2nd TRACK


 空が白み始め、やがて日は昇る。
 それを拓海は寝ぼけた眼差しで見つめていた。
 今日も1日が始まる。
 いや、
 拓海にとってはそうじゃない。
 睡魔に抗いながらも夜空の移り変わりをうつろな眼差しで見つめていた。
 半分、溶けた意識の中で
 だから、また再び朝になるだけのこと。
 世界は退屈に回りつづけていた。
 拓海は立ち上がり、近くの水道で顔を洗うと公園を出ていった。
 その途中で拓海は気がつく。
 一昨日までの生活とは違うこと。
 そぱに誰かがいるということ。
 めんどくさいな。
 今までは自分のことだけ考えればよかったのに、昨日からそうじゃなくなった。
 他人がいることも考えて行動しなくてはならなくなった。
 
 拓海は鍵を開けて、うづきの家に入ると、まっすぐうづきの部屋へと向かった。
 うづきの部屋は予想通りというのだから、薄いピンク色の外壁にぬいぐるみが溢れかえっている部屋だった。
 ただ、机とその周辺は外見よりも使いやすさを重点に置いた感じで、黒いボックスやペン立てに入っている製図道具が武骨な印象を与える。
 で、とうの本人はいうと、でっかいぬいぐるみを抱えてぐっすりと眠っている。
 「おい、起きろよ」
 普通の人間なら、その可愛さに見惚れてしまうところであるが、拓海は問答無用で頭を蹴っ飛ばした。うづきの頭は揺れ、それからゆっくりと目を覚ます。
 「・・・・もうっ、いったいなぁ、拓海くんはぁ」
 蹴っ飛ばされたことによって、うづきは不満だった。
 蹴飛ばされて怒らない人間のほうがおかしい。
 「悪かったな」
 「ああ、もう、悪いなら最初からしないでよー」
 その通りだ。
 「いや、そうでもしないとうづきが起きないと思って」
 「あはははは」
 笑うことほどでもないのに、うづきは笑った。
 けれど、思い出したようにすねる。
 「拓海くんってばひどいよー。昨日、うづきと一緒に寝てくれるといったのにぃ」
 「一緒に寝たぞ」
 拓海は嘘をついた。
 「嘘つかないで」
 「ほんとだって。うづきが眠っている間に俺もここに来て眠ったんだって」
 「ほんと?・・・じゃあ、なんて拓海くんはうづきを起こしているの」
 「速く起きたからだろ」
 うづきは考え込んだ。
 「ほんとにほんと?」
 「ほんとにほんと」
 「ほんとにほんとにほんと?」
 「それ以上はしつこい」
 拓海がそういうとうづきは微笑んだ。
 「よかったぁ、拓海くんが一緒に寝てくれて」
 ・・・・あっさりだまされるな。
 「じゃあ、オレは着替えるから、うづきもさっさとしろよ」
 「うん」
 拓海の嘘をあっさりと信じてしかも微笑むうづきに対し、拓海は別にどうとも思わなかった。罪悪感を抱くような感性はとうの昔に無くしている。そのまま拓海は立ち去ろうとした。
 「待って」
 その矢先にうづきが呼びとめた。
 「なんだよ」
 「怒ったようにいわなくてもいいじゃない」
 そういったあとで、こう続けた。
 「おはよー、拓海くん♪」
 それを耳にした途端、拓海は硬直した。
 何故なのか拓海には分からなかった。
 笑顔で言われたそれは胸に心地よく響いた。
 「拓海くんも、朝はおはよー、だよっ」
 「・・・ああ、おはよう」
 「それでよしっ!!」
 何がなんだかわからなかった。
 
 うづきの部屋から出ると、拓海は昨日買ってもらったばかりのこよみ学園の制服に袖を通した。
 制服は薄い緑色のブレザー。
 Yシャツにスボンを着ると、キッチンに立った。
 炊飯器に電源は入っていない。
 冷蔵庫を覗くとため息が出た。
 中にあるのでめぼしいものといえば卵とジュース、カロリメートに、後は一口ゼリーとかのデザートしかなかった。おかずや材料よりもチープなデザートがいっぱいで、空腹を癒すことはできるが、栄養はつかない。
 後はインスタントコーヒーぐらい。
 ため息はついたものの、キッチンの棚からフライパンを取り出すとコンロに掛け、油を敷くと火をかけた。ほどよくあったまったところで、卵を割って中身をフライパンに落とす。透明だった白身がたちどころに濁ったような白い膜を張る。ついでに、一口ゼリーをいくつかあけると、それも落として後は蓋をした。
 「あさごはんを作ってるんだー」
 その時になって、ようやくうづきがやってくる。まだ、寝ボケているようだ。
 「うづきに任せるとロクな朝ご飯を作らないから」
 「なによ、それ」うづきはふくれたが、「言い返せないのが悔しい・・・」
 「それよりさっさと支度しろよ」
 「はあい」
 どっちが年上なのか分からない。
 うづきが隣の洗面所に消えたのを見計らって、フライパンにかけていた蓋を開けた。じゅわっと湯気が立ち登り、いい具合に目玉焼きは見えているが、それに埋まっているぷにぷにとした緑や赤の塊がとっても怪しかった。
 それを二つの皿にとりわけ、薬缶にお湯を入れて沸かすと、目玉焼きをテーブルにもっていく。
 パンもなさそうだったので、主食はカロリーメイト、ついでに醤油とソースも持っていく。
 その頃になると、うづきも身支度を整えて、居間に現れる。
 「ふっふっーん、拓海くんの朝ご飯朝ご飯♪」
 うづきはとっても嬉しそうだった。
 「うづき、この格好は?」
 拓海は呆れていた。
 「えへへへ、でじこだにょ」
 「にょ?」
 拓海はデ・ジ・キャラットのことを知らなかった。・・・・・知らなくてもいい知識ではあるし、知りたくもなかった。
 うづきはミニスカートタイプのワンピースに白いエプロンをつけ、猫の頭を模したような帽子を被っている。その耳には鈴がつけられており、頭が揺れるたびにちりーんと音色が鳴る。
 「まさか、その格好で行くつもりか?」
 「そうだにょ」
 「で、その格好で授業するのか?」
 「そうなにょ」
 拓海は頭が痛くなった。
 しかし、「歳だろ」とは言わなかった。言っても無駄だから。
 「さーてと、ご飯だにょ、ご飯♪って、これはなんだにょ?」
 席についていざ目玉焼きを食べようとしたうづきであったが、目玉焼きに埋まっている塊を見つけて、不思議そうに聞いた。
 「それ? 冷蔵の中にあった一口ゼリーだけど」
 「えーっ!!」
 それを聞くとうづきは大声を上げた。
 「しわすゼリーを使っちゃったのーっ!!」
 「たくさんあったからいいだろ」
 「そういう問題じゃないよー」
 うづきは泣きそうになっていた。
 「そういう台詞はちゃんとご飯を炊いてからいえ」
 「・・・ぶう。今度からちゃんと炊くもん。拓海くんってばいぢわるだにょー」
 悲しいそうに文句をいううづきは見ていて面白いのだが、付き合っていると時間が足りないのでゼリー入り目玉焼きに醤油をかけて食べ始めた。
 味はそれほどまずくはない。
 目玉焼きのどろりとした感触とゼリーのぷにぷにとした触感にチープな甘さ、それに醤油が絶妙のハーモニーをかもし出している。主食がご飯やパンではなく、カロリーメイトなだけに却ってぴったりとはまっていた。
 「うう、変な味だよー」
 ご飯を食べ始めたうづきが速くも泣き出した。でも、
 「拓海くんが作ってくれたから美味しいにょ」
 うづきは微笑んでくれたが、拓海はバカにしたようにため息をついた。
 「まずいなら、まずいっていえばいいのに」
 「そんなことないよ!! 拓海くんが作ってくれたものだから、美味しいよ」
 うづきが力説すると、拓海はため息をもう一つついた。
 「・・・おこさまな舌で楽だね」
 「拓海くんだって、お子様じゃないのー」
 「あのなあ」
 拓海だって子供だし童顔ではあるが、どう見ても拓海のほうがうづきよりも年上のようだった。
 うづきにだけは言われたくない。
 「まあ、人糞とか犬糞よりかはマシだな」
 「食べたことがあるの?」
 その問いに拓海ははっきりとうなずいた。
 「あのメスブタ、オレにあんまり飯をやらないで、どうしてもっていう時に無理矢理、自分のクソをオレに食わせたんだよ。「中国のブタは人のくそを食って成長するんだから、おまえだって成長するだろうよ」とかいって。おもいっきり苦くて臭くて・・・・それがとってもたまらなかった。でも、食うしかなかった。おなかがすいてたから。今思うと、オレのクソを食わせてからぶち殺せばよかった・・・って」
 箸が止まり、呆然としたうづきを見て、拓海は苦笑する。
 想像してしまったようだ。
 「食事中にする話じゃなかったね」
 「だったらしないでよー!!」
 その通りだ。

 「あのね、拓海くん」
 食事が終わり、身支度を整えるとスポーツバックを持って玄関に向かおうとすると、うづきが呼びとめた。
 「ネクタイちゃんと締まってないよ」
 拓海はブレザーの上着は羽織っているものの、ネクタイはゆるゆるに締めていた。みっともないほどである。
 「うづきが直してあげるね」
 うづきは首元に向かって手を伸ばしたが、その小さい手を拓海が掴んだ。
 「やめろよ」
 「・・・どうして? そのほうが可愛いのに」
 荒荒しく拒否する理由がわからずに、うづきは童女のように澄んだ瞳で見つめていた。
 「いい」
 そんなうづきにどうしていいのか分からずに、拓海は顔を背けると、そのまま小走りに玄関から外へ出て行った。
 「・・そっか」
 ばたん、とドアが閉まった後で、うづきは拓海が何故、ネクタイを締めないのかというわけがわかった。
 うづきは悲しくなった。
 拓海のことがわかってなかったことに。

 マンションの外に出たあとで、ある事に気づいた。
 こよみ学園って何処だ?
 ああいうやりとりになってしまったので今更戻れやしない。
 また、うづきと一緒に学校という考えも起きなかった。
 「まあ、いっか」
 こういう時のために私服もちゃんと用意してある。
 拓海は駅に向かって歩き出した。
 学校の位置が分からないことを幸いにさぼるつもりだった。

 とりあえず駅に出てみると、駅前は高校生たちでたむろっていた。色取り取りの制服の数、その中にはもちろんこよみ学園の生徒たちも混ざっており、彼らは駅前の一角で待っているバスに乗りこんでいく。
 何処で私服に着替えようか考えた。
 一番簡単なのは駅であるが、入場券を払う気なんて毛頭なかった。あと考えるとすればファーストフード、デパートなどの商業施設といったところだ。、
 駅とは反対方向に向かって歩き出す。
 「ちょっとちょっと、そこのキミ」
 その矢先に呼びとめられた。
 「・・・・・・・・・」
 拓海は黙殺した。
 すたすたと歩き始める。
 この位置からだと、商業ビルまでには遠い。
 「そこのキミってばっ!!」
 拓海は無視した。
 どっか遠い何処かで猫耳少女型宇宙人が歌でも歌っているような気がした。
 「ちょっと待ちなさいよっ!!」
 突然、目の前に少女が現れて、ようやく拓海は立ち止まった。
 かなりのエネルギーを使ったのか立ち塞がるなり、前のめりになっては激しく呼吸する。
 年齢は16から17の範囲で、こよみ学園の女生徒の制服を着ている。髪は長く、眼鏡をかけており厳しくて真面目な印象与えている。規則に忠実で、他人にそれを護らせたがるタイプのようだった。
 ある意味では拓海と対極である。
 ようやく、少女は呼吸を落ち付かせると、ぎらっと睨み付けた。
 「キミはこよみ学園の生徒でしょ」
 「違うよ」
 拓海はあっさりと否定した。
 だいたい、拓海がこよみ学園の生徒とは、うづきたちの事情だ。
 「じゃあなんで、こよみ学園の制服を着てるのよ」
 出鼻をくじかれながらも、なお少女は問い詰めた。
 「貰ったんだ」
 「貰った?」
 「公園にブランコを乗りにいこうと思ったら、亀が子供たちにいぢめられているのを目撃して、オレがそいつらを追っ払ったんだ。そうすると亀はオレにこの制服をくれて、そのまま立ち去ったんだ」
 「・・・はぁ〜」
 それを至極真面目にいったのだから、少女は信じかけた。
 「じゃあな」
 そういって拓海はこの場から立ち去ろうとした。
 だが、そうは問屋は降ろさない。
 「そんなわけないでしょっ!!!」
 その矢先に服の袖をおもいっきりつかまれた。
 「その通りだ」
 「その通りだって・・・・・・学校をサボろうとするをわたしが見過ごせるわけないじゃないのっ!!!」
 少女の腕にいっそう力が入る。
 「じゃあ、見過ごせよ」
 「あんた、人の話聞いてるのっ!!!!」
 ぶち切れかけた時、少女の背後を塊のような風が通りぬけていった。
 こよみ学園の生徒たちを乗せたバスが通り過ぎ、やがて消えていく。
 少女はそれがなんなのか分からなかった。
 袖を掴む手から力が抜け、拓海は自由になると慎重にこの場から離れようとした。
 その瞬間、辺り一体に少女の悲鳴が響き渡った。
 「きゃゃゃゃゃゃゃゃっ、ちこくーーーーーーっ!!!」
 「遅刻確定か。おめでとう、ぱちぱち」
 落ち付いたところで拓海が冷たいまでに淡々といい、更に「ぱちぱち」をつまらなそうに口で再現すると、少女は人を殺しかねないほどきつい眼差しで睨んだ。
 「なにいってんのよー、あんたはっ!!」その後で少女はため息をついた。
 「あーあ、これで皆勤賞がぱあか」
 「お前は小学生か」
 「キミが言うなっ!!」
 拓海が突っ込むと、少女は裏拳で返してきたが、拓海が楽々とかわした。
 「・・・なんでこんなことになっちゃったんだろう」
 「オレにかまってるからだよ」
 「・・うっ」
 少女はそれに対して返すことはできなかった。
 「って、あのねー」
 「それよりもなんとかリカバーできる方法はないのか?」
 こんなところで漫才やっているのもしょうがないので現実に帰ることにした。いたずらに嘆き哀しんでいるよりも次善の策を考えたほうがいい。拓海が提案すると少女は落ち付いた。
 「次のバスでいけないこともないんだけど時間的にきついのよね」
 「ならいいじゃないか。チャンスがある分だけマシだと思いな」
 頑張れば遅刻せずに済むのだから、確定していないだけマシである。
 「・・・それもそっか」
 少女はため息をついた。どうやら完全に落ち付きを取り戻し気持ちを切り替えることに成功したようである。
 「って、何処に行くのよ」
 と、この場から立ち去っていく拓海に気づいて、少女は拓海の腕を掴んだ。
 「サボるのはなしだからね」
 そういって少女は拓海をバス停のほうへ引きずっていく。
 「バスに乗れっていうのかよ」
 「だって、当然でしょ」
 「お金ないんだよね。あってもつかいたくない」
 一瞬、少女がぽかんとした隙をついて拓海は立ち去ろうとしたが、また激しく少女は手をつかんだ。
 「だから、さぼるなっていってるでしょっ!!」

