Web版「五中−瑞陵60周年記念誌」


第1部 創立から大正末期まで

  1.瑞穂ヶ丘    2.創設     3.校風    4.大塚校長
  5.夢のあと



1.瑞穂ヶ丘

<記念樹>  瑞陵高校の西北、道路を一本へだてた一画に、県立大学、県立女子大学など三つ四つの標札を掲げ、いくつかの建物がそれぞれモダンアートの建築美を競い合っているのは一つの偉観である。その近代的な香りのきわめて高い一画の南隣には、これまたそれとは対照的に「明治村」的ないくつかの古い木造建物がひっそりと息づいている。そこはいま瑞穂ヶ丘中学校である。
  この古い建物が昔の五中の校舎の一部であり、そしてモダンとクラシックと双方の敷地をひとつに合わせた大きな広がりを、昔の五中はひとり陣取って四十年余の歴史を作ってきた。広々とした敷地に恵まれた家屋敷風の昔の五中、同じ敷地のなかにたくさんの大学、中学校、幼稚園が併立する公団住宅的な今日、もうそれだけですでに時代の流れがつかみとれそうである。
  瑞穂ヶ丘中学校の正門、旧五中の正門もそこにあった、生け垣は昔のままであろう、その正門をはいって右に折れると、すぐに古ぼけた大きな建物が目に入る。いかにもどうにか余命を保っているといったふうで,いまはほとんど使用に耐えない。明治四十年かにできあがった五中の講堂である。あの中央の演壇に向かって右の壁に「忠」、左に「孝」の掲額をおいた講堂も、はじめのころは当地には珍しい洋館として白亜の美をほこったものだが、もうとっくに使命を終えてしまった。この講堂の奧に、上級生が使っていた教室が二、三棟つづき、さらにちょっとはなれてぽつり建っているのは柔道場の名残りだろうか。
  しかしこれらの 屋も、明治のおわりから大正時代にかけては、「麗棟崇甍珠聯璧合するの偉観」(瑞穂第二号)をほしいままにしていたのである。市電大津町線に乗ると、窓から五中の本館と講堂が「天に向かってそびえ立って」みえたともいう。たいへんに大げさな表現だが、瑞穂ヶ丘一帯ばかりでなく、遠く熱田、金山あたりにまで威容を見せていたことは、一つの大きな誇りでもあっただろう。しかし時代の要請の前にはいかんともしがたい。かつては五中の一つの名物だった「五中山」が戦後とりくずされ、大学の近代的な施設が次々と設けられて「先輩どもが夢のあと」を完全に一掃してしまったと同じように、今日まで残されているわずかの明治時代の建物が片つけられてしまうのも遠いことではないだろう。愛惜の情大きいとはいえやむをえないことである。
  その講堂の前にいくつかの木立ちがある。いまでは緑濃いかげを落とし、清涼の風を越すまでに樹齢を重ねたこれらの木立ちは、二回卒業、三回卒業の先輩達がのこしてくれた記念樹である。その木の一本一本は代表の生徒がかけずり回って直接選んできたものだという。植木屋にまかせるなどといういい加減なことはしなかった。このなかには近年、愛知県の県木に指定されたハナノキもまじっている。根元の石にきざまれた「卒業記念」の文字を見るにつけ、何十年後の今日あるを期して、にぎやかに植え込んだであろうその時、その年の先輩達の意気がしのばれて感慨もまた新たである。いまでは同窓の士にさえも忘られがちのひとにぎりの記念樹である。しかし復元の可能性もない 屋と違って記念樹の方は生成発展、伸びることをやめない。五中を今日に語り継ぎ、さらに条件さえ許せば今後にも長らくかたりついでいくにちがいない具象のものとしては記念樹はほとんど唯一のものといってよいのではないだろうか。
  卒業回数シングルクラスの老童は、自分を含めて子、孫と三代にわたる風雪の数々のみのりを、みずみずしい枝葉の広がりに見るだろう。若者は親、祖父三代の一挙手一投足の積み重なりを、六十の年輪の重みの中に感じとるかもしれない。
  ただ戦前と戦後の間には、私達の生活社会、制度のほとんどすべてにわたってそうであるように、あまりに大きな切れ込みがあるのはいうまでもない。しかもその切れ込みは延長線上に一直線ではつながらないような異質の断層とでもいうべきものであろう。戦前の中学校は中学校としてのその存在を終え、戦後の高等学校は申請の高校として中学校とは無関係に発足し発展しているといえるかもしれない。そうしたことから旧五中のOBにとってみれば自分たちが親しんだ校舎もグラウンドも他人の手に移ってしまって後輩に受け継がれていないことに、郷愁を抱こうにも抱ようのないさびしさがあるだろうし、瑞陵高の同窓にとっても、自分たちのまわりには受け継ぐべき旧五中の足あとは何ひとつ残されていないことに、同窓意識をつなごうにもつなぎようのないもどかしさがあるかもしれない。
  それはいまさらなんとも致し方ないことである。しかしこういう考え方をしてみることはどうであろうか。戦争を境にして中学と高校と、両者の関係は、中味を改め場所を変えたとはいえ、一本の木にたとえてみれば、台木と「接ぎ木」の関係という見方をしては皮相にすぎるだろうか。そして五中から瑞陵高への転換期の移転を「移植」とみることはどうであろうか。そうまでして明治以来の流れの一貫性を強調するまでもないといえばそれまでだが、一面、瑞穂ヶ丘の歴史、なかでも学園史を語るには五中ー瑞陵高の六十年という一貫した流れを抜きにすることができないというのもたしかであろう。


<瑞穂の里>  今日、名古屋市の区の名称にも採りあげられている「瑞穂」の本籍地瑞穂ヶ丘がいつのころから瑞穂であるのかはともかくとして、このあたり、行政上はかつては愛知郡呼続町であり、名古屋市に編入されて中区御器所町と呼ばれ、昭和区瑞穂町と呼ばれ、今日の瑞穂区となった。この移り変わりそれ自体、興味あるテーマだが、さて五中創立前後の瑞穂ヶ丘はどんなふうであったのか。
  まず当時の名古屋はあらましどうであったか。明治四十年代の小学校の地理教科書は名古屋の人口二十九万と教えていたという。人工だけで言えば、今の大名古屋二百万のおよそ七分の一の規模である。国鉄の名古屋駅は現在地より南の笹島あたりにあって、笹島ステーションともいわれていた。市電(といっても今日の市営ではなく、私鉄の市内線という意味である)はその笹島から東へ千種駅までの広小路線と、江川橋から広小路に至る江川線とがあった。
  繁華街は広小路と大須の二カ所。「電信線は蜘蛛の巣の如く、街路には車馬の往来の絶えた事がない。電灯の光は昼を欺き、その光が電信線に映じ、その美さあたかも銀の錦を織ったようである。夜店は両側とも少しのすき間もなく露店が並んでいる。あちらでは大声にしゃべっているかと思うと、こちらでは鈴虫が美音をして鳴いている」(瑞穂第二号大正二年刊)とは当時一年生が試みた夜の広小路の描写である。もう一つは大須観音前のにぎわいであった。「(ここは)芝居活動写真など軒を並べ景気を競い、露店列をなし、柿を呼ぶもの、小田巻を呼ぶ者等有之候。空気銃、玉投げ等”一ぱいやりゃあせ”とて、名古屋なまりをもって客を呼び居り候。されどその声いとあわれに思われ候。堂前に至れば線香山の如く、煙は広く境内に拡がり、人皆雲の内にあると思われ候」(同号)これは二年生の作。
  ところで名古屋の市街地は、特に南東の方はどこまで広がっていたか、という点だが、国鉄の中央線が明治四十一年に開通している事実と、当時の鉄道は市街地を避けて敷設された事情を合わせてみると、少なくとも金山橋の以東に関して言えば、市街地の前線は中央線よりももっと内側に引っ込んでいたとみてよいようだ。先輩の思いで話を借りよう。
  「市電老松線の白山前に当たるところ、あそこが市街地の前線になっていて、南と東の方は一面の水田だった。東の方少し南よりに高等工業(現在の名工大)の本館がそびえているのが見え、西の方は大池のあたりから南へ、南大津町線の高台の下まで水田が湾曲して食いこんでいて、金山橋のところで東海道線と中央線との鉄路が出て、この水田の中を一つは南へ、一つは北へと走っていた。その南には高倉神社と熱田神宮の森が市街地の南側にこんもりと茂っているのがよく眺められた」(五中会々報第三号・昭和13年刊)
  この記述のなかの高等工業の本館のあたりから南の方にずうっと伸びているゆったりとした台地が御器所の丘陵地帯といわれる。名古屋の東山の丘陵をはじめとしてこれに並行して南北にひろがる何本かの丘陵の一本といってよいのだろう。それがはたからみてほんのちょっと小高いといった感じで南へのびて瑞穂ヶ丘となり、さらにゆるい傾斜をみせながら呼続、井戸田のあたりまでつづいているのだが、この広大な丘陵地帯は、松林がちらほらする以外は見渡す限りの大根畑と麦畑。この丘陵が水田を東と西に分けていて、西の方でいえば水田のなかを、ぽつんぽつんと散らばっている農家をつないでくねくねと通る何本かの道が市街地と瑞穂ヶ丘とを結びつけていた。だいたいそんな状況であったし、形としてはきわめて大ざっぱだが、今の名古屋市を上前津あたりを中心に縦横十文字に切ったとして、南東の四分の一の部分が、ここでいっている丘陵地帯と水田地帯であったということになるのではないだろうか。
  この大根畑と麦畑だけのひなびた瑞穂の里に、あるときにわかに学風吹きはじめ、二年、三年するうち、これはまた農村にはおよそ似つかわしくない「西洋風」の二つの建物が威容をほこるようになる。一つは第八高等学校の、もう一つはわが第五中学校の校舎である。この二つの学校が核のような存在となって、次第に都市的形態をととのえてくるわけだが、こうした田園の中の学園といった情緒ある環境は、基本的には大正時代をへて昭和のはじめまでつづく。昭和のはじめころ「雁道電停から本校の正門前に達するだらだら坂には商店風な家はまだ珍しくて、農家がニワトリ小屋と並んでいた。屋台店があんまき、よせなべ、おでんを売っていた」(五中会報第三号から)。このようにして桜山ー市民病院のあたり十八間道路が開通し、肥えだめやトリ小屋の臭気からだんだん抜け出して、赤い屋根、青い瓦の文化住宅がちらほら建ち始めたのは昭和六年ごろだろうといわれている。
  昭和十二年行われた創立三十周年記念式で時の田代校長は式辞のなかでこう述べた。「今日では住宅地帯の中心となり、また一大教育地帯になっております。土地は高燥で閑静、四囲の空気は清澄、西は熱田神宮と拝するを得、東は近く八事の丘陵を望み・・・」  今日の瑞穂ヶ丘一帯のほとんど飽和状態に達したかのような繁栄充実ぶり、わけても「一大教育地帯」のさらに発展した現況をみるにつけても、その昔、堂々の威容を誇示しつづけた母校の先駆的役割を改めて思い起こさずにいられない。


