将棋の美

MashudaBBS2003.02.16-17


将棋の美 付録/プロ棋士のハンデ戦 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月17日(月)02時22分13秒

米長が羽生にはどうせ勝てないと、最初から美しい死を目指す指し方はアンチテーゼであった。プロ棋士や既成のファンはそのような将棋に対して面汚しと思うだけであろう。民衆が勝敗の醍醐味を棋士に求めることは健全な欲望である。しかし最初から勝敗がわかっているような戦いはみたくないというのも当然である。そこでプロ棋界を活性化させる最も手っ取り早い方法は持ち時間によるハンデ戦である。
これならば棋士と女流棋士が平手で対戦するという棋戦が成立する。レーティングによって持ち時間を調整し女流を含めた全棋士が参加できるようになる棋戦があってもよい。これならば最初から誰が優勝するかわからないであろう。賭博将棋が行なわれるようになれば、このようなハンデ調整が必要かもしれない。現在の賭博将棋用トップ棋士だけでは予想がついてしまうからである。女流枠があるのであるから、それをもっと利用すれば将棋ビジネスももっと活性化するであろう。竜王戦やNHK杯戦でも女流枠があるが、女流は最初から枠組みが違うのであるから、持ち時間を増やしてもよいはずである。それができないということは、彼女らはこれらの棋戦では最初から人寄せパンダということである。名人戦だけはこのようなことは決してしない。


将棋の美4 終盤の美 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月17日(月)02時03分27秒

中盤で引力と斥力のバランスが崩れたとき将棋は収束を迎える。それが終盤である。双方の棋力が拮抗している場合、先手が打開しようとした時にバランスが崩れる。バランスが崩れると加速定跡に突入する。指し手が急速に加速すると勝負が決まるという構図は競輪と共通する。後ろについていた者が最終コースで追い抜く手法である。それまでは互いに様子をうかがいながらゆっくり走行するのである。競輪を知らない者は、なぜあんなに自転車をゆっくり走らせるのかまったく理解しないであろう。小学生ならボクの方が速く自転車を走れるのにと思うであろう。これは将棋では主導権とライトモティーフの関係となる。先手が先攻し主導権を維持しているようでいて、後手はライトモティーフを背後で奏で最後に逆転を狙っていたということもある。そのような終盤は美しい。内藤邦雄が勝勢でも勝敗はまだわからないと昨日表現していたが、それは勝勢側が悪手を連鎖するということである。相手に悪手を期待するような終盤はすでに中盤に大きな欠陥があったということになる。終盤まで僅差であるということが最も美しい。昨年の順位戦における森内森下戦を「近未来将棋」と評価したのはそのような理由である。棋力に差がある場合はハンデをつけるべきでる。そうでないと共同で美を奏でる作業は成立しない。プロ棋士はそれを最初から放棄した職業である。


将棋の美3 中盤の美 千日手への道 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月17日(月)01時40分52秒

将棋はトッププレイヤーであればあるほどテニス並の先後の差がでる。そこで後手は千日手を目指し、先後を換えて指し直すことが後手にとって最善の選択となる。
森下は良い千日手と悪い千日手があると述べたが、それはふたつに明確に分けるべきである。
いかに千日手にするかという技術上の問題と、それで鑑賞譜となり得るかという美学上の問題である。
1=千日手における技術上の問題。先手がいかに打開するかという技術に収斂する。
2=千日手における美学上の問題。後手がいかに自然な形を作れるかに収斂する。
現在問題なのは、千日手における「後手の自然な形」とは何かに尽きる。そこで序盤の美の定義を引用する。「響きをより多く増やすように指せ」。中盤における「後手の自然な形」とは先手の打開をすべて吸収しつつ、最も駒の響きをもった形である。そこで引力と斥力のバランスが最もとれた形が千日手における美しい形となるのである。その主軸が中盤で変化する腰掛け銀の四辺形となる。


将棋の美2 中盤の美 タナトスへの指向 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月17日(月)01時21分27秒

昨日放映の早指し選手権戦では羽生米長の好カードであった。米長掲示板で誰もそれに触れないのは米長が彼の将棋人生でも指折りの惨敗を喫したからである。ほとんど大人と幼稚園児の戦いと思った米長ファンが、教祖の惨敗ぶりを慰める言葉さえ見つからなかったということである。
我々はそのようには見ない。なぜ米長邦雄が先手の矢倉に対して右玉でしかも両方の桂馬を跳ねるという無謀な戦法を目指したか諸君にはわからなかったのであろうか?彼は勝つことなど最初から頭になかったのである。ならばいかに死ぬか。すべての駒を駆使して死ぬことはできるのか。それにはまず両方の桂馬を跳ねることだと考えたのである。それだけを考えて最後は四枚の大駒で壮絶な死を遂げた。
彼は中盤で守備の歩を打たなかった。これがいかに死ぬかという彼の美学である。加藤一二三相手には決してこうは指さない。羽生善治相手だからこのように指したのである。二人の最初の矢倉対戦もテレビ将棋であった。羽生はそれを思い出しながら左から右に死に場所を求めた米長に水を捧げたのである。


