江戸後期(文政年間以降)に刊行された『農人往来』(写真下)に挟まっていたもの(写真は全体の三分の一程度)。本往来には別掲の往来物購入控え(覚え)も挟まっている。日付と差出人名が無いため、艶書を書き写した雛形のようにも思えるが、所持者が男性であることからすれば、実際に女性からの恋文である可能性も否定できない。手紙文自体に差出人名が記載されていなくても、この手紙の上包みに、例えば「よねより」のように差出人名が書かれていたかもしれないからである。本往来の使用者が実際にもらった恋文を大切に往来物の袋綴じの中にしまっておき、時々開いて心をときめかせていたものと考えておきたい。

[全文]
 いまだ御文とは御なれなれしくぞんじ候得ども、あまりとや御なつかしさの折から、硯にむかひ筆にとはせてしめしまいらせ候。
 扨とや、御まへ様の御すがた御見請申候より、何事も身にそはで、昼は俤(おもかげ)、よるは夢、枕の下はなみだ川、おもへばおもへばやるせなく、猶もおもひのます鏡、ねてもさめても忘れやらずこがれくらし、いかなる御ゑんにや、おまへ様の御事を一しほ(一入)おもひまいらせ候。
 いまは恋しさ身に染て、ただうかうかと日をくらし、夏の虫にはあらね共、わが心から身をこがし、あまの小舟かしらねども、うきつしづみつもの思ひ、ちからなくなくする墨に、硯の海はあさしとも、君におもひは深かれど、たよわき筆の命ぞや、さきのみじかくなる程に、おもひ乱れて、文のかきよふさへもまだしらず、心におもふ通りをその侭に、認(したため)て候得ば、不束なる筆のはこび御笑わせの程も恥しくぞんじ候得共、恋に上下のなきものとおぼしめし、情はよしや薄しとも、御返事ひとへにひとへにねがひ上まいらせ候。
 おまへ様には、御文のよふ御ひらかせはあるまじなれど、もしも御手にふれ玉はゝ、あわれとおもひ給りて、いろよき御返事下さらば、守袋のたのしみといたし度、神かけ念じ上まいらせ候。おしき筆とめ、まづはあらあらめで度かしく


■原寸 縦164mm×横780mm