Web版「五中−瑞陵60周年記念誌」


 第5部 瑞陵高校の現状と実務女小史

  1.瑞陵高校の現況    2.愛知県実務女学校のこと



1.瑞陵高校の現況

<敷地と施設>  五中の卒業生としては、なつかしい母校の校舎をすぐ傍にみながら、現在は旧愛商の校舎を使っていることに、なんとなく割り切れないものを感じ、仲々瑞陵との間に一体感のわかない原因ともなっているが、これも今となっては致し方のないことである。
  外側鉄筋の校舎も、中側はすでに老朽化し、時々床板や天井が抜け、風もないのに窓硝子が突然倒れたりで、修繕が仲々追いつかない有様である。市内の高校では一番のオンボロ校舎であるため、管理上にも不便で、施設も不完全である。県に対し改築を頼んでも仲々聞いてもらえず、今後の猛運動が必要であろう。もともと愛商は一二五〇名の定員であった所へ、一時は千八百余名の生徒が入っていたのだから、万事に手ぜまである。ただ瑞光館だけが近代建築としての偉容をほこっている。 


石川軍二校長


  六十周年記念事業の一つに、プールの南、合宿所(老朽建物)の跡へ、同窓会館を建てて同窓生の心のつながりの場所とし、更に、在校生の食堂や合宿の施設にする計画をたてたが、募金が目標通り集らなかったため、次回の行事へひきつがざるを得なくなったことは、まことに残念なことである。 
  校庭周囲の、見事に天を摩していたポプラは、伊勢湾台風によって全滅をした。鳩と共に校歌にもうたわれて、学校のシンボルになっているので、現在はカロリナポプラが植えられているが、樹型がちがうので、昔のポプラとは感じが変ってしまった。 
  元の講堂は、現在図書館として使用されているが、面積だけは広くても、現代の図書館としての設備は何もない。ただ県下唯一の食物専門の課程をもっているので、調理の施設や実験室は、本校では一番充実したものである。

<課程と生徒>  全日制は、現在普通科八学級と食物科二学級で、普通科は一クラス定員五〇名で、そのうち女子が一〇から一一名である。食物科は一クラス定員四〇名で、女子のみの課程である。三年生に増加クラスであるため、現在の在校生は、普通科男子一〇四〇名、女子二七六名、食物科女子二四八名、合計一五六四名である。 
  教育目標を次の三点においている。  
    自主的に考え行動する人間をつくる  
    社会のために働く愛情豊かな人間をつくる  
    心も身体も健康な人間をつくる 
  もともと五中の生徒は、一中ほど活発でもなく、明倫ほどおとなしくもなく、その中間だといわれたが、その気質は今でも同じように感じられ、旭丘と明和の中間のように思われる。他校から移ってきた先生は、生徒が比較的のんびりしていることを感じるが、これは一面よいことであると共に、反面理想を追って現在の社会に対する厳しさに欠ける点があることも事実である。 
  全日制普通科の卒業生の大部分は、男女共に大学への進学を希望し、はじめから就職を考える生徒はほとんどない。今春の卒業生の内、進学した者は、国立大学一一九名、公立大学二一名、私立大学六三名、国立短大一名、公立短大一六名、私立短大二〇名、合計二四〇名で、半数以上が浪人をしている。これは大部分が国立大学を希望し、最初から私立大学を希望する者が大変に少く、たとえ私立に合格しても捨てる者が多いことによる。 


瑞陵高校庭からみた校舎。右側が39年1月に完成した瑞光館。定時制生徒のための照明灯も見える


<生徒会、クラブ活動>  文化クラブ、運動クラブ共に多数があり、一応は全員どれかに所属して、なかなか活発に活動をしている。しかし大学進学を考えるため、二年生の二学期になると引退してしまい、それ故対外的な活動になるとあまりパッとしない。昔、野球部で名前をあげたことを覚えている人も多いが、現在はもう一つ根性が不足しているように思われる。 
  定時制の演劇部は、種々な悪条件を克服して、連続文部大臣賞を得ていることはたのもしい。

