研究歴・拙著・拙稿へもどる
「江戸期おんな考」8号所収論文

居初津奈の女用文章


*実際の論文には多くルビが付されているなど小異があります。また、「 」書き以外の引用文(改行字下げ部分)は前後一行を空けて、引用箇所を紫色で表現しています。
*なお、JIS外字が原則として再現されていない点にもご注意下さい(やや繁雑ですが再現可能です。この点に関しては個別にお問い合わせ下さい)。

 代表的な女性往来物作家としてまず思い浮かぶのは、居初津奈と長谷川妙躰であろう。
 妙躰は、従来の正統的女筆の信奉者には受容されないような、独特な散らし書きで一書流をなした女流書家である。いわば江戸中期の女筆ブームを巻き起こした張本人であって、板行された手本の数は約二〇点と他の女流書家の追随を許さなかった(この辺の事情については『江戸期おんな考』第七号所収の拙稿「近世刊行の女筆手本について」をご参照頂ければ幸いである)。
 一方、居初津奈といえば、近世中期以降に多くの板種を生んだ『女実語教・女童子教』の作者として有名だが、そのほかにもいくつかの往来物を手掛けており、特に『女書翰初学抄』は後世の女用文章に多大な影響を及ぼした点、また津奈の事跡を知る唯一の記述を載せている点で極めて重要である。
 今回はそんな居初津奈の女用文章を中心に紹介し、近世における女性の手紙の作法、いわゆる女性書札礼(女文の形式や用語に関する規定)の内容と変遷について少しばかり述べてみたい。

○津奈の作品と事跡
 さて、居初津奈にはどのような作品があるのであろうか。以前、私は『江戸時代女性文庫』第六〇巻「女初学文章・女書翰初学抄」の解題で次の八点を紹介した。
  (1)貞享五年(一六八八)三月刊『女百人一首』二巻 京都・万屋庄兵衛ほか刊
  (2)元禄二年(一六八九)以前刊『女文章鑑』二巻 *現存せず。
  (3)元禄三年(一六九〇)一月刊『女書翰初学抄』三巻 京都・小佐治半右衛門板 *改題本に元文三年(一七三八)三月刊『女文林宝袋』一巻あり。
  (4)元禄七年(一六九四)三月刊『女教訓文章』二巻 京都・文台屋治郎兵衛板
  (5)元禄八年(一六九五)三月刊『女実語教・女童子教』二巻 京都・文台屋治郎兵衛板 *京都・銭屋庄兵衛後印本あり。
  (6)延享四年(一七四七)一一月刊『女文章都織』一巻 大阪・安井弥兵衛板 *元禄年間作
  (7)宝暦五年(一七五五)一月刊『女通用文袋』一巻 京都・銭屋庄兵衛板 *現存せず。『明和九年書籍目録』『江戸出版書目』による。『女文林宝袋』の改題本か。
  (8)明和九年(一七七二)以前刊『女要今川教訓鑑』二巻 *現存せず。『明和九年書籍目録』による。
 以上のうち(2)、(7)、(8)の三点は解題執筆時点で原本が確認できなかったものである。
 ちなみに『国書総目録』著者別索引には「居初」あるいは「居初つな(津奈)」の著作として(3)の改題本『女文林宝袋』と(4)、(8)のほかに、筑波大本『伊勢物語女日用文章』を載せるが、筑波大本は旧蔵者・乙竹岩造による仮題で、(6)の『女文章都織』が原題である。また、『古典籍総合目録』著者別索引には「居初都音」の著作として(3)だけを載せる。それにしても、『国書』『古典籍』ともに『女実語教・女童子教』を津奈の作品としていないのは不可解である。
 いずれにしても、両目録の著者別索引では上記八点の半分しか津奈の作品をあげていない。後述するように、その後の調査で(2)が新たに確認されたため、未発見は(7)と(8)の二点になった。また、現存する(1)〜(6)のうち(3)〜(6)は影印で出版されている((3)が『江戸時代女性文庫』、(4)と(5)が『往来物大系』、(6)が『稀覯往来物集成』。いずれも筆者編集)。
 これら津奈の作品はいずれも女子用往来に分類されるものであるが、女流往来物作家の中では群を抜く作品数である。そしてそれ以上に重要なのは、それぞれの作品が独創的かつ個性的であることと、そのほとんどが自筆・自画であること、つまり本文を著したうえに版下の清書から挿絵までも一人でこなすという、彼女の多才さである。
 このように当時稀にみる女性であったにもかかわらず、彼女を紹介したものは皆無に等しい。『国書人名辞典』を始めとする人名辞典にも、津奈の事跡に関する記事は一つも見出すことができない。
 それでは、上記作品中に手掛かりはないのか。
 実は冒頭で触れたように、津奈が自らについて述べたわずかな記述が『女書翰初学抄』序文中に見える。

天降る日那に生なる葛の葉のうらむる事は宿世のえにしぞかし。其道々のことわざを露しらまほしきには、且恋しきは都なめり。僕壮年の比、隙ある身となれり。よりて、日比の本意こゝなりと八重の汐路をしのぎて、今、此九重にいたりぬ。住事二十とせに及べり。つゐに思ふ道々をたどりて、其かたはしをうかゞひ、我身には足れりと是をたのしみ、隙行駒のあしなみを草のとざしにかぞへ、和国の風雅を味ふならし。
爰にしれる人、一人の女子をもてり。是がために女文章のしるべならん事を書てよと望める事数多度なり。辞するに詞なくて、終に二札の文を書てあたへぬ。彼人よろこびて『女文章鑑』と名付り。それもいつしか書林の手に渡りて梓に彫て世に行へり。今一人の女子ありて、又此書を望めり。よつて、つたなき詞を綴て『女書翰初学抄』と名付。これ偏に初心のためなりといふ事しかり。

居初氏女都音書之  

 この断片的な記事から大雑把であるが、居初津奈の動向について次のような推理が可能であろう。
 「諸道を学ぶなら京都へ昇るのが一番であるという信念を持ちつつも、この私が田舎に生まれたのは前世からの因縁であろう」──そんな津奈の願望がかなったのは「壮年」の頃であった。そして本書を著した元禄三年(一六九〇)まで約二〇年間この京に住み続けたという。仮に「壮年」を文字通り三〇歳頃とすれば、元禄三年で約五〇歳、逆算して、寛永一七年(一六四〇)頃の生まれとなる。これが正しければ、津奈の最初の著作『女百人一首』が出された貞享五年(一六八八)で四八歳位、生前最後の出版物と思われる『女実語教・女童子教』の刊行が元禄八年(一六九五)で五五歳位となる。三〇歳頃京都へ移住した津奈は「隙ある身」として諸芸を学んだ。ことさら書筆・絵画には打ち込んだのであろう。四〇代後半までには書家としての名声を博しており、画家としても刊本の挿絵を描くほどの域に達していた。また、知人の童女数人に手習い指南をしていた様子も窺われるから、手本の執筆を求められることも多かったはずである。
 このような京都での晩年生活、すなわち、貞享〜元禄期に彼女の著作が集中的に出版されたのである。万治年間に窪田やす筆の手本(『女庭訓』『女初学文章』)が刊行されて以来、京都では女筆手本が続々刊行された。源女筆の天和二年刊『当流 女用文章』、窪田つな(やすの娘)筆の貞享四年刊『女今川』、長谷川貞(妙躰と同一人か)筆の元禄七年刊『しのすゝき』、沢田吉筆の元禄四年刊『女筆手本』などに加えて、前時代の書家である小野通の筆跡も元禄四年に『四季 女文章』の書名で上梓されている。『女庭訓』跋文の「都にはよろしき女筆あまたおはしますへけれは」(貞享四年『女今川』にも同じ跋文を付す)や、『当流 女用文章』跋文の「世上女筆殊更多」といった表現は全く誇張ではなかった。都では女流書家の活躍がめざましく、上京して自らの才能を磨きたいと願った女性は一人津奈ばかりではなかったであろう。
 晴れて京都にやってきた二〇年前を、感慨深く回想しながら綴る津奈のこの序文には、書画を始めとする諸道への止むことのない探求心と、その一方で「隙行駒のあしなみ」、すなわち飛ぶように過ぎた月日を驚き悔やむ気持ちが溢れ出ているように思う。いずれにしても、津奈の個性的な往来物は、一つには京都における女筆の盛行という土壌の上に生まれたものであった。
 ところでその序文中で気になるのは、ある知人の熱心な依頼により津奈が女子学習用に書き与えたという「二札の文」である。それは知人により『女文章鑑』と名付けられ、やがて出版されることになった。ちなみに『元禄五年書籍目録』「往来手本類」末尾の「女手本」項に「女書翰初学抄」と並んで二冊本の「女文章かゝみ」が見えるが、これを指すのであろう。従って、津奈は『女書翰初学抄』以前、すなわち元禄二年以前に別の女用文章を書いていた。その出版は、序文の通り彼女の予期しないものだったと見えるが、その板元は当然ながら京都書肆であったであろう。
 確かに『女文章鑑』は存在した。それは紛れもない事実としても、『国書総目録』『古典籍総合目録』や各機関の蔵書目録を丹念に調べても原物を発見できず、私自身、最近まで『女文章鑑』を幻の書と考えていた。単純に書名だけで考えれば、享保五年(一七二〇)に京都書肆・中村孫三良によって板行された『女中文章鑑』(謙堂文庫蔵)が最も近いが、それには筆者の署名はなく、また刊記の年代のズレからよもや該当書とは思わず、従って精査することもなかったわけである。