 バスの中はいくらか閑散としているようだった。こよみ学園の生徒たちも当然乗っているが数は少なく、何人かは少女の姿を見るとニヤけたような顔をする。
 「そういえば、キミってあまり見ない顔だね」
 走り出している中、少女が話し掛けてきた。
 「見ないもなにも昨日きたばっかだから」
 「ということは転校生?」
 「勝手にそういうことになっちまったけど」
 「ふ〜ん、そうなんだ」
 少女は何やら感心したようだった。
 案外と人懐っこいのかも知れない。少なくてもお節介焼きであることは確かだった。
 うづきといいさつきといい、こいつといいなんで、こうも周りに集まってくるのだろうと拓海は思った。世話なんて焼かれてほしくないのに本人の意向を無視して勝手に物事を進行させていく。
 今だってそうだ。この少女が絡まなければ、拓海は制服を脱ぎ捨てて、街に遊びに出ていた。
 「私は七転ふみつき」
 「変な名前」
 「それはいわないのっ!!」
 どうやら気にしているらしい。
 中断されてはいたが気を取りなおして、ふみつきは続けた。
 「名乗ったんだからキミの名前を聞きたいな。あと、わからないことがあったら私に聞いて。色々と教えてあげるから」
 「名乗ったところで意味がないから教えない」
 拓海の予想もつかなかった返事にふみつきは戸惑った。
 「なんで?」
 「今はこうしてバスに乗ってるけれど近いうちに学校を首になってこの町から追い出されるだろうと思うから。オレの存在なんて簡単に忘れるから名乗るなんて無駄なことはしない」
 どういうコメントをしたらいいのかふみつきは困った。
 「・・な、なにいってるのよ」
 「だから心配しなくてもいいよ。嫌なことがあって傷ついたとしてもそれは一瞬のことだから。簡単に忘れることができると思うよ」
 「どうしてそんなことをいうのよ」
 わけがわからなかった。
 表情も口調も淡々として、拓海が何を考えているのかふみつきには読めなかった。
 わけのわからないやつにしか、ふみつきには見えなかった。
 しかし、それも一瞬のこと。
 こよみ学園の生徒たちが一斉に前のほうに移動したのを見て、拓海もふみつきも移動を開始した。
 やがてバスは止まり、運賃箱のある前のドアが開く。
 「はい、奢ってあげるね」
 「とりあえず礼はいっとく」
 お金を払って外に出る。丘に上っていく道を生徒たちのほとんどがダッシュしていく様は見ていておかしかったが、拓海もおかしがっている立場ではなかった。 
 ふみつきが出たのを確認すると拓海も一気に駆け出した。
 新緑が眩しい道を高速で駆け上っていく。息も絶え絶えな生徒たちの間をすり抜けて行って、なおかつ息も切らずに登って行った。
 背後を振り返ると何メートルか離れた先でふみつきが息も絶え絶えに拓海を追っているのが見える。
 そして、師走町の町並みと砂浜、その先に広がる海も。
 この丘よりも高い建物を建てるつもりはないようである。
 駆けてからしばらくすると、やがて校舎と校門が見えてきた。校門のところでは風紀委員と先生が待ち構えて降いては通りぬける生徒たちをチェックしていた。
 気に入らないな。
 自然と右手はジャケットの内側に隠してあるナイフの柄をまさぐっていた。
 憲兵よろしく生徒たちをチェックしている彼らを見ると拓海はぶっ殺したくなってしかたがなくなる。
 だが、始業時間直前で人通りが多く、そうなるとこの場にいる全員を殺らないと気がすまなくなるような気がしたのと、殺戮欲よりもめんどく臭さが上回ったのでそれはやらないことにし、道を外れて脇の森に入った。
 学園と下界を隔てるフェンス沿いに歩いているうちに予鈴が鳴ったが、それは気にしないことした。
 校舎の裏側に着たところで歩みを止めると、拓海はフェンスに向き直った。
 膝をたわめて力を貯める。
 その時、背後からがさがさという音がした。
 その直後、人がしげみから飛び出してきてはフェンスめがけてジャンプをした。フェンスにしがみつくとそのままよじ登る。
 そいつは女性ショートカットに紺の半袖のシャツにミニスカートという姿をしていた。
 くまさんパンツね。
 心の中でそうつぶやきながら拓海も助走無しに跳躍しては一気にフェンスを飛び越えて反対側の校舎の敷地内に着地する。
 間髪入れずにその女性、五箇条さつきの背後を取るとぽんぽんと肩を叩いた。
 「また遅刻かね、五箇条先生」
 「教頭先生!! 遅刻してすいません、ごめんなさい!! もーしませんから!!」
 その時のさつきの驚きようといったらなかった。
 歳寄りの男性の声音でいったら、さつきは口から心臓を吐き出しそうな勢いで驚いた。もっとも、教頭先生ではなく拓海と気づいて、
 「なんだ、拓海か。驚かせるなよな・・・」
 安心したようにさつきは胸を撫で下ろした。
 「その様子だとしょっちゅう遅刻しているようだな」
 「うるせーな!! ほっとけっ!!」
 怒ったように叫んだあと、これ以上の追求から逃れるために話題を切り替えた。
 「うづきと一緒じゃなかったのか」
 「喧嘩、っていうほどものじゃないけど」
 それを聞くとさつきはため息をついた。
 「あのなあ、うづきのことをもーちょっと考えてやれや。あいつはいい歳しているくせにお子様だけど、拓海のことを一番に想っていてくれているのは拓海だってわかるだろ」
 「迷惑だけど」
 「・・・・まあ、その辺りの気持ちはわからなくもないんだけどよ」
 拓海に一言で切って捨てられてさつきは言葉には詰まったが、それでもフォローをした。
 「後になってそういうのがとってもありがたいと思うこともあるんじゃないかとオレは思うんだ」
 過ぎ去って、なくなってからその物の価値に気づくことがある。
 「そういう経験をしたことがあるのか?」
 「まあな」
 その時のさつきの横顔にセピア色の物がたゆっていた。
 「オレも高校生の時は拓海と同じように学校さぼってたんだ。遊ぶのが楽しくて勉強するのがとってもかったりくてよ。でも、いざ教師なんてやってみるとあの時に勉強しておけばよかったなんていうことがいくらかはあるんだよな。特に落ちこんでいる奴とか苦しんでいる奴を励ましてやりたいんだけど、何をいったらいいのかわからなくてさ・・・・・あはは、なにいってるだろうな、オレ」
 最後の辺りでさつきは笑ってごまかした。
 その後で屈託のない笑顔をさつきは浮かべた。
 「拓海は今の話、うるさいと思ってるだろ?」
 「まあな」
 「昔はオレもそうだったからな。センコーのいっていることがうるさくてたまんなかったけど、まさかオレがそのセンコーになって、こんなことをいうと思うと、おかしいのっ」
 「ああ、存在自体がお笑いだな」
 「お笑い・・・ああ、茨城県にある町だろ」
 さつきがそういった後に、乾いた沈黙が広がった。
 「おい、それは大洗だろっ!! って突っ込めよ」
 沈黙に耐え切れずさつきが叫ぶと拓海は冷笑を浮かべた。
 「やれやれ、珍しく大人らしいことをいうと思ったらどうやらそれは悪い物を食ったからのようだな」
 どう考えても挑発しているとしか考えられない言い様である。
 「おまえなあ、じゃあ普段はオレがお子様だというのかよ。うづきの同類か」
 「くまのぱんつ」
 ぼそっといった拓海の一言がさつきの胸を貫いた。
 顔色が白に、続けて赤へと染まって行く。
 「み、みてたのか・・・」
 「見られたくないんなら、スボンにしろ」
 拓海がいい終わるとさつきは沈黙した。
 うつむいた顔は真っ赤に染め上がり、今にもオーバーヒートしそうだった。
 そんなさつきを尻目に拓海はゆっくりと歩き始めた。とその時、不意にさつきが爆発した。
 「たったくみぃ・・・・」
 声が裏返っているわりには、さつきの全身からは殺気が立ち登っていた。
 「このこといったらぜったいにてめぇのことをぶっ殺すからな。絶対にだぞ」
 
 ふみつきが教室に駆けこんだのは予鈴が鳴ったのとほとんど同じだった。
 「おそーじゃねーか、委員長」
 ふみつきが遅刻すれすれのところで入ったきたことに、男子生徒の一人が揶揄をするが、ふみつきはそれを黙殺して自分の席に座った。中のいい女生徒が話し掛けて来る。
 「おはよ、ふみつき。あんたが遅いなんて珍しいねえ。明日は槍でも降るんじゃないの」
 「ちょっとしたことがあってね」
 「ふーん」
 その女生徒はにやけたような目つきになった。
 「いずれにしても今日は運がよかったわね」
 「運がよかったって?」
 「今日ね、うちのクラスに転校生が来るんでむつき先生も遅れるらしいよ」
 転校生。
 その言葉がふみつきの心に重く響いた。
 「そうなの」
 ふみつきは心の動揺を悟られないよう努力をした。友人は知ってか知らずか呑気にこう続ける。
 「転校生か。かっこいい男の子だといいんだけど」
 「ああ、そう・・・・」
 「ああ、そうってふみつきってばノリが悪いなー。なんかあったの?」
 「ほっといてよ」
 ふみつきが不機嫌になりながらもそっぽを向いたその時、教室の扉が開いて、先生が現れた。この瞬間だけは生徒たちの会話も一瞬止み、これから授業なんだという気分が漂ってくる。
 入ってきたのは、まだ学生くささの残る若い女性で長い髪をゆるやかに二つに分けて束ねている。穏やかで優しい感じのする美人ではあるが裏を返せば貫禄不足ということでもあり、後方で3人ぐらいの男子生徒がぺちゃくちゃと喋り捲っているがそれを抑えることができずにいる。
 「起立っ!!」
 ふみつきが号令をかけるとなんとか全員は立ち上がる。
 「礼っ!!」
 それから一斉に礼をして、再び着席する。
 その先生、一文字むつきは穏やかに微笑んだ。
 「おはようございます、みなさん。今日は嬉しいお知らせがあります」
 そういうと教室の中が一斉にどよめいた。
 「転校生が来るっていう話ですか」
 「ええ、そうですよ」
 「その子は女の子ですかっ!!」
 「残念なが違います」
 むつきが否定をするとトーンが何割かに下がり、失望のため息があちこちで漏れた。
 むつきはドアを開けた。
 「遠野くん、どうぞ」
 音もなく転校生は入ってきた。
 160代の小柄な体躯。
 どちらかといえば女顔な端麗な容姿。
 しかし、口を開ければきっついし、さぼりぐせがあるのをふみつきは知っている。
 「あ、あの子可愛いじゃない・・・・って、ふみつき、どうしたの?」
 「ううん、なんでもない」
 そうは答えつつも気分が盛り下がっていくのを抑えることはできなかった。予想はしていたけれど、当たったところでぜんぜん嬉しいとは思えなかった。
 そう、あいつだった。
 「今日からうちのクラスの仲間になる遠野拓海くんです」
 「遠野拓海です」
 むつきの紹介を受けて、拓海は素直に一礼をした。
 「席はとりあえず後ろの開いているところいっててね」
 都合よく後ろの席が開いていたのでむつきはそこを指示し、拓海はそこに向かって歩いていった。
 その際に、彼を笑いはやすような言葉が投げつけられる。
 「おい、おまえほんとに男か?」
 「セーラー服のほうが似合うぜ、たくみちゃん」
 そういってきたのは、机に脚を乗せてふんぞりかえっている男子生徒三人だった。入学してから早くも札付きの悪として知られる三人組みで大抵の先生たちも手を焼いている。
 彼らはそういうふうに笑っている。
 はなっからバカにしたような態度が許せなかったふみつきは立ち上がって文句を言おうとしたが、言うのをやめた。
 気温が一瞬だけ寒くなったのを感じたからだった。
 気温はいつもと変わらなかったのにその時だけ氷点下にまで下がったような気がする。そう感じたのかふみつきは分からなかった。

 その数分後、思い知らされる羽目になる。

 
 やがて授業が始まる。
 科目は国語なので、そのままむつきが授業を行う。
 「今日は詩の勉強をします。配られたプリントを見てくださいね」
 ふみつきは配られたプリントを見るとそこには詩が書かれてある。中原中也のだ。そのプリントを元にしてふみつきが語り始めた。
 ふみつきの授業は教科書と自前で用意した教材を使って行われる。受験向きではないが、やる気が出てくるのでふみつきとしても悪くない印象を持っていた。
 ただ、問題があるとすれば、
 むつきがプリントの内容を元に講義をするのだけど、むつきの声よりも後ろの男子生徒の私語のほうが大きかった。
 授業をしているのにも関わらず、そいつらは騒いでいた。おかげで話が聞こえないし、気が散る。
 「大阪くん、竹中くん、山田くん。少し静かにしてくれませんか・・・・」
 流石にたまりかねてむつきが授業を中断して、彼らに注意するが、逆に居直ると三人でむつきを取り囲んだ。
 「なんだとぉ?」
 「騒いでませんって、授業について話をしているだけです」
 とてもそんな感じではない。
 むつきの服を剥くような眼差しで彼らは見る。
 「でも、もうちょっと静かにできませんか」
 ここで強い態度に出ればいいものの、出れないところがむつきの弱点だった。自分よりも大きい生徒に睨まれてむつきは萎縮してしまう。
 「できねーよ」
 そういって一人が鼻で笑った。
 「はっきしいってセンセーの授業ってばつまんねーんだよな」
 もう一人がそれを言うと、むつきの顔が沈む。
 「じゃあ、どうすればいいんですか」
 「そうだな・・・」
 そして三人の顔が一斉にニヤけた。
 「ちょっとちょっとあんたたち!!」
 そこでふみつきが割って入った。
 「授業を妨害するのもいいかげんにしなさいっ!! 真面目に授業を受けるつもりがないんだったら教室からでてって!!」
 三人の関心が一斉にふみつきに向いた。
 「なんだとぉ、こら」
 三人の威圧的な眼差しを受けて、ふみつきはややひるむ。
 しかし、それよりも授業を妨害されている怒りと、先生がいじめられている義憤のほうが勝った。
 ふみつきは委員長なのだ。
 風紀を護り、授業を安寧させる義務がある。
 「なにをいってるのかなー」
 一人が威丈高に睨み付けるがふみつきはひるまない。
 「はっきりいってあんたたちがうるさいっていってんの。ここは高校なの。幼稚園じゃないの。幼稚園児はあっちに行ってなさい!!」
 おもいっきりきつい言葉だった。
 不良たちよりも、むつきやそれを聞いていた生徒たちの顔面が真っ白になったほどだった。
 無論、たった一人を除いてであるが。
 あまりの台詞に気をされた三人であるが、すぐに顔を真っ赤にさせると、そのうちの一人がふみつきに掴みかかろうとした。
 「てめぇっ!!・・・・・」
 だが、そいつの動きが凍り付いたかのように止まった。
 場の空気も液体窒素をかけられたかのように凍り付いた。
 「うるさいんだよ、おまえ」
 いつの間にか、そいつの背後に拓海が回っていた。
 左手でそいつを逃げられないようにホールドし、右手にはコンバットナイフが握られて、その刃は喉元に突きつけられていた。
 「おい、冗談はよせよ・・・・・」
 そいつは情けない声を上げる。
 仲間の二人もどうすることもできない。
 「冗談、冗談ねえ・・・」
 拓海は笑っていた。
 目を細めて猫のように笑っていた。
 それが場の空気を極限まで凍てつかせる。
 「冗談じゃなかったらどうする?」
 無邪気にいってるそれが恐かった。
 「うひー、助けてくださいぃぃぃぃぃっ!!」
 「じゃあ、そういうことにしてあげよう」
 拓海はそういってナイフの刃をそいつの喉元から離した。
 凍り付いた空気が溶け始めたのもつかのま、
 「そうこれは冗談なんだ」
 その直後、右手でそのナイフの刃を握り折った。
 最初に柄が落ち、右手を開くと、砕け散ったナイフの刃がダイヤモンドダストのように床に振り落ちる。
 拓海はその手を顔の前にかざした。
 「そうさ、これはじょうだんなのさ・・・・」
 刃を握り折った掌から血が溢れ出ていた。
 その血を見て、拓海は笑う。
 「そうさ、これはじょうだんなのさ、じょうだんじょうだんじょうだんじょうだん、じゅじゅじょじょじょーだんなのさ、いっひひひひひー、うふふふふふふ、あっははははは、ひぃぃぃっひっひっひっひっ、じょうだんじょうだんじょうじょうじょうだんっ!!・・・・」
 「・・おい誰か医者を呼べぇっ!!」
 もはや授業どころの騒ぎではなかった。
 呆然と騒然という矛盾するものが交じり合う中で、拓海はいつまでもいつまでも笑い続けていた。
 「あっはははははははははははははは・・・・・・・」

