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「江戸期おんな考」12号所収論文

続女大学
――『女大学』に似て非なる「異種女大学」――

*実際の論文には多くルビが付されていても下記では省略されるなど小異があります。
*「 」書き以外の引用文(改行字下げ部分)は前後一行を空けて、引用箇所を紫色で表現しています。
*末尾に注があります。

*なお、JIS外字が原則として再現されていない点にもご注意下さい。


 はじめに


 筆者はかねて、拙稿「『女大学』と柏原屋清右衛門」(本誌第五号所収
*(一) )において、『女大学宝箱』の類板訴訟の一つとして天保三年の『続女大学』事件を紹介したことがあった*(二) 。『続女大学』は、『国書総目録』『古典籍総合目録』にも掲載されておらず、また、当然ながら正規出版物の記録である『大阪出版書籍目録』等にも記載がなく、しばらく詳細が不明であった。
 幸い、昨年、名古屋の古書肆より原本を入手したが、奇しくもほぼ同じ頃、東京のある古書展にも『続女大学』が出品されていた。往来物蒐集歴十四年間で、『続女大学』の書名を目にしたのはこの二回限りである。
 このたび、『続女大学』原本を調査した結果、新たな発見や先の拙稿に修正すべき点があるため、本稿では全文を翻刻して、若干の教育史的・書誌学的検討を加えたい。
 
 家蔵本『続女大学』の概要

 家蔵本は、原装題簽付きで初刷りに近く、保存状態が頗る良い。他に所蔵が知られない稀覯本であるので、できるだけ詳しく書誌的事項を記しておく。
【体裁】大本一冊。縦二五九_、横一九〇_。
【表紙】藍色表紙。山が連なる模様の空押に、霞や桜の手彩色。
【題簽】縦長の原題簽。縦二一一_、横四六_。子持罫で縦二段に仕切った上段に小字・二行で「新板/重宝」(角書)、下段に大字・一行で「續女大学 全」と記す。
【脇題簽】方形の目録簽。縦一四二_、横一二三_。題簽と同様の子持罫で四段に仕切った最上段に「目録」と記し、二段目以下を各段十五行ずつ内容明細を列記する。
【刊記等】裏表紙見返しに次の跋文と刊記を付す。

此『女孝行教訓箱』は、素、貝原先生の草稿ありしを、古筺の内より探得て、其侭虫喰事を惜み、且は児女教導の一助にもならん事を思ひ、梓にちりばめ、天下に公にするもの也。 渡邊其寧撰

  天保五甲午秋新刻
    尾陽名古屋巾下樽屋町  
          玉野屋新右衛門 
     書肆
        同 伝馬町通宮町  
          藤屋市郎右衛門 


【口絵】表紙見返しおよび第一丁表の見開きは多色刷りで、見返しは紅梅を全面にあしらったデザインの中央に「續女大學」の書名を記し、第一丁表に松竹梅と鶴亀の「蓬莱図」を描く。