女文章鑑・冒頭女文章鑑・刊記 ところが最近、母利司朗氏架蔵本中に貞享五年(一六八八)三月刊の『女文章鑑』二冊本があることを知った。氏のご好意によりコピーを頂き早速調べてみたところ、実は『女中文章鑑』は『女文章鑑』の改題本に過ぎないことが判明した。他に全く所蔵のない稀覯書であるうえに、母利氏蔵本は原装、原題簽付きで極めて状態が良い。上巻に「女文章鑑」、下巻に「女文章かゝ見」の題簽を付し、下巻末に

貞享五戊辰年三月吉日
        高辻通雁金町
            中村孫兵衛梓

の刊記を有する。ちなみに享保五年板『女中文章鑑』の刊記は、

享保五庚子年三月吉日
        高辻通雁金町
            中村孫三良梓

となっており、年号・板元名の一部を改刻したものである。また、序題・尾題も「女文章鑑」から「女中文章鑑」と改刻された点を除けば両者は同一である(ただし『女中文章鑑』の外題は不明)。
 だが貞享板にも居初津奈の署名は見あたらない。しかし、あらためて検討してみると、この貞享板が居初津奈の著作であることはほぼ間違いないように思われる。
 まず、書名・冊数・刊行年代・刊行地域の点で全く矛盾がないこと。さらに『女文章鑑』には『女書翰初学抄』と同様の記述が少なくなく、内容面で一層の共通性を見出し得ることである。
 例えば、『女文章鑑』下巻末(三九丁オ)の書札礼には次のような記事が見える。

女書翰初学抄女文章都織
■「女書翰初学抄」(左)と「女文章都織」(右)


一、あらたまの春のめてたさ。あらたまとは「新玉」とかく也。あたらしき玉といふ心也。玉とは物をほめて付たる詞也。縦ば「玉のすだれ」「玉の鈿」「玉手箱」などゝいふもほめたる詞也。「玉のおのこ御子」と『源氏』にもかけり。あらたまのはるは、めでたきとしの始也とほめたる詞也。歌「あら玉の年たちかへるあしたより またるゝ物は鶯のこゑ」…

 これに対し『女書翰初学抄』上巻冒頭の頭書注には、

あらたまの春、「新玉」と書也。玉は万にほめてつける詞也。たとへば「玉すだれ」共、「玉のうてな」共いふがごとし。是をかへてかく時は、「あらたまりぬる春」とも。是、あたらしくとしのあらたまりたる心也。又は「立かへる春のめでたさ」共。是は去年の春のことしに立かへりたるやうに思ふ心也。歌に「あら玉の年立かへる朝より」ともよめり。又は「つきやらぬ春」とも、又「初春」共。

とあり、両書が同一人作であることを物語る。
 また、『女書翰初学抄』下巻末の「文かきやうの指南」第一条に

一、女文はいかにもやさしくあるべし。我先の書にいひたるごとく、女性の文は詞をこゑにつかはず、読にてつかひ給ふべし。…

とあるが、『女文章鑑』下巻末(三七丁ウ)にも

一、女文章は、とかく音にてよむやうにはずいぶんかゝぬがよし。…

という記載があり、よく符合する。つまり、『女書翰初学抄』に言う「先の書」とは『女文章鑑』にほかならないのである。
 これらの事実から母利氏蔵本の貞享五年板『女文章鑑』が居初津奈の著作であることはほとんど疑う余地がないであろう。従って、冒頭で示した作品一覧(2)の「元禄二年以前刊」は「貞享五年三月刊」と書き替えねばならず、この『女文章鑑』は『女百人一首』と並んで津奈の最初の著作であることを確認し得たのである。

○三種の女用文章
 次に、現存する津奈の女用文章三種(先の(2)、(3)、(6)。なお(4)『女教訓文章』は『鑑草』の主旨を綴った手本であり女用文章ではない)をあげながら、その概要・特色などを見て行こう。
【女文章鑑】
 書誌については既に簡単に紹介した。本書は影印・翻刻のいずれもなされていないが、その改題本である『女中文章鑑』が『往来物大系』に影印収録されているので、その内容を知ることができる。ただ『女中文章鑑』は上下巻を合冊するが、『女文章鑑』は二巻二冊である。上巻二一丁には序文及び消息例文二〇種、下巻二三丁には消息例文一二種と女性書札礼という構成になっている。
 本書は『女書翰初学抄』序文で明らかなように、女性の手紙の基本例文・基本作法を主とした初心者向けの女用文章である。津奈が初心者に最も強調したかったことはいかなる点であったか。その答えを本書序文に読みとることができる。

  女文章鑑序
詞にあやまりと俗語とあり。あやまりはかたこと、俗語は下輩のいひふらすことなり。つねにかやうのさかひをわきまへたゞすへし。分て女性のことば・文章なとは、たとひ正言 にても男のことばと、おんなのことばとのかはりあれは、おとこことばをふみにはかくへからず。今此文章は、おもてにさまのあやまり文章をかき、かたはらに注をくはへ、うらに正風躰をかきぬ。すゑの巻には女こと葉の消息にもちゆる事、ならびに四季の詞を考しるし侍りぬ。心をつけてまねひ給はゝ、是、女の童の文章に心ざしあらん、あさきよりふかきに至り給ふたよりともならんかし。

 手紙は、誤った言葉や俗語、男言葉を使わずに、四季にふさわしい言葉で書くべきであると言う。要するに、正しく女性らしい言葉遣いということに尽きるのである。そして、それを具体的に示すために彼女が採った方法は、各丁の表に誤りの例文を掲げて不適当な箇所を細字の注で指摘し、さらに同内容の正しい文章(津奈は「正風躰」と呼ぶ)をその裏に掲げるというものであった。例文は全部で三二種だが、それぞれについて正・誤の二通りを載せてある。例文の内容は相手の安否を問う手紙や訪問時の礼状、その他諸事についてで、主題が似通った例文も間々見受けられ、一般的な女用文章と比較すると『女文章鑑』は例文の豊富さが感じられない。ここでは、多様な文面の学習よりも、正しく女性らしい表現の習得こそが重視されているのである。
 上巻冒頭の例文を見てみよう。内容は知人の昨日の訪問に十分なおもてなしができなかったことを詫びつつ、またお越し下さいとの手紙である。まず不適切な文面として次の文章を載せる。

