在京疾風会・電子掲示板(99年7月〜9月)

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GSはガス・スタンドでヤンス
投稿日 9月30日(木)00時56分 投稿者 星 邦彦 削除
 DSは当たり!。ゲーセンはGCのような気がするが…… 30年頃は6球スーパーのラジオから流れるダイアナを現白堊会館辺りにあった水泳部の部室で聞いていたわけで、ICチップなど影も形もなかったからゲーセンなどはなかった。GSは、中川石油のスタンドです。場所がチョット違うかも。
 なお、10月23,24,27,28,29は予定あるので11月頭はいかが、週末の夜都内での方が人が集まるならそれでも可。HP中身濃すぎて大変。では……

菜園界隈
投稿日 9月26日(日)09時14分 投稿者 佐藤 泰久 削除
中屋さんの話だと一高野球部のみなさん、菜園の近くだったんですね。それでせいチャン
とこに集まってたわけだ。

かわって星さんのほうのお話で、市立図書館は今の上田に移る前は、近くの公園下にあっ
て、木造で手前側に学習席、奥に書庫、いずれも狭いところでした。でも県立図書館は高
校生以上しか入れないので、中学校まではよく行きました。DS(デートスポットですよ
ね)だったんですか。県立は、今の岩手日報社のところにありました。逆に、岩手日報は
今の県立図書館のところにあってよく鉛欲しさに落ちてる活字を拾いに行きました。鉛を
溶かして鋳型でいろんなもの作ってまして、天文部室の合鍵も鉛で鋳造してました。岩手
日報と県立図書館の場所は緑化計画の関係で場所をチェンジしたんですかね。

市立図書館の隣りの石垣下の広場ではよく野球をしたものです。当時はずいぶん広いと思
ってたけど(いくら打っても石垣まで飛ばない)、今見るとけっこう狭いんですね。中川
(突き当たる前の左手、GSはゲーセンでいいんですか?)というのは知らないです。い
まその付近にはミサワホームがあるのは思い浮かぶのですが。そのうち「イワテライフ」
のまるとさんにお願いして菜園界隈調べてもらお。

稿を改めますが、作家の高橋克彦氏の「緋い記憶」中の記述から「菜園老松町」を逆探知
しましたので、紹介します。

掲示板オフミ、ぜひやりましょう
投稿日 9月26日(日)09時07分 投稿者 佐藤 泰久 削除
皆さん神奈川が多いんですね。お察しの通り私も横浜ですので好都合です。M旗振るとい
うのは(しかも1.5x)何十人規模の会場でしかできないでしょうから、公園近くの会
場にして、宴会で勢いつけてから公園で振るという趣向が良いのでは。

そうすると、自然に中華街−山下公園となりますが...。会場探しと人集めで余裕をと
って10月末あたりというのはいかがでしょうか。

マントは寄宿舎にあったよ
投稿日 9月24日(金)00時40分 投稿者 星 邦彦 削除
上田校舎敷地内にあった自彊寮には32年当時最低でも3着のマントがありました。それを装着(?)して10月の試験休みに2年の応援委員で十和田に行ったおりの写真があるので当方のHPが立ち上がったらお見せします。帽子が代々伝わるという説は「オガシグネガベガ」。頭の大きさは結構個人差があるもんで合わない帽子は格好が付かないと思う。それと繊維状になった学生服というのも極端すぎて、わざとらしくただ異様に見えるだけでチットモ質実剛健に感じないで「ヤバツネ」だけのような気がする。2年間学生服を着のみ着のままでいたけど、木綿はそんなに傷むものではかった。ただし臭くて他人にやれるよう状態じゃなかった(いくら洗ってもとれない)。
 また、ヤッチャンちの辺りから岩手公園に向かって行き突き当たって右に坂を下ったところに小さな市立図書館があったと思うが、当時の高校生のDSだった。県立は人の目が多くて×。突き当たる前の左手に中川というGSが今でもあると思うがそこのおやじは附中の同級生です。また、ヤッチャンちの前の住人の隅田さんの娘も小・中で同級生。
 ところでヤッチャンはハマッコですか? オバトクはそうです。府金選手も同じ。小生は相模原。オフラインミーティングするなら1.5倍のM旗振れる所だといいが、「話しコ」するだけでも喜んで出かけるよ。10人も集まれば楽しめるでしょう。

八幡宮・山車(だし)満載のHP紹介
投稿日 9月23日(木)07時04分 投稿者 佐藤 泰久 削除
発見しました。「もりおか歴史の記憶探求館」というところで
URLは下記です。そのうちリンク許可をもらおうと思います。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~taka-34/index.htm


不思議なマント
投稿日 9月23日(木)06時56分 投稿者 佐藤 泰久 削除
金丸君の話のなかで2つばかりRES。

マントは冬になるとチラホラ着ているヤツがいたので、どこで手にいれてるの
か不思議に思ってたものでした。今考えると自彊寮に代々伝わってたものでは
ないでしょうかね。どうも、柔道部と自彊寮と応援委員会は1本の線で繋がっ
てた感じがします。そいえば杉村公正君はその必要十分条件を満足しておりま
した。

それから帽子のヤブレ具合ですが、我々が3年のとき、応援歌練習で徘徊して
いると、スゴイ芸術的なヤブレ帽子を被ってる1年生がいたのでハタと足を止
めたことがありました。後の8回目甲子園出場時の応援委員E君でしたが、兄
たちからの代々の譲り受けと考えられ、さらに10年後の金丸君が唖然とし驚
愕した9回目甲子園出場時にはメジャーなスタイルとなって定着していたわけ
です。3年モノではあれほどボロボロにはできません。

ところで9回目出場時の甲子園での大音声(だいおんじょう)は前代未聞だっ
たですね。歌ってるほうがこんな大声出していいのかなと思ってましたから。
甲子園のみなさん、さぞビックらこいたことでしょう。

PS.山車の太鼓たたきは皆うらやましがってたんだ。俺は叩いたゾっていう
方はおられないでしょうか。

菜園界隈の若者たちはいま?
投稿日 9月22日(水)22時52分 投稿者 中屋重行 削除
「オバトク」一塁手は菜園公園下の設計事務所、「大窪明」捕手は大沢川原リスト教会善隣館向の声優の兄上の歌声がきこえました。「千田栄紀」外野手は櫻城小学校間近の千田電器。大通り向いの瓦屋根の長屋で私達は菜園かいわいの一高生3人の甲子園での活躍を信じてました。・・40年後の今でも。。。

ありゃ、おショスごど
投稿日 9月22日(水)07時00分 投稿者 佐藤 泰久 削除
「小学1年」「家の右手の路地」、「ニコニコ顔」、「サガシソーナ(!、僭越ながら)」
と揃うとまず間違いありませんね。その当時の菜園亀楽町には該当する人物があと二人い
ますがどこかしっくり該当しないところがありますので。しかしまぁ、その昔遭ってたと
はこれはまた奇遇です。当時はせいチャンのところはしょっちゅう「マガッテ見デイダ」
り、「遊びサ」いってたり、チョコマカ動き回っていましたので。