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2.創設

<一中で受験>  五中の設立が決まったのは明治三十九年(1906年)の十二月だった。記録によるとこうである。明治の末年、時勢の進運に伴い、愛知県内における中学校入学志願者の数が年とともに増えて、既設の四つの中学だけでは希望のはんぶんのもみたすことができないありさまだったので、県とうきょくがは増設の必要を認め、明治三十九年の通常国会に増設の議案を提出したところ、同年十二月見解はこの議案を可決した・・・。明治初年以来の文明開化と富国強兵という近代化の国是が、日清戦争と日露戦争の二つを勝ち抜いた余勢に乗って、より幅広い大衆レベルで推進されつつあった「発展途上区に」の当時の立場として、この要請は官民ともに当然の成り行きだったといってよい。
  既設の四つの中学とは、いわゆる愛知一中の第一中学校(現在の旭丘高校)、岡崎の第二中学(岡崎高)、津島の第三中学(津島高)、豊橋の第四中学(時習館高)である。このほか県下には私立の明倫中学(大正八年県立に移管、現在の明和高)、東海中学、名古屋中学、曹洞宗第三中学、県立の工業高校、農林学校の諸校があった。ナンバースクールはその後、五中についで六中(現在の一宮高)、七中(半田高)、八中(刈谷高)まで設けられた。(なお現在の高校は県立七十九、市立十一、私立四十九校=昭和四十二年度現在) 
  県はすぐに文部省に申請を出す。認可がおりたのは明治四十年一月。県で五番目の中学、第五中学校の設立はこれで本決まりとなる。校地は愛知郡呼続町大字瑞穂字山の畑及び西藤塚、現在の名古屋市瑞穂区瑞穂町山の畑。かつて第八高等学校のあったところ、現在名古屋市立大学経済学部の建物があるところである。面積五町五反六畝十二歩(一六、六九二坪、約五五、000平方メートル)なにはさて仮校舎の建築が始まる。
  校長には愛知県立第二中学校の大塚末雄先生が三月一日付けで任命される。岡崎町(当時の岡崎はまだ町だった。県下の市は名古屋と豊橋の二つだけだった)から着任した校長は県庁の一室に設けられた仮事務所で設立の準備にとりかかる。記録によると、三月三十、三十一の両日入学試験、四月一日合格者発表、四月十五日入学式兼始業式、四月十六日甲乙の二学級編制で授業開始、とあるから、創業の難事雑事、校長を含め七人の職員にとっては昼も夜もないありさまだったろうと想像される。
  「なにしろ入学試験だといっても、学校もできてないのに、どこへいったら試験が受けられるのやら分からない始末」と第一回卒業の「老童」はふりかえるが、試験は愛知一中の校舎で行われた。その一中も当時は今の大津橋の西、名城小学校のところにあった。受験生は五七四人(一説には六0四人)、合格者は一00人(一説には入学者一0一人)。このへんの数字のちぐはぐはいまでは正しようがあるまい。生徒定員が六00人だというのに、入学者が学年当り一二0人を下回っていたのは、おそらく教室が二つしか用意できないという仮校舎なるが故のやむをえない事情のためだったのだろう。競争率は六倍前後とたいへんな高率だが、当時は学校によって試験期日がまちまちで、どの学校をも順繰りに受験できたための大量応募だったようだ(明治四十二年度から県下いっせいの同時受験となった)。

  なお五中が創立された明治四十年は、豊田自動織機が創立された年であり、また名古屋港開港の年でもあった。今日の日本の産業界経済界の大手としての揺るぎない立場を占めるトヨタ、そして名古屋を含めた東海地方の経済発展、社会開発のかなめをなすに至った名古屋港という愛知県レベルを越えたそれぞれの歴史と、五中ー瑞陵高の足あとはおのずから次元を別にした問題であろう。しかし地域社会の開発発展の強大なバックボーンともなった豊田織機と名古屋港とのスタートと、これら発展の担い手たる人材の育成をめざした五中の創設とが同じ年であったことは記憶しておいてよいことである。



「御器所の二本棒」と仮校舎(明治40年)

<御器所の二本棒>  ところで仮校舎は文字どおりかりそめのバラック。瓦葺きの平屋建て一棟だけである。校門はない、囲いもない、入り口に杉の丸太ん棒を焼いたのが二本、不細工に突っ立っていて、一本の柱に第五中学校の標札がぶらさがっているというだけの殺風景な構え、というよりはむしろ世にも奇態な「新設中学の表玄関」であった。世人はこれを「御器所の二本棒」といった。いまの名古屋市立大学の建設中の学舎、そのあたりに仮校舎があって、二本棒は西側の道路に面して立っていたわけである。しかし殺風景なりとはいえ、とにかくこれが五中の産声でありスタートであった。
  さていよいよ授業が始まる。しかしなにしろ急造の仮校舎、あるものは教室二つと教員室と柔剣道室兼物置兼控室、ほかに小使室と便所がすべてだ。天井がないから、隣の教室の音声は筒抜け、声が大きな先生となると、どちらがどちらの時間なのか区別がつかないこともあったというし、ある生徒のおならが隣まで響いて、ために双方とも授業がおじゃんになったこともあったらしい。「先生は鉱物兼地理兼歴史、あるいは算術兼漢文などと多角形のもあって、教える方もいい気なものだが、教えられる方も平気だった」ということだが、一年生しかいないのだから、この態勢で結構間に合っていたのかもしれない。 
  校庭などというとのったもはない、一面の大根畑を地ならしして運動場を確保するためには、百人の生徒自身の自発的な作業によるほかなかった。 
こうしてテニスコートも二、三回作りあげたが、ところどころにある下肥つぼをそのままにしておいたため、サッカーなどでタマを追っていて落ちこむこともあったとかいう。体操の時間などに、ぬいで並べてある上衣の当たりに白や黄のチョウが、舞いたわむれていたり、空にひばりが無心にさえずっていたり、といった具合で野趣満々だったようだ。 
  こんな仮校舎でも、建ててくれた地元呼続の有志に対してであろう月四十万円なりの家賃を払っていたという。
  翌明治四十一年にはもう一棟、板ぶきの平屋が建ち、生徒も新しい一年生九十七人がはいってきて、ぜんぶで四学級となる。 

<大根ふんで移転>  ところが基礎もようやく固まりかけようとする所になって、校地を明け渡さなくてはならない事になる。第八高等学校(官立)が設けられることになり、その敷地として愛知県当局は五中の校地をそっくり八校に提供してしまった。押し出された形の五中には、その地点から南東の方向に五、六百メートルはなれた地所を当てられた。同じ呼続町瑞穂の神ノ内及び高田という地籍、現在は瑞穂区瑞穂町高田。県立大学、瑞穂ケ丘中学などが建っている所である。面積は一六、三00坪、五三、八00平方メートル。 
  移転先の新しい校舎の完成を待って、明治四十二年一月の終わり引っ越しとなる。一、二年生およそ二百の生徒が、それぞれ自分の机をかつぎ、途中の大根畑の大根をけとばしたり、ふんずけたりしながら新校舎に移った。校舎はさしあたり教室だけのたった二棟とはいえ、こんどは本建築である。 
  この年さらに教室一棟、屋内体操場、生徒控所、図画教室、便所、寄宿舎二棟ヶできあがって、八高の校舎とともに瑞穂の里に偉容を放つ土台をだんだん固めていくことになる。

<泥んこ通学路>  はじめのころは教室二棟だけで、校長室も教員室も、あいている教室を代用しているありあさま。以前の山ノ畑時代と同じように玄関もなければ門らしい門もない、校庭はこれまた一面の大根畑とひと握りの雑木林である。それでもふれこみは中京名古屋の新設中学校というのだから、堂々たる威容を予想して東京あたりから赴任してこられた先生方はおどろくというよりはすっかり面くらってしまわれたようである。 当時の五中の位置、環境を案内広告式に表現すればこうもなろうか。敷地広大、眺望絶佳、閑静、ただし交通は至って不便、道路は雨天時使用に耐えず、臭気紛々、電燈なし。 
  すでにふれたように、農村地帯とあって学校の周辺には民家がぽつりぽつりとあるだけ、だから寄宿舎にはいっているとか、近くに下宿している少数のもの以外の大部分の生徒は熱田から大須から、千種から、あるいは鳴海、大高からと、四キロあろうが六キロあろうが歩いてかよった。鳴海からは約十キロ。自転車はまだまだ高嶺の花、当時鳴海じゅうで二、三台しかない状況で、百二十円くらいしたのではないかという。

