支倉常長の墓の謎

 支倉常長は,フィリピンを経て,1620年9月初旬,長崎に到着する。しかし,残酷なことに伊達政宗は,1620年9月4日という常長が7年の歳月を経て日本の地を踏んだ時とほぼ同じ頃,キリシタン禁令の布告を発令しているのである。
常長は,1620年9月22日に,彼の故郷である仙台に帰っている。常長は,正宗に帰朝の報告をしたが,「南蛮国ノ事物,六右衛門物語の趣,奇怪最多シ」(貞山公治家記録)と記録されているように,常長がいくら説明をしてもうまく伝わらなかったことが想像される。無理もないとは思うが,,,。
さらに,1620年11月6日に信徒を処刑するなど,正宗のキリシタンへの仕置き(1623カルバリヨ神父らが大晦日,水牢で殉教,殉教の碑冬の広瀬川と大橋)は,徐々に厳しくなってきている。
そのようなこともあり,洗礼を受け帰国した常長の終焉は,謎に覆われている。彼の墓だとされるものも,仙台市北山の光明寺(ここには,常長に同行したソテロの顕彰碑がある。),黒川郡大郷町東成田,柴田郡川崎町支倉の三カ所に確認されている。また,亡くなった日についても,川崎町の墓の解説では,元和8年7月1日(1622年8月7日),五十二歳とし,大郷町の解説では,帰国後三十年の二月(1650),八十四歳としている。