ベントラー |
岩山に行ってベントラーと叫んでUFOを呼んだようだ
月面着陸した宇宙船が何故か移動
移動の根拠は発信する電波のドップラー効果が観測されたから
本当に移動したのかな
あのあと同期の小細沢も駒木も 死ぬまで信じていたのに。 |
マヤの地球終末予言が話題になったが、昭和40年ごろはUFOブームがあった。
月の裏側に異星人が住んでいて、地球に偵察衛星を送っている、という話が真剣に(一部で)信じられていた。
ある日「タカノハシ居るかぁ?」とか言ってO場先輩(応援委員のおひとり)が天文台に入ってきた。
1年生しかいなかったのだが、そのまま「望遠鏡で月を見せて」
「UFOを呼ぼう。みんなが ”Ventrah”(発音のまま) と念ずるんだ」
と延々話し込んでから帰られた。
「な」は後年50歳になって、この方に「先輩はUFOに遭遇したのですか?」
と尋ねる機会ができた。メールでの返信は「うーーん、そんなことがあった気がする」というものだった。
44卒(昭和41年入学)生は、甲子園50回記念大会出場組だな |
この期の天文部員は、大勢おって全部を思い出すことはできそうにないが。
と、試みに書き出してみたら、連想が続いておもしろくなり列挙することにした。失礼勘違いの段はお許しを。(以下敬称略)
現在同業者の近藤むねや瀬川Y、
疾風会に兄姉をもつ近藤いずM・なめ川良K・関たかO。
及川、玉山、中島T、高橋Y、樋口、藤原S、宮M、佐藤Hのり、
と相当ににぎやかな後輩でした。
仲もよかったみたいだから、今でも飲みに集まったりしてるんだろう。
(できることなら「な」ものぞいてみたい)
彼らのうち誰かだが、月の「全部」をスケッチしたのがいた。ガリレオかっ!http://chigaku.ed.gifu-u.ac.jp/chigakuhp/html/kyo/tenmon/moon/garireo/index.html
アルキメデスを描いたのは 後輩 Itoh君(43卒) |
アルキメデスは大きいし、「海」のように底面が黒いという特徴があるのでよく目立つ。
とはいえ、水があったというものではなくて、そういう地質なのだろう。
私は、たらい舟に入浴し、湯水があふれ出ているさまを連想してしまう。
飯塚まこ君は達者な筆でササッと描いた。
ぼかした陰影を付けるのではなく、線と点々で表現する手法を用いた。
しかも大きな声で歌いながら、用紙のまわりに似顔絵や落書きまで書いてしまう人だった。
さらに43年卒には、たき沢、うるし原、たちばな、おく寺くんらがいたが、望遠鏡を占有して月面観測にあたるのは一晩に3人くらいだし、彼等も練習作ぐらいは残しただろうが記録はない。
http://mo.atz.jp/meisyo/archimedes/index.htm
きみはガッセンディーを覚えていますか? コペルニクスはどう? |
ある人が竹内均先生のことをメールで教えてくれたけれど、あの黄色いベッコウメガネは天文学でなくて
(受験の)物理のテレビ講座の先生です。東大退官後は、雑誌ニュートンを発行しています。
月面図の解説書だったと思うが、鈴木敬信 というひとの本もよく読んだ。
それと一文字違いの名前の女子が天文部にいた。バレーボール部でもあった。
在京白亜会(43卒)のTsuruさんです。
http://mo.atz.jp/meisyo2/gassendi/index.htm
高田君はワルゲンチンというクレーターをスケッチした |
ワルゲンチン(ワーゲンチン)は台形というか、お盆を伏せた形の変わり者だ。
これをそれなりに書き表すのは難しくはないが、
隣接した普通の形のクレーターと比較すべく描くことが要求された。
それだけ時間がかかるし、途中でシーイングの悪化もあったのだろう、
私は高田君が残した完成図を見た記憶がない。
http:///www.h4.dion.ne.jp/~y.yanagi/Wargentin.htm
川村君はキャベンディッシュというクレーターしか描かなかった |
月面の地形は「月面図」で名前を知る。今は「月球儀」というのもある。
月面観測は、空が晴れているだけでなく、シーイングといって望遠鏡で見たときの大気の揺れ度合で善し悪しが決まる。これはだいたい冬季が安定している。