五中の本館(左)と講堂(右)


五中の全景(二枚とも明治44年、落成式前後のものと思われる)
 
  通学路は、まず例外なく水田の間をぬっている農道にすぎないだけに、みんなが悩まされたようだ。たとえば熱田方面からの通学は、高蔵の停留所から東の方、兵器廠を通って雁道を抜け、だらだら坂をのぼっていくコースだったが、兵器廠の建物をはなれるともう見渡す限りの田畑で一軒の家もなく、人力車も通らぬような小道がうねっていただけだという。

  つゆどきなど雨が降りつづくと道と田畑の見分けがつかなくなりとてもクツをはいて歩けるような道ではない。ひどい時には田の水があふれ出て膝まで水つかりになることもあったらしい。当時新任のある若い先生は述懐している。「こんなひどい泥んこ道だから、一週間もするとたった一足のクツが台なしだ。ゴム長グツなどという重宝なものはなし、安月給の身には笑えない痛手だ。すると同じ思いとみえる同僚のK君がわらじをはいてくるではないか。そこで自分も早速まねをしてわらじをはいてみたら、こんどはK君ははだしで歩いている。またまた自分も追随した。春から夏にかけては、はだしもまた気持ちのよいもの。おかげで三年間一足のクツでこと足りた」(五中会々報第三号より)これではいよいよ面くらうばかりだったろうと思われる。下駄をはいてきて、洋服にゲタは不体裁だと校長にたしなめられたり、荷物を背負い、雨合羽を着てわらじばきという前時代的なスタイルで登校した先生もあった。先生にしてクツを惜しむことこの始末だから生徒はなおさらだ。なにしろクツというものは中学へ入学してはじめて買ってもらえるほどの貴重品だった。ゲタばきで家 を出て、途中の農家でクツにはきかえ登校姿に改めて校門をくぐる生徒は少なくなかったようである。
  いまのように、あの角この角を曲り、正門のすぐ前までこないと学校の姿が見えないのとは違って、小高い丘の畑のなかの一軒家的存在だから、学校ははるかかなたから一望のいもとだった。遅刻常習のある生徒が、学校まであと七、八メートルあたりまでくると、すでに運動場で朝礼をやっているのがみえる。あわてて走り出すが、半分も行かぬうちに生徒の列が教室へ吸いこまれていって、結局始業に間に合わなかった。その生徒がたまたま早く通学路に姿を見せる。ほかの生徒は、彼が現れたくらいだからよほど遅れているのだと思いこんでみんな走り出してしまう、というわけで彼は五年間ついに同級生とつれ立って登校するという日がなかったという。 


卒業式風景


五中山をバックに(明治時代)

  なにしろバスが走っているというわけではない、市電もいまの鶴舞公園あたりまでしかきていない。一歩一歩しかなかった通学路、雨に泣かされた田舎道だった。春にはタンポポ、レンゲをふみわけるのどかさ、夏には道端や田んぼにおどるかげろうの強い刺激、秋は稔り多い“瑞穂”の波の豊かさ、冬の身を切るような西北の伊吹おろしのきびしさ、すべては遠くに色あせ手しまった。今の御 小学校の近くに松林に囲まれたきれいな池があった。学校からの帰途、身をかくして道草を食う絶好の場所としてよく利用され、人生を論じ、先生のあだ名を相談し、夏には泳いで遊ぶなど、昭和五、六年までのOBには忘れられないオアシスとして今でもよく話題に出る。 
  ともあれ、一面の水田の彼方に横たわる小高い丘陵地、松林や雑木林が点々としているその丘が朝霧にぼんやりと浮かんで、そこへ朝日がなごやかに光を投げかけている。そうしたなかを白服の中学生があちらこちらから学校さして三々五々に急ぐ姿はいかにも田園のなかの学園にふさわしい一幅の絵といえるのではなかったろうか。 
  考えてみればこのあたりをいそがしげに通るものといえば、五中の生徒しかいなかったわけである。明治四十三年ごろ、千種から御器所へかけて五間幅(九メートル幅)の愛知郡道ができ、当時は名古屋の東を通る唯一の幹線だったが、利用するのは五中生の一部だけで、ほとんど草におおわれ、道という感じがしなかった−そんな状況だったのである。

<”大根中学”の異名>   第五中学でなくて大根中学だとからかわれるほど、初期の五中を語るのに大根は欠かせない。小型で甘味があり、たくあんづけにした風味はなかなかに捨てがたいと珍重されたという御器所大根(通称青大根といった。地表に出ているところが多く、白いより緑がかっていたので)は瑞穂ケ丘の一帯をびっしり埋めつくしていたといってよいほどの特産だったようだ。 
  学校の構内といわず周辺といわず大根畑である。腕白ざかり茶めっ気じゅうぶんの中学生にとって大根がなんの関心も呼ばぬはずはない。大根の地上に出ている青首のところをクツでけって拾いあげ、クツスベリで皮をむいて食べたとのことである。「淡白な甘味と水分、いま思うに発育ざかりの中学生にとって、このビタミン豊富なナマ大根ははなはだ結構なものであった」と、大先輩の思い出はずいぶんいい気なものだが、彼らは格別ガツガツ飢えていたわけではあるまいし、栄養の補給を大根に求めるほどにビタミン知識にくわしかったわけでもあるまい。地上に出ている青首の部分は泥土にまみれてはいないとはいえ、それをおよそ清潔とはいえないクツスベリを使って皮をむいて、一応清潔感をも味わったらしい非合理的なバンカラが受けたのであろう。時には耕作に出ている農民の目を盗んで大根を切りとるという離れわざを楽しんだ生徒もあったとか。農民の表情がしぶかったのは当然だろうが、当時この広い大根畑でこんないたずらをするのはひとにぎりの五中の生徒以外にはないのである。中学生のいたずらにクワふりあげてどなりちらすほどがめつくはなかったというところか。ただし 収穫時になって、道端の木という木にびっしりと吊して干してある大根にいたずらした時は追いかけられたり、学校にどなり込まれたりしたものだ。 
  学校のなかでは大根合戦などという妙な遊びが流行したことがある。昼休みになると、屋内体操場は上級生、下級生の別なくいっぱになる。と、そこへ手に手に大根をぶらさげた上級生の一団が現われる。大根のぶっつけ合いが始まる。下級生は何が何やらわけも分らずに逃げ回る。へたに投げ返して上級生の顔にでもぶつかったらあとのたたりがこわい。悪意があるのではなく、ただ投げつける、投げ返すだけの動物的な遊びだたに違いない。何やら女の足を連想させる大根を、かじってみたり、か弱い下級生相手に投げつけてみたりといった行動は、あるいはフロイト心理学で解明されるかもしれない。この野墓ったい大根合戦、大正八、九年からの遊びだったという。 
  なお五中の校旗、紫紺の地に“五中”の金文字をあしらった校旗は、構内にできた大根を売り払った金で作ったといわれている。もし費用の全部を大根でまかなったとすればよほど大量にとれたのだろう。“大根中学”の面目また躍如といっては軽率であろうか。 
  前の仮校舎時代に、構内の一面の畑を生徒たちの勤労奉仕で切りくずしながら、だんだんと運動場をひろげていったのと同じように、こんどの場合も外部に一切たよらないで、生徒の自力による開拓作業が始まった。木の根を抜き、石ころを掘りおこすなどの根気よい作業で、テニスコートを作り、野球場を作るなどして順次整備していった。 
  校庭の北方に、後になって五中山と呼ばれた小山があり、春のうららかな日にこの小山の若草に腰をおろして見はらしのきく青々とした畑を眺め、空高くさえずるひばりの声を聞いて、始業ベルを聞きもらす、というのは生徒よりもむしろ東京あたりから赴任してこられた先生方の感慨だったようだが、一方では授業中に、化学肥料ならぬ自然肥料の「ふくいくたる香りに見舞われて呼吸困難を来たし」窓をしめねばならなくなったこともしばしばあったとのことだ。 
  こうして明治四十年の創立から数年間、仮校舎−移転−本校舎−整備に至る一連の創業は、校長、先生、生徒の別なく学校ぐるみでたゆみなくつづいたわけだが、この時代の、のどかとも、野趣たっぷりとも、おおらかとも、どのようにも表現できるそういう環境というものが、生徒たちが学び、鍛え、育っていくうえで、そして五中独自の風格を作りあげていくうえで、有形無形のはかり知れない影響を与えた、ということをも見逃すことはできないだろう。