<同窓会>  卒業時に入会金を納入した者を会員に迎え入れており、卒業式後会長が歓迎の挨拶を述べることになっている。(今までは全員加入している)若い者と老年の者では同窓会に対する考え方がちがうが、年がたつにしたがって懐しくなってくるようである。 
  現在は、会長早川甚三(五中九回)副会長鈴木季彦(五中五回)同中神靖(瑞陵三回)同石川現校長以下常任幹事として 
  篠田武清(五中二〇回) 大井栄一(五中二一回) 脇田晴美(五中二一回) 西村嘉定(瑞陵定一回) 杉山正(瑞陵定七回) 高木修(瑞陵五回) 石川和子(実務女一回) 柴田章子(実務女一回)その他の幹事により運営されている。定期的行事としては、毎年八月第四日曜日が総会となっており、近年は瑞光館で行なうのが通例である。       

 (五中二一回脇田晴美記)



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2.愛知県実務女学校のこと

<戦争とともに>  戦時体制が日一日と緊迫の度合いを深めつつあった昭和十五年四月一日、名古屋市中川区篠原町にあった愛知県機械工業高校(現在は長良中学校が校舎を使っている)の一部を仮校舎として、愛知県実務女学校が誕生した。初代校長加藤曹一郎先生の開校当日のことばによると、この学校は「世界状勢の緊迫化にそなえ、女子の職場への進出をはかり、とくに工業方面ですぐに役立つ女性を育成する」ために作られたもので、一般の女学校とは違って三年制、一学年百人(二学級)という、当時としては−今日の時点で見ても−たいへんに珍しい学校だった。戦時体制の要請に即応してできた学校であるだけに、のんびりした教育は許されず、「五年分のコースを三年間でマスターしてしまう」ために、土曜日以外は連日七時間授業というきびしさだった。 
  新しい校舎はその年の九月、南区本星崎町に完成した。敷地五千坪(一六、五〇〇平方メートル)に建て物は三百六十坪(一,二〇〇平方メートル)。あき地は一面に私たちの背たけほどの雑草におおわれていた。(五中の創設当時も校舎のまわりはずっと雑木林と畑であったと聞く。そして生徒が毎日々々の労働奉仕で校庭を少しずつ広げていった、というが、私たちの場合もまたそれと同じであった)


戦災によって焼失、いまは跡かたもない


<作法室には仏壇>  ノギス、マイクロメーターなどの機械工具を備えた検定教室、大きな製図板がずらりと並んだ図工教室、そこでは小さいからだをいっぱい伸ばしてカラス口で一生懸命に書いた。現在春陽会で活躍されている山田睦三郎先生の図面の指導は熱心でやさしかったが、一面では〇・一ミリの誤差も許さないというきびしさで、家へ持ち帰って徹夜までして書き直したことなども忘れられない。商業方面では、簿記、珠算、タイプ、謄写板からお金の数え方まで、校名通りの「実務」に役立つ勉強ばかりだった。 
  しかし「女学校」でもあったわけで、りっぱな茶席もあり、一通りの生け花、茶の湯も修得した。作法室には、信仰心のあつい加藤校長のはからいで、親を失った生徒の亡き親の法名をまつった仏壇があって、随時おまいりできることになっていた。生徒の数が少なく、いつも家族的な雰囲気にあふれていた親しみ深い学校だったことのあらわれといえよう。 


実務女の校庭から見た校舎

  私たちの勤労によって広い校庭が整備された。まわりは東海道線が突っ切っている近くにミシン工場と数件の農家があるだけ。あとは一面の田畑で、現在の騒音、煤煙などの公害に悩まされている状況では想像もできない静かな自然環境のなかで育ったのは、いまから思えばしあわせだったといえよう。校庭の草取りと石拾いは日課であった。夏休みには、学校から二キロ余も離れた天白川の河原まで行き、七、八貫(三十キロあまり)の砂をつめた布袋を各自が背負い、砂のしめりと炎暑のなかの汗とでびしょぬれになって校庭へ運んだことも忘られない。体力増強と砂場作りの一石二鳥をねらったものだった。いまの中学生や高校生は同じ名目で三十キロの重荷を果たしてみんながかつぐだろうか、かつぐ体力と意志力があるだろうか、と思いたくなるほど、それは戦時中の得がたい体験の一つだった。


