廣瀬清市瑞陵高校奨学事業 本文へジャンプ



 廣瀬清市先生は第五中学校の第24回卒業生です
廣瀬清市瑞陵高校奨学事業の経緯

廣瀬清市瑞陵高校奨学事業開始の経緯

 瑞陵高校の開設以来50年の永きにわたって校医を務められた廣瀬清市先生(五中24回卒)は、日頃から瑞陵高校の生徒のために寄付をしたいと言われていましたが、具体的な話となってきたのは、平成9年(1997年)の五中―瑞陵九十周年の祝賀パーティーの時だと思います。廣瀬先生は、「自分には子供がなく、瑞陵生はみんな私の子供のようなものだ。資産の一部を瑞陵生のために使ってほしい。」と言われ、当時の近藤校長も大変ありがたいことだと歓迎の意を表されましたが、三億円ほどという額の大きさに小手先の対応はできず、現実的に受け入れができるかどうか検討することになりました。教育委員会に問い合わせたところ、「瑞陵高校は県立高校なので、学校として寄付を受けることができない。県への寄付なら受け入れる。」とのことでした。県への寄付となれば「瑞陵高校の生徒のため」とはならず、廣瀬先生の意向と異なってしまいます。学校として寄付を受け入れることはできないことになりました。そこで、今度は同窓会で受け入れて財団を作ったらどうかという話になりました。

 同窓会が寄付を受け入れた場合、課税対象となって多額の贈与税が課せられるのではないかという話が出ました。同窓生の税理士に調べてもらったところ、「このようなことは前例がなく、はっきりしないが、課税対象となる可能性が高い」とのことで、廣瀬先生の「全額を瑞陵生のために」という意向に合わなくなってしまいます。廣瀬先生は「何とか良い方法を考えよ」と言われるので、瑞陵会の中神靖前会長が中心となって、県教委や文部科学省など各方面に問い合わせや働きかけが始まりました。学校関係の財団は教育委員会の管轄で、教育委員会はこのような財団の認可はしない方針であるということも判明いたしました。文部科学省に問い合わせたところ、他府県でいくつかの例があるが財団の認可は都道府県の教育委員会が行っているので国は関与していないとのことでした。また、信託銀行が扱っている公益信託制度や名古屋市の財団を通して行う方法も検討されましたが、「すべて瑞陵生へ」とはなりません。同窓の県会議員の方にも調べていただきましたが、課税がなされない良い受け入れ方法は見つからぬまま、数年が経過してしまいました。この間に廣瀬先生ご自身も地元の県会議員や税理士に相談したりして、課税なしの「寄付」や「財団」は難しいということがはっきりしてきました。廣瀬先生も「私も高齢なので早く良い方法を見つけてほしい」と言われるようになりました。平成15年(2003年)12月には、廣瀬先生は瑞陵高校に出向かれ、当時の水谷校長に改めて正式な寄付の申し出をなされました。しかし、良策は見あたらず、次の伊神校長の代に持ち越されました。

 平成16年4月、瑞陵高校出身で初めての校長として15回卒の伊神勝彦氏が赴任され、永年の懸案であるこの間題を解決すべく、さらに検討がなされました。この頃になると、廣瀬先生も「多少の課税はやむを得ない」と言われるようになりました。そこで、「寄付」にこだわらず、廣瀬先生に直接資金を提供していただき瑞陵生を対象とした海外派遣事業などを行うことにし、中神靖瑞陵会前会長を委員長とする「廣瀬清市瑞陵高校奨学事業委員会」が設置されました。委員会の顧問として、名古屋市教育委員会委員長の青木一氏、名古屋市税理士会顧問の後藤好弘氏、愛知県教育委員会学習教育部長の寺田志郎氏、元名古屋市教育委員会教育長の鳥居大氏、2005年日本国際博覧会協会事務総長の中村利雄氏、名古屋雁道郵便局長・名古屋市南部地区特定郵便局長会会長の濱田尭氏、愛知県企業庁長の福間克彦氏など各方面の方々にお願いいたしました。(肩書きは当時のもの)