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3.校風

<落成式>  さて校舎の三年がかりの建築は、明治四十四年、講堂と本館の完成を最後として終わる。この年はまた生徒の方も一年生から五年生まで全部そろったはじめての年である。「鳴呼、想起すれば既に五歳の昔、麦浪菜谿の中にわれ等は親しく学びの第一歩を授けられたりしも、すでに過ぎ去りたる夢となりて、以後星移り物換り、今や此処瑞穂ヶ岡の一角に、新校舎数棟その成を告げて、白堊雲甍相錯落するの偉感を現出するに至りぬ。余等の喜悦それ何物か、之に如かんや」(瑞穂二号より)というわけで七月一日落成式が新装の講堂で行なわれる。「時や将に梅雨溽暑の候、朝来霏々たる雨にもかかわらず、朝野貴顕の縉紳はあるいは馬車に、あるいは人力車に陸続として来校せられ、午前九時半盛典は開かれき」(同)馬車でやってきたのは文部大臣代理であろうか、知事であろうか、まだ整備されていない悪路を、むし暑い日の雨のなか、馬車にゆられるのもなかなかのことだったろう。
  校舎の全容はつぎのとおり。本館、講堂、教室三棟、生徒控所、屋内体操場、図画教室、理化博物教室、寄宿舎二棟(のち教室に改修)、寄宿舎食堂(のち剣道場)、同炊事場(のち銃器室)、同病室、ほかに倉庫二棟、門衛など。
  この日の校長の式辞によると、職員三十人、生徒は五学年十三学級、五百四十六人である。[ちなみに明治四十年に入学した百人から、順次四十四年までの五年間の入学を累計すると六百二十九人。これがそれぞれ五年たって卒業したときの数、明治四十五年の第一回卒業六十六人から第五回卒業までの合計は四百十人である。卒業の数は入学数に対して六五パーセントにすぎない。三五パーセントにあたる二百十九人は死亡(六十二人)、転出、退学(途中で上級学校に進学したものを含む)というわけだが、これは今日に比べるとたいへんな高率といわねばなるまい。”復校”という制度があったようだが、学半ばで志しを折る退学者が少なくなかったことを示すものといえるかもしれない。当時は中学を終えるということは学力、学資、体力などの面でそう簡単ではなかったということなのでもあろう。](別掲の一覧表参照)
  余談のついでに、授業料は創立当初、月一円五十銭、明治四十三年から一円七十銭、大正五年度から二円に値上げされている。参考までに明治末年の物価は、米が一・五キログラム(約一升)約十三銭二厘、コーヒー、紅茶など一ぱい五銭だった。
  さてようやく形をととのえた五中の来し方をふり返り、今後を思うとき、感慨もまた新たであったのは当然であろう。当時交友会の学芸部の部員はこう書いている。
  「ああ、芸文の花彼方に咲き乱れ、思想の潮此方に湧きめぐる聖代に会して、紫淡くたそがるる瑞穂ヶ岡の入日をうたい、春や若草萌ゆる辺りに会心の友と理想を語り、秋や大空独り澄むの時、静に万巻きの書を繙て読む、吾等五百の徒こそまことに幸というべけれ、福というべけれ」


<記念武道大会>  落成式のあと、講堂で記念武道大会が開かれる。一中、二中、農林、東中、曹中などから選手を招待、剣道と柔道に”竜攘虎摶”の活況をみせたが、キャリアの差というか、練習場に恵まれないハンディのせいか、本校選手の成績はどちらもパッとせず、剣道優勝者への白ざやの太刀も他校の選手が持っていった。しかしそれでも「顧みてこれを過去に徴せんか、その発達進歩果して幾何ぞや」と結んでいる。  陸上運動会も落成記念の行事として、雨天順延のあと開かれ、ここでも一中と東中の選手を招待したが、なにせ相手はいずれも「県下一流の勇者、猛将のみの戦なれば」本校生はまるで歯が立たなかったようだ。校内クラス対抗の四百ヤード競争(三百六十五メートル)は唯一最大の呼びものだったらしく、その記事も生き生きとしてなかなかの名文である。「選びに選びたる一騎当千のイ駄天十三名、必勝の気、眉宇の内に溢れてスターとラインに就けり。一発の銃声、四囲の空気を撼すや、ドッと起こる声援の裡に、各選手は風を切って駆け出しぬ。励ますもの、励まさるるもの、ともに夢中、たちまちにして二周も終わ り近くなりしころ、二、三番目にありし浅野三郎は疾走また力走ついによく先頭の福沢を抜くこと数尺にして決勝点に躍り込む、時を費すわずかに五十秒」
   [余談。当時の交友会誌を見ると、長さの単位がまちまちなのがおもしろい。陸上競技がヤード制なのはイギリス式のせいだろうか、軍事教練がメートル法なのはドイツ式、水泳は古式泳法のためか遠泳の距離を町(一町百九メートル)で表していた。後年、陸上競技もメートル法になるが、ヤリ投げ、幅とびなどフィールド競技は尺であった。]

<御真影奉戴式>  この落成式に先立ち、講堂が完成したのを待って、御真影奉戴式が行なわれた。天皇、皇后のお写真を講堂中央の奥に「奉安」する儀式。明治四十四年六月二十四日のことである。
  明治憲法で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇コレヲ統治ス」る国であることを強調すればするほど、「忠君愛国」とか「ヨク忠ニヨク孝ニ」といったスローガンは教育の第一のポイントにならざるをえない。中学校の教育もまた「忠孝」の精神をはなれてはありえず、半ば神格化された天皇のお写真をいただくのは当然のことであった。この日、「かねてその筋から本校へ御下賜相成りたる両陛下御真影拝受のため」職員生徒は全部そろって県庁へお迎えにいく。校旗を先頭に、五年、四年は武装し三年以下は徒手で県庁に着き、門前に整列していると、ほどなく校長は、白い布で包んだ御真影をかかえて出てきた。「一同は最敬礼を行ない、直ちに五年、四年を藻って御影の前後を護衛し奉り、謹みて本校まで御供致し、ここに目出度く、御影を校内に奉迎し奉れり」このあと校長の式辞、扉を開いてお写真に最敬礼、君が代を二度斉唱、各組ごとにお写真の数歩前まで前進して最敬礼、順次退場していって式を終える。ことのよしあしはさておき、戦後には見られない形式ばった厳粛な儀式である。
  なお「本校の歴史の中で最大の栄誉として感激おく能わざるもの」(三十年記念式での校長式辞)とされたのは、明治四十三年十一月十八日、皇太子殿下(のちの大正天皇)が本校に行啓されたことである。この年、愛知県下で行なわれた師団対抗の演習を御覧になった殿下は、あとで名古屋市内の各学校を巡啓された。本校へは十八日行啓、当時は本館も講堂もなかったので、教室代用の職員室を便殿にあててお出でを仰いだところ、三教室の授業と生徒作品を御覧になった殿下は、お写真を下賜されたうえ、大塚校長ほか二人の職員に拝謁を賜わった。ともあれたいへんな感激だったと思われるが、それを具体的にうかがい知る資料はない。
  この行啓を記念し、交友会の行事として学芸競技会というのが今後毎年この日に行なわれることになった。たとえば英語は四、五年共通、数学は一ー三年共通の問題という具合で、後年の実力試験、模擬テストに近いものだったようだ。
  ともあれ天皇、皇后はじめ皇室関係のことは、学校の日常の行事のなかでも最優先して扱われたものである。「皇太子殿下行啓あらせられるにより奉迎す」とか「天皇陛下福岡県へ行幸あらせらるるにより熱田駅にて奉迎奉送す」などの記事が、交友会誌に重要記事として残されているほどだし、全校そろって一泊二日というはじめての宿泊旅行で伏見桃山へ出かけたのも、完工したばかりの明治天皇の御陵に参拝するという光栄ある目的なればこそであった。
  名古屋市内に行幸啓され、お泊まりになるというときは、中等学校以上の学生生徒は名古屋駅前から広小路通りへかけ、ずらりと並んでお迎えし、お送りした。明治天皇は名古屋がお好きで京都へお出かけの折りなど、よく名古屋にお立ち寄りになった。年に二、三回はあったという。整列の順番と場所は決まっていて、八高、師範学校、一中の次が五中、あとその他大ぜいの学校が並ぶ。五中の場所は柳橋と納屋橋の間。ところでこんな時、五中はわざわざおくれて行ったのだそうである。私立その他大ぜいの学校がすでに、長い列を作って並んでいる、そのすぐ前をゆうゆうと行進して、所定の場所に整列する、これがなんともいえず愉快であり、自慢だったという。お車が近づいて最敬礼、「あまりの気高さ、神々しさによくも拝せず、ただ頭のみおのずと下りぬ」と実にまじめなものだが、授業は休みになるし、大威張りでデモンストレーションはできるし、とにかく愉快だった、と老童たちはなつかしむ。そしてこんなある時、道路をはさんで五中の向かい側にたまたま県一女高が並ぶことになってしまい、中学生と女学生が向かい合って並んだというので生徒の間ではもちろん、学校でも”大問 題”になったことがあるという。