 「キミが拓海くんね」
 その女性は拓海の前で呆れた表情を見せていた。
 この後、拓海は保健室に連行されて校医から手の治療を受けていた。艶やかな黒髪を素直に伸ばした美人で優しさの中に大人っぽさが随所に出ている女性だった。しかし、拓海はそんな表層的なところを見ていなかった。 
 「はい、これで終わり。拓海くんのことだから分かっていると思うけど大したことはないわ」
 怪我した右手に包帯を巻き付けて治療を終えると校医はにっこりと笑った。それまで拓海は無表情だったがそこで初めて口を開いた。
 「血の匂いがする」
 その意味に気づいた校医は一瞬、虚を突かれると力無く笑った。
 「人を殺しているわけじゃないんだけどね。でもやっていることは同じか」
 拓海の目は凍てついている。
 その身体付きといい、雰囲気といい拓海はこの校医がかなりの実力者であることを悟っていた。自分と同等かあるいはそれ以上かも知れない。拓海が事を起こす時、壁となって行く手に立ち塞がるのはこの女だろう。拓海はシュミレートを始めていた。
 この女と立会い、どうやって勝利するのかシュミレーションを。
 「それよりも拓海くん。ボティチェックをさせて」
 言葉は優しいけれど有無言わせぬ口調だった。拓海は逆らうことなくそれを受け入れた。校医の手が伸びて、拓海の身体や服をまさぐりだした。
 するとブレザーやベルトの内側、袖口、靴、スボンからありとあるナイフが出てきた。
 しかも、ナイフだけではない。
 「これって拳銃でしょ。何処で手に入れたの?」
 「弾丸は歌舞伎町のやくざからかっぱらった。あとはありあわせのもので」
 スポーツバックから取り出されたのは、パイプと木で構成された手作り感溢れる拳銃だった。水道用のパイプや机の脚、釘やバネなど簡単に手に入れる材料で作られているが、校医には一目でそれが危険な代物であるかわかった。その傍らにはトカレフ用の弾丸がある。
 「本体は持ってないの?」
 「旋状痕で特定されるから使わない」
 銃身には射程距離と威力を増すため、螺旋状にモールドが施されており、弾丸はそのモールドの痕をつけながら発射される。それを旋状痕といい、モールドのパターンは銃ごとに異なっているので弾丸がどの銃から発射されたのか特定できるようになっているのだが、旋状痕がない以上は、モールドのない銃で撃ったことがわかるぐらいで、特定は不可能になる。
 「でも、没収ね」
 校医はそれを机に置くと、今度はボクシング用のプロテクターとヘッドギアを取り出した。
 「どうしてこういうのを持ってきてるの?」
 「バイト用。流石に素で殴られつづけると身体がもたないから」
 「なるほどね」校医はそのバイトの内容は聞かないことにして、その代わりにチャックを開けて中の緩衝材を取り出した粘土状になっているものがいくつか並べられる。
 「これはなんなの?」
 「愚問だね。緩衝材を入れない防具なんて何の役に立つんだ」
 「問題なのは、これと同じものをどうして身体の周りにつけてるの?」
 「いつ刺されるか分からないだろ」
 刺すのはおまえだ。
 それを聞くと校医はため息をついた。
 見た目は粘土だけれど、校医の目にはそれが爆薬、プラスチック爆弾のように見えた。緩衝材に粘土を使う必要性なんて何処にもない。確証はないけれど、何処で手に入れたのかは疑問であるが、自分で拳銃を自作するような奴なのだから愚問に思えた。
 「これも没収」
 「待てよ。それがないと仕事にならない」
 これには拓海も抗議をする。
 「この防具汚れているから私が繕ってあげる。それでいいでしょ」
 それで校医は無理矢理納得させると、今度は正露丸の瓶と、スプレー缶を取り出した。
 「これはなんなの?」
 「先生は日本語が読めないんですか」
 その言葉に校医は思わず殺意を覚えたもののそれを表層下に封じこめる。
 「アーモンド臭のする正露丸なんて知らないわよ。それとこのスプレー缶はなにかしら。ラベルも張ってないし、整髪料にも見えないわね」
 「ああ、それはただの洗剤だって。アルカリ洗剤と漂白剤を混ぜたものを詰めたものなんだけど」
 それを聞くと校医はため息をついた。
 「キミは洗剤のラベルをきちんと読んでるの?」
 「読んでるよ」
 それだけにタチが悪かった。
 アルカリ洗剤と漂白剤を混ぜれば塩素ガスというフロ掃除の主婦をあっさり殺すほどの毒物が生まれる。その毒性と手軽さはあのサリンさえも凌ぐ代物だ。
 校医の目の前に座っている少年。
 小さくて、まるで女の子のように可愛らしい少年だけれど、校医にはどう見てもテロリストにしか見えなかった。
 ナイフ、拳銃、爆弾、毒物。
 この少年が持っているものを全て使えばどれだけの死者が出るのか想像もしたくもなかった。
 しかも、少年には主義主張もない。
 ただ気に入らないから、という理由でどれだけのことをしてきたかというのを校医は知っていた。
 「で、オレを警察に突き出す?」
 拓海が校医の心境を見透かすようにいうと、保健室に緊張が張り詰めた。
 背中をじりじりと焼かれているような感覚がする。
 どう考えても素直に拓海が投降するとは思えない。だとすれば、校医が拓海と戦うことになる。拓海が校医のことを強敵と認識しているように校医もまた拓海のことを強敵と見なしていた。
 実力的には互角。
 ただ、
 「手を見たところどうやら日本刀使いのようだけれど、手元になさそうだね」
 ”つまり、オレのほうが有利”だといいたいわけね。
 その裏の意図を悟るとため息をついた。
 それをきっかけに緊張が変える。
 「警察に通報したところで、拓海君が更正するわけでもなし。まあいいわ」そういった後で付け加えた。「ただし、武器は没収」
 「それですむならいいか」
 とりあえず、それで納得したところで、再び場に平和が戻ってきた。
 「その様子だと、昨日は寝てないようね」
 「わかるか」
 「わかるわよ、だって医者だもの」
 この時ばかりは校医も優しい顔になる。
 相変わらず、拓海の表情は変わらない。
 「いい。眠くないから」
 「そう」
 校医は心配するが、特に無理強いはせずポットからお湯を急須に注いで、お茶を二人分入れた。湯のみに注がれたお湯は鮮やかな緑色をしていた。
 「じゃあ、私のお茶のみ話に付き合わない?」
 拓海は無言でお茶をすすった。
 「・・うまいな」
 「わかる?」
 この時ばかりは抑えていても、つい得意げになってしまう。
 「今日取り寄せたばかりの玉露を清水で入れたのよ。これもついでに食べる?」
 お茶菓子として生八ツ橋を出してきたので、それを拓海もつまんだ。
 雰囲気がいっそうほのぼのとしてくる。
 「そういえば、私の名前を名乗っていなかったわね」
 「でも、そっちはオレのことを知っているんだろ?」
 「あなたを受け入れることについて、色々と調べさせてもらったわ。というより、拓海くんってけっこー有名人なのよね」
 「そりゃそうだろうな。なんたって母親殺しだから」
 「にしては、血の匂いが濃いわね」
 拓海は校医のことを「血の匂い」がするといった。
 「私にも貴方の身体から血の匂いを感じるし、それに背後に怨霊が取りついているのが見える。一人二人にしてはあまりにも膨大すぎるもの」
 「疲れてるんじゃないの」
 そういって拓海は笑った。それ以前に怨霊がついているといえば大概の人は笑い飛ばすか、怪しい目で見る。もっともその上で拓海は付け加えた。
 「ゴキブリ以下の奴に呪われたところで別に恐くないよ」
 茶のみ話のついでに出された言葉が、校医の心に波紋を起こす。
 お茶をすする音が静かに響いた。
 「それよりもオレはあんたのことが知りたい。だいたい名前聞いてない」
 「そ、そうね」
 拓海のその言葉に校医は我を取り戻すと咳払いをして気持ちを落ち着かせた。
 「私は三世院やよい。このこよみ学園の校医でもあり、あと実家が神社だからお払いもやっているの。それと今回の貴方の特別指導の担当」
 「普通は生徒指導のゴキブリがやるんじゃないのか?」
 「そんなのはケース・バイ・ケースよ。拓海くんの場合は特殊だから」
 「いちおう病院歴はあるからな」
 拓海の場合はそれだけじゃない。
 コキブリといった時点で、どのような展開になるかは目に見えていた。内申書が効く相手ではない。しかも、彼に説教をした生徒指導の教諭がその後、どんな運命を辿ったのかをやよいは知っている。
 「まさか、安藤先生に指導してもらったほうがよかった?」
 「面白そうだけどね」
 ”あんたね・・・”とやよいは危うく言いそうになって封じこめた。
 「冗談だよ。あんたのほうが話せるからな。お茶と菓子を奢ってくれているわけだし」
 「ありがと」
 「で、判決は?」
 「放課後までここで謹慎」
 「そんなものか」
 「ナイフを抜いたのは反則だけど、あの子たちを抑えるためにやったんでしょ。あなたが悪いんじゃない」
 「殺すつもりで抜いたといったらどうする?」
 間が開いた。
 「つい、かぁーっとなってという言い訳は通じないわよ。衝動的にやっちゃうタイプには見えないもの」
 「わかんないぜ」
 「貴方に関わったクラスメート7人と教諭が4人死んでいるけど」
 「可哀想だったな。みんな火事で死んじゃってさ」
 ぜんぜん可哀想とは思っていない拓海をやよいは一瞬だけ睨み付けたが、眼光を和らげると頭をかいた。ここで言い逃れられなければ、拓海はここにはいない。
 「でもさ、どうせなら昼休みぐらいまでにしてくんない?」
 「ダメ」
 やよいは一言で却下した。
 「どう考えても、あなたを野放しにしておくのは危険すぎるもの」
 「オレは猛獣か」
 「核廃棄物よ」
 「きっついなあ」
 これには拓海も苦笑いを浮かべる。
 「それに、拓海くんはうづきと一緒に帰らなくちゃ」
 ここからやよいは笑顔になる。ちょっと意地が悪かった。
 「なんでだよ」
 「うづきが喜ぶからよ。わたしはうづきの友達なの。だから、あなたの都合よりうづきのほうを優先させたいのよ」
 「ひっでぇなあ・・・」
 とはいうものの顔は笑っていた。
 「拓海くん!!」
 いきなり扉が開かれ、朝と同じデ・ジ・キャラット姿のうづきが飛びこんできた。飛ぶようにダッシュしてそのまま背後から拓海のことを抱きしめる。
 「拓海くんが怪我したっていうからうづき駆け込んできたの。拓海くん大丈夫!?」
 「・・だ、だいじょうぶだけど」
 身体まで揺さぶってくるうづきの勢いに拓海は気圧されていた。
 「ほんと!? 無理なんて絶対にしてないよね!!!!」
 「安心してくれ。無理するように見えるか」
 すると、うづきの身体から力が抜け、全体重が拓海の身体に圧し掛かった。
 「よかったぁ・・・・よかったよぉ・・・・拓海くんが生きていてくれてほんとーによかったよー」
 「だから、オレの背中で泣くな!!」
 拓海の抗議も虚しく、1度泣いてしまったうづきを止めることなんてできなかった。背筋があっという間に水びたしになっていく。ついでに鼻も噛まれているのだが、どうすることもできずにただ耐えるしかなかった。
 「笑ってるんじゃねーよ・・・」
 やよいが露骨に笑っているので拓海はじと目で睨み付けた。
 「だってだってぇ、さつきちゃんってば「拓海くんが授業中にとち狂ってハラキリした」っていったんだよ。だから、だからぁ」
 ・・・・・・・・・・さつきぶっ殺す。
 拓海はうづきの身体を引き剥がすと、小学生を通り越して6歳児まで幼児退行してしまったうづきと向き直った。
 「ああそうそう、面白いことを教えてやるよ」
 「ぐすっ・・・なんなの、拓海くん」
 「さつきはあいつ、あの歳になってもくまプリントのパンツを履いているんだ」
 「えっ、さつきちゃんってば、そうなの?」
 ちょうど泣き止んだところだったので、きょとんとしてうづきは聞いた。
 「ふーん、そうなんだ」
 やよいも興味を示す。
 そこへ、また扉が開かれ、その当人が現れた。
 「おーす、少年。元気にいきてっかー!!」
 「ねえ、さつきちゃんってば、くまさんのパンツをはいてるってほんとなの?」
 その瞬間、さつきは見事なまでに固まった。
 「て、てめぇ・・・・あれほどだまってろっていったのに・・・・」
 そして、押し殺した声がさつきから漏れる。
 「だまってろっていってるだけだろ。承諾した覚えなんてさらさらない」
 「って、おめーなー・・・・」
 「体罰を振るうのは禁止されているんじゃなかったのか?」
 さつきが今にも掴みかかりそうだったので、拓海は改めて注意を入れておいた。
 「・・うう」
 「たとえ自分が殺されそうになってもね」
 バカにしたような言い方に、さつきの怒りがますます上がる。
 「なんだ、その顔は」
 「なんだ、その顔は、じゃないだろ」即座にさつきは吼えた。
 すると拓海は呆れてみせた。
 「さつきはいい教師ぶってるけど、やっぱりたんなる暴力教師か」
 「なにっ」
 保健室の温度がいったん静かになった。
 「自分はいい教師ぶっているけど、生徒がいうことを聞かなかったり、思い通りにならない場合はすぐに本性を剥き出しにしてぶん殴ろうとしたり、裸にしてストリップショーをさせたりする」笑いながらいっていたが、その後、ナイフのように鋭い顔をした。
 「最低だね、あんた」
 そう言われて声もでなかった。
 「て、てめぇっ・・・・」
 一つ遅れて、さつきが掴みかかろうとした。
 「そんな人じゃないよ!!」
 それよりもうづきのほうが早かった。
 「さつきちゃんは短気だけど、悪い子じゃないよ!! 新聞にでてくるような人たちとは一緒にしないの」
 「うづき・・・」
 うづきの剣幕にさつきの怒りも下がって行く。やよいが苦笑した。
 「今のはさつきが悪いわよ」
 「なんでだよっ」
 悪戯がばれた子供のようにさつきは抗弁した。
 「愛の鞭という言葉があるけれどそれは生徒や子供が悪い事した時、注意する時に使える言葉よ。貴方がくまのパンツを履いていることをばらされたことで殴りにいくようじゃ体罰といわれてもしかたがないわね」
 「・・うう」
 なんとか反論しようとしたが、まったくその通りなので、言葉に詰まった。
 「それにしても今時、くまのパンツなんてさつきも可愛いところがあるじゃない」
 「うわっ、ばか、それはいうなぁっ」
 恥ずかしさが戻ってきて、さつきは真っ赤になる。
 「ねえねえ、うづきにも見せて!!」
 うづきが追い討ちをかける
 「あのなあ、うづき・・・」
 「そん時のさつきは、まるで子供みたいで可愛かったな」
 拓海がとどめを刺す。
 「うわぁ、ば、ばかぁっ、そ、そんなこと」
 さつきは真っ赤になったまま沈黙した。
 恥ずかしそうにうつむいている姿はまるで小学生のように見えた。普段のヅカスターを思わせるような凛々しさは微塵もなかった。
 でも、女の子らしく見えて、とっても愛らしかった。
 何事もなければ、そのまま凍りついていただろう。
 「あら、五箇条先生??」
 ノックの音がして、長い髪を緩やかに分けた若い女性が入ってきた。一文字むつきである。床の真ん中で彫像と化しているさつきを見て、きょとんとしてしまった。
 「いや、その、あの、あはははは」
 ごまかしながらさつきはどうにかして立ち上がった。
 「あのう、遠野くんはいますか・・・いますよね」
 一方、むつきは保健室を見まわした。拓海を見つけるとむつきは緊張する。
 「あの・・・・授業ではごめんなさい。私のせいで迷惑をかけちゃって」
 授業での混乱は、授業を妨害している三人組にむつきが注意したことから始まった。ちゃんと制御しきれなかったむつきにも責任はある。
 「別に。単に暴れたかったら暴れただけで、一文字センセには関係ないよ」
 「暴れたかったら、って、おめーなー」
 「でもさ、センセははっきりいって頼りなさすぎ」
 脇でさつきがいっているのを尻目に、拓海がはっきりといった。その通りの展開だったので、むつきには言い返せず、うつむいたままじっと聞いていた。
 「あいつらはどうせ口で言ったって効果がないんだから」
 「でも!」
 むつきは反論した。反論せざるおえなかった。誠心誠意語れば、いつかきっと分かってくれる、ってそう思っていたからだ。
 拓海は鼻で笑った。
 「人間以下に人間の言葉なんて通じないって」
 口調は明るかったけれど、その言葉はむつきとやよいに重く響いた。
 あの三人のことを人間以下と言い切ったのだ。
 「あのさ、やよいセンセ」
 拓海は向き直った。
 「オレが思うに、あの三人はやよいセンセにはとっても従順でしょ」
 「・・ええ、そうね」
 ショックが抜けきらなかったやよいであったが、拓海の問いにうなずいた。事実、あの三人はやよいの言うことには従っていた。
 「奴らがやよいセンセに従順なのは多分、やよいセンセが恐いからだよ。センセってばとっても強いからねー。やっぱを持たせればオレだって勝てるかどうかわからないね。だから、人間以下が人間の言う事を聞くのはその人間が恐いか、もしくは借りがあるからだよ。言って聞かせればそのうち改心するなんて」口元からも笑いが消えた。「そんな事は絶対にない」
 静かになってしまった。
 拓海の言った言葉は、4人の先生たちの心をおもいっきりぶん殴っていた。
 黙殺することのできない一言に先生たちは呆然となっていた。
 物を手を入れればお金はいるし、仕事をやろうとすれば経費がかかる。身体を動かせば食べ物が欲しくなる。人の営みは物資を消費することから成り立つのであり、それは人間関係においても変わらない。無銭飲食すれば警察に捕まるし、飯を食べなければ飢え死にしてしまう。給料が払われないのであればそこで仕事をする必要はないし、人のためにつくせないような奴に尽くしてやる必要はないし、ましてや尊敬できる物を何ももっていないのに、そいつのことを崇める必要なんて全くない。
 「というわけで、センセ。強くなんなよ」
 むつきの肩を叩くと拓海は歩き出した。
 「ちょっと、何処いくの?」
 めざとく気づいたやよいが声を上げる。
 「トイレだよ。なんだったらここでしてやろーか。大のほうを」
 「・・・・いってらっしゃい。ちゃんと戻ってくるのよ」

