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●ヴァジラヤーナコース● 教学システム教本(P.332〜P.338)

第五十二話(一九九四年三月二十六日 杉並道場)

 君たちもよく知ってのとおり、帝政ローマの属国であったユダヤに、今から約二千年前、イエス・キリストが登場した。そして、ユダヤの民はイエス・キリストを結果的には十字架に架けることとなった。そして、その果報として、彼らはそれから国の衰退が始まり、そして数十年後には流浪の民と化したのである。
 ところで、警察予備軍(※警察予備隊)というものがある。これは日本史に詳しい人ならば、「ああ、自衛隊の前身である」ということに気づくはずである。この警察予備隊というのは、いったい何を警備するのか、何を安全にするのかということを歴史的事実として調べるならば、それは日本に駐留した米軍、あるいは米軍の家族の安全を日本人の他の、要するに反アメリカの人から守るということから、この警察予備軍は始まり、そして徐々に形を変え、自衛隊というかたちになったと。
 ここでもしその事実に気づくならば、日米安保条約の内容について何ら疑問を有することがなくなるはずである。ではいったい、どのように疑問を持つ必要がないのであろうか。それはもともと米軍および米軍の家族を日本人から守るために自衛隊が組織されたとするならば、日米安保条約において、米軍の指揮下に自衛隊が入ること、まあ、今はその点についてはうやむやに、引き継ぎによって、つまり条約が更新されるときにうやむやになっているが、その条項が入ったことそのものが、ごく当然であることに気づくはずである。そして、国民のためには、もう一つの顔である「防衛権を行使するために自衛隊はできあがったんだ」とアピールしたと。これはわたしの言っていることは嘘かもしれないから、皆さんはよく調べてほしい。つまり、もともと自衛隊の創設というものは防衛ではなく、日本にいるアメリカ人の保護のためにつくられたものだということである。
 ところで、王権、あるいは一つの独立国家というかたち、これについて検討してみよう。独立国家といった場合、経済の独立、および軍事上の独立、および政治上の独立の三つが挙げることができるといえる。つまり、軍事上の独立とは、その国内に他国の軍隊が駐留・駐屯していないこと。経済においては、自国の意思によって、いろいろな経済問題について検討し、そして意思をはっきりと表現できること。それから、政治については、国民一人一人が自分たちの意思にかなった政治を行なうこと、そういう政体をとること、あるいはその国の国王がその形態をとること、というかたちになると。
 ところが日本についていうならば、この一、まず軍隊についても、それから二、経済についても、まあ、経済については皆さんも知ってのとおり、アメリカと連動しながらどんどん悪化していっていると。そして三、これは政体についても、それぞれが日本の意図というよりも、その後ろにあるアメリカの意図によって現象が動いていることはいうまでもない。
 これをこのような目に見えた現象面ではなく、それ以外の面で見ることはできないのかと。例えば、経典にはこのような一節がある。聖者を称賛し、そして聖者に対して帰依し、戒律を守るならば、天界へと至ると。しかし、逆に聖者をそしり、あるいは聖者に対して暴力行為を行なったり、あるいはまあ、例えば毒ガス攻撃をまいたりしたらどうなるかと。これは激苦地獄へ落ちるということになっていると。
 もしこの経典の事実が正しいとするならば、つまり経典に記載されていることが正しいとするならば、いったいこの日本の今の徐々に悪化している国体の状態だけではなく、それをコントロールしているCIA、CIAのあるアメリカという国が当然、天の裁きを受けなければならないはずである。ではいったいその裁きを受けているのかと。これは君たちも知ってのとおり、例えば難病であるエイズに始まり、そして、異常気象、これは夏の寒波、あるいは冬の熱波等の異常気象、あるいは雨が降らないといった現象等が毎年何回となく起きるようになってきていると。そして、株価についてもそうだが、株のダウ平均もとうとう四千円を割り、三千円台に突っ込んだと。