<第一回卒業式>  さて明治四十五年三月、第一回卒業式を迎える。「我を博くするに文を以てし我を約するに礼を以てし罷めんと欲して能わず既に吾才を竭せりとはこれ豈亜聖顔子が孔夫子を欽尚せる語にあらずや生等もとより古賢を以て自ら居るの妄を懐くにあらずといえども今日生等が感懐また殆んどこれに邇きものなからんや」これは卒業生総代(服部譲次)の、校長訓示、生徒総代(谷川徹三)祝辞に対する答辞の冒頭の一節である。句読点もない漢文調の文章は儀式用のものとしてはごく当たり前のことだったが、修辞上かなり気負っているとはいえ、この答辞の内容といい風格といい、堂々たるもの。一読してその意をつかむことさえ容易であるまいに、当日これを耳にして列席者の何人が直ちに了解できたかはさておいて、名答辞句として残すに値しよう。
  答辞はつづく。「方今世上青年の徒浮華これ事とし放慢これ喜び滔々として率いて風をなすの秋にあたり生等をして別に帰向する処あらしめ質実剛健を以てその本分となし真摯着実修めてまた他事なからしめ罷めんとして罷む能わず以て今日あるを得しめたるものこれ実に諸先生の恩徳たり」ーいまどきの若いものはでれでれしているといわれている時、われわれが質実剛健を本分として、まじめにやってくることができたのはひとえに諸先生のおかげ、というわけである。
  ところで質実剛健といい、真摯着実といっても、これは格別、五中の独自のものではなかろう。当時の中学校のほとんどが本分としていたのはおそらく五中と大同小異の質実剛健であり、真摯着実だったと思われる。
  当時は”文明開化”の波にのって、”ハイカラ”が大手をふってまかり通った反面、その副産物ともいうべき”浮華軽佻”の風潮もようやく目立ち始め、為政者あたりからかなり白い目で見られていたころである。明治四十一年、第二の教育勅語ともいうべき「精神作興に関する戊申詔書」が発せられたのも、あるいは四十四年、中学校の兵式体操が「教練」と改められ、柔剣道が正課に取り入れられたのも、青少年の浮華軽佻への傾斜を押えて、質実剛健への定着を試みたい当局の意図の二、三のあらわれとみることができるが、愛知県当局の方針もまた、質実剛健の気風の奨励にあったのは当然のいきさつではなかったろうかと思われる。(「方今世上青年子弟の徒」の浮華軽佻ぶりが表現こそ違え、いつの時代にも一様に嘆かれている歴史の繰り返しは、おとな対若ものの間のいわば宿命であろうか)
  さてそれでは五中らしい質実剛健というか、あるいは質実剛健の五中らしい現われ方とはどんなものだっただろうか。まず一回生は「将来第一回卒業生として五中の声価を決定すべき責任を自覚し、よく勉強もすれば自重もする、まことにおっとりとした尊敬すべき生徒たちであった」というある先生の回想を待つまでもなく、おとなしくてまじめだったようだ。考えてみれば彼らには責任のみ重い長男坊主みたいで上級生というものがいない、大塚校長は他校からの転校を認めなかったというから、卒業までの五年間を通じて異質のものがまじるということがなかったわけで、このように純粋培養みたいなきれいな学年は、ほかにちょっと例がないのではないかといわれるほどだった。それというのも自分たちの手で校風を作らねばならぬといういわばフロンティア精神が何かにつけて彼らを緊張させていたからだ、遠足などでそとへ出ても、格別はしゃぐわけでもなく、実に規律正しい生徒であったのもそういうきまじめさのせいだという解釈、いやたまたまおとなしい生徒ばかりが集まってしまったからだという見方、先生たちの方がむしろ緊張してしまって指導、教護などの面で、きれいごとに走り がちだったという見解、いろいろであろうが、そうした条件のなかで、ともかくも一種の風格といったものを一回生たちは作りあげていったのである。
  何かにつけて五中のライバルとなるであろう愛知一中は、古い伝統をすでに確立しているばかりか、スポーツの面でも全国的に名声をはせていた時代である。だから「われわれとしては、勢いまた別箇の行き方をとるのほかないし、大塚校長の方針もまた一中のやり方とは異っていた。ただ堅実に質朴に、こつこつとまじめに、知育、徳育、体育にいそしんだ」(五中会会報第三号より)。その結果、一歩々々新しい後進を抱擁しながら、五年の間にともかくも作りあげた風格というのは、派手な色彩に欠けてはいたが実直で堅実、血の気の多いはつらつたる少年としてはどこか一つ物足りないが、ワクをはみ出さない均衡のとれた優等生タイプ、といったふうのものであった。「質実」の方はまず望ましい方向に伸びていったが、「剛健」の方は「剛」にややブレーキがかかって一種のひ弱さとなって現われたというところであろうか。
  「どこか物足りない枯淡味」といい「胃下垂的な内気」といい「惣領の甚六的おとなしさ」といい、いずれもそうした風格を作りあげた先輩の自省であるが、この躍動してやまない覇気といったものに今ひとつ欠けているマイナスの要素はどこから出てきたのであろうか。ある先輩の弁を借りよう。校風を意識したのは卒業後、進学した上級学校で他校の出身者といっしょになってからだ、ふだんはどの学校のものでも一様に温厚篤実そのものなのだが、何か問題が起きると肌身についた校風がちらついてくる。五中のライバル校のうち、A校の出身者はとにかく意気盛んで、一席弁ずるという傾向がある、B校は温良ではあるが、かげで何やらこそこそささやいている、それはそれで結構なのだが、もっと活気があってよい…。
  育ちは争われぬとよくいうが、校風というのも要するに育ちである。よほどとりすましたつもりでいても、さて、という時、いったんしみこんだ校風というものはかくしおおせるものではないだろう。  同窓二万余。しかし少くとも今日までのところ、天下に号令するといった政治家は出ていない、財界、官界の大立者も出ていない、名将、名提督といわれた軍人も出なかった。人を引き回すといったスケールの大きい、ケタはずれの傑物は出ていない。五中タイプというのは、いってみれば学者タイプ、秘書官タイプというか、マネージャー型というか、ワクからはみ出すことのない、常に平均点の優等生タイプなのである。こうした現われ方が残念なことであるかどうか、幸であるか不幸であるかは別の問題、全体としてこういう傾向にあることは否定できないのではあるまいか。「もっとこづき回してくれたら、われわれはもっとえらくなっていただろう」という老童たちのことばがある。これは一つのポイントをついた自己反省であり、学校に対する批判でもある。
  しかし校風をうんぬんする場合、見逃がせないのはなんといっても大塚校長の存在であろう。いつの時代、どこの場所を問わず、指導者、首長の性格ほど忠実に投影されるものはない。大塚校長は五中の創立いらい実に十九年という長い間、学校づくり、校風づくりに専念された。五中の校風は大塚校長の人格の反映だったといってよいのだ。



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4.大塚校長

<十九年の勤務>   大塚末雄  五中初代の校長である。冒頭の項でもふれたように、明治四〇年三月一日、五中の創立とともに、岡崎の第二中学校長から赴任され、大正十四年九月末、依頼退職されるまで、実に足かけ十九年という長い間、校長の職にあられた。私立の学校ならともかくとして、公立の中学校の校長でこんなにも長い間、同じ学校で勤めたという例は非常に珍しいのではあるまいか。(ついでにいえば、このあとを継がれた二代目の校長、田代慎思郎氏の在任も大正十四年から昭和十二年十月末まで十二年の長さにわたっている。初代、二代の二人の校長で創立いらい三十一年をつとめたというのは全国的にみてもきわめてまれな例といってよいだろう) 
  大塚氏が二十年近くも五中の校長であったということ、それは、氏が県立中学の校長としてどんなにか適任であり、どんなに安定していたかを示すものにほかならない。そしてまた五中創業の難事にあたりつつ、ふさわしい校風をきずき、ゆるぎない伝統をつくる中心的な存在としての立場で、持てるエネルギーのすべてをつぎこまれた、大塚氏は、半生を五中のためにつくされた、ともいえるであろう。五中の誇りとしてよいだいじなことの一つである。


大塚末雄校長

  大先輩たちの大塚校長の印象は、といえば「きびしかった」「こわかった」「とっつきにくい感じだった」「なんとなくまいってしまった」などというところに尽きる、ところが「だが、しかし・・・」がすぐつづくのである。「だがしかし、あの特異な風貌には尽きせぬ滋味があった」「なんといってもあの厳粛な長ひげには、みんなすっかりあたまをさげてしまった」「どんな風にえらいのか、うまく表現できないがこれはどうもえらい先生だと思った」「やはりすがりつきたいような温かみも多分にあった」何というか少年どもをふところに抱きあげるといったものがあって、それがわれわれの胸を打ったと思う。」(五中会報三号より)など。`十九年の貫禄´というものであろう。

<ゲートルのうらみ>  きつかった、こわかった。たとえば、エリのついたシャツは禁止である。毛のシャツも許されなかった。エリのついたシャツをきていようものなら、ハサミでジョリジョリとエリを切り取られてしまった。いまならたいへんな人権問題であろう。
  ゲートルのボタンもやかましかった。昔の陸軍のようなぐるぐる巻きの末をひもでとめる式のゲートルではなくて、海軍の陸戦隊のようなボタンつきゲートルだった。(あとで陸軍方式にかわった。)このボタンがよくとれた。ボタンの位置によってゲートルの太さを調節するのだが、ゆるやかにつけておくとゲートルがずり落ちるし、きちきちにつけておくとボタンがとれてしまう。ボタンがとれたゲートルはぶざまの限りだ。校長は時たま校門の前にたって、登校してくる生徒の服装を点検し、ぶざまな服装の生徒をオミットしたという。そういう生徒は集団の中にかくれるような形で校長の目を逃れながら校門を`突破′するか、それとも禁を破って校門以外の間道から`潜入′するありさまだった。ゲートルは白だったから、ボタンをとめる糸も白でなければならなかった。黒糸だとむしりとられた。 


大塚校長以下職員一同(明治時代)

  ところでこのゲートルに対する生徒の抵抗感はかなり強かったらしい。ボタンがどうのといったわずらわしさもさることながら、行往坐臥ゲートル着用のことというおふれにカチンときた。教練などの場合はまあ当然として、英語の時間でも化学の時間でもゲートルをつけていなければならなかったのである。クツをぬいでもゲートルをとることは許されぬ。そのうえ上ばきも認められていない。上ばきなしのクツ下一枚で激寒のころなど、休み時間はたえず足をふみ鳴らしてでもいないとどうにもならなかったという。クツ下といっても、いまの強い化繊ものと違って、軍足というかかとのないのっぺらぼうの、すぐにアナのあく白いクツ下である。そんなクツ下さえもはいていない生徒が少なくなかった。 
  それにしてもゲートルの常時着用というシステム、「これはいったい何たることか。今思い出しても腸のにえ返る思いだ」と第一回生は書いている。「ああいう馬鹿げたお達しに服従せねばならなかった無力の生徒は致し方なしとして、ゲートルなど学校へ備えつけておくようにすればよかったのではないか。毎日毎時こんなものをつけていて何の利益があったか。私は下肢の血液循環が悪くなって衛生上よくないと思った・・・。」もっともなかには「通学路があまりに悪かったので、大塚校長がゲートルを強制されたわけで、憤慨したのも一部あったようだが、そのお心尽くしのありがたさに感謝する」という謝恩派もある。ゲートルの先が泥よけのスパッツになっていたから、泥んこ道を往復するのに助かったことは事実だろう。

