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北朝対南朝その6

南北朝の合一

義満の時代以前から北朝と南朝の和睦交渉はありましたが、結局交渉はまとまらずに決裂という事の繰り返しでした。

しかし幕府の力は次第に安定し始めて、南朝の勢力が強かった九州も今川了俊の活躍で幕府の力が強くなっていきました。 さらに有力守護大名の土岐氏の後継者争いへの関与や、明徳の乱で山名氏の勢力を弱めたりと守護大名への対策も成功していきました。

南朝もその間、強硬派の長慶天皇から和睦派の後亀山天皇と譲位などの動きがありました。

そうしてついに北朝:明徳3年・南朝:元中9年(1392年)に南北朝和睦しました。 その条件は下記の通りです。

  1. 南朝の後亀山天皇は譲国の儀を持って北朝の後小松天皇に神器を渡す
  2. 今後は持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)が交互に皇位に就く
  3. 国衙領は南朝、長講堂領は北朝のものとする

もし、しっかりとこの条約が守られていれば、勢力的に圧倒的に不利だった南朝には願ってもない条件だと思います。 しかし結果的にこの条約は守られませんでしたし、当初から幕府や北朝は状況から見て和睦の条件を守るつもりは毛頭なかったと思います。 つまり神器を巻き上げるための「ペテン」にかけたわけです。

せいぜい後亀山が太上天皇と認めたぐらいしか約束は守られなかませんでした。 それだって北朝側の公家は反対で義満が強引に認めさせたのです。(北朝の公家にはよほど面白くないらしく日記などに愚痴っています) 3種の神器器も譲国の儀などではなく、賊が神器を勝手に持っていたという処理だったのです。(源平時の後鳥羽の処理と同様です)

つまり後亀山は太上天皇には特別にしてやるが「天皇」だったことは認めないとされたのです。 (江戸時代になると南朝正統論が出始めて、さらにそれが影響力を持ってくるのは後期のことになります。 でもそれ以前は北朝が正統とされていました)

こうして南北朝時代は終わりを告げました。 この後も南朝を指示するグループが反乱を起こしますが(後南朝)全国的な規模に拡大することはありませんでした。

北朝対南朝 完

あとがき

南朝との約束を守らなかった義満をペテン師と批判する人もいると思うし、それはその通りだと思います。

でも幕府からすれば守護大名は何かあればすぐ南朝を担ぐし、「3種の神器はこちらにあるからこちらが本物」という理論は聞こえはいいので、 今は勢力は弱くても何かあれば南朝が大化けする可能性は非常に高いです。 なんとかして神器を奪ってこの状態を終わりにしたいと思うのは当たり前だと思います。

ただ約束が守られていたらどうなったでしょうか?おそらく最初は平和でも再び北朝と南朝の争いが起こるでしょう。 (約束が守られていれば、ほとんど鎌倉後期の天皇家の状態に戻るのとほとんど変わりません) 再び争いが起きれば北朝・南朝、幕府・関東公方、守護大名を巻き込み、後の応仁の乱以上の混乱が起きたかもしれません。

またこの時代は足利義満と北朝で様々な駆け引きがありました。 決して北朝は足利幕府のいいなりだったわけではありませんし、こういう駆け引きを行ない天皇家の最大の危機を乗り越えた北朝を 「ただの傀儡」と非難するのは(そういう一面もありますが)変だと思います。 (義満は天皇家の権限を奪おうと様々な事をやりました) 義満と天皇家の関係というのは非常に日本史を語る上で重要だと思いますし、研究されるべき問題です。 そのためにも戦後の現在、歴代北朝天皇を「偽者」として軽く扱うことには反対です。せめて両朝併記となることを心から望みます。

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・更新日:2011/03/24・ページ製作者:トータス砲