Web版「五中−瑞陵60周年記念誌」


 第4部 60周年記念事業

   1.記念事業開催まで    2.記念行事


1.記念事業開催まで

  昭和四十年八月に五中、実務女、瑞陵高のそれぞれの同窓会が一元化され、新たに瑞陵会として前向きの同窓会が発足した。その頃から五中創立六十周年にあたる昭和四十二年に盛大にその事業を行ったらどうかという声が持ち上がり、漸く同年十一月二十七日から三日間にわたって出身校別の懇談会が栄ニューボーンで開かれ、そのスタートを切る運びとなった。この結果瑞陵会の組織を確立、財政面の安定を図り、会長を財界、報道関係から、顧問は東京、大阪からも出すこと、などを含めて、兎も角実行委員会を作ることとなった。その後卒業生各回幹事への連絡等により翌四十一年五月十日再びニューボーンで幹事会開催、この席で瑞陵会々長早川甚三氏(五中九回)推薦により五中四回卒業生川井臺平氏(アイカ工業KK社長)が満場一致により六十周年記念事業等の準備のための会長になった。ここで今後の名称として瑞陵会五中六十周年記念祭準備委員会とすることが決められた。
  次で六月七日国際ホテル・ロビーで各回推薦又は依嘱により代表者会合し、発起人会結成を決定、その後瑞陵会常任幹事会を六月十七日、八月十日、二十二日と開き記念事業と発起人会等の案を審議し、二十五日第一回発起人会が開催され、名称、組織、役員、行事内容等具体的な案を審議した。
  九月、十月、十一月と四回にわたる役員選考準備会、常任理事会で十一月二十八日の御園座食堂に於ける発起人総会にまでこぎつけた。この会では各回より発起人百名出席
  @趣意書案 A主催共催関係 B法人関係寄付 
  C育英資金設立 D募金方法E役員選出
等が熱心に協議決定され、その結果、五中−瑞陵六十周年記念事業の会役員として左の通り決定した。
  (1)役員  会長 川井臺平(4)
          副会長  早川甚三(9)  森 義明(10)  宮垣実三(14)
               粕谷菊次郎(20)
          会計  藤掛一郎(17)  蟹江不二雄(19)
          監査  斉藤尚一(15) 杉浦栄三(16)
  (2)組織
       総務部 部長 早川甚三(9)
           学校、PTAとの連絡、名簿の編集発行、その他
       財務部 部長 粕谷菊次郎(20)
           募金、会計、経理、各部予算審議
       報道部 部長 大島清治(7)
           宣伝、報道、連絡事務
       事業部 部長 河津慶次(12)
           記念行事に関する一切の業務
       事務局 篠田武清(20) 脇田晴美(21) 大井栄一(21) 
             戸谷新一郎(25) 熊崎憲次(34) 佐藤英二(34)
             中神 靖(瑞3) 松田繁子(実3)
               ※括弧内の数字は卒業回数


御園座食堂で開かれた発起人総会(昭和42年11月)

  四十二年に入り一月二十六日国際ホテルに幹部会を開き前回発起人会の意見を取り入れ趣意書の作成、事業、募金、運営計画書の作成、記念式会場等につき協議。二月七日報道部会、事業部会を両口屋で開催、式典、行事運営、担当者、場所等の原案作成、次で二月二十四日午後六時より商工会議所に総幹事会開催。八十七名出席の上次の如きことが審議決定された。

 ○式典10月22日(日)ごろ市公会堂親睦パーティー 同日同所四階 慰霊祭 同日同時刻 覚王山日泰寺 代表参列講演会,座談会,合唱,展覧会,同好会,記念品等々。
 ○募金各回目標額、方法等。
 ○六十年史 在校中の思い出、座談会の録音、投稿依頼等。
 ○名簿発行
 ○ P・Rについて……ポスターの作成とその依頼先。
 ○募金 目標概要目標額 三〇〇〇万円
    個人……五中 各回  二五万円  
          瑞陵 各回  二〇万円 
          実務女     三〇万円  
          総計   一〇〇〇万円
    法人……      二〇〇〇万円
○募金使途
     概要奨学資金  一〇〇〇万円
     会館建設     一五〇〇万円
     各種行事      一〇〇万円六十年史   
                 一〇〇万円名 簿    
                 一〇〇万円 諸費、
     予備費        二〇〇万円 
          計     三〇〇〇万円