でも、小1だったせいかさすがに「オベデマ」せん(スイマセン)。前にも書きましたが
小3のころに、大窪捕手ら一高野球部の連中が4人くらい来てたのは覚えています。
「家の右手の路地」の奥の家に住んでいましたが、今は「東北土地開発」になってますね。
小原さん側と反対側の隣りには松尾鉱山の広い車庫があって、これもいい遊び場でした。
斜め向かいには「原っぱ」もあったし、「三丁目の夕陽」さながらのところでした。

土地カンが薄れてる方のために付け加えますと、菜園亀楽町というのは大通り一丁目の
「カワムラ床屋」や「吉田八百屋」のところからカワトク側(当時でいうと魚市場側)
へ2本入った通りのことです。前に紹介した高橋克彦の「緋い記憶」に出てくる彼が住
んだ菜園老松町は、さらにもう1本カワトク側へ入った通りだったと思いました(これ
は自信がない)。

こりゃもう、今年は「掲示板オフラインミーティング」やらないと納まりませんね。

ヤッチャン オベデルヨ!!
投稿日 9月21日(火)20時29分 投稿者 星 邦彦 削除
 中学3年の頃、オバトクの所に何回か遊びに行った。玄関前の石段のところで話していると、家の右手(路地かな)から、初学1年生ぐらいのニコニコ笑顔の「サガシソーナボンズ」がちょこちょこ顔を出して「マッガテ見デイダ」のを覚えているがあのときのボンズが情報屋ヤッチャンだな。オベデルヨ!! 中学の時から「コキタネ」格好をしていたけど印象に残っているかな。
 テレビのニュースで八幡サマの山車が出ていたけど昔とあまり変わらない素朴さがあった。芸者さんが乗っていた山車もあったような気がするけど… 前で太鼓を「ドンコドンコヤレヤレ」と叩いていた判子屋のスッペがうらやましかった。何たって学校休めるもんな。蛇(蝦蟇じゃない)の油売り、10円札をそっくり複写できる薬、毎年「おととしの火事で…」と口上を述べる万年筆売りなど様々な眉唾っぽい露天商。「仙北町で生まれた蟹男」などの見せ物。お祭りはワンダーランドだったなア。
 ところで我ら頃の文化祭は、天文部は言うまでもなく化学部は「噴火山の模型」(本物そっくり)、物理部は「光は曲進する」と題した実験などなど俺ら体育科にとっては「タンマゲダ」出し物でいっぱいだった。応援委員と寄宿舎の出し物も味があった。そして小学校の頃、夜の校庭で一高天文部の先輩が星図版を手に星空の観察を優しくわかりやすく手ほどきしてくれた。破れ帽子につぎはぎ服に腰に手ぬぐいで……中屋君は星空を私は破れ帽子を(名前は星なのに)見ていたので一高の天文部に、私は一高の応援委員に、オバトクは野球ばっかり見ていたから一高の野球部に入った。

弊衣破帽
投稿日 9月18日(土)01時25分 投稿者 金丸三郎 削除
とりあえず、
仁王小学校の頃、山車をもっている町内、例えば油町などの同級生が
堂々と休んでお祭りに参加するのを、
新興の住宅地である北山地区の私なども本当にうらやましいと思っていました。

弊衣破帽は、確かに村野井さんが言われるように、
モノを昔から伝わっていると称するところがあったのだと思います。
入学時に購入したものでもじっくりと着古せば、結構古めかしくなり、
また、当時は兄からのお下がりを着るということも普通のことでしたので
多少の「手入れ」で比較的容易に苔むすようになったのではないでしょうか?

私なども帽子は裏をはがして軽石でこすり、屋根の上で風雨にさらす・・・
ということをしていました。
新しいあるいはちゃんとしたものを、破り上げることによる
一種の美学のようなこだわりを持っていましたが・・・。

それにしても53年(?)の甲子園のときにマスコミで取り上げられたような
弊衣破帽ぶりは、想像を超えたものでした。
実際甲子園で見たときも、唖然としたものです。

何でだろうなあと考えたことがあります。

伝統が連続的に受け継がれたときには、
直近の先輩からの一定の情報量に支えられ、
変化の度合いも割合緩やかに推移する。
しかし、断絶があったときには、限られた情報量の中で
様式を手探り状態で模索する、
いわば「弊衣破帽・質実剛健」という言葉の意味合いを想像と創造によって
表現することでデフォルメされる。
のではないかと思います。

我々の頃は、下駄履き自体も年々消えつつあったようですし
伝説の杉村にしても伊藤にしてもおとなしい服装でした。

不思議なことは、冬に着るマントはそこそこ使えるちゃんとしたものが
いつの間にか出てきたことです。かなり重宝して使わせてもらっていましたが、
自彊寮にでもあったのでしょうか。
そして、その後あれは何処へ行ったのでしょうか?




遅ればせながら八幡宮大祭の山車(だし)です
投稿日 9月17日(金)21時57分 投稿者 佐藤 泰久 削除
盛岡大通りにあった八幡宮大祭のポスターです。も少し早く載せればよかった
ですね。「ヤレヤレヤレヤレー、ドドンガドン、ドンドンドン」と聞こえてき
そうです。

「イワテライフ」のまるとさんは、あの太鼓をたたく子供たちは学校を休んで
るのかなと疑問を呈していましたが、ズバリ休んでいるのです。桜山さんの近
くの小学生は皆休んで山車に載って太鼓たたいていました。

学校休んだうえに山車に載って太鼓を叩くなんて、関係ない地区の私などはず
いぶんうらやましく思ったものです。

http://www.bekkoame.ne.jp/~yasatou/dasi.htm


文化祭今昔
投稿日 9月17日(金)21時52分 投稿者 佐藤 泰久 削除
ふーむ、長者番付はうっすらと読めてきました。

村野井さんのころの文化祭は私らのころと似ているのではないかと思います。文化部
関係者は徹夜の連続で文化祭に取り組んでいました。見学者も多く、説明陣も手ぐす
ね引いてやっていました。

今回の白堊祭で大きく違うのは

・クラス展示をしている・・・下記URLに「展示案内図」を載せましたが、クラス
展示が多くを占め、運動部も含め一般生徒が参加できる形になっている。ただし、ダ
ーツ、カジノ、お化け屋敷、の遊び系、喫茶店、駄菓子屋の模疑店系、あるいは映画
上映、といった催しが主です。これらは「Web白堊祭」写真にはほとんど載せませ
んでした。

・説明が少ない・・・我々のころは大量の模造紙を使って説明ビラを貼りましたが、
今回はそれは少なかったし、説明員がへばりついて説明するというスタイルではなか
ったですね。なかにはパソコンでの説明(自彊寮=無人)、ビデオでの説明(地学研
究会=無人)というのもありました。これらの器材は我々の時代では考えられないも
のです。

・お客さんの数が少ない・・・クラス展示があるために一般生徒の数が多いのに対し、
外部のお客さんが昔より少ないように感じました。昔のことは記憶がおぼろげだし、
時間帯にもよると思いますので、感想程度ですが...。