 『続女大学』本文

 全七一丁のうち第十三〜五十八丁が本文に相当し、首題を「女孝行教訓箱」とする。以下に全文を紹介するが、漢字は新漢字に改め、適宜、改行・句読点を施した。

   女孝行教訓箱

 夫、女子は、幼少の時より親のをしへ緩かせにすべからず。其親、寵愛の余、是を等閑にそだつるときは、却て其慈悲あだと成て、成人に随ひ必気随にて、終には親・夫をはじめ、其余の親類迄も恥辱をあたへ、その身も憂かんなんにあふためし、世間に少からず。
 されば、おやのみの教にても行とゞきがたければ、幼少より先、善師にたよりて能教訓なさしめ、且、手跡・読書等を習はしめ、忠孝・貞女の道を専らに覚す事、肝要なり。
 今、此目出度御代に生れて、手習・読ものをえせざる輩は、常に不自由なるのみに非ず。仮初に人の中へ出交るときなんと、例令、姿形はうるはしく育られし身なりとも、読書ならぬかなしさは万のはなし、挨拶あしらひ等の言葉づかひにもかたことのみいひて、何となくふつゝかなる事おほくて、人に見侮られ、けしき賤みゆれば、下々の者までにも見くだされ、人なみに座席にゐるもつき悪敷、恥かしめを受る人こそ、まことに本意なく浅ましけれ。
 其上、世間の諺にも読書のならぬ身を「目の見えぬ人」とていやしむるぞかし。明らかなる眼をもちながら、盲人にたくらべらるゝ事、口をしきことならずや。元より治すべくもあらぬ眼疾だに、薬療治のあらん限をつくし、神仏に願をかけ祈るにあらずや。然を我心ひとつにて明らかになさばなるべき眼の有ながら、一生盲人にひとしくて過さんは、返々も口惜次第なり。
 扨、読書に続ては、縫物あるひはうみつむぎ、其外女の為べき業をならふべし。又、身の分限に応じて歌・俳諧・茶の湯・琴・三味線等の稽古をもする事なれば、年闌に随ひてかれこれとこと多くなりて、筆をとり読物などする間とては誠にまれなれば、幼少のうちに何事も打すてゝ、只読書の稽古を専らになすべし。
 又、女子たる身は、いつ迄も親の許にあるものにもあらず。他の家に嫁しては、先の舅姑を実の親よりも大切につかふる事にて、親のもとへの便・ゆきかひも自ら疎なる物なれば、先、親の元にあるうちに父母に深く孝行を尽すべし。
 孝行といふは、只親の仰ことを少しも背かず、気随を慎み、衣服の好み・よろづの事にも只親の仰を守りてすなほなるぞ、孝の道なる。又、身の錺・化粧・髪形等に付ても、仮にも歌舞伎・遊里などの振をうつさずまねせず、賤姿を好むべからず。とにかくに、父母の仰に背かぬ様、心づかひをさせぬやうにと心懸て、万女のすべき業を習置べし。
 さて、夫にしたがひては、舅姑に孝養をいたし、物ごとつゝしみ、夫を主人と思ひ、貞女の道を尽べし。仮初にも心安だてを云ず為ず、りんき・しつとの心を出さず、或は小舅、其外の諸親類の人々にも身をへりくだり、親を厚し、又は呵らるゝ事有共、必口ごたへをせず、必恨そしることなく、心にをさめて我身を顧、過有ばあらたむべし。また、召遣ひ・出入の人々にも万事行儀能、叮嚀にあいしらふべし。
 扨また夫は、家のことに付て表を勤るものなれば、女は猥に外に出ず、内を治め、心も身も静に穏にして、万に気を配、辛労をこらへて勤べし。
 斯する時は、おのづから家内和順にして、家富栄るの基となる。是等みな、幼少の時、手習・読物の力なくては容易勤がたかるべし。其外にも読書の徳なければ、親類中の人々にも侮られ、気遣ふ方への文遣ひ・返事抔かくにも、つたなき筆こそ恥しけれ。
 又、我親里へ云やりたき事の中にも他人に聞されぬ事も有べし。さるをりは、使の言づてにいひもやられず、ふみかゝんにも筆まわらず、如何はせんと思ひながら、是非なくにじり書して送れども、さとにては読がたく、何事とも分かね、其拙文を見ては、親の心いかゞあらん。さやうになくてさへ、女子は年闌ても親の方よりは心を付て問音信などして、あんじくらすものなるに、不都束なる文遣ひなどをみては、覚束なさも増るべし。
 それに引かへ、読書を習ひ得て能とゝのへ、さも美敷書人は、其人柄も見上られ、心ばへ奥ゆかしく思はるゝものぞかし。
 海・山・国を隔たる遠き所のたよりにも、逢ていふより懇に筆にてことをいひかはせるぞ、人たるものゝ飛行の術ともいふべく、是、読書の徳にして、身の一代の宝なる。外の宝は時として失ふ事もあれど、我身の内の宝は火にも焼ず、朽もせず。ある歌に「手のうちに習ひ置たる宝こそ用心せねどぬすまれもせず」。
 扨又、幾年月を経る迚も、書残したる事は今みるやうにぞ思はるゝ。古より伝りたる神の教、又は聖の語、仏の説なども、其道々の書共を見る時は、まのあたりに教を受るがごとく覚て、身の慎み、行のたすけともなるは、是よみかきの益ぞかし。
 さて、女子の教、誡のことは、多く書にも有なれど、近く心得置べきあらましは、婦人は殊更に堪忍と辛抱をよくせねば、生涯を無事に過しがたし。此堪忍・辛抱をする事も、年月を長くせねばならぬと思へば成がたきこともあれど、或人の教に「一日ぐらし」といふ事にたとへて示さるゝは、如何様の堪忍・辛抱も「けふ一日の事」とおもへば、たやすくなるものなり。又、翌日も此ごとく、「今日一日」とおもひ暮せば、幾年の辛抱もなるものぞかし。其内には、年月の移行に随ひ品もかはりゆけば、おのづから心もやすらかになり、楽しく悦敷ことも出来るものぞ。
