩も引かない力を持っているのに、心拍数を上げて狼狽しているのがとってもおかしかった。
「見てたってボクは気にしないよ。世界中の人達に中津川の兄妹はこんなに仲がいいっていうことを見せ付けてやるんだから」
「世界中って大きく出たな」
「中津川って誰にも負けない最強無敵な拳なんでしょ。だったら」
「そうだな」
 遼は天下の半ばを制したような覇王のような笑みを浮かべると真衣の頭をかき混ぜた。
 真衣はそれを嬉しそうに受け入れた。

 幸せだった。
 これからも先も生きることができて、遼と一緒でとっても嬉しかった。

 なのに胸が激しく痛んだ。

「真衣。どうした?」
 真衣の異変に気づいたのか遼の顔色が変わる。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだから心配しないで……」
 真衣の異変に気づいて不安がる遼に真衣は微笑みかけるが、その笑みは力を欠いていた。
「具合、悪いのか?」
「ううん。そうじゃない、そんなんじゃないから」
 具合が悪くないで片付けるにはあまりにも痛かったけれど、幸いにして痛みはすぐに収まった。
「だいじょうぶだから。ほんとにだいじょうぶだから」
 生き返った代償とでも言うのだろうか、真衣の胸にときどき鋭い痛みが走っていた。
 痛いのはほんの短い時間だけれど、原因の分からなさなに真衣は戸惑っていた。

 こんなにも幸せなのに、嬉しいのに
 何故、胸が痛むのか分からない。

 でも、真衣は微笑み続ける。
「だいじょうぶだよ。遼」
 この兄を心配させたくなかったから
 信じていいのか悪いのか迷って、歯切れの悪い表情を見せていた遼だったが状況を一変させたのは聴覚がキャッチしたか細い声だった。
「そういえば先輩、お姫様がとうとう退院するそうですね」
 耳たぶをくすぐる若い男の声。
 それは聞き取れるか聞き取れないぐらいかの小さな声だったが、真衣は嫌な予感がした。
 遼も同じ感想を抱いたらしい。
「遼、帰ろう」
 真衣が袖を引っ張ったがその身体は微動だにしなかった。
「ちょっくらいってくる」
 遼が声が聞こえた方向に歩き出したのを見て、真衣は慌てて後をついていた。
 その横顔は険しく、眼光は日本刀の切っ先のように鋭く、戦闘モードとはいかないまでも警戒モードには入っていたからだ。

 二人は物陰に隠れると一点を凝視した。
 芝生の上に二人の医師が座っては雑談している。
 片方は30代半ばぐらいの医者で、もう一人は医者というには若い男だった。恐らくは入ったばかりの新人で先輩後輩という間柄なのだろう。
「そうだな。いよいよ退院するな」
 姫というのは真衣の事である。たびたび病院に通院や入院をしていることや理事長の孫という立場から姫と呼ばれている。ただし、そう呼称されるのは概ね陰口を叩かれる時なのであまり気分がいいとは言えない。
「どうして、引き止めないんですか?」
「そりゃ元気になったからだろう」
 不思議がっている後輩に先輩は呆れたように教え諭すが、後輩の疑念は晴れないままだ。
「……何を考えているんだ?」
 後輩が何かを考えていることに気づいて、先輩は怪訝な表情を浮かべる。
「姫はなんで元気になったんでしょうかね?」
 先輩は答えられなかった。
 遼と真衣の表情が一応に硬くなる。
 真衣が危篤の状態から回復できたのは常識では説明できないからだ。
「何が言いたい?」
 先輩は神罰があたることを恐れているようであったが、後輩はそんなことには頓着せずに続けた。
「姫っていったい何者なんですか?」
「それ以上はよせ」
「だって、血液型やHLAの型が人間の形とは随分かけはなれているじゃないですか。治療薬飲んでも禿げることもないですし、いったい何を飲ませたら姫はあそこまで回復したんですか? どう考えてもあれは人間じゃ……」
「それ以上は言うな」
 先輩は後輩を止めようとしたけれど、その言葉の意味は真衣にしっかりと伝わっていた。

 真衣は人間ではない。

 他人からそういわれることは真衣にとってショックだった。
 人間とは違うことは他人に言われるまでもなく思い知らされていたから
 普段は思わないように生きていたのだから、他人から事実を突きつけられると寄るべき大地が崩れ落ちて、底知れぬ闇へと落ちていく。
 しかし、真衣にはショックに浸る余韻を与えられなかった。
 すぐそばで熱気が立ち上っていた。
 遼が先輩と後輩のやり取りを見つめている。その眼差しは瞳からレーザー光線が発射されるんじゃないかというぐらいに鋭く、発散される熱気は及ぶ範囲こそ極小規模に収まっているもののその熱は地獄の業火のように熱かった。
 表情こそは落ち着いているものの早くも戦闘モードに入っている。
 真衣の悪口を言われた時、真衣以上に遼が過剰に反応するのが常だった。その過剰さには鉄拳などの実力行使が含まれるだけに真衣としては最悪の事態を避けるよう必死にならざる終えなかった。

「何故、言ってはいけないんですか」
 後輩のほうは納得していないようだった。
 地雷を踏んでいることに気づかずにまくしたてる。
「患者さんをまるで実験動物のように言うな」
「でも、人間じゃないのは確かじゃないすか。血液型やらHLAまで何もかも人とは違う。薬の効果が違う。止めに人にはとても使えない劇物で治ってしまう。僕は彼女の身体がどういう構造になっているかどうか興味があります。彼女を研究することによってたくさんの人が治る可能性があるならそれでいいじゃないですか」
 ただでさえ熱くなっていた空気が一二度上がった。
 遼の顔が閻魔羅刹であっても泣いて許しを請うほどの恐ろしい形相に変容していた。
 真衣が人間扱いされなかった時、真衣以上に遼が激怒していた。
 いや、これでも怒りを抑えているほうだ。
 遼が世にも恐ろしい形相しているのは実は怒気の放出を抑えるためで、おならを我慢するとおなかが苦しくなると同じように行き場を失った怒気が暴れているから怖い顔になっているのだ。それは何も考えずに放出したら大学病院全体に影響を及ぼして体の弱っている患者を恐怖で死に追いやりかねない自覚があるからであり、肉食獣のように出るタイミングを伺える余裕があることを意味していた。
 こうなってしまえば遼は止められない。
 爆発するタイミングを狙っている原子炉のような兄の傍にいる真衣の苦労を知ってか知らずか、先輩と後輩の会話は続いた。
「……まあ、気持ちは分からなくもないが。おまえ、死ぬつもりか?」
「どうしてですか?」
「姫君の兄の恐ろしさというのを知らないだろう」
「確かに患者の兄のことは知りませんがたかだか個人じゃないですか。どんな力があるっていうんです。たった一人じゃ何もできないじゃないですか」
 先輩は深いため息をつく。それは愚か者に捧げる哀れみのため息だった。
「もし、聞いていたらどうするんだ?」
「聞いているわけないじゃないですか」
 先輩の苦悩をよそにあっけらかんと決め付けた。
「この病院は広いんですよ。聞いているわけないじゃないですか。聞いてたとしたらあまりにも都合がよすぎるじゃないですか」
「そうだな。とっても都合がよすぎるな」
 限界まで引き絞られた弓がようやく枷から解放されて発射される。
 笑っていた後輩の顔が、遼の怒気をまともに受けてそのまま硬直した。
「だから、どういう話をしていたのか聞かせてほしいんだけど」
 ……答えられるはずがない。
 彼は真衣のことを人間ではないと言っていたが、そこにいる遼は地獄が罪人を狩りに現れた鬼そのものだった。
 笑ってはいるものの、目は怒りの炎に染まっていてストレートに怒りの形相をされるよりも恐ろしく、遼の全身から立ち上る炎のような怒気の前にさっきまでの威勢は粉々に打ち砕かれ、喉元を締め上げられていた。
「聞かせてほしいんだけどな。どういう話をしていたのか」
 意識の全てが恐怖に染め上げられている。
 大声で助けを呼びたいのに、声を出すことはおろか脊髄を首から折られたように全身に力が入らず、意識がゆっくりと恐怖に押しつぶされていくのを待つことしかできなかった。おかげで股間から液体が迸ってじんわりと温くなったことにも気づけなかった。
「教えてほしいんだよな……オレの妹について何を話してたっていうことをさ」
 知っていることを白状しているようなものだったが、もはや彼には反応する余裕はない。
「いいか孺子。良く聞け」
 遼の方が年下なのであるが、年上の相手を小僧扱いできる迫力が備わっていた。
「オレはある誓いを立てている。それは真衣を愚弄する奴らは一……あぐっっ」
 背後からの真衣の回し蹴りが遼の側頭に炸裂して、遼の首が不気味にネジ曲がった。
「なにしやがるっっ!! 真衣っっ!!」
「もう充分でしょ遼っっ!!」
 蹴った真衣を怒鳴りつける遼であったが、真衣も負けじと応戦する。
「遼の気持ちね分かるけれど、それ以上はやりすぎだよ。この人たちだって反省しているんだから」
 実験とかモルモットとかそういう話が持ち上がってしまっているのだからヤキを入れる必要性はなくもないが物事には限度というものがある。
 遼は怒気を緩めると先輩と後輩を見た。
 「……ちっ、しゃあねえなあ」
 二人とも呆然した表情で滂沱の涙を流しているのを見ると矛を収めた。許せたというわけではないが本気でこの世に生まれたことを後悔させようという気はなく、脅しの効果はあったのだからこれ以上はやりすぎになる。
 愚弄されたのは遼ではなく、当人が許しているのだから遼が怒ることはない。
 遼は無言で歩き出し、その後を真衣がついていく。

