のろしから宇宙観測まで(日本)
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火薬の原料である木炭、硫黄、硝石のうち、前2つは日本でも容易に手に入りました。一方硝石は8世紀頃中国から、不老不死の薬の一つとして伝わったものが最初。13世紀に蒙古が来襲し古代ロケット兵器「火箭」で攻撃されたという話が有名ですが、詳しい研究によると、ロケット式の火箭ではなく弓の反発で飛ぶ火矢。確実なところでは、種子島に鉄砲が伝来する、16世紀だと考えられています。おりしも戦国時代、火薬はいつも供給に対して需要過大で貴重品だったようです。
日本人が初めてロケットに出会うのは、豊臣秀吉の朝鮮出兵。
文禄の役(1592)でロケット式火箭で攻撃を受けたことが記録されています。多く残っている当時の絵巻物にも、記述がないところをみると、当時の日本人にとって、鉄砲は知っていても、ロケットにはあまりぴんとこなかったのかもしれません。日本にロケットが上陸した最初の記録は、オランダ船リーフデ号に、鉄砲弾薬大砲とともに積み込まれていた火箭350本です。しかし全て分解され、鉄砲の火薬として使われたようです。
戦国時代から江戸時代の始め火薬や火箭の技術は、鉄砲や狼煙の技術として、伊賀甲賀などの諜報組織のみ伝承されました。17世紀も半ばになって長い太平の世が訪れ、その技術は流星花火(龍勢)となって人前に現れたのです。花火も火器がたどったように、始めは噴き上げ式、やがて技術が進化して打ち上げ式と変化していきました。
龍勢あるいは流星と呼ばれる「ロケット式火箭」を大型化した古代花火が、東海中部近畿に残っています。伝承民俗行事としてお祭りが行われています。日本だけではなくアジア各地にも残っているものが、ほどんど同様な大きさや形状であるのには、いささか因縁を感じます。
戦前戦中、日本では武器としてロケットが盛んに研究されました。砲弾の到達距離を伸ばす目的ではじめられ、戦争末期には特攻有人ミサイルという悲劇的結末になってしまいました。
しかもきわめて短期間の間に、同盟国であったドイツの技術を参考にしながらも、世界最高水準のロケット開発能力を発揮。しかし最高機密であったことと、資料や実機の廃却、技術者の散逸、忌まわしい思い出、等によってほとんど歴史から忘却されてしまうことになりました。
1952年の航空研究禁止解除に伴い、東大でロケットの研究が始まりました。歴史には残されていませんが、1945年8月15日までに世界の最高水準に達していた日本のロケット技術の、振り出しに戻っての第1歩がペンシルロケットです。今度は平和目的以外にいっさいの技術転用をしないと、堅く決心して。