<無為にして化す>   校長は決して弁の立つ人ではなかった。「エー、エー」とことばを探しながらしゃべるといったふうで口数は少なかった。校長室は最も権威のある場所だ。そこへ呼びつけられるほどの生徒は、二こと三ことの訓戒ぐらいではすまない要注意の連中である。生徒の方もふてくされてはじめのうちはかなりの反発心を持って校長の前に立っているのだが、ポツリポツリとさとされているうちにどうにも手も足も出なくなってしまう。卒業までに二十数回も校長室へ呼びつけられたとある先輩にしても、その都度、心の底からまいった、という気持ちになってしまうというのである。一見しただけで謹厳そのもの、教科は修身を担当していたというのにふさわしく、「子ノタマワク」「アニソレシカランヤ」式の論語調で、しかも一字一画をゆるがせにしない楷書風なのだが、いざ接してみると、しみじみとした味わいがあって、いつの間にか校長ペースに巻きこまれてしまう。そこには問題をどういうふうに処理していくかという理屈はない、テクニックもない、人格のいわば体当たり、つまり大塚方式は「無為にして化す」というやり方であった。 
  校長がどのような教育方針をもち、教育の理念はどのようなものであったかはよく分からない、またふだんどんなことを強調したかもはっきり記憶されていない。ただ明治四十四年の天長節(明治天皇の誕生日)に「健全な国民とはどんな国民か」について要旨こんな訓話をしている。学問をするものは方針を誤るととんでもない間違いをやってしまう。だから学問をするにはまず方針を考え、常に皇室国家を念頭におかねばならない、自分のために働くことが国家のためになり、国家のために働けばそれが自分のためにもなる。家庭の一員としては常に父母に迷惑をかけぬよう、学校の一員としては学校の名を汚さぬようにせねばならないと同じように、国民の一人としては常に皇室国家ということを忘れてはならない、これが健全なる国民の備えるべき最も重要な資格である。 
  また翌明治四十五年の第一回卒業式でこんな訓辞もしている。中学校を出てしまうと、家庭の監視もゆるやかになるのでとかく怠慢、放縦、不規律の生活に流されやすい、これは大いに戒むべきことである。それぞれ性根をすえて、あらゆる誘惑にまきこまれることなく、多年校風にのっとって育ててきた良習美俗を乱すことなく、品性を陶治し、そして校名を守っていくように努力しなければならない−−


正門の標札

  いずれも当時の訓辞としてはとくに目新しいものではない。おそらく校長が考えたのは、こういった健全な国民という意識なり、品性の陶治とかいった必要性を口で説くよりも、その日その日の行動を通してはだで感じとらせたい、そういう心構えを生徒の一人々々のなかに組み立て、固定させたい、名実ともに中等教育を終えたものとしてふさわしい人間づくりを心がけたい、ということではなかっただろうか。学校教育の三本の柱、知育、徳育、体育につけ加えてもう一つ、というよりは、むしろそれらの柱を支えるものとして「訓育」ということを重んじていたのではないだろうか。創設された中学はいわば白紙だ。どのような色合いにも染めることができる、だからここは「無為にして化す」大塚方式で、学校の名を汚さず、校名を守っていく方向づけを徹底してやってゆきたい。そんなふうにも考えたのではあるまいか。それはつまり校風づくりであり、伝統づくりであろう、質実剛健気風を養うことであろう、どちらにせよ何十年もつづくであろうバックボーン作りだ、きびしい態度でのぞまざるをえない・・・・。 
  大塚氏を五中の初代校長に起用した愛知県当局のねらいもそこにあったのではないか。県当局の意図と大塚校長の方針が見事に一致してぐらつくことがなかったからこそ大塚氏は十九年の長い間、校長でありえたのでもあろう。

<あだ名はスルメ>   あだ名を「スルメ」といった。頭のてっぺんからあごひげの先に至るまで、その風貌はスルメに似ていた。どこか頑固さがあって取っつきにくい剛直が感じられるのもスルメ的なら、いざ親しく接すれば接するほど味わいが深いという点も共通しているようだ。おまけに校長の出身地である長崎県五島列島はスルメの産地でもあるという点で、このあだ名は絶妙といえた。 
  さきにあげたようなエリのついたシャツにせよ、ボタンつきゲートルにせよ、校長室の呼びつけにせよ、生徒にしてみればきびしくてこわいことばかりだが、校長の立場からみれば、それもこれもゆるぎのない信念に裏打ちされた勇気があり、愛情があったからこそ、やることができたのであり、意味があり、効果があったわけである。何かに威圧される感じのなかに生徒の心を強力にひきつけてしまう、理屈では説明ができないような何ものかがあった、スルメの味というものだろうか。
  大塚校長は家庭訪問もしばしばされたようである。こんな話がある、A君は五中に入学したが、どうもからだが弱い。そこで父親はA君を遠い五中に通わせるにしのびず、近いところにある一中に転校させたいと考えた。一中の校長の了解をとったうえで大塚校長に転校の件を持ち出した。すると大塚校長はA君宅までやってきた。「からだが弱いから近くの学校へかえたいというのは情は通っても理が通らぬ。むしろ遠くの学校へ通わせることこそからだを丈夫にする道ではないか。校長としていったん引き受けた以上、任せてほしい」と大塚ペースでやられて、父親は任せざるをえなくなってしまった。
  守山あたりから通ってくるB君はとび抜けてよくできる生徒だった。このような逸材をかかえたことはハナが高い、と校長の自慢のタネでさえあった。ところが学業は抜群である一方、悪童ぶりというか横着ぶりもまたハシにも棒にもかからぬほどの抜群で、校長はほとほと手を焼いたらしく、その学年の終わりごろB君宅をたずね、「どうにも校風に合わないので責任もって面倒をみることができない」と転校をすすめた。B君は五中をやめた。東京のある中学へ一年飛ばして三年に転入していったほどの学力の持ち主であったという。
  十キロ余もの遠い道のりを鳴海まで歩いていって、学資の関係で上級学校へ進めさせる自信がないという父兄を説得したこともあるという。車やバスはもちろんなく、電車もきわめて不便な時代だ。にもかかわらずいったんハラをくめた以上は自分のペースで処理しないではいられなかったのだろう。父兄までもをスルメ型にはめこんでしまったということか、大塚校長の信念の一面をうかがうことができる。

<三尺下って>  校長がえらい存在であれば、ほかの先生方もまたえらかった。「三尺下って師の影ふまず」の古語のとおり、登校時など、先生から先に行ってよろしいとの許可があるまでは追い抜いていくことはできなかった。
  気骨のある先生も少なくなかった。
  山本耕造先生(英語担当)はよく、「貴様は操行がよくないから訓戒を与えねばならん。家にやってこい」と生徒を呼びつけた。おそるおそる出向いていくと、学校での話はすっかり忘れたふうで、「君、これ読んだことあるか、なかったら貸してやろう」とツルゲーネフの「ルージン」や「煙」を出してくれたり、世間話に時間をつぶしたりした。教壇では「単語の一つや二つ知らなくてもおそれるな、前後を読んでだいたいの意味をつかむことが大切だ」とよく強調されていた。
  加藤文友先生(国語)は遅刻にきびしかった。子どものくせに不謹慎だというのである。お説教してやるから、と下宿先に生徒を呼びつけたが、いってみるとこの先生も「まぁ、あんころもちでも食って・・・」といって、あとは寝そべって本を読んだり、おしゃべりしたり、というありさま。雨の日にはわらじをはいて登校したり、時にははだしで歩いたり、といった豪放でこだわりのないタイプの先生だったようだ。
  浦瀬七太郎先生(英語)は、毎年々々同じことばかり教えている中学の教師なんて実につまらんといって、いつも三十分くらい、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」を読んで生徒を喜ばせていた。当時カンニングがかなり流行していたが、先生はじゅんじゅんと戒めてこういった。「自分は学生時代カンニングの名手だった。きらいな学科はカンニングオンリーですませてきた。当然の報いとしてその学科は今でもまるで分からい。これが今になってほんとうに痛くこたえる」
  前田梅吉先生(体操)の家へある生徒が訪問したとき、道が悪くて足駄が泥んこになってしまった。ところが帰るときその足駄がきれいに洗ってあったのを見て、たいへんな感激をおぼえた。
  以上いずれも創立から大正の初期にかけての先生である。校舎もまだ完備していないところでの教育であるだけに、師弟の結びつきがより強く感じられたのかもしれないが、ともかく先生と生徒というタテの関係ばかりでなく、時によっては先生をまじえてオニゴッコをやるといったヨコの関係のなかで、教科書にはないプラスアルファを教わることができたというのは、時代の環境もそうであろうが、他校にはなかった好ましい傾向といえるだろう。
  師弟の結びつきという点では、昼食後のスピーチも生徒の間に好評だったようだ。毎日昼食後、それぞれの学級が当番制で十五分程度のスピーチをやる、テーマは研究発表であれ、即興であれ、自由だが、あとで先生が必ず講評を加えた。教科外のことだけに雑学向上に有益だったし、先生の批評もまた奔放で人間的で、思いがけない側面をのぞかせることもあったという。