 二人が消え去るまで、消え去った後も先輩と後輩は二人して固まっていた。
 かなりの時間が立ってから先輩は呟いた。
「……モルモットにしようとしていた人間から助けられた気分はどうなんだ?」
 後輩は答えない。
 答えられない。
 遼が立ち去った後も後輩は魂が抜かれたように呆けており、彼岸の彼方に行ったまま二度と現実の世界には帰ってこないように見えたが先輩は続けた。
「おまえも分かっただろう。世の中には絶対に歯向かってはいけない存在というのがあるんだ。確かにあの二人は特別扱いされているが訳がなく特別扱いされているわけではないんだぞ」
 羆に襲われたら逃げるか立ち向かうしかないのは羆に説得なんて効かないからだ。
 暴力と直で向き合わされた時、法律なんていうものは何の意味ももたない。何故なら法律というのは権力といった力に裏づけされてからこそ効力を発揮するわけで、力がなかったらただの寝言でしかない。暴力と向き合わされた時、自分もそれに耐え揺る力がなかったらただ食い物として蹂躙される。
 しかも、遼の力というのは裏路地で数人で囲んで金品を脅し取るチンビラの比ではない。押しつぶしていく怒気に悲鳴を上げることさえもできなかった。
 恐怖というのは楽しむものではない。
 心が折れていく時にその意味を知ることになる。
「なあ、後で奢れ」
 一番の被害者はこの先輩だっただろう。
 後輩の意見に同調していたわけではない。
 むしろ、後輩を止めようとしていたにも関わらず、遼の怒気は正邪を判断することなく土石流のように先輩の意識を押しつぶした。
 そしてため息混じりに呟いた。
「……漏れちまったじゃないかよ」

 中庭から病室へと戻るまでの間、遼と真衣は口を聞かなかった。
 さっきの会話のことが重く圧し掛かっている。
 遼の頭を締めていたには自分たちが置かれている立場についてのことだった。
 今だったら御影医師のあの発言が親切から出たものだということがわかる。
 孝太郎は遼にとっては身内であり、その孝太郎が経営しているこの大学病院は自分の庭のようなものであり、安心して真衣を診せられる場所でもあった。
 もちろん、大学を卒業したばかりの若手が世間知らずにもリヴァイアサンを前にして暴言を吐いたとはいえ、そういう暴言を吐かれたこと事態がショックだった。
 以前ならそういうことはなかった。
 それは真衣にとってこの世界がいっそう住みにくい世界になったことを示していた。
 この世界は人とは違う存在が生息することを許さない。
 今までは遼や隆盛の力によってなんとか生きていられたのだけれど、その範囲が狭まられていくのを象徴するような事件だった。そのような主張しているのが彼だけではないからだ。たくさんの人達が色々な表現で真衣に疑念を抱いていると思うと遼としても頭が痛かった。
 いくら遼といえど噂している人間全てを殺せるわけがない。
 いや、必要があればやるのだけれど病院関係者全員を皆殺しにするのが流石にめんどくさい。
 しかし、そう思ったら楽になれた。
 立場については遼の力が及ぼせるからだった。真衣の存在を否定する奴らは許さないというのがポリシーであり、真衣を生き延びさせるためだったらこの世にいる全ての人間を殲滅する覚悟が遼にはあった。
 その気があればなんだってできる。
 問題なのはやる気があっても解決できないことだった。、

 人とは違う点がいくらかあるのは知っていて、自ら気づくことには慣れていたけれど人から指摘されて、なおかつ人間扱いされないと思うと真衣はショックだった。
 どうしたらいいのか迷って、けど生まれつきの問題なのだからどうすることもできなくて、ひたすらに落ち込んだ。
 そんな真衣を救ってくれたのはやっぱり遼だった。
「あいつらの言うことなんて気にするな」
 肩に置かれた手が大きくてとっても暖かかかった。
「あいつらがどう言おうがオレにとっては真衣は人間だ。それでも不足だったら真衣を異常だという奴らは誰であろうとぶっ殺す。世界中にある辞書という辞書を書き換えてみせる。真衣が変じゃない、周りの奴らが変なんだ」
「ちっとも不足じゃないからいいよ」
 冗談ではなく必要とあらば本気でやろうとしているだけに冷や汗が止まらないのだけど、真衣の悲しみを止めようとしてくれる遼の心遣いが真衣には涙が出てくるぐらいに嬉しかった。
 だけど、考え込まずには入られなかったのはあの後輩の言葉にも理がないわけではなかったからだ。
 
 医者ならばたくさんの人を救いたいと思うのは当然だろう。
 心臓移植によって助かる人間がいる一方で、勝手に死亡判定を下されて殺されていく人間もいるように人を治すということはキレイごとではなく、そのためだったら魂を悪魔に売ってもいいという医者がいても矛盾はしない。
 そのほうがいいのだろうか?
 こんな自分に何か役に立てることがあるというのであれば、それでいいのだろうか?
 研究されることによってたくさんの人が救われるのなら、そうするべきなのだろうか?

「真衣はどうしたいんだ?」
 遼の手が頭に載せられて、真衣はドキっとした。
「どうしたいって?」
「真衣は本気で生贄になりたいのか?」
 真衣が反射的にぶるぶると首を横に振ると、遼は一瞬だけホッとしたようなそぶりを見せてから激しく頭を撫でた。
「それでいいんだよ。それで」
「それでいい?」
「他人なんてしったことじゃねえ。一番大切なのは自分自身だ。違うか?」
 自分勝手に生きるのも、他人のために身を捧げるのは結局は自分の判断なのである。
 自分がそれで満足すればそれを選び、嫌だったら嫌、それだけのことである。
 泣くのも笑うのも他人ではなく自分だからだ。
 遼みたいに他人のことは知ったことじゃないと開き直るには後ろめたいものはあるけれど、このままでもいいと肯定されたことは真衣にとっては福音だった。
「遼、ありがと」
「感謝するぐらいだったら卑下するな。真衣は好きなように生きていていいんだからな」
 真衣に感謝されると遼は照れくさそうにそっぽを向いては憎まれ口を叩く。
 
 それでも暖かかったけれど

■■■■■■

 