 又、他の家に嫁して、舅・姑・夫の留守に人を聚、打解たる咄など、きはめて慎べし。其かへり遅く夜更ること有て、内の人々、召遣ひの者は皆寝とも、我身はいつまでも寝ずして万の事に心を配て、堅く留守を守りて待べし。
 常々の心得には、舅姑、又は夫の親類は云に及ばず、其外の人々にも只物和らかに随ひ、おとなしやかにあしらひ、たとへは青柳の風に靡風情をおもひ、物事直にして、心のうちは金や石よりも堅身を持べし。あることの葉に「一すぢにおもふ心の根をしめて、風にしたがへ青柳のいと」。かゝる心をも解知べし。我にまさりて賢、善人は是を手本に見習ふべし。
 我に劣て愚なる人有とも、いやしめ侮べからず。男どち物語し相談など有時、我知がほに差出、利口ぶりたる振舞は、夫を始他の人々へ対しても大きなる無礼なりと心得、慎べし。召遣ひの下女、又は出入の人の中にも、口さがなくて、人に媚へつらひ、人事をそしり中言をいひ、ついしやうけいはく成ことを好者あり。左様なる者にまどはされて、我舅姑・諸親類、その外、他の人を恨そしるべからず。必、我慎守るべき道を忘ることなかれ。
 また、倹約といへるに、心得違ひ多し。夫、倹約といふは、我身に質素を守り、分限にしたがひ驕ことなく、物ごと約にする事なるを、夫の恥と成ことをも顧ず、世間の人の嘲をも思はず、物事しわく、召遣・出入の者に施すべきことにもほどこさず、与ふべき物をも与へず、其くせとして我身の事、又は我子の事抔には身分不相応の費を厭ず恣に奢て、倹約と心得たる人有ものなり。
 是等はおろかなる心得にて、昨日来りし人もけふは来ぬ様になり、親人も疎なりて、自然と出入者も立よらず、つひには衰微の端となり、家を亡すの基と成事なれば、慎ずんば有べからず。
 夫の家、初の程は富貴にして夫婦の中も睦かりしが、いつしかまづしく成行てより、仮初にも夫婦諍ひする類多し。是、婦人の心得悪敷故に、夫を侮り恨心よりのことゝしるべし。富貴・貧賤共にみな我身に天よりあたへ給ふ所なれば、夫を恨み侮べからず。常に我身の心得悪敷、勤のいたらざるより斯不幸になり行、夫の心に背より諍ことの出来るぞと、我身をかへりみて、いよ忠孝・貞節の道を守り天道を恐て慎勤べき事也。女の心得悪敷より家を亡す例多あれば、実に恐しきことゝおもひ、人の妻たるもの慎嗜べし。
 夫愛する妾有ことは、上下其分限に応し、其ためし有ものなるを、いたく恨ねたみて、しつとの心を起すは、女の道にあらず。或は夫婦の中に世を継べき一子もなきか、又は我夫へのつかへあしき故かと身をかへりみて、いよ夫を大切に思勤仕ふべし。おとなしく、むつましく、夫に背かず仕ふるこそ女の道なるに、恨怒り、りんき・嫉妬の心をおこさば、夫にはしたなくおもはれ、疎まれて、終には其身を追出されて恥をさらす。
 是みな、女の道に背る故なり。慎仕へて夫に背かねば、貞女の操もたち、家をも治め、子孫も栄て、めで度齢をたもち、末たのもしくおいゆくも、只、女の道の心がけひとつ也。
 扨、女は仮にも大音にて罵、高声にて笑ふことなかれ。我子・召遣の小者など異見する共、仮そめにも打擲することなかれ。ひそかに実を尽して云聞する時は幼身にも道理は能聞分るもの也。
 我に善事を云教る人あらば、深悦び其ことを守るべし。我過を告くるゝ人あらば、嬉く思て過をはやく改べし。仮にも、まけをしみなる心を出して過をなすことなかれ。
 夜は人々よりもおそく寝て、朝は人々よりも早く起出べし。或は時のはやり言葉、流行風俗などたはれたるさまを見習ふべからず。また、物いひ不都束にいやしきさましたる人成とも、猥にあなどりわらふべからず。
 さて、読かきするうえからは、物がたり・書をも見るゆゑに、すべて世上の善事、悪敷こと、うきつらきかなしきこと、嬉しきたのしき事に付て、常におもひよらぬ事までもおのづから心得るものなれば、人のうへをも思ひやり、わが身のことをもかへり見て、夫々に身分にしたがひ、やすく世をわたるべきもの也。
 元より女子は、天性陰気のむまれなるゆゑに、よろづ柔和に身をもてば、人の愛敬あるものぞ。をんなの気随わがまゝに、猛々しくて、気強、さかしらなる行跡は、ひとうとみ、にくむものなり。たとひ、気さきすくやかにかしこく、をとこまさりに生れつきたる人なりとも、われとつゝしみ、こゝろをおさへて出さず、やうだいしづかにこそ、あらまほしけれ。
 およそ其家々にて、上たる人こゝろえあしければ、下々のものまで身もち悪しくなりて、家内おだやかならず、よからぬ事而已いできたりて、家の衰微と成行なり。また、上たる人のこゝろえよければ、下々のものも身持正しく、家内じゆんじゆくし、おのづからよきこと多くして、出入人もにぎはひて、次第に富貴になるもの也。
 かゝる道理をよくわきまへ、人たる道にもとづくも、皆これ、よみかきの利益成ことをおもひしるべし。
 さて、何事にも慈悲のこゝろふかくして、ものをあはれひそだつるときは、こゝろえあしき人々迄もこれを見聞ては、みづからはぢて善心にうつるものぞかし。されば、天地にまします神仏の御心にもかなひ、夫婦の中和順にして、積善・至誠の気象をうけて、おのづから賢才・智徳そなはり、ひとにすぐれて聡明なる、孝心ふかきよき子をまうけ、親子きやうだいむつましく、千代よろづ代のすゑかけて、子孫はんじやううたがひなく、家内目出たくさかゆべし。


