直感の正体1-4 美形認識機能-裂ける文字-黄金の文字板

MashudaBBS2003.05.03


直感の正体 番外 黄金の文字板 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 5月 3日(土)02時07分55秒

諸君等はゴールデンウィークをいかがお過ごしであろう?我々は角換り腰掛け銀先後同型丸山定跡の14歩型でライン作図を行なっていた。ゴールデンウィークとは長い休暇のことである。息が長ければ水中に深く潜れる。海底には黄金の文字板がある。それを手にして浮上する前に息が切れる場合がある。そこで後から潜った者は同じ息の長さであるにも関わらず前の者が途中まで持ってきた黄金の文字板を横取りすることができる。前に潜った者は水中で死ぬ。将棋とはそのようなゲームであった。一言で言えば人間が指す将棋とは逆転することが必須条件のゲームである。息の長さが決まっている人間にとって優勢であるということは劣勢なのである。黄金の文字板は後から来たものに奪われるということになる。


直感の正体4 裂ける文字 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 5月 3日(土)01時51分10秒

我々がインスピレーションを得る時、必ず夢想の領域で啓示がある。文字とはなんであろう。ラインの長さである。ラインの長さとはなんであろう。与えられた時間のことである。先手と後手とはなんであろう。与えれた時間を交互に分割することである。
そこで夢の啓示が突如訪れる。文字が裂けるのであった。ある文字を先手が途中まで描く。先手の持っている手番の長さは途中までしか有効ではなかった。そこで手番を握った後手は先手が途中まで描いた文字を中から突き破り文字を完成させる。こうして後手が勝つ。この啓示を象徴的に表現するとこうなる。
先手の中に後手があり、後手の中に先手がある。二人が描く文字はどこかで裂ける。


直感の正体3 美形認識機能 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 5月 3日(土)01時35分50秒

書道の美を頭脳で決定するのはラインである。そこに質が加わって美が顕現する。筆をおろすときにはすでにこのラインが決定されている。漫画を描く時には必ず鉛筆の下書きでラインを描く。将棋もラインにそって読みを開始し着手する。
ラインを決定するのは長さである。物差しは用紙の大きさを計る道具。巻き尺は乳房の大きさを計る道具であるが、マシュダ一家では長さを計るために時計を使う。
文字には先手と後手がある。将棋と同じである。文字には奇数画と偶数画がある。これも将棋の手数と同じである。よく見れば将棋の駒は文字であった。将棋を指す第一条件はこの文字を図形認識することになる。だからこの図形認識を第1感と呼ぶ。総じて図形認識機能となる。その良し悪しを判断するのが美意識となる。美意識はラインの長さで決まる。図形認識機能という用語はすでに手垢がついてしまったので、本日からこれらを総じて美形認識機能と呼ぶ。


直感の正体2  形の美 投稿者:マシュダ一家   投稿日: 5月 3日(土)01時03分34秒

図形認識機能はパソコン市場でよく使われる言葉となった。漢字認識機能という言葉も有名である。いずれも手書き入力した絵や文字を処理して機械文字に変換する機能である。この場合機械は美を感じない。人間が描いた線をそのまま変換するだけとなる。我々が図形認識機能という言葉を使う時、そこには美の要素が加わる。
日本人は書道を小学校で必ず学ぶ。墨で書く文字には意味ではなく美が求められる。書道は読みではなく形なのである。日本語は漢字という表意文字とひらがな&カタカナという表音文字で構成される。どのような文字でも良いのだが、種類が違う文字に唯一共通するのは美である。


直感の正体1 図形認識機能 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 5月 3日(土)00時47分51秒


昨晩は諸君等も羽生VS機械の対戦風景をNHKのアトム特集で垣間見たことであろう。
これは実験であるので羽生がガチンコでコンピュータと将棋を指したわけではない。人間の方が強いことをまずアピールする演出となる。そしてお決まりの台詞を聞き出す必要がある。
羽生「指し手は最初に第1感=直感が大事」
第1感、あるいは直感とは何であろう? 読みではなく形のことである。我々はこれを図形認識機能と呼ぶ。


参考 三桂-聖杯固め


いよいよ 投稿者:凡夫  投稿日: 5月 3日(土)02時06分28秒

 話は本筋に差し掛かってきた。
 谷川の言う「本筋では勝てない」という表現は以下のように読み取れよう。即ち、「自分は本筋の手を指すことを目指して来た」という自負。超一流の棋士の指す、時にマジックに見える手が実は「本筋ではない」という揶揄。しかし、自分を含めこの「本筋ではない手」にしてやられて来たという悔恨。その種の手も指さねばならないかという葛藤。
 確かに、「光速」=現実離れした速さ、と呼ばれたのは、凡庸な棋才では思いもつかないが勝利への最短を目指す圧倒的手順、即ち最善手の集積という感嘆を込めた評価があったればこそであって、冷静に応対すれば枯れ尾花だったかも知れない「マジック」とは質的に異なるのである。その意味で本筋である。谷川はケレン味のないオソロシく本筋の人であり、その点では他の追随を許さない才能である。然るに、羽生の登場数年を以てその感覚に狂いが生じ始めた。A級最終戦の藤井戦でも見せたが、何かモタモタした感じが出てきてしまった。最も厳しい筋に入り込んで読み勝っているという彼の特性が失われて来た。
 序盤を復習い直す、という谷川の嬉しい決意表明を我々は聞いたばかりである。巻き返しを誓う彼の姿勢を我々は心より歓迎した。だから「本筋でない手」を指すことも辞さずとする彼の変化を、我々は当然と受け止めるべきであろうか。
 彼が勝てない理由も、苦しさも次元が高過ぎて素人である当方にはさっぱり理解できないが、彼のこの宗旨替えに限っては、長打になりにくい低めの変化球を会得しようとする姿勢に似ているものを感じる。確かに江夏はボール球で三振を取った。康光にも球種を増やしたらどうか等と知ったか振った。しかし、谷川は江夏系ではないし、エグい変化球も身に付かないのではないかと気遣われる。彼は、むしろノーラン・ライアンタイプであろう。息を呑む快速球である。40代でノーヒッターである。「光速」と名付けられたのは誰にも真似ができないからである。真似ができない速球は少々スピードが落ちたとしても並よりずっと速い。コース、組み立てで速く見せることができる。同じ騙すなら彼にとってはこちらが本筋である。おかしな変化球で自分のスタイルを更に崩す恐れすらある。速球の感覚を取り戻すこと、これが先決だと思う。何回か打ち返されたぐらいで、球を置きに行くようでは確かにエースではない。そもそも自己韜晦であれ谷川が「超一流」等と遠慮して表現すべき棋士などいなかった筈だが。