Web版「五中−瑞陵60周年記念誌」


第2部 大正末期まで終戦まで


  1.瑞穂育ちのよい男    2.泅水と軍事教練    3.強まる戦時色
  4.ある小さな五中精神運動史


1.瑞穂育ちのよい男

<ストライキ>  温健を校風とし,謙譲を伝統とする五中ではあったが,なんといっても若い血をわかす少年たちのこと,なにかあれば,気に走り,理に雷同して,いくつかのストライキがあった。 
  たいていは,授業放棄を決議して,柔道場あたりに立てこもり,夜を徹するのである。 
  しかし,学校側も心得たもので,担任教師らの説得がダメとなれば,父兄たちを呼んで柔道場の窓からのぞかせる手を使った。 
  四年,五年といっても,まだ親には弱く甘えたところがあるだけに,母親の心配そうな顔,父親の怒りの表情に動揺して,一人,二人と抜け”団結”もにわかに崩れるのであった。 
  こうした,学内の小ストライキに比べると,大正十四年の初夏に起きたストライキは,五年生百二十人が学外に出て,八事・半僧坊の本堂に集結し”教師の反省を促す!”のノボリをかかげて当時の新聞にも報じられ,大塚校長退陣の一つのきっかけとなった点で,いささか趣きを異にしていた。 
  当時の首謀者?の一人で,朝日新聞記者から現在,名古屋瑞穂女子短大教授として近代文学を講ずる渡辺綱雄氏(十五回)は 
  「原因といっても,非常に単純なことでしたね……暑くなりかけたころで,すごいヤブ蚊に悩まされたのを覚えてますよ……」と,よどみのない回想であった。 
  当時,五年生のバンカラ・グループが外でけんかをした。どこかの生徒と,かなり派手なわたり合いで,けが人も出たらしい。この処分をめぐって,学校側に片手落ちがあったというのである。 
  ある先生の口ききで,けんかの主役が停学ですみ,わき役がこれより重い退学処分−これを知ってにわかに同情が高まった。折りも折,ある四年担当の教師が「いまの五年生はダメだ。学課もたいしてできない……君たち四年生が,しっかりしなくてはいけない……」と公言したというのである。 
  同情は怒りに変わり,初の学外ストになった。半僧坊に寄った百二十人は,春から正課になったばかりの軍事教練をいかして,監視,渉外,炊事などの各班に分かれ,昼は体操やマラソン,夜は全員協議で対策をねるなど堅い結束だった。 
  「でも,やはりまだ子供でしたからね。二,三日もすると里心がついてきて……結局,最後まで強硬だった私たち幹部連も折れて,代表が学校に出かけ”早まったことをして申しわけありません……”と陳謝することで終わったんです」(渡辺氏の話) 
  ただ,このストライキについては,退学や無期停学の処分はしないという確約をとり,いわゆる幹部ら十数人が十日から一ヶ月くらいの停学ということですんだ。このなかには現在,文芸評論の第一人者として名の高い本多秋五氏もいたそうである。