ゆらゆらしている像が、一瞬スキッと見える、その時に見えたのを陰影をつけて鉛筆で描く。
完成したら汚れないうちにフキサチーフ(定着液)を噴霧処理する。美術家みたいだ。
月球上で最大のクレーターはティコ・ブラーエだろう。口径がでかいのではなく、光条の広がりが大きいのだ。
光条は陰影というよりむしろ満月の時がよく見える。しかし、描くとなるときわめて難しいのだった。
天文学者、アマチュア天体観測者、 また思い出した |
当時の図書で月面観測を書いた 村山定男さん。
渋谷の五島プラネタリウム館長だったかも。
書きかけにしたアマチュアの 藤井旭さんは現役バリバリ。
今では天文年鑑の発行を手がけている。
「星になったチロ」は名作です。
オーイ 上高地は 寒くないか、白亜ゴルフは どうやった? |
天文関係のテレビ番組に活躍した 草下英明さんも思い出した。
山城天文同好会(京都)も、発足が盛岡天文同好会(現在も八木淳一郎代表)と
ほぼ同じ、年齢も同じ世代でしたので 盛一天文部長として 当時は文通交流もしました。
調べたら いまも活動してるものな↓(URL)
白河に愛犬チロの天文台を建てた藤井旭(漫画を描になっています。
みなさん、上高地で夜空が楽しめればいいですね。 |
佐伯恒夫さんに関連して思い出しましたが、図書で多くの影響を受けた先生といえば宮本正太郎と関口直甫。
前者は京都大学花山(かざん)天文台長、後者は東京大学天文台台長さんだったでしょうか。
私が月面で最も多く観測したのは、アリスタルコスでなかったかな。
嵐の大洋にあり、いろんな発光や発煙現象が観測されたといわれていたのです。
月面のふしぎ地形、活火山?、UFO基地とも言われるリンネ |
晴れの海にはクレーターは少なく、ポツッと小さく光る点みたいなのがある。
大拡大でみるとレーダードームのようなまん丸であり、(キノコでいえばキツネノチャブクロ)そのてっぺんになにやら凹(ボコ)=噴火口?が見える。
それが「赤い噴煙を出した」とか「ボコがなくなった」とか観測報告があいついでいる奇景リンネである。
私は望遠鏡をのぞく前に、八木淳一郎先輩(昭40卒)(現在の盛岡天文同好会代表)の鉛筆画を見て、なんとなく「見えた振り」して真似っこのスケッチを残した。
八木先輩の画は当時から図抜けて上手だったが、さらのそのお手本は、月や木星観測で有名な佐伯恒夫というアマチュア(東亜天文学会会長)のスケッチによると思われた。
http://www12.plala.or.jp/m-light/images/Atlas2/C4.jpg
めずらしい月面地形「オニール橋」の紹介 |
地球から望遠鏡で月面観測をするとき、ぜひ注目したいポイントがあった。
その代表が、危機の海の縁に南北から延びている二つの岬で、中央付近ではほとんど接触するほど近づいている。
その影と光がもれて見える微妙な形から、天然の橋であろうと言われていた。
しかも、1960年代に「オニール橋が崩壊した」という観測報告が発表され、本当なのか、と私らも鏡筒を向けたものだった。
現在、月面探査機による写真も見られるわけで、全然そのような跡はなく、案外に距離が離れた岬状の崖(クレーター壁の一部)である。http://moonstation.jp/ja/qanda/Q051
さざれ石が巌(いわお)となる証拠 |
このほど火星探査機キュリオスィティによって、火星に河川の流れがあったことの証拠が発見された。
表題のごとく、砂や小石がカルシウム化合物などで固化されついには大岩になったという様を示しているそうだ。
地球上の通常の風化では起こりえないし、これまで月面の地形にも見らえなかった非常に興味深いものなのだ。
次回からは、お月様の地形に関するエピソードなどを語りたい。
長屋ビルだと思ってたが、、、 |
角とは別の建物だったんですね。
それにしても「おもちゃのこじま」健在なの?
あの老舗おもちゃのこじま、隣 壊してる |
あの、わたしのぺースでは、
月や火星ののんびり話を展開しているところでしたが
(盛岡市)開運橋のひいふうみい、5叉路わかりますか?
「おもちゃのこじま」(桜城小学同窓だから60年は超える老舗店)
は角ではなく、隣にビルがあったのです。
ヤナセなど外車販売のビルとも違うのですが、想像できますか?
