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* 気ままにアンコール *

アンコール遺跡のいろいろを「気ままに」書き留めます。(もいっことかぶってる(笑
アンコール遺跡、マカラから変身
大きな画像あり!  
以下同じ
マカラから変身(メタモルフォーゼ)

彫刻の伝言ゲーム

こういうことを気にする人はいないと思う。
リンテルの左右のはしにいるカーラは、年月を経て鼻の長いシンハになった。名前わからない(笑
壁面にいるドヴァラパーラやデヴァタの壁がんの帯の左右や、破風の帯の左右の端っこにもいる。
バンテアイ・スレイのマカラが、最後かもしれない。
後年は火炎模様(唐草)かナーガ(たまにナラシンハも)。
マカラは「頭.・尻尾・足」だけのはずだが、いつのまにか「胴体・後ろ足」がついて、新しい?動物(鼻の長いシンハ)の誕生ってわけ。
それにしても彫刻の技術はほれぼれする。 2007.8.9(木)
アンコール遺跡、壁がん
左:Chau Sai Tevda
右:Takev

祠堂内の壁がん
ここに神像を奉ったのか?
但し、Chau Sai Tevdaは中国が修復している。(途中)
このようになっていたかは解らない。2007.8.6(月)
アンコール遺跡、突起
左:第2回廊内側
右:周壁東楼門西側

突起
よくある砂岩を運ぶための突起ではない。
それ以外の目的があったはず。一カ所だけならそう気にならなかったのだが、2箇所、それも同じ様な位置に横長にある。アトヴィアやワットに残っている突起は、運搬に使う紐を掛けやすいように丸くて出っ張りが高い。
設置してから削り残しているのだ。のみの跡が隣の石と繋がっているのがわかる。
最初は足場かと思ったが、違う・・・。
石工さんに写真を見せて訊くのが一番いいかもしれない。
石を彫るときこんな突起があれば彫りやすいか、または目印か、などと。2007.8.6(月)
アンコール遺跡、ライ王
Wat Pu=ワニの石

別窓で大きな画像あり!
ふと、思った。
この石の上で「生け贄」が奉られていたのではないかと。
レリーフは大概、凸状態で彫られているのが全てと言ってもいいだろう。(文字は別)
これは意味深な凹状態だ。何かを入れる器的な物と考えるのは自然かもしれない。
この周辺には他所には例がないというものが多い。
何かの儀式のための道具のように思える。
ワニの足下に女2人ぶんのオッパイのようなものが見えるが、困るなー。2007.8.6(月)

「アンコール・王たちの物語」石澤良昭・著より
都の近くに陵伽鉢婆山(リンガパルヴァタ山)があり、山上に社があって常に兵二四人をもってこれを守っている。城の東に名を「婆多利」という社があって、人肉を献じていた」 (「随書」巻二八真ろう伝)
アンコール遺跡、ライ王
左:ライ王
右:象の池の獅子

大きな画像あり!  
ライ王のテラスの像
ジャヤバルマン7世といわれ、ヤクシャといわれ、一体誰なのか?
ジャヤバルマン7世でないのは確かだろう。口元の牙がヒントかもしれない。
いつの時代に彫られたものなのか?
最近出版されたプノンペン博物館の蔵書目録(といっても30点くらいか?)には 「近年、時代はかなりさかのぼるという見解がある」というようなことが書かれていた。
「近年?はぁ?!」である。
アンコール遺跡を研究している方々が、今更なに寝ぼけたことを言ってるの?だ。
もっと早く気づべき!よく見れば違いはわかるはず。
この像は、かなり腕のいい彫師が頭部を彫っている。 髪型もいいし、顔つきが端正である。 首のしわやのどの感じ、口髭、顎、歯並び、牙、瞳・・・。 強いていうなら白人顔。
写真右は、クーレン山の「象の池」の獅子のたてがみである。
直感的にバンテアイ・スレイのドヴァラパーラと同系同時代のように感じた。
立て膝のポーズはこの時代に多い。
第三の目の筋も気になる。2007.8.6(月)