 彼はこんなことを言っていた。
 「今はこうしてバスに乗ってるけれど近いうちに学校を首になってこの町から追い出されるだろうと思うから。オレの存在なんて簡単に忘れるから名乗るなんて無駄なことはしない」
 拓海がそんなことを言った時、ふみつきは意味がわからなかった。なに言っているんだろうという、程度の認識しかなかった。
 今ならばそれがわかる。
 ふみつきが不良を抑えようとして、拓海がコンバットナイフを抜くという事件が発生した。幸いにして大事に至らなかったが、このようなことが繰り返されれば拓海は追放される。拓海は個性の強い人間ではあるが時が立ち、年老いるうちに彼の存在を忘れて行くだろう。誰も生れ落ちた時のことは覚えていない。まるで最初から存在しなかったように。
 ふみつきにはそれが切なかった。
 何故、悲しいのかわからなかった。
 そして、ふみつきが原因で拓海が問題を起こすことになって、そのことを済まないと思い謝りに行ったが、保健室から聞こえてくる拓海と先生たちとの会話を聞いて、何故、怒りが湧き上がったのか、わからなかった。
 「・・・・って、遠野くんっ????」
 不意に後ろに気配を感じて、振り向くとそこに拓海がいた。その瞬間、ふみつきはのけぞった。背骨が逆方向に曲がった。ふみつきは痛そうな顔をした。
 「・・・つう」
 「面白い奴だな」
 「面白い奴だなって、急に後ろに立たないで」
 「保健室をじっと覗き見していた奴に言われたくはないんだけど」
 拓海のカウンターヒットが炸裂して、ふみつきは沈黙した。
 「知ってたの?」
 「バレバレだったよ。暗殺者としては失格だったね。そのくせ自分の頭に何をされたのか知らないようじゃただの間抜けだね」
 「頭って」
 頭に手を当てたところで異変が起きていることに気がついた。
 触った感触がいつもと違うのだ。
 さらさらとした髪の感触があるのに、今はごつごつしたような感じがする。ところどころに直に地肌に触れる場所があった。どうやら、髪がいくつかに束ねられているらしい。
 耳元にある髪を、目前にもってきた。
 その髪は細かく綺麗に編まれている。
 「・・・・・あーっ!!」
 慌てて窓に自分の姿を映してみると、頭の右半分がドレッドヘアになっていることに気がついて、ふみつき大声を上げた。その横で拓海がおかしそうに笑っていた。
 「遠野くんっ!!」
 「後ろに立つ奴が悪いじゃなくて、立たれたほうが悪いんだよ」
 「・・・もうっ、ば、ばかぁっ!!」
 ふみつきは平静を保っていられずに、そっぽを向いた。頭半分がドレッドヘアで残りは普通というのはかっこ悪かったし、眼鏡を掛けているんだから余計にかっこ悪かった。それ以上にそこまでされてまで気がつかなかったのがおもいっきり恥ずかしかった。
 だが、
 「かわいいのに」
 そう言われると、心臓が一瞬だけで激しく鼓動した。
 銃弾に撃ち抜かれたみたいで、
 「・・ば、ばか」
 恥ずかしかったけれど、さっきの恥ずかしさとは違う恥ずかしさだった。
 わからなかった。
 なにもかもわからなかった。
 そんなふみつきを置いて、拓海は立ち去ろうとした。
 「何処に行くのよ」
 「トイレ」
 「とかいっちゃって、本当は脱走しようとするんじゃないんでしょうね」
 「さあな。脱走するかも知れないし、しないかも知れない」
 「・・・遠野くんって、いったい何者なの」
 不思議だった。
 小柄で女の子みたいな容姿でありながら、ふみつきを手玉にとって、なおかつ分からない感情ばかりを刻み込んでいく、この男のことが知りたかった。
 それに対して拓海は笑った。
 透き通った笑顔だった。
 「人殺しだよ」

 その言葉に衝撃を受けて、少女は立ち尽くす。
 また、言っている意味がわからなかった。
 なのに重かった。
 けれど、男が立ち去ろうとした時、少女もまた男を追って走り出していた。
 無意識のうちに。

 時はあっという間に過ぎて、放課後になっていた。窓から刺す光が茜色を帯びるようになり、その光を浴びていたやよいは訳もなくため息をついた。
 疲れていた。
 「おーっす!! やよい」
 そこへ勢いよくドアを開けてさつきがやってきた。その様子はまるで小学生のガキ大将となんらかわることはない。さっきまでパスケをやっていたので全身が汗でぬれ、ほんのりと肌が火照っていた。
 「あれ、拓海は?」
 「拓海くんなら、さっき帰ったわよ」
 「うづきは拓海くんと一緒に帰るんだ、っていってたんだけど、約束守るか? あいつ」
 さつきには拓海がそんな約束を守るなんて思えなかった。
 「そうね、人目ももつくでしょうね」
 うづきと拓海が親子関係にあるのは秘密だった。養子関係とはいえ、無用の誤解を受けたくはなかったからだ。
 もっとも、それ以前に拓海がうづきのことを親だと認めていないが。
 「お、ミネラルウォーターじゃん」
 さつきは勝手知ったる他人の家とばかりに冷蔵庫を開け、珍しいことにボルビックが入っていることに喜んだ。
 「もらうぜ」
 いつもは文句をいうやよいだったが、この時に限っては無反応だった。それを了承と勝手に判断したうづきはキャップを回すと、直接口をつけて飲み出したが、すぐにそれを吐き出して気持ち悪そうにうなった。
 「やよい、これ水じゃねえよ・・・・」
 「そうよ。ガソリンよ」
 さつきが物の見事にトラップにひっかかったので、やよいは意地悪く笑った。
 「ガソリンなんてなんていうものを用意しやがるんだよ・・・・」
 「冷蔵庫に入れたのは私だけれど、用意したのは私じゃないわよ。後で説明するけど」
 ミネラルウォーターと見せかけたガソリンを飲んでしまったことで、さつきは黙ってしまった。そういうことでショックをうけるたまではない。さつきが何故、保健室に来たのかやよいにはわかっていた。
 やがて、さつきが口を開いた。
 「なあ、あいつのをことをやよいはどう思う?」
 「何故そんなことを聞くの?」
 やよいは母親のように笑っていた。
 「やよいはオレたちよりも年上でガクもある。だから、あいつのことについてオレなんかよりも正確な評価が下せるだろうし、それにやよいが疲れた顔をしてるもんな」
 「わたしが疲れている」
 「うん、疲れている。それになんだか落ちこんでいる。象が踏んでも壊れないくせによ」
 「なにがよ」
 ぽかりとやよいはさつきの頭を軽く叩いた。
 でも、明るく笑っていたやよいの表情が日が落ちるように沈んで行く。
 ため息が一つ漏れた。
 「恐いのよ」
 こわかった。
 「拓海がか?」
 「ええ」
 やよいは腕を見る。
 白衣の袖口が汗にまみれている。腕だけではなく、背中の服の生地がべっとり張り付いていた。
 「そっかぁ。そんなに恐いようには見えなかったけどな」
 さつきは脳天気だった。
 「海岸で見た時は親子連れを今にも殺しそうだったたから危なそうな奴だとは思ったけれど、たかが学生だろう。簡単に抑られるって」
 それを聞くとやよいはまたため息をついた。今度はおもいっきり呆れて。
 「さつき・・・・だから貴方は拓海くんの玩具にされているのよ」
 その後で、付け加える。
 「ちなみに、そのガソリンは拓海くんが持ち込んだものよ」
 「拓海がか?」
 「それだけじゃないの。このロッカーを開けてみなさい」
 半信半疑ながらも、さつきは言われた通りにロッカーを開けた。中には拓海から押収したナイフや正露丸など様々なものが入っている。ナイフのコレクションに感嘆したさつきであるが、やがて手製の拳銃に手を伸ばした。
 「へーっ、玩具にしてはよくできてんなー」
 「さ、さつき、やめなさい・・・・」
 さつきはもてあそんだあげくにグリップの後ろにあるボタンを押し、その上でレバーを押した。やよいは止めようとしたが、遅かった。
 シャンパンの栓が弾けるような音がして、射線上にあった電球が割れた。
 「ほ、ほんもの・・・!?」
 天井に穿たれた小さい穴と火薬の煙が立ち登る水道管を加工した銃口を見比べて、やよいは呆然とした。
 「サイレンサーまで付けているなんて、よくできてるわね」
 思ったよりも音がしなくてほっとしたが、問題はそれではない。
 「この他にも青酸カリや塩素ガス、それに爆弾らしいものも持っていた。これだけものを持ってきていて、それでもなお危険じゃないというの?」
 「たしかに・・・・」
 さつきはガソリンを飲みこんでしまったような顔になっていた。こよみ学園で大殺戮ができるほどの物資を持ちこんできているのだ。いつ爆発するかも知れない爆弾を安全だとはいえない。
 「でも、持ちこむことと使うのは別だろ。やよいなら抑え切れる・・・・・」
 希望の光を見つけたかのようにさつきはいったがだんだんと声が小さくなり、途中で途切れた。
 さつきも気づいたのだ。
 やよいは強い。
 さつきも喧嘩の経験は多少あるがやよいに及ばないのは認めていた。校医を務めているが同時に邪霊退治のエキスパートなのだ。日本刀を縦横無尽に使いこなすその腕前は業界の中でも屈指といってもいい。そのやよいが拓海のことを恐がっている。
 「あの子は強いのよ。毒薬や爆弾を持っているからじゃない。それを使いこなせるからなの。私も除霊で戦ってきたけれど、あの子はそれ以上に経験を重ねている。正直にいってあの子と正面から戦って勝てる自信がもてないわ」
 それにやよいは知っていた。
 話の途中で、拓海は笑顔を見せていた。しまったと言っているような笑顔、さつきをに悪態をついている時は楽しそうであったが、瞳だけは笑っていなかった。

 時計を刻む音が静かに響いていた。
 「そういえば、あいつ、人を殺しているんだな」
 長い沈黙を破ってさつきが口を開くと、脳裏から情報を引っ張り出してきた。
 「殺されたのが一人、再起不能が一人、後は重傷者が数人」
 それは拓海が転校する際に渡された資料によるものだった。普段、こういった資料というのはさつきはロクすっぽ読まずにゴミ箱に捨ててしまうのだけれど、友人のうづきが母親になるというのだから真剣に読まざる負えなかった。
 「でも、中学からは大人しくなったっていってたよな」
 ちょっとした悪口を言った相手に机に投げては、それからマウントポジションから椅子で殴打して結局、そいつを再起不能にして精神病院に逆戻りしたという経過もあり、小学生のころは色々と摩擦を起こしていたが中学に入ってからは素行も落ち付き、成績は普通、体育の成績もまあまあで平凡な生活を送っている。と資料には書いてあったが、やよいの話を聞いていると信じる気にはなれなかった。
 「表向きはね。一人だけを殺しているにはあまりにも血が濃すぎるのよ」
 やよいの本職は校医兼巫女で幼い頃から霊感が強く、常人では見えないものを彼女には見えた。おかげで校医をやる前は大学病院で医者をしていたのだが、霊が見えてしまうことからやめた。
 しかし、やよいはそれだけを根拠するつもりはない。
 「あの子のことについて色々と調べたのよ」
 うづきが拓海を迎えるにあたって、やよいは調べていた。邪霊退治の職業柄、その手の情報網を持っている。
 「まず、あの子が三回転校している間に、クラスメートが7人、教師が4人焼死している」
 「・・・・それって無茶苦茶怪しいじゃんか」
 拓海に関わった人間が焼死という交通事故よりも確率の低い死に方をしているのだ。そのクラスメートや教師が、あの不良や生徒指導の教諭だったことは容易に推察がつく。どう考えても放火したとしか思えなかったが、拓海は警察に捕まっていない。
 「同時に数十人も死んでいるのよ。一人を殺すのに一区画に放火をしているから」
 「・・・・・・・・・・・・」
 一軒に放火すればそいつの関係者が調べられ、更に怨恨をもっている奴に疑いが向くのだが、いっぺんに何十軒も放火してしまえば怨恨でやったのか、それか無作為にやったのか判別がつかなくなる。木を森の中に隠すようなやり口で、後は証拠を残さぬよう細心の注意を払ってやれば(自然発火を装おうこともできる)
 しかし、さつきが絶句したのは一人を殺すために、関係ない大勢の人間をまきぞえにできる神経だった。
 「もう一つは歌舞伎町や渋谷で起きているやくざ狩り」
 「ああ、あれね」
 最近、歌舞伎町ではやくざがカツ上げされたあげくに惨殺されるという事件が起きていた。そうやって殺されたやくざは17人も及び、また歌舞伎町を牛耳っている上海系のマフィアが何者かによって全滅させられ、また同時刻に対立する北京系のマフィアの事務所が爆破されてこれまた全滅という事も起きていた。
 「まさか、それもあいつが??」
 「主な手口は銃を使ったこともあるけれど、そのほとんどは素手、もしくき鉛筆やフォークといった身の回りにあるものを武器として利用しているのよね。それが拓海くんのやり方に似通っているような気がする。拓海くんも銃弾はやくざからカツアゲして手に入れたっていってた」
 やよいは銃弾で穿たれた天井を見つめた。
 「それに死んだのはやくざだけではなく、それに巻き添えを食って殺された人たちもたくさんいるのよ」
 さつきとしても何も言えなかった。
 「あくまでも推測だけどね。本当は拓海くんは何も関係ないのかも知れない」
 「でも、危険な奴であるとやよいは感じているんだろう」
 信じればきりがないし、疑ってもきりがない。
 やよいの言っていることは情報から判断した推測で事実であるかどうかはわからないが、大規模な殺傷事件が起こせるほどの物資を学校に持ち込んできていたことは事実であり、また、本能が彼のことを危険だと感じているのも事実だった。

 「ただいまー・・・・・・って、いないか」
 元気よく自分の家に帰ってきたうづきであるが、誰もいないことに力無く肩を落とした。
 「あははは、やっぱりだめだよね」
 うづきは笑うけれど、すぐに肩を落とした。
 拓海が一筋縄でいかないことをうづきでも知っていた。でも、拓海のとっつきの悪さは想像以上で仲良くなれるきっかけさえも見つけられずにいた。怒る気はないものの、辛く挫けそうになる。
 テーブルに目線が止まった。
 拓海がいったんは帰ってきたのは、片隅に制服がきちんと折り畳まれていることでわかったが、テーブルの上に手紙が置かれていることに気づいたのだ。
 「家の金を拝借して食料品を買ってきました。大半の物は冷蔵庫に、ご飯はちゃんと炊いてあります」
 たったそれだけの文章であったが、読んだ途端にうづきは手紙を取り落とし、そのまま立ち尽くしていた。
 「ばか・・・」
 つぶやきがもれた。
 「拓海くんと一緒にお買物をしたかったのに」

 保健室では重たい空気が流れていた。
 いつメルトダウンを起こすかわからない原子力発電所の側にいることに気づかされて、さつきもやよいもショックを受けたようだった。少なくても笑ってごまかすには重た過ぎた。
 そんな中、やよいは白い湯のみを手に取った。
 結局、八つ橋は全部食べちゃったのね。
 そのことを思い出しながら、やよいは湯呑み縁を撫でた。その湯呑みは拓海が使ったものだった。その湯呑みには拓海の唇紋は残されていない。指紋同様、唇紋も自分固有のものなので残すことを嫌ったのだ。普通の人間ならそこまで思い付かないし、その必要もない。
 「なあ、あいつはなんでそうなっちまったんだ」
 「そうね」
 さつきは理解できないという顔をしていた。実際、理解できなかった。拓海の神経が。
 「あの子は大阪くんに対して、「人間以下」って言ってたわね」
 「あいつらはひどいけど、そこまで言うことはないんじゃないのかな・・・・」
 「あの子の全ての始まりは、人間以下の両親に虐待を受けていたことに始まるのよ」

 拓海は本当の父親を知らない。
 遊び人であった母親が適当に寝た男との間に作った子で、母親が男を替えるたびに父親を替わったが、その度に虐待を受けていた。満足に食べさせてはくれず、毎日のように殴られ続けていた。日頃の鬱憤を拓海にぶつけることによって晴らしていた。
 「拓海くんにとって両親はまさに人間以下の鬼畜だったのよ。誰ってそうおもうわ」
 「ひでぇなあ・・・・それ」
 そのことについてはさつきも素直に憤慨した。
 「だから、あの子にとって、母親と同類の人間は人間以下として消してもいいのよ」
 「・・・・・・・・なるほど」
 さつきは今度はタバスコを1ガロンも飲まされたような顔になっていた。
 とりあえず、それしか言いようがなかった。
 一呼吸置いて、さつきの脳裏に色々な言葉が浮かんだ。
 「狂ってるなぁ・・・」
 「その通り、あの子は狂っているのよ。同情の余地はあるけれどだからといって殺していい理由になんかならない。その上、普通の人たちや子供までも平気で巻き添えにする。害になる存在は誰であろうと容赦しないし、その上、殺戮の欲求が果てしなく増大するのよ。止められないぐらいに」
 その兆候があった。
 「わたしが驚いたのは、彼がわざわざ事件を引き起こしたということなの。今までならあの子は何もしないでいた。目立つ行動は避けたかったから。なのに、あの子はあのような行動を取った」
 印象付けてしまうことはマイナスである。
 大量殺人を犯してまで殺っても「危険な奴」として周囲に認知されてしまえば、警察に容疑者の一人してマークされることになる。そうなってしまえば逮捕は目前だ。「正体不明」であればこそ生きていられるのであって、特定されてしまえばそれでお終いである。
 しかし、今度のことで拓海は危険な奴として認識されてしまった。仮に放火が起きて、警察が「犯人に心当たりがあるか?」と問われたら危なさそなう奴として 拓海の名前が挙がるだろう。
 「なら問題は起きないんじゃないのか。簡単にばれちゃえば拓海だってやろうという気はしないだろ」
 そこまで用意周到にやる奴だったら控えるはず、とさつきは楽観論を言ったが、やよいは首を横に振った。
 「身を潜める程度の理性まで無くしてしまったといったらどうする?」
 実行するためだったら自制することができたことも、できなくなってしまったとしたら。
 「それは・・・・・」
 さつきには答えられなかった。