 『続女大学』と『女大学』との相違


 『続女大学』の冒頭部は、いかにも次の『女大学宝箱(女大学)』第一条
*(三) と似通っている。
一、夫女子は、成長して他人の家え行、舅・姑に仕るものなれば、男子よりも親の教ゆるかせにすべからず。父母寵愛して恣に育ぬれば、夫の家に行て、必気随にて夫に疎まれ、又は舅の誨正しければ難レ堪思ひ、舅を恨誹り中悪くなりて、終には追出され、恥を曝す。女子の父母、我訓なき事を謂ずして、舅・夫の悪きと而已思ふは誤なり。是皆、女子の親のをしへなき故なり。
 このほか、女性は嫁した後はもっぱら舅姑に仕える身となるために、結婚前は父母の孝行に励み、結婚後は舅姑・夫に仕えて貞女の道を尽くし、小舅や諸親類にも謙虚に親しみ厚く接して、みだりに外出せずに細やかな心配りで「内治」「家政」に努めよと諭すあたりは、基本的に『女大学』と同様である。
 また、そのために必要とされる徳目として「和順」や「質素倹約」を説き、「富貴・貧賤は天命であり、婦人が自ら招いた結果であって、夫を責めるべきでない」という一方的な教訓を述べ、さらに、夫が妾を持つような場合にも悋気・嫉妬を起こさずに貞女の操を保つべきと強要する点なども『女大学』の延長線上の教訓と見て差し支えなかろう。
 だが、『女大学』と明らかに異なる点がある。
 まず第一に、『女大学』第三条で説かれている「男女の別」の記載がない。
 第二に、『女大学』第四条で強調された重要な柱の一つ、「七去」についての記載もない。
 第三に、『女大学』第十一条で説かれた、神仏に対する妄信の戒めについての記述がない。
 第四に、『女大学』第十四条のように、衣裳の染め色や模様が華美にならないように努め、清潔を旨とすべきとの教訓が省かれている。ただし、『続女大学』前付「女諸芸の図」で次のように補足するので、この点は完全な相違点とは言い切れない。

 女の身のかざり、衣服のそめもやう、目にたゝぬやうじんじやうなるがよし。すぐれて花やかにすぎたるは、遊女の風ぞくに似て、いやしく見にくきもの也。
 とりわき、芝居役者の定紋等を衣服の帯などにそめたるこゝろの底はかりしれて見くるしくはづかしきことなり。
 さはいへど、ときの流行にしたがはずして古風を好むもまたことやうにてあしければ、只はでなる姿にも何となく上品なる風俗こそおくゆかしく、よき物なれは、上品なるを見習ひたまふべし。


 なお、当世風の上品な風俗であれば多少の派手さは許容範囲とする点は、『女大学』と微妙に異なる。
 第五に、この点が『女大学』と最も異なる特徴だが、『続女大学』には、幼少時からの読み書きの重要性が繰り返し説かれている(後述)。
 第六に、『続女大学』が堪忍・辛抱について独自の教訓を述べている点である。すなわち、辛抱すべきことを「今日一日だけ」と思いこむことで、日々堪えていく「一日暮らし」という発想である。辛抱の連続でも、そのうちに善いことも巡って来るであろうという楽観的な構えを諭している。
 以上のように、『続女大学』は『女大学』の大半を継承しながらも、当時の社会通念との乖離を生じないように部分的な修正を施したものと考えられる。その際、「七去」のような心得をことさら強調することがない一方、読み書きについては本文の約四分の一に相当する字数を費やして述べている点などは興味深い事実であり、とにかく『続女大学』が『女大学』を盲目的に受容したものでないことは確かである。
 筆者は、拙稿「『女大学』と柏原屋清右衛門」で、まず『和俗童子訓』巻之五「教女子法」を改編して『女用智恵鑑』所収の「新女訓抄」
*(四 が作られ、さらに「新女訓抄」を改編して『女大学』が成立したことを明らかにするとともに、この改編過程で『女大学』に盛り込まれなかった最大のものが「女性の学問」に関する内容であることを指摘した。
 従って、「教女子法」から検討していくと、「教女子法」第七条
*(五)では、「随年教法」に基づく女子教育論が次のように展開されている。