<大塚校長の留任運動>   ストライキにつづいて大塚校長の退任をめぐる熱烈な留任運動があった。 
  名校長,大塚翁の退任勧告については”ある県会議員の頼んできたモグリ入学を一蹴したからだ”とか”五中が熱田中学と名が変わったことについて,卒業生の意をたいして積極的に反対されたから……””ストライキの責任をとらされた”など諸説があるが,当時,若い国語教師として留任運動の中心となり,現在,皇学館女子短大教授の歌人,春日井*氏(第三回)は,その間のいきさつを次のように説明する。 
  「当時は一中の日比野,明倫の森本といった大物校長があいついでやめられ,県としてもこれを機会に,古い校長を切って新風を,ということだったと思います。実は,あの頃,五中の二十周年を翌年にひかえて,すでに五万円の金を集め,大塚校長のためにも盛大な祝典をやろうと準備を進めていたところだったのです。当時の五万円というと一財産ですからね……勿論,人格者だった大塚さんを慕い惜しむ気持ちも強かったのですが,なによりも,せっかくの二十周年記念の準備が水の泡になるということで留任運動が起きたわけで……もしも,二十周年の祝いがすんでからでしたら,あのような留任運動はなかったかもしれません……」 
  大塚校長の留任を望む署名,嘆願の運動は生徒を渦中に巻き込まないという方針で,同窓生が主体となり夏休みに,名古屋・東新町の永安寺を本拠として,佐治克己氏(第一回)白石勝彦氏(第二回)ら五十人が寄り,県や文部省へ積極的に働きかけた。 
  しかし,一ヶ月余にわたる留任運動も空しく,大正十四年九月三十日付をもって退職と決まり,十月五日,別れの式となった。全校生徒,職員がそろって熱田神宮へ参拝したあと,午後全員が講堂によって茶話会。 
  講堂に机を並べ,茶と菓子袋を置いた簡素な会ではあったが,とぎれがちな惜別の辞と涙にあふれた重く痛い雰囲気であった。 
  当時,四年生だった中日新聞論説主幹の杉浦栄三氏(十六回)は「やはり一番記憶に残っているのは,大塚校長の退任でしたね。送別の席など,当時の若いものとしては感激極まるものだった。大塚校長が別れの言葉として長い漢詩をよまれたが,途中で絶句されて……」といっている。 
  よき五中を築いた大塚校長に対する敬慕,惜別の情は,実に深く大きなものがあった。 留任運動につづいて”大塚先生頌徳会”の結成に奔走した佐治克己氏の次の一文にも,それがよく出ている。 
  「大塚先生には昨年十月”後進の路を開く”という御趣旨を以って,ついに長く吾が母校瑞穂ヶ丘を御去りになる事になりました。当時,私共一同如何なるものがありましたかは,今更縷縷致しますまい。けれども,大なるものの去りました跡に,大なる空虚の残ります事は自然の理であります。大塚先生のお去りになりました,わが瑞穂ヶ丘に否わが中等教育界に,一脈容易に医す可からざる空虚を感ずるに至りました事は,否むべからざる事実であります。仰げば高き富嶽の雄大も,山麓の人のよく知るべくもなく,数里十数里を隔てて初めてその真の雄大を知ることが出来るのであります。私共は先生とお別れ致しまして,今更の如く先生の偉大を思う事数々であります。先生はわが母校創立以来,十有九年の間,溢るるが如き御熱誠と献身的なる御努力とを以て,育英の事に尽瘁遊ばされ,以てわが熱田中学今日あるを致されました……」(「瑞穂」第十七号「大塚先生頌徳会・式辞」より)


校庭での軍事教練(昭和3年)

応援歌
   大正初期より昭和十年頃まで−
一,金鳥は翔ける暁天の
  ああ瑞陵に緑濃き
  しづくは積る十余年
  恵の光いや増して
  顕風著きうましろの
  汝が学びの庭広し

二,椎の木陰に佇づみて
  瞑想しばしあほぐ時
  熱田の宮の御劔の
  光摩の光きらめきて
  その名も高き熱中の
  健児の胸は躍るかな

三,高鳴る血潮止めなく
  溢れ溢れて八百の
  健児の意気は今ここに
  我が武士の誉なる
  宿弥の技に若人の
  期せし必勝いや固し

  小生の記憶に依りますので,文字の違いがあるかも知れません。 二十回 篠田武清 


職員の記念写真(昭和2年)


  同窓生はじめ在校生,父兄らによって結成された頌徳会は,謝恩金一万一千円を集め,大塚校長退任一年後の十五年十一月,講堂に会員三百余人が寄って贈呈式,同夜は有志が料亭八千久に老校長を囲んだのである。

<創立三十周年記念>  昭和十二年五月十六日,名古屋市公会堂を主会場に,創立三十周年の多彩な行事が催された。 
  来賓,同窓,職員,生徒ら二千名を集めて午前十時から開かれた記念式典につづいて,四階大食堂における祝賀会,夜の謝恩パーティー,さらに谷川徹三,江戸川乱歩両先輩の記念講演,絵画展,市内小学校の陸上競技大会などがあった。五中会報第三号「三十周年記念祝賀協賛会紀要」は,その盛況をつぎのように伝えている 