なんと 解体にかかっています。
野村学芸財団HP |
ヒデオちゃん野村学芸財団の投稿ありがとございました。
さっそく本HPのリンク欄に追加しました。
野村学芸財団 |
野村胡堂が創設した野村学芸財団のホームページができました
野村胡堂は研究者芸術家を目指す人達に恒久的に奨学金を遅れるように財団を作りました
来年野村胡堂の著作権が切れます ちょうどいいタイミングです
来月は紫波のあらえびす記念館で奨学金を受けた人達によるコンサートが行われるそうです
奨学金のためにソニーにはがんばってもらわないと
というかソニーをひいきしようhttp://www.nomuragz.or.jp/doushikai.html
火星は極寒、 平均−60度C (太陽から遠いんだから) |
成功した昨年までの火星探査機(続)
1997(米)マーズ グローバル サーベイヤー
1997(米)マーズ パス ファインダー(着陸)
2001(米)マーズ オデッセイ
2003(欧州機構)マーズ エクスプレス
2004(米)スピリット
2004(米)オポチュニティー
2006(米)マーズ リコネッサンス オービター
東京新聞2012年9月12日報道によると、 このマーズ リコネッサンス オービターが、上空から凍った炭酸ガス(ドライアイス)の雪が降っているのを観測した。
火星が赤いのは酸化鉄による。 |
火星を写真に撮って地球に送ってきたのは
1965(米)マリナー4号
1971(ソ連)マルス2号・3号
1974(ソ連)マルス4号・5号・6号
1976(米)バイキング1号・2号
と歴史的にいくつも挙げられる。
ここ10年も次々と新しい探査機が火星に向けられている。
衛星フォボスとダイモスは、球体でなくジャガイモ形なことがわかった。
ところでフォボスとは「恐怖」、ダイモス(ディモス)は「混乱」という意味なそうな。
米国アポロ計画の歴史的衝撃的感動の一幕でした。私は月が大好きです。 |
1969年7月20日でしたね、アームストロング船長の人類初の月面着陸は。
今は途絶えてしまったが、これまでに都合12名が月面を歩いている。
火星は好きというほどではない。くわしいことも知らない。
衛星のフォボスとダイモスは互いに逆向きに回っている、と聞いた。
火星の地面から空を見上げたら(誰が?)
2つの「月」が交差するのが観られるということか。
火星は地球の半分くらいの大きさだし、
火星の「1年」は地球の2年なんだと。(続く)
人類にとって大きな |
月に降り立ったアームストロングさんがお亡くなりになったそうだ
大学の英語の教科書でそのときの新聞記事をまとめたWe reach the moonというテキストを使ってました
学年末試験のとき時間割を間違え、欠席自由報告を携え先生にあいに行ったら困った顔をし閻魔帳を開いて
「あー、あなたならいいですよ。きちんと訳が出来出席も前回の試験も良かったから」あっさり「良」がつきました喜ばしい新聞記事だったから楽だったのです
訃報の出る前の晩陰暦7月8日夏の大三角形と天の川を見ました
見るのはこの夏最後でしょう 月末は2度目の満月ブルームーン
ご冥福をお祈りします
エチオピアからようこそ |
エチオピアって赤道に近いので暑いのかと思いきや、、、、
高山都市かな。いろいろ情報ありがとうございます。
疾風会は盛会だったようですね |
ホームページを見たら新しい写真が載っていて、あれ、去年の疾風会のものを載せたのかと思ったのですが、よく考えたらすでに8月14日を過ぎていました。全くそのように認識していなかったので、自分で驚きました。今年も出ることができず、残念でした。
まだエチオピアにおります。そうか、そういえば先日お盆があったばかり、世界的に8月なんですねぇ・・・。なぜ8月であることを忘れるかというと、ここは寒いのです。今日は珍しく朝からよく晴れていましたが、気温はいつもより低く、多分最高気温が20度にならなかったのではないかと思います。ベッドで寝ていても足が冷たく、湯たんぽが欲しくなります。こんな8月って、あり得ないでしょう?
