MashudaBBS 2003.01.20-22 象戯と将棋 駒箱の謎


象戯と将棋 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月22日(水)09時05分49秒

象戯。なんと美しい言葉であろう。現象と表象という二匹の象が戯れる芸術。
将棋。なんと歪められた言葉か。殿様の前で屈伏した芸術家。
習慣の恐ろしさ。玉と王の表記についていまだに議論している将棋界とは、後進国の寒村である。ましてや今さら将棋を象戯と表記しろと言えば、疎外されるであろう。
美しい言葉は権力に歪められてきた。だから本家は潜航。


米長の教育路線へ一言 なぜ箱なのか? 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月22日(水)08時39分06秒

米長にはわかったことであろう。こんなに合理的で美しい先後の決め方があったことに驚いてくれたことだろう。
米長は将棋を教育現場に導入しようとしている。ここで最も重要なことは、彼が言うように反対者を作らないということである。囲碁の「握り」という合理的な先後の決め方に対して、振り駒などという先後の決め方を教育現場に導入すればどうなることであろう。当然賢い教育者から反対がでる。そしてこんな不合理で恰好悪い振り駒が、将棋の伝統文化などと書いてある教科書をクソ本と思うのは当然であろう。
なぜ箱なのか? この立方体は将棋にどのような意味を与えていたのか?
コロンブスの卵やニュートンのリンゴに匹敵するこの謎解きをしばらく楽しんで頂きたい。


早朝練習の森下研究会 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月22日(水)08時30分14秒

今日の公式対局は10人。早朝練習の森下研究会は元気であろうか。インフルエンザが流行っているので薬は早めにもらっておくように。今度のヤツは40度の熱を出す強敵。
さて森下にはわかったであろうか。先後はこのように決めたらどうかと提案するのは森下が相応しい。島もこの栄誉は森下にあげなさい。


駒箱とは 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月22日(水)07時44分16秒

駒箱は将棋の一部である。しかも駒を単に収納する箱ではなく、将棋というゲームにとっても不可欠なものである。今日これを読む君達は、これを我々が将棋史上最初にここに書くことに驚いてもよい。それを知らなかった学者は恥じてもよい。我々が憤慨するのは、あのバカげた振り駒という制度が何の疑念もなく延々と放置されたことに対してである。おかげで子供たちまで駒を振るようになってしまった。実に醜悪な放物線で歩を放り投げる習慣がついてしまった。
朝一番に道場に行ってごらんなさい。盤の上に駒箱が置いてある。すべてはそこから始まる。このような儀式から楽しむことこそ将棋なのである。最初から雑然と放り出された駒から将棋が始まってはならない。


振り駒は邪道 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月22日(水)07時26分52秒

お隣の駒音掲示板では今ごろ振り駒の不平等を話題にしている。なんとかわいい子供たちなのだろう。昨年の王将戦第1局以来、我々は振り駒は簡単に先手後手が操作できるとハッキリ述べてきた。島は我々に感化され、その後将棋世界でそのメカニズムに触れている。先崎も昨年秋に文春で将棋界を上回る囲碁界の連中の振り駒さばきを紹介している。
島も先崎もタコであるのは、振り駒で八百長ができるんだから何とかしろとハッキリ言えないことである。彼らの口に鍵をつけているのは、振り駒が将棋文化であると勘違いしているバカどもであった。勝敗に直結するこの重大な儀式に将棋文化もクソもない。しかもこの伝統はまがいものである。毎回記録係りが頬まで震わせ、みっともない仕草で駒を放り投げるあの醜悪なアクションを伝統だと言うのか?
ではどのように先後を決めるべきか。
ジャンケンではうまい者が勝つ。サッカーのようにコイン投げではあまりに見苦しい。
マシュダ一家では先後を決める前に上位者がまず駒箱を盤の上に置く。この先が違うのである。我々は駒箱と駒を使って先後を決める。あとはこの儀式を誰が書くか楽しみにしよう。


メタモルフォーゼ 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月22日(水)06時46分39秒

変身=日本人が最も好きな言葉。これを我々は四相というカテゴリーに分類してきた。
今日はこんな解説にしてみよう。
男の子は今でも仮面ライダーナントカ。お父さんの頃は初代仮面ライダー。オジサンの頃は七色仮面に月光仮面。お爺さんの頃は怪人二十面相。そして忍者屋敷に至る。
女の子はセーラームーンにキューティーハニー。お母さんは魔法使いサリーに秘密のアッコちゃん。オバサンはゴーダホストクラブ。お婆さんはマシュダ美容整形外科。
この中で四相の分類に該当しないものは、オバサンとお婆さんである。彼女たちには相停滞がない。


鑑賞棋譜の条件 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月22日(水)01時11分11秒

鑑賞棋譜であるべき条件を簡潔に述べるならば=棋譜を飽きずに反復して読めること。
この反復回数が幾ら多くても飽きない棋譜が名局として残る。
ところが江戸時代の棋譜にバカげた解説がついているものがある。当時の人々が単なる思い入れで書き残したものを真に受けたのであろう。そのような自画自賛を無批判に解説に取り入れるバカ学者は逝ってよし。


谷川は掛け値無しの王者であった 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月22日(水)00時35分04秒