<二十銭でスト>  大正七年十月のこと。何回目かの校内運動会をひかえて、応援旗を作ろうという話が生徒の間にもりあがり、そのための費用として一人当たり二十銭を徴収することになった。ところが校長からその動きに待ったがかかったことから話がこじれてきた。校長は横暴だ、と生徒がさわぐ、そのうち校友会の会計が不明朗だなどといい出す、こうなっては「無為にして化す」さすがの大塚ペースも通じない、校長室での押し問答も埒があかないまま、音頭をとっていた五年生とごく一部の四年生とが柔道場に立てこもってしまった。およそ百人。
  時の勢いでワーワーさわいでいるうちになんとなくこうなってしまったのだそうである。ここで気勢をあげて二十銭徴収を学校側に認めさせようというはっきりした目的意識があったとも思われない。当時の一連の米騒動の影響なのであろうか。立てこもった生徒は米やサツマイモの買い出しに小使いを走らせる。学校側には差し当たりこれという打開のキメ手はない。四年生以下は帰らせ、結局その日、学校は休校とせざるをえなくなってしまった。こうして一夜あける。学校から連絡を受けた父兄がかけ集まる。父兄は「家族が急病だ」などという誘いをかけて生徒をゴボウ抜きに柔道場から連れ出し、ストはあっけなく終わってしまった。
  問題はこの善後処理である。学校を正当な理由なくして休校に追い込んだ責任は大きい。首謀者を処罰するかどうかで職員会議はかなりもめたとのことである。しかし最終的に大塚校長は犠牲者を出さないことを決意、結局生徒にはなんのとがめもなく、事件は表沙汰にならずに決着した。応援旗こそなかったが運動会は予定通り盛大に行われた。
  大正十一年、「愛知県立第五中学校」は「愛知県熱田中学校」に改称された。一中を除き、二中から八中までのナンバースクールはみな改称されたのだが、これをめぐって生徒の間にストライキめいたさわぎがあったという。一中が名古屋中学とか愛知中学とかになるのならともかく、それを別格にしておいて、五中という伝統のある名前をなぜ変えなくてはならないのか、という母校愛とライバル意識がからみあった動きであった。(この改称のことは学校側にどのように受け取られていたのか、大正十一年刊行の瑞穂第十二号には、学校日誌の項にさえも一言もふれていないのががえって印象的である。そしてまた熱田中学校となっても、校旗や校歌や、帽章やボタンなどに使われているのは「五中」の文字であった。一種の抵抗だったのだろうか、それとも妥協だったのだろうか)
  大正十四年のストライキは全校生徒が八事山の半僧坊に立てこもって一夜を明かすという大がかりのものだった。この事件が大塚校長の退職の誘因になったといわれる。(この件は第二部に詳記)
  しかしこうしたいくつかの騒ぎには政治的な含みとか思想的な背景といった思いつめたものは何もなく、いってみればポンとけった石にはずみがついて思いがけぬ危害を誘発した、といったふうの単純な若さの発散だったとみてよいようだ。それはまた創立後、年を重ねてくると、五中も初期のころの、ひ弱でおとなしい温厚篤実の型のなかに必ずしもおさまっていたわけではなかったことの現れとみてよいのかもしれない。
  いわゆる「お説法」がまかり通るようになったのも大正六、七年からである。和気藹々としておとなしいという評判に対する反動であるのか、それともお説法を始めるに名実ともにじゅうぶんなほどの生意気な青年と生意気な少年との対抗関係ができあがっていたのか。ある先輩は書いている。「下級生控室に上級生のさっそうたる一隊が突然現れた。室内に不気味な空気がただよう。突然数名の生意気そうなのが柔道場裏へ引っぱられていく。巌のような鉄拳がうなりとぶ。思わずぶるぶるっと身ぶるいする」「相撲大会が近づくと応援歌の練習が始まる。上級生のいかめしい姿が堂々とわれわれの前へ現れると、必ず犠牲者が出る、鮮血がほとばしる、何よりおそろしかった」まるでアクションドラマのすさまじさだが、ともあれ、お説法ではかなりの実績を持つさすがの一中さえも、一目も二目もおいたほど、五中の「盛名」をはせたものだという。相撲応援のデカンショ節の一つに「五人揃えば富士でもかつぐ、五中選手の意気を見よ、ヨイヨイデッカンショ」というのがあった。
  かと思えば、ダンディーで大柄で腕っぷしの強いので定評のある三人組が、ある下級生を物かげに呼んでなぐろうとしたら、かねてこのことあるを覚悟していたその下級生から、逆にほんもののピストルをつきつけられて青くなったとか、短刀をちらつかせながら上級生をおどかした下級生がいたなどの話もこのごろだったのだろう。

<校長とスポーツ>  大塚校長はスポーツに対しては積極的ではなかったという。他校との対校試合を認めず、あるとき他校と野球の試合をしたことが発覚して部員たちは停学をぅらう一歩前のところまで、校長からこっぴどく叱られたという話があるが、この対外試合の禁止というのがどんな内容であり、どんないきさつであったのか、すでにふれたように柔道や剣道は落成式の当日、他校の選手を招いてやっているし、野球でも、創立二年目に二年と一年しかいないというのに県立工業と試合をやっており、これが本校対校試合のはじまりだという記事も残っているくらいだから、はっきりしたことは分からない。
  しかし初期の校友会にすでに柔道・剣道・野球・庭球・弓道の五つの運動部が活躍しているし、瑞穂十二号(大正十二年刊)によると愛知医科大学主催の中等学校相撲大会でみごと優勝を飾り、「これわが五中創立いらいの栄誉にして、永久に五中史を飾るであろう」というわけで、翌日は学校で祝賀会を開いている。校内の野球大会では校長が始球式をつとめ、「いうにいわれぬ笑みを浮べて」タマを投げたとあるくらいだから、校長はスポーツがきらいだったという評は必ずしも当たっていないように思われる。特定のスポーツで校名を高めるというようなスポーツ優先主義はとらないというごく穏当な考え方であったのではなかったろうか。ある先生はスポーツをより強く奨励すべきことを校長に進言しつづけたが、ついに容れられずに五中を去っていったとのことである。

<泅水部のこと>  五中のスポーツの中で長い歴史を誇っているのは泅水(しゅうすい)である。毎年夏休みにはいった七月下旬から知多半島の野間海岸へ出かけて八月はじめまで約二週間、泳ぎを練習し泳力を養成した。組織上は校友会の一つの部にすぎなかったが、三年生までの間に一度は参加するように義務づけられていたから、事実上は学校の大きな行事の一つだった。参加者は大部分が一年生。うるさい上級生はいないし、同級生とのはじめての共同生活は開放的で楽しく、なかなか印象的な合宿だったようだ。泳ぎはもちろん今日のような競泳を目的としたものではない。だいたい明治時代には競泳という観念がなく、クロールなどの近代泳法は紹介されていなかった。泅水部の目的は皆泳と遠泳である。観海流という平泳ぎを主体とする泳法でできるだけ長く遠く泳ぐ練習をやり、随時どこまで泳げるか試験がある。
  最終日近くなると三里半(約十三・七キロ)と五十町(約五・五キロ)の試験だ。百余人が九時泳ぎ始める。約半分のものは五十町で打ち切るべく列をはなれると、他のものはちょっと意気消沈したが、「冷気加わるにつれ、勇気ますますあふれ、泰然として列乱れず、灯台沖を迂回し、食事せんと陸に向う時、潮流にわかに変わり、小波たちて冷気いよいよきびし。あたかも龍神の怒りわれらを倒さんとそる如し。而して落伍者一人だになく数十分の健闘ののち上陸す。盛んなるかなわが勇者、いかなる龍神といえど舌を巻かざるをえず。時十一時二十分・・・」用意の白かゆをすすり、小憩のあと内海まで歩き、一時三十分再び海に入り、疲れが出て落伍するもの多かったが、二十六人が完泳、三時十五分灯台下に上陸した。「全泳者の喜びやいいかたし」五十町合格者四十七人、二十五町二十五人。しかし一方ではついにカナヅチのままで終わった者も少なくなかったようだ。

<依頼退職>  大塚校長は大正十四年九月三十日付けで依頼退職された。余生を京都で送られ、昭和十八年亡くなられた。例の八事山に立てこもった同盟休校が退職の誘因になったといわれているが、またあるとき県の視学がやってきて中央の高官を迎える準備として校内を視察したあと、便所が汚れているのできれいにしておくよう校長に指示したところ、虚飾をつくろう必要はないとこれを拒否した、その感情的なこじれが退職に追い込まれた一因だともいわれている。
  しかし五中会報第三号によると、校長の退職問題はかなり前からちらついていたようだ。何が発端でそうまで発展してきたのかという事情は分からないし、いつごろの動きなのかも分からないが、大塚校長の留任運動というのがあって、留任期成大会には母校を思い、校長を思う二百人くらいの同窓生が集まって気勢をあげ、資金を作り、事務所までおいて運動を展開した。文部省や内務省にも留任の請願に行って、文部省の局長から「諸君の行動は大正年度における教育史上特筆すべき事柄だ」とおだてられたり、内務省の役人と大げんかしたり。ともかくこれに勢をえて名古屋へ戻って愛知県会に働きかけ、三千五百円の退職金を出させることに成功した。「同時にやめさせられた明倫の校長もわれわれのおかげで三千五百円もらった」ということになっている。(この件は第二部に詳記)
  五中と生死をともにしたい心境の大塚氏と、人事刷新をはかりたい県当局とのトラブルは名案もないまま長期間つづいていたらしい。

