ロケットの歴史

今日のロケットは、創意工夫の歴史の集積として、注目に値する。アメリカのスペースシャトルを例にとって見よう。スペースシャトルは最も高度に発展した乗り物のひとつである。発射台に立てて垂直にロケットとして打ち上げられ、宇宙船として地球を周回し、滑空する航空機として帰還する。そして数年の間には、他の宇宙船へとつながる。欧州宇宙機関ではヘルメス、日本ではホープが開発されている。やがて滑走路から飛び立ち、宇宙を航行し、飛行機として着陸する宇宙往還機が出現する。
 今日のロケットや未来の宇宙船の科学技術は、遠い過去にその根(ルーツ)があり、ロケットとロケット推進という大木の、文字通り千年にわたる研究と実験の結実である。


 ロケット推進原理が使われた最初のものは、木製の鳥であった。Aulus Gelliusの記述によると、Tarentum(南イタリア)という都市に住んでいたギリシア人Archytasという人のことが書かれている。紀元前400年頃、Archytasは木でできた煙を発する鳩を飛ばして、Tarentum市民を楽しませていたという。張り渡したワイヤーに沿って、蒸気を噴射して移動させていたものと思われる。その鳩は作用反作用の原理を利用していたが、17世紀まではまだ科学的な法則として、定まっていなかった。


 木製の鳩のあと300年頃に、別のギリシア人、アレクサンドリアのHeroは、ロケットと類似した汽力計と呼ばれる仕掛を工夫した。それにも噴射ガスとして水蒸気を使った。Heroは湯沸し鍋の上に、球状のコマを取り付けた。水を入れた鍋の下で火を燃して水蒸気を発生させた。水蒸気は管を通って球に運ばれる。球には2箇所の対向するように曲げられたL型の管が水蒸気の出口として取り付けられている。そこから勢い良く噴きだす水蒸気は球形のコマが回転する推進力を与えた。


(図:気力計;Hero機関)

 最初の本当のロケットの出現時期は、はっきりわかっていない。原始的なロケットのような仕掛はいろいろな歴史物語に散見できる。おそらく最初のロケットは、アクシデントであったろうと考えられる。漢民族の伝えるところによると紀元1世紀の頃、硝石・硫黄・木炭を粉末にしたものを混ぜ合わせた黒色火薬が作られていた。祭りとか催事で爆竹や花火の原料として、筒に詰められて用いられた。それらの一部は目的通り破裂しないで燃焼が緩やかに進み、火や煙を噴き出しながら飛んだり動き回ったりしただろう。

(図:火箭)

 漢民族は、筒状のものに黒色火薬を詰めた実験をしはじめた。はじめは火薬入り竹筒を矢に取り付けて点火し、弓から放たれた。しかしやがて火薬筒が噴射するガスによって作り出される推進力だけで発射できることが発見された。これがロケットの誕生となる。

(図:火箭に点火する中国兵)

 ロケットの初めての使用の記録は、西暦1232年の漢民族とモンゴル民族の戦いである。Kai-Kengの戦いでモンゴル民族の侵攻に対して、漢民族軍は火によって飛ぶ矢「火箭」を使用して追い返したとある。この火箭は固体ロケットの最も単純な形態である。一端を閉じた筒で火薬を被う。他方の端部は開放されている。長い棒に取り付ける。推進薬に点火すると、急速に燃焼し、熱とガスを発生し、開放された端部から高速で噴射するガスによって推力を得る。棒は単純な誘導装置である。その働きによって目的の方向に頭を向けて空中を飛行する。火箭の“武器としての効果”がどれほどのものであったかは明らかでないが、モンゴル兵に対する心理的効果は高かったに違いない。Kai-Kengの戦いのあと、モンゴル軍は独自のロケットを作り出して、ヨーロッパ侵攻に使用する。13世紀から14世紀にかけて、多くのロケット実験記録が残されている。イギリスではRoger Baconという名の修道士が、推進薬である黒色火薬を改良して、飛行距離を大幅に伸ばした。フランスではJean Froissartが筒の中から発射すると、より正確な飛行が可能であることを発見する。現在のバズーカ砲の先駆けである。イタリアのJoanes de Fontanaは、敵船舶を炎上させるため火薬推進による水面魚雷を設計する。

(図:水面魚雷)