被災地でお盆の迎え火と金星食の話 |
釜石の仮設住宅にくらすBamiさんから金星観察の報告が届いた。
金星と三日月が異常に近く見えた、というのだが
「月が逆向きに動いて金星を隠す」ということが金星食だというのに
どうも「月の影があたりの星を見えなくしていく」ものと勘違いしたらしい。
天文台かプラネタリウムに行って 天体模型を見せてもらおう。
「火星」に探索機が到達した。人類にとって 大きな、、、 |
すごく期待させられるニュースです。
探索機はキュリオスティと言うのか。 curiosity −−好奇心ーーだな。
だいぶ前のことだが、火星には「Mars パスファインダー」が軟着陸していて、火星の陸地のすごい写真を送ってきたのをよく覚えている。
パラシュートを使い、エアバッグの塊で包んだ探索機械を バウンドさせて無事着陸させたのだった。
1997年のことだった。
今度のは 動き回れるらしい。とんでもないのを火星から見つけられるかも知れんぞ。
いいですね。普通の観光ルートのときと違うところを通るのでしょう。 |
いいですね。普通の観光ルートのときと違うところを通るのでしょう。
またレポートください
エチオピアの片隅から(その2) |
もう一つ書かせて下さい。
エチオピアに来て驚いたことの一つは、町を走っている乗用車の8割以上、もしかしたら9割ほどがトヨタ車だったことです。一番多いのはランド・クルーザーで、さまざまな年式、さまざまな型式のものが走り回っています。他にはピックアップやカローラもよく見ます。
ただ、この国は車が右側通行ですので、ハンドルの位置が逆になり、日本の中古車はさほど多くはありません。それでも、ときどき、日本の元の所有者の名前を書いた中古車が走っているのを見かけることがあります。
先日も田舎道を走っていた時、ドアに漢字の書いてあるマイクロ・バスと出会いました。追い越しざまによく見たら「宮城県気仙沼市 龍之屋」とあります。この名前からすると、気仙沼の旅館が客の送迎用に使っていたものでしょうか。
恐らく数年前に下取りに出され、はるばると海を渡ってエチオピアまでやって来て、今こうして第二の人生を元気に送っている車なのでしょう。しかし、もしそれが数年遅かったら、あの津波に巻き込まれてこのような元気な姿は見ることがなかったかもしれません。
この世の転変を考えさせられました。
エチオピアの片隅から |
皆さん、お久しぶりです。
今、エチオピアにおります。先週と今週はアダマという地方都市に泊まっています。ここはアジス・アベバから東へ100キロほども行ったところにあり、樹木の多いアジス・アベバとは違って、周りはすっかりサバンナの半乾燥地帯です。
エチオピアはちゃんとした地図が手に入らない国で、この都市の地理的な位置がいまだによく分からないのですが、察するにここはアフリカの大地溝帯の底に当るところのようです。アジス・アベバがアビシニア高原の東の縁にあり、そこから100キロをかけて大地溝帯の底へ降りてくるわけです。高度の差は数百メートルはあるでしょう。そのため、アジス・アベバに比べるとここの気温は高く、雨も降ることは降りますが、年間雨量としては格段に少ないようです。
大地溝帯も今は至って静かです(当然ですが・・・)。しかし、かつてここに激しい地殻運動、活発な火山活動があったことは地層を見て察せられます。驚いたのは、分厚い火山灰の地層の上に、これも分厚い火山岩の地層が乗っているところがあったことです。こんな地層を初めて見ました。この関係が逆なら何となく了解できますが、げに自然は人知を超えたことをしてくれるものです。
人類の祖先と言われるかの有名なルーシーが発見されたのはここのもっと北の方ですが、彼女が生きていた200万年(?)前、この辺りでは火山がぶうぶうと火を噴いていたのでしょうか。
今日はここからさらに80キロほど離れた別の町に行ってきました。そこは大地溝帯を抜けた反対側の台地の上にあり、雨季のさなか、緑に芽吹いた広大な耕地がどこまでも広がっています。かのアベベ・ビキラ選手の出身地がこの辺りなのだそうで、スタッフらと彼の話で盛り上がりました。何でも、彼が東京オリンピックのマラソンで優勝してくれたおかげで、Tokyoはほとんどのエチオピア人の知る地名となったのだそうです。日本人にとっては、アベベ選手が、知っている唯一のエチオピア人というのと同じですね。
エチオピアから御挨拶まで。
高校野球予選は熱戦中ですが。「小田の浜海開き」だと。 |
あのー 昔話にかえりますが
気仙沼大島 小田の浜 で
ラジオ(三沢対松山商業)
を聴きながら1ダースのビール瓶を飲んで空にした
エピソードを 葛怪人との思い出として被災後 書いた。
彼が生き延びたことは聞いていたが、先日偶然会ったとき、あぁとしか声が出なかった。