余談
石澤氏は、「この像は傑作でもなく、おそらくジャヤヴァルマン7世時代以後の制作である。」と記しているが、断じて違う!!「アンコール・王たちの物語」p.169-p.170
アンコール遺跡、基本模様
大きな画像あり!  
壁面・側柱の基本模様を集めてみた。
くどくなりますが(笑って!)
彫刻は、いくらかのパターンがあって、元の面影を残しながら大きくなったり小さくなったり、 またそれを意図的に、或いは勘違いしながら、伝言ゲームのように変化させていった。
が、あたしの持論。その根拠を集めてみた。
一つのパターンから派生していったと思う。

先に書いたように、経蔵に基本模様集のようなものがあり、それを貝葉に模写し現場に持ち出した。 貝葉であれば耐用年数は長くないから定期的に描き写しもあっただろう。
もちろん、彫師の腕・センスも加わり、多数の介在が変化を助長した。

ものすごい面積が彫刻で埋められてはいるが、基本パターンは多くない。
続きは左の写真をクリック!2006.9.4(月)

偽扉・蓮・はす・模様 偽扉の中央にある蓮の花模様を集めてみた。
大概、1つの偽扉には5つ。Pr.Kok Poのは3つで、青緑色の砂岩。
多羅樹の葉に、いろんな模様の記録がされたはずだが、劣悪な環境も加わり、残っていない。
側柱、リンテルなどの模様も変化し続けていったが、変化が進化と等しいわけではない。
個人的希望として。
金属製の(青銅など)板の様な物に、記録を残さなかったのか? それは、あったが人々が溶かして他の物に鋳造したのか? はたまた、どっかの地中に人知れず、眠っているかも?と思う。 腐って存在しないかもしれないが、例えば粘土のような所に埋まっていて・・・、無理やな。
しかし、中国の中山王陵では、2000年程前の銅板の設計図が1970年代に発見されている。 これは銅だったからか?青銅は腐食しやすいか? 素人なののでどれくらい耐久性があるかはわからない。 でも、何か残っていて欲しい。2007.8.6(月)
側柱 側柱も面白い。
円柱の物は仕上がりが奇麗。平行のボーダーがちゃんと平行。
以前書いたが、こけしやバットを作る要領で回転させながら彫っているはず。
そんな道具ってカンボジアのどこかにあるかも。
私的に、SPKの側柱が好き。(2006.7.3.月)
阿修羅 いつもデヴァターばかりやっているので、今度は阿修羅をやろうと思う。
自分の中の阿修羅感、巻き毛で牙があり四角張った顔、肩まで垂れた耳に円形の花の耳飾り。 (耳が垂れていない場合もあるが)
門衛神ドヴァラパーラには、仏陀顔と阿修羅顔がある。
たいがい開口部の左が仏陀顔、右が阿修羅顔。(トムの環濠に架かる橋の入海撹拌も)
彫師によっても彫り方が変わるのでなんとも言えないんだけど、一つの遺跡でも彫刻された年代が違うかも、という疑問が湧く。増改築されたということの証明みたいなもんか・・・。
ワット・プーにもいろんな年代の彫刻があるが、この阿修羅の写真はなんだか面白い。(2006.6.28.水)
ヒンズー教、仏教 タプロームは仏教寺院として建造された。しかしヒンズーの神々がささやかに彫られているのではないかしら。宗教のことは殆ど知らないが、こういうことも「あり」なのかもしれない。 写真が小さくて解りづらいが、9の神々の乗り物を現しているように思える。
旅のメモに書かれていたのを以下に書く。(メモ魔)
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PP博物館には横帯状態で四角い枠の中に一つずつ彫られている9の神々の彫刻があった。
日本語訳は違っているかもしれないが・・・
1-Surya、2-Candra、3-Siva(Yama)、4-Varuma、5-Indra、6-Kubera、7-Agni、8-Rahu、9-Ketu。
1-多頭馬、2-台座、3-牛、4-?、5-象、6-普通の馬、7-雄羊、8-蹴波、9-ライオン。