30周年記念にくばられたナイフ


  「……而も創立当初の大塚初代校長が健全にて遙々この盛典に参列せられたることにより一入感激深い式であった。会場たる若葉薫る鶴舞公園の名古屋市公会堂正面には二旒の大国旗が朝風に飜り,屋上高くからは黄地に墨で熱田中学校創立三十周年記念式場と染め抜いた一旒の長大な旆が垂下して大いに祝賀の気勢を煽り,集る人は誰も彼も満面に喜色が溢れていた……」 
  「……当日来賓としては知事代理永井学務部長,大岩名古屋市長,県会議長代理奥村副議長,田村名古屋医大学長,小松原八高校長,国松名古屋高商校長,元名古屋高商校長文学博士渡辺龍聖氏,宮道岐阜薬専校長,高畠名古屋薬専校長,元第一師範校長中村豊吉氏,島田第一師範校長,野山一中校長其他県下各中等学校長,市内各小学校長,各新聞社長,関係諸官公吏諸氏約三百名,旧職員側にては大塚初代校長,松本順三,林与一,渡辺興衛,新井菊寿,森忠,平岩元吉,栗林栄,瀬尾鍬治郎,埜上*道,野田信吉,酒井鉄太郎,原子順蔵,栗田朝一郎,隅田庄太郎,倉林龍吉,小出有三,熊岡角一郎,中山末太郎,阪部和三郎,林錠吉,野田千太郎,高野泰蔵,宮治金蔵,村上正五郎,伊藤加七,小林永次郎,臼井三樹男,原陟,海老坂精宏,佐治克己,片岡彦一郎,春日井*,菊池香三,小沢市蔵の諸氏……」 
  恩師謝恩大夜会は前日の十五日夜,公会堂の四階ホールに京都からの大塚末雄,佐賀よりかけつけた松本順三,東京からの小林永次郎先生ら十五氏を迎え,同窓生百十七人が寄ってにぎやかに開かれた。紅白の幕に,飾り舞台,純白のテーブル数十を囲んで歓高まる頃,赤字のモスに”三十周年祝賀”と白く染め抜いた前カケのきれいどころ八十人が現われ,竹内芳衛氏作詞,作曲の五中音頭も高らかに歌って踊って輪になった。

ヤーレ金の鯱鉾ナア横目にながめ
瑞穂育ちのよい男ヨイヨイ
お手つないで踊れや踊れ
わたしゃ世界の人気者

ヤーレ宮の熱田のナアあの御剣は
五中健児の守護神ヨイヨイ
お手つないで踊れや踊れ
わたしゃ世界の人気者


田代校長


高橋校長



  やがて,紙帽子に五色のモールの参会者たちも踊りの輪に入って踊り歌い,音頭からさらに校歌,応援歌と,声を張りあげて,にぎやかな踊りの輪はいつまでもつづくのであった。 
  なお,この三十周年記念式で感謝状と記念品を贈られた勤続十年以上の職員はつぎの諸氏であった。 
  加藤吉彦(英語)加藤新中(博物)片岡伸三郎(体操)田中定治郎(書記)森本嘉兵衛(画図)竹内秀雄(国漢)田村久明(体操)武部寛(教練)後藤繁(英語)田原茂(博物)鈴木三五郎(英語)桑野孝之(英語)木村与平(国漢)山本武雄(理化)今西治長郎(教練)鹿島清孝(剣道)佐藤繁治郎(柔道)

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2.泅水と軍事教練

<ポンポン船で>  ちょうど二代目、田代校長の前期大正末年から昭和六年なで頃。一年生にとって最も大きい行事は夏の泅水であった。七月二十日一学期が終わると、現在の内田橋西の熱田の渡しの燈明台のあたりから大型のポンポン船に一年生二百人が乗船して野間に向った。みんな麦わら帽に白いかすりの着物と袴、それにゲタばきであった。手にした柳のバスケットには何をおいても六尺褌が入っていた。全くの金づちが帰りの日までにこの褌をもって支えられる必要もなく二千米遠泳に合格して来るまでになったものである。
  遠泳が終わってからの甘酒はうまかったが、宿屋からこっそりぬけて小豆を砂糖水で煮ただけの「シャビンシャビン」と称したもの丼一ぱい五銭で売っていたのを食べる味もよかった。後で下痢してこれがバレて担任から大目玉をもらったものもあった。水を恐れる者は背の立たないところまで小舟で連れて行かれて舟ばたから落とされた。
  三学期のある日、その年では初めての大雪が降った。十センチ以上積もればまあその類である。そんな朝ひそかにゲートルを用意していくと、大抵雪中行軍ということになった。四、五年は銃剣を持って武装、三年以下はゲートルだけで全校を挙げて出掛けた。今の尾張高の東一面に新寺山方面までの雪の原、雪の畑の間を延々と続いた。四年と五年が敵味方になりそれに三年以下が半分ずつついて二手になって途中中根あたりの原で雪合戦、島田橋から天白植田村を経て高畑へ、今の東山公園あたりの山続きをぬけて八事に出るまでに更に一、二戦して石川橋にかかる頃には空腹と疲労で全員少々へたばった形になった。学校の裏門(丁度今の瑞中、県大の東境にあった)を入る頃には昼を過ぎていた。帰校しての弁当のうまかったこと。大体二十キロ近くを歩いたのではなかったか。あの頃の先生方も足が強かったものである。