 これは何を意味しているのかというと、彼らの積み上げていっている悪業の数が天によって数えられている証拠である。そしてこの天によって数えられている悪業の結果として、彼らは最後の審判において報いを受けなければならないのである。つまり、このような言い方をすると、非常にキリスト教的に聞こえるかもしれないが、これはキリスト教であろうと、仏教であろうと、天に唾を吐けばその唾は自分の顔で受けなければならないという原則のとおりの結果を得ることになるのである。
 彼らは今、オウム真理教に対して毒ガス攻撃を行なっている。それはNHK特集でも表現、番組として成立しているマスタードガス、およびソマン、サリン、VXガス等の神経ガス、これをミックスしたかたちで今使っていると。まだ今のところ、二種類の血液に対するガスと、それともう一つのガスは使われていないようである。そして、この次に彼らがとってくる手は何かというと、この一、二、のガスの他に、新しいガスを追加するか、あるいはもう一つの方法としては、いよいよ銃による射殺等の計画に入るはずである。いや、実際のところ、もう入っているといっても過言ではない。これらの予言が果たして成就するのかどうかと。まあ、少なくとも猟銃ぐらいの弾ではわたしは跳ね返してしまうだろうから、もっと強烈な飛び道具を彼らは使うはずである。
 そこでだ。これらの現実に対して、信徒である君たちはどうしなければならないのか。これは原則に戻る必要がある。原則とは何かというと三つであると。その一つは何か。それはグルに対する、例えばそれはグルがここに身体を現わそうが、あるいはこの世から去ろうが、どちらにしろ、しっかりした帰依を培うべきであると。第二番目の実践は何かというと、真理に対して、つまり、わたしの教え、あるいは過去のいにしえの聖者方の教えに対してしっかりした帰依を表わすべきである。あるいは第三番目は真理を実践し、そして愛著を捨て、出家したわたしたちの弟子に対して、尊敬の念を持つべきである。
 まずこの原則の後、四つの預流支を確定するとするならば、君たちの輪廻が悪くなることはあり得ない。悪くなることはあり得ないとは何かというと、例えばあなた方がこの街を歩くとき、いったい目には何が入ってくるのかと。耳からはどういう音が入ってくるのかというと、それは性欲の刺激であったり、あるいは食欲を増大するものであったりすると。あるいはエネルギーそのものがあなた方のアパーナ気を強める働きがあると。
 したがって、あなた方がそういうカーリー・ユガの悪条件で生きているんだということを認識し、その認識した上においてしっかりとそれを上昇させる、あるいは止めてしまう心の働きをもって、立ち向かうとするならば、あなた方は必ずや、最終的にはあなた方が望む天の世界で享楽を味わうことができるはずである。
 わたしは絶えず自問自答している。それは天へ帰ろうか、それとももう少しこの人間世界へ残ろうかと。例えば、この右手の、見えるかな、右手のここにあるできもの、これはイペリットガスによるできものである。例えばここにある水疱、これも同じようにイペリットガスによる水疱である。これらの水疱やできものができているということは、すでに肺はかなり冒されていると見た方がよろしい。したがって、体力等の消耗がなされた後は、気管支喘息あるいは気管支炎のような症状が出ると。これはわたしだけではなく、例えば何度も話したことがあるが、血を吐いた弟子たちがたくさんいると。
 このような話をすると、あなた方はこう考えるかもしれない。いや、これは非常に怖いなと。しかしだ。わたしは、これはあなた方信徒に対するシヴァ大神の、そしてすべての真理勝者方の祝福ではないかとも考えている。それはなぜかというと、あなた方はふだん、死というもの、つまり輪廻における死というものを身近に感じたことがあるだろうか。あるいはあなた方はふだん、死というものを意識し続けたことがあるだろうか。もともと無明の背景にあるもの、つまり非神秘力の背景にあるものは何かというと、現実と呼ばれる瞬間瞬間、刹那刹那に現われてくる情報であると。そしてあなた方はその情報によって、自分が本来この人間の姿というものは仮の姿である、ということを忘れさせられ続けていると。