七歳より和字をならはしめ、又、おとこもしをもならはしむへし。淫思なき古歌を多くよましめて、風雅の道をしらしむへし。是また男子のことく、はしめは数目ある句、みじかき事ともあまたよみおぼえさせて後、『孝経』の首章、『論語』の学而ノ篇、曹大家が『女誡』などをよましめ、孝順・貞潔の道をおしゆへし。十歳より外にいださず、閨門の内にのみ居て、おりぬい、うみつむぐわざをならはしむへし。かりにも淫~なる事をきかせしらしむべからす。小歌・浄瑠璃・三線の類、淫声をこのめは、心をそこなふ。かやうのいやしき、たふれたる事を以て、女子の心をなぐさむるはあしゝ。風雅なるよき事をならはしめて、心をなぐさむへし。此頃の婦人は淫声をこのんて女子にをしゆ。是、甚風俗・心術をそこなふ。いとけなき時、悪き事を見聞、習ては、早くうつりやすし。女子に見せしむる草紙もゑらぶへし。いにしへの事しるせるふみの類は害なし。聖賢の正しき道をおしえずして、ざればみたる小うた・浄瑠璃本など見せしむる事なかれ。又、『伊勢物語』『源氏物語』なと其詞は風雅なれど、かやうの淫俗の事をしるせるふみをはやく見せしむへからす。又、女子も物を正しくかき、算数をならふへし。物かき算をしらされは、家の事をしるし、財をはかる事あたはず。必これをおしゆへし。

 一方、「新女訓抄」第六条では、如上の内容を簡略化した内容を載せており、七、八歳からは手習いのいとまに女性の「ことばやさしくする」ための『百人一首』『古今集』や、「女の道をしらしむ」『女誡』を読ませ、十二歳からは家の外に出さないで裁縫等を習わせ、「中人より以下」の女性には算用を多少なりとも覚えさせよ、また、歌舞伎・浄瑠璃や『源氏』『伊勢』など好色めいたものを遠ざけよと説いている。
 このように、「教女子法」の女子教育論は、基本的に「新女訓抄」→「女大学」→「続女大学」へと継承されたようだが、さらに、「読・書・算」や「諸芸」に焦点を絞って、「教女子法」「新女訓抄」『女大学』『続女大学』の違いを考察してみる。

【読み書き】

 『女大学』では、「教女子法」や「新女訓抄」のような年代別の女子教育にはほとんど触れず、「読み書き」に関する記述を完全に抹消しているが、これに対して『続女大学』は「読み書き」の重要性を随所で述べており、「読み書き」の徳や意義を次のように表現している。
・「忠孝・貞女の道」を知る初め
・世間での社交や婚家での生活に不可欠な条件
・家の中を治める「内治」能力の根本
・人間性の評価基準
・焼失したり朽ちたりすることのない一生の宝
・時空を超えて教えや情報を伝える手段
 そのほか、前付「女諸芸の図」に次のような記事を載せる。

 手をかくことは、女の第一のげいにあらねども、はしり書拙からず、用だつ程には心がけおくべし。みつからかゝでは、万事不自由にくるしきものなり。ことさら、町家のつまなどは、商売・家ぎやうのたすけともなり、日用時々の勝手となれば、かならずならひおきたまふべし。
 幼女の時分より書物をよみならふべし。書物をよむ人は、物の道理をしり、ちゑもできるもの也。道理をしらざれば善悪明らかに分りがたく、かたちは人間にて心は鳥獣にも同じこと也。
 読給ひて徳ある書は、凡、『女四書』『女鑑』『女大学』『女庭訓』『女今川』『女小学』『姫鏡』『女用智恵鑑』。


 『続女大学』が主にどのような女性を対象とし、どのような学問や教養を期待していたかは一目瞭然であろう。

【算数】
 前掲のように、「教女子法」は算数に対する女子の教養を家政上必須のものとし、「新女訓抄」も「中人より以下」の女性には算用を推奨している。ところが、中人以下の諸職・諸商売の記事を豊富に載せているにも関わらず、『女大学』には算用に関する記述が全くない。
 他方、『続女大学』の本文には算用に関する記事が見られないが、前付「女諸芸の図」には、

 女子は、算数のいらぬものといふ人あれども、大きに心得ちがひなり。算盤をしらざれば、絹布たちぬひするにも衣類の寸尺をつもるにも長短・広狭のつもりたがひもでき、万事に損失多し。
 殊には商人などのつまとなる身は大きに勝てになる事もあれは、少しにても覚置たし。


と述べているように、「女諸芸の図」は主に町家女性を意識して書かれているが
*(六) 、算数が商売上の算用とともに裁縫の寸尺にも必須とする点は、『女大学』と全く異なる。

【裁縫・諸芸】
 読み書き以外の「裁縫」や「諸芸」ではどうであろうか。「教女子法」第七条は、十歳になったらもっぱら「閨門」の中で裁縫等の家事を教えよと説くが、さらに第十一条で、

女子には、はやく女功をおしゆへし。女功とは、をりぬい・うみつむぎ・すゝきあらひ、又は食をとゝのふるわさを云。女人は外事なし。かやうの女功をつとむるを以、しわざとす。ことに、ぬひものするわざをよくならはしむへし。はやく女のわざをおしえざれは、おつとの家に行て、わざをつとむる事ならず。人にそしられ、わらはるゝもの也。父母となれる者、心を用ゆへし。