 やよいは言った。
 「本当は拓海くんは、精神病院に入院させるべきなのよ」
 「奴もそういってたな」
 さつきは初めて出会った時のことを思い出していた。最初は冗談のつもりで言ったと思っていた。それだけに重たく響く。彼自身は自分が危険な存在であると認識していた。
 「さつきは拓海くんのことをどう思うの?」
 難しい質問だった。
 火薬庫と向きあって恐いという気持ちがある。
 無数の人々が殺されたことによる怒りも感じる。
 でも、何故なんだろう?
 「なんか、あいつのこと、ほーっておけないんだよな」
 さつきは苦笑いを浮かべていた。逃げたい相手、憎むべき存在なのに。何故か、彼のことを心配していた。このまま行けば拓海はきっと破滅するだろう。そのことを思うと胸が苦しくなった。
 ちょっと触れただけで、ばらばらと壊されさるガラス細工を見ているようで。
 見捨てることなんてできなかった。
 やよいも同じように笑った。
 「そうね。わたしも恐いんだけど、あの子のことがとっても心配なのよ」
 その後で、やよいはいった。
 「だから、うづきってほんとわたしなんかよりもすごいと思う」
 やよいでさえも恐い、拓海をうづきは迎え入れたのだ。
 「うづきの場合は単に気づいてないだけだよ」
 さつきがそういうとようやく純粋な笑みがこぼれた。
 「そうかもね。でも、拓海くんの本性を知っていようと知っていまいと変わらないような気がするわね」
 「そうかもしんねーな」
 さつきも笑っていたが、不意に真面目な表情になった。
 それが数秒続いた。
 「決めた!!」
 そして、さつきは大声を上げ、憤然と立ち上がった。
 「なにを決めたのよ」
 「このままだと、あいつは破滅しちまう。だから、オレが更正してやるんだ」
 まるでどこぞのテコンドー使いのようであったが、やよいはジト目で見つめた。
 「つまるところも貴方も拓海くんのママになりたいわけね」
 ぎくっ
 「あははははは」
 かなり情けなかった。

 いつもの公園に拓海はいた。
 焚火の炎が下火になったのを確認すると、足で残りの火を踏み消した。その後には灰と食べたばかりの野良犬の残骸が残るだけだった。小さい頃、ろくなご飯も与えられなかったので、食料は自分で獲るしかなかった。
 見渡せば食料は限りなくある。
 道端に生えている雑草、電線の上に止まっている雀、残飯を漁る烏、のんびりと日向ぼっこしている野良猫。家の軒先で飼われていて、人の接近を鋭い嗅覚で知るなり吼える飼い犬。苦労しながらそれらの全てを食い物にしてきた。
 ファイターとしての拓海の原点はそこにある。
 燃え残った犬の骨格を踏むと、骨格は崩れただの灰になる。そうやって灰だけにすると、用意してあったこよみ町指定のごみ袋に灰や燃え滓をぶちこむと、近くのゴミ捨て場に投げ入れた。明日は燃えるゴミの日だというのはきちんと確認している。
 それから拓海は空を見上げた。
 日はとっくの昔に降り、漆黒の闇が包んでいた。
 月が輝いている。
 あんまり綺麗な感じのしない空であったが、今まで見た空の中ではまともな方の空だった。空気は汚いし、音もうるさいけれど東京のように輝くネオンで星がまったく見えなくなっているというほどではなかった。
 拓海はじっと見詰めていた。

 あの時、空は真っ赤に染まっていた。
 冬なのに熱く、炎が天高く、造反の拳を突き上げるように立ち登っていた。
 木材が爆ぜる音。
 黒くて醜い煙。
 サイレンが悲鳴のように乱打される。
 
 空が真っ赤に染まっている光景。
 これほど美しいものはないと拓海は思った。

 いつか、その空に行ける日が来るのだろうか。

 師走町の繁華街はこのころから活動を始める。
 ネオンサインが一斉に点灯としては、赤や緑の毒々しい色彩を垂れ流し、各店の入り口にはタキシードに蝶ネクタイの呼びこみがいて、酔客たちを誘っている。ちなみにこの界隈の電話ボックスは隙間無くキャバレーの宣伝シールが張りつけられていて、もはやオブジェと化していたりする。
 そんな街の片隅で拓海はぼけーっと突っ立っていた。
 ヘッドギアとプロテクターを装備している。
 その隣には「殴られ屋・一発100円」という看板を立てかけている。
 殴られ屋の仕事は昔からやっていたもので、歌舞伎町や渋谷では、そこそこの額を稼げていた。
 今日のところはあんまり稼げていない。
 最初でもあるし、こんなところだろうなーと思っていた。
 やくざをさんざんシメまくっていた拓海ではあるが、流石にいきなりはしない。
 「あ、遠野くん!!」
 初日は雰囲気を感じるだけで充分だったので、ここで撤収しようとした矢先、見覚えのある少女がいきなり拓海目掛けて大声を上げた。
 「へー、真面目なようで売春やってたのか、委員長は」
 「違うっ!!」
 ふみつきはおもいっきり否定したが、拓海の見方の方が自然だ。
 「こよみ学園の生徒が悪いことしないよう見まわっていたのよ!!」
 「言い訳にしては下手だな」
 「だから、違うのっ!!」
 「制服姿で否定しても全然説得力はないよん」
 会話がかみ合っているのかかみ合っているのか分からない。少なくても拓海に会話を成立させる気はなさそうだった。
 「いい、こよみ学園ではバイトは届け出制なのよ」
 「届けるったって、何処に届けたらいいんだよ」
 それを言われると何もいえなくなる。
 「ちょうどよかった、1発100円で殴らせてやるよ。人間相手だとすかっとするぜ」
 「何を言ってるのよ」
 信じられない、という顔をしていた。
 「正気なの??」
 「オレに言わせればふみつきのほうが変だと思うんだけどな」
 「殴られることによってお金をもうけるなんて、どこかおかしいよ」
 それを聞いて、拓海は頭をかいた。言いたいことはあるけれど、ふみつきには全然通用しないような気がした。イスラム教徒と飲酒について議論しているようなものだ。根本的な価値観がおかしいといっていっているのだから説得できるはずがない。変えるには強引に価値観を変えるしかない。そんな無駄な努力をするつもりはなかった。
 ふみつきの論理で言うと、
 生き延びるために糞や飼い犬、人肉さえも食べるのはおかしい、ということになるのだろうか。
 「幸せな生き方をしてるんだな、委員長は」
 「なによ、その言い方」
 皮肉を言っているような口調にふみつきは反発する。
 「別に。誉めてるだけさ」
 「あ、転校生と委員長じゃん」
 そこへ大阪たちが現れた。3人の他に仲間を4人ほど引き連れている。
 「なによ、あんたたち!!」
 「そう怒るな怒るな」
 あの時があの時だっただけにふみつきが反発するが、彼らはそれを無視する。
 「1発100円って、転校生のことをぶん殴ってもいいのか?」
 看板を読んで、そのうちの一人が反応を示した。
 「そうそう。お金を払ってくれんなら、ぶん殴ってくれてもいいぜ」
 「じゃあ、乗ってやるよ」
 「毎度ありー」
 「というわけで、オレたちと付き合ってくんねーか」
 「いいぜ♪」
 「ちょっとちょっと!!」
 とんとん拍子に成立していく商談にふみつきがストップをかけた。
 「なにって、クラスメートの商売にオレたちが乗ってやろうということだろ。友達思いでいいじゃないか」
 大阪がそういい、それに合わせて仲間たちが笑った。どう考えても説得力はなかった。なにせ、ナイフで脅されたのだ。見せかけの友情の裏に暴力的な欲求が透けている。友好的に接しているようで、拓海のことをばかにしているのが見得見得だった。
 「・・・っ」
 ふみつきが文句を言おうとしたが、拓海が手で静止した。
 「人の商売を邪魔すんな」
 「あのね・・・」
 言いかけたんだけど、言葉が出ない。
 「それじゃ、いこうぜ拓海ちゃん」
 「じゃあいきましょか」
 そうやって、拓海は7人と連れ立ってふみつきの前から姿を消した。
 否、連行されていった。

 「あちょーっ!!」
 奇声を上げながら、仲間の一人が飛び蹴りをかました。飛び蹴りは拓海の首にぶち当たり、その勢いで拓海は後方に吹き飛んだ。吹き飛んで着地した瞬間、後ろからもう一人の回し蹴りが炸裂して拓海は地面に倒れこむ。すると七人で一斉に拓海のことを蹴りまくった。全員の顔には嗜虐的な笑みが浮かんでいた。
 「おら、立てよ、拓海ちゃん」
 充分に蹴ったあとで、リーダー格である大阪は拓海の髪をつかんで持ち上げた。すでに拓海はぐったりとしているようで、表情はなくその目は死んでいた。なまじ可愛いだけに、そんな拓海を見ると大阪は背筋がぞくっとした。
 右頬に1発入れると、拓海の顔が激しくぶれた。
 死んだ魚のように言葉はない。
 「おい、誰がいく?」
 大阪がいうと、仲間その2が手を上げた。
 「オレ、いっきまーす」
 そういうと、大阪は拓海を蹴り飛ばした。拓海はたたらを踏んでそのまま地面に座りこむ。大阪を含めた6人が取り囲む中、仲間その2が空手のポーズを取った。
 「ラウンド・ワン、ファイッ」
 どうやら格闘ゲームのつもりらしい。
 「オレ、1度でいいから空手の技を実戦で使ってみたかったんだよなー」
 そういいながら、仲間その2は正拳を繰り出した。かわすことはできない。商売している以上、かわすことができないのだ。とろくさい正拳突き、かぎ突き、回し蹴りを次々と浴びていく。
 「くらえぇっ!! 竜○乱舞♪」
 「ストライカー参上!!」
 そういいながら、もう一人が乱入してきた。拓海の延髄に組んだ両拳を叩き付ける。それ食らって拓海は膝から崩れ落ちた。仲間その2が、そいつに向かって文句をたれる。
 「邪魔すんなよ、シゲ」
 「そういうなよ。オレにも楽しませろって」
 笑いながら仲間その2にいうと、シゲは後ろに差していた伸縮式の警棒を抜くと、それを伸ばした。
 「オレ、剣道習っててさ、実戦と試合の違いを常に感じたかったんだ」
 そうのたまうと、拓海の前頭葉に警棒を叩き付けた。
 何度も、何度も、何度も!!

 彼らは楽しんでいた。
 傷つくことなく、合法的に、無防備な相手をいたぶれることに。
 日頃感じている鬱憤が拓海を殴ることによって解消され、
 蹴り続けることによって、嗜虐欲が留まることなく、
 制御できないぐらいにまで膨れ上がっていた。

 でも、彼らは知らない。

 頭が揺さぶられ、意識が消えそうになる。
 鳩尾に拳が突き刺さり、形容しがたい痛みが爆発する。
 声が聞こえていた。
 「ふーん、拓海のあそこはどうなってるのかなー」
 母の男の指先が肛門に入ったのを粘膜越しに感じて小さかったころの拓海は悲鳴を上げた。しかし、帰ってきたのは頬への殴打だった。
 「親の言うことは素直に聞かんか」
 「だって、だってぇ・・・・」
 抗議の声が、痛みによって消える。その瞬間、股間をおもいっきり蹴られたのだ。
 「ほんと、拓海はかわいいよなあ」
 見せ掛けだけの甘い声。
 「とっても可愛いのに、このちんちんだけは余計だよなあ。いっそのこととっちゃおうか。そうすれば拓海は女の子だからな。声もかわらないし・・・・」
 「・・や、やめてよぉ・・・・」
 痛みを味わいながらも拓海はか細い声で抗議するが、もう1発股間に蹴りを入れられ、男がその本性を露にする。
 「口答えするなっ!!」
 「あっははは、やっちゃいなよ、龍二」
 母親の笑い声が響いていた。
 「女やホモにとっちゃあこいつはたまらないだろうねえ。このバカはこういうことでしか役に立たないんだから、しっかりと調教しちゃいな!!」
 「オッケー♪」
 次の瞬間、肛門の中に細長い汚くて汚らわしい異物がずふすぶと入りこんだ。
 それが与える気持ち悪さと痛みの中で、拓海は母親の笑い声を聞いていた。

 エンドレスに続く、悪夢の一つ。

 「あっ、五箇条先生、四天王先生!!」
 不良たちに連れ去られてしまった拓海を捜そうとはするもの、何処へいっているか分からずにふみつきは途方に暮れていたが、先生二人を発見すると暗闇の中に灯台を発見したかのように駆け寄った。
 「いったい何があったんだ?」
 ふみつきの様子にさつきは不安を感じた。
 一方、ふみつきは二人の元によると、胸の中で暴れている心臓を抑えつつ、軽くを息を吸って落ち付かせてからいった。
 「遠野くんが、その殴られ屋のバイトをしていたらあの不良たちが遠野くんを連行しちゃって・・・・」
 「ほんとうなの、それ!?」
 一気にうづきが不安になるが、それ以上の衝撃をさつきは受けていた。
 あいつら・・・・・
 彼らは知らないのだ。拓海のことを。
 死ぬぞ・・・
 「え、なんか言いました!?」
 うっかり口に出してしまったようで、ふみつきに見つめられていた。
 「いや、なんでもない。後は先生たちに任せろ」
 慌てて打ち消しながらも、さつきはそういった。これから起こる情景をふみつきには見せたくなかった。ふみつきが絡むと隠密裏に処理できなくなるということもあるが、それ以上に、ふみつきに与える衝撃の大きさを考えたら見せたくなかったのだ。
 「どうしてですか??」
 「どうしてもだ」
 その理由がわからずにふみつきは反発するが、その理由もいえずに芸もない言葉で反発するしかなかった。

 人目につかない裏路地で拓海はリンチを受けていた。
 蹴り、拳、金属バット、ありとあらゆるもので殴打を受けている。
 その顔に表情はなく、無抵抗で殴られ続けていた。その様はまるで人形のようだった。
 しかし、まだ息がある。
 「てめぇは生意気なんだよっ!!」
 そういって大阪は拓海の胃袋目掛けて拳を叩き付けた。拓海の左右には同じクラスである山田と竹中がいて、それぞれ両腕を掴んで拓海を動けないようにしている。
 「よくもオレ様にあんな真似をしてくれたな!!」
 昼間の授業で拓海は大阪の喉元にコンバットナイフを突きつけていた。1mmでも押せばナイフは確実に首元を突き通す。それがとっても恐かった。それだけに殴れる立場になって怒りと喜びを感じていた。近隣ではフダ付きの悪で名高い自分にとてつもない屈辱を与えたのだ。それ以上の屈辱を拓海に与えることができるのだと思っていた。
 ただ、一つだけ気に入らないところがあった。
 「なんとかいえよ!!」
 今度は股間に激しく蹴りを入れた。殴った当初から拓海は人形に徹していて激しく殴ったり蹴ったりしても、何の反応を示さないところが大阪にはむかついた。
 「痛いんだろ、恐いんだろ!! だったら泣け、わめけ!! オレ様に助けを請い求めろ・・・」
 「163万5800円」
 そこで初めて拓海が口を開いた。
 「はあ」
 大阪はなにを言っているんだ、という目で拓海を見た。
 「16358回も殴られたんだ。だから163万5800円くれ」
 場の空気が止まり、ぽかーんとした空気が流れたが、次の瞬間、どっと笑いが起きた。
 「なにばかいってんだよ」
 「そんなこと素直に信じていたんかよ」
 「平和だねぇ〜 おみゃーは」
 おかしくて溜まらないというほどに彼らはバカ笑いしていた。
 中には涙を流す者いる始末だった。
 ともかく、彼らははなっから約束を守るつもりはなかった。
 だから、拓海の頬が僅かに膨らんでいることに気がつかなかった。
 「そんなことだろうと思った」
 拓海も笑った。優しく笑った。
 「安心した」
 その次の瞬間、大阪の顔面に何かが吹きかけられた。
 ネバネバしていて、とても臭いもので目が見えなくなった。
 なんだこれは、と思ったのが、大阪にとっての最後の思考となった。
 