村野井さんご希望の化学部は写真の通り、「ドライアイスとアルカリ系の発色反応」
「炎色反応」「チャッカマン改造ピストル」の実演をやっていました。模造紙による
研究発表がなかったのでちょっと拍子抜けでした。それと、「東大の砂」「一高の砂」
とあるのは、ガラスをふいごで吹いて小さな自作丸瓶を作りその中に東大や一高の校
庭の砂を入れたもので1ケ100円(だったかな)で売ってました。黒板に書いてあ
るのが効能書きで、受験に霊験あらたかとか。

http://www.bekkoame.ne.jp/~yasatou/hakuatenjizu.htm


盛岡市 内丸から
投稿日 9月16日(木)18時06分 投稿者 中屋重直 削除
盛岡は本日は好天気で、 八幡さまのお祭り中なので 朝から内丸界隈は ヤーレヤーレ ヤーレ、 ヨイサーヨイサーエー、
の山車(ダシ)で 騒々しいです。

白堊祭(当時は文化祭)でのプラネタリウム製作は 1年生にとってのたいへんな試練だったな。

長者番付
投稿日 9月16日(木)11時41分 投稿者 村野井徹夫 削除
 1963年の文化祭での「長者番付」は文化委員長の私が剥いでしまいました。セクシャルハラスメントなどという言葉は知らなかったけれど、文化祭の責任者としてこれはまずいと思って剥いでしまいました。泊まりこんでいて朝早く気がついて処理したので実際に目にした生徒は何人いたか。

 文化祭は開会式のあと、展示も見ずにぞろぞろ帰る生徒でいっぱいでした。校友会誌(?)の文化祭総括報告に運動部の試合にみんな応援に行くのと同様、見て欲しいと書いた覚えがあります。その運動部もグラウンドで練習していて文化祭などそっちのけでした。あの頃は模擬店など考えられなかったけれど,今はどうですか。新聞部・社研部というような硬派だけでなく、発表の場として真面目に取り組んでいました。展示を見ずに帰る生徒も多かったけれど、それでも身動きできないほどいっぱいで一般の人も沢山見に来てくれました。1年生のときは1日で60回くらい説明した覚えがあります。

「セイちゃん」登場! 熱烈歓迎!
投稿日 9月15日(水)19時38分 投稿者 佐藤 泰久 削除
ほんとに何十年ぶりでしょうか。「隣りのセイちゃん」いらっしゃーい。

私らの年次が在京白堊会の幹事団になったもので、事務局の山田君・船越さん
と相談して今年からこのHPを開設し管理を引き受けています。そして村野井
さんがやってきて女鹿投手時代の話題になって、さらに星さん中屋さんが登場
して小原さんを知ってるよというわけで、タモリの「いいとも」みたいに電脳
再会がトントンと実現してしまいました。スバラシー、HP管理人の役得、上
記のみなさんに大感謝です。

つもる話はヤマほどあって書ききれませんが、まずはひとつだけ。セイちゃ
んのお母さんに試合結果を知らせに行くと、その当時は連戦連勝ですから
「また勝ったー、セイちゃんは打ったよ」という話になるのですが、お母さん
は裁縫しながら必ず「エラーはしなかったかい」と聞いていました。母心な
んですね、勝ち負けよりもエラーしないほうが嬉しかったようです。ああ、
懐かしの菜園亀楽町〜。

「情報屋ヤッチャン」と言われてみると、なるほどそういう面もあるのかな
とハタと気付きました、仕事では生かしきれてないなと(^^)。しかしマア、
あの小学生も、もうオヤジです。

この掲示板は昭和34年卒付近の先輩が元気がいいですから、ご遠慮なくど
んどん書き込んでください。甲子園まであとひと息だったあの時代の話、聞
きたいなー。マイペースでけっこうですから、ぜひお願いします。

在京疾風会に おジャマしまーす
投稿日 9月15日(水)08時48分 投稿者 小原徳政 削除
皆さん、始めまして。 昭34卒の「オバトク」の登場です。 7月20日付 同期の星さんから
の葉書の余白に「白亜のインターネットで小原、大窪、千田、女鹿さんが話題になっているよ
(HPの中のチャット)」と一言。 このメモを頼りに、ネット検索で色々苦労しながら「在京疾風
会」のHPに辿り着き早2カ月にならんとしています。

母校の近況や懐かしい先輩・同僚・後輩の名前が次から次に登場し、忘れかけていた
青春時代にタイムスリップしたような気分です。

そして何よりも「隣のヤッチャン!」本当にお久しぶりです。私の母に、私よりも早
く当日の試合の状況を報告してくれていた当時小学生のヤッチャン! この掲示板の
世界でも当時の情報屋ヤッチャンの一面に触れる事ができ大変うれしく思っています

星さん、中屋さんが大変熱心に投稿していますので、私も楽しく参加させてもらう
つもりです。皆さん、ヨロシクお願いシマース。

「長者番付」ですか?
投稿日 9月15日(水)00時01分 投稿者 佐藤 泰久 削除
我々の(疾風会)ころは無かったですね。成績のいい順か、赤点の多い順、てなところで
は。後者かな?

応援の時剣道着を着るようにしたのは星さんなんですか。私が女鹿投手小原選手を応援に
行ってるころは応援委員は普通のガクランでした。昭和32年の時から市営球場に通いは
じめ、その後何年か行ったのですが、同じでした。

ところが、昭和39年に入学すると上衣が柔道着(ないしは剣道着)だったので「へー、
なかなかカッコイイ」と思った記憶があります。薄茶色に変色したガクランの先輩もいま
したね。以前から、いつころからこのスタイルをとったのかなと思ってました。質実剛健
・弊衣破帽は旧制高校の伝統を受けついだある種の美学をもっている(少々バッチーけど)
ので今に生き残ったと思います。ブラバンは今にいたるも不採用ですね。

星さんの採用したスタイルは岩手県下のバンカラ校をまき込み、ついには青森の八戸高ま
で飛び火し現在に至っています。八戸高はTVなどでも盛岡一高をお手本にしたと言って
おり、ソックリさんで見分けがつきません。仙台一高、三高も弊衣破帽の風習が残ってい
るようですから、青森・岩手・宮城は現代のバンカラ三県といえましょうか。

大正時代からのガクランというのは、たしかにマユツバですね。「国宝・美少年」
(「Web白堊祭」参照)はいつころのモノやら??

明月館の冷麺はうまかった
投稿日 9月14日(火)06時15分 投稿者 佐藤 泰久 削除
英夫ちゃんご希望の音楽部は、定期公演はやってるようだけど、白堊祭には出てなか
った。写真はのっけてないけど、ブラバンはやっていました。

たしか我々のころは文化祭はクラス単位の出し物はなくて文化部だけだったね。新聞
部、社研部といった文系硬派クラブが無くなったのは世の流れとは言え寂しいもので
す。反面、美術部、書道部、文研部(展示無し部誌販売のみ)といったところが超の
つく出来栄えなのには驚かされます。白堊の伝統かな?