先度は御こしの所にふたと御帰候て、なに事も申さす、さて御残多存まいらせ候。近きうちにかならす御出まちまいらせ候。かしく

 原本でもわずか五行の短文である(他の例文も同様)。この例文のうち、特に津奈が指摘する問題点は「先度」「ふた」「近きうち」の三カ所で、それぞれ次のような注書きを施す。
○「先度」、女性の文躰にかたし。「ひとひ」「いつそや」「せんもし」と書へし。
○「ふた」、あはたゝしき心也。これも「あからさまにて御帰」とかき侍らはやさしき也。
○「近きうち」、「とをからぬ比」又は「近き程に」なとかけは、やさしく聞ゆる也。
 そして、次頁には適切な文章として、

日とひは、まれの御出に御さ候に、あからさまにて御帰、なにの風情も御座なく、いかばかり御のもしに思ひまいらせ候。遠からぬ比、のとやかに御あそひなされ候やうに御出待まいらせ候。かしく

 手直しされた後者の文章は、文字詞も使われ、より女性らしい婉曲的な文面になっている。
 もう一例紹介しておく。上巻第三通目で、昨日客として招かれた客からの礼状である。まず悪い例である。

昨日はめしよせられ、いろ御馳走、ことに一日あそひ候て御嬉しくそんしまいらせ候。まつ御礼のため、一筆申まいらせ候。かしく

 ここの注記で、「一日」は「終日」でもよいと説明する。これは単に「替え言葉」を例示したまでのことである。しかしその後の「まつ御礼のため」は全くの男文章であり、女文章では「まつ御礼として一ふてとりむかひ」のようにすべきであると注意している。これを正した模範文は次のようなものである。

昨日はまいり、さま御馳走なされ候。そのうへ、ひめもす遊ひ候て、心をのはしまいらせ候。かす御うれしく存まいらせ候。先御礼に一筆とりむかひまいらせ候。かしく

 他の例文も言葉遣いに関する種々の注記を伴っている。例文には見出し語がなく、また目次も用意されていないことからも、この『女文章鑑』は実用的な案文というよりも、初心者に女性らしい言葉遣いを習得させるためのテキストと言った方が的確である。
なお、下巻末尾一一丁は女性の書札礼や書簡用語に関する記事である。ここでも津奈は女性らしい言葉遣いについて繰り返し述べている。要旨を紹介しておく。
○女文章は「めづらしき字」を書いてはならない。仮名文字で書くのが優しくて良い。ただし仮名遣いにも作法があるのでそれを弁えておく必要がある。また、本来は誤りであるが女文に慣例となっている言葉遣いもある。例えば「いはひ(祝い)」は、「ゐはい(位牌)」と読み違えやすいので、わざと「いわゐ」と書くのは昔から御所方でも行われてきた慣習である。
○女文章にはとにかく字音を用いないようにする。「こんにち」「みやうにち」「せんどは」「せん月」「去年」「当年」「来春」「びんぎ(便宜=音信)」といった言葉は堅い表現で聞き難い。「けふ」「あす」「あさて」「きのふ」「いつそや」「さきのつき」「こぞ」「ことし」「くる春」「あけのはる」「たより」などは柔らかい表現で良い。
○女文に「夕」は悪くないが「よべ」とするとより優しい。「かはる御事なく」も良いが「たがふ事」の方が優しい。「御きあひあしきよし」よりも「御きそくつねならぬよし」「れいならぬ」「すくれず御はしまし候よし」などの方が優しい。逆に「けさ程」を「けさがた」としたり、「がてん」をつめて「がつてん」とするのは賤しい言葉遣いである。「御物遠」は使わず「御うとしく」「御とをしく」と書くのが良い。このほか総じて女文には「御」の字を付けると良い。

【女書翰初学抄】
 本書の執筆から出版までの経緯は既に紹介した通りで、知人から請われるままに著した初心者用の女用文章である。執筆動機や対象者も『女文章鑑』と同様と思われるが、次の点で異なる。
 (1)『女文章鑑』にくらべて『女書翰初学抄』は例文の多様性に配慮が見られ、各例文が目次によって一覧できるようになっている。また主題に合わせて散らし書き・並べ書き、また追伸文の有無などを適宜使い分けるなど、全体としてより実用的・実際的な書簡形式と内容を備えたものになった。
 (2)『女書翰初学抄』の語注は全て頭書に掲げられ、個々の例文に即して詳細に施されている。例文と注釈文の対応関係は丸付き数字で明快に示され、注釈内容も年中行事故実や書簡用語・作法、名所旧跡、異名、古典、風俗・習慣、仏教など多方面に及ぶ。特に出典を明記するなど考証的姿勢は他の女用文章にはあまり見られない際立った特徴である。
 (3)書簡用語や書簡作法についての記述が整理され、より見やすくなった。(1)や(2)とも関連するが、『女書翰初学抄』には編集上の注意がよく行き届いている。これは本書執筆時に出版の予定があったか、それを意図していたことを示唆するものである。なお津奈の作品には序文・跋文・刊記のいずれかに署名があるのが常だが、例外的に『女文章鑑』には署名がない。それはもともと出版を目的としたものでなかったためと考えられる。
 なお書名について言及すると、『女書翰初学抄』は言うまでもなく『書翰初学抄』に因んで津奈が付けたものであった。『書翰初学抄』は、漢文の消息文(尺牘)と和様の消息文の二種類の文章を並べながら編んだ独特の用文章で、寛文九年(一六六九)に京都・谷岡七左衛門によって上梓され、大野木市兵衛板、井筒屋伝兵衛板、敦賀屋九兵衛板などの後印本を含め寛文九年板だけでも四種以上あり、その後、延宝七年板・天和四年板・享保一五年板など数種の板種が生まれ、主に寛文〜享保頃に流布した往来物である。従って、津奈の時代には教養ある男性諸氏に広く好まれ、盛んに用いられた用文章の一つであった。
 津奈がこの『書翰初学抄』から『女書翰初学抄』の書名を付けた背景には、『書翰初学抄』の人気にあやかろうとする気持ちがあったかもしれない。あるいは、近世女筆手本の先駆の一人である窪田やす筆の『女初学文章』が『初学文章抄(初学文章並万躾方)』に因んだ書名であったことに倣ったものかもしれない。大津の窪田家は窪田宗保の娘・やすを筆頭に少なくとも二代、または三代にわたって女性の能書を出した家柄であり、京都周辺ではよく聞こえた名門であった。津奈は『女文章都織』の頭書で「女中の御所持本」として窪田やす筆の『女庭訓』を掲げるから、やすは津奈にとって目標とすべき先達であったであろう。
 確かにこのような推測も可能であるが、この書名はむしろ彼女の自信の現れではなかったか。『女書翰初学抄』は初心者向けを唱っているにも関わらず、その施注は同時代のあらゆる女子用往来に卓越しているばかりか、男子一般の往来物にも引けをとらないほど詳細なものであり、彼女にとっては自信作であったと思われる。その点に着目すれば、漢文体の文章を含むインテリ向けの『書翰初学抄』からあえて書名を採った点にこそ、彼女の個性や自己主張といったものが窺えるのではないか。
 さて、『女書翰初学抄』の例文は全て月次順に配列されており、上巻には一月から五月までの例文、すなわち「正月初て遣文之事」以下二一通を、中巻には五月から一〇月までの例文、すなわち「五月雨に遣文之事」以下二一通(第一六状「紅葉を送る文之事」の返状は頭書欄に掲載されているため、これを含めれば二二通)、下巻は一一月から一二月までの例文、すなわち「雪のふりたる時遣文之事」以下一五通と付録記事六項をそれぞれ収録する(合計五七通)。いずれも四季時候の手紙が中心で、用件を主とした例文や弔状なども数通含む。また、例文は上巻のほとんどが散らし書きなのに対して、中・下巻の大半は並べ書きである。
 具体的な例文を二通ばかり紹介しておこう。前者は上巻冒頭の「正月初て遣文之事」、後者は下巻末尾の「とふらひ文遣事」である。