 拓海のハイキックがゲロのかかった大阪の頭に激しく叩きつけられ、その衝撃で大阪の身体は吹き飛んだ。
 路地の壁に叩きつけられたまま、大阪はぴくりとも動かなかった。
 場の空気が一気に凍りつく。
 「・・・・えらそうなことをいってるわりには弱いなあ、こいつ」
 気がつくと、拓海は束縛から逃れており、大阪につかつかと歩み寄ると股間に1発蹴りを入れてぐりぐりすると、肋骨に足を置いた。踏む動作は軽かったが、霜を踏むような音がした。
 その様子を仲間たちは呆然と見ていた。
 「でも、こいつだけじゃなくて、キミたちも弱いね」
 爽やかな拓海の笑顔とは裏腹に、6人には冷たい風が吹きぬけていた。
 「て、てめぇ・・・・」
 「いたかったよ」
 不良のいいたいことを先取りするかのように、拓海はにっこりと微笑んだ。
 その笑顔とは裏腹に、拓海の全身は腫れ、内出血で蒼く染まっている。
 拓海がカウントしたように16358回以上はぶっ叩いていた。もちろん力は抜いていないし、それどころか金属バットで頭や股間を強打しているのだから下手したら死んでいるはずなのに最初と変わらなかった。痛そうなのは見た目だけで、実は何のダメージも与えていなかったような気がする。少なくてもあれだけ殴られていたはずなのに骨さえも折れていない。
 「でも、これは商売としてやっているんだ」
 小さい頃から殴られつづけたせい、というべきなのかそのせいで拓海は殴られるテクニックに熟達していた。無抵抗で殴られているように見えて、打点を外したり、筋肉を瞬時に収縮させることによって防御力を高めたり、打撃に合わせて自ら飛ぶことに衝撃を拡散させるなど、目には見にくいテクニックを駆使してダメージを最小限に抑えていたのだ。
 「普通だったら16358回も殴られれば死ぬよね」
 その台詞に、6人の背筋に悪寒が走った。
 爽やかな、男とは思えない可愛らしい笑顔とは裏腹に、空気は凍てついていた。手を切りそうなほどに。
 「7人で一人をフクロ叩き。しかも、金属バット使用。ここでキミたち全員ぶっ殺しても正当防衛になるよね」
 ここで一気に空気は凍り付く。
 6人は悟った。
 自分たちが誘ったんじゃなくて、拓海に誘われたのだということを。
 ここは裏路地の奥地にあって、人通りがあるところまでかなりの距離があった。
 「て、てめぇ、ひ、卑怯だぞ!!」
 今更いっても100万以上の大金なんて払えるわきゃなかった。
 「卑怯じゃないよ。いっただろ商売だって。適当なところでやめとけばよかったんだよ。オレだって話がわからないわけじゃないんだから。というわけでキミキミ」
 「へっ」
 呼びかけられて、仲間その2は反応してしまう。
 その刹那、拓海の正拳が仲間その2の顔面に埋まった。
 「キミは盛んに自分の拳を自慢していたんだけど、ぜんぜんなってないんだよねー。スピードが遅いし、踏みこみ足りない。正直いってキミの拳を無抵抗で受けなくちゃいけないんなんて、ばかばかしくてたまんなかったよ。あと、回し蹴りも」拓海は拳を引きぬくと、脚を振り上げた。「随分スローモーで欠伸が出たよ」
 本当に退屈そうに欠伸をしながら、脚を仲間その2の右肩めがけて振り下ろした。かかとが右肩を完全に粉砕し、仲間その2の身体を地面に打ち込むかのように叩きつけた。
 「あーそうそう、どうせだったら1発でケリをつけたいよね・・・・・って、甘いなあ」
 「・・・いっでぇっ!!」
 その言葉通り、仲間その2は正拳を顔面に撃ちこまれた時点で既にKOされていた。その背後からシゲが警棒を振り下ろしてきたが、振り下ろされる前に後ろ蹴りがシゲの手首に炸裂した。握られていた警棒がふっとび、手首も違う方向に曲がってシゲは悲鳴を上げた。その痛さに耐え切れず、シゲは座り込んだ。
 逃げようとしたが、すぐに壁にぶちあたる。
 「・・た、たすけてくれよぉ・・・・・」
 シゲは恐怖した。
 目前に迫ってくる拓海が、ジェイソンよりも恐ろしかった。
 「だーめ」
 拓海は微笑んだ。
 その後で重たい蹴りがシゲに炸裂した。
 一撃目でガードが弾け、2撃目が右腕、3撃目が左腕を折り、後は満遍なく蹴られていった。とはいうものの、見た目とは裏腹に拓海の蹴りが冷蔵庫を叩きつけているかのように重たい上に、シゲがあまりに脆弱だったため蹴りの乱打はあっけなく終わった。
 「なーんだ、よわいじゃん。こういう連中に限って、えばりくさるんだよねー」
 物足りなさそうにいっていたが、人のいる方向へ向き直った。
 残りは4人。
 「人間以下はちゃーんと始末しないとね。コキブリや蚊と同じでほーっとおくと害を与えるんだから」
 「・・・うわぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
 そのうちの一人がぱにくって、逃げ出そうとしたが拓海はすかさず近くに落ちていた小石を、そいつに向かって投げた。160kmオーバーで投げられた小石はそいつの頭蓋に当たって動きを止め、続けざまに投げられた小石は的確に延髄や両腕や両足の骨に命中して、そいつの身体も崩れ落ちるよう倒れた。その直後、横殴りに来た拳を涼しい顔でかわした。
 かわすと同時にその腕を掴み、その手を引く。
 脇の下に手を入れて、天秤を担ぐように、そいつの身体を投げた。
 その際に掴まれた腕の肘が、拓海の肩を支点して極められて、瞬時に折れた。
 そいつの身体は逆さまになり、頭を下にしながら落ちていく。
 その先には竹中がいた。
 「う、うわぁぁぁぁぁっ!!」
 気がついた直後にそいつの身体が竹中目がけて落下した。竹中はそいつの下敷きになりそのまま気絶した。
 代わりに助かったのはそいつの方だった。頭からアスファルトに落ちていれば命はなかっただろう。
 だけど、そいつの幸運もそこまでだった。
 ワンテンポ遅れて、拓海の狙い済ましたローキックがそいつの太腿に炸裂した。
 大木がへし折れたような音がした。
 「×▽■■○◎○△!!!!!」
 なんとも形容しがたい悲鳴が裏路地に木霊した。
 「・・・・・ひゃー・・・・・」
 一蹴りで大腿骨を2本まとめて折られてのたうち回る友人を見て、山田は腰が抜けた。股間を蹴られるよりも痛すぎる激痛に苦しむ友人も見ていられなかったけれど、それ以上に一蹴りで大腿骨をぶち折った拓海のほうが恐かった。人の体重をささえるだけに大腿骨は非常に頑丈に作られている。ちょっとやそっとで折れるものじゃないそれを簡単にへし折ったのだ。
 しかも大腿骨を折られれば復帰に一年はかかる。
 意思は逃げたいと叫んでいるので、身体がいうことを聞いてくれない。
 身体が凍結したように動けなかった。
 拓海が気絶した竹中の身体を踏んでとどめを差している時が逃げ出すチャンスだったかも知れないが、動くことも竹中を助けることもできなかった。
 拓海は竹中の始末を終えるとすみっこでがたがた震えている山田に向き直った。
 「・・・・お、おい、たすけてくれよぉ・・・・・」
 凍りついている声帯から辛うじて声を振り絞って、山田は哀願した。
 「そんなの不公平だよ」
 あくまでも拓海は爽やかだったが、それが今では恐かった。
 両目から涙が出ている。
 股間から小便を垂れ流している。
 「まあ、しょうがないから逝き方だけは選ばせてやるとするから」
 「生きさせてください」
 「それはダメだよ。キミは人間以下なんだから」
 笑いながらいっているくせに、あらゆる反論を封じる力があった。
 人間以下。
 そのキーワードに本質が凝縮させている。
 「弱い癖に、一人を複数で囲んでいたぶる。しかも、身の安全を確保してからでないと拳を振り上げることもできない奴らを人間以下といわずして、何を人間以下っていうんだい。人間以下はAIDSウィルスみたいに害を与えるだけだから見つけ次第、早急に始末しなくちゃならないんだよ」
 笑いの質が変わった。
 今までのは冷笑だったが、それが狂ったような笑みへと変わった。
 山田は悟った。
 こいつはくるっている。
 こいつは狂人だ。
 オ、オレはこいつに殺されるっ!!
 「・・・・おい、拓海」
 「拓海くん」
 ようやく、さつきとうづきが現れたが、周りを見るなり絶句した。
 顔面にゲロを張り付かせて沈没しているもの。
 鼻や歯が破壊されているもの。
 相変わらず大腿骨を折られ男がその痛みにうめいている。
 ごみだらけの風景とあいまって、そこはまさに地獄だった。
 「だいじょうぶだよ。とりあえず死んではいないから、まあ生き地獄っていうやつを味わってもらっているけどね」
 「拓海ぃっ!!」
 悪いと思ってなんかいない拓海の言いぐさに、さつきは腹を立てた。
 「おまえなあっ!! 程度っていうもんがあるんだろうが!!」
 フクロにされた状態で反撃するなとはいわないが、程度というものがある。拓海のやっていることは明らかにその程度を無視していた。
 「程度?? 人間以下はどう扱ってもいいんだよ。人権なんざおごましいもんだ」
 「じゃあそういう貴様はなんなんだ」さつきは本気でぶち切れ掛けていた。「オレにとっちゃあ自分よりも弱い奴をいたぶるてめぇのほうが毛虫以下だぜ」
 「さつきちゃん、それはいいすぎ・・・・」
 うづきが抗議をしようとしたが、途中で止まった。
 「おい、やめろ!! 山田」
 さつきが拓海と論戦を始めた隙をついて、山田がポケットに入れたあったナイフを抜くとうづきの喉元に突き付けた。山田の目は狂っていた。短時間のうちに身の毛のよだつような出来事が起きて精神が飽和状態になった結果、こいつも狂ったのだ。
 「おい、転校生っ!!!」
 敵意を剥き出しにして、山田は吼えた。
 「こいつの命が惜しければ、じっとしていろ。てめぇのことを始末してやる」
 「そいつのこと、好きにしたければ好きにしていいよ」
 普段と変わらない言いぐさに、拓海を除いた3人は虚を突かれた。
 「いっとくけどうづきなんざどーでもいいんだよ。勝手にオレのことを引きとって母親面するうづきなんざ、端っから嫌いだったし」
 あまりの台詞に三人は言葉を無くしていた。
 「そんな拓海くん・・・・」
 うつぎの瞳から涙が零れ落ちる。
 また、ガキみたいにビービー泣くんだろうな、と思うと拓海はうっとおしくなった。しかし、その事が拓海を安定の方向に向かわせていた。このままで行けば重傷者が出てはいるものの、最悪の事態にならずに済んだだろう。
 けれど、それで済ますにはさつきの心が熱くなっていた。
 「拓海っ、てめぇぇぇぇっ!!」
 さつきの怒りがとうとう爆発した。
 「うづきのことがてめぇのことをどんだけ思っているのか分かっているのかよぉっ!!」
 許せなかった。
 必要以上に残虐な行為をする拓海が、
 うづきに暴言を吐いた拓海が
 「さつきちゃんやめてぇっ!!」
 反射的にうづきがとめようとしていたが、その時にはさつきは拓海目掛けて突進していた。
 その瞬間、拓海の心臓が一回激しくなった。
 頭が濡れてもいないのに濡れたように感じる。
 首が見えない手のように圧迫された。
 声が聞こえた。
 死んじまえっ!!
 「・・・・かあさん、やめてよ・・・・・」
 死んじまえっ、死んじまえっ!!
 「・・・・たすけてよ・・・・・」
 死んじまえっ、おまえなんか死んじまえっ
 「・・・・たすけてよ、かあさんっ!!!」
 「きてぃGUYだろうがまともだろうが関係ねえ!! 悪いことをしたら叱ってやんなくちゃいけないんだろうがぁっ!!」

 拓海の見ている夢と、さつきが叫ぶ現実が一つに重なり合った。

 その次の瞬間、さつきの顔面に拓海の右足がヒットした。その威力は至近距離で発電機が爆発したようなものだった。さつきは頭を激しくゆすぶられながらふっとばされ、そのまま地面に叩きつけられた。
 「さつきちゃん!!」
 うづきの悲鳴がこだました。
 さつきがふっ飛ばされたのに合わせて、拓海もまた跳躍していた。すかさずさつきの身体に跨るとしっかりとホールドをした。
 奇跡的にもかろうじてさつきには意思があったが、そこで見たのは、自分の身体に跨って拳を振り上げようとする拓海の姿だった。
 拓海は笑っていた。
 そして、その目から何かが零れ落ちた。
 それが何かわかる前にさつきの意識は消えた。
 さつきの顔面に拳が振り下ろされた。
 「・・・かあさん、たすけてよ・・・・・」
 言葉と共に、さつきの顔面に拳が振り下ろされた。鈍い音が響いた。
 「・・・かあさん、たすけてよ・・・・・・」
 声と共にさつきの顔面にまた、二度三度拳が振り下ろされる。
 「・・・・かあさん、たすけてよ・・・・・」
 がしっ、がしっ
 拓海は笑っていた。
 「・・・・かあさん、オレ、いきたいんだよ・・・・・・・・」
 拓海は笑いながら、泣いていた。
 がしっ、がしっ
 「だから、オレのことを助けてっていってるんだよ、かあさんっ!!!!!」
 拓海は笑いながら、
 泣きながら、
 救いをもとめながら、
 とうに意識を失ったさつきの頭を殴りつづけていた。

 うづきの耳元で何かが落ちる音がした。
 「・・・・・・うわぁぁぁぁぁんっ!!」
 うづきの喉元にナイフを突きつけていた山田が目の前で行われている惨劇に耐えられなくなって、ナイフを取り落とすなりしゃがみこんでは泣き出した。
 拓海はマウントポジションの態勢で抑えこみながら、さつきの頭を殴りつづけている。
 救いの叫びと、さつきの頭をアスファルトに叩き付けようにして殴る音が響いていた。
 それはとっても狂っていて、おかしくて、
 身も凍るぐらいに恐くて、
 でも、とっても悲しい光景だった。
 拓海くん・・
 うづきは右手をそっと握り締めた。
 「拓海くんっ!!」
 うづきは二人の元に走り出すと、拓海の背中に抱きついた。
 「おねがいだからさつきちゃんを殴るのはやめて!! これ以上やったらさつきちゃんが死んじゃうよ!!」
 がしっ、がしっ、
 それでも拓海は殴りつづける。
 うづきの目から涙が溢れ出た。
 「なんで、うづきじゃなくて、さつきちゃんなのっ!!!!」
 がしっ、がしっ、
 「殴るんだったらうづきを殴って!! 悲しいことがあったらうづきにぶつけて!! それでもうづきは拓海くんのことを受けとめてあげるからっ!!」
 がしっ
 石炭の切れた機関車のように、拓海の動きが止まった。
 うづきは手を回すと優しく拓海を抱きしめた。
 「拓海くんはうづきが助けてあげるよ。だから泣かないで」

 動かないさつきをマウントポジションで抑えたまま。
 そんな拓海の背中にだきついたまま、
 二人はそこにいた。


 ・・・・・・・・・・・
 
 
 長すぎる夜が明け、今日もまた朝がやってくる。
 繰り返される日常。
 でも、その日常は昨日と違っているように思えた。

 朝日の眩しさをまぶたごしに受けて、やよいの意識が覚める。
 机に突っ伏していたので、伸びをすると背筋が痛かった。
 わたし、いつの間に眠っていたのね。
 たったそれだけのことに罪の意識を覚える。
 病室の窓には分厚いカーテンが敷かれていていたが、その隙間からは朝日が差していた。
 静かな部屋に機器の作動音が静かに響いている。
 病室のベットにはさつきが眠っていた。頭を包帯で巻かれてはいるが安らかな顔で眠っている。けれど、さつきの頭には電極が接続され、それは脳波計につながっていた。
 「おはよう、三世院」
 ノックの音がして、くたびれた白衣に不精髭を生やしただらしない感じの30男が入ってきた。片手に持っているトレイには二人分のコーヒーが置かれていて芳香を放っていた。どちらかといえば緑茶というでコーヒーは好かないやよいではあったが、その匂いを嗅ぐと改めて生きているんだと思った。
 「おはようございます、先輩」
 挨拶されるとやよいは丁寧に一礼をした。彼はこの近くの街で開業医をしている医者でやよいの大学の先輩にあたる。いっけんだらしないように見えるが、腕は確かだった。性格は一風変わっているといえなくもない。大学病院にいることも可能だったが、あえて貧乏な診療所に入って治療を行っている。それだけならまだしも、表沙汰に出来ないことで怪我をした人間を治療して秘密裏に処理をする、いわばダークサイドに入りこんでいる医者だった。もっとも、今はそれが幸いだった。
 「とりあえずは落ち付いているようだな」
 「ええ」
 医者はもう一脚あるパイプ椅子を引き出して、そこに座ると脳波計を見つめた。脳波の波はゆっくりと揺れている。生きていることは確かだったがどうなるかはわからなかった。開頭手術までやってやるべきことはちゃんとやった。後は運に任せるしかなかった。
 奨められたコーヒーを飲み、苦さに寝ぼけている意識を覚醒さながら、あの後のことを思い返してみた。
 