<廠舎演習>  三年以上には秋に本地ヶ原の陸軍演習場での廠舎演習があった。二晩泊まり三日間のつらいが相当楽しい兵隊ゴッコであった。当時の配属将校は大尉ぐらいであったが、六連隊からラッパ手が特に派遣されてきた。銃のない徒手の三年はただ四年又は五年について斥候に出され歩哨に立たされ、白兵戦の場合は大声を挙げる役に回された。それでも廠舎での共同の寝食、それも朝昼晩、その他全てが全く軍隊式のラッパの合図で行われる。規律正しい窮屈なものが結構若い力の余っている者達には快く感じられたものだ。銃を持つといっても四年は三八式歩兵銃ではなくて二十二年式村田銃であったので、空砲は一発ずつ込めて打つのであった。これでも結構嬉しかった。


軍事教練は年々きびしさを増していった (上)昭和4年 (下)昭和11年


  ただこの空砲の薬鋏を野原に失うと大変だった。組全員で半日近くさがさせられた事もあった。五年の持つ三八式には若干の騎兵銃もあって、早くあれが持ちたいとあこがれたものだ。三年生はこの銃を持った上級生に連れられて演習に加わり、時々一発ずつ撃たせてもらう有難味をかみしめたが、後で銃掃除を手伝わされるのには閉口した。

<修学旅行>  その頃の愛知県では県立中学の宿泊旅行を禁止していた。だから修学旅行といっても夜中の列車で行って翌日夕方帰る。五年は静岡久能山、四年は鳳来寺山、三年は湯の山、二年は養老、一年は犬山といった風に毎年決まっていた。一、二年については確かな記憶がないが、多分この二名所であったろうと思う。四年の鳳来寺山は表から寺に登って裏山の行者越を通るのが習慣になっていた。突屹とした道のない岩山を下山して飯田線の駅に出たものだった。五年の静岡は前日の午後十一時過の名駅発で清水まで行き、そこから次郎長の墓、龍華寺、久能山へと全員歩かせられた。

<紙吹雪舞う野試合>  毎年一回十月頃であったか大運動会が開かれた。とくに広い運動場に千人近い生徒が一ぱいに広がった。いまの瑞中に県立大を合わせた敷地全部であったからかなり広い。トラック・フィールドは今の瑞中の運動場の中にあった。二百米のトラックだった。今の県大東側五中山の東に蹴球場があった。運動会での呼物はこの五中山と下の蹴球場で行われた剣道部を挙げての野試合であった。これには弓道部も参加した。お面の前につけた青竹の輪切りにしたものに細い紅白の切紙が入れてあり敵味方お面を真正面からとられるとこの竹が割れて紙吹雪が散った。


運動会最大の呼び物は野試合であった(昭和11年)


  マラソンは鶴舞公園あたりに折り返しがあったようだった。一年上級だった都留重人氏がこれに参加していた姿を今も思い出す。彼は陸上万能選手のようだった。
  二学期のいつであったか講堂を一ぱいにした全校をあげての弁論大会があった。こんな時にも活躍した都留氏、成田完七氏、桑田君等の顔が浮かんで来る。

<査閲>  いつの頃からか、多分大正十四年学校教練が正式に中学教科の中へ入ってきてから、毎年秋か冬に連隊から左官級の将校が来て、全校の教練を査閲した。その前の一、二週というものは教練の時は先生も生徒も汗みどろであった。雨の日の査閲に運動場の土にまみれた事が何度もあった。
  昭和の初め、五中山野東側の大きな樟の木の北に狭窄射撃場が出来て時々ポンポンやらされていたが、これも三年になると、今の守山区にあった小幡ヶ原の陸軍射撃場へ行って三八式歩兵銃で五発ずつ二百米の距離から実弾を撃つことがあった。スリルに満ちた楽しい思い出の一つである。