あら玉の春のめでたさ何かたもおなじ御事にて、いはゐ入まいらせ候。猶ことしよりおぼしめすまゝの御事とたがいによろこびを申かはし候べく候。めてたくかしく *散らし書き

誰様御事、御煩、終にうるはしき御気色なふ御終のよし、兼てよりつねざまにはひきかえ、かろからぬ御事とは存候へ共、今更のやうに袖しほるばかりに候。分てかた様御事をしはかり、御いとおしく存候。去ながら、常なきは三界のならひ、逢別離苦のくるしみは火宅のおきてにて候まゝ、とかく御愁傷をとゞめられ、一蓮詫生の御追善こそ本意にておはしまし候。*並べ書き。書止の「かしく」はない。

 以上の例文のうち前者には、先述した「あらたまの春」の説明を始め、「何かたも」「いはゐ入」「よろこび」の言い替え表現、また「申かはし」の意義、さらに次のような「めでたくかしく」の由来などについて施注してある。

女文のおくに不吉ならぬ事はいつにてもかくのことし。昔は「あなかしこ」と書ける也。中比よりかやうに書事也。
昔恙と云虫、人をさしてなやます間、或人此虫を穴へをひ入、穴を閉ふさぎて殺ゆへに、虫たえてなくなりぬ。人みな悦、穴賢無レ恙なりぬと云心也。此故に文のをくに「あなかしこ」と書留ること也。又、何事もなき事を「つゝかなし」と云も此義也。『下学集』にみゆ。 

 『下学集』のような典拠の紹介は女子用往来では特異である。このほかの頭書も同様に考証的・学問的な施注内容である。
 以上のほか、例文・注記ともに特筆しなければならないのは、中巻第一状「五月雨に遣文之事」、第二状「同かへり事」の二通である。いずれも五月雨の季節の読書を主題とする例文で、文中に多くの女性教養書を掲げている。その往状は、

晴まなき五月雨にて御座候。此徒然いかゞ御わたり候哉。爰元の事御すもじ給り候べく候。さやうに御ざ候へは、申兼候得ども、『源氏ものがたり』『狭衣』『伊勢物語』『栄花ものかたり』『枕双紙』、このうちいづれにても御かしたのみ入まいらせ候。かしく

というもので、頭書には物語等の作者その他について注記する。その返状も同様で、『土佐日記』『無名抄』『撰集抄』『太子伝』『うつぼ物語』『竹取物語』『住吉物語』などを文中に列挙し、頭書でそれらの書について簡単に解説する。
 この例文で想起されるのが、古典の知識を満載した異色の女用文章『女文章都織』である。詳しくは後述するが、『女文章都織』は『女書翰初学抄』のこの二通の趣向を全編に拡張したものと考えられる。
 なお、『女書翰初学抄』が後世に与えた影響は重大で、この点でも女子用往来中随一の存在である。本文と付録記事の大半を丸写ししたものから、本文だけを模倣したものまでを含め次の四種の改題本がある。
 (1)元禄一一年(一六九八)刊『女用文章大成(女用文章綱目)』(大阪・柏原屋清右衛門板)*本文は下巻末の弔状の一通を削除したほかは『女書翰初学抄』に全く同じ。頭書と前付は全て改めるが、下巻末の記事は『女書翰初学抄』からの抄録。津奈の自序を省き、作者名を抹消した海賊版。
 (2)元禄一二年(一六九九)刊『当流女筆大全(増益女教文章)』(京都・和泉屋茂兵衛板。後印本に大阪・柏原屋清右衛門板あり)*本文は下巻末の弔状の一通を除く全例文を丸取りし、頭書を全て「女鏡秘伝書」に改めた改題本。下巻末の記事は『女書翰初学抄』からの抄録。津奈の自序を削除し、津奈原作を隠蔽した。
 (3)享保六年(一七二一)刊『女文庫高蒔絵』(大阪・柏原屋清右衛門板)*『当流女筆大全(増益女教文章)』の前付記事のみを差し替えた改題本。
 (4)元文三年(一七三八)刊『女文林宝袋』(京都・銭屋庄兵衛板)*『女書翰初学抄』の旧版下の一部を改刻して、付録記事を改めた改題本。津奈原作を記載する。頭書の一部を削除し、代わりに西川祐信の挿絵一五点をはめ込むとともに、各月冒頭の一二月異名の記事も全て割愛した。その結果、文字の配置のアンバランスな丁が生じたり、注釈の丸付き数字が飛んだりしている。さらに、例文中一通(もと下巻第一三状「いはた帯云々」の一状)が末尾へ移動したほか、下巻巻末記事の全てが削除された。
 このように、約半世紀に四本の改題本が登場した事実だけでも、『女書翰初学抄』の並々ならぬ影響が想像できよう。なお下巻末の女性書札礼も上記各本へほぼそのまま模倣されたが、その詳細は別項に譲る。

【女文章都織】
 本書は津奈の遺稿を出版したもので、延享四年(一七四七)一一月に大阪書肆・安井弥兵衛によって板行された。その刊記には

筆作  居初氏津奈
補綴  田中友水子
画工  寺井重信図

とある。本文に関する注記が頭書に盛り込まれているが、筆跡から本文と頭書は津奈の自筆で、前付記事が友水子および重信によるものである。刊行年代からいって津奈没後の出版であることは明らかだが、津奈の著作には付き物であった自署も見えず序文もないなど、生前中の出版物とは体裁が異なる。
 それでは撰作年代はというと、頭書中に『女今川』二冊本の表記があるので貞享四年以降であることは疑いないが、元禄一三年刊の『女今川』の異本(沢田吉作)については全く触れていないので、本書は元禄一二年以前の可能性も高い。また、『女書翰初学抄』序文から想像される津奈の著作の執筆順序や出版の経緯から、『女書翰初学抄』以後、すなわち元禄三年以後のものと考えたい。先述のように本書は、『女書翰初学抄』中の「五月雨」の例文の趣向を全編に拡張したものといえるからである。以上の推論から、『女文章都織』の撰作年代を元禄三〜一二年の一〇年間と仮定しておく。
 いずれにしろ、本書は消息文や頭書に古典の知識を数多く盛り込んだ異色の女用文章である。手紙の例文集というよりも、『伊勢』『源氏』『枕草子』『万葉集』『百人一首』などの古典の教科書と言った方が的確である。一例を掲げておく。第二状の新年状返状(七丁オ)である。

春のはじめのめてたさの品々、仰の通に申おさめまいらせ候。『伊勢物語』題号の事は、在中将の自作共、伊せへかりの使に行給し故なと、とり申候へ共、京極黄門のこゝろは伊勢と申女の筆作に定らるゝ由、聞馴まいらせ候。業平の御事をつゝみて、それとはなしに書たるよし、まことに優なる詞づかひ、今の世には類あらしと覚え候。殊に十三のとし、いとけなふしてと御座さふらへは、昔人と申なから、ためしまれなる御事共に候。猶、御けんにて。めてたくかしく