五中一回生から五回生までの座談会(昭和42年3月21日・瑞陵高校校長室)

  之により六十年史の一端としての五中一回より五回までの卒業生代表者による座談会が3月二十一日、瑞陵高校長室で行われ録音された。この記事は翌日の中日新聞市内版に写真と共に報道された。次で六回生より十回生までの会が四月二日に同じように開かれた。
  この間三月十日の夜間部同窓会総会が瑞光館に開かれこれまでの経過報告がなされ、意見、協力が求められた。三月十八日両口屋に於ける報道部会が開かれ六十年史の編集、資料集め、又記念行事のP・Rについて協議された。
  次で四月十二日の財務部会、十八日の事務局会議五月十一日、商工会議所に於ける再度の各回幹事総会(79名出席)、八月までに3回の財務部会、事業部会の会合、瑞陵会幹事会等十数回にわたる各種会合により記念行事意識は次第に高まり、九月十一日に瑞陵高に於て合同委員会を開き、式典当日の役割、プロ印刷、名簿印刷、座席、パーティー、記念品、名簿配布等具体的な事項を決定。育英事業としてユニバシアード大会出席の瑞陵高卒村木君に対し奨励金贈呈等も決められるに至った。尚この間記念式典は会場の都合で十月1日と決定していたので九月に入ってからはこの合同委員会後に各委員会が三回にわたって瑞陵高に於て開かれ参加者に対する名簿配布、各部経費予算執行事務、募金状況、記念品等細部にわたっての連絡確認がなされ、最後的打合が終った。


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2.記念行事

1 記念式典及記念パーティー

  卒業生の協力と1年余にわたる準備に依る五中−瑞陵六十周年記念式典は十月一日秋晴れのよき日に、名古屋市公会堂で盛大に挙行された。会場入口に飾られた記念祭会場の掲示と五中・瑞陵・実務女の各校章に、十二時三十分開場というのに十一時頃より旧師、卒業生、在校生の懐かしげな顔が会場に押し寄せ、伝統と友情をたたえ合う風景一色に塗りつぶされた。
  十二時四十分場内の照明が消されて、両袖の校章とスクリーンのみが浮き上がり、「光と音による六十年史」のオリエンテーションが開始される。明治四十年当時、一面の大根畑であった現名市大経済学部に、第五中学が設立され現在の瑞陵に発展するまでの六十年のあゆみがスライドで紹介され、往年の中学時代を懐かしく回想させてくれた。次いで、中川弘一郎氏(瑞二回)により五中・実務女・瑞陵高各校の校歌から編曲された序曲「伝統」がNHK名古屋放送管弦楽団により演奏され、大会副会長の森義明氏(五中十回)により記念式典の開会が宣言された。