写真に写っている天文部のプラネタリウムは市販品とのことです。手作り品の残骸は
20cm反射鏡の筒の前にあるヤツがそれです(何代目かな?)。

ううむ...
投稿日 9月14日(火)06時12分 投稿者 佐藤 泰久 削除
秋は敗れましたか。中屋さん、報告ありがとうございました。

100年記念試合のときTVで盛商の後援会々長が言ってました。素質では私立
新進高に負けるので秋は苦しいが、翌夏までには練習で十分逆転できる、と。

来るべき夏、10度目の甲子園へ!、是非とも。

今でも長者番付あるかな?
投稿日 9月13日(月)22時59分 投稿者 星邦彦 削除
 野球部は残念でした。中屋兄の応援にも熱の入ったことでしょう。また、文化祭の取材も興味深く見ました。
 ところで我々の頃は文化祭前夜、中央階段踊り場に「長者番付」なるものが張り出されたものです。詳細は口頭でなければし難いのですが疾風会あたりまではあったんではないかな。
 応援委員が応援の時剣道着を着るようにしたのは私です。34年までは本当に弊衣破帽で普段の格好で野球応援の台に乗っても貫禄あったが36年頃はすでにお坊ちゃま生徒ばかりで学生服もサージでした。そこで剣道部の使い古した汗くさい道着を借りて使ったわけです。まさか戦後の貧乏時代のいいわけのような質実剛健弊衣破帽がその後続くとは思わなかったので1年限りの「貫禄付け」のつもりでした。それで先を見越してブラスバンドも創っておいたのです。ついでに言うと旧制中学時代から受け継がれた学生服など我々の頃には全く影も形も残ってはいなかったので今あるとすれば「偽物(作られてもの)」ではないだろうか。自分らの着ているものがつぎはぎだらけで、最初黒いのが緑に変色する粗悪な化繊だった。
 

取材ご苦労様
投稿日 9月13日(月)22時06分 投稿者 佐々木英夫 削除
 白亜祭取材ご苦労様でした
クラスの展示があるとは思いませんでした
 プラネタリウムは何代目でしょうかメタリックな外見で
あかぬけた感じがします。全体にきれいですね。それでも
見てると白亜祭の準備をしていた頃を思い出し元気になります
明月館の冷麺おいしかったですか?

一高硬式野球部101年目を目指して
投稿日 9月12日(日)23時51分 投稿者 中屋重行 削除
第52回秋期東北地区高校野球岩手県大会盛岡地区予選の結果をお知らせします。
緒戦  9月10日(金)対不来方 12:5 7回コールド勝
    Battery 及川広(2年附属中出)- 近藤・秋篠
代表決定9月12日(日)対盛岡商業 1:4
    Battery 大内(2年大船渡中)- 秋篠(2年大船渡中) 
    1我妻(2年附属中)4安(2年黒石野中)の二塁打・三塁打も散発
    投手戦10三振の惜敗

         宿敵盛商とは23勝30敗目
         昭和44年(駒木・三浦・・)0:7
50年(林・金野)   0:2の思いでが有ります。

  一高生らしい新チームで応援団も健在。来春に期待しよう。
          

頑張れ一高硬式野球部、めざせセンバツ
投稿日 9月12日(日)09時30分 投稿者 佐藤 泰久 削除
センバツめざす秋季新人戦がはじまりましたか。秋季新人戦は関東には情報が届か
ないんですよ。

中屋さん、試合の様子ぜひアップしてください。

覚えてるよ、「あいたいせいりろん」
投稿日 9月12日(日)09時28分 投稿者 佐藤 泰久 削除
しばし遠出してまして、きょう戻ってきました。

「あいたいせいりろん」は杉村君が講釈して、けっこう受けてた。公昭君がシンク
タンクだったとは知らなかった。青磁の便器展示なんてあったけ?

今年の応援委員会の遺物展はその伝統を引き継ぎ、白堊大明神などドギモをぬく展示
をやっておりました。

2000年選抜甲子園にスタート
投稿日 9月6日(月)21時44分 投稿者 中屋重行 削除
1999年9月10日 秋期東北地区硬式野球大会新人戦岩手県大会盛岡地区予選           第一試合 対不来方
9月12日 盛岡地区代表決定戦 9:00-県営球場 4校決定
     9月25日- 岩手県大会 於 岩手県営球場
           県決勝進出高 第1代表+第2代表
    10月- 東北大会13チーム 主催県は?(地元有利)                東北北海道枠3−4校を選定
           東北大会優勝校+ベスト4から1チーム毎日新聞社
           が選考 伝統校有利(ここまでくれば盛一当確なのだが)
           ドコマデモユコウミチハケワシクトモ・・・  
                  わが盛岡一高野球部は永遠に不滅です

文化祭もありましたねえ
投稿日 9月6日(月)19時59分 投稿者 金丸三郎 削除
文化祭も思い出しました。

旧校舎の解体後から青磁(?)の便器を持ち帰り
水で洗って展示しました。
作業は力仕事担当の藤田だったと記憶しています。

展示品ということで、
とりあえあずはきれいに洗ったの(つもり)ですが、モノがモノだけに
うるさ方の先生からクレームがつくことも考えられるということで、
戦々恐々でした。結果は全然OKでした。

クレームと言えば面白いのは、
先輩である「啄木の歌」をテーマにガラクタを展示し、
勝手にコジツケで講釈を垂れるコーナーで
・・・「啄木の歌」が三行詩に表記していない!・・・
という指導が(校長か教頭だったと記憶)あったことです。

そのあたり、先生方も「おおらかさ」と「アカデミックさ」を
持ち合わせていた、まさに一高式と言うことなのでしょうか。

次兄から仕入れた情報で、「生きた遺物」として、
遺物そのものの杉村にマントを着せて椅子に座らせておき、
二高生や百合高生が来たときを見計らって、急に動いて驚かせたり・・・

早弁の道具として、厚い本をくりぬき、自彊寮でご飯を詰め
日の丸弁当にしたこと・・・

藤原公昭君など同級の秀才連中に理論武装を頼み、
相対性理論を恋愛の法則「あいたいせいりろん」
として講義などを行ってもらったこと・・・

いずれ、見に来た近所の二高生が、「ここが一番面白いよ」
と言ってくれたものでした。

それらは、我々が二年生のときのことでした。

生きていた旧校舎と現校舎とを体験した最後の世代である
我々は、おそらく新旧世代の狭間にあり、
両方の息吹を感じた最後の世代であったのかも知れません。


白亜祭、「さわり」をアップしました
投稿日 9月6日(月)11時54分 投稿者 佐藤 泰久 削除
むかしは文化の日あたりでしたね。受験体制のせいでしょうか、早くなっていて、
夏休み明けからたいして日が無いので準備がたいへんと思われます。でも三高も
岩高も同じ日でしたので、全般そうなってるかも知れません。

白亜祭の全貌をまとめるのはちょっと日がかかりますので、「さわり」を下記
URLに載せました。お楽しみください

http://www.bekkoame.ne.jp/~yasatou/hakuasai.htm


どうして11月1日じゃないんだ!?
投稿日 9月5日(日)23時12分 投稿者 星邦彦 削除
 コンピュータトラブルも片づき久しぶりです。
 センター試験のためか知らないけど白堊文化祭が、「クンタナ時(ドギ)にヤルノア、オガシインデェネガ」と言うのは年寄り「トショリ」だからかもしれません。厳冬のまえの小春日和の多い晩秋の数日、文化部の一大イベントである文化祭で普段は全く関係ない(勉強シネガラ)各部の展示の見事さに目をうばわれた。第二講堂(剣道場)の軽食コーナーで、後輩のかわいいMちゃんの小生のみの心ずくしの特製中華ソバに舌づつみを打ったっけ。受験戦争に赴く前の心和む数日だった。
佐藤君応援関係取材よろしく。