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タイ国立博物館
1-多頭馬、2-台座、3-鹿、4-さぎ・ガチョウ、5-象、6-普通の馬、7-山羊、8-波?、9-獅子。
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彫師は宗教のことなどは全く考えていなくて、図案があってそれを写し取っただけかも?
アンコール遺跡には沢山の図案集があったと推測する。同様に図面も増大な量があったのだろう。
経蔵は、経文が納められていたというより、図面・図案が納められていたように思う。
サムレはヒンズー寺院でそれにまつわる彫刻が多い。(2006.6.25.日)
円形の遺跡 円形に惹かれた。(少し楕円)トム北門からプリヤカンへの途中の林にあるクロル・ロメア。同名の遺跡はいくらかあるが円形ではない。同じような石の遺跡で円形、といえば英国のストーンヘンジ。最近知ったベトナム(フエ)のホークエン(虎園)のアレナ(闘武場)。 クロルロメアはどう?周囲の木々が伐採されて見晴らしが良ければ、何か違った考えは浮かばないだろうか。象の檻以外の使途はなかったか?柱をたてと思われる穴の数を数えたが妙に半端だったし、穴と穴の間隔も不揃いだった。ただ、2カ所ある出入口は東西向き。西側の入り口北サイドに僅かながら砂岩が使われている。西が広く東は狭いが当時はどうだったか。中央地点にラテライトの破片あり。(2006.5.14)
追記:象が夜寝る仕切られた空間として、220×250cmは狭くはないのか?一方でも開いていれば別だが、この作りだと廊下のようになった空間に象を追い込み、順に奥から一部屋ずつ仕切板を差し込んでいくことになる。
不自然。板を差し込むなら丸い穴はいらない。丸い穴というのは柱用と思われるからだ。(2006.09.06)
デヴァタ見比べ バンテアイスレイを基本に、同様式と思われる似通ったデヴァターをピックアップ。
サンポットは王によって違うという記述を読んだことがあるが、どうだろうか? そうするとプリヤピトウの12C前半というのは怪しくなるのだが・・・どちらが正しい?
写真左からバンテアイスレイ、北クリアン東の小さな祠堂、ニャムループ、プリヤピトウ、コンポントムのポスト・アンコールのデヴァタ。王宮東楼門・頭頂部のデヴァタも同系列。
髪型、垂れ耳、耳飾り、腰帯(サンボー・プレイ・クックのKのリンテルと同)ポーズ、おっぱいの乳首(わっ!)が共通。年代はいつであれ同系列のスタイル。
後年の彫り師が、どこかの遺跡を見て真似ることも頻繁にあったのだろう。しかしそれは、絶対的な王の不在の時期だけ?(2006.5.14)
追記: 中3つはクリアン様式。(2006.09.06)
アンコール・トムの南門は3段階を経て、今の姿になったようである。
この2重の開口部はその名残り。
南門だけでなく他の門も改築されてている。
また、門近くの周壁にくっついているラテライトの四角い建造物に出入口が見あたらなかったのでは部屋ではないと思う。北門の方は中に土砂が詰まっていて、死者の門には詰まっていなかった。
この建造物は各塔門左右内外にある。1塔門に4つということだ。殆どは崩れ落ち城壁についた土手のようにしか見えない。あ、南門の外側は片づけられたのか、記憶にない。
建造物が周壁とがくっついていたとしたら、門を閉じても出入りが自由ということになる。
自分ならどういう理由でここに建造物を建てるか?
思案中 アンコール・トム内と近辺の10〜11世紀前後を想像してみる。
もちろん城壁はないし、バイヨンも象のテラス、男池・女池、プラサット・スープラもない。
バプーオン、ピミアナカス、南北クリアン 、東のタケオ、南のバケン、バクセイチャムクロン、プラサット・バイ、

ちょっと休憩・・・


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