ジッチャンにとって谷川といえば掛け値無しの王者であった。谷川と聞けば、それはもうすぐに目を潤ませるほどであった。目の中に入れても痛くない名人であった。
我々はあの純粋培養の谷川はもう存在しえないと考える。そこで昨年の王位戦が谷川の新境地と考えるようにしなくてはならない。王位戦第2局におけるジャーナルの島解説はMashudaBBSの軍門に下ったものであるが、あの封じ手を谷川らしくないと言う島に乗せられてはいけない。島は傍観者である以前にA級プロ棋士であるのだから。
今年の恒例の正月番組。衛星放送でアマチュア相手に谷川が公式戦投了図から逆転できるかという趣向があった。谷川はある狙い筋で逆転したのであるが、それは相手をひっかける一発狙いであった。谷川はこのような手はかつては死んでも指せなかった。局後、康光は谷川に「学ばせていただきました」とあの冷静な口調で言った。康光はかつての谷川のようでありながら、まったく異質の棋士である。その直後に彼が見せた「逆転将棋」は谷川の解説が全く通用しない強気の連発であった。それでアマ相手に勝ってしまったのである。
かつて谷川はハブとの死闘で形勢が何度も入れ替わる将棋を経験したときに一皮向けたときがある。そして完全に脱皮したのは昨年の王位戦であった。


谷川の方言 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月22日(水)00時10分56秒

昨年マシュダが突然放浪を始めたとき、神崎掲示板に立ち寄って谷川の方言が聞きたいと言うようなことを書いていた。本家にUPされていないのでどのような文脈か詳細を引用できないのだが。
それからしばらくして将棋の日のテレビ収録で、谷川が実に珍しく関西弁を一回だけ使ったことがある。これもまた感動的であった。


北島のこと そして谷川 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月21日(火)23時53分37秒

2001年-2002年からの囲碁将棋ジャーナルで北島は素晴らしい活躍を示した。
なぜ彼が続投できなかったのか残念に思う人は多いに違いない。矢内は当初の期待を裏切り、徐々にドッチラケレズ役を強いられた。北島のように解説に食い下がることは彼女の立場では無理であろう。ヤマクミよりはるかにすぐれたキャスターであるとだけフォローしておこう。棋士矢内はしかし面白い。大変な努力をしている。中井をメロメロにしてもらいたい。その時に今の矢内のマイナスキャラがプラスに相転換する。
北島は竜王戦第4局では藤井竜王が終盤宙合いの歩打で負けにしたのではないかと丸山名人に詰め寄ったのが彼が降板した理由であろう。あの一言以外、彼には全くミスはなかった。ところがそのミスが致命的であった。古作のように続投するべきだったのだが。
谷川の解説の時は面白かった。北島の突っ込みの優秀性はそのタイミングである。彼は巧みな間でそれを解説者に言わせようとするのであった。昨年の王将戦第三局のハブのグランサタンを谷川は解説できなかった。ところがそこに谷川のためらいがあった。森内と丸山はそこを深く読んで竜王戦で成果を見せたのであった。(下記参照)
これを丸山ワクチンと呼びたがる島のような者には、丸山を理解できないだろう。
谷川はこの後、自分の閉鎖的な生活を反省した。谷川研究会を井上-山崎-畠山鎮と結成し、昨年王位をハブから奪取したのであった。閉鎖的生活の赤裸々な反省は自ら谷川の「光速ノート」としてインターネットに公開までしている。感動的な発表であった。

http://www.bekkoame.ne.jp/i/yusai/0502-1


2001年の竜王戦第4局のこと 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月21日(火)23時18分10秒

2001年の竜王戦第4局。ハブの55歩をめぐって実況でマシュダと米長の意見が割れたことを覚えているだろうか?
過去一年の米長の実況を読んでみても、あの55歩に対する彼の直感が最も冴えていた。
そして後にマシュダは米長の直感の方が正しいと訂正したのであった。ところがその当の米長が、実戦ではマシュダの形勢判断通りに進行してしまったので、その週の囲碁将棋ジャーナルの生放送解説で自分の直感の方をマシュダの指摘通りに訂正してしまった。実戦では、ハブはマシュダの実況通りに勝勢を築く。マシュダはハブの心理を読んでいたことになる。そして、ハブのこのような指し手をグランサタンと呼ぶことにしたのであった。米長はそれを「苦しいから打開をはかる」と考えたのだが、そのような時にハブは最も強い。そして「苦しそうになる直前に打開をはかる」のがグランサタンのプラス値となる。これは先手後手で決まる。2001年の竜王戦第4局ではハブは後手番であった。


再び先週の王将戦第1局のこと 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月21日(火)22時55分24秒

負けた佐藤康光は記者に「自分が指した手は五手ぐらい」と語ったが、これを自嘲気味だと捉えてはいけない。五手も自分の手が指せるから康光は偉大なのである。ハブなど二手しか自分で指していない。あとは我々が考えたことと全く同じである。だからこの日のハブに共感し、思わずハブたんと呼んでしまったのであった。一方康光は、とんでもない棋士である。このような奇想天外な棋士に巡り会えることを誰に感謝すればよいのであろう。あの飛車打を我々は瞬時も考えたことはなかった。


竜王戦1組 丸山郷田戦 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月21日(火)22時28分21秒

丸山は昨日郷田に勝ってしまった。これで丸山竜王が見えてきた。
松尾や山崎は丸山を今後集中的に研究するように。ハブには丸山が理解できない。
それにしても我々は昨日この対戦があることも知らなかったのに、A級順位戦の郷田丸山戦を突然思い出したように語り始めたのはなぜだろう。
このようなことはよくある。今気がついたのだが、先ほど米長のことを突然思い出したとき、同じ時間に「何でも鑑定団」という番組に彼は出演していたことに今頃気がつく。我々はこれを見なかった。