 拓海がようやく止まったあとで、一連の出来事が終わった。
 時後処理に当たったのはやよいで、拓海はうづきに連れて帰らせ、怪我人は車でこの病院に運ばせた。
 その後は意識の覚めないさつきをずっと枕もとで看病していた。
 「あの、大下くんの容態は?」
 大抵の連中は骨折だけで済んだが、深刻なのは肘と両足の大腿骨を折られた大下だった。折られた骨の状態によっては両足を切断しなければならない。それだけに胃が痛くなるが医者の返事はやよいを安心させるものだった。
 「大丈夫だ。折った、というよりは斬られた、という感じに折れているから簡単にくっつく。折る前よりも頑丈になりそうだな」
 最悪の結末を予想していただけに、やよいはほっとした。
 つまり、あの時、拓海は彼らを殺すつもりはなかったということだ。
 でも、さつきは違った。
 拓海の強烈なハイキックを食らったところで、マウントポジションからのパンチを頭部に集中的に受けたことによって、頭蓋骨骨折の脳挫傷、意識不明の重体に陥っていた。ボクサーもプロスレラーも頭部への打撃で脳を損傷することによってマットで死んでいる。
 拓海はさつきを殺すつもりでぶん殴った。
 いや、そういった意識はまったくなかっただろう。
 拓海を叱るために突っ込んでいったさつきと、さんざんに虐待を加え、その果てに殺そうとした母親が重なり合ったのだ。
 殺そうとする母、そして殺した母に。
 さつき、あなたは違う意味で拓海くんの母親になってしまったのね。
 昨日の午後、さつきは「拓海を更正させる」といっていた。今となっては悲しい皮肉だった。
 「それにしても気になるのは、怪我人を量産した拓海っていう子だな。10000回以上も殴られたんだろ。本当に大丈夫なのか」
 「それは大丈夫みたいですね」
 蹴る、殴るを10000発も受けたのだ。それには金属バットによる殴打も入っていて、普通なら死んでいるかどっかがおかしくなっている。しかし、拓海が反撃に出たのは10000回も殴られたあとだった。
 「一見元気そうでも、見えないところが悪くなって寝ているうちにころっ、といきそうな気がするけど、その様子だと心配はなさそうか」
 と呟いたところで話題を変えた。
 「それにしてもあいつはただもんじゃねえ」
 大腿骨は頑丈で折るのは難しい。力任せに蹴ったのではまず折れない。力とスピード、タイミングのその3つが綺麗に合わさった時に始めて折れる。よほどの技術をもっていない限りできない。拓海はそれを2本まとめて拓海は折ったのだ。その時の情景を想像するだけで鳥肌が立ってくる。
 まず、拓海のローを食らうのはとっても危険だ。
 「ひょっとして、あいつが陳玄黄を殺ったのか?」
 「・・・わからない・・・・・・」
 ごまかそうとしたが、顔が強張った。
 陳玄黄とは、この前、何者かにボディーガードごと暗殺されたチャイニーズ・マフィアのボスである。
 「陳も信じられない力で、でも明らかに格闘で殺られたと聞く。ただものじゃないんだよな。陳をやった奴も、この拓海って子も。そして、ただものじゃない奴っていうのはそう多くはないんだ」
 数が多ければ只者じゃない、とは言わない。
 手口が下手なのも論外ではあるが、手口が巧妙なのも問題である。本物のよりも精巧でプラド美術館に飾られてもおかしくないほどの偽札を作れる職人が数多くいるわけがない。よって、そのことだけで特定されてしまう。
 「ついでにいうと、やくざやマフィアも芸術的に殺されたっていうからな」
 喧嘩で怪我したのを階段から落ちたと偽り、どう考えても毒殺なのに病死の診断書を出す医者なので、黒社会の動静についてはある程度知っている。
 「まあ、証拠があるわけでもなし、告発するつもりはないんだが、・・・・三世院は今回のことを秘密に済まそうっていうわけかい?」
 それを聞かれるとやよいは唇をかんだ。
 やよいは喧嘩の犠牲者全てに「怪我は喧嘩ではなく事故で起きたんだ」といい含めていた。やよいはこの事を表沙汰にしたくなかった。
 これはいけないことだ。
 良心が痛む。
 「この事を表沙汰にすれば拓海くんは警察に捕まるでしょうね。それだけじゃ何も解決しない。どれだけたくさんの人達を殺していても、彼が行くところは医療少年院だから」
 拓海は狂っている。
 殺す時のあざやかさや証拠を消す巧みさは計算され尽くされているように見えるが、あくまでも正気ではない精神の元で殺人を犯している。「未成年だからせいぜい少年院行きで実名もでないだろう」と思って凶行を犯す輩とは精神の土壌が違っているのだ。
 「50人以上の人間を殺しておいて判決は医療少年院行き、で、3年後には出所か。割りにあわんわな」
 狂っているからとはいえ、犯した量の罪に対してほんのちっぽけな罰しか与えられないのであれば、誰もが納得しない。しかも、出所したところで拓海が治るという保証はぜんぜんない。出たところで、拓海は凶行を繰り返すだけだろう。
 「本来のところは、拓海くんは精神病院に閉じ込めるのが一番なのよ。でも、それだと何も変わらない。拓海くんはずっと壊れたままなの」
 それでは拓海を救おうとして、今は意識不明で眠っているさつきが報われない。
 医者はため息をついた。
 「じゃあ、精神病院送りにするより、三世院が面倒を見たほうが改心するというのか」
 「はい」
 やよいは即答した。
 ここには拓海のことを肉親のように愛してくれる人がいる。
 それだけで充分だった。少なくても、何処か知らない牢獄に閉じこめることに比べればいいと確信することができた。
 「わかった」
 医者はポケットからタバコを取り出すとライターに火をつけた。吸わない者にとっては不快でしかない匂いを伴った煙が空間に漂い出す。医者はそれに軽く一口つけてからいった。
 「三世院がそのつもりなら。オレも協力してやるよ」
 「ありがとうございます」
 「でも、この先生が死んだとしたら、とってもおかしいことになるよな」
 もし、このままさつきが死んだら医者は病死の死亡診断書を書くことになる。幸いといってもいいのだろうか、さつきにはとやかく言い立てる係累はいなかった。大切に思っていた人に殺されて、しかもそれが病死として処理されてしまう。これほど皮肉なことはなかった。
 だが、その時、さつきの腕が僅かながらに動いた。
 「さつき!」

 チャイムの音をふみつきは静かに聞いていた。
 朝のHRはあいもかわらず騒がしい。あちこちでグループ同士で会話が起きていた。それはいつもと変わらない風景であったが、ふみつきには何かが違っているように見えた。
 大阪と竹中の席、それに拓海の席が空っぽのままだった。
 あの後、いったいなにがあったのだろう。
 大阪たちに拓海が連行されていった後では彼らの間に何かがあったとしか思えなかった。
 三人うち、山田だけが暇そうに座っていたがふみつきと視線が合うと不機嫌そうにそっぽを向いた。山田はふみつきの問いに対して黙秘を貫いた。
 前のドアが開き、担任のむつきが入ってくる。
 「規律」
 ふみつきが委員長として号令をかける。
 「着席」
 いつもの儀式をいったあと、むつきが口を開いた。
 「おはようごさいます。えと、最初にお知らせがあります。大阪くんと竹中くんが事故で大怪我折ったようで入院しています。お見舞いに行きたい人は先生に尋ねてください。それと今日は三世院先生と五箇条先生と、遠野くんがお休みです」


 これだけ気持ちよく眠れたのって、始めてなような気がした。

 拓海は起き上がると大きく伸びをして深呼吸もした。それがとっても気持ちいい。
 涙が出るぐらいに気持ちよかった。
 気がつくとうづきの部屋のベットに眠った。カーテン越しに漏れる光は朝のものではなかった。
 規則正しい寝息が静かな部屋に響いている。
 長くて艶やかな髪をツインテールに結った幼い感じのする少女がネグリジェ姿で眠っている。天使のように無邪気な顔で眠っていた。
 その寝顔を見るととっても安心した。
 いつもは寝るたびに母親に殺される夢を見るので可能な限り眠らないようにしていた。敵と戦うよりも眠気と戦うほうがきつかった。けれど、今回に限っては気持ちよくぐっすりと眠ることができた。
 殺されることによって意識が落ちるのではなく。
 不意に指先が痛んで拓海は顔をしかめた。いくら最小限に抑えたとはいえ10000発以上の打撃を0に出来たわけじゃない。脳内麻薬の過剰放出もひとまず落ち付くとあの時は感じなかった痛みがやってくる。苦しいというほどではないけれど、うっとしい。それ以上に身体が重たかった。
 特にひどい痛みを感じているのは両手だった。
 包帯を巻いているので手自体は見れなかったが、指の節々がぱんぱんに膨れ上がっているのがわかった。指先の一つ一つを動かしてみると火傷をしたような痛みを覚えた。骨こそは折れていないが、物を掴むことが億劫になっていた。
 手は鍛えている。
 包帯を巻いているので、多少の防備にはなる。
 感触が蘇ってきた。
 あの時、拓海は物凄く硬いものをぶん殴っていた。
 憎悪もあったかも知れない。
 わからない。
 ただ無我夢中になってそれをぶん殴っていた。
 そう簡単に壊れるやわな手ではない。それが今は使い物にならなくなるぐらいに激しくそれを殴りつづけていた。
 さつきの頭を。
 
 死んだか。
 心の中で拓海はそう結論づけた。
 さつきが生きているのか、死んでいるのか拓海は知らなかったが、あれで平気でいられるわけがない。
 頭骨を割った感触がいつまでも掌に残っていた。

 胸が痛い。
 身体の痛みじゃなくて心が痛い。
 まるで重力井戸の底に吸い込まれたみたいで気持ち悪い。
 痛みが拓海を押しつぶす。

 どうして、こんなに痛いんだろ。
 どうして、こんなに苦しいんだろう。

 「ちきしょうっ・・・・・・」
 拓海は悔しかった。
 なんで、さつきを殺したぐらいで心臓が苦しくなるのか、拓海がその事がとても悔しかった。
 脳裏にさつきの顔がフラッシュバックしてくる。
 その笑顔がずたずたに拓海を傷つけていた。

 なんで、こんな想いをしなくてはいけないのだろう。
 拓海はうづきを睨みつけた。
 
 
 「悪いな」
 どうして、そんな言葉を言ったのか拓海にもわからなかった。
 ただ、自然にその呟きが出た。
 そっとうづきの部屋から出ると、拓海は部屋の片隅に置いてあったバックを持ち上げた。それは最初に拓海が持っていたもので、没収で数は減っているものの爆薬、毒薬、火器などの危険な代物が入っている。それを担いで拓海は出て行こうとしたが、思い出したように立ち止まった。
 新聞ラックを見て、裏が白紙なちらしを探し出すと、ペンで書きつけようとしたが、指先がむくんでいて細かいペンでは書けそうになった。その代わりにマジックで苦労しながらも書き付けた。
 拓海がいなくなって、うづきはどう想うのだろう。
 理解できなかった。
 うづきは多分、泣くだろう。
 それが拓海には理解できない。
 そして、とっても腹が立つ。

 けど、それもおしまい。
 最初はうづきも泣くだろう。
 でも、泪は続かない。いつかは枯れるだろう。
 痛みは一瞬だけ。
 最初のうちは嘆きが続くとしても時が立つにつれて記憶は薄れていき、やがて忘れて行くだろう。遺跡が砂漠の砂に埋もれて行くようにあとかともなく、最初からそんなものが存在しないかのように。
 それでよかった。
 拓海は苦労しながらマジックで書き終えると、うづきの家から立ち去った。
 こんな言葉を書き残して

 「さよなら」

 何故そんなことをしたのか、拓海にも分からない。

 家を出たところで、行く宛ても金もなかった。
 お昼過ぎの住宅街には人影はなく、ただ影があるだけだった。
 実はそうのんびりもしていられる立場ではない。目覚めた場所では留置所の檻ではなく、うづきの部屋だったことはおかしいと思ったが、やよいが事件のもみ消し工作を行っているとまでは思わなかったので、拓海は今頃、警察が動いているものだと思っていた。
 警察に捕まったら、どうなるのだろう。
 喧嘩だけではない、捜査によって拓海のやってきたことが明らかになるだろう。
 11人を殺すためだけにやったたくさんの放火の数々。
 カツ上げしたあげくに、殺したやくざたちと、それの巻き添えで殺された人々。
 やよいのいうようにたくさんの怨霊が取りついているのかも知れない。
 それらが明るみに出れば世間に衝撃が走るだろう。ワイドショウは拓海の生い立ちを暴露することによって視聴率確保を狙い、良識家と称する人たちは家庭が悪いだの、教育が悪いだの、世間に氾濫するビデオやゲームが悪いだのと喧嘩でもするかのように論じ合うことだろう。それらの全てが拓海に何ら感銘も影響すらも与えることはなく。
 そんな時、見知った顔に出会った。
 「遠野くん!!」
 さりげなく無視しようとしたが、ふみつきも拓海に気づいたようで走り寄ってきた。
 「おまえも意外に悪い奴なんだな」
 まだお昼で終業時間にはほど遠かった。
 「違うわよ」
 「それで昼間から援助交際か。やるな」
 「だから違うといってるでしょっ!!」
 顔を真っ赤にしてふみつきは怒り出す。怒れば怒るほどどつぼにはまらないでもなかったが、ふみつきは話を切り出した。
 「遠野くんに聞きたいことがあるの」
 「なんだ?」
 「遠野くんが大阪くんに連れられたあと、何があったの?」
 「何があったって?」
 「今日、大阪くんと竹中くんが事故っていってた。あと、五箇条先生と三世院先生と四天王先生が急用で休みだって。なんかあったんでしょ、あの後」
 「オレにも分からないよ・・・・」
 本気で知らないふりをしていたが、まったくの嘘というわけでもなかった。
 あれだけの騒ぎを起こしたのだから、警察に通報されているのではないかと思っていた。
 ところがふみつきの口ぶりでは通報はされず、むしろもみ消されているような感じだった。でなければ、ふみつきが学校をさぼってまで拓海を探しにいくはずがない。そもそも、警察に通報されているのであれば目覚めた時点で拘置所の中だろう。
 「・・・ほんとうになにもなかったの?」
 「とりあえず数発殴らせてあげて1000円ぐらいは貰ったんだよな。その後は知らないよ」
 だまされている。
 ふみつきは拓海の態度と台詞にころっとだまされて考え込んでいるようだった。
 その隙に立ち去ろうとした。
 「何処にいくの?」
 危ういところでふみつきは阻止する。
 「さあ、どこだろうな」
 それは拓海も知りたかった。
 どんな状況下でも、身体は無意識のうちに生きることを選択する。
 いいことなんてないのに、つらいことばかりなのに。
 それでも、生きる意味を、目的を知りたかった。
 「この街から出るの?」
 肩にかけたバックや雰囲気でそう悟った。
 「いっただろ」
 拓海は態勢を変えて、背中越しにいった。
 「嫌なことがあって傷ついたとしてもそれは一瞬のことだから簡単に忘れることができる、って」
 そのまま拓海は歩き出す。
 ふみつきはその言葉にショックを受けていたが、拓海を追った。
 「それは違うわ!!」
 ふみつきは否定の言葉を叫んでいた。
 「何故だか分からないけど胸が痛いの。だから、遠野くんのことは忘れない」
 「時間がたてばそんなもんは忘れるよ。っていうか、忘れろ。オレのことを覚えていたところでロクなことにもならないんだから」
 「遠野くんは、自分の存在を忘れて欲しいというの」
 拓海は立ち止まる。
 「誰かに覚えておいてほしいとは思わないの。存在をなかったことにされて平気なの!!」
 拓海は振り返ると、ふみつきの元に歩み寄った。
 そこでふみつきの意識が消えた。

 拓海の正拳がふみつきの拳にめり込むと、ふみつきの全体重が右の手首かかる。慎重に路上に座らせるとようやくその手を離した。
 途端に崩れ落ちるのを手で抑えた。
 「ああ、忘れてほしいさ」
 拓海はいった。
 「できることなら、この手で自分の存在を消してしまいたいと思っている」

 気がつくと、拓海は海岸でていた。
 今日も海岸は穏やかに波打っている。砂浜に人影はなく、国道を車が通り過ぎていく。後には波の音が響いていた。
 拓海は砂浜に腰を下ろすと、空を見上げた。
 蒼い空を見つめていると、色々な思い、考えが風船のように浮かんでいく。