市公会堂正面に飾られた記念祭のデコレーション


公会堂ロビーは花束でうまり、旧交を温めあう姿などで混雑した

  記念式典は、テレビタレント鬼頭昭夫氏(五中三十五回)の司会で始まり、大会会長川井臺平氏(五中四回)が登壇。その青春の日日に鍛えた堂々たる体躯に、年齢を思わせぬつややかな温顔をひきしめて、記念の式辞。
  ついで、劔木文相の祝辞の代読が次のように読み上げられた。「本日、ここに愛知県立瑞陵高等学校創立六十周年記念式典が挙行されるにあたり、一言お祝いの言葉を申し上げます。(中略)
  本校が、明治、大正、昭和の三代にわたり光輝ある歴史を築き、今日、いよいよ隆盛に向かいつつあることは、ひとえに県当局をはじめ歴代の校長、教職員各位の協力と、その他、関係各方面方々の一致協力のたまものであると思います。本日の式典をお祝いするにあたり、皆様方のこれまでの並々ならぬお骨折りに対して深く敬意を表します。(中略)
  教職員各位及び生徒の皆さんは深く思いをここにいたされ、本日を契機としてさらに相互の親和を深められるとともに、伝統の校風のもと、互いに力を合わせて教育の成果をあげ、広く世間の期待にこたえられるよう希望して、お祝いの言葉といたします。」
  次に五中二回生である前法政大学総長谷川徹三氏、恒川愛知県教育長の各祝辞あり、石川現瑞陵高校校長、中神PTA会長の挨拶と進められた。
  続いて各界から寄せられた祝電が披露され慰霊祭に移った。時を同じうして覚王山日泰寺では、鈴木季彦氏(五中五回)代表が参列して、五中、実務女学校、瑞陵関係の教職員、同窓生物故者の慰霊法要が行われている事が報告され、全員で黙祷を捧げてお祈りした。
  以上で第一部の記念式典は恙なく終了し、その後昭和四十二年度瑞陵会総会がもたれた。例年八月の第四日曜日に持たれている総会が本年は六十周年記念祭の為、この日まで見送られてきたのである。早川瑞陵会会長の挨拶、脇田常任幹事(五中二十一回)の経過報告、高木会計幹事(瑞陵五回)の会計報告、そして粕谷財務委員長の募金状況の報告がありいよいよ第二部「歓喜の祭典」の幕があけられた。
  全国合唱コンクール三年連続優勝の栄に輝く、東海メールクワイヤーのコーラスが、水谷昌平氏(旧瑞陵職員、現県立大教授)の指揮で、会場をなごやかにつつみ、ロシア民謡から日本へと、想い出を呼び起こす。そこで名大名誉教授大島福造氏(五中一回)が出られ、六十周年を迎えた喜びを述べられれば、舞台は東京からかけつけた加藤恭二子さん(旧姓野仲、瑞陵三回)をはじめ、西野隆三氏(瑞陵六回)、吉田郁子さん(瑞陵七回)等卒業生、山路亮三教諭と瑞陵高校音楽部ブラスバンド部等が続々と登場。その間には久し振りに同窓スポーツ関係に朗報をもたらした、メキシコオリンピック候補選手の陸上三段跳村木征人氏(瑞陵十六回)がライトを浴びて、スポーツアナ中神靖氏(瑞陵三回)のインタビューに力強く抱負を述べると、嵐のような友情の拍手が会場を圧した。やがてNHK名古屋放送管弦楽団の軽やかな調べに、場内は最高潮に盛り上りをみせる。そしてフィナーレは藤井博子教諭の指導による在校生有志の民謡踊りが会場に花の流れをつくれば、場内一つになった手拍子も華やかに、松井辰三郎氏(五中十四回)の指揮で、五中、実務女学校、瑞陵高と時代の流れを?,u桙せる 校歌斉唱の中に、第二部歓喜の祭典の幕は閉じられた。


記念式典で祝辞を述べる川井会長


4階で開かれた記念パーティーはなごやかな雰囲気に包まれた

  このあと四時から、総天然色映画「魔の大岩壁に挑む」の上映が始まる一方、四階ホールでは記念パーティーと文字通り、伝統と友情につつまれた六十周年記念祭は、予定通り午後五時三十分盛況のうちに終了した。

2 記念瑞美展

  記念行事のトップを切って昭和四十二年七月三十一日より八月二日にかけて愛知県美術館に於て同窓会初の大規模な瑞美展が開催された。卒業生在校生を一丸に、洋画、日本画、書道、写真、華道、工芸、盆石、名石、手芸に五中卒業生より瑞陵、実務女の卒業生、さらに旧職員現職員、在校生など約百五十名が美技を競った。