昨日、中原米長はどのような会話をしていたか棋譜を読めばすぐにわかる。これを言葉に翻訳するときに彼らの言葉もまた参考資料でしかない。それほど棋譜というものは、過去から集積する多くの情報を満載している。
彼らには常套句というものがある。分岐点もはっきりしている。「この局面はこのように指さなくてはならない」という直感に頼る米長と、「その数手先の局面からこのような迂回路がある」と考える中原を読むのは楽しい。直感も思考もまた知の集積。彼らは棋士である限り俗世と離れてこれを棋譜で語るのである。
この年の中原や米長と将棋を指したい者は、必ずそれができるようになるから


中原米長戦 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月21日(火)20時59分27秒

よみなおの独り言を聞けば、この最後の中原米長戦の輝きが見えるであろう。
小田記者をマシュダが褒めていた理由がわかる。阿部が竜王を奪取しそこねた直後の雰囲気作りも素晴らしかった。それが何の装いもなく自然にできるから彼は優秀なのであった。
小田記者は4つの記述をすることを忘れていない。
 全ての駒の躍動。
 観戦記はつかない。
 特別対局室ではない。
 無言で感想戦が続く。
そう。中原米長は駒で会話をしている。
米長は中原だけに直接言いたいことがある。
中原はそれを駒で聞き、駒で答える。話は尽きない。
そのような二人をこっそり傍らで見る記者という職業もまた輝いているのであった。
そのような体験が年に一度でもできるものならば、心ある記者はどんな苦労も厭わないであろう。


三浦の棋譜は中断。そこで中原米長 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月21日(火)17時26分57秒

長い脱線であった。確かA級順位戦で森下相手に三浦が穴熊を見せ始めたところから中断していたようだ。この脱線のおかげで三浦は昨日の棋聖戦最終予選でハブに勝ってしまった。どうしたらよいものか。A級順位戦も実は三浦が勝ってしまった将棋なのであった。三浦の勝ち将棋をふたつも書いてしまえば、我々は暗殺リストに掲載されるかもしれない。ここでハッキリ言わねばなるまい。三浦、お前の将棋だけは本家では一度も取り上げていなかった。ようやく日の目を見ようという時にこともあろうにハブに勝ってしまうとは。つくづく星めぐりの悪い男であった。ここまで丸一日ひっぱって申し訳ないが、三浦の対森下戦は猫に喰わせることとする。
それよりも昨日は竜王戦2組で中原米長戦があった。連盟の星取り表の中でこの一行は燦然と輝いている。彼らの上にはハブ-三浦、丸山-郷田の対戦表があるが、彼らでさえ霞んで見える。中原米長という名前が並んでいるだけで他を圧倒している。中原が勝ったというのも芸の底知れぬ深さを感じる。不思議なことに米長は中原に負けても見劣りが全くしないのであった。これがこの二人が長年の死闘で培った芸の深さなのである。棋士という職業はなんと輝いていることであろう。名前がただ並んでいるだけなのに、他を圧倒する響きが中原米長なのであった。


「竜王は将棋界最強の棋士とする」?  投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月21日(火)13時07分24秒

読売と言えば、七面六ぴはどうしたであろうか。
良く見れば、なんと「竜王は将棋界最強の棋士とする」という一文が日本将棋連盟-読売新聞社間の契約書にあるとわざわざ公言している。添削をしてくれと言うことであろう。
この一文は確かにおかしい。「竜王は将棋界で最高の棋戦賞金額を獲得する棋士である」とあるならわかる。我々が共謀してそれを最強棋士とまず最初に呼ばせようじゃないか。それだけのことである。実態がそうだとすると、名人戦を主催する毎日新聞社は、この契約によって、自動的に竜王戦以上の金額を連盟に支払うことができないようになっている、ということになる。そうならば実態は談合契約であろう。

良心的に読んでみてもよい。するとこうなる。
甲か乙は、或いは甲乙は「竜王を将棋界最強の棋士とする」
こう読む以外ない。
そのように読んで本当に良いのであろうか?
そもそも最強の棋士になるのは、この甲乙の契約文によるものではない。それを言いたいならば「契約で成立した棋戦に優勝するまでの制度は、最強棋士を生む土壌である」ということをこの一文で銘記すべきである。実態が矛盾だらけの制度なので、契約書にあるようなバカ文となる。「竜王は甲乙で決定する裏口入学であると自ら認める文」として以外読めない。これは自虐でなければ阿呆の傲慢であろう。これをわざわざ紹介する記者は自社を辱めたいだけならばそれはそれでよい。彼はこの契約相手の日本将棋連盟にも唾を吐いているのである。それでもこれが正しいのだと言い張れば、相当陰湿な人間たちであろう。ならば救いようもない。この西條耕一という記者は本質的なところで棋士の寄り合い所帯をバカにし、最後は連盟の会長が菓子箱もって挨拶に行くと締めくくっている。笑い話で済むことなのであろうか?棋士がそれでもよいというなら、我々もそのように見る以外ない。


