日本のロケット(戦後史)
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敗戦によって振り出しに戻ったロケット技術は、1952年3月14日の航空関連禁止措置の解除によって再び歩き出しました。1952年に保安庁(現防衛庁)内部にミサイル調査研究班が、1954年に東京大学生産技術研究所AVSA研究グループが、1956年には科学技術庁に宇宙関連組織がそれぞれ全く別組織としてもうけられました。1954年東京国分寺で手のひらに収まるほどの大きさのロケット(ペンシル型)での研究が始まり、翌年秋田県の道川勝手川口に初の宇宙基地が開設されました。
東大生研がロケット研究を始める頃、すでにロケットは液体ロケットが主流。なぜ固体ロケットから始まったのでしょうか? スモール イズ ビューティフル |
1957〜1958年までの国際科学行事;国際地球観測年は、日本にとっても世界にとっても宇宙への大きなステップアップでした。 ← Model Rocketでベビーを発射再現 両方とも実機大 High-Power Rocket K-128J-T → |
今は記念碑だけ
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ロケット研究の命は足?研究に勿論頭脳は大切。しかし時には脚力の方が重要なことも。ロケット追尾練習のため標的を頭に着けての砂浜全力疾走とか新しい宇宙基地候補地探しの全国行脚とか、失敗したロケットに向かっての匍匐前進とか、足の話題に事欠かない。 |
4回の失敗の後に
「失敗は成功より尊い」。 |
ジプシー:液ロ事始め文部省が固体推進剤によるロケット研究を先行する一方で、科学技術庁による液体ロケットの実験が始まったのが1961年。自前の実験場がなく、第1号機は1963年8月10日、防衛庁新島実験場で行われ失敗。今でもこの破片は三菱重工長崎造船所に保管されています。またすでに使用中止になった道川実験場でも14回の打ち上げを行い、1968年にやっと新設なった種子島宇宙センターへ本拠を定めます。1969年10月に宇宙開発事業団が発足。 |
オバQロケットLS-Aに始まった液体ロケットはLS-C、Q、N-Iと自主技術を開発しながら進むはずでした。ところが1967年の日米宇宙協力協定によってアメリカの技術を導入することになったため、自主技術開発は断念。計画にあったQ型ロケットは、文字どおりまぼろしになってしまいました。 |
N-I,N-II,H-Iアメリカからデルタロケットの技術を受け入れ、飛躍的に液体ロケットの技術を向上させ、ついに1977年にはアメリカソ連についで3番目の静止衛星打ち上げ国に。国内の努力もさることながら、アメリカ政府、企業、技術者の絶大なる支援がなくては実現しなかったでしょう。宇宙開発においても日本とアメリカの蜜月時代でした。 |
悲願達成 長年、日本の宇宙技術者の悲願であった、100%自主技術による実用ロケット、それがH2ロケット。1984年のGOサインから1994年2月4日の1号機打ち上げ成功まで、それこそ血のにじむ10年の努力によって、世界の最高水準の実用ロケットの自主開発にこぎ着け、悲願を達成したのでした。 写真説明 ←たけさき 大から小まで→ |