 気温は相変わらず水の中にいるように冷たいけれど、空は晴れていて、冬の青空が広がっていた。
 透き通るような蒼さの中で真衣はその日が訪れた。

「おめでとう。真衣ちゃん」
 厳しい婦長で知られていた阪倉が今日に限っては目に涙を浮かべていた。
「こちらこそありがとうございました」
 真衣も礼を言うが釣られて泣きそうになっていた。
「こらこら泣くんじゃないの」
 そんな二人を見て西川は呆れるが目元は暖かかだった。
「死ぬっていうわけじゃないんだからさ」
「でも、やっぱり寂しいよぉ〜あわわわ、はにふるんでふか〜」
言ってる傍から両方のほっぺたを西川に捕まれてはふにふにされる。
「あたしなんかせいせいしているんだからね。毎日毎日あんたの顔を見続けなくてもいいとおもうと清々するっ」
「ひょ、ひょんなぁ〜」
「そういっている割には目から大量の汗を流してるじゃないか」
「ちがーうっっっ!!」
 珍しいことに遼が突っ込みを入れると西川は吼えた。
「ていうか人様の妹で遊ぶなよ」
 しかも、花束を抱いているのにである。
「……もう、痛いよ。西川さんってば」
 よっぽど強い力で引っ張ったのか、漫画のキャラのように真っ赤になった頬をさすりながら真衣は文句を言った。
「この痛さはあたしの恨みの深さだと思いなさい」
「ボク、恨まれるようなことしたかな?」
「真衣は鈍感なんだから」
「ご、ごめんなさい……」
「いいかげんうちの妹をいたぶって遊ぶのはやめろよ」
 遼がこのように呆れるのも珍しいことだっただろう。
 これが照れ隠しでなくて本気であったとしたら遼の鉄拳は飛んでいただろうから
「寂しいのがバレバレなんだから、恥ずかしいって」
「うるさーいっっ」

 今日は真衣の退院の日。
 真衣がこれほどまでに愛されていたことを示すかのように、病院の玄関前にはたくさんの看護婦や医者たちが真衣の見送りに来ていた。
「御影先生、今までどうもありがうございました」
「真衣ちゃんも元気でね」
「阪倉さん。身体に気をつけて頑張ってくださいね」
「真衣ちゃんも身体に気をつけるのよ」
「青筋のたてすぎで溢血でくたばるんじゃねえぞ。ババァ」
 遼が憎まれ口を叩くと、阪倉もすぐさま応戦する。
「あんたがこないから、青筋立てる必要なんてありません」
「ちゃんと更正したんだから二度と戻ってくるんじゃねえぞ」
「西川さん。ここは刑務所じゃないんだから」
 乱暴な口を聞くものの寂しそうにする西川を慰める真衣といったように明るくて微笑ましい光景が展開されていた。
 でも、終わりがくる。
 タクシーが車寄せにやってきてドアが開かれると真衣が乗り込み、その後に遼が続くとタクシーは走り出した。
 見送りの歓声と共にタクシーは病院から出る。

「やっぱり娑婆の空気はいいねぇ〜」
 病院から出てしばらくすると真衣はトイレから出た後のようにすっきりとした表情で呟いた。
「娑婆って、ここは車の中だぞ」
「わかってないなあ、遼くんは」
 最初は別れを惜しむ看護婦さんに釣られて涙を浮かべていた真衣であったが、今ではすっかり明るくなっていた。
「病院じゃないっていうのが重要なのだよ」
「そんなもんかねえ」
「遼は入院なんて経験したことがないから分からないんだよ」
 現金といえば現金なのだろうけど、籠から解き離れた喜びが上回っているのだろう。
 隣で、ちびっ子みたいに目を輝かせながら外を見つめている真衣を見ていると遼にも感慨が訪れていた。

 あの時は元気で外に出られる日が来るなんて思ってもみなかった。
 外に出たいと願いながらも衰弱する真衣を目の当たりにして、どうすることもできず
 退院を告げられた後もこのような時間が送れるなんて想像もできなかったし、座席の隣に真衣が座っていていることにもリアリティを感じることができなかった。
 でも、頬を引っ張ってみると痛い。
「……けど、あさってから憂鬱だろうな」
「娑婆に出られるだけマシだと思いな」
 テストのことを思って表情を暗くする真衣に、遼はせせら笑う。
「世の中、何事もプラスだけっていうのはないんだ」
「そりゃわかっているよ……」
「テストよりも先のことを夢みたらどうなんだ? オレみたいに生死に直結するわけじゃないんだから」
「それもそっか」
「冬休み入ったら何やりたい?」
「んと……そうだね」真衣は考え込みながらつらつらと考えを言ったみた。「やっぱり雪見たいよね。雪合戦したり、雪見ながら温泉入ったり、あと札幌雪祭りにも出てみたいよね」
「何を作るんだ?」
「……ネタがないなあ。遼は?」
「あるわけないだろう」
「そういうもんだよね〜 やっぱし」肩をすくめたあと、真衣は懐かしそうに呟いた。
「おとうさんだった何作るかな?」
 すると遼は一瞬、空白を置いてすらげんなりとした表情を浮かべた。
「親父ならタチが悪いぞ?」
「どーして?」
「あいつなら幼女の雪像をつくりかねん。しかも18禁指定の」
 真衣の中にイメージが浮かぶと真衣は苦笑を浮かべた。
「そうだね。おとうさん、あの歳でコミケにいってたもんね」
「じじいがコミケに行くのが悪いとは言わないけれど、買ってくるもの全てが幼女ものというのはすっげえ問題だよな」
 札幌雪祭りの会場に、かぼちゃパンツを穿いただけの幼女の巨像が建っているのを想像すると遼は失笑の発作に襲われた。
 同じようなことを思っているのだけど、真衣も失笑をこらえている。
「遼は大丈夫なの?」
「何が?」
「受験だよ。受験」
「……だいじょうぶ。お前の感じている感情は一種の錯覚だ。オレに任せろ」
 セリフと表情が物の見事に食い違っていたけれど、真衣は武士の情けとばかりに気にしないことに決めた。

 タクシーは住宅街を抜けて、真野川流域の田園地帯に入って遼の家の前で止まった。
「なんで入らないんだ?」
 タクシーの運転手に料金を払って、真衣の荷物を持ちながら遼が出ると先に出たはずの真衣が、まだ玄関前に突っ立っていた。家の鍵は車内で渡している。
「遼が先に入って」
「??」
「いいから先に入る」
 脈絡もなく必死になっている真衣に最初は戸惑っていた遼であったが、その理由にきづくと遼はにやりと笑った。
「真衣もお子様だなー」
「遼ほどお子様じゃない」
 両手を振り上げながら反論するあたりお子様であることを示しているようなものであったが、遼は真衣から鍵を再び受け取ると裏側に位置している玄関のドアを開けた。
 玄関の中に入るとドアを閉めてから、框に上がりこんで居間に入った。
 遼の姿が玄関から見渡せる位置から消えるやいなや、真衣の声が響き渡った。
「ただいまーーーっっ!!……って、あかなーーーーいいっっ!!」
 てっきり鍵を解放したままだと思いきや、鍵が閉められていて外であたふたしているのだろう。その光景を想像して遼はほくそえんだ。
「どちらさまですか? セールスだったらステップオーバー・トーホールド・ウィズ・フェイスロックをかけるよ。宗教の勧誘やリフォームだったらぶち殺すぜ。撲殺か斬殺かどっちが好きな死に方を選びなー」
 そういいながら、遼は鍵を解いてドアを開けた。
「……ひどいよぉ〜 遼」
 ドアを開けると遼がふくれっ面で待っていた。
「甘いな、真衣。この程度の展開を予測できないとは」
「うるさないなあ。可愛い妹が帰ってきてやったんぞ」
 文句は言うけれど、顔を赤くしながら遼に撫でられているのを許容しているのだから世話がないというのはこのことだろう。
「なにはともあれ、おかえり」
 遼が挨拶をするとニパッと笑顔を浮かべた。
「ただいまっ♪」