ゲノム音楽 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月21日(火)11時43分09秒

さてウンチ付の新聞を捨てようとしたとき、ふとその記事に目が止まった。
呼吸を止めて読んでみる。マドリードの病院の研究員がゲノムを音符換りにして音楽を作ったらしい。ラモン・イ・カハル病院のアウロラ・ソーサたちのグループと書いてある。なんと理にかなったことをする人々であろう。相当に暇人である。理にかないすぎるので息が止まったままであった。
かつて聖書に記された符号を解読してダビデの詩篇を歌うカセットテープが欧州で売っていた。それは教会でも活用されたが、あとでいい加減なものとわかり次々に修正版が出された。日本では犬の言葉を翻訳する機械がヒットしているご時世。そのうち将棋の棋譜で音楽を奏でる機械も作られることだろう。


猫の法名 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月21日(火)11時16分03秒

今朝になってニャンコはようやくウンチを新聞紙の上に出してくれた。
ニャンコはマシュダ一家で飼っている猫である。呼び名は日によってかわる。
オイと呼ぶこともある。名前はどうせ仮のモノなのでマシュダ一家は俗名にこだわらない。それでも先代の猫が死んだとき、猫寺が法名をつけてくれという。猫にも法名をつければ法名料が設定できるのであろう。相撲界の年寄り株と似ているかは定かではない。先代は今でも「親猫」という法名で寺に眠る。
ニャンコは読売新聞が大好きである。昨日の二面の亀吉に見事なウンチをしてくれた。


Re若貴の表記 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月21日(火)10時40分56秒

このような御指摘を我々は首を長くして待ち、やがて明け方には麒麟児となってしまっていた。
実は我々の投稿が検索にかけられ、マシュダ一家を糾弾するクラゲ族に部分引用をされることを嫌って若乃花=若之花としたのであった。それほど彼らには敬意を抱き、我々が俎上に乗せることさえおこがましいことであった。御指摘を胸に、本家の裁定に委ねることに。


若貴の表記 投稿者:一老人  投稿日: 1月21日(火)10時27分35秒

若乃花、貴之花は貴乃花。すんません。


再生願望 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月21日(火)09時23分23秒

簡易性を求める習性は実は生命の根本である。より合理的な肉体をめざして生命は進化をとげてきた。ダッチワイフ効果の視点から見るとそれは退化にみえるということである。
そこで今日は人間の営みにおける簡易性の利点を述べてみよう。
記録したモノをそのまま小さくするという発想は誰でも無批判に望むことであろう。手に届くところに全てがあれば便利この上ない。そこで最後は自分も小さくしてしまうのである。骨壷に入ることになる。そこに今までの履歴書を全部持ち込むことになる。
骨にすべての記録が書き込まれているのであるが、下手に焼かれると再生する者が大変かもしれない。そこで燃えない塊にすべてを封じ込めて永久の眠りにつこうとする。これが有史以来の人間の最終的な願望なのであった。他の生命はそこまで猜疑心がないので遺伝子にすべて任せてしまう。人間が愚かしくも文化や文明と呼ぶものの根幹はこのようなものである。マシュダ一家ではこれを固い再生願望と呼ぶ。他の生命は柔らかい再生願望しかない。


音楽産業は退化している MP3はクソ 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月21日(火)08時55分16秒

DVDの音声フォーマットであるリニアPCMやネットで使われ始めたMP3という圧縮フォーマットは、音楽産業を退化させている。これらのフォーマットでは音楽などまともに聞くことはできないのである。ところがダイナミックレンジが狭くビート音だけで繕う音楽はなんとかごまかせる。そこでこのようなクソメディアでも耳に心地よいクソ音楽が量産されることになる。クソなので新しいスタイルを生むかもしれない。それはゲーセンで耳にするあのキンキンの音で作られる別世界となる。かなりマニアックな分野であろう。このようなクソメディアで、全ての音楽が楽しまれるはずというのはメーカーの奢り。
CDやMDよりもひどい音になっているリニアPCMやMP3にメーカーは何を期待しているのであろうか?一言で言えば簡易性。ただそれだけのことであった。別の言葉では軽量化。いかにメディアを小さくできるかということに尽きる。だから中身も平然と間引かれる。
大人には選択の余地があるから自分の責任で購入すればよい。しかしリニアPCMやMP3の音楽しか耳にしたことのない青少年たちにとってはどうであろうか?
メーカーは財布の紐が固い大人を見捨てて、若者をターゲットにし、しかも洗脳しようとしている。そう言われたくないならば、これらのメディアはDVDやMP3がCDやMDより音が劣化していることをわかりやすく銘記しなければならない。そこで常套句が「CDにせまる音」。最近のデジタルカメラなら「フィルムにせまる画質」。どの程度せまっているか買ってみろと。次はもっとせまるぞと。
簡易性だけを求め、チープな音楽に感動できる人間の量産。これが一番怖い。
今の大人が薄く広がるだけのクラゲとなってしまった理由が若い君にもわかるであろうか?
今の大人もLPを捨てて音が劣化したCDに乗り換えてしまったのである。それまではLPなどの高音質のアナログディスクでさえ批判されていた。「音楽はナマで聞け」と言う硬骨漢が文化を本気で訴えていたのである。今では訴えることさえ狂人扱いとなった。誰も簡易性には対抗できなかった。
そもそも若い君達はCDの74分というフォーマットがなぜ作られたかご存じであろうか?あの74分という中途半端な収録時間は、ベートーヴェンの第九シンフォニーを一枚のディスクで聞きたいというだけの理由で決定された。第九を聞くのにLPを三枚もひっくり返すのは面倒臭い。しかし120分では16ビットに収まらない。60分では第九が聞けない。そこであの大きさにしたのであった。LDがDVDにとって変わったのも似たような理由。60分では映画が収まらない。要するに簡易性だけが求められた。アナログディスクであるLDにDVDが敵うはずはないと技術者は思っている。
以上を一言で言えば、技術の進歩は中身の退化。中身は確実に間引きされている。
そこで考えてみよう、どうして人間はこうしたものを作ろうとするのかを。
実に簡単である。音楽の場合は自分で演奏できない者が機械に代替させようとする。この代替行為はあらゆる分野で有史以来行なわれてきた。本物がないので、代替させるこのような人間特有の行為をダッチワイフ効果と今日は呼ぼう。
このようなことばかり横行してはいけないということで、どこの国でも音楽は必修科目となっている。