取材を終え、帰ってきました
投稿日 9月5日(日)22時15分 投稿者 佐藤 泰久 削除
現地で天文部同期2名と落ち合い、3名でくまなく白堊祭を観察。

一言で言えば、面白かったですね。天文部部室に入れたので初期の目的は達せら
れたし、新校舎はバッチリ写真にとったし。

写真整理とアップは後日にしますが、とりあえず二・三報告。天文ドームは開
けるとしまらなくなるというのでドームからは出られませんでした、そこで天文
部室から新校舎をパチリ。化学部は炎色反応など3つくらい実験して見せてまし
た。音楽部は公演無しで、音楽室はクラスの出し物でカラオケ大会(って言うの
かな)になってました。

詳細はまたのちほど改めて報告します。

119周年一高白亜文化祭
投稿日 9月4日(土)23時47分 投稿者 中屋重行 削除
一高校舎は今日も健在、昭和37年以来37年間の白亜健児の青春を語ってくれています。
今年も天文部はプラネタリウムが人気。我々の文化祭では1957年のソ連スプートニク1・2号観測結果を発表、専門家にも好評でした。1956年3年小山卓也氏(現・盛四校長)は火星観測スケッチを、1958年大内靖部長は一人で八丈島に遠征、皆既日食の連続写真を展示していました。

部室は音楽室です
投稿日 9月3日(金)20時12分 投稿者 佐々木英夫 削除
 有難うございます
部室は音楽室です我々の頃でいえば二年三組の隣道路側の
階段を三階まで登ったところです
楽しいご旅行を

音楽部、了解
投稿日 9月3日(金)06時58分 投稿者 佐藤 泰久 削除
公演してるでしょうから。ただし、部室がどこにあるかよくわからない
ですが...

新校舎は完成間近なので、写真バッチリ撮れると思います。


音楽部もお願い
投稿日 9月2日(木)20時58分 投稿者 佐々木英夫 削除
 泰久さん音楽部もお願いします
小生の頃は底の時期でしたが今はなかなかいい線行ってるようです
ちょっと男声の人数が少ないのが気がかりです
毎年定期演奏会を開いているとはたいした進歩です
ちょこっと部室を覗いてきてください

化学部の取材、了解しました
投稿日 9月1日(水)22時47分 投稿者 佐藤 泰久 削除
高校生の研究でメーカーからの引き合いがあったとは大したものです。そういえば
私らのころも化学部は火山噴火のようなことやっていたような記憶が...

星さん、応援委員会は言われなくても取材しときます。きっと何か出してる。

PS.剣道部、柔道部、ラグビ−部、送球部など運動部は出店してないだろね>関係者

化学部の取材願います
投稿日 9月1日(水)09時43分 投稿者 村野井徹夫 削除
 佐藤さん。化学部の取材をお願いします。
 小野寺(藤沢)洽夫君ら10名くらいのグループが合成樹脂の研究で1959年か1960年の読売学生科学賞で総理大臣賞だったか、最高賞を戴いています。その後、メーカーからの引き合いもあったと聞いています。
 化学部出身者は化学の道に進んだ人だけでなく障害児教育に携わっている人、生物(筑波大・教授)の高橋三保子さん(猿橋賞受賞)、私の先輩で固体物性(東北大・通研・教授)の蛯名淳子さんというようにいろんな方面で活躍しています。
 当時の化学部では薬品を調合して火山噴火を演出していましたが今はどうなのでしょう。今はとても許可が得られないと思いますが・・・・。当時も許可を得たわけではなく黙認されていただけです。
 今、どういう研究をしているのでしょう。

 私と同期の大内靖君(天文部)は富士通にいてつい先ごろ中国・福建富士通通信軟件公司に赴任しました。 

今週は白堊祭
投稿日 8月31日(火)06時08分 投稿者 佐藤 泰久 削除
行って見ることにしました。現校舎最後の文化祭であり、自由に校舎を徘徊
できる最後の機会と思いますので。

狙いは何といっても天文部室です。20cm反射赤道儀はどうなってるんで
しょうか、テッペンからの盛岡の眺めはかわってるでしょうか、禁断の部室
の近況は...。

シッカリ展示を見てきてほしい部がありましたら声だししてください。写真
付きで取材してきます。

ほんとだ
投稿日 8月26日(木)20時42分 投稿者 佐藤 泰久 削除
村野井さん、ご指摘ありがとうございます。「見出しクリック」というワザが
あろうとは知りませんでした。

キャッチャーのヘルメットが黒っぽくて一高とは思えず、かつランナーが早稲田
カラーに見えたものですから勘違いしてしまいました。記事の間違いは9回「裏」
ではなくて「表」のところだけのようです。

それにしても...点差は開いてるものの8回までを見れば「惜敗」ですね。くだ
らない会議はサボって応援に行けばよかった(あとの祭り)。かくなるうえは
柳井高校には優勝してもらいたいものです。

あらためまして村野井さん発見のURLを書きます

http://www.mainichi.co.jp/entertainments/news/news1.html


正しい写真
投稿日 8月26日(木)09時22分 投稿者 村野井徹夫 削除
 説明文の間違いだけのようです。
 佐藤さんの示したURLで、写真の上の見出しをクリックすると、写真が大きく表示されスコアも出てます。写真ではランナーの胸にYANAまで見えます。ヘルメットもYです。

 キャッチャーのストッキングとアンダーシャツはえび茶の早稲田カラー。ヘルメットが黒か紺色でした。

 本当に残念でした。


最終回でやられたんですね
投稿日 8月26日(木)07時05分 投稿者 佐藤 泰久 削除
勝敗は紙一重、惜しかったですね。週末は明石に行く予定でバッチリ準備して
たのに残念です。急にやることが無くなって土日暇になってしまいました。

一高−柳井戦の写真は下記URL(毎日)に載っています。でも説明文が9回裏
柳井の攻撃というのはどう考えてもおかしく、5回か7回の一高得点時の写真と
思われます。
(ユニホームからして、ホームインしてるのは一高のほうだよね)

http://www.mainichi.co.jp/entertainments/index.html


残念....
投稿日 8月25日(水)13時31分 投稿者 佐藤 泰久 削除
9ー3で敗北との情報がはいりました。残念!