と、その必要性を強調している。「新女訓抄」でも、年齢を「十二歳」とした以外はほとんど同様である。
 諸芸に関しては、「教女子法」も「新女訓抄」も小歌・浄瑠璃・歌舞伎等を禁止するが、『女大学』第一〇条でもほぼ同様に説かれている。

一、女は常に心遣して其身を堅倶謹み護るへし。朝は早く起、夜は遅く寝、昼はいねずして、いゑの内の事に心を用ひ、織縫・績緝怠るべからす。亦、茶・酒など多く呑へからず。歌舞伎・小歌・浄るりなどの淫れたる事を見聴べからす…

 『続女大学』では、本文に「読書に続ては、縫物あるひはうみつむぎ、其外女の為べき業をならふべし」とあり、「女諸芸の図」に「縫針・うみつむぎは、女子第一のわざなれば、手習と同敷はやく教べし…
*(七) 」とあって裁縫観は基本的に同じである。しかし、諸芸については、分限や年齢に応じた小唄・誹諧・茶の湯・琴・三味線等を肯定しており、さらに年齢とともにこれらの稽古に忙しくなるため、若い時は読み書きに専念せよとの心得に帰結していくのである。
 以上のことから、『続女大学』の作者は、『女大学』の理念を受け継ぎながらも、それを補完する教訓を展開していることが分かる。また、『続女大学』の執筆にあたっては、『女用智恵鑑』の「新女訓抄」や『和俗童子訓』の「教女子法」が参照されたことはほぼ間違いないと思われる。
 すなわち、『続女大学』は「教女子法」→「新女訓抄」→『女大学』という一連の改編過程で『女大学』が意図的に削除した重要な内容、つまり、女性にとっての広義の学問(読み書きから諸芸まで)を再び盛り込んで「教女子法」の軌道修正をしているのである。従って、幼時の手習い・読書が、成人してからの家庭生活や社会生活でいかに大切であるか、そして、幼時の怠学が人生にとってどれほどマイナスであるかを、言葉の限りを尽くして丁寧に解き明かした点こそが、『女大学』と一線を画する特徴なのである。
 さらに言及すれば、「大学」という書名にも関わらず「読・書・算」に触れない『女大学』では、嫁いでからの女性に必要な生活心得や家政上の技能、あるいは実社会における女性の職業知識等を女性の「学問」と見なすのに対し、『続女大学』は、結婚後の幸福な人生の源泉としての「読・書・算」を第一義として、「裁縫」「諸芸」を含む幅広い教養を志向しているように思われる。

 『続女大学』訴訟とその意味

 『大坂本屋仲間記録』(出勤帳)には種々の出版訴訟の記録が掲載されており、『女大学』に関する記事も多い。『続女大学』についても随所に記事が点在するため、これらを縫合しながら訴訟の経緯をある程度辿ることができる。
 「出勤帳」における『続女大学』関連記事の初出は、天保元年(文政十三年)六月五日の記録である
*(八) 。京都・伊予屋佐右衛門「新彫」の『続女大学』が類板のおそれがあるため、原本確認希望の旨を、大坂行司から京都行司へ申し入れるように、柏原屋清右衛門が願い出ている。
 その後、何度か書面でのやりとりが続いたようだが、事態は遅々として進まず、五カ月後の十一月十五日には
*(九) 、

一、柏清より『続女大学』と申す書、京都・伊予屋佐右衛門方に而板行致出来候処、所持仕候『女大学宝箱』に必至差構候に付、段々懸け合候得とも、元株と申居候品は実正ならざる物にて、先方左右に事よせ、一向埒明不申候に付、京都年行事衆中へ相頼、元株吟味成呉候様、被頼出候。且又江戸表へも、右元株と申す品、万一譲り等熟談可致も難斗候間、御心得置、彼地帳切等無之様、伝達致呉候様書付を以被申出候。則、夫々書状相認め通達致遣し候事。

と記載されている。すなわち、伊予屋はあくまでも『続女大学』の営業権を譲り受けたのであって、『続女大学』の元株ではないと主張するが、肝心の元株が曖昧なことが事件の解決を遅らせていたのであろう。天保二年二月二十日に「泉卯(和泉屋卯兵衛か)」所持の『株目録』を調査するなどしたが
*(十) 、状況が好転しないまま月日ばかりが経過した。
 天保三年に入ると事件はようやく収束に向かって動き出した
*(十一) 。二月二十日に、柏原屋は京都・江戸での『続女大学』の販売禁止要望書を大坂行司を通じて京都に送り、二十二日に届いた京都行司の返状を受けて大坂行司は柏原屋に早々に上京するよう要請したが、柏原屋はあいにく癪痛のため全快次第上京する旨を京都行司へ伝えた。
 三月七日、柏原屋は上京に際して大坂行司役付の同行を願い出ており、大坂本屋仲間では、本件に関する最近の書状や、京都・伊予屋が『続女大学』の販売権を取得した際の「売上証文」、また種々の帳面、新旧の株目録などを再点検した。続いて、上京の日程調整を行って、三月十四日、「仲間人別帳」「例年申合惣印形帳」「仲間惣印形帳」「京・江戸書状扣」「買板印形帳」「口上書扣」「京都行司状(天保二年一月〜三年三月までの六通)」を持参して、柏原屋および本屋仲間役付二名の合計三名が上京した
*(十二) 。
 この時、京都行司から『続女大学』新板一冊と古板摺りおろし二冊の都合三冊を借用した。しかし、元株の身元は依然として判明せず、三月二十四日の時点でも、あるいは『続女大学』が改題後の「女教物」に紛れていないかとの疑問が出される始末で、真相究明には程遠い実情だった
*(十三) 。
 その後、六月二十日には
*(十四) 、