ビデオメーカーの談合 怪しい時代 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月21日(火)07時50分33秒

これから話すことを公の新聞社は胸を張って書けるであろうか?
賢い消費者なら誰でも思っていることなのである。
メーカーは談合している。この談合は社員を養うために国家が隠匿しているのである。どこから話したらよいだろう。
最近のことではデジタルビデオカメラに付属しているADコンバーターがある。
不思議に思った人はいないであろうか? デジタルビデオをVHSなどのアナログ映像に変換できるのに、なぜその逆ができないのかと。
DAコンバーターはどのメーカーもカメラに標準装備していたのに、ADコンバーターは最近のビデオカメラにしか付いていない。つい2年ほど前のデジタルビデオカメラには付属していなかったのである。これはその間に技術が進歩したのだと消費者は素直に思ってくれているのであろうか?
ソニーがアナログ映像をDV映像に変換できるメディアコンバーターという機械を一昨年販売した時、他のメーカーはビビッた。そしてこの商品はすぐに売り切れ、再び同じような商品が出ることはなかった。圧力がかかったのである。おかげでこのメディアコンバーターはインターネットのオークションでもロングランの人気商品となってしまった。その間にメーカーはビデオカメラにADコンバーターを標準装備するようになる。このチップは数千円で製造できる。手のひらサイズのADコンバーターも製造できるはずである。ところが現在どこのメーカーも、消費者が最も必要としているこの商品をつくらない。作っているのはカノープスなどの会社であり値段も実売価格で3万円となっている。大手メーカーは驚いたことにプレイヤーにもこの最も必要なADコンバーターを標準装備しない。ご家庭のアナログテープをDV方式の非圧縮デジタルビデオに変換したいなら、新しいビデオカメラを買いなさいということである。つまり彼らは談合を行っているのであった。そしてMpeg2の圧縮された貧困映像でまず消費者を満足させようとしているのである。昨年末、シャープとパイオニアが実売価格7万円台で売り出したDVD録画機は爆発的な売れゆきであった。3年前20万円以上した録画機がもっと機能が良くなってこの値段である。ところがこれらの機械にはADコンバーターを標準装備していない。消費者はこのような機械でダビングし直せば、アナログテープが永久保存できるという幻想を抱いていることであろう。そこで圧縮映像の貧困さに裏切られすぐに次の商品を買うことになるであろう。
こうしたことをメーカーは談合して行なうのである。これは独占禁止法違反となる。ところが旧通産省はこの手抜き技術談合組合にメスを入れることができなかった。メーカーが抱える多くの従業員を救うというのが大義名分となる。そして今は暗黙の了解という極めて怪しい時代なのであった。メスを入れると産業が破壊される恐れがあると弁解するであろう。そこで線引きをどこかで行なうのであった。その恩赦に甘えてメーカーは消費者を操る。自由主義経済を装った癒着産業ということである。