 このように比較的長文で、古典中心の文面である。その頭書には、『伊勢物語』の題号、作者考(諸説および略伝)、同物語中に登場する女性名や皇帝名など、関連記事を盛り沢山に収録してある。他の例文も全て古典の教養を主眼にしたもので、その概要は次のようなものである(なお、全二〇通のうち三通が並べ書き、残りは全て散らし書きである。また例文の見出しや目次はない)。
(一)女の持つべき本として『伊勢物語』を贈る新年状
(二)『伊勢物語』題号の由来を述べた新年状の礼状
(三)紫式部を偲ぶ石山詣の感想や『源氏物語』についての文
(四)参詣成就の祝儀とともに『源氏物語』執筆までの経緯を述べた文
(五)深まりゆく秋に『狭衣物語』を読んだ感想と、訪問を請う文
(六)昨晩の訪問の御礼と『枕草子』を紹介する文
(七)婚礼祝儀に『栄花物語』を贈る文
(八)婚礼祝儀のお礼とともに『栄花物語』の概要について述べた文
(九)和歌初学者へ『万葉集』の作者などについて述べた文
(一〇)その返状として『万葉集』の概要にふれた文
(一一)初めて会った人への挨拶とともに『百人一首』の作者について述べた文
(一二)その返事に『徒然草』について懇談したいと訪問を請う文
(一三)結納祝儀とともに婚礼道具の歌書・草子類吟味の依頼を承知する文(『古今集』や『大和物語』などの多くの書名を列記)
(一四)その返状で適切な選定を願うとの文
(一五)珍客の仲介に対する礼と『太平記』を紹介する文
(一六)その返事に『保元物語』『平治物語』について述べた文
(一七)日待ち(前夜から潔斎して寝ずに日の出を待って拝む行事で終夜酒宴を催す)の際の礼と『平家物語』について述べた文
(一八)その返事に訪問の礼とともに『源平盛衰記』を薦める文
(一九)女舞見物の報告と『義経記』についての文
(二〇)その返事に『曽我物語』について述べた文
 以上のように、日常やりとりする手紙の体裁を保ちつつ、全ての例文に古典の知識を採り入れてあるのが特徴である。中でも異色なのが『太平記』以下の軍書を扱っている点で、このような記事を伴った女子用往来は他に例がない。
 さらに頭書には、御伽草子・物語(歌物語・歴史物語・軍記物語・説話物語・作り物語等)・随筆・歌集・類題和歌集・歌学書・史書・女訓書など、実に八〇に及ぶ書名が登場するのである。津奈の教養の一端を知るとともに、津奈が女性の教養書をかなり広範囲に考え、独自の見解を持っていたことを示唆する。そのうち津奈が相応の説明を付けたものは特に重要な女性教養書を意味していたと思われるが、記事のいくつかを見てみよう。
◇文しやうのさうし(文正草子)
「是はさしたる証もなき作物語也。あまたのさうしの中にとり分めでたき事をかきたるさうしなるゆへ、女中の文はじめには是をよむと成べし。」
◇伊勢物語
「業平一代の事、うゐかうふり(初冠)よりはしめて終焉迄の事をあらはせる物語なり。」
「女のもつべきさうし
 あながちに女に限り好色の道をしらしむべきにあらす。女は心やはらかに、すなをなるをもつて本とす。かるがゆへに、第一に歌道ををしゆる也。歌道をすける人はあらゝかに、よこしまなる事をかりにも思はぬ物也。故に此物語は余本に勝て歌道最一と定たる也。『詠歌の大概』にも『古今』『伊勢物語』『後撰』『拾遺』を学ふへきよしあり。しかれば、やすらかにすなをならんため、『古今』『後撰』『拾遺』をはまづさし置て此物語を女にをしゆるもの也。されば、二条家三代集の伝授にも、先此『伊勢物語』を始によむ事とあり。」
◇源氏物語
「紫式部、石山寺に籠て、作るへき草紙思案せしに、八月十五夜の月ことに明らかなりしに、左のつま戸のかうらんによりゐて傾く月をおしみしに、源氏の君須磨へさすらへ給ふ御さまのまのあたり心にうかひしかは、ふと物語に心つきて則筆をとりて須磨明石の巻より書はしめけるとなん。(以下略)」
◇さ衣のさうし(狭衣物語)
「四巻あり。近比より狭衣下紐とて十六冊にせし也。さ衣の君一生の事を記せし作り物語也。」
◇清少納言枕草紙(枕草子)
「七冊あり。則、清少納言がつくりしゆへ、作者の名共にかく云。『枕ざうし』とは、所々に枕言葉を書て諸事をかきつけたれはいふ歟。(以下略)」
◇栄花物語
「此物語は、人のめでたくさかへ、はんじやうをかきてはおとろへをしるし、生れ給ふ事をかきては又其かくれ給ふをしるしつる日記のあらまし也。ゆへにしうぎなどには古今さしてもちゐぬを、これは内の事はともあれかくもあれ、栄花といふ外題のめてたきにつきてつかはすとの事おもしろし。此めてたき題号のことく行末さかへ給へとの儀なり。」
 以上のほか、次の書名(掲載順)が見える。

万葉集・世継物語(大鏡)・百人一首・新百人一首・武家百人一首・女百人一首・徒然草・古今六帖(古今和歌六帖)・新撰六帖・和歌七部抄・大和物語・八雲御抄・袖中抄・六家集・二八明題・大名よせ・小名寄・宇治拾遺物語・和歌題林愚抄・歌仙・女歌仙・同中古歌仙・新歌仙・中古歌仙・釈教歌仙・武林歌仙・太平記・保元物語・平治物語・平家物語・源平盛衰記・東鑑(吾妻鏡)・義経記・曽我物語