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3.強まる戦時色


国旗掲揚(昭和11年)


<夜間中学発足>  昭和十五年四月、熱田夜間中学が創設され、早川鈴翁、故加藤吉彦の両氏を専任教師として、まず一学級、四十七一で授業が始まった。発足当時は、施設にも恵まれず、戦争の激化とともに、昼は工場で働いて、夜は空襲警報におびえながら学ぶというたいへんな毎日だった。加藤吉彦氏は定時制の同窓誌「五陵」創刊号(昭和三十三年)に発足の頃の苦労を次のように書いている。


熱田夜間中学の1、2回生と職員


  「世間からは殆ど認められず、而も学校の内部にすら何等の理解もなく、夏は蚊に攻められ、冬は寒さにふるえつつ、うす暗い教室でお互いに疲れ切ったからだを励まし合いつつ学んだその夜学が、今日全国幾百の高校の中で最も優秀なる定時制高校として、自他ともにその存在を誇ろうとは、当時誰が夢想することができたであろう・・・」
  「あの悲惨なる空襲警報の下、暗黒の教室で口から耳への授業、時には炎さかる校舎の防火に、時には防空壕の修復に、果ては爆死した学友の霊を慰めつつ終日働いて夜学ぶその苦労は、その経験者でなくては想像することも容易ではない・・・」


戦時色が強まったといえ、昭和15年前はまだ野球をはじめ各運動部の活動が盛んであった。野球部は昭和14年5月、飛田穂洲氏を迎えてコーチを受けた。(上、昭和13年。 下、昭和14年)



  十九年三月から三十一年まで教えていた早川章氏は当時を回想して長い話だった。
  「当時は遠くから列車で通学していた生徒が多かったのですが、帰りは汽車が込んでよくデッキにぶら下がってゆき、汽車に乗れなくて駅の待合室で夜を明かし、そのまま職場へ出掛けたこともあったようです。授業の後列車に遅れまいと、雁道の坂を、肩からのカバンを手で押さえながら走っていた生徒の姿が目に浮かびます。
  空襲警報が出ると、校庭の防空壕に入って、しばらく様子をみて帰宅させたり、授業を再開したりするものです・・・」夜間部の生徒は、昼間働いているということで、勤労動員はなく、毎日授業が続けられていたようだから、当時はむしろ昼間部の生徒よりよく勉強ができたらしい。一科目40点、学科平均60点以下は落第というきびしさと、空襲を縫っての熱心な勉学で、かなりの人が八高、名高工、陸士などへ進んでいる。

<菊作りからイモ掘りへ>  昭和十五年、紀元二千六百年を機に、戦時挙国体制が強化され、学内の戦時色も、にわかに濃くなってくる。卒業生の戦死の報があいつぎ、朝礼時の黙祷の数も次第にふえてきた。さらに軍事教練の強化、戦意高揚の訓話、防空演習など・・・登校時も隊列を組んで歩調を正すことになり、一年生らは、ずり下がるゲートルを気にしながら、両手を大きく横に振って、上級生に遅れまいと懸命だった。


勤報国の土掘り作業(昭和14年)


  やがて農家の手伝いや基地の地なやし作業と、いわゆる“勤労報国”に出ることも多くなり、防空頭巾を背にした少年たちが、慣れぬクワを手に、重いモッコを肩にするのである。当時の学内日誌にも簡単ながら、いくつかの記録がある。

 ◇昭和十五年七月 四五年集団作業始、自転車部隊、特設区隊等編成、自転車部隊ハ天白川ヨリ河砂運搬ニ、校内部隊ハ弥富農場作業等ニ従事
 ◇十五年十一月 四年生、西春日井郡西春村応召遺家族農事手伝ノタメ出動
 ◇十六年五月 三年生中根農場開墾作業
 ◇十六年六月 三年以上愛知郡食糧増産応援作業出動ノ筈ナリシモ集合後雨天ノタメ取止メトナリ、只ダ五年ノミ早朝電車ニテ出発ノタメ東郷村ニテ雨中雨具ヲ着用シテ作業ヲ行フ