一、柏原屋清右衛門より、『続女大学』一件に付、先達而より上京致被居候所、対談相済候由にて、其旨書付を以申出…

とあるから、柏原屋は再度単独上京して伊予屋と示談したのであろう。
 さらに、八月五日には京都行司より借用した『続女大学』新旧三冊を柏原屋を通じて返却させるように手配しており
*(十五) 、また、同月二十六日には『続女大学』の一件に伴う会合等の諸費用を大坂行司に支払っている*(十六) 。
 翌天保四年一月十一日の記録
*(十七) には、「『続女大学』、外題替に而相済、近日、留板相渡し可申旨申来候…」とあり、ここに二年半以上を要した類板訴訟が終焉を迎えた。
 この外題替え後の書名が家蔵本の内題『女孝行教訓箱』であろう。しかし、本書の最も重要な内容は「孝行」よりもむしろ「読・書・算」にあるため、適切な改題とは言い難い。恐らくは、当時出回っていた「女教物」の名称と重複・類似しないように便宜的に付けた名称と思われる。
 しかし、この類板訴訟にも関わらず、本書は天保五年の秋、名古屋において、再び『続女大学』の外題で再刊されたのである。家蔵本はこの時のものだが、刊記の「新刻」を信用すれば、初刊本の模刻かもしれない。いずれにしても、数年前の措置である「外題替え」がいとも容易に無視されるものかと若干の疑問も残る。
 この類板事件も、数カ月のうちに柏原屋の耳に入ってきた。すなわち、「出勤帳」天保五年十一月五日には
*(十八) 、

一、柏清殿より、尾州表に而『続女大学』出来に付、『女大学』に差支、口上書を以申被出、尤之義に付、京御行司へ口上書之写差入、売止め、板元伊予佐殿方御聞糺被遣候様、頼状遣し、則、京書状扣へ写し有之候事。右之趣、江戸表御行司中へ売止め被成被遣候様、頼書状差出し候事。…

と書かれており、すぐさま三都での販売停止を願い出ているが、「出勤帳」にはその後の消息が見えない。恐らく、柏原屋と京都の伊予屋、名古屋の玉野屋・藤屋など、当事者間での話し合いで内済したのであろう。
 これらのことから、三都の本屋仲間が比較的良く機能していたこと、また本屋仲間や書肆間で新刊の情報交換が活発に行われていたこと、類板・重板事件の際には本屋仲間が仲裁する場合と当人同士で内済する場合があったことなどが分かる。
 要するに、『続女大学』の類板事件は、『女大学』の書名の類似性とともに、『女大学』の本文や付録記事の内容(文章・挿絵)・意匠における模倣性が問題であったのであろう。
 これと同様の模倣としては、既に文化四年に三都で刊行された『遊女大学』
*(十九) があったが、「出勤帳」には単に