 しかしこのような教団の目に見えない、しかし結果としてはっきりとわかっているような攻撃を受けることにより、あなた方のよく知っているマハー・ケイマ、例えばね、例えばまあ、ヤソーダラーにしろそうだし、まあ、例えばミラレパ、ヴァジラティッサ、ジーヴァカ等もそうだが、それぞれが血を吐き、あるいは出血すると。こういう話を聞くと、ああ、人間というものは病むものであると。やはり、毒ガスの働きというものは聖者の身体を痛めるんだと。しかし、まあ彼らは修行しているから、即回復し、生命に異常を来すことは今のところはないと。しかし、死というものは目の前にあるんだ。ということについては記憶修習できるはずである。
 これは言い方を変えれば、この話をわたしがあなた方にすることにより、あなた方は次のことに集中するきっかけを得ることができると。それは死、そしてその死に対してわたしたちは絶えず準備をする必要があると。そしてこの現世の見える支配、見えない支配、例えば見える支配とは、あなた方に対して、会社にしろそうだし、あるいは政治機構にしろそうだし、いろんな意味において、あなた方を見える支配において縛っている。見えない支配とは例えば先程述べた、アメリカ政府をはじめとする、あなた方の血、汗で積み上げたものを搾取する魂たちのことだね。これらの支配下に入るのではなく、自分自身はしっかりと聖者の流れに入り、そして聖者に帰依し、そして生き方を確定する必要があるんだと、それはこの在家で生きようが、あるいは出家しようがその必要があると。
 というのは、人間は死ぬものであると。例えば修行しても死ぬんだと、修行しなくても死ぬんだと。修行して死ぬ場合と修行しなくて死ぬ場合の違いは何かというと、その苦しみというものが、例えば生きているときの苦しみというものが、修行しない人よりも何分の一、あるいは何十分の一と非常に少ないと。あるいは、死後、その生で経験した例えばヴィジョン、あるいはサマディ等で経験した世界には少なくとも行くことができると。こういうメリットがあると。修行しなかった場合、現世的な享楽というものを一時的に強く味わうことができるが、しかし死んだらそれで終わりであると。そしてそれだけではなく、この現世における感覚の苦しみ、イメージの苦しみ等も大きいということになると。そしてこれは最低限のヒナヤーナの原則であると。つまり、自分自身を高い世界へ最低、押し上げるための原則なんだということを認識する必要がある。
 では、それよりも前生から修行を積み上げ、高い魂はどうしたらいいんだという問題があると。これは逆手に取る法というものが存在すると。「逆手に取る」とは何かというと、環境の苦しみその他を逆手に取って、そしてそれをエネルギーに変え、昇華する道である。例えば今回この教団の弾圧に対して、目に見えない弾圧に対して、よし、わたしは自分自身が生命を懸けられるかどうかのいよいよ修行に入ろうと。つまり、自分自身が聖に対して命を懸けることができるならば、わたしは少なくとも、第二天界、三十三天には行けるはずだと。なぜならばそれは経典が証明していると。そして、絶えず、三宝に帰依するための帰依マントラを唱え、そして自分自身の心を確定させようと。さあ、逆手に取るぞと。これを逆手に取ってエネルギーに変えるぞ、という道を歩くと。これは何かというと、まさにボーディサットヴァの生き方であると。
 では、もう一つ。いや、これは最高だと。相手が大きな悪業を積んでくれていると。よってこの悪業を一気に返してやると。わたしはそのための生き方をしよう。そしてそれによって自分自身は、それらのけがれた魂を未来において救済するための強い縁を作るぞと。もし、こう考えることができるならば、これはヴァジラヤーナの修行者ということになると。