堀校長


 ◇十六年十一月 一年知多郡旭村ノ農事応援ニ出動。十日午前十時半ヨリ熱田神宮ニテ県下勤労報国隊旗ノ拝戴式アリ、横井先生校長代理トシテ生徒代表五年組長、吉川哲夫、酒井正山、戻張、牛岡、真野各先生
 ◇十七年四月 五年及四年、竹内、堀田、加藤秀、浅野、森、田村各先生引率○○作業ノタメ夫、加藤勘次、佐伯道彦、細川俊二ノ五名ヲ引率参列ノ上隊旗拝戴、今後勤労報国隊出動ノ場合ハ之ヲ捺持ス
 ◇十七年二月 ○○作業ノタメ二泊三日ノ予定デ三年生出動、引率・竹内、山田牛、巽、内午前七、二七名古屋駅出発。四年(力)校長、片岡、伊藤、内山各先生引率午後港区「土古」水田拓鍬入式ニ参列ス

  当時のクラブ、図芸班の報告にも菊作りからイモや野菜に移る決意のほどの一節があって興味深い。
  「物質節約の泡は我が班にも及び、本年度懸崖の菊の支柱に用ふる針金は遂に入手不可能となり、又球根は贅沢品との為著しくその品不足を告げ、我が班の使命も愈々花卉栽培より食糧品栽培への転換の示唆を受けるに至ったのである。この目的を以て我々は今後新たなる使命のもとに渾身の努力を致し・・・」(十七年「瑞穂」三十三号より)


発足したばかりの園芸班(昭和12年)


  園芸の時間も、花の手入れや、校庭の周囲の垣根を刈っていたのは、ほんのしばらくのことで、すぐに大根やイモ作りだった。担当は、赤い鼻のみごとな片岡先生で、結構こわかった。一、二年生の肩に、黄金水を入れたオケは重すぎる。よろよろと、おぼつかない足取りで、やけ気味に先生の愛称“TORO”を、小さく声を合わせて連呼してみつかり、こっぴどく油をしぼられた連中も多かった。
  同窓会などで、よく噂に出る、懐かしい先生の一人である。
  片岡先生と大根の帯も有名だ。イ毛捕りはともかく、大根抜きは難しかった。一寸無理をしたり、下手をすると、せっかくの大根が土の中で折れてしまうのである。ある時、折れた大根を、何くわぬ顔で、もう一度土にもどそうとした生徒がいた。よくやる手である。 
  ところが、運悪く、先生にみつかった。先生は大いに嘆き、作業中止を命じて、円陣を作らせ、先生が模範を示すことになった。「このあたりまで土を除いて、こう持って、慎重にこう」 
  さすがに慣れた手つきで、大根はすっぼと抜けるかにみえたが、不運にも”ボキッ”とにぶい音がして、先生は折れた大根の半分をもっ、あやうく尻もちをつきそうになった。 
  悪童連は無遠慮に口をあけて笑いころげたが、先生少しも騒がず、おもむろにいわれたものだ。 「こうやっては、いかんということだ。ええか」