「やーっと帰ってきたという気がするよ〜」
 久しぶりに入ってきた居間はひんやりとした空気が流れていた。
 しなびた畳、まだ真新しいチャプ台、つぎはぎの当たった座布団。破れて大穴が開いている襖。
 多少の温度の差はあるけれど、真衣が入院する前と変わっておらず、その空気に包まれると真衣は日向ぼっこする猫のように丸まった。
「遼のことだからどういうことになっているか心配だったんだけど……意外」
「帰ってくるなり、そう抜かすか」
 遼は笑いながら真衣の頭をぽかりと叩いた。
「でも、遼のことだから慌てて掃除したとボクは踏むんだけど」
 真衣の瞳が遼を射る。
「……はっはっはっ。毎日キレイにしてたに決まってるじゃないか」
 それは大嘘であることを意味していた。
 顔を背けて真衣はため息をつく。
「ちゃんと御飯は食べてた?」
「もちろん」
「MREだけしか食べてないということはないよね。あれは栄養バランスが悪いんだから」
 あくまでも軍用糧食なのだから常食することを想定して作られてはいない。けれど、中津川の家の者はでたらめな身体構成をしているのだから、摂取するエネルギー分が偏った場合に身体にどのような変化が訪れるのかは常人とは同じではない。
「そんなには喰ってない。毎日食うにはコストが高すぎるから」
 MREはサープラスショップで800円ぐらいで売られている。吉野屋の豚丼の並が280円だということを考えれば常食にするにはコストがかかりすぎる。
「そっか」
 それでも遼のことだから、どんなものを食べていたのかと思うと不安にはなるのだけど、その時に真衣はある物を見た。

 真衣が入院する以前の姿のままで、唯一変わっているもの。
 昔は何も置かれていなかったスペースにそれは置かれていた。
 白布に包まれた木箱のようなもの。

 その箱を見ると浮ついた気分や懐かしい気分、安らかな気分など何もかもぶっ飛び、真衣はその箱に釘付けにされる。
 わなわなと身体が震えていた。
 
 その箱には荼毘にふされた隆盛の骨が収められていた。
 真衣の脳裏に隆盛がいたときの記憶が蘇っていく。

 欠点は……欠点だらけだった。
 よいところなんてあまりなくて隆盛は親としては失格の部類に入るのかも知れないのだけど、真衣にとっては良き父親だった。
 遼と共にそのがっしりとした身体で真衣のことを護り、可愛がってくれた人だった。
 差し伸べられた、撫でられたその手を暖かさを忘れたことはない。
 けれど、その人はもう……いない

 がっくりと肩を落とす真衣に遼は手を差し伸べる。
「遼?……」
 けれど、いつもの優しさはなくて巌のような厳しさに満ちていた。
 怒っているのとは違うのだけれど、近づきにくい。
 身体が実際の体型よりも大きく感じるのだけれど、触れるだけで切断されそうな鋭さはない。
 初めて見る顔、けれど、既視感がある顔に真衣は戸惑う。
「帰ったきたばかりで悪いがこれより隆盛の葬儀を執り行う」
 その時、真衣は遼の顔がどんな顔なのか気づいた。
「人として色々と欠点があったけれど神煬流宗家だった漢だ。最大の礼で送り出す」
 それは中津川遼という個人ではなく、春秋戦国の頃から続いている武術、神煬流宗家継承者としての顔だった。

 真野川の河原には冷たい風が吹いていたのだけれど、寒さに耐えられるのではなければそう悪くはない冬の一日だった。
 風にあおられて河原一面に生えるすすきがなびき、広い水面には小さい漣が立っていた。
 やや青さの薄れた空とうろこ雲
 太陽の光が夏とはうってかわって優しく地上と二人を照らしている。。
 遠くにある真野川の鉄橋では車がひっきりなしに行きかっているが、真衣と遼の視界の範囲に人はいない。
 そのほうが二人にとってよかった。
「ボクを待っていてくれたんだ」
 真衣としては既に隆盛の葬式は上げたものだと思っていた。
「当然だろ。真衣は家族なんだから」
 家庭の儀式にのけ者にされる家族なんていない。たとえそれが葬式であったとしても
「ボクも死んでたら遼はどうしての?」
「当然、二人分の葬式を上げてただろうな」
 たった一人で家族二人を弔わなければならないのは辛い。
 予想されたというよりも約束されていたはずの未来であり、もしその未来を迎えていたのなら遼は平静ではいられなかったのだろうけど遼はそっけなく肩をすくめただけでその内心は読めなかった。
「それよりとっとと始めるぞ。葬式なんて長々と続けるもんじゃないからな」
「そうだね」
「今日はおばさんとおじさんが快気祝いだっていうことでパーティやろうということになってるんだ」
「パーティ? いいねいいね♪」
 病院の薄い味付けには飽き飽きしていて、トンカツとかステーキとか刺身とか寿司とか、そういった美食に憧れていただけに前園夫妻の誘いは願ったり叶ったりだった。
「和食? 洋食? 中華? それともインド」
「MRE」
 途端に気持ちが一気にしぼんだ。
「……それ、ジャンルじゃない」
 あくまでも戦闘糧食なのだから洋食、中華、菜食、果ては和食とバリエーションは揃っている。
 問題なのは斜め上に認識してしまっているということなのだが。
「遼を誘うなんて間違っているような気がする」
「なんだと」
「遼って味音痴なんだもん。冷凍食品といっしょくたにする舌に三ツ星シェフはもったいないって」
「……てめぇ、MREをバカにするな」
「はいはい。さっさと片付けちゃお」
 あっさりとかわされて、遼は納得いってないようなそぶりを見せていたが納得すると遺骨の入った箱と一緒に持参していた詩集を取り出した。
「真衣。離騒の朗読よろしく」

 中津川家は屈原の後裔である。
 むろん実際に屈原の血を受け継いでいるのか確かめる術はないのだけれど、肯定できる根拠もない代わりに否定できる根拠もないわけで、劉備が漢王室の出であることや、諸葛八卦村に住む人々が実際に諸葛孔明の血を受け継いでいるのかどうかと同じようにこうなってくると「何があったのか」を確かめるものではなく、それが起きたということを「信じる」ことが重要になってくるし自称しているだけだったら問題はない。あくまでも自称しているだけで他者にその「事実」があったことを強要しない限りは。。
 ただし、数百数千ある武術の流派、特に空手や剣術、クンフーなどの東アジア系諸派において、その流派にはあって神煬流にはないという動作はなく、逆に神煬流の要素が見受けられない流派は存在しないのは極めて重要だろう。
 そのため中津川の者は死すとも、かつて屈原が泪羅に身を投げたようにその骨粉を川に撒く、あるいは空に撒くのがしきたりになっていて、その際にお経や祈りの言葉の代わりに舞を捧げ、「離騒」の詞を朗読するのが神煬流の祭祀だった。

 この場合の舞というのは套路のことである。
 神煬流は元々は神に捧げる舞という説があり、それを裏付けるように実戦バリバリな流派な割には華麗な演舞が多いのであるが難易度の高さも天下一品であり、よほどの熟達者でないかぎり最後まで套路をやりきることもおぼつかない。
 おそらく完全に舞い切れるのは遼だけだろう。
 それに真衣は病み上がりだから、最後まで舞い切れるかどうか怪しい。
 なのに真衣は首を横に振った。
「ボクが舞いたい」
「真衣が!?」
 真衣は二人の修練を見ていただけだ。真衣にこなせるはずがない。
 遼の表情が険しくなるが真衣は引き下がらなかった。
「舞いたいんだ」
「こなせるのか?」
「おとうさんだったらボクが舞ったほうが喜ぶと思う」
 確かに隆盛だったらたとえ下手で無様に転んだとしても真衣が踊ったほうが喜んだであろう。
 いや、むしろ失敗したほうが萌えたかも知れない。
「でも、これは遊びなんかじゃない」
「ボクだってわかってるよ」
「これは祭祀なんだ。失敗は許されない」
 遼が初めて見せる宗家としての厳しさに真衣は声を失った。
 大多数の中で暮らしているマイノリティにとって、祭祀というのは大変重要な儀式である。
 祭祀というのは民族のアイデンティティの発露であり、アイデンティティを失った一族は大多数に淘汰されて歴史の闇へと消え去るしかない。
 それだけに祭祀は厳粛に行われるものであり、粗相があってはならないのだ。
「……わかったよ」
 ましてや、遼が宗家として行う初めての儀式である。なので真衣はしぶしぶ折れるしかなかった。
「悪いな」
 ただ、すぐに宗家ではなく兄としての顔に戻っていたが。
「いいよ。だって、おとうさんの葬式なんだもん。失敗なんてできないよね」