テレビ発祥の国ドイツ 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月21日(火)03時18分18秒

テレビのことを書くと1936年のベルリンオリンピックについて触れておきたくなる。
この話は長くなる。いつ三浦の穴熊に辿り着くことか。
ベルリンオリンピックはレニー・リーフェンシュタールの映画で不滅のものとなった。彼女は随分戦後批判され戦犯にも問われたが、結局釈放され、映画の版権まで所有していた。「民族の祭典-美の祭典」は、監督権を彼女が持っているので民間では商品化しにくい映画であった。NHKの衛星放送はそれを知らずに放映して問題となったことがある。日本でも新聞の隅にはレニーのことはよくでていたのだが、こうしたことは一般人は知らないだろう。
もっと知られていないことにテレビの歴史がある。ベルリンオリンピックが街頭でテレビ中継されていたことをご存じだろうか? ジッチャンはそれを実際見ている。こうした事実は戦後隠匿されてきたことであった。戦勝国がドイツの利権をすべて奪い、ドイツの発明さえも自国の物として再開発したからである。ユダヤ人を抹殺しようとしたドイツ人の優秀性はことごとく隠匿されるのが常であった。特にテレビの歴史に関しては研究書も隠匿された。その技術は民間会社が盗み放題でパテントを申請していたのであった。ナチスを生んだドイツのパテントなどは認められなかったのである。そこでそうした民間会社に縛られない奇特な研究者はドイツやワシントンの公文書館で資料を探すことになる。夢の島からおもちゃを探し出すような作業は結構楽しいものである。手書きのカルテさえないような未整理資料から何日も費やして宝物探しをするのであった。現場の職員より研究者の方が詳しいインデックスを作成したりすることなど日常茶飯事である。今のようにインターネットで検索できる君達にはこの泥沼の楽しい作業が理解できないだろう。ナチスが政権を取る前にテレビというものはドイツで1920年代から開発されていたことをご存じであろうか? 日本よりも戦後叩かれた彼らは、戦後は終わったと何度も叫んできたが、ここまで叩かれると、イモが好きな国民性に満足してしまうのであろうか。こうした公文書館を有効に利用するのはなぜか外国人の方である。外国から見た方が、モノの価値がよく見える。おそらくほとんどのドイツ人は自国でテレビが最初に作られたことを知らないであろう。ましてや1920年代などまだフリッツ・ラングを筆頭とする無声映画の全盛時代であった。そのような時代にテレビがあったと言われても一般人はピンと来ないはずである。そしてトーキー映画も実はドイツで機械が開発され1930年初頭にはT.Kが最高の録音機を完成していた。まだ無声映画全盛期にすでにドイツではトーキー映画を作っているのであった。この技術が実は今のソニーを生んだ。ソニーの大賀はベルリン音大の声楽科に在籍していたが、戦後のドイツの録音機をソニーに売り込んで後のソニーの社長となったのであった。
このような二重構造は今の業界でも当然ある。一般人がその技術力を知るようになるのは少なくとも5年後であろう。ソニーが新開発したレーザーでDVD計画が業界新聞に予告されたのはもうはるか10年以上昔である。商品化はもう8年以上前。世間はまだLD全盛期であった。そして今ごろ世間はDVDなどと言っているのである。DVDは5年前なら画期的な商品であった。しかし欠陥が多すぎて業界では失望している。かつてのMpeg1によるCDビデオと同じ運命を辿るであろう。
結局何が相変わらず残っているかというと、カセットテープ、VHSビデオなどのアナログ商品なのであった。みてくれより中身があるモノが息が長いのである。CDの16ビットより遥かにカセットテープのアナログ音の方が美しい。DVDの圧縮映像より、LDの非圧縮アナログ映像の方が美しい。これは技術者には当たり前のことなのであるが、消費者は便宜性に騙されているということである。
そしてテレビ。これはPALでもNTSCでも勿論アナログ。1920年代と最初の基本は変わらない。ハイビジョン放送の美しさに感動したことがあるだろうか?これはNHKが視聴者からかき集めた金を湯水のごとく使って長年にわたり開発してきた技術。ところが大もとはアナログなのである。それを通信や商品化の際にいかに間引くかというマイナスの技術が映像のデジタル化というものなのであった。そしてハイビジョンでさえフィルムの美しさを超えることはできないのであった。これを難しく考えることはない。我々の視覚や声はすべてアナログと呼ばれる。限りなく無数に分けた脳のデータで或る限りそれもデジタルと呼ばれなくてはならないのであるが、太陽の光は平行線であるという暫定物理学上ではアナログと呼ぶのである。
最先端技術でさえこのようなものであるから、将棋がコンピューターに追い越されるのは5年後という議論の根幹はほとんど何も知らない興業将棋の世界での話と覚えておきなさい。そして我々は悲観を生むだけのこうしたばかげた議論に全く興味がない。こうした議論を煽る者は、まずあたり前のことを考えるべきである。誰がそれを楽しむのかということを考えればそれですぐに答えは出るであろう。


東京オリンピックのこと 円谷の思い出 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月21日(火)01時29分08秒

栃錦のことを書くと東京オリンピックを思い出してしまう。最初に買ったテレビで栃錦に釘付けになり、二番目に買ったテレビで東京オリンピック漬けになってしまったからだ。
ここではマラソンのことを書いておこう。全部思い出していたら、いつ三浦の穴熊が完成するかわからない。
走る宗教アベベ・ビキラはマラソンでオリンピック史上初の金メダル二連勝という前人未踏の快挙を成し遂げた。彼は自己の肉体を最強スタッフと共に体系的に演出したのである。この結果があって当然の努力をしたのであり、この肉体の演出術こそ賞賛するべきものである。アベベはメキシコオリンピックで三連覇に失敗後、交通事故の後遺症で40代の若さで死んでしまった。英雄の死とはおよそこのようなものであってほしい。
我々がそのアベベよりも感慨深く思い出すのは、東京オリンピックにおける円谷幸吉。42.195キロの末端地点の悲劇。彼は超人アベベには負けても二位でゴールインするはずであった。全国民がそれを確信し声援を送っていた。それがなんと競技場の最後のコースで、英国人のヒートリーにゴール直前で追い抜かれてしまった。
マシュダ一家にとって鮮烈な記憶。ヒートリーが円谷を追い詰めるに従い、ジッチャンがテレビにジリジリとにじり寄っている。そしてまさかとは思ったが、円谷がヒートリーに抜かれてしまった時にテレビを揺すり、ついには放り投げてしまった。マシュダ一家ではすぐに二代目のテレビを購入し、再放送を何度も見たが、確かに円谷は銅メダル。円谷がヒートリーに抜かれる再放送を何度も見る度にジッチャンがまた発作を起こしてテレビを投げ飛ばさないか皆で緊張していたものである。今思えばあのテレビはもう寿命であり、ジッチャンは投げ場を考えていたのであろう。そのまま粗大ゴミとするより確かに劇的な幕切れであった。
円谷幸吉の最期もまた劇的であった。彼は自害して果てた。アニメに名前が出てくるだけの劇中童話「となりのトロロ」は、彼の遺書が影響を与えている。


劇的な散り際は演出 栃錦と大山 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月20日(月)23時37分32秒