 さらに「女中の御所持本」として津奈が掲げた女訓書・女子用往来は次の八点である。

女四書・女訓抄・かゞみ草・女かゞみ・女庭訓・女今川・列女伝・女諸礼

 以上、津奈の女用文章三種を簡単に見てきたが、それぞれ三種三様であると同時に、どれ一つをとっても、他に例のない女用文章であることが分かる。
 まず『女文章鑑』は、女性らしい、正しい言葉遣いを徹底してマスターするためのテキストであった。その「正誤文例対照法」とも呼ぶべき方法は全く新しいものであったが、本書はあくまでも初歩教材であって、日常の手紙の案文として十分に利用できるものではなかった。目次もなければ見出しもなく、第一、例文の種類が少なすぎるからである。
 しかし、「女性らしい言葉遣い」に執着した津奈の書札礼は、それまでの書札礼とは趣を異にするものだった。逆に津奈以降の女性書札礼においては、手紙における女性らしさが強調されるようになった感がある。近世の女性書札礼は、時代とともに作法が広範かつ細部に行き渡ると同時に言葉遣いに関する記述が多くなっているが、その最初のものが『女文章鑑』であった。
 さらに二年後の『女書翰初学抄』は、例文の内容もずっと豊富になり、書止語「かしく」や散らし書き・並べ書きを適宜使い分けるなど実用書簡の例文集として十分な内容を備えただけではなく、江戸時代の女子用往来中最も詳細な注を用意してあった。頭書の替え言葉で例文の文言を随時変えられ、一層バラエティに富んだ表現が期待できた。また、下巻末の用語集や書簡作法集などと並行して使用するうちに、語彙そのものや関連知識の理解も進み、的確な手紙文を習得し得たであろう。種々の改題本の影響力も含めれば、『女書翰初学抄』ほど多くの女性に読まれた女用文章はないといっても過言ではない。
 この『女書翰初学抄』が多くの類書を生んだのは何故か。
 いくつか理由が考えられるが、一つは実際に手紙を書いていて役立つ情報が多かったという実用性であろう。言うまでもなく巻末や頭書の付録記事である。しかも注番号を付記して問題の箇所が即座に分かるようになっていた。
 もう一つは女性自身の著作であったこと。本書の書簡作法は「文の法式さまある事ながら、女性はさのみこまかなる法をたゞし給はずとも越度にはなるまじ」という方針に貫かれ、必要最小限の知識に絞られていた。その反面、女性らしい言葉遣いには最大限の注意が払われていた。男性側からの女性書札礼は多く「男性」作法の簡略版のごときもので、「女性」らしさへの着目は乏しくなりがちであった。中世以来の書札礼の伝統がそれを物語っているし、津奈の言う「こまかなる法」の方向に一層進んで行った江戸中期以降の女性書札礼はほとんど男性によるものであった。
 さらに第三に、性差を重視し身分差を強調しなかったこと。津奈は、特定階級の女性というよりもあらゆる女性を意識して書いている。つまり『女書翰初学抄』は全ての女性のための女文の基本であり、汎用性に富んだ女用文章であった(これ以後、女用文章の一般傾向となるが)。従来の書簡作法の関心事はもっぱら尊卑・上中下別の作法であった。江戸前期を代表する代表的女性書札礼を含む『をむなかゝ見』や『女式目』では、上輩・同輩・下輩のそれぞれに上下の差を付けた六段階または五段階の例文を具体的に掲げて、書簡用語や言葉遣いの違い、差出人名・宛名・脇付等の語句の高さ、また、「御」の字のくずし加減までを考慮した記述が見られた。これらに比べると、津奈は尊卑の差をことさら強調することはなかった。あるいは初心者用としてあえて取り上げなかったのかもしれない。少なくとも確かなことは、津奈が尊卑の別よりも男女の別に最大の注意を払っていたということである。
 他方、消息文中に古典知識を盛り込むという『女文章都織』の趣向は、既に『女書翰初学抄』中にその萌芽が見られた。消息文中に諸知識を含ませて、その両者を同時に学習させるというスタイルは、まさに往来物の常套手段であった。『庭訓往来』を始め多くの往来物が消息文中に各種の単語集団を挟むという形で、諸知識の並行学習を達成できるように目論まれた。やがて単語ばかりでなく、それに関連する諸知識や教訓なども含むようになった。
 例えば寛文九年刊『江戸往来』は、新年状風の「陽春之慶賀珍重々々」という書き出しで始まり、江戸の地理や地誌など諸知識を列記した後で「免伝多久穴賢」と書き留めるように全編が一通の手紙文スタイルで書かれている。
 また、「消息往来」型の先駆と考えられる貞享頃刊『百候往来』は全二六通の書状を収録するが、いずれも

一筆致二令啓上、啓達、啓入一候。新春、年甫、改暦、年始之御慶賀、御吉慶、御嘉例、御佳事、重畳、目出度、珍重、不レ可レ有二尽期、際限、休期一候。…

のように、消息に多用する類語を次々列挙し、書止に「恐々謹言」または「謹言」を置くものであった。
 つまり、両者の例から明らかなように、冒頭語(端作)と書止語のみは一応書簡形式にしてあるが、文面のほとんどが語彙や知識、教訓の羅列であって、消息文そのものではない。このような文体は往来物特有のもので「往来文」とも呼ぶべきものである。従ってこの「往来文」スタイルは津奈の独創ではありえないが、「往来文」を用いて古典の知識を種々紹介した点がユニークであった。
 このように見てくると、以上の津奈の女用文章はそれぞれ、他の女用文章には見られない顕著な独自性と影響力を持つものであったことが知れよう。

○近世初頭の女性書札礼
 さて本稿のしめくくりに、津奈の説いた女性書札礼について触れておかなくてはならない。
 女性の手紙についての形式や作法は時代によって多様な変化を遂げているが、一般に女性のための「書札礼」は室町中期以前には存在せず、一二世紀以降に成立する各種書札礼は例外なく公家または武家の男性書札礼であった。
 従って中世までは、男性書札礼中に「男性から女性宛」の手紙の作法が示される程度であり、これは女性本来の書札礼ではなかった。しかし、やがて体系的な女性書札礼も登場した。それが『女房進退』あるいは『女房筆法』であり、いずれも室町末期から江戸初期の撰作と見られる(『続群書類従』巻第七〇一所収)。この時期は、小笠原流など武家礼法においてようやく女性礼法が整備され始めた頃である。『女房進退』や『女房筆法』には書札礼以外の礼法も含むが、ともに女性書札礼が重要な位置を占めることに変わりはない。