とりあえず報告まで

チャレンジスクールとは
投稿日 8月25日(水)12時14分 投稿者 佐々木英夫 削除
 中等教育の多様化に合わせて履修科目を選択制にしたり
コース制、全日制、定時制、通信制をクロスオーバーさせた
システムの学校のようで都立高校のリストラクションの目玉
です。うまく行くかどうかは財政的な裏づけと教員生徒行政
の誠意熱意次第ということになります。
バブリーな学校とスラムな学校ストライキをやった学校等が
選ばれるようです(私の色眼鏡)
不来方高校は先生の面倒見も良く良い学校だそうです
でも芸大を受けようかという子が花北や一高を受けるのが実
状です

さて、本日緒戦です
投稿日 8月25日(水)07時31分 投稿者 佐藤 泰久 削除
結果のアップは入手した方、ぜひ積極的に早めにやってください。
私も鋭意入手努力はしますが、なにぶん確実なルートではないもので。

PS.英夫ちゃん、チャレンジスクール=「挑戦学校?」は何をやる
学校なんでしょうか。高校でなくなるわけじゃないよね。我が母校が
そうなる可能性があるっちゅうことでしょうか。

2002年は教育課程が変わります
投稿日 8月24日(火)12時27分 投稿者 佐々木英夫 削除
 泰久さんの問い合わせに答えます
教育課程がこの年から変わります。
確かそうでしたよね
学校にも生徒にも自主性が求められ
特色ある学校が推奨されるようです
東京では名門校と不人気校が解体され
チャレンジスクールとなるようです
このあいだうっかり岩手日報のURL
内容欄に書きこみました
下記のとうりです

http://www.iwate-np.co.jp/news/news.html


現役応援団、行くようです
投稿日 8月22日(日)21時33分 投稿者 佐藤 泰久 削除
規模は不明ですが、現役応援団が現地に行くとの情報が入りました。一高は全
試合1塁側と決まってますので、HP掲示板関係者は現役のライト側隣に陣取
りましょう。(もっとも私は28日以降しか行けませんが)

あとは試合結果を早めに入手する方法を考えなくてはいけませんね。現場組な
いしは情報を入手された方はこのボードへの早期アップをお願いします。他の
ニュースソースと言っても結構難しいものですが、母校ないしは高野連経由
かな?

PS.英夫ちゃん2002年というのはどんなことがあるんでしょうかね。


新校舎建設工事が進んでいる
投稿日 8月22日(日)10時52分 投稿者 佐々木英夫 削除
今朝娘とアマチュア無線部のHPを見ていたら
新校舎の工事の様子が紹介されていた
外見はチョット古臭い感じがする(娘)
中身は2002年の指導要録のポリシーに合わせて
いるようだ
HPのキャプションによると天文台は一般にも開放
されるようです
いろいろな意味で2002年の一校には目が放せません
しかしまー無線部のHPはハイカラやなー
ドメインはドットcomだもんな

高砂市営球場の紹介です
投稿日 8月21日(土)11時43分 投稿者 佐藤 泰久 削除
これも立派な球場のようです。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~ranbee/takasago.htm


「選手宣誓」(^^)/もゲット!
投稿日 8月21日(土)11時30分 投稿者 佐藤 泰久 削除
まるとさんの「イワテライフ日記」によれば、一高が「選手宣誓」(^^)/を
ゲットしたそうです。投手陣が2枚看板で、キヤプテンは全国制覇を!と強気
の発言!!!だったとのこと。期待できますね〜。

第1戦に勝ちますと(このボードだけ読んでると軽く勝てそうな雰囲気ですね)、
第2戦は高砂市営球場になります。同球場は、高砂市の総合運動公園内にあり、
明石からさらに西のJR山陽本線・宝殿駅から海側へ徒歩約20分とのこと。

詳しくは下記HPを参照ください。

http://www.hk.sun-ip.or.jp/takasago/access/access.html


島田選手
投稿日 8月20日(金)10時04分 投稿者 村野井徹夫 削除
 アイすホッケーの島田繁選手の名前を思い出せなくて、8月4日の記述に書けませんでした。四ツ家に住んでましたね。本町通2丁目と変ったけれど元のところにお住いですね、きっと。

 盛岡中学・盛岡一高とは違うけど、私が子供の頃活躍した岩手のスポーツ選手には吉田素子(砲丸投げ)、白坂二塁手(盛鉄→阪神)、澤藤投手(盛商?→近鉄)がいます。中でも白坂選手は田淵の前のミスタータイガース・藤村三塁手とともに阪神の黄金時代を支えていました。打撃の神様・巨人の川上哲治選手らとわたりあったわけです。プロ野球なんて滅多に見られない時代、盛鉄時代の白坂選手のフィールディングが目に焼き付いています。なお、白坂長栄氏は我が一高同期の白坂英泰君のおじさんです。彼も入学当初は野球部に籍をおいたようですが、汽車通で断念したらしい。

白堊祭(一高文化祭)情報
投稿日 8月19日(木)23時19分 投稿者 佐藤 泰久 削除
9月4日(土)、5日(日)、二日間とのことです。

現校舎最後の文化祭です。OB・OGが正々堂々と校舎中徘徊できる最後の
機会かもしれません。


力走陸上部
投稿日 8月19日(木)09時42分 投稿者 佐々木英夫 削除
 古い話題となりますが8月15日に行われた
65回目の黒沢尻北高との陸上競技定期戦の
ニュースが岩手日報に出てました
一高勢は健闘及ばず総合成績は負けでした
詳しくは下記URLへ
http://iwate-np.co.jp/news/news.html

8.14疾風会の件
投稿日 8月19日(木)00時20分 投稿者 金丸三郎 削除
本町「秀吉」でいきなり始まった今年の疾風会総会は、40人ほどの出席だったでしょうか。
会長、事務局長も所用で不在、女性陣も5人ほど・・と割合穏やかでありました。
私は、9時過ぎに(1次会が終了し2次会に入った頃合いでしょうか)中座しましたので、最後は定かではありません。それなりに盛り上がったのではないでしょうか?
画は疾風会コーナーを見てください。山田ルームの社運をかけた渾身の在京白亜会総会ビデオ決定版が印象的でありました。

座った隣が中屋重直君でともに3兄弟、兄は34会でも一緒なのでこの掲示板には、お互い何となく懐かしいものを感じるというような雰囲気でした。私の兄がつくったはずの付属中柔道部は私のときにはなくて、中屋君とサッカーをやっていました。
いわゆる、日本リーグ以前のオールドサッカーファンにかろうじて入れてもらえる年代です。
八重樫先輩は、東京五輪の翌年だったと思いますが一高のグラウンドで目にしました。足の振りと球のスピードの速さに感心したことを覚えています。高校時代は彼が球を持つと前方に道が開けたという伝説があったとのこと。(矢羽々先生の話だったかも知れませんので若干眉唾ですが・・・)

五輪選手では、仁王小学校のときに冬季五輪出発前のあいさつに教室まで見えたアイスホッケーの島田さんもいました。ホッケー部で活躍した小兵古館勲君も同じクラスだったので、その影響だったのでしょうか。日の丸のブレザーがとてもまぶしいものでした。共通の恩師は市教育長の国井達夫先生です。

インターハイで頑張った現役の選手には更に上をめざして欲しいですなあ。

もうひとつ
投稿日 8月19日(木)00時06分 投稿者 佐藤 泰久 削除
「明石公園第一野球場」の紹介です。立派な球場のようです。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~ranbee/akashi.htm


明石公園野球場へのアクセス
投稿日 8月19日(木)00時04分 投稿者 佐藤 泰久 削除
明石公園野球場は県立明石公園の中にあり、地元では「明石公園第一野球場」
と呼ぶようです。JR山陽本線・明石駅近く、詳しくは下記HPをご参照
ください。

私は25日27日はまるでダメ、28日まで勝ち残れば以降応援に行けます。
可能性がなくはないと踏んでますので、明石オフラインミーティングができる
かもしれません。

一高は全試合一塁側です。

http://www.city.akashi.hyogo.jp/attend/01/attend01f.html


軟式野球部がんばれ!!
投稿日 8月18日(水)14時19分 投稿者 星邦彦 削除
 硬式野球部がだめなら軟式で…といかにも一高らしく、各部がそれぞれがんばっていますな。
 当然、応援委員は全員、在校生も大勢行くことと期待しています。久しぶりに関西に「世に謡われし浩然の…」と校歌の響きわたるのを想像すると心が躍ります。中屋君たちは行きますか。関西のOBにも連絡をとって(三四会藤村君がいます)みてはいかが?
 ウラー イチコー!! ウラー イチコー!! ウラー ウラー ウラー
 ウラー ウラー イチコー!