 つまり、ここに三段階の修行者の形があると。少なくとも俗に帰依せず、聖に帰依し、そして自分の修行をこつこつ固めていくヒナヤーナの修行と。これはいいきっかけであると。これは忍辱の修行としても最高であると。あるいは自分自身がどこで命を捨てるか。例えばこれは仏典にもあるよね、たくさん。虎の前に自分自身の身体を投げ出し、虎が前生のサキャ神賢の身体のプラーナがあまりにも強いので食べなかったから、わざわざ飛び降り、そして自分自身の身体を殺して、虎の餌食になった話とか。これらはすべて、どこで自分の身体を捨てるのか、つまりどこで自分の聖に対して自分自身を捨てるのかというボーディサットヴァの生き方の表われであると。したがってそれを行なうぞと考える。もう一つは先程言ったヴァジラヤーナの考え方である。さあ、悪業を積んでいると。この悪業を積んでいる魂に対してしっかりとそのカルマを解放してあげ、それにより強い縁を結び、来世はそれらのグルとして君臨し、そしてそれらを導くぞという考え方である。
 ごのヒナヤーナの修行者の考え方、あるいはマハーヤーナの修行者の考え方、あるいはヴァジラヤーナの修行者の考え方、この一、二、三のどの道を歩くにしろ、もちろん至る世界は下から順に高くなるわけだが、どの世界を歩くにしろ、あなた方が真理を歩くことは、それはグルの喜びであり、シヴァ大神、すべての真理勝者方の喜びである。
 実はわたしは、九二年の仏跡巡りのとき、これは君たちに話したかどうかはわからないが、パーラナシーのイシパタナミガダーヤにおいて、つまり初転法輪をなさった地において、天空から、「戦う時が来たぞ」という、何度も何度も立位礼拝の最中に神々の声を聞いた。そしてもう一つ、プッダガヤのマハー・ボーディ・トゥリーつまり菩提樹のもとで瞑想をしている時も、同じように声を聞いた。これは何を意味しているのかというと、それまで仏跡巡りをするなというサインだとわたしは考えた。したがって九三年、インドツアーは中止されたわけである。それはわたしの偉大なるグルであるシヴァ大神、そしてすべての真理勝者方が今、この世の中のけがれを正す役割は麻原にしかないと考えているからではないかと自負している。まあ、それはいい。
 したがって、今日のこのわたしの講話は先程述べた三つの生き方の心の弱い順番に、ヒナヤーナ、ボーディサットヴァ、ヴァジラヤーナの弟子としてのね、実践をしなさいと。いいね。  人間は必ず死ぬものであると。そして人間が死ぬときにどの世界へ至るかというと、バルドにおいて多くの光が射してくるわけだが、その光のどの光を選択するかということと同じである。その光のどの光を選択するかということは、いろいろ現われる思考パターンの中のどの思考パターンを選択するかということと同義であると考えるべきである。つまり、同義であるとは何かというと、「おれはとにかく欲望のためにどうでもいい生き方をするんだ」と考えるのか、あるいは「おれは聖の生き方をするんだ」と考えるのか。これは例えば二つの思考パターンのうちのどの道を選ぶかだよ。
 わたしが君たちの布施を受けるとき、君たちに信徒番号と名前を言わせる理由は何かというと、それはわたしの心に君たちの名前を刻もうとしているからである。では、なぜ名前を刻む必要があるのか。それは君たちが死んだらよくわかるよ。しっかり帰依し、修行した者は必ずあなた方が死んだ後、あなた方が裁きを受けるとき、わたしは必ず横に立ち、あなた方を救済することになるだろう。
 わたしの講話の内容は少し論理的な思考から離れているかもしれない。しかしそれは、わたしの生命が今の状況ではいつ途絶えるかわからないから、君たちに真の今の世の中の状態、そしてあなた方がどういう状況であろうとも、これを実践すれば救われるんだよという話をしておきたかったからだ。いいね。しっかり修行してほしい。



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