我々がなぜ貴乃花と書かないか理由を書いておこう。先代の父貴ノ花が大関として精一杯戦った雄姿は掛け値無しのものであった。その父の名前を彼の息子に重ねて横綱として称えたいのである。
若乃花は若乃花と書く。マシュダ一家にとって二重の意味で若乃花こそ忘れ難い力士であった。全身神経の体で紙一重の技を繰り出す若乃花にどれほど熱狂させられたことか。この兄に最大限の敬意を払い、弟は貴ノ花と身内では表記するのがマシュダ一家の慣例である。若乃花は忘れ難い名前であった。先代若乃花の死闘劇の数々。そして栃錦の最後の決戦と書いただけで手が震える。そう。全勝同士の横綱決戦であった。栃錦は若乃花に破れそれを最後に昭和35年に35歳で引退した。今日の貴ノ花は30歳で引退。劇的ではないが感無量。厳しい時代の感慨と受け止める。
昭和30年代は演出ができた。シャープ兄弟を本当に憎む日本人がいたのである。プロレスでさえそうなのだから相撲界は熱狂的信者に沸いて当然であろう。この時代に兄の若乃花は本当によくやった。弟もまたこの厳しい時代によくやった。彼らはガチンコしか知らない兄弟であった。若乃花の引退の時にはジッチャンは三度も泣いていた。相撲は週間ポストのおかげで、千代の富士以後は世間は八百長に厳しい。演出ができない世の中は、己の肉体を稽古という演出で鍛える以外、観衆は納得しなくなったのである。
全国民が演出で涙を流せた栃錦や大山のような劇的な散り際を王者にもう期待してはいけない。それは死を意味するからだ。


貴ノ花引退とジッチャンの留守電 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月20日(月)21時58分42秒

三浦の穴熊指向に先は長いと台所にコーヒーを入れに行くと、電話が鳴る。貴ノ花が死んだという。コメントが欲しいという。コメントもなにも驚天動地であった。
テレビをつけると引退会見であった。静かな屋敷が一層静か。そこでジッチャンに電話をすると留守電であった。このように録音されていた。
「感無量。ようやった」
貴ノ花の引退を知らずにジッチャンの所に電話した者には、何を言っているかわからない留守電であったろう。


030110A級順位戦 森下VS三浦 四間相穴 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月20日(月)20時58分05秒

年賀状に返信用葉書までつけてしまうゴーダの律儀さに森下も影響されてしまった。
先手森下の相手は三浦。こちらが堂々と25歩を突いているのに、三間飛車でしかも囲いは62玉からという穴熊表示で新年早々冬眠準備。


030110A級順位戦 郷田VS丸山 横歩取り 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月20日(月)20時45分58秒



横歩取りとなる。郷田は佐藤康光や森内とは違うことをアピールしたい。そこで23手めは58玉ではなく68玉で「俺はゴーダ」。ところが隣の豚は「それは内藤だ」と肩をいからしている。丸山はというと最近元気がない。あの若造にコケにされて以来、丸山は横歩取りに自信がもてなくなってしまっていた。やはり85飛は流行遅れなのか。マシュダ一家が言っていた通り84飛に戻るのか?しかし今日は相手がゴーダ。85飛でやってくれと言っている。ならば誘惑に乗るであろう。横歩取り特有の桂先の歩を打ちたくなるであろう。と、ここまでは威勢良く考えたのであるが、どうも渡辺明のあの眼鏡が気になる。あの眼鏡がやがて牛乳瓶の底になるのであろうか。そんなことより新年明けて、俺は一体何枚の年賀状にまだ返事をだしていなかったことであろう。ゴーダもおそらくこの悩みをもっている。しかし対局中にそれを聞くことは気がひける。ゴーダから年賀状の話をふってくるとも考えにくい。俺から聞いてみよう。丸山はそう考えて74歩を早めに突き、26手めに73桂と跳ねる。年賀状を書く暇があれば、この73桂馬には長考をするはず。ところがゴーダの返事35歩にはなんと返信葉書が付いていた。俺はこれでまたも返信しなくてはならないのか?右も左も真っ暗闇。よく見れば返信用葉書にすでに書いてあるあて名は、ゴーダではなく松尾であった。俺はゴーダにまでバカにされるようになったのか?
こうして丸山は25歩と打ち、合いの手で32手めに51金と中原囲いを完成させてしまった。33手めに34歩と突かれて丸山は気が動転している。右も左も真っ暗闇のまま44角と返事を書く。宛先は松尾の名前を消して佐藤康光にした。お前なら68玉からの変化で35歩は取れるのか?こうしてゴーダ病は丸山経由で伝染したのであった。ゴーダは喜んで角を交換し、中原玉の弱点である43地点を空白にしてイケルと思ったことであろう。37手めは気持ちよい66歩。森内が丸山から名人を取った66歩はここでもスポットが当たるステージ。丸山はすべて基本と逆の道を歩み、左右も逆となり手筋だけで玉の放浪を強いられ負けてしまった。
ところが勝った郷田はなぜか意味不明の言語をつぶやいている。俺をだしぬいて棋王挑戦者になったくせに、俺にはまともな新手を見せられないのかと目は訴えている。俺は同情されたのかと、やけに感想戦がくどい。丸山は笑った顔面、冷めた腹で弁解する言葉も無く、気の抜けた変化手順を示すのみ。
翌々日丸山からの葉書を見た佐藤康光は怒り心頭であった。松尾の名前がマジックでごちゃごちゃに消され、その脇に小さくつぶれた文字で自分の名前が書かれてある。裏をみると35飛と大書きしてあった。