 遼は真野川を背にして立つと、両足をしっかりと踏みしめた。
 神煬流に構えというのはない。ただ、足の位置が重要になるだけである。
「準備はいい?」
「了解」
 遼が笑って親指を突き立てると真衣は詩集を開いて離騒の朗読を始めた。
「帝高陽の苗裔にして、ボクの亡き父は伯庸という」
 たくさんある漢詩の中でも名作で名高い離騒は屈原の家系と父親の紹介から始まり、遼の爪先が草の上を滑らかに滑って祭祀が始まった。

 腕を、手を虚空に向かって伸ばし、勇壮にステップを刻みながら演武する遼を見て、朗読をしながら真衣は隆盛のことを思い出していた。

 それは遼が隆盛と決闘する前日から当日になろうとしている夜のことだった。
 消灯時間が過ぎ、看護婦の巡視を逃れての夜更かしも限界に達して真衣は寝ようとした。
 その時だった。
 窓をノックされたのは
 当然のことながら最初は空耳かと思った。
 けど、二度三度ノックされると空耳で逃げるわけにはいかなくて、しかも真衣には心当たりがあったので窓を開けた。
「うるさいぞ、こらー」
 すると返事があった。
「Hey、そこのお嬢さん。オレと茶、しばけへん?」
 真夜中ということもあって、姿を確認することは難しかったもののその声は紛れもなく隆盛だった。
 あまりの非常識ぶりに真衣は点目になる。
 そして、窓を閉めた。
「せっかく愛しのお父様が会いにきたというのに連れないわー」
「だったら面会時間の間にくればいいでしょうが」
 何も裁判所から接近禁止の判決が下っているわけでもない。
 あまりの突拍子もなさすぎる出来事に真衣は呆れつつも開けざるおえなかった。真夜中というのに欲しいものを買ってくれなかったガキのように暴れられると迷惑だからである。
 窓を開けると冷たい夜風と一緒に、隆盛が気楽さに窓から上がりこむ。あまりにも自然すぎて真衣は自分の家の玄関先にいるのかと勘違いしたのだけど、ここはあくまでも病室であり上がりこんだ場所も普通の人間でなら上がりこめるような場所でない。
「で、これから何処にお茶しにいくの? この時間ならマクドもスタバも終わってるけれど」
 隆盛は父親であり、常識外な行動には慣れっこになっていたのではあるけれどこれまでも病院に迷惑をかけているだけに自然と冷たい態度を取らざるおえない。
「脱獄、やってみるか? おもしろいぞ」
「……ボクを悪の道に引き釣りこまないように」
 隆盛はここでお茶にするつもりにらしく、背中に背負っていたリュックから水筒を取り出すとコップに湯気の立つ液体を注ぎ込んだ。香りからするとコーヒーらしい。
「飲むか?」
「ごめん……ちょっと胃の調子が悪い」
「そっか」
 隆盛は一人でコーヒーに口をつける。
 その肩が小さく見えたのが真衣にはとっても気になった。
 隆盛の身体はもっと大きくて筋肉が隆々としていたはずなのに、それが目の錯覚なのかそれともやせてしまっているのか真衣には分からなかった。
「実はな、真衣と二人だけの話をしたかったんだ」
「おとうさんのことだから単なる気まぐれだと思ってたよ」
 セリフほど真衣は冷たくもない。
 最初はあまりの突拍子のなさに驚いていたけれど、すぐに懐かしさと親しみが上回っていた。
 遼は毎日毎日看病しに来てくれてはいるけど、隆盛はたまにしかこなかった。
 色々と忙しいらしいということだったのだけど、寂しさよりも不安の方が強かった。
 会うたび会うたび、隆盛の身体が小さく痩せ細っていくような気がしたからだ。
 そのことを遼に聞くと「気のせい」だとか、「いつもと変わらない」とか笑い飛ばすのだけれど嘘ついているのが見え見えでかといって指摘すると遼が傷つくだろうと思うと何もいえなくて却って不安がますばかりだった。
「その様子だと遼は本当のことを言ってないだろ」
「……うん」
 消極的に認めると隆盛は「しょうがない」と苦笑いを浮かべた。
「遼はいつまでたっても甘ちゃんだな」
「そこが遼のいいところなんだよ」
 真衣は思わず弁護してしまう。
 なにせ神煬流という暗殺拳のカテゴリーにすら外れるモノの継承者なのだからある程度の甘さは必要だ。でなかったら人間か戦闘マシーンかあるいは野獣の区別がつかなくなってしまう。
 にも関わらず隆盛の渋さは変わらなかった。
「あいつの甘さは婦人の仁だからな。俺の跡目を継ぐのにあの体たらくでは困る」
 隆盛の言葉は今の世の中では男女同権団体から苦情くるかも知れないものだったが、それよりも真衣は「跡目を継ぐ」という言葉に真衣は不安になった。
 首を振って真衣は心を落ち着かせる。
 遼が跡を継ぐのは当たり前以前の話であって、跡目を継ぐのが10年後なのかも知れないからだ。
「あいつだったら、俺が末期ガンにかかって余命僅かなんて言えないだろうからな」
 今までの軽い会話の流れの中に混ぜられただけに、真衣は流しそうになってそのまま絶句する。
「末期ガン!?」
「しっ。声が大きいぞ」
 おまえが言うな。
「末期ガンって、末期ガンって……」
「気がついたら肝臓やられてて全身に回っていた。どうあがいても助からないそうだ」
 にも関わらず隆盛は笑っていた。
 絞首台への階段を登っているのに怯えてなんていなかった。
「落ち着けって、人間いつかは死ぬんだから」
「だって……」
 ちっとも慰めにもなっておらず、その患者が言うセリフでもない。
 隆盛は自分が近いうちに死ぬことにも怯えておらず、むしろ死神の来訪を楽しんでいた。
 不安が現実のものとなって蒼白になっている真衣とは対照的で、傍から見れば立場が逆転しているようにしか見えなかった。(とはいうものの真衣も入院患者なのだが)
「ったく、真衣も甘ちゃんかよ」
「父親を心配するのが甘ちゃんだっていうならボクは甘ちゃんでいい」
 一生懸命心配しているのにそんなことを言われたら誰だって腹を立てるに決まっている。
 しかし、隆盛には隆盛なりの考えがあるようで困ったなという顔をすると、武術の宗家ではなく一人の父親として教え諭した。
「真衣の反応が当然だとはわかってるんだが、これはまだ話のツマにしか過ぎないんだ。この程度でオタついていたら肝心の本題を話すことができないではないか」
 真衣は答えない。
「無論、このまま話さないで去ってもいい。俺も本当はそのほうが楽だ。でも、真衣と話せるのは今だけで、もしも話さなかったら真衣は後悔すると思う」
「そこまでの話、なの?」
「ああ」
 表情は優しかったけれど、人の見ていないところで犯した罪を告白するような律義者のように隆盛が話すことに躊躇いを見せるなんて思いもよらなかった。
 隆盛にとってもは真衣にとっても辛いことなのだろう。
 隆盛が悩みながらもここに来たのだからどんなに痛くても子としてはそれに答えなくてはいけなかった。真衣だけではなく隆盛にも拭いさることのできない悔いを残すことになるのだから。
 真衣は身を硬くして、真剣な眼差しでこれから襲い掛かるであろう衝撃に備える。
 ひたすらに緊張する娘を見て、隆盛は苦笑を浮かべると非常にリラックスした態度で口を開いた。