 青森山田は強い。次もガンバレ
 

今ごろは...
投稿日 8月14日(土)19時20分 投稿者 佐藤 泰久 削除
盛岡はドンチャン騒ぎでしょう。

モバイル持ち込んで実況中継してくれると面白いのですが、準OLTですね。誰か
書いでけろじゃー −−−−>盛岡組

甲子園は青森山田が快勝でしたね。いま仙台育英がやってますが、ちょっと分が悪
いようです、東北勢がんばってほしいですね。甲子園実況中継はラジオで聞くのが
なかなか良い。スタンドのざわめきをより大きく取り入れるように工夫してるし、
アナウンサーもテレビの5倍はがんばってるので、興奮度数倍。

テレビは絵だけにして、ラジオの音を聞くのが一番かな。大雨の関東、ここで
一句。

雨音に

ざわめき途切れる

甲子園

ジアマリオソマツ

おーい 元気かい
投稿日 8月14日(土)13時32分 投稿者 佐々木英夫 削除
今日はそっちに行けないのでごめんなさい
東京は大雨です やむと蝉時雨が始まり雨とセミが
かわりばんこです
そちらはくもりだそうですね
でもでも秀吉の会場内はいつも日本晴れ大盛会
皆様御元気で次回は盛岡にいきます
佐々木英夫
hisasaki@cyberia.co.jp

字まちがえました
投稿日 8月13日(金)07時24分 投稿者 佐藤 泰久 削除
ひとつ前、タイトルに「吉田治男選手」と書いてしまいましたが、本文中の
「吉田治夫選手」が正しいです。失礼しました。

関東、きょうは曇り空、一雨きそうな雰囲気です。

吉田治男選手なら知ってます
投稿日 8月12日(木)21時33分 投稿者 佐藤 泰久 削除
オス!(だいぶ戻ってきました)、ちょっと留守してました。星さんの八重樫
・北村両選手の話は臨場感ありますね。八重樫選手の話は盛中LB会メンバーの
方見ておられたら、書きたくてウズウズしてるんじゃないですか。加美山さん
見てないかな? 八重樫さんが卒業した次の年に盛商サッカー部が創部して台頭
していくんですね。一高に追いつけ、追い越せだったようです。(下記盛商
HP参照)

私は吉田治夫選手(一高−早大−クラレ、S37年卒、東京六大学野球ベスト
ナイン)なら、コーチにきたとき目撃してます。体格、バッティングフォームと
もダンチで、打球の飛ぶ勢いが高校野球と全然違ってましたね。東京六大学って
すごいんだなという感じと、早稲田のユニホームって真白じゃなくてちょっと黄
色っぽいんだなという印象が残ってます。

「フクちゃん」は村野井さんや星さんの話から、いろいろ苦労してたことが偲
ばれますね。あんなドデカイものそう簡単に運べるわけがない、一高−市営球場
といえばけっこうな距離ですからね。

トップページに掲載しましたが、一高軟式野球部は岩手・青森・秋田三県で競う
奥羽大会を制覇し、8/25から兵庫・明石公園球場ほかで開催される全国大会に
出場します。東北では野球王国でならす秋田勢(あの落合も秋田県出身ですから
ね)を破っての出場ですから価値あるものです。ガンバレ!。

http://www.echna.ne.jp/~morisho/b-sakka.htm


八重樫先輩、北村君の思い出
投稿日 8月11日(水)00時34分 投稿者 星邦彦 削除
 オス!久しぶりの登場です。奥村君達と登った富士山は5〜7合目までは観光客用の馬の糞の臭い、それより上は山小屋の垂れ流しトイレ(100円はしっかり取る)の臭い。「フジの山」は環境を犠牲にして業者に儲けさせる「糞尿の山」でした。外国の人もかなり居たようですが、自国へ戻って皆になんと言うのだろうか。全くショスハナスだ! それにつけても岩手山の美しいことよ。
 金丸三郎君、たか夫君は中学では同クラス、同じサッカー部で倉成君とういう人たちと附中に柔道部を創部した仲です。それで一高では柔道部に所属していました。則夫君(38年卒)もその影響を受けているのでは?
 八重樫先輩は、先輩が初めて日本代表に選ばれた頃私たちは一高サッッカー部1年でした(一高入学式前からサッカー部員で3月から練習に行っていたような気がします:一高体育科だ)。確か夏休みを利用して後輩の指導に来てくださったのですが、なんと彼女同伴で、そこで先輩の威厳を示そうとして強烈にしごかれました。翌年、遠野高や秋田を破って国体出場した(現一高在勤の林先生はそのときの中心選手です)ほどですから普段でも朝練ありで放課後は暗くなるまでの猛練習でしたが、その時の3年までがへばっていましたので相当なものでした。確か一高時代は温厚な人だった聞いていましたが、いやはやえらい目にあいました。ただし、ちょいとやって見せたシュートの強烈だったことが印象に残っています。
 北村君は、お兄さんが2級上の野球部で兄弟揃って抜群の運動神経でした。弟は送球部で、左右どちらでも同じようなシュートが出来たように記憶しています。またジャンプシュートは滞空時間が長く、デフェンスが着地したころ頂点に達する感じで、あたかも空中浮揚しているようでした。彼の同期の沢田君、オノチュウ(小野寺君)は在京で、元気でやっております。
 最後に、フクちゃんは、市営球場では板の部分は3分割ほどにし、柱は分解して座席の下に入れさせてもらったように思います。そして、お代わり来いは、お椀を両手に持つのが元祖。また、我々の旗振りは省エネようですが、 旗は現在の1.5倍の大きさの特注で(110cm×150cm)空気抵抗は相当なもので、当時のリズムで手先で振っていたら校歌一番も持たないでしょう。やはり、現物で実演しないと説明が難しい… 

  

 

フクちゃんはどこで
投稿日 8月9日(月)09時57分 投稿者 村野井徹夫 削除
 フクちゃんはどこで組みたてたか覚えていません。

 当時は岩山の市営球場か盛岡駅裏の盛鉄球場。市営球場が多かったように思います。フクちゃんを毎日運んだわけではありません。球場そばの市営住宅にOB?がいてそこに保管してもらっていたように思います。それにしてもどこで組みたてどうやって運んだんだったか。

 「お代わり来い!」は、兄(S31卒)から聞いていたのでかなり前から行われていたと思います。「高校生らしくない」と県高野連からクレームがついて中止されたのは「お代わり来い!」そのものだったのかリーダーの仕草だったのか。