<勤労動員本格化す>   戦局の進展につれて、授業どころではなくなり、昭和十九年四月には、三年以上、少したって二年生までが工場へ動員された。五中の主な動員先きは、三菱大江工場、東亜合成、ワシノ機械大高工場、鐘淵化学、造兵廠などだったが、当時の新三年生は、各組に分かれて各工場へ落ち着く前に、日通の手伝い、名港の荷役など、日雇いなみに転々とした。 
  荒くれ男たちにまじって、船の岩塩を天ビンのカゴに入れ、細い板を渡って倉庫まで運んだり、熱田駅で、いい助手が来たとはかり貨車の荷の上に座って指図する人夫たちにおだてられて炭俵を降し、さらに大八車に積んで炎天下の筒を走って運んだものだ。 
  五年生は、はじめのワシノ機械が空襲で焼かれて三菱大江工場へ移り、旋盤やポール盤と取り組んだ。作業も大変だったが、なにより空襲がこわかった。航空機生産の三菱は攻撃目標の最たるものだっただけに、毎日のように警報におぴやかされ、そのたびに防空壕の奪い合いだったらしい。そのときの一人で、貿易商社員の波多野久男氏(三十四回)に聞いてみた。 
  「少し避難するのが遅れると、もう防空壕が満員で一度も満員だと断わられて、仕方なく遠くまで逃げて帰ってみると、その防空壕が直撃弾を受けて、みんなやられていたということもありましたよ。死体運びもよくやらされたしいま思い出しても、いい気はしませんね」 
  当時の校長で、現在、名古屋女学院校長代理の鈴木貞一氏は「五中は、ほかの学校に比べて、動員先きの空襲による犠牲者がほとんどなかったのは、まったく幸いだった」と語っているが、確かに、愛知時計の惨事などに比べれば運がよかったようだ。 
  ただ、十九年暮れの大地震で、三菱に行っていた四年生三人が、塀の下敷きになって亡くなっている。 
  鐘淵のベニヤ板工場では、薄板切断機でY君が左手の指四本を失った。いまから思えば少年にとって荷の重い、危険な作業が多かった。造兵廠ではにわか仕込みの仮免で、トラックのハンドルをにぎり、街路樹にぶっつけてようやく止まったといった話もある。 
  食事も、大豆や豆カスだらけで、ひどいものだった。鐘淵白鳥工場に動員されていた生徒の父親に名高商の配属将校をしていた佐官殿がいて、ときおりやってきた。 
  そのたびに、食事の豆とゴハンツブの比率が逆転し、おかずの数もふえるので、よくみんなが”また、おやじに来てもらってくれ”とけしかけたものだ。 
  食事のこともさることながら」日頃、美人に銀メシを運ばせて、ふんぞり返っていた若い少尉が、佐官殿を迎えて、堅くなって低頭するのが、なによりも痛快だったのである。 
  二年生のニクラス、百十余人は、造兵廠の疎開先き富山県高岡まで動員され、終戦までいた。疎開先きは元紡績工場で、生徒たちはまず機械のとりこわしから始め」そのあと迫撃砲の仕上げをやらされた。ヤスリを使って熔接の汚れを削り、みがきをかけるのである。 
  宿舎は、女子寮だったのでトイレに困ったり、炊事のおばさんが関西の人らしく白ミソを使うので、みんなが慣れるのに苦労したりした。親元を離れてのつらい作業だったが、空襲もなく、毎晩風呂もあって、案外に楽しくやっていたらしい。ただ、食べざかりだけに、ナッパやコンニャク御飯では我慢ができず、よく周囲の畠からイモやナスピを失敬し、休みには氷見まで魚の買い出しに出かけた。当時、タ組の担任としてついていった書道の”破れチョウチン”氏こと小川先生が、つけていた日誌があり、これにタ組委員だった中京大助教授の高田邦彦氏が補筆し、近く思い出の”動員日誌”として刊行の運びだそうだ。この間、学校では一年生の手で焼い弾を防ぐため講堂や、各教室の天井抜きが行われ、名物五中山にも、防空壕が縦横に堀られていった。



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4.ある小さな五中精神運動史

  昭和初期は大正デモクラシーの高まりと、軍国主義の台頭とが入りまじって、思想的に混乱した時代でありた。これは思想的にはまだ幼い中学生にも影響を及ほした。五中二十回卒の篠田武滑氏は当時のことをつぎのように回顧する。