「オレはこれから遼と仕合をする」

「何を言っているのっっ!!」
 隆盛がどんなことを言っても耐えようと思っていた。
「遼と戦うって本気で言ってるのっっ!!」
 でも、駄目だった。
 好々爺の穏やかな表情で言われたその一言は核爆発以上の衝撃になって真衣をこなごなに打ち砕いた。
「そんなの絶対にダメだよ。ダメったらだ……げほっけぼっ」
 衝撃のあまりに叫んでいる途中で真衣は呼吸困難を起こして激しくむせる。それを目の当たりにした隆盛は落ち着いた態度で寄り添うとナースコールの代わりに薄い胸板にある経穴を集中的に突いてはそっと抱き寄せた。
 たったそれだけのことではあったが激しいせきはゆっくりと静まり、やがて真衣の呼吸は落ち着いた。
「わりぃなあ。真衣」
「……だったら遼と仕合しないで」
 それこそ隆盛の苦悩がむき出しにされていたが真衣は隆盛の胸を押し出した。それは触ったという程度であったが隆盛は娘の感情を理解して真衣から離れる。
 真衣はベッドに横たわると布団を頭から被った。
「……おとうさんのバカ」
 わざわざ真夜中の病室に窓から入り込むという酔狂な手段をとってまで二人きりになったのだから「しあいする」というのが遼と、子を子とは思わず、父を父だとは思いもしない本気の殺し合いになることは目に見えていた。
「おとうさんは自分の身体がどういう状態なのかわかっているの?」
「肝臓ガンの末期だろ」
 真衣の苦しみや想いなんて知らないように隆盛は言い放つ。
「そんなことより、まるでオレの敗北が確定したような言い草じゃないか。戦いなんてやってみなければ分からないのに」
 隆盛だって痩せても枯れても神煬流の宗家なのだ。この状態で羆なんて歯牙にもかけない戦闘力を保持している。
 その言葉に真衣は赤面して、笑い声が響く。
 が、隆盛は笑うのをやめるとしんみりと言った。
「……実際のところ、俺は遼には勝てないだろうな」
 それは自分の年と衰えというものを自覚した男の声だった。
「あいつは強い。俺なんざおよびもつかないぐらいに強くなった」
 そこまで強くなった息子を賛美する気持ちが、息子に追い抜かれたという自嘲が複雑に交じり合っていた。
「それなのになんで戦うの?」
 真衣は隆盛に生きていてほしかった。
 鬼とかロリコンとか欠点だらけの男ではあったけれど、それでも真衣にとっては父親であり、こんな男のことが真衣は大好きだった。遼と同じように意識のある部分を占める非常に大きな存在だった。
 巨星が消えようとしていること思うと泪が滲んだ。
 太陽を喪失して人間の生活なんてありえない。
 そんな未知の恐怖と悲しみがじわりしわりと真衣の心を浸していく。
「強くなったから戦うんだよ」そういった後で隆盛は重荷を下ろしたように肩の力を抜いた。「この期に及んで遼が俺よりも弱かったと思ったらどうしようかと思ったんだが、杞憂に終わってよかった」
 笑えないし答えられない。
「真衣が何を言いたいのかわかっている。遼の甘さは俺に似たのかもな」
 どうして隆盛は最後まで生きようとしないのだろう。
「俺が戦う理由は色々ある。まず一つはやりのこしたことがほとんどなくなったということだ」
「やりのこしたこと?」
「懸案だった真衣の薬も完成した。効力についてはなんともいえないけど使用するタイミングは遼に任せる。それでいいだろ?」
 真衣のために作った薬。
 それは完成させるために遼が命をかけて頑張った薬であった。
 その時の遼の苦しみようを覚えているだけに真衣としても複雑なのだけど、その苦労が報われたのだから喜ぶべきことなのだろう。
「まだやっていないのは遼と戦うことだ」
「遼と戦う? 毎日やってたのに!?」
 毎朝の修練は基礎運動の後に二人がどつき合う激しいものであったが隆盛は首を横に振る。
「戦う? あんなのは戦ううちにはいりはせん。真衣だって分かっているだろ? 神煬の業を骨の髄までしみこませるために俺が誘導していたのが」
「どうしてボクが分かるっていえるの?」
「いつぞや真衣の大雅、とっても見事だったぞ」
「見てたの!?」
 二人に見られないように套路を演じていたはずなのに、隆盛には見られていたことに真衣は赤面した。
「はっはっはっ 俺にわからぬことなどない」
 このあたりはいつもの隆盛らしかったのだが、すぐにぼやきに変わる。
「しかし、いつのまに神煬流の業を身に着けたんだ?」
 神煬流の技法はそう簡単に覚えられるものではない。隆盛だって遼と同じように地獄を間近に見ながら受け継いだのである。
「…………」
 二人の修練を見て自然に覚えたなんていえなかった。
「まあ、いい」
 そのことには深く追求せず、隆盛は本題に戻した。
「遼は強くなった。が、遼には教えてないことがたくさんある。神煬流の全てを後代に伝えるのが宗家の使命だろ?」
 隆盛の言うとおりだった。
 ……伝承する方法が殺し合いでなければ受け入れることができたのかも知れないのに
「ずっと昔から遼と戦ってみたかったんだ」
 少年のような熱のこもった声に真衣は思わず起き上がる。
「遼がが生まれたとき直感したよ。こいつは俺よりも、いや始祖でさえも強くなるんだろうって。その日から遼と戦うことを夢見ていたんだ。すっごくわくわくするじゃないか」
「そういうものなの?」
「そういうものなんだ。……俺とやって戦えるのは大嶽ぐらい。奴もどこほっつき歩いているかわかったもんじゃないし、米国でさえもオレに喧嘩を売ってくるようなことはしない。退屈だったんだ。対等に喧嘩できる相手がいないっていうのが」
「遼しかいないの……」
「ああ、いないな」
 言えなかった。
 末期ガンにかかっている年寄りなはずなのに、少年のように目をキラキラさせている隆盛に向かって何も言えなかった。
 真衣は悟ってしまった。
 自分の力では止められないということを
 時が立てば立つほど隆盛は衰え、力を失っていき戦うことすらできなくなる。
 余力を残している今が最大にして唯一のチャンスであり、遼と戦うなというのは隆盛の生涯に持ち続けた夢を奪うということに等しかった。
 その機会を取り上げることなんできない。
 隆盛の夢を踏みにじることなんてできない。
 それがどんなにいけないことあったとしても、どのような結果になったとしても、大好きだからこそ隆盛の想いをぶっ壊すことができなかった。
「今のはオフレコな。あいつはすぐに付け上がるから」
「……そんなのわかってるよ」
「そして、最後は……まあどうせ末期なんだから、いい加減に母さんに出会いたいなあと思って」
 冗談めかして言ったけれど照れが入っていた。
「おとうさん……おとうさん……おとうさん……」
 泪がポタポタと布団の上に落ちる。
「こらこら。そんなに泣くでない」
「そんな……無茶いわないでよ」
 真衣の言う通りだった。
 大好きな人がこれから死出の旅に向かおうとしているのに止めることができない。
「泣かせているのはおとうさんが悪いんだからね」
「しょうがないなあ……真衣は泣き虫なんだから」
「ボク、泣き虫でいいんだから……」
 もはや感情が高ぶりすぎて何も言えなくなっていた。
 隆盛は父親らしく暖かい微笑みを浮かべると真衣の身体をそっと抱き寄せた。
 今度は真衣も素直に受け入れる。
 さっきは余裕がなかったのだけれど、こうやって抱いていてもらっていると骨が浮き出ている感触などの見た目ではわからなかった衰えぶりが実感できていっそう悲しみにくれる。けれど、それ以上に隆盛の身体が温かくてとっても気持ちよかった。
「俺は幸せ者だ」
 隆盛はぽつりと呟いた。
「この生涯、色々なことがあったけれど可愛い女の子を嫁さんに迎えることができて、最強の継承者を息子として持てて、更にはこんなに可愛くていい子が俺の娘になってくれた。これで不幸なんていったらバチがあたるな」
 「色々」というのに悲しいことや苦しいことも含まれているのだけれど、それでも生涯の最後にこんな述懐ができるのだから隆盛の人生はいいものだったのだろう。
「ボクはこんな父親を持って最低だと思ったよ」
 真衣は言った。
「遼のことをいぢめるし、行儀は悪いし、部屋は散らかしぱなしだし、アキバのことを取り扱った番組でおとうさんがエッチなゲームを振りかざしてピースなんてやってた時には、なんでこんな人が父親なんだろうって激しく後悔したんだけど……こんなバカで最低な父親であったとしてもボクはおとうさんのことが大好きだよ。ずっと大好きだよっ」
 まるで縫いぐるみと勘違いしているように真衣は抱きしめる。
 隆盛はそんな娘の頭を優しく撫で、真衣はちっちゃい頃に戻ったように無邪気に笑う。