16世紀になって戦争兵器としては使われなくなる。ドイツの花火製造者Johhan Schmidlapは、ステップロケットという花火をより高い高度に打ち上げるための多段式装置を発明する。大型のロケット(1段目)の中に中型小型(2段目)ロケットが内蔵した。1段目の燃焼終了後、2段目はさらに高く飛行を続け、はるか上空で炸裂し火花を大きく降り注いだ。これは今日の大気圏宇宙空間に飛び出す多段式ロケットの原理そのものである。
 この時期まで、ロケットは花火か兵器として用いられたが、ひとつ興味ある古い漢民族の輸送機の例がある。Wan Huという官吏が多数の推進補助ロケットを取り付けた椅子を組み立てた。それは座席に2つの凧を取り付け、47本のロケットを縛り付けたものであった。ある日、飛行のためWan Hu自身が座席に座り、ロケットに点火するように命令した。そして47の補助ロケットはいっせいに点火された。凄まじい轟音と、もうもうたる煙が巻き起こった。煙がおさまったあとに、Wan Huと彼の飛行椅子は消えていた。誰も何がWan Huに起こったのかは解らない。けれどもしそれが本当に実行されたのであれば、Wan Huと彼の椅子はバラバラに吹き飛んでしまったことだろう。火箭で飛行するにはいささか爆発しやすかった。


(図:Wan Huのロケット椅子)

ロケット工学は科学になる。

 17世紀後半、あの偉大なイギリスの科学者Issac Newton卿によって打ち建てられた。Newtonは運動力学の3つの法則を体系付けた。法則はロケットがどんな働きをし、なぜ大気圏外の宇宙空間を飛行できるか説明する。ニュートンの法則は、実際的なロケットの設計に影響を与え始めた。西暦1720年頃、ドイツのWillem Gravesande教授は、蒸気ジェット推進の模型車を組み立てた。ドイツやロシアのロケット実験家たちが45キログラムより大きい質量のワーキングを始めた。それらの中には発射の際に強力な噴射炎が地面に大きな穴を空けてしまうものもあった。
 18世紀から19世紀の初めにかけてロケットは再び戦争兵器として再登場する。1792年と1799年の抗イギリス戦に使われたインドのロケット弾幕の成功は、大砲術専門家であったWilliam Congreveの関心を捉えた。Congreveは英国陸軍に使わせるロケット砲を設計した。
 Congreve砲は非常に高い成功をおさめた。1812年のFort McHenry戦で英国船が使用した。それらはFrancis Scott Keyに「ロケットの赤い炎」(後に星光芒旗の元となる詩の一節)を思いつかせることとなる。
 Congreveの業績によっても初期のロケットの命中率は、あまりはかばかしいものではなかった。戦争ロケットの威力は命中率やパワーではなくその数だった。典型的な包囲攻撃の間、数千もの数が敵に射ち込まれた。世界中でロケット研究者は、命中率を向上する研究を進めた。イギリス人William Haleはスピン安定という方法を開発した。この方法は、噴射ガスがロケットの後方に取り付けられた小さいベーンに当たって、飛行するロケットに弾丸のようにスピンを与えるものである。その仕組みの流れは現在も使われている。
 ロケットはヨーロッパ大陸の至る戦闘で使用され、成功をもてはやされた。しかしプロシアとの戦いで、オーストリアのロケット隊は、手ごわい新設計の砲兵小隊に出会った。砲身込め式大砲による爆発弾頭は、最も性能の良いロケットより、はるかに戦争兵器として効果的であった。再びロケットは平和時使用に帰属させられた。

現代ロケット工学の起こり

 1989年、ロシアの学校教師Konstantin Tsiolkovsky(1857-1935)は、ロケットによる宇宙開発のアイデアを提起した。彼が1903年に出版したレポートで、Tsiolkovskyはより大きい領域へロケットを飛行させるために、液体推進剤の使用を提案した。Tsiolkovskyは、ロケットの速度と到達範囲が、噴射ガスの排気速度だけによって規制されると論じた。彼の考察、念入りな研究と、壮大な展望が評価され、Tsiolkovskyは現代の宇宙航行学の父と呼ばれている。


(図:Tsiolkovskyの設計ロケット)

 20世紀初頭、アメリカ人Robert H.Goddard(1882-1945)は、ロケット工学の実地実験を行った。彼は気球到達可能高度より、更に高い高度に到達する方法に興味を持っていた。彼は超高層に達する方法と題した小論文を1919年に出版している。それは今日気象観測ロケットの数学的解析であった。彼は論文において、ロケット工学にとっていくつかの重要な結論を導いた。彼は実験から、ロケットは真空中で大きい効率を発揮すると述べた。その頃、大部分の人々はロケットは周囲の空気を押して飛ぶものという誤った考えを持っていた。そしてニューヨークタイムズ紙はGoddardを「高校生でも知る物理常識を欠いている」と嘲った。Goddardも多段式ロケットが、高高度へ到達するために有効であること、地球の引力を振り切るのに必要な速度が得られることを述べている。
 Goddardの初期の実験は固体ロケットであった。1915年、固体燃料のいろいろなタイプを試して、燃焼ガスの排気速度を測定し始めた。固体ロケットの実験を通して、ロケットは液体燃料がより効率よく推進することを確信していった。


(図:1926年のドクターGoddard号)