 オレは人の中でいきることができたのだろうか。

 その直後に拓海は声を立てて笑った。
 そう思った自分がとってもバカバカしかった。
 教室の中で起こす友達とのバカ騒ぎ、冬の寒い日に炬燵に包まって鍋を囲む、あるいは砂浜で父親や母親に囲まれて幸せに暮らす、そういった人の営みに拓海は入れるどころか手に触れることさえもできなかった。できるはずもなかった。
 何を夢を見ていたのだろう。
 入れるはずもないのに。
 だって、拓海は化物だから。
 幼い頃はどうだったのかわからない。暖かい思い出も温もりもなにもなくて、気がついた時には化物だと思い知らされた。
 人の身体の中に、得体の知れないものが存在する。
 そういうものを抱えたまま人の営みの中で生きているとは思えなかった。
壊さずには入られなかったから。
 ばかばかしい。
 ほんとうにばかばかしかった。
 拓海はこれからのことを考えた。
 とはいっても、考えることなぞあまり多くない。
 もはや、正体がはれないように虐殺を繰り返すことはできなかった。拓海の存在は周囲に特徴づけられている。これ以上を凶行を侵したらバレるだろう。
 じゃあ、何故、隠しつづけるようにしてきていたのだろう。
 そのために演技をしてまで。
 不思議には思ったけれど、そのことについては考えないことした。不愉快なことばかりだから。それよりも手段や作戦を組み立てるほうが面白かった。
 隠す必要なんて、もはやないのかも知れない。
 口元に笑みがこぼれた。
 そう思うとふっと肩にまとわりついたものが落ちたような気がした。未来なんてそんなものは何処にもないのに、何故、明日のことを考えていたのだろう。
 明日のことをとやかく考えることはない。
 そのために自分を偽ることはない。
 欲求を素直に出せばそれでいい。

 ぶち壊したければそれでいい。燃やしたければそれでいい。殺したければそれでいい。

 拓海はあっさりとそうすることに決めると、実行できる手段の点検に入った。
 指先が満足に動かないので精密な指使いを要求する爆破は使えない。また、その事によって格闘も突きと蹴り、体当たりぐらいに限られる。放火はなんとか可能だ。銃器は自作拳銃はトリガーが引けないこともなかったが装填は無理だった。単発式なので1発しか撃てないことになる。毒薬は貯水池に投げこむとかすれば可能だろう。
 こうやって考えてみると手先が使えないのは辛い。
 けど、やってやれないことはない。
 とりあえずは目に入った奴からぶっ殺すことにしよう。
 拓海はそういう方針を取ることにした。単純ではあるが、何人殺せるかという点ではやってみる価値があると拓海は思った。
 目に入った瞬間に、誰であろうがぶっ殺す。
 どれだけ殺せばギネスブックに載れるだろうか。それを思うと心が沸き立ってきた。
 
 最後は身体に巻き付けた爆弾を点火させて自爆すれば何もかも終わる。

 「さーてと」
 拓海は立ち上がると大きく身体を伸ばして関節をほぐした。来た時とはうってかわって明るい表情になっていた。
 もはや、悩むことなんてなかった。
 後は自分のしたいことをすればいい。
 自分らしいことをすればそれでいい。
 他人がその事でとやかくいっても、そいつを殺せばいい。
 文句なんて言わせない。
 
 その時だった。
 「ねえ、おねえちゃん」
 
 振り向くとそこには一人の少女がいた。
 変な少女だった。
 病院から脱走してきたのか青いパジャマ姿で、頭部を包帯で覆っていた。頭に怪我を負ったらしい。顔面もひどく殴られていたようで両頬を腫らせている。綺麗に鍛え上げられたというのだろうか、美しさと筋肉を両立させた身体つきをしており、少女というには少々とうが立っているように見えた。
 「残念ながら、オレはおねえちゃんじゃないんだけど・・・・」
 「そうなの?」
 不思議そうに少女は首をかしげた。
 その仕草といい、済み切った空気のように高いトーンの声といい、無警戒に見つめている瞳といい、邪気のない表情といい、その態度と雰囲気は紛れもない10歳以下の幼女のものだった。
 「じゃあ、なまえはなんていうの?」
 「遠野拓海」
 そのちぐはぐさに戸惑いながらも拓海は答えた。これが拓海のことを舐め切っている野郎に言われたら暗殺するところなのだが、勝手が違う。
 すると、少女は微笑んだ。
 「やっぱりおねえちゃんじゃない」
 「・・・・・・・・・」
 よく言われることだけれど、どういうリアクションを返したらいいのか拓海は迷った。
 女顔として生まれた自分を呪いたくなることがままある。
 憮然として黙り込む拓海に対し、少女はしてやったりと得意になりなって、自分の名前を言った。
 「それじゃあね、さつきはね、ごかじょうさつきっていうの」

 拓海は心臓を鉄パイプで串刺しにされたような気がした。
 身体は大人なのに、心は幼女なこの少女。
 心は否定していた。
 でも、その一方で理性が肯定していた。それならば少女のアンバランスさの説明がつくからだ。頭に包帯を巻いてパジャマを着た格好も納得いく。声が高くなっているようで、変形もしていたが、その顔は紛れもなくさつきだった。
 冗談だろ。
 それでも拓海はそう思いたかった。きっと、さつきがかついでいるに違いない。いっつも拓海にからかわれているから、からかってやろうとしているんだ。と無理矢理な仮説を立てて、納得させようとした。
 その時だった。
 「ふぇぇぇぇぇぇぇぇ〜ん!!」
 泣き声が突如として響き渡る。
 さっきまでニコニコと笑っていたさつきであったのだが、いきなり顔をゆがませると猛烈な勢いで泣き出した。
 「どうした?」
 「・・・・・・パパもママもいないのぉ」
 そういうと、さつきは拓海に近づいてはいっぱつ叩いた。
 「パパもママもおにいちゃんもどっかいっちゃったの!! さつきかなしいよ、とってもかなしいよぉ!!!」
 更にさつきは拓海の胸を叩いた。
 肋骨をいためているせいか痛みが響くけど、拓海は甘んじて受け入れていた。
 拓海は腕をさつきの背中に回す。
 さつきは拓海に抱きつくと猛烈な勢いで泣きじゃくった。
 熱い涙が拓海を濡らす。
 やがて、さつきは涙を貯めた目で拓海を見上げた。
 「・・・・・さつき探してるの」
 疑うことを知らない童女の瞳で、
 「たくみはパパやママがどこにいったかしらない?」
 拓海はふと思った。
 根拠はないけれど、確信できた。
 「さつきは知らないのか?」
 「んとねえ・・・・・・」さつきは足らない頭で考え込んだ。考えるのが苦痛のようだったけれど、しばらくしてさつきは空を見上げた。
 「あのね、まわりのひとたちがパパもママもおにいちゃんもおそらにいっちゃったんだって、そういってた」
 ・・・やはりな。
 拓海は想像が正しいと確認できた。
 さつきのハパやママ、兄はあの世に行ってしまったということ。
 いくら地上をさまよっていても彼らに会うことはない。
 
 拓海は笑いがこみ上げてくるのを我慢するのにとっても苦労した。
 「じゃあ、さつき。オレがパパやママの元に連れてってあげよう」
 「ほんと!」
 拓海がそういうとさつきは笑顔になった。
 「ああ、連れてってあげる」
 口元に浮かぶ邪悪な笑みを、善人の笑みに変換させながら拓海は確約した。
 「うん、じゃあ、さつきをつれてって♪」
 さつきは天使のように無邪気にうなずいた。
 さつきは知らないだろう。拓海の内心を。
 拓海の全身を愉悦がこみ上げてくる。
 「それじゃ、さつき。ちょっと離れて」
 「はーい」
 疑うことを知らないさつきは言われた通りに拓海から離れた。
 いい子だ。
 心の底から拓海はそう思う。
 拓海は自分の両手を見た。
 指先を軽く動かしてみる。レスポンスがかなり鈍いが力は無理すれば出せないこともなかった。どうやら、こんな状態でもいちおう役には立ちそうだった。
 「さつき、目をつぶって」
 「はーい」
 言われた通りにさつきは目をつぶった。
 「息が苦しいかも知れないけど、ほんの一瞬だから我慢してくれ」
 拓海はキスを待っているような笑顔を浮かべているさつきの首に腫れ上がった両手を当てた。
 拓海は笑った。
 爽やかに笑った。
 それはとっても最高な笑みだった。

 「いくよ」
 拓海は細い首を締める両手に一気に力をこめて、さつきを扼殺しにかかった。

 あれ?
 力が入らない。
 意志はさつきを扼殺しようとしたのだけれど、手がそれを裏切る。
 指先に力が入らない。
 どうしても力が入らなくて、さつきをくびり殺すまでには至らない。
 やっぱり、そこまでダメージがひどかったのだろうか。

 でも、この心を突き刺す痛みはいったいなんなのだろう。

 拓海は手を離すと腕をさつきの首に巻きつけようとした。
 が、とっさに飛び退いた。
 その直後、拓海の腕が伸びていた空間を白刃が通り抜けていった。少しでも反応が遅れていたら拓海の両腕は切り落とされていただろう。
 「あんた・・・・・・なにをやっているの」
 そして、やよいが刀を振り下ろした状態で硬直していた。
 「なにをやっているのかわかっているの?」
 やよいは怒りで全身を震わせていた。
 バカな女だと、拓海は思った。
 そんなこと分かりきっているのに。
 「わかっている。でも、これはオレが望んだことじゃあない」
 「なんですって?」
 「さつきがパパやママの下に連れていってくれっていうから、オレはその手伝いをしようとしているだけさ」
 「嫌々そうにはちっとも見えないんだけど」
 「まあね」
 やよいは護るようにさつきの前に立つと、刀を正眼に構えた。
 「いずれにしても、あんたになんかにさつきは殺らせはしない」
 「ふーん」
 拓海は鼻で笑った。
 「じゃあ、二人いっぺんに殺っちまうか」
 「へー、その手であたしをやれるとでも思っているの」
 今度はやよいが鼻で笑う番だった。
 「その手であたしを殺れるなんて甘くみないでちょうだい」
 拓海の指は傷ついている。
 細かい作業が不可能で、選択肢が狭まられている分、拓海のほうが不利といえた。
 けど、拓海の顔からはバカにするような笑みが浮かんでいる。
 「・・・・・・甘く見られるほどの実力しかなかったらどうする?」
 やよいは答えられない。
 相手は指を怪我している。やよいは愛刀を持っていてリーチとでは遥かに優位だった。
 でも、勝てる気がしない。
 指を痛めているとはいえ、その戦闘力はいささかもそがれていない。大腿骨を一撃で破壊するローは健在だった。武器を使う拓海が怖いんじゃない。生身でも強い上で武器も使いこなす拓海が怖いのだ。
 やよいの頬を汗が流れていった。
 「それじゃいこうか」
 拓海が動き出す。
 機先を制そうとやよいが走り始めた。
 その瞬間だった。
 「ふぇぇぇぇぇぇぇぇ〜ん」
 さつきの泣き声が殺気だった空気をリセットしていった。
 「さつき・・?」
 「おねえちゃん、じゃましないでぇ」
 泣きながら批難の眼差しで見つめるさつきにやよいは言葉を失った。
 「・・・・・たくみはパパやママのもとにつれていってくれるっていったのに、おねえちゃんなんでじゃまするの?」
 さつき、あんた分かっているの、と言おうとしてやよいは言葉を飲み込んだ。
 さつきにはわかるはずもない。
 さつきは遠野拓海に破壊されてしまったのだから。
 ここにいるさつきは昔のさつきではなく、さつきだったものの残り滓、さつきだった残骸が新たなる意識を持って生まれた何かだった。
 ここにいるのは五箇条さつきであって、五箇条さつきではない。
 「・・・・おねえちゃん?」
 「あれ? わたし?」
 気が付くとやよいの目から涙があふれ出ていた。
 「おねえちゃん・・・・・」
 「・・・・・・・・・」
 「・・・・・・・おねえちゃん、くるしいよ・・・・・・・」
 やよいが抱きしめてきて、その力の強さにさつきは文句を言った。しかし、やよいの思いつめたような表情にいつしかさつきも沈むようにその抱擁を受け入れていた。
 
 そんな光景を見て拓海は寒気のするような薄ら笑いを浮かべると、スポーツバックから毒薬を詰めたスプレーを取り出すと二人に向かってノズルを向けた。やよいの注意は完全にさつきに向かっており拓海の動きに気づいていない。
 だけど、不意にスプレーを下げた。
 「拓海くん!!・・・・・」
 誰が飛びついてきたので、拓海は平然とかわす。
 その直後、鈍い衝撃が地面に走り、わずかばかりの水と砂を吹き上げた。
 海岸を見ると、うづきが海面に頭から突っ込んでいた。
 「よお、うづき。どうした?」
 何事もなかったかのように拓海は声をかけた。
 「たくみ・・くん」
 うづきはのっそりと頭を海岸から引き上げる。その頭は泥にまみれている。うづきは肩を怒らせながら詰め寄ってきた。でも、ぜんぜん怖くない。拓海はせせら笑い浮かべた。
 だが、
 「拓海くんのばかばかばかばかばかばかばかばかぁぁぁぁっ!!!」
 猛烈な勢いでうづきは泣き出した。
 「おい・・うづき・・・・・」
 さしもの拓海もやや押され気味になる。
 「ばかばかばかばかばかばかばかばかぁっ!!!」
 「おい・・・」
 「ばかばかばかばかばかばかはかばかばか・・・・・・・・・・」
 「・・・・・・・・・」
 付き合いきれなくて、拓海は身を翻すと波打ち際を歩き始めた。
 背後にうづきの泣き声が響いていた。

 ばかばかしかった。

 ふと、歩くのやめると拓海は砂浜に寝転がった。
 波の音が優しく響いている。
 眠気を誘うようなその音に、拓海は思わず心の中で呟いた。

 ・・・疲れた。

 身体のあちこちがうずく。
 拳がじんじんと痛んでいる。
 気が付くと疲労が圧し掛かっていた。
 無理もない。
 昨日から今日にかけて拓海は激動の中にいた。
 1万発以上も打たれたダメージはまだ抜けてない。
 それ以上に、拓海の心に色々な事柄が圧し掛かってる。
 
 殺戮に出かけようと思ったけれど、さつき登場の一連の出来事によってやる気がなえていた。
 こんな精神状態では多くは望めない。
 でも、殺すことができなくなったら何が残るのだろう。
 突然、それに気づいて拓海は愕然となった。

 殺すことができない拓海、その後には何が残るのか。
 拓海は薄く笑った。
 何もない。
 何もないに決まってるじゃないか。
 拓海は笑いたくなった。
 兵器は兵器として意味があるので、兵器としての意味を無くした兵器に存在する意義などない。後に残るのはただの燃えカスだけだった。

 どうして生きているんだろう。
 ただの残り屑だけでしかないのに、なぜ、ここにいるのだろう。
 絶望しかないのに、何故、身体は生きることを選択するのだろう。

 「拓海くん・・・・・」
 うづきは一人の少年が砂浜で寝ているのを見つめていた。
 最初は声をかけようとしてためらった。
 起こすのは可愛そうだと思ったからだ。
 しかし、
 「かわいい」と言いかける声が凍りつく。
 最初は幸せそうな寝顔であったが、それが苦しそうなものへと変わった。
 末期ガンの苦しみが襲い掛かっているようだ。
 顔をゆがませ、身体を丘に上がった魚のように痙攣させる。
 その痛さが、見ているうづきにもひしひしと伝わってくる。
 「・・・・・なあ、かあさん・・・・・」
 うめき声が拓海の唇から漏れた。
 「拓海くん!」
 うづきは思わず叫んだ。
 「かあさん・・・どうして、オレ・・・・・を・・・・」
 拓海は寝言を言いつづける。
 「どうしてオレをころす・・んだよ・・・・なあ、なんで、オレのことをあいして、あいて」
 「うづきが愛してあげる」
 うづきは拓海の身体を引き起こすとそっと抱きしめた。
 「だから、泣かないで。うづきはずっと側にいるよ」
 上半身は濡れ、頭から泥を被ってはいるけど、そんなことは関係なかった。
 普段は幼くてガキにしか見えないうづき。
 でも、その横顔はとっても誇らしく、とっても大人びていた。
 母親としての表情だった。

 「うづき」
 呼びかけられて、うづきは振り返る。
 そこにはやよいがいた。やよいの手にさつきの手が握られている。さつきは幼い眼差しで二人を見ていた。
 うづきは言う。
 「やよいちゃん、まるで親子みたいだね」
 「うづきもね」
 やよいは苦笑を浮かべて返した。
 うづきの永遠に無成熟な胸の中で拓海は眠っていた。最初は夢にうなされた拓海だったけれど、次第に落ち着き、今では安らかな顔で眠っていた。
 そんな拓海をやよいは評する。
 「寝顔はこんなに可愛いのにね」
 「拓海くんはこんなときでなく、いつでもかわいいよ」
 やよいの評価にうづきは口をとんがらせて文句を言った。
 「ただ、自分を見失っているだけなんだよ」
 そういうと、うづきは拓海を見つめた。
 訳がわからないけれど、涙が出そうになって、うづきはこらえた。
 そして、そっと囁いた。

 もう、大丈夫だよ。
 だって、ママがついてるから。




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