 廣瀬先生は、「優秀な生徒を、さらに伸ばす」ことを企画するようにと言われ、生徒の海外派遣やノーベル賞級の研究者による講演会などが、事業の候補になりました。そして、第一回目の事業として、オーストラリアへの生徒派遣を企画し、平成17年7月に、18名の生徒を8日間の日程で送り出しました。また、第二回事業として、生徒の研究を支援する研究助成を行いました。この年には、長久手会場を中心に国際博覧会(いわゆる万博)「愛・地球博」が開催されており、国際的な見聞を広める目的で希望者に万博の入場券を提供するという事業も研究助成事業に含めて行いました。海外派遣では、「優秀な生徒」を選考するために、学校の成績ではなく、この派遣をどのように活かしたいかという内容の作文によって選考することにしました。第一回事業のオーストラリア生徒海外派遣の保護者向け説明会が、6月に国際ホテルで行われました。この様子は中日新聞に写真入りの記事として掲載され、多方面から反響がありました。廣瀬先生も新聞に掲載された写真をとても気に入っておられ、廣瀬医院に飾っておられました。

 第一回の海外派遣は、五中の卒業生で世界的にも名の通った外交官・杉原千畝氏の縁の地であるリトアニアをと考えており、前年の10月にはリトアニア共和国の在日大使のクジス閣下にもお目にかかり、アドバイスをいただいておりました。しかし、この年は愛知万博が開催され、リトアニアもパビリオンを出展するとのことでしたので、リトアニア館のスタッフと交流を持ち、そのアドバイスに基づいて計画した方がよいということから、翌年に持ち越されました。実際、「愛・地球博」のリトアニア館のスタッフと瑞陵会の役員との会食がおこなわれたり、リトアニア共和国のナショナルデーの内輪のレセプションに参加したり、さらに、杉原千畝氏関連のイベントにも参加して、リトアニア館のスタッフからリトアニア派遣に関するアドバイスをいただき参考といたしました。

 海外派遣の派遣先からは、派遣生徒がそれぞれ、廣瀬先生宛に絵はがきで感想などを送り、廣瀬先生は生徒から届いた絵はがきをご覧になって派遣の成果を喜んでおられました。また、帰国後は、各回ごとに生徒の感想や記録をまとめた報告書を作成し、廣瀬先生と派遣生徒が昼食をとりながら、それぞれの生徒が直接廣瀬先生に成果を報告する会も行いました。
 廣瀬先生からの寄付の話に、職員から「校舎や設備にまわしてほしい」という意見が、同窓会からは「五中−瑞陵百周年の事業に協力してほしい」という話が出されました。しかし、廣瀬先生は、同窓会ではなく瑞陵の生徒のために使ってほしいとのご意向であり、「ものに使うのではなく、人に使うように」と言われていました。生徒派遣の説明会等では、遣唐使を例に挙げ、海外で見聞したことを帰国後に活かすようにと言われました。さらに、生徒の派遣が一過性の単なる幸運な出来事に終わることなく、保護者の方々にも生徒の体験を活かすように支援してもらいたいと言われていました。

 廣瀬先生は2005年の4月に米寿の祝いの会を開かれ、壱岐・対馬、石垣島など日本各地を元気に旅行されていましたが、念願であった中国の西安旅行の目前に倒れられ、2006年10月限りで廣瀬医院を閉院されました。その後、回復され、お元気でお過ごしでしたが、第6回事業であるドイツ派遣の生徒との昼食会(2007年2月28日)を三日後にひかえた25日に急に亡くなられました。通夜、葬儀には派遣生徒のほか多くの瑞陵生および瑞陵高校関係者が出席しました。廣瀬先生のご冥福を心より願い、今後も、廣瀬先生の遺志を受け継いで、この事業が継続されることを心より願っております。

                                      西郷 孝(瑞陵高校元教諭 瑞陵27回卒)
                                       (『五中−瑞陵百周年記念誌』より 抜粋)



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