南区星崎町にあった愛知県実務女学校の正門


<修学旅行は中止>  戦争のしわよせは遠慮会釈なく、私たちの周辺にも及んできた。ミシンがずらりと並んでいるりっぱな裁縫室で、もんぺの仕立を実習し、そしてこれを着用して、知多方面の農家へ、春には麦刈り、秋にはいも掘りと、食糧増産の手伝いにしばしば出かけたものだった。その時おやつにいただいたふかしいものおいしかったこと、これもなつかしい思い出である。 
  この様な厳しい学校生活の明け暮の中で唯一の楽しい思い出となって私達の脳裏に残されているのは、三回生まで二年生の夏休みに野間の若松海岸で水泳訓練教室が開かれたことだ。海岸沿いの若松館で一週間、規則正しい訓練の中にも野間燈台や大坊の見学があり、友達同士買い物に出かけたり、海岸を散歩したり、中には親元を初めて離れたためホームシックにかかる人もあったりして、泣き笑いの合宿生活を送ったことだ。 
  体操は「教練」中心で、配属将校の切手藤雄先生に、冬もブルマー、運動シャツに素足といういでたちで、分列行進や竹やり訓練をさせられたものだった。 
  積立貯金までして楽しみにしていた修学旅行も中止のやむなきに至り、一日中歩いて神社仏閣におまいりする遠足、往復十六キロはあるかと思われる長距離競走などの苦行がそれにとって代わった。そしてついに三回生の三年からは、学徒勤労動員によって、住友、岡本の軍需工場での「月月火水木金金」の八時間労働に追い込まれてしまった。厳粛に行なわるべき卒業式も、工場での仕事が終わってから簡単にすませてしまうだけだった。

<全焼した校舎>  昭和二十年四月から、愛知県女子商工学校と改称された。しかし五月十七日、空襲を受けて校舎は全焼してしまった。渥美勤先生が宿直だったそうだが、落弾のすさまじさに、いのちからがら逃げるのにせいいっぱいで手のつけようもなかったとのことである。
  その頃の通学は、電車も汽車も超満員で押しつぶされそうになってデッキにぶらさがり、命がけであった。途中、空襲警報が鳴れば電車も汽車も止まり、付近の防空壕へ退避するか、安全と思われるところまで逃げたので、通学路の堀田−鳴海、熱田−笠寺を何度となく歩いたものだった。

<焼け残った物置で>   終戦後は、在校生であった四、五回生は待望の学習が始まり、女学生に戻った感じで嬉しかった。だが校舎もなく、僅かに焼け残った自転車置き場で、辛うじて雨露をしのぎ、借り物の机やいすを並べた不自由な学習生活であった。 
  食糧難が深刻なころのこと、午前中は授業、午後は校舎の焼け跡を耕やし、さつまいもなどを作る農作業であった。小さな身体にクワやスコップを使う労働は非常に辛く悲しかった。現在瑞陵高校定時制主事をしておられる鬼頭鐘治先生の優しい励ましによって元気づけられ、いっしょうけんめい働いた思い出も忘れられない。
  やっと岡本工場の寮が仮校舎となり、禁止になっていた英語も再開されたが、アルファベットと単語を少し習っただけで卒業したため、占領軍下の日常生活には物足りなく、劣等感さえ抱き、のちに英語学校で学んだ人も多かったと聞く。 
  大切な学校生活を学徒動員と終戦の混乱期にすごし、教科の習得は半分以下で、ハンマーやスキ、クワを友として得たものは何であっただろうか。五回生は卒業の際、学徒動員の報酬より授業料などを差し引いた積み立て金十九円を貰ったというが、これは授業不足の代償ともいうべきだろうか。前代未聞のできごとであった。 
  昭和二十三年四月に名南高校と改称、同年十月には瑞陵高校に統合された。このため名南高校の名前で卒業したものは一人もないという結果になった。

(この項、実務女一回石川和子、柴田章子)


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第5部の入力作業では、次の方々のご協力をいただきました。 敬称略  上原球志(瑞陵48回)、渡辺裕木(瑞陵47回,メキシコ在住)
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