将棋の美1 序盤の美 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月17日(月)00時58分33秒

森内名人は現在NHK将棋講座で後手番戦法である「坂田流向い飛車」を講義している。後手から56角と双頭手として打つ反撃の筋で碓井涼子は名人に後手は82銀と受けてはいけないんですかと聞く。名人は「形が美しくない」と答える。しかし何でも知りたい女の子にはそれでは通用しない。碓井はなぜ「形が美しくない」かとさらに追及する。名人はそれを詰みまで説明したりはしない。しかし中途半端な説明では女の子にはまだ不信が残るであろう。そこでもっと明解な説明の仕方が教育現場では必要である。最初から将棋の美とはなにかわかっていればよいのである。
我々なら少女に一言でこう説明する。「序盤は駒利きの重複を避けるように指すと澄んだ響きが美しい」
72銀では73地点と93地点を桂馬と重複して守ることになる。93地点は香桂銀で三重の守りとなって重い。このようなシコリは不健康である。一方72銀ならば93地点に三重のシコリがない。63地点も守れる。玉も広く使える。このようなことは子供は面倒臭くていちいち読まない。そこで一言で「序盤は駒がより多く響きをもつ形が美しい」と言えばよい。その意味を知ろうと興味をもたせた所で、なぜそうなのか説明を聞く耳を持たせることである。


内藤國雄NHK杯解説4 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月17日(月)00時28分24秒

内藤國雄の思考法は、将棋を教育現場にもたらす際に有意義である。ところが皮肉なことに、そのようなことに現在力を注いでいるのは全く正反対の性格をアピールしてきた米長邦雄の方であった。迫害する側が改心すれば最強の味方という歴史は、パウロやアウグスティヌスなどに顕著である。彼らは最初イエズスを迫害した者達である。迫害する側が改心せずに自己救済に腐心した場合、惨めな最期を遂げるのもまた既成の歴史であった。
「美に合致した性格」とは二人で交互に作るものと述べた。それは混合であるときにライバルの力関係をアピールされ、融合であるときに二人の個性を越えた感動を人々にもたらす。どちらがよいかは諸君にもわかるであろう。いい戦いの後では両者を称える。なぜかというと、対局者以外の性格からまったく予想もしなかった美がそこに出現しているからである。それは美の融合によって生じた感動であるが、将棋はそれが棋譜という形となって残る。そのようなものが発生する原理を内藤は解説しようとしているのである。
残念ながら彼の語彙では全てのプロセスが解明できない。しかし彼はそれがあるということを知っている。だから谷川という心にそれを写して難なく完成度の高い一連の解説を完結できたのであった。
我々はこの美の融合を同一化現象と呼ぶ。四相に分割するのは、そのプロセスをより鮮明に浮きたたせるためである。そのクライマックスは引き分けの美である。勝敗が決する以上の醍醐味が引き分けにあることを証明する立場である。内藤は勝敗によって生計をたてる棋士という職種から、実はもっと本質的なものを見ているはずであるが、立場上言えないということであろう。


内藤國雄NHK杯解説3 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月17日(月)00時11分19秒

我々が言う「美に合致した性格」とは実は個人の問題ではない。将棋は二人で交互に指すからである。内藤が言う「勝敗後の気持ちの処理。=勝てば謙虚、負けても悪びれない」というのは美の処方せんである。我々はその薬をどのようにしたら調合できるかということを考えている。


内藤國雄NHK杯解説2 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月17日(月)00時05分10秒

我々と現役棋士である内藤國雄の立場の違いはひとつである。それは根底に何を置くかということだけである。内藤國雄は「将棋の才能」を以下の三つと考えている。彼の言葉をそのまま使うと以下の通り。
1=好きであること
2=集中力
3=性格のよさ

中倉彰子に内藤は尋ねた。「3の性格のよさみたいなもの」とは何か?人がいいということではない。
さてこの問いにしばらくして内藤は答えた。我々が期待した答えは「美に合致した性格」である。内藤の答えは違っていた。彼は「勝敗後の気持ちの処理。勝てば謙虚、負けても悪びれない」ということが「性格のよさ」と答えた。


内藤國雄NHK杯解説 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月16日(日)23時54分01秒

昨年は米長邦雄の内藤加藤戦解説が評判であったが、理論的には勝負師の視点から見た解説法であり我々はほとんど評価しない。流れと無縁な単発的な楔が煩瑣である。マシュダ一家が絶賛するのは本日のNHK杯谷川行方戦における内藤國雄解説の方である。序盤から終結まで首尾一貫した流れるような論理構成はNHK杯としては今期最高であった。内藤は大局観のみで将棋を見ている。それは我々の視点と共通する。その根底にあるのは美である。だからなぜあのように完結して行くのかもよく理解できる。現役棋士最高峰の解説であろう。完全に対局者と三位一体を構成している。決して米長のようなワンマンショーではない。あくまで将棋を中心に論理的完結をめざし、それが奇跡的に指し手と一致して行く様が我々にカタルシスを与える。内藤の至芸のひとときであった。