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5.夢のあと

<軍事教練> 軍事教練ほど大多数の生徒から好かれなかった教科はあるまい。にもかかわらず軽視することはできなかった。教練の成績の悪い生徒は操行の評価にひびいたからである。野外練習、雪中行軍、実弾射撃などといった一日がかりの遠足めいた行事のおかげで、その日の何時間かの教室の授業が休みになる喜びはあったが、一般的に学校教練は、大正時代にすでに「軍事に実際的に直接役立つ教育」とか「学校から直接戦場へ」とか叫ばれるほど心理的な圧迫は大きかったし、昭和時代、軍国主義化と戦時体制への傾斜が深まるにつれて学校教育のなかに教練の占める地位は横暴なほど大きくなっていった。学校教練の代償といえば、軍隊入隊後、幹部候補生への道が開けていたことであろうか。
  さて明治四十四年、それまで兵式体操といわれていたのが教練となったのに伴い、三年生以上の生徒が千種の兵器厰へ、払い下げとなった村田銃を受け取りにいった。村田銃は三八式歩兵銃が新しく陸軍で採用されたために廃銃となった重くて銃身の長い鉄砲で、チビッ子の三年生には骨身にたえたとのことである。
  鉄砲に銃剣はつきもの。銃剣といえば、上衣の左のわきの下、ウエストに当たる部分にボタンでとめるペラペラの布切れがついていたことが思い出される。銃剣をつけた帯革(ベルト)がずりおちないように支えるためのもの、そして銃剣のずり落ちを防ぐまさにその目的以外には絶対に使うことのないペラペラである。学帽のあごひもがなくなり、上衣のつめえりが折りえりに変わり、ゲートルがボタンつきから巻きゲートルになっても、この陸軍直伝のペラペラだけは変わらなかった。教練の象徴であった。
  初めての実弾射撃が明治四十五年一月、守山の三十三連隊の射撃場で行われている。現在守山自衛隊のあるところが、当時の三十三連隊であり、だいたい小幡から東の方、旭町あたりにかけての地域が演習場になっていて、その一画に射撃場があった。
  参加は五年生六十一人、八時半学校を出発、途中矢田川を徒歩して、十一時射撃場に着く。(当時矢田川は水量多い時は渡し舟で渡り、少ない時は徒歩だった)
標的まで二百メートルの距離、伏射の姿勢で一人十発射ち、総計六百十発うって百六十八発命中したという。終わったときはすでに日はすっかり暮れてしまった。「星斗明らかなれど月なし。軍歌に勢をつけて夜途を急ぐうち、遂に方向を誤り、路ようやく細く、遂に狐狸住むべく思わるる竹やぶに迷い入りて進退谷まりしも、幸に親切なる一老農に導かれて漸く東道に出ずるを得たり。」午後九時学校に着き、銃器を納めて解散、それから一里内外の道をたどって家に帰ったのは十時頃だったろうという。 


全校生徒の整列

  野外戦闘演習というのがあって、小は一学級だけの一時間くらいの規模から、大は県下の学校を総動員した二日がかりくらいのまで行なわれたが、はじめのころはこの演習も珍しかったのだろう、校友会誌にのっている。
  明治四十五年二月、三年生以上が東軍と西軍に分れ、それぞれ百発の弾薬を持って、一方は八事山、他方は山崎から中根方面に陣取る。「西軍の前衛、中根の部落に入りしと思うころ、忽ち左方の松林に隠れたる敵の大部隊は西軍本隊の腹部に不意打を見舞う。之に呼応してわが隊は忽ち左方に展開し、松林めがけて突撃せんとす。この時銃声敵の右側背に起って威迫す。これわが前衛隊なり。……敵は甚だ急なる追撃を受けたるも巧に退路を求め、遂に形勝の丘陵に拠ってわが軍を待てり。敵は死物狂いなり。……わが軍一撃に之を屠るべしと、敵が監視に悪戦苦闘し、遂に肉薄して剣尖相摩せんとする時、にわかに降り来れる雨とともに演習中止の報伝われり」
  大正十四年四月、陸軍現役将校学校配属令というのが出て、各学校に佐官クラスの現役将校が配属されることとなり、教練によりいっそう活を入れる体制がとられる。戦うものは軍人だけではない、場合によっては教室からすぐに武器をとって戦場に向かわねばならない、第一次世界大戦後はそういう必要を痛感する時代となった、というわけである。
  五中の二代目の配属将校、川村宇一大佐は後年、五中会報で回想している。学校によっては配属将校を異端者扱いして変な目でみたところもあったが、五中はそのようなことなく幸福だった。本地ヶ原で三日間廠営したが、夜間のあまりのさわがしさにはほとほと手を焼いた。もとより悪意でさわぐのではないが、一晩中、狼か何かの集まりのような状態だったのは、ひとえに私の微温的な指導のせいで、いま少し厳重な徹底した教練を実施すべきだったと思われた―。いかにも率直な感想だが、現役軍人のだれしもが抱いた一種の違和感であろう。 

<通知表は郵送>   なお創立当初は教練という科目はなかったけれども、体操の先生はみな退役した軍人とあって、体操と教練とはつまり同じことであった。ゲートルを忘れてにらまれたりで体操の成績が悪く、ずっと六十点ときまっていたある生徒が卒業までの五年間にたった一度だけ六十二点という成績をもらった、どういう理由で二点もあがったのか、どうにも分からなかったというが、武骨一点張りではない教官もいたようだ。
   ついでにいえば、学期末の成績は、年度によって変更があったかもしれないが、一、二学期は甲乙丙丁で、三学期の学期末は点数で示され、その通知表は期末ごとにはがきで(後年封書に変わる)家庭へ郵送された。生徒の持ち帰りでは、父母に見せないものがいるだろうという生徒不信の現われだったのかもしれないし、父兄に直送することによって子弟の成績を確実に把握させておこうという保護者優先の現われだったのかもしれない。
  クラスの席順は身長順だったこともあれば、成績順に並んだこともある。同級生一人々々のふだんの学力などをもとにして、席順の予想を立てる一部の生徒がいて、実際とそんなに違っていなかったことがある。見通しのたしかさもさることながら、ふだんの学力と試験などによる成績とはそんなに違うものでないことを示すものであった。
  昔は中学生といえばたいへんなエリートだった。その社会的評価は今日の大学と同じくらいのものだったかもしれぬ。だから中学卒業だけで家業をついだり、就職するものも多かったのだが、一方進学をめざすものの受験勉強は今日におとらずきびしかったようだ。全般的に受験勉強が盛んで、年とともにはげしさを加えていったことは、大正元年の本校図書室に「官費学校入学案内」「明治四十四年度官立学校入学試験問題詳解」「男子東京遊学案内」といった手引書がそなえつけられていることや、大正六年には受験雑誌「考へ方」、翌年には「受験と学生」が創刊されていることでも分る。
  受験にそなえての英語、数学などの模擬試験をやったあとで、八高、名古屋高等工業、名古屋高等商業の在学先輩と四、五年の受験希望者との座談会を開くといったこともしばしばあった。
  なおこれは小学校から中学校を受験する場合のことだが、こんな話が五中会報にのっている。受験シーズンがせまってくると「このくらいの成績ではどの中学校がよろしいでしょう。一中は無理でしょうが、明倫にしたら必ず入学できるでしょうか、熱中ならもちろんよいと思いますが…」「これは明倫へやろうと思う、どうしてもだめなら熱中で辛抱する」などという話が小学校の教師の間で出る…。受験戦争が過酷であるという点、今日の状況とあまり変わりないが、今日ほど社会問題にならなかったのは時代の違いというものであろうか。 


<寄宿舎のこと>   家が遠くて自宅通学ができず、親戚など適当な下宿先もない生徒のために寄宿舎が、明治から大正時代にかけて設けられていた。
  停学処分を受けた生徒の保護監察的な場所としてここが利用されたこともあったようだ。のち探偵小説家として知られている江戸川乱歩、当時の平井太郎(一回卒)は在校当時から墓場をうろついたり、探偵小説を書いて小学生に売りつけていたというが、学校を理由なく三日間休んで停学一号の処分を受け、あとでしばらくの間寄宿舎へ入れられていたという。
  上級生が部屋長になって下級生六人をかかえていたが、ここへはいってくるのは遠方の郡部の生徒ばかり、新入りの一年生は方言丸出しなので、話がなかなか合わず、けんかでも始めると、なにをいい合っているのか仲裁もできない始末だったという。 
  毎日六時から九時まで自習だが、半ドンの土曜日あたりになると、悪がしこいのが電灯のソケットに(もっとも電灯がついたのは四十四年十月から。それまではランプだった)針金を差しこんでショートさせ、ヒューズを飛ばしてしまう。舎監の先生は直し方を知らず、電灯会社待ちということで寝てよろしいとなる、そういう時代だった。週一回の茶話会、二銭の茶菓子が出るのが楽しく、日曜日には広小路や大須へ出かけるのが何よりの楽しみだった。のち学校周辺が名古屋市に編入されても、「名古屋へ行ってくる」といったものだ。 
  しかし明治末期に四十数人をかかえていたのをピークに、年々少なくなり、大正十二年に廃止となった。交通の発達、下宿の増加、郡部へ中学の設置などで必要がなくなったのだろう。 
  寄宿舎四棟、食堂、炊事場、病室とそろっていたが、特別教室、雨天体操場、銃器室、剣道場などに改築された。

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第1部の入力作業では、次の方々のご協力をいただきました。 敬称略  山本慈子(瑞陵46回)、渡辺裕木(瑞陵47回,メキシコ在住)、梅木香奈子(瑞陵48回)、大寺由美(瑞陵46)、細井康子(瑞陵46)、安田あゆみ(瑞陵49)
第2部 大正末期まで終戦まで
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