 真衣が隆盛の娘になってから何千何万と繰り返されたやりとり
 それは極ありふれたやりとりであったが今が最後だった。

 やがて、隆盛は真衣から離れた。
「……いっちゃうの?」
 最初の時は冷たかったのに今となっては名残惜しい。
「まあ、俺にも色々と考えることがあるからな」
「そっ……か」
 寂しいけれど隆盛を束縛することなんてできない。
「じゃあな♪」
 友達のように軽く別れの挨拶をいって去りかけた隆盛だったが、何かを思い出したように立ち止まった。
「そういえば真衣にプレゼントを用意していたのを忘れてた」
「プレゼント?」
 隆盛は背中のリュックを開けるとその中に手を突っ込んだ。
 出てきたのは花束だった。
「これがプレゼント?」
「宝石とかブランド物のバックとか、天野鈴女さんとこの同人誌のほうがよかったか?」
「ううん」真衣はその花束を生まれたての赤ん坊のように抱きしめた。「今のおとうさんだったら、便所の影で咲いている雑草でも嬉しいよ」
「そうだろうと思って、わさわざから便所の影で咲いているところから引っこ抜いてきたんだ」
「おとうさん!!」
 隆盛の冗談に真衣は拳でぶつ真似をする。
 いつも、こうだった。
「それじゃな、真衣」
「またね、おとうさん」
 隆盛は真衣から離れ、窓を開け放つと窓枠に足をかける。
 最後に
「遼とは仲良くやるんだぞ」
 と言い残して隆盛の姿は夜の闇の中へと消えた。

 
 それが真衣の記憶。
 絶対に忘れることのない記憶。

 故国を憂いる詩人は、迫り来る敵国と同盟とする君主に向かってひたすらに反意を唱えるが、その純粋さ故に周りからの反感を買って故国から追放されてしまう。
 追放された詩人は狂人のように世界を彷徨い、その魂は天上の楽園へと飛翔する。
 離騒の朗読も中盤から後半へと差し掛かり、遼の舞踊も頂点目指して加速していく。

 すごいよ……遼。
 真衣は遼の演武に目を見開きっぱなしだった。
 ゆったりとした動きは巨山が迫ってくるようであり静から動へと前触れもなく加速する様は紫電のような速さと巨山が一気に崩れ落ちてくるような迫力が伴っていた。
 空へと伸びゆく手は虎のようであり、上段回し蹴りは戦車でさえも一発で吹き飛ばすような力感に溢れている。
 迅速且つ豪壮。
 遼の演武はその個性を出した激しいものであり、その挙動一つ一つに見とれていた。

 その眼差しは槍のように鋭い。

 そこにいるのは真衣に優しく接してくれる遼ではなく、世界最古の流派の宗家である遼だった。

 "おとうさん……"

 いつもは漫才で相方が突っ込み入れるように冗談交じりで遼と戦闘していたり、年甲斐もなくエロゲーにハァハァいわせているどうしようもないところを露呈していたが、祭祀の時には神煬流の宗家として威風堂々たる姿を見せていた。
 間違いなく遼はその威風を受け継いでいる。
 泰山のように落ち着き払って揺らぐことのない遼に、隆盛の姿が被って涙ぐみそうになりながらも真衣は朗読を続けた。
 詩は詩人の絶望へと入ろうとしていた。



「最後に
 もうダメだ。
 この国には人はなく、ボクを知るものはもう、いない。
 故郷を想うこともないだろう。
 いい政治なんて行えないから
 彭咸さんのところにいくね」

 自分の考えが受け入れられず、愛する祖国が野蛮な敵国に蹂躙されていく様を指くわえて見ることしかできなかった詩人は妄想の世界に逃避しようとするものの、その魂は地上から飛び立つことはできず結局は川に身を投げてしまう。それが離騒という詩のストーリーだった。
 詩の解釈権は朗読者にあるのだから自然とこういう訳になる。

「お見事。凄かったよっ」
 最後に見栄をきって演武を終了させると真衣は拍手した。
「まあな」
 遼は会心の笑みを浮かべると親指を上げた。
「真衣の朗読もよかったぜ♪」
「聞いてたの?」
 あまりにも真剣で聞いている余地がないのかと思っていた。
「戦っている時に比べればぜんぜん余裕がある」
 ある意味では当たり前すぎる言葉に真衣は苦笑してしまう。
「真衣のほうこそ大丈夫かよ」
「ボクはぜんぜん平気。朗読してただけだもん」
 離騒は漢詩では長い部類の入るので朗読疲れが起きなくもないけれど、演武することに比べてはどうということはない。
 その遼は汗を流してはいるけれど、ぜんぜん余裕である。
「それじゃ、とっとと片付けるぞ」
「うっす」
 遼はそのまま骨壷の方へと歩いていき、その後を真衣が続いていった。
 昔のように。

 日もだいぶ西側に傾き、真野川の川面は金色に染まっていた。
 水の流れによって反射した日の光がプリズムのように不規則に輝く。
「おやじぃぃっ!!」
 遼は川に一番近い位置、背中から一押しすれば川に落とせそうぐらいの距離にまで接近する、骨壷に手を突っ込んではかつては隆盛だった白い灰を大量に救い上げた。
「これからオレは真衣とらぶらぶするから、歯を食いしばりながら成仏しやがれっっっ!!」
 まるで円盤投げをするかのように、灰を掴んだ手を後ろに回すと川面ではなく空めがけてぶちまけた。
 水戸泉や高見盛も真っ青な勢いで空にぶちまけられた骨灰はあっという間に見えなくなった。重力がある以上、揚力がつきればどんな物体でも落ちるのだけれど、そうとう遠くまでぶちまけられたので落ちていく様を肉眼で見るのは難しい。それはぶちまけたというよりもマシンガンで弾幕を張ったようなものだった。
「……真野川にはまかないの?」
 こちらは細々と川に骨灰を蒔きながら真衣が尋ねた。
「あの親父がこんなに狭くてチンケな場所で我慢できると思ってるのか?」
 考えてみればその通りだった。
 川にばらまかれた骨灰は底に沈殿するか、あるいは川流に流れていく。いずれにせよ地上の地上に縛られたままだ。それに加えて空に蒔かれた骨灰は地面に落ちるか、あるいは風に乗って世界を流れていく。つまりは永遠の自由を得られるということだ。
 屈原は清水の下に理想の世界があると信じて投身したが、時代時代によって価値観が異なり、それに合わせて変化させていくのは当然のことだ。
「遼は、おとうさんは何処に行ったと思う?」
「親父なら今頃、天国にいって母さんとうはうはらぶらぶめくるめく18禁萌え萌えな生活を送っているんだろうな」
 意外な答えだった。
「意外っていう顔をしてるな」
「いや、遼なら「地獄に落ちてるんじゃないか」と言うんじゃないかと思ったんだけど……」
 普通の日本人なら善人なら天国に行って、悪人なら地獄に落ちると言い聞かされている。真衣の目から見ても隆盛が善人には見えなかった。
「普通だったら地獄に落ちてるだろうな。万単位で大量殺戮している人間が天国にいけるはずがない」
「万単位……」
 遼がそう言い切っているのだから、それほどの人々をあの世に送っていたのだろう。たった一人で。
 あまりの量の多さに真衣が呆然としていると遼は続けた。
「でも、あの親父が素直に地獄に落ちるほどの殊勝な人間だと思うのか?」
「あっ!!」
 そのような人間であるはずない。
 相手が皇帝だろうが、米国大統領だろうが、イエス・キリストであろうが、地獄の閻魔であろうが強制には従うことなく、刀折れ矢が尽きても最後まで歯向かうのが中津川隆盛であり、代々の神煬流の宗家たちだった。神煬流の歴史は権力者の暴力をたった一人で粉砕するために強くあろうとした歴史であり、目的をかなえるため、自由を得るためにはどんなことをやった。強制するのがその種族全体だったら、その民族を痕跡も止めずに皆殺しにした。神煬流がジェノサイド・スキル、殲滅術と言われてアメリカ政府でさえも恐れているのもそのためである。
 隆盛が地獄の閻魔からどんな判決を下されようとしても受け入れるはずがない。
「……やってるね。絶対」
 隆盛が閻魔大王の頭を片手で握りつぶして、牛頭馬頭たちをあの凶暴な笑顔で殲滅している光景を想像してみると頭が痛くなってきた。無数対一人と喧嘩にならないはずなのに、どうしても隆盛がフクロにされるという光景を思い浮かべることができない。
 あれから3ヶ月が立っているのだから閻魔大王以下地獄の管理に携わっている鬼たちが皆殺しにされるには充分だろう。あるいはベトナム戦争の時の米兵に下されたような裁判でもって天国に行っているのどちらかだろう。閻魔の判決というのは厳正なようでいて、実はいいかげんだから。
「ほんと、おとうさんって凄い人なんだね」
「……ああ、凄かったよ。無茶苦茶強かった……オレも死ぬかと思った」
 遼の顔から笑顔が消えて、恐怖の色が薄く混ざっていた。
 隆盛と戦ったときのことを思い出しているのだろう。過去のことなのに、思い出すたびに怯えているといったほうがよく隆盛がそれだけ強かったということに他ならなかった。
 真衣はそっと遼の手を握ると潮が引くように震えが収まっていく。

