●明治10年前後に尋常小学校に通った米山由太の月次試験成績票(席順記)
 写真は、二段目右端の「授業料領収書」を除き、明治10年前後の席順記で、記載内容から、上段左端から下段右端の順に古いものと思われる。学制直後の小学校は、6〜9歳の「下等」と、10〜13歳の「上等」の2段階に分かれており、就業年限で自動的に学年が上がるのではなく、まず第8級に入学して半年間の学習を行い、進級試験に合格すれば第7級に進むというものであった。
 その進級を判定する試験は、各級の終了時(すなわち半年毎)に行われる「定期試験(中試験)」であったが、その間、毎月の月末には「月次試験(小試験)」が行われ、その成績によって席順が決められた。
 写真上段左端には、「下等七級/六月三十日改/第三番」とあって、米山由太が学年3位の成績ということが分かり、一見すると、成績優秀と早合点しかねないが、上段右端を見ると、「下等第六級/第七名内、第五番」とあり、同学年の児童はわずかに7名、その5番目であるから、決して優秀とはいえないことが分かる。
 下段中央の3枚は、「上等」だが、ここまで進級する児童はさらに少なかったと思われるため、二番、四番が優秀な成績とは考えられない。上等小学校への進級年次は不明だが、いずれにしても、明治初期の混沌とした教育制度下の資料として興味深い。
 なお、朱印には「第四中学区第十九番小学第二分校」とあり、上段右端には「東谷校」と小学校名を明記する(この小学校については詳しく調べていないので、お分かりの方にはご教示願いたい)。

■明治10年の小学校の状況は次の通り。
  ・学校数    2万5459校
  ・教員数    5万9825人 (1校あたり、2.35人)
  ・児童数  216万2962人 (1校あたり、84.96人)
  ・就学率   男子 56.0%、 女子 22.5%、 平均 39.9%
 上記の小学校数は現在の小学校数(約2万6000校)とほとんど変わらないものであり、明治5年の学制以後に驚くべきはやさで、小学校が設立されたことを示すが、その反面で、1校平均の教師は2〜3人、児童は80人たらずで、寺子屋時代と大差なかった。施設としては不十分ながら学校の数からはめざましい普及を遂げたものの、就学率は極めて低く、特に、女子は著しく低かった(男子就学率が50%を超えたのは、明治8年だったが、女子のそれは明治30年で、男子に遅れること実に22年後のこと)。また、就学率は性差だけではなく、地域差も大きく、明治8年当時の全国トップが大阪府の67.1%に対して、最下位が青森県の22.6%と、約3倍の格差があったのである。