  私が愛知県熱田中学校に入学したのがちょうど大正の終わりの年でありました。 
  その年十二月二十五日で大正が終わり、昭和元年が一週間ばかりですんでしまったわけです。世にいう大正デモクラシーの過渡期というところでしょうか、その頃から一部の人々の間で何々修養会といったような精神運動がほつぽつと起って来ておりました。有名な「人の道教団」などの運動も新しい精神運動の一つであったようです。大正の十年前後高等師範を出て女学校の教師をしていた後藤静香という人の起した希望社といぅ精神団体がありました。非常ないきおいで全国的運動に広がり、私も小学六年の頃受持教師から、小冊子「カの泉」という本をもらい、その人とその運動を知ったわけです。その希望杜からは色々の機関誌が出ておりましたが、学生向きのものとして「光と声」といぅニ、三十ページのものがありました。 
  この読者になっていた私と同じ学年の奥村弘、岩室博常、坪内良一の三君とがこの希望社運動を五中内にそろそろと始めたのが昭和三年、丁度三年の頃であったと思います。之が実を結んで同志といった者を校内に募集したのは五年になった頃。当時エスペラント語熱も中学生、とくにこういった団体の中で、一種のブームとなっておりましので、「曙光」と名をつけて出した「五中相互修養会」と、希望社運動の五中学生分会にいったものの機関紙にも、Lumo de Aeuta(熱田の光)とつけたりしておりました。今手元に残りているその第三号によりますと、八ページの小さなガリ版刷のものの編集後記に「林先生のお骨折を感謝します」と書いてある。多分林与一先生ではなかったかと思います。 
  この中の記事を書いた前記同志の一人坪内君は後に方ダルカナルで戦死しました。この三号の中の一部を書いて見ます、当時の中学生の一端が分ると思います。
  『展望台(「松坂屋の八階から金の鯛を見たところ」と註があり望遠鏡をのぞいている一団がある) 
  五年 非難と嘲笑と石地蔵。残念だ同志の少いこと。(これは私を入れた前記四人だけであったので) 
  四年 一人こはい人があるようだ、ここを一つ奮発してほしい。会員はもう少し熱を以て働いてくれ。 
  三年 社友の影ほとんど見当らぬ、応援を乞ふ 
  二年 大いに期待あり純なる志士多し君等はこの会を背負ふ中堅だ今一倍の勇気で普及してくれ 
  一年 まだ少数だ之からだ委員もないがニ、三の勇士よ諸君のカのあるだけを示してくれ』 
  大体この様な情況の下にあった修養団運動でありました。真面目な明治天皇の精神を日本の最も大事なものと考え、そういう精神が次第にくずれ様としている祖国日本を憂うる、といった方向に進んで行きました。今から見れは非常に右寄りの学生運動でした。「熱田の光」誌三号に依る十月の行事(多分昭和五年)は、
  『一、五日 神前早天修養会熱田神宮東門集会六時  
  一、十一日 校内相互修養会 場所 山 十二時半より 
  一、十二日 学生相互修養会名古屋希望館午前九時』  
  とあります。山というのはいわゆる五中山であって、いつの頃からであったかほとんど毎日の様に前記一年から五年までの同志が始業前に集って東方を拝し太陽に面して明治天皇御製を合唱朗読し、お互の短い話を交換し合ったりしていました。大真面目であったこの運動が一般には妙に見えたことと思います。前記「展望台」にある様に指導者の五年は嘲笑され非難されましたが、それに対しては信念を持っていたので石地蔵の様に黙していたわけでした。また私がのちに母校熱田中に英語教師として奉職するようになってから、同僚になってしまった恩師の後藤(繁)、桑野、木村の諸先生からうかがったところでは、前記の私達の行動は職員会ではかなりの問題になっていたといぅことです。その頃ちょど赤の運動がひどく禁止されていたこととて、この運動がそれほど問題になっていたなど夢にも思っていませんでした。 
  時の二代目校長田代先生に卒業後数年経たある日、東京の渋谷駅頭で私が青山学院の学生として遇然にお目にかかったことがありました。その時、こちらから先生に声をかける前に先生から篠田という名をいわれてひどくぴっくりした事がありました。今思うととくに記憶されていたのかも知れないと思います。田代先生は当時五中を退いて東京上野の松坂屋青年学校長をして居られました。 
  この様な小さな五中生の運動も長い歴史の目で振り返って見ますと、その次の年には満洲事変、つぎに上海事変、十二年に支那事変、と次第に戦争へ進む日本の動きの一端を示していた小さな思想史の一行の様な気がします。  
  Lumo de Aeuta 三号の内容を全部誌す紙面がないのが残念ですが、少し記してみまと、
  『○喧嘩もする、悪口も言ふ。罵※もする。併し本々兄弟だ、いざと言ふ時は協力する。頼もしき日本よ、兄弟よ。−草陵−(岩室君か) 
  ○諸君よ、体験により是非を論ぜられんことを乞ふ−佇立−(これは奥村弘君であったと思う) 
  ○まだこはがってゐる−人の口を−にへきらぬ者もある本当に善と信じ、母校を愛するならば今一息入れよ。−激水−(坪内君か) 
  ○友よ! 進まうよ。進まうよ。我等が若き祖国の為に、我等が愛する母校の為に−瑞丘− (これは篠田)』 
  まあざっとこんな調子で当時の中学生達は何か日本を自分達の責任で何とかする様な気になっていた様です。六十年の中の小さな夢の一つです。



第2部の入力作業では、次の方々のご協力をいただきました。 敬称略  山本慈子(瑞陵46回)、亀山淳一(瑞陵43回)

第3部 終戦から現在まで

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