021223B級順位戦 阿部VS田中の変態矢倉 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月20日(月)18時41分26秒

どうもB級ではこの阿部VS田中戦とA級の青野島戦を間違えて投稿してしまったようだ。
あとで組み替えてくれる彼には申し訳ないが、忘れないうちに投稿しておこう。
なぜか不愉快な棋譜というものがある。この阿部田中戦がそれであった。田中の無理やり矢倉というものは、先手をおちょくる戦法にしか阿部には見えないであろう。阿部の対抗策は、策と言うほどのものではなく素直に応対しているだけであった。阿部は普通に指せば自然に先手が良くなるという隙も無駄もない指し回しである。田中は先手に飛車先の歩交換まで許してしまう。阿部にしてみれば、ふざけるなタコという気持ちであろう。昨年のA級順位戦最終日でハブたんが先崎を叩きのめしたように、阿部はタナトラを叱り飛ばしたい心境であろう。ところがタナトラの顔をみたのがまずかった。ハブもかつてはあのトラニラミに油断してしまったのである。ここで負ければ、タナトラに間違いなく「ワタシは阿部竜王より強い」と吹聴されるであろう。馬も先に作って負けようがない局面から、あの不愉快な顔が想像されてしまうのである。ふと目をあければ、想像どころか、その顔が目前にある。ウンウン唸っている。桂馬のフンドシをかけてまで食い下がろうとしている。そんなん逃げまっせ。と阿部は逃げまくっているうちに、とんでもないことをしてしまったことに気がつく。信じられない負け方であったろう。序盤で大優勢を築きあとはジワジワと自然に勝ちが転がり込んでくるはずであった。矢倉を角換りに相転換してしまう「虎の穴戦法」にハマったと素直になぐさめてくれる者はいたであろうか? そうでも誰か言ってくれないことには、なぜか不愉快な思いが続く。あれで負けるなんて。悔しくて眠れない。そこで隣のトトロを呼び出し酒場で将棋に付き合わせる。トトロは日本語が話せない。ところが何か言っている。「ヘンタイ、ヘンタイ」と聞こえる。そう。あれは変態矢倉なのであった。変態にはヘンタイのような面持ちで付き合わなくてはならなかったのである。


日本映画のこと 投稿者:煙草で一服  投稿日: 1月20日(月)15時57分44秒

我々が学会で70年代に欧州を頻繁に行き来していた頃、欧州各地で紹介される日本映画といえば小津に溝口であった。狭い映画館で「東京物語」を何度も繰り返して見ることが西洋文化人のステータスであったと言えば驚きであろうか? 高度成長期の職場の蛍光灯の光の表現まで、我々はあの映画で論じていたのであった。一方黒沢は余りに芝居がかっており、西洋演劇の目に肥えた文化人にはわざとらしくみえたのである。
ところが80年代になるとフーテンの寅さんがなぜか欧州各地で受ける。90年代になるとテレビでも吹き替えで放映するようになる。小津さえもがわざとらしくみえるようになってしまったと我々が思い始めていた頃の出来事であった。これは商業主義の横行ではないなと思った。この最もわざとらしい映画であるはずだった寅さんシリーズを、彼らが愛し得たのはなぜであろう? 演劇通も理由はわからないが、口をそろえてアレはなぜかいいと言う。彼らが感じた感慨は我々の予想と同じであった。あの映画には息の長い文化が潜んでいるということなのである。この胡散臭い映画をそのまま反転させて彼らは見ていたのであった。


月曜日の診察 投稿者:昼休みのあくび  投稿日: 1月20日(月)15時15分43秒

月曜日は外来が多い。昼休みもずれこんでしまう。保険証のない患者まで来る。
トラさんは優しい人だった。自分のノーベル賞受賞会見をキャンセルして患者のオペを始めてしまった。これがフーテンの寅さんの冒頭場面の夢であった。内藤國雄の人情将棋を思いだしながら、あれもまた現実とパラレルであったと我々は楽しむことにしよう。
あの外来患者は体が逆さまであった。すべて逆に読んで上げると元の体に戻る。
このような患者に書くカルテは隠語を使うのが良い。昔はo.v.などと書いたが最近は鈴木さんちのお嬢さんと書くことにしている。


Mashuda project の目的 投稿者:Mashuda project  投稿日: 1月20日(月)10時02分41秒

Mashuda projectの全貌については明かされる日が来るであろう。
我々のリアルタイムの実況がどのようにして可能であったかそれを目の当たりにすれば驚くことであろう。血を流している魂が跋扈し悲鳴をあげている現場を想像できるであろうか?
一昨年末の竜王戦掲示板で某棋士はそれを察してProjectXの規模であると期待に胸を踊らせたが、自分が門外漢であったと知るや胃に穴をあけただけであった。彼は卑屈な道を選ぶこととなった。
我々が政治経済科学哲学心理学医学文学のエキスパート所謂知の集結+サイト維持費に費やしたそれぞれの月間契約費用は莫大な額にのぼった。Mashudaのみ年間契約であったが、もう再契約はしないだろう。我々はそれぞれの時期に応じて日本を切り取りマスメディアの欺瞞を暴いてきた。
このprojectの目的はひとつだけである。日本人の自浄作用能力を時価で数値化すること。