2009.04.09 | ||
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巨石の上で眠ってみると……我流のシャーマニズム 法隆寺の夢殿は、神仏からのお告げを受けるためのシャーマニックな聖所であったとか。お告げを受ける方法は、夢の中で神仏を見ること、そこから何らかのメッセージを受けたという。
もう10年はたっているか、ヒマラヤトレッキングの最中のこと。午後の早い時間、その日の宿に着いた。4500メートルぐらいの所だったか、がれ場に小屋があった。天気は快晴で、日の出ている間は温かい。一休みしてから、まわりを歩いた。河原のような小石だられけの地面の所々に、植物図鑑で見たことのある黄麻(まおう)がへばりつくように生えている。この植物から日本人の化学者が塩酸エフェドリンを抽出したことで知られている。
別に、そんな質問をしようと思っていたわけではなく、唐突に、お告げが下りてきたといった感じだ。自分の寿命は、よく分からないが、そのときは、(当面)暫くは、この世にいるんだといった連絡を受信したような気持ちだった。 その頃か、いや、もう少し遡った時代かもしれない。甲府盆地の外れに大石神社という小さな神社がある。そんなに有名な神社ではないので、普段は、訪れる人も少ない。山裾の中腹に社殿があるのだが、その背後にご神体として、人家よりも大きな巨大な石がある。はじめて見たときはその大きさに驚いた。高さ12メートル、まわりは66メートルになるという。 ところで、この文章のはじめの方で、南インドのアルナチャラという山にある石室の写真を掲載した。 それは巨石の下に建てられているのだが、石室と巨石の配置は、大石神社の社殿と巨石の配置と全く同じだ。配置というのは、大げさすぎるかもしれない。単純なことで、要は巨石があって、そこに接して人が建物を造ったということである。そこには、巨石に対して同じような観念があったはずで、カミというか超越的な何かが巨石に宿る、降臨する、付く、そんな実感があったはずだ。 辺りは松の林。近くに大きな石が何個かあって、それぞれ名前がついている。これらは磐座(いわくら)といって、古代信仰でカミの降臨する石であったという説もある。 たしか初夏だったと思う。爽やかな風が松林を通り抜ける昼下がり、社殿の裏の巨石に登った。円盤型をしていて上部は平べったい。誰か、好奇心旺盛な人が運んできたと思われる金属製のはしごが置かれていて、上まで登れる。上は平坦で、日陰に横になるとひんやりして気落ちいい。松林の香りは、なんとも言えない清々しさだ。 と、そのまま寝てしまった。……「そろそろ時間だよ〜」と、子供の声に目が覚めた。小学生の男の子がはしごに手をかけてこっちを見ている。よくこんな所で寝てたのが分かったものだと感心した。そのときは夢は見てなかった。でも、直観的に、子供の言葉に何かのメッセージが含まれているのではないかと感じた。 そろそろ時間だよ〜か、これはこの世を去るときの合図を教えてくれたのかもしれないな、そんな気がした。わりと朗らかなノリなのが印象的だった。時間的には、もう少し先のようでいて、でもふと目が覚めた次の時といえなくもない。 考えてみると妙な気がしないでもない。占いや予言、お告げの話題はメディアでも盛んだが、自分の死期に関する話しはまず聞かない。本当は、誰でもいちばん気になることではないかと思うのだけど、現代の日本では、そんな設問自体、タブー視される雰囲気がある。わたしが石の上で受けたメッセージは、モロにそんな世界のことだった。 シャーマニズム、シャーマンの世界に関心を持っている人が多い。異界、天界、霊界、呼び方はいろいろあるかと思うが、そんな世界にコンタクトするシャーマンの技法を紹介した本も出ている。しかし、ここで書いているのは、全くそういった知識や情報とは無縁のところで、自分が偶然、体験した「方法」だ。 そして、この方法は、素直さ、大らかさと結ばれていて、変な危うさがないように感じている。変性意識の世界は、魑魅魍魎も跋扈している。魔的なものも、天狗や憑きものもいる。しかし、この方法は、そういった諸々が近づけないように強く守られているように思う。 わたしは不器用な人間で、新しいノウハウを学ぶことや練習を繰り返して何かを修得するなんてまず無理。自分は自分、すべて我流といったところ。世の中には、こんなタイプの人もいるのではないか。 そんな人たちに、試してもらえたらと思っている。どこかで巨石、大きな石と出会ったとき、そして、その時、その場の条件がうまく合っていたら、石の上で仮眠してみると、何か有益なメッセージを受け取ることができるかもしない。
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