 ここでは『女房進退』を紹介しておく。その大半は「女房衆のしつけの事」からなり、食礼や給仕作法、四季衣装、また書簡作法について記し、その末尾に「みつしたなのかさり物之事」「くろたなのかさり物之事」の二項を加える。その中から書札礼の主要部分を抄出すると次のようになる。
 (1)敬うべき女性には「…申させたまへ」と書くが、それ以上の敬いには「披露書き」といって、側近く仕える女性の名前を書いて「…人々御中」などと書く。「御返事」は相手を下げた表現である。また、「まいらせ候」と書いて相手の名を書かなかったり、自分の名を書いて「○○より」と書くのは、相手が自分より下位の場合である。
 (2)手紙の上巻は二枚包みが上位で一枚は下位である。ひねり目に墨を付けて長々と一筋引くこともある。遠方への手紙には月日を上書きする。立文の上下は同じ程にする。
 (3)敬う相手には、「御女はう衆、なをたれ殿」と書き、文末も「御心へ候て申させたまへ」とか「御心へ候て可被申入候」「御心得候て可被申入候」と書く。
 (4)男性より女性への手紙には、いかにもそっけない男言葉で書く。男文を仮名に改めて書くのであって、男文の中に仮名を混ぜてはいけない。
 (5)懸想文(恋文)は通常の言葉が良い。また人により古歌などを採り入れ、仰々しくならないように書く。和歌は散らし書きにしたり、文章中にとけ込ませてどれが和歌であるか分からないように書いたりする。
 (6)男女とも料紙を四季によって使い分ける。貴人には上質の料紙、同輩・下輩へは自分と同格の料紙にする。
 (7)上書きは高貴な相手ほど上げて書く。以下、同輩・下輩と下げて書く。また、文面の墨色は上ほど薄墨で、下ほど墨黒に書く。相手が自分より上位であれば、自分の名前は濃く書き、相手が下位であれば自分の名を薄く書く。
 (8)女性の手紙は、上包みに色水引をする。男は白水引である。
 (9)文の端のあき具合は約二寸八分か三寸ほどにし、手紙の奥(末尾)は三行ほど裏に返して折る。
 (10)腰文も敬う相手には上方で封をし、下輩には下げて封をする。封じ目の墨も二本が敬いである。
 (11)弔状には返事は不要である。また、封じ目の墨や端書も禁物である。
 (12)婚礼祝儀状には、「やがて」「又候」「なお」と書いてはならない。
 (13)文面の字頭の上に書いてはならない。上がりすぎるのも見苦しいので、料紙の程良く書く。
 以上のほかにも、手紙の上包みや用紙の余白の広さ、封の仕方、弔状や婚礼状など種々の作法が記されている。男性の書札礼に比べると簡単なものだが、一通りの女性書札礼を述べた点、また女性礼法書の先駆の一つとして本書は大いにその意義を認められるべきものである。
 このように、室町時代末期あるいは近世初頭に及んで初めて独立した女性書札礼が編まれるようになったが、江戸前期の刊本中、女性の書札礼について述べた最初の文献は慶安三年(一六五〇)刊の『をむなかゝ見(女鏡秘伝書)』である。同書中巻第一項「ふみの書やう上中下の事」には尊卑別の具体的な消息例文が示され、その意味でも本書は中世の書札礼には見られないほどの具体性と実用性に富んだ女訓書であった。本項の末尾で、書簡作法の心得は「内のをんなとものやくたるゆへ、その身しらせたまはずとてもくるしからぬ事なり」と述べていることからも、本書の主な読者対象は上流階級の女性である。そのような高貴な女性のための書簡作法はおおむね次のようなものであった。
 (1)女性の手紙は仮名書きでなくてはならない。また字音ではなく字訓を用いるべきである。
 (2)手紙は相手によって書き分けなくてはならない。
 (3)愛敬のある文面を心掛ける。若いうちはあまりに細やかで艶めかし過ぎず、穏当なのがよい。年輩なら細やかで愛敬のあるのが良い。
 (4)「返す書き(追伸文)」を必ず書くようにする。特に祝儀文には必要である。ただし、婚礼祝儀に初めて送る手紙や弔状には「返す」「重ねて」という言葉は禁物である。
 (5)用紙は一重ねして、上包みをし、さらに水引で結び、熨斗などを添える。魚などを贈る文や弔状には熨斗は不要である。出家には熨斗ではなく昆布を添える。そして、手紙は文箱に入れる。親子のように親密な関係なら結び文でよい。
 また、上輩・同輩・下輩別の文面や作法の相違を六通の例文で示してあり、特に書札礼の要である上所・書止・脇付の違いを明快にし、具体的かつ簡潔に要点を述べている。ただし、本書に見られる例文は一つの模範に過ぎず、実際の消息には相手との関係やその時その時の状況に応じて微妙に変えなくてはならないとしばしば注意を促しているのも、現実的で行き届いた配慮である。
 さらに万治三年(一六六〇)二月刊の『女式目・儒仏物語』三巻三冊のうち「女式目」下巻第二項「文かき給ふべき上中下の事」、同第三項「文ことはおなじやうなる事」にも同様の記述が見られるが、特に、五通の例文に月日を付記した点が新しく、これにより宛名や脇付の位置関係をより明確にした点は実用面での前進であった。また、敬意の程度を「御」の字のくずし加減で、上・上の下・中・中下・下・下の下の六段階に分けて示しているが、例文中の「御」もこの基準によって的確にくずし方を変えてあるのが注目される。これも従来の女性書札礼には見られなかった特色であったが、これ以後の女性書札礼ではさほど重視されていない。
 このほか仮名遣いや、五節句を始めとする消息用語なども掲げるなど、『女式目』の女性書札礼は江戸前期では最もまとまったものであった。
 その後、四半世紀にわたって見るべき女性書札礼はない。元禄期の女性教養書の白眉たる『女重宝記』にも書札礼に関する記事は意外なほど乏しく、具体的なことは何一つ書かれていない。近世前期のこのような状況から、改めて津奈の示した女性書札礼を見てみよう。それはいかなる意義を担うものであろうか。