瑞美展は7月31日から県美術館で開かれた


絵や書にまじって生け花や手芸品も出品された

  そのプログラム裏に会長川井臺平氏は、「六十年の歳月がかくも多彩な作品を産み、こうして賑々しく一堂に展示されましたことは、記念祭の幕あけにふさわしい華やかな催しと自賛しております。これを契機に今後とも一層の親睦とご精進の程を。」と書いた。又旧職員鈴木三五郎氏(美術)は「開校以来六十年、はげしかった世相の変遷の中で五中、熱田中、瑞陵の果してきた教育の稔りは決して小さなものではなかったと思います。私たちもその中で情操の面から人間形成にいささか寄与してきたつもりです。このことは今日専門家として立っている人は言うまでもなく、このような多数の出品物を御高覧いただけば、おのずから御理解いただけることと思います。」と述べられた。
  瑞美展が如何に盛大であったかが分る。尚この瑞美展出展者の中、在校生に対する表彰が十月一日の記念祭当日行われたことを付記する。

3 記念ゴルフ大会

  ゴルフ大会は、十月十三日、三好カンツリークラブでで行われた。前日の天気予報は、「くもりのち雨」。心配された空模様は、くもり空ながら暑くなく、寒くなく、又、風もなく……絶好のゴルフ日和。しかし、参加者は、ウイークデーのためか、最初の予定から大幅にへって、十二名。いささか寂しい大会になった。
  午前八時、第一組スタート。卒業年次で、長老、中堅、若手の三組に分れ、中・西コースで、18ホール・ストロークプレー。曲った腰をシャンとたて、白髪を乱して張り切る長老組。油の乗った着実なプレーの中堅組。若さでブンブンとばす若手組、と、和気あいあいのうちに、中堅組、五中二十四回の青木隆三氏が、ネット65の好スコアで見事優勝。
  競技のあと、懇談会では、川井会長の代理河津事業部長(五中十二回)の挨拶に始り、国塩正(五中十回)から加藤大佳夫氏(瑞陵4回)まで、自己紹介やら思い出話しと、楽しい愉快なひと時であった。
  尚、これを機に、瑞陵会のゴルフ会を結成し、年四、五回、大会を持つことになり、次回は四十三年一月(会場未定)開催と決った。老いも若きも、ウデにおぼえのあるなしにかかわらず、奮って参加されたい。事務局は、 
  名古屋市中区南武平町二ノ三(T(261)−6521)
   (株)美有紀内  加藤大佳夫氏
  当日の成績は、次表の如くであった。

順位 氏名 卒業回数 GROSS H‘cp NET
優勝 青山隆三 五24  83 18 65
準優勝 加藤章一 五26 103 30 73
三等賞 河津慶次 五12 100 26 74
磯部成亘 五34  85 11 74
浅野健一 五24 100 24 76
広根 保 五28  92 16 76
中神 靖 瑞3 106 28 78
加藤大佳夫 瑞4 101 22 79
間瀬忠平 五12 101 18 83
徳永喜久夫 瑞3 102 18 85
B・B 国塩 正 五10 112 24 88
伊藤真光 五21 106 18 88


4 記念体育大会

  五中―瑞陵六十周年行事の最後として在校生、卒業生が一丸となっての体育大会が十月十五日、瑞陵高校のグラウンド、体育館などを中心として開催された。
  十時開会というのに、日曜日の早起きは、こたえるとみえてか卒業生の出足はよくない。しかし、運動場では秋の陽光をいっぱいにあびて若人がピチピチととびはね、元気な歓声がこだました。
  予定よりやや遅れてクラブ毎に整列、開会式を挙行する。会長代理として、事業部長河津慶次氏が健闘と親睦をたたえて挨拶。その後、南体育館で卓球、北体育館で柔道、瑞光館でバスケットボールとバドミントン、テニスコートで、軟式、硬式庭球、プールで水泳、グラウンドではサッカー、ラグビーと各クラブそれぞれに散って競技が開始された。