 遼がどのようにして隆盛と戦い、勝利したのかはわからない。
 けど、これまでの遼の言動と本葬をここまで伸ばしたという事実で遼の隆盛に対する想いが伝わったので、それ以上聞く必要はなかった。
 
 真衣は再び思い出す。

「この花束はどうしたの? 真衣ちゃん」
 翌朝、検温に来たのはよりにもよって婦長の阪倉だった。
「ええ、その、まぁ……」
 西川だったら気心が知れているのだけど、厳しい阪倉によって花束を発見されてしまったので真衣は曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。
「ちゃんと生けてあげたほうがいいわよ」
「はぁい」
 幸いなことに阪倉は細かいことは突っ込まなかった。
 最後の検診の前にはなかった花束があるのだから、何かが起こったことに気づくのだけれど阪倉は事情察しているらしい。
「そういえば、この花ってなんですか?」
「カモミールよ」
「カモミール? これが?」
 カモミールといったらお茶の材料になる植物で、蘭のように花瓶に生けることは考えていない。見舞いに持っていくのは不釣合いな感じがあり、流石に便所の裏から引っこ抜いてきたというのは冗談だろうけど、隆盛のことだから適当に見繕ってきたような感じがしないでもなかった。
 けれど、
「真衣ちゃんにはぴったりな花かもね」
「どうしてですか?」
すると阪倉は自分の孫に接するような暖かい微笑を浮かべて言った。
「カモミールの花言葉は「逆境にも負けない力」というのよ」

 検温が終わって阪倉が去り、一人ぼっちになった瞬間
 真衣は泣いた。

 真衣が生きている中であの時ほど悲しいことはなかった。
 病魔に冒されながら生きるよりも残された生命力をかき集めて一気に燃やし尽くす死に方は何者にも卑下されるものではないのであるが、自分はさっさと逝くくせに真衣に最後まで生きろといってほしくなかった。他人にそういうぐらいなら遼に自殺同然の特攻をするのではなく、ちゃんと病魔と向き合って神煬流の宗家らしく勝ってほしかった。後で遼に聞いた話では「助かる確率が何%ではなく、何日まで生きられるか」というレベルだとしても、真衣にだって奇跡が訪れたのだから隆盛も頑張ってほしかった。
 でも、隆盛の花言葉に託したメッセージは今も心の中に生きている。
 あのメッセージがあったからこそ真衣はここまで頑張ってこれた。
 そして、病も治って無事に退院することができた。

 真衣は背中の半ばまで伸びた黒髪を右手で肩の辺りで束ねた。
 束ねた真上のところに手刀を当てると気を込めた。
「おいっ」
 遼がとっさに反応するが遅かった。
 真衣が左手を一閃すると束ねた髪をさっくりと切断した。
 一瞬で真衣は背中までのロングヘアの少女から、肩までのボブヘアな少女と変貌を遂げる。
 切り離した髪をいとおしげに撫でると、その髪を川面に向かって放り投げた。
 宙を飛んでいる間に、20cm以上はあった髪が光の粒子となり空間に溶けていった。
「…………」
 あまりの唐突な行動に遼は呆然としていた。
「おとうさん。貴方はボクにたくさんのものをくれました。ボクにはこれしか贈れるものがありませんけど、どうか受け取ってください」
 だから真衣は髪を切った。
「……真衣の髪だったら百億の価値はある」
 ショックを受けていても即座にフォローを入れられるのは凄いのかも知れない。
「でも、なんで切っちまうのかな……」
「遼は長い髪のボクが好きだった?」
「いや、長くても短くても禿げてても真衣は真衣だから大好きだけどさ」
 それは本心なのかも知れないけれど落胆している表情が裏切っている。
「ごめんね、遼」真衣は謝ったけれど、その後にこう続けた。「でも、ボクは髪を切ってたと思う」
「何故?」
「今度からは遼への気持ちを込めて伸ばしたいからっ♪」
 レモンシャーベットのような明るい笑みで言われたその一言は遼の心臓を的確に打ち貫いた。
「な、なんだよ。それ、今まではこもってなかったとでも」
「うん。ただ伸びていただけだから」
 真衣はそっと腕を絡めた。
 全世界をも震撼させる男を倒した鬼なのに、おもいっきり動揺しているのがとってもおかしくて微笑ましかった。
「でも、これからは髪が伸びるまで、髪が伸びてもずっと一緒にいられるよね」
 真衣は薬のおかげで無事に退院した。
 隆盛とは違って、遼にも真衣にも無限に近い時間が待っている。
 真衣が痩せ衰えていくのを待っていたことを思うと、髪が伸びるぐらいの時間を待つのはどうっていうことない。
「実はオレ、スキンヘッドの女が好きなんだ」
「だったら剃るよ」
 こともなげに真衣は答えた。
「そしたら、スキンヘッドのボクと一緒にデートしてくれるよね。腕くんだりして恋人らしくいちゃいちゃしてさ」
「……おう、してやるぞ」
 完全に無理してる。
「遼がスキンヘッド萌えでよかったよ。だって、スキンヘッドな女の子っていないじゃない」
「誰が真衣を離すかよ」
「……なーんてね♪」
「はっ?」
 完全にあっけに取られた遼を見て、真衣はクスクスと笑った。
「遼の心のうちなんてとっくの昔にお見通しなんだから、無理しなくたっていいよ」






「…………」
 腹が立つといえば腹が立つことなんだけれど、そもそもの発端は遼なのだから文句なんていえるばずがない。
「それじゃ伸ばすんだぞ」
「うん。わかったよ」
「想いこめるっていったんだから、ラプンツェルぐらいまで伸ばさないとゆるさねえぞ」
「ボクのことをずっと捕まえていてね」
 一瞬だけ真顔で見つめられて、遼ははっきりとうなずいた。
「後悔したって遅いからな」
真衣はうなずくと手を離しては立ち上がった。
「さっさと送っちゃお♪」
「……だな」

 長い時を経て、真衣は帰ってきた。
 今までと同じというわけではないけれど、二つに分かれていた輪が一つになった。
 これからもずっと一緒に暮らしていけると二人はそう信じていた。


.........to be continue 

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