○津奈が説いた女文の基本一〇カ条
 『女文章鑑』にも女性書札礼について縷々述べられているが、むしろその後の『女書翰初学抄』の書札礼「文かきやうの指南十ヶ条」のほうがよくまとまっており、多くの改題本によっても巷間に相当流布し、江戸中期の女性書札礼の亀鑑となった点で重要である。以下にその全文を掲げ、適宜『女文章鑑』等から引用しながら若干の説明しておこう。

  二十、文かきやうの指南十ヶ条
一、女文はいかにもやさしくあるべし。我先の書にいひたるごとく、女性の文は詞をこゑにつかはず、読にてつかひ給ふべし。縦ば「きのふ」といふを「昨日」といへばこゑ也。「今日」を「けふ」、「一昨日」を「おとつひ」、かやうに有べし。書物さうしなどよみ給はんも此心なり。
一、墨つぎはいかにもこく書は敬なれども、あまり墨の濃はいやしければ、中位よろしかるべき也。
一、文字くだりは句切よく有べし。上へつきたる字を下へつけてかくは非興の事也。縦ば「見事の御・さ・かな下され候(連綿体ではなく「御・さ・かな」と切れている。以下同様)」、かやうにきれたる事也。「さかな(この三文字連綿体)」とつゞくべし。又は「ひとひはたまさかの御出にて候へども」を「さか・の・御出・にて・候へ共」。「たまさかの・御出」也。かやうの所にて切、又は墨をつぎたる、あさましき事也。大事の人の名がき、又は其文に第一にいひやる事などは墨をつぐべき也。其外つぎのくだりの上へあげてかゝぬ字あり。「か(可のくずし)」などの字也。是ははじめにいひたる詞につきたる詞なれば、其くだりにてかきはたすべし。若下つまりてかゝれずは一字にてもそへてかきをくるべし。縦は「何の事誠にて御座候や」、「御座候」よりあげて書べき也。
一、文字の姿をやさしくかゝんとて、色々にちらして読わきがたきは不礼のいたり。さては点、引、捨、はねなどの所をながく書まじき也。
一、文章やさしからんとて、あまりに子細ある詞は物しりだてにてみるめもくるしき也。さては今やうの時行詞など随分かゝぬ様にしたまふべし。
一、懇比の詞かく事、さしむかひていふよりも筆にはいはせよきまゝ誰もかく事成べし。され共、つねざまに其人とのあひさつほどに有べし。常のあひさつより文にてむつまじきは偽り外にあらはにして、心ねつたなく遊女めきたり。つゝしみ給ふべし。
一、文の法式さまある事ながら、女性はさのみこまかなる法をたゞし給はずとも越度にはなるまじ。去ながら、第一祝義の文には返す書ねん比に有べし。旅への文には封をときてさきの名と我名のきれぬやうにふうじてかき給ふべし。上々うやまひの方へは、勿論披露文なるべし。さきのめしつかはれ人の方へのあて名にして、書とめには「此よしよろしく御披露たのみまいらせ候」とも「此よしよきに御心得」とも「御申上」とも、それよりつぎには「御申給り候べく候」とも「御申給へ めてたくかしく」とも有べし。封文にも上々のうやまひは進上書成べし。わき付には「参る人々御申給へ」「誰にても申給へ」「人々申給へ」、凡かやうに有べし。
一、とふらひ文は墨うすくかきて、かへす書なかるべし。もとより「めでたくかしく」もなかるべし。文のうちに「猶」の字、「又は」などのたぐひ、かやうの詞かき給ふべからず。
一、扇などに歌かき給はんには、絵をよけてかき給ふべし。書けしたる、本意なきわざなんめり。
一、短冊は上より二寸ばかりをきて書出し給ふべし。下の句のかしらにて墨をつがぬものなり。
 まず第一条は、津奈が最も重視した項目と考えてよかろう。彼女は、女性の手紙の基本中の基本を女性らしい文面に求めている。やさしく書く、字音ではなく字訓を使う、というものである。言ってみれば、『女文章鑑』はこの第一条をレッスンするためのものであった。このような女性らしい文面についての注意は近世、特に江戸中期以降にはしばしば指摘される点であった。
 第二条は墨継ぎの濃淡についてである。『女文章鑑』にも貴人の名前や手紙の主用件は墨継ぎをして濃く書くことを注意している。一般的に濃く書くのが敬いで、逆に下輩へ書く場合は弔状でなくても薄墨でもよかった。また、祝儀状は濃く、弔状は薄く書くのが礼儀であったが、江戸後期の『新増 女諸礼綾錦』には、病気見舞状の「御本復」などの言葉は墨黒に大きく書き、病名や「御悩み」といった語句はかすり筆で小さく書く旨の記事が見える。このように墨色についての記事は近世全期を通じて重視された。
 第三条は、墨継ぎとも大いに関係するが語句の区切りについてである。単語の途中で改行や墨継ぎをしたり、連綿体を断絶させたりしてはならないとの注意である。津奈は、手紙における言葉遣いとともに、「文字くだり」すなわち改行・墨継ぎ・連綿体などにことさら注意を払っているように思われる。『女文章鑑』にも、同様の記事のほか「行の第一字を薄くして二字目で墨継ぎしたり、行の最後の一字で墨継ぎをしてはならず、二行目に四字続けてかすり筆(「四字がすり」)にしてはならない。また、墨継ぎの位置が各行で同じ高さにならないようにする」といった注意が記されている。
 第四条は、散らし書きに関する記述である。「手紙の用件が相手に伝わらないのは本末転倒であるから、読みにくいほど散らしてはならない」、また「特に子ども宛の手紙はみだりに散らさず、一字一字離して読みやすく書く」といった心得は江戸中期以降の書札礼にはよく見られる。また本条の記載で興味深いのは、津奈が「文字の点、引き、捨て、跳ねを長く書いてはならない」とする点で、これは当時このような書き方が間々見受けられたことへの批判と思われる。具体的には元禄七年刊『しのすゝき』(『女学範』は長谷川貞筆とするが、妙躰の筆跡とほとんど同じであり、長谷川妙躰と同一人とも考えられる)などに見られるような筆法が元禄初年には京都中に広がっていたのであろう。宝永元年刊の女筆手本『みちしば』跋文には「世にもて習ふ『しのすゝき』みたれて所々のたからとなれは…」とあるように、この『しのすゝき』が相当に流布したらしいことが分かる。津奈の警告もむなしく、このような筆法は「妙躰流」と呼ばれ、その後半世紀以上にわたり世の女性達に流行したのである。
 第五条は「子細ある詞」や流行語の使用を禁じた一条であり、第六条は親しみの言葉にも節度あるべきことを諭したものである。前者は他の書札礼にも見られるが、後者は独特である。とにかく津奈の書札礼は言葉遣いについて徹底しているのが特色である。
 第七条は、「返す書き」から始まって、封じ目、披露状、進上書き、脇付までの書簡形式や、上輩宛の手紙までの最小限の心得である。いまだ庶民化していない江戸前期以前の書札礼では上中下別の手紙の書き方が極めて重要であり、その点にこそ書札礼の存在理由があったとも言えるが、ここでは津奈は貴人・上輩への手紙の作法をかなり簡略化して書いている。『女文章鑑』には「上輩へはひねり文、下輩へは結び文にする」ことや、「主人の仰せを仲間(同じ主人に仕える仲間)へ伝える時には、宛名に「さま」(当時「殿」よりも敬意が強かった)を使ってはならず、「殿(草書体)」と書く」といった注意、また、「主人・貴人への手紙は「本文章」に書くべきで、追伸文で書いてはならない」などの記述があるが、『女書翰初学抄』では一切省かれた。
 第八条の弔状は、祝儀状とともに近世の女性書札礼では重視された項目である。
 一般に弔状の書止語は、「めでたくかしく」は不適当だが「かしく」なら良いとする説と、そのいずれもよろしくないとする説の両方が当時見られた(先の弔状を見ても明らかなように津奈は後者の説である)。書止や文面に「めでたく」「よろしく」を不適当とするのは至極当然であるが、それ以外の不幸ごと(例えば病気)には「めでたくかしく」を使う例も見られるので、死去の場合とそれ以外の不幸には一線を画す意識が存在したようである(『江戸時代女性文庫』第六〇巻解題参照)。
 以上のほか、弔状には端作(冒頭語)を書かずにすぐに弔いの文章に入ること、他の用件や追伸文は書かないこと、また、「まいる人々」といった脇付語や差出人を示す「○○より」の表記をしないこと、二行目に四文字かすり筆で書くこと、文面は七行か九行で書くこと(この点、先に掲げた津奈の弔状は原本で一七行と極めて長い)、さらに、封じ目に墨を引かないのが原則だが遠方への手紙なら封じ目を「ソ」(通常は「〆」)のようにすることなど種々の作法があったが、これについても津奈は墨色、書止語、忌み言葉だけに絞っている。
 第九条、第一〇条も、伝統的な正式の作法では実に細々としたきまりがあったのを、わずか二行にまとめている。
 このように、津奈の書札礼は簡潔明瞭を旨として書かれている。女性の手紙の言葉遣い、墨継ぎの位置、語句の句切りや行頭に置かない字、散らし書き、披露文、進上書き、弔状、扇・短冊の書き方など、女性書札礼の基本を一〇カ条にまとめた点で分かりやすく、多くの人々に受け容れられたのも当然であった。
 要するに、津奈の書札礼は基本事項に絞って書かれた一般女性のためのものだった。第七条の「女性はさのみこまかなる法をたゞし給はずとも越度にはなるまじ」というのは、一般女性に対しての主張であって、右筆など特殊な立場の女性に対するものではない。この後江戸後期に至るまでの間、さらに詳細な女性書札礼も登場するが、女性書札礼を「こまかなる法」の方向へと導いていったのは大方男性であった。
 津奈は一般女性のために手紙の基本事項を簡潔に説いた先駆者であり、書札礼の庶民化に多大な貢献をしたといえる。津奈の往来物は、いわば女性による女性のための独創性と個性に満ちており、書札礼のみならず女性の心得や教養の面で近世女性の大きな指針となったのである。
 近世庶民文化における津奈の存在は頗る大きいのであり、彼女を往来物史上特筆すべき女性として、また、近世最初の女性啓蒙家として讃える所以である。

【参照文献】
○影印版になっている津奈の作品(全て大空社刊)
「女書翰初学抄」(『江戸時代女性文庫』六〇巻 平成八年)
「女教訓文章」(『往来物大系』八二巻 平成六年)
「女実語教・女童子教」(『往来物大系』八七巻 平成六年)
「女中文章鑑」(『往来物大系』九二巻 平成六年)
「女文章都織」(『稀覯往来物集成』一八巻 平成九年)
「女文林宝袋」(『往来物大系』九二巻 平成六年)
*以上のほか、『女百人一首』と『女文章鑑』を『江戸時代女性文庫』に収録の予定である(平成一〇年刊行予定)。
○その他影印版(全て大空社刊)
「をむなかゝ見」(『往来物大系』八三巻 平成六年)
「女式目」(『往来物大系』八一巻 平成六年)
「女文庫高蒔絵」(『往来物大系』九二巻 平成六年)
「江戸往来」(『往来物大系』五二巻 平成五年)
「百候往来」(『稀覯往来物集成』一一巻 平成九年)
○原本
『女文章鑑』(貞享五年板 *母利司朗氏蔵)
『女用文章綱目』(元禄一一年板 *謙堂文庫蔵)
『当流女筆大全』(元禄一二年板 *奈良女子大学蔵)
*原本を調査させて頂いた上記個人・機関関係者の方々に厚く御礼申し上げる次第である。
○その他出版物
『江戸時代 書林出版書籍目録集成』(慶應義塾大学附属研究所斯道文庫編 昭和三七・三八年 井上書房)
『補訂版 国書総目録』(岩波書店編 平成元〜三年)
『古典籍総合目録』(国文学研究資料館編 平成二年 岩波書店)
母利司朗「『女用文章』考」(岐阜大学『国語国文学』二一号 平成五年)
『書簡用語の研究』(真下三郎著 昭和六〇年 渓水社)
「女房筆法」(『続群書類従』巻第七〇一)