60周年記念体育大会の盛況 屋内体育館の室内競技


60周年記念体育大会の盛況 プールで

  正午近くになって、好天に誘われたのかのごとく卒業生の数がめっきり増した。卒業生とはいえ、高校を終了してまだ日が浅く多くは大学在学者なので、在校生は各競技とも苦戦、技術的な面でもよき指導をうけた。スポーツを通じて、卒業生、在校生の心が通い、和気あいあいの楽しい有意義な一日であった。
  五中、熱田中、実務女、瑞陵高及びそれぞれの夜間定時制を含めての卒業同窓生の進んで応募した人々については別表の通りである。卒業生以外では多くの会社法人等よりの寄附、広告に応募に依る寄附などがあったことを付記しておく。
(五中20回篠田編記)


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三、記念行事を終えて

  美術展から始まった記念行事も、式典でクライマックスに達し、六十年史の発刊をもって一応の幕を閉じることになった。
  私はたまたまこの時期に母校にいあわせたという幸運(?)に恵まれ、同窓合併と六十周年記念行事の二大事業の舞台を廻わす裏方をつとめてしまった。各人には各人の考え方があり、六十年という年代の異なる大勢の団体になると、それがたとえ母校を中心とした同窓生という太い絆に結ばれてはいても、一本にまとめて行くことは随分大変なことであった。それが兎に角ここまで無事に進んできたことは、多数の人たちの母校愛が結集された賜であろうと信じている。
  ただ残念なことは、計画通りに募金が集まらず、そのために同窓会館建設事業が設計図だけに終ったことである。これはPRの徹底を欠いたことも原因であるが、回によっては幹事が全然同期生をつかんで居らず、連絡不十分のまま過ぎてしまったところもあり、ことに瑞陵になってからは、在校期間が三年と短くなる反面、人数は一学年五百―六百名とふくれあがり、とても一人、二人の幹事では手がつけられず、お手上げの状態であった。これを機会に各回とも連絡を密にしていただき、一層の大同団結ができるよう希望する。


同窓会館完成予想図

  六十年史については、立平宣雄(五中三十一回)林伸太郎(五中三十七回)青木博(瑞陵三回)の三氏が本文をまとめられ、とくに青木氏の尽力に負うところが多いので謝意を表する。準備委員会の事務局が学校内に設けられてから、県立女子短大舟橋昭江さんにきてもらい、すべての行事はみな彼女の献身的なはたらきですすめることができた。最後にその労苦を謝したい。(脇田記)

四、記念祭事業収支決算報告
   (四十三年二月一日現在)
○収入の部
  一般募金(寄付金)  八、〇七六、一〇〇円
  広告料          三、一七五、〇〇〇円
  利子その他          四四、〇七九円
  合計          一一、二九五、一七九円

○支出の部
  式典その他諸行事費 一、六六八、〇八三円
  記念品代           五五二、八七五円
  名簿印刷費       一、九五〇、〇〇〇円
  六十年史印刷費      九〇〇、〇〇〇円
  六十年史送料       一五〇、〇〇〇円
  通信費            二〇七、八四四円
  会議費            四〇四、六六三円
  人件費            二四八、九〇〇円
  雑費              一三三、四九四円
  合計            六、二一五、八五九円

○差引残高          五、〇七九、三二〇円

  まだ広告料の未収入が一部あり、残務整理費も必要なため、この残高には今後幾分かの増減はおこる見込みである。
  この残高の処理については、同窓会館建設にも、育英資金制度の創設にも不足の金額のため、幹部会で協議の結果、瑞陵会に管理を移管し、その使用については、募金の趣旨に沿った使途に限る旨、条件を付することになっている。でき得れば今後、これを基金にして、最初の目的が達せられるよう、更に計画がたてられるよう望まれる。(脇田記)


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第4部の入力作業では、次の方々のご協力をいただきました。 敬称略  鈴木麗璽(瑞陵47回)

 第5部 瑞陵高校の現況と実務女小史

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