 それまで誰も液体ロケットの打ち上げを成功したものはなかった。固体ロケットよりはるかに困難な仕業であった。燃料と酸化剤タンク、タービン、燃焼室が必要とされる。その困難にもかかわらず、Goddardは1926年3月16日、最初の液体ロケット飛行に成功した。液体酸素とガソリンを燃料としたロケットは、飛行時間2.5秒、上昇高度12.5m、56m飛行してキャベツ畑に着陸した。今日の常識から考えると、その飛行はあまり印象的ではないかもしれない。しかし1903年のライト兄弟による最初の動力飛行成功のように、Goddardのガソリンロケットは新しい時代の先駆者であった。
 Goddardの液体ロケット実験は、長年にわたって継続された。彼のロケットはだんだん大型化し、より高い高度に飛行した。彼は飛行制御のためにジャイロスコープシステムと科学的計測のためのペイロード室を開発した。パラシュートを取り付け、安全にロケットや搭載装置を回収した。Goddardは彼の輝かしい業績をたたえて、現代ロケットの父と呼ばれている。

 3人目の偉大な宇宙空間へのパイオニアは、ドイツのHermann Oberth(1894-1989)である。彼は1923年に、ロケットによる大気圏外空間への旅行について本を著した。彼の書物は、重要だった。その本に触発された小さなロケット研究組織が、全世界にたくさんわきおこった。ドイツで組織されたVfR(宇宙旅行協会)などは、その後V-2号ロケットへの発展に至る。そしてそれは第二次世界大戦でロンドンにミサイルとして撃ち込まれた。1937年、Orberthやドイツの技術者は、バルチック沿岸のPeenemundeに集められた。そこでその頃最も先進的なロケットが、Wernher von Braunの指揮の下で開発された。


(図:ナチスドイツのV-2号ミサイル)


 V-2号ロケット(ドイツではA-4と呼ばれている)は、今日のロケットに比べると小型である。それが7秒毎に1トンの速度で液体酸素と酸素の混合物を燃焼させることによって、大きい推進力を獲得することを達成していた。一旦発射されようものなら、街の一ブロックを殲滅することができる恐るべき兵器であった。
 ロンドンと連合国にとっては幸いにも、V-2ロケットの登場は遅すぎて、戦争の結果を変えることは出来なかった。戦況が悪化する中、ドイツのロケット科学者とハイテク開発技術者は、大西洋を越えて、アメリカ本土に届くミサイルを計画を持っていた。これらのミサイルは、上段に小さな翼と弾頭を取り付けられたものであった。
 ドイツの敗北によって、多くの未使用V-2ロケットと組立部品が連合国によって押収された。多くのドイツ人科学者がアメリカ合衆国に渡った。またソ連に行ったものもあった。Wernher von Braunを含めドイツ人科学者はGoddardの業績に驚いた。

 アメリカ合衆国とソ連はそれぞれ、ロケット工学の軍事的発展性をはっきりとさとって、いろいろな実験プログラムを開始した。はじめアメリカ合衆国は高高度の大気観測ロケット(Goddardの初期の案のひとつ)で、プログラムを開始した。後に中長距離大陸間弾道ミサイルが開発された。これらがアメリカ合衆国の宇宙開発計画の原点となる。レッドストーン、アトラス、そしてタイタンは結局宇宙飛行士を宇宙空間に運ぶために使用されることになる。
 1957年10月4日、世界はソ連が打ち上げた地球周回軌道の人工衛星のニュースに唖然とした。スプートニク1号と呼ばれたその人工衛星は、二大超大国の間に繰り広げられる宇宙競争の、最初の成功した出場者であった。1ヶ月足らずして、今度はLaikaという犬を乗せた衛星を打ち上げた。酸素の供給が尽きるまで7日間Laikaは宇宙空間で生存した。
 最初のスプートニクの数ヶ月してようやく、アメリカは独自の衛星によってソ連の背塵を追った。エクスプローラ1号は、米国陸軍によって1958年1月31日に打ち上げられた。その年の10月に、アメリカ合衆国は、航空宇宙局(NASA)を設立し、正式に宇宙開発計画を開始した。NASAは全ての人類のための宇宙空間の平和的探求を目的として非軍事機関とされた。
 やがて多くの人々や機械が宇宙空間に打ち上げられた。宇宙飛行士は地球周回軌道を回ったり月面に到着したりした。ロボット宇宙探査機は太陽系惑星に旅立った。宇宙空間は突然、宇宙探査と宇宙の商業利用に開放された。人工衛星は、私たちの世界の革新するような研究をもたらし、気象予報や、世界中での即座な通信を可能にする。より大きいペイロードの要求に応じて、強力で高性能のロケットが開発されなければならなかった。
 開発と実験の黎明期素朴な黒色火薬を利用したものから、今日外宇宙に航行する巨大な宇宙船にまで発展した。ロケットは、人が直接宇宙を探求できる手段として、宇宙を開いた。

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