一、京都より『遊女大学教草』と申書、塩長取次に而、添章持参被出候へ共、風儀不宜候書に存、当地添章は不出候趣申聞、差返す。

とある
*(二十) 。結局、『遊女大学』の如きは艶書の類として正式な書物の扱いを受けずに放任されたのであろう。
 なお、『女大学』の改編本である「異種女大学」のほとんどが明治期の刊行で、江戸中期以前にはほとんど存在しなかったが(表参照)、その主な理由は柏原屋清右衛門が『女大学』の類板・重板を厳しく監視していた結果と思われる。しかし、天保の改革によって本屋仲間が一時解散(天保十二年十二月〜嘉永四年三月)すると、多くの書肆が『女大学』を刊行するようになった。
 その後復活した本屋仲間がかつての権威を取り戻したとは考えにくく、類板・重板の監視もかなりいい加減なものになっていただろう。また、『女大学』に関しても、柏原屋自身が文久三年までに『女大学宝箱』の版権を伊丹屋善兵衛や服部屋幸八らに譲渡
*(二十一) しており、その後、慶応二年に『新女大学要鑑』*(二十二) が江戸で出版された。だが、『大坂本屋仲間記録』には、この『新女大学』が出版訴訟の俎上にあげられた形跡を全く見出すことができないのである。
 すなわち、近世刊行の「異種女大学」のうち、最大の出版訴訟に発展したものが『続女大学』であった。柏原屋がいまだ多種多様の『女大学』を次々と出版していた時期であり、書名はおろか全体の構成、本文および付録記事の文新女大学章や挿絵まで随所に似通い、貝原益軒の著作と仮託した来歴(跋文)に至るまで『女大学宝箱』に酷似する『続女大学』の存在は、一世紀以上も『女大学宝箱』を看板商品にしてきた柏原屋にとって脅威にほかならず、到底容認しがたい出版物であっただろう。
 出版停止や改題による再刊等の措置もあって、『続女大学』はさほどの普及を見なかった。しかし、先に検討した通り、『続女大学』の刊行は、例えば「男女の別」や「七去」など『女大学』流の教訓が、庶民社会の実情に合わなくなっていたことを物語るものではないか。
 また、『女大学』の出版訴訟のほとんどは、『女大学』の本文を丸取りして書名、付録記事、体裁等を変更した単純な模倣に過ぎない。その中で『続女大学』は、外見上は『女大学宝箱』の印象を装いながらも、内容面では独自性を多分に含んだ往来として、近世「異種女大学」の中でも特別な位置を占めるものと考える。
 『続女大学』の頭書には「師をえらむべき事」という記事を載せている。そこでは、どんな稽古事も師匠が大切だが、とりわけ手習いの師が重要であると述べた後、「世間には、手習いが上達しない理由として、自分の指導力不足を言わずに、弟子の不器用や無精のせいにする師匠が少なくない」と昨今の手習師匠を批判し、「とにかく初心のうちに良い師について習うことが肝要である。無能な師匠では女筆は成就しがたい」と結んでいる。これなども、批判精神に満ちた現実重視の教育論であり、従来の女子用往来にはあまり見られない異色の記述である。
 以上を総括すれば、『続女大学』は、『女大学』をめぐる出版訴訟に興味深い示唆を投げかけてくれるばかりでなく、『女大学』が庶民にどのように受容され、あるいは受容されなかったのかを考えるうえでも重要なヒントを与えてくれるのである。

【注】 
(一)
『江戸期おんな考』五号(一九九四年、桂文庫)四十九頁。
(二)後述するように、『続女大学』の記録は、「出勤帳」四十一番(『大坂本屋仲間記録』第四巻八六頁)の天保元年六月五日の記録から見えるため、拙稿「『女大学』と柏原屋清右衛門」にはいくつか修正すべき点がある。
(三)享保元年・柏原屋清右衛門板(家蔵)三十八〜四十丁。
(四)『女用智恵鑑』は、家蔵の享保五年・柏原屋清右衛門板が現存最古だが、真下三郎著『書簡用語の研究』(昭和六十年、渓水社)三九三頁に「正徳二年三月、柏原屋板」の引用があり、真下三郎氏の旧蔵書に正徳二年板が存した旨をご本人に確認済みである。
(五)宝永七年・永田調兵衛板(家蔵)。巻之五・八〜九丁。
(六)この後の引用部で「殊には商人などのつまとなる身は…」と述べていたり、手習いについて記した箇所でも「ことさら商売家ぎやうのたすけともなり…」とあって、主要な読者として町家女性を想定していることが窺われる。
(七)この記事とほぼ同文の記事が、享保元年刊『女大学宝箱』の頭書(四十二丁オ)に載っている。
(八)『大坂本屋仲間記録』四巻(大阪府立中之島図書館編、清文堂出版、昭和五十三年)八十六頁。ただし、引用部は一部読みやすく改変した(以下同じ)。
(九)『大坂本屋仲間記録』四巻九十七頁。
(十)『大坂本屋仲間記録』四巻一〇七頁。
(十一)以下、『大坂本屋仲間記録』四巻一六一〜四頁。
(十二)同記録八月五日の記録(『大坂本屋仲間記録』四巻一八二頁)でこの時の上京の模様が分かる。
(十三)『大坂本屋仲間記録』四巻一六五頁。
(十四)『大坂本屋仲間記録』四巻一七八頁。
(十五)『大坂本屋仲間記録』四巻一八二頁。
(十六)『大坂本屋仲間記録』四巻一八五頁。
(十七)『大坂本屋仲間記録』四巻二〇二頁。
(十八)『大坂本屋仲間記録』四巻二八三頁。
(十九)『江戸時代女性文庫』三一巻(平成七年、大空社)所収。
(二十)『大坂本屋仲間記録』三巻(昭和五十一年)三三九頁。
(二十一)『大坂本屋仲間記録』六巻一三四頁(「出勤帳」六十四番)によれば、文久三年六月五日に伊丹屋と服部屋の両名が『女大学宝箱』弘化五年板・文久三年板の再板を願い出ているが、文久三年板以降は柏原屋の名が刊記から消えている。
(二十二)慶応二年、大和屋作次郎板(家蔵)。