君は八重樫先輩を見たか
投稿日 8月8日(日)18時48分 投稿者 佐々木英夫 削除
 泰久さん 2年生の時か3年生の時か忘れたけど
上戸鎖君が見かけない人とキーパーの練習をしていました
あの時コーチをしていたのは八重樫先輩ではないかと思います
どなたか教えてください

すっかり、気分は高校生
投稿日 8月7日(土)07時46分 投稿者 佐藤 泰久 削除
送球部の快進撃があって、すっかり気分は高校生に戻っています。中屋さんハ
ンドボールの現地報告ありがとうございました。此花学園、決勝まで行ったよ
うですね。「月刊ハンドボール」という雑誌がありますので、来月号見てみよ
うと思います。

村野井さんのお話の、”フクちゃんかついで強行突破”で思い出したんですが、
私は卒業してから2年くらい一高の破れ帽子かぶって高校生料金(只だったか
な?)で入りました。切符きり係りの人のけげんそうな顔が印象に残ってます。
どちらも時効ですね。しかし、あのフクちゃんは現地組み立てじゃないんです
か?(巨大すぎる!) 次の試合までまた持って帰らないといけないんでしょう、
たいへんでしたね。

北村選手もS34年卒ですか、なかなか多士済々ですね。インターネットは便
利です、北村さんが出た世界選手権は1964年のチェコ大会で当時大崎電機
所属であることがすぐわかりました。八重樫茂生さんはサッカー少年には神様
のような存在だったようで、盛商サッカー部創部時のメンバーである私の次兄
がよく八重樫さんの話をします。1968年メキシコオリンピックに出て史上
初の入賞に貢献をするわけですが、いっしょに若き日の釜本選手も出てますね。
”盛中LB会”のメンバーでもあるようです。

私らの時代も、先般の在京白堊会の引継ぎ状を読み上げた堀合君らが頑張って
いて送球部は県内無敵でした。野球部は甲子園への地固めの時期でした(秋の
新人戦優勝)。

嗚呼、気分は高校生。


地元から一高健闘の詳細
投稿日 8月6日(金)23時04分 投稿者 中屋重行 削除
大阪代表此花学院は2年連続選抜3位の強敵。盛岡一高のさわやか旋風が冷房無しの会場を吹き抜けて俺達の夏は終わった。「しかし、栄光の一高は永遠に不滅です」 
二高も大健闘惜しくも1点差負け。18:18”マジデキレタ5秒マエ・・・”
二高の伝統応援も健在
一高女子も、今年は119年目にして初めて、高下駄・袴・柔道着の女子応援委員が活躍。日本一の無形文化財のみならず世界遺産です。

ほんとに残念、惜敗ですね
投稿日 8月5日(木)18時40分 投稿者 佐藤 泰久 削除
村野井さん、速報ありがとうございます。

さっき所用から帰ってきてHPみました。2度目で入れました。
接戦だったようです、残念。中屋さんの詳報待ちましょう。

PS.女子、二高も敗戦。期待が高かったけど、残念でした。

ハンドボール、うむむ、残念!
投稿日 8月5日(木)17時50分 投稿者 村野井徹夫 削除
盛岡一高24 vs .29此花学院(大阪)

私が知らせて良いのかなと思いつつ、インターハイのHPになかなか入れない人のために記入。

負けては中屋さんの筆も鈍るかもしれないけれど情報を待ちます。

第4試合ですか?
投稿日 8月5日(木)16時09分 投稿者 村野井徹夫 削除
佐藤さんの8/4付けの記事中のアドレスをクリックしたら比較的簡単に入れました。公式HPのアドレスではなかなか難しいかもしれない。

トーナメント表 8/5、15時現在の記事では盛岡一高と大阪の試合だけが表示されていません。第4試合なのでしょうか。不来方は残念でした。

インターハイ結果HP、超ビジーのようです
投稿日 8月5日(木)13時10分 投稿者 佐藤 泰久 削除
さっきからアクセスしているのですが、まったく入れません。表紙のページが1日
1万件以上みたいですから、結果ページはものすごい数のアクセスなのでしょう
(ちなみに当HPは1日約20件)。

じっくり待ちましょう。

がんばれ!一高送球部、此花学院なにするものぞ
投稿日 8月5日(木)12時37分 投稿者 佐藤 泰久 削除
でも大阪代表というと強ソーですね。こちらには白堊スピリッツと地の
利あり、がんばってほしいです。

中屋さんの報告は臨場感あっていいですね、きょうもお願いします。
1回戦は実力勝ち、2回戦は地の利も手伝っていた? 3回戦は白堊
スピリッツによる勝利でしょうか。岩手同士の決勝になればいいんで
すが...

甲子園に行ったときなんか地の利が悪いんだから(その昔、一高、黒工
と連続して食当たりしてました)、たまには地の利があっても悪くはな
いですね。


PS.関東は夕べから久々のおしめりがありましたが、朝になってみた
らまたカンカン照りのいい天気です。きょうもうだるような暑さになり
そうです。

一高送球部準々決勝までの現場報告
投稿日 8月5日(木)00時54分 投稿者 中屋重行 削除
緒戦は対長野屋代高。文屋主将(N0.10)達の頭脳的プレイと緩急シュートで圧倒し30:15で実力勝。
第2戦は鹿児島代表加治木高。相手ファールが多かった。(審判も一高に有利)37:17
クーラー無しの岩手の旅館で他県の選手・応援団はキレテいた。アイスアリーナも体育館も冷房無し。でも贅沢言うな。 一高応援団を見習え
第3戦は前半11:12後半の運動量の差で逆転26:23。勢い余って2回もファール退場させられたポイントゲッター西村(No.9)の欠場で5人だけのパワープレイピンチ(2分間退場)中にも走り回って得点したこと、No.1,12,13のゴールキーパーもよく守ったのが勝因と思われます。応援もすばらしかった。一高体育館の一投毎の歓声はいつまでも盛岡中に鳴り響いていました。


応援の思い出
投稿日 8月4日(水)19時41分 投稿者 村野井徹夫 削除
 ハンドボールで花巻北高と対戦したとき、花北のセーラー服のお嬢さん方(5〜6人)が我が応援団のそばに来て黄色い声を張り上げたことがある。我が応援団が取り囲んだけどビクともせず。ハーフタイムに向こうさんの応援部員がシカメ面で迎えに来て帰って行った。

 野球か何かの盛岡駅のホームでの壮行会。M旗ならぬ三角旗を振って応援歌を歌っていたら駅員が飛んできて制止された。交通機関で赤旗を振るとは我が方のミス。

 サッカーの試合で野球のようにホイッスルを使って蛮声をカバーしていたら主審に注意された。これも我が方のミス。それを野次ったのがいたために役員が飛んできて「とんだ恥さらしだ」としかられた。ダブルミス。

 これもサッカー。東北大会だったと思う。どこかのチームが自殺点で負けるのを見た。キーパーが手に持ったボールを蹴ったらすぐ前に味方がいて味方にぶつかってふらりと自陣ゴールへ。後にも先にもあのようなオウンゴールは見たことがない。試合後、木陰で監督かコーチがビンタをくれていた。今なら新聞沙汰になって1年くらいの出場停止でしょうな。

 野球のフクちゃんをかついで入場口を強行突破、入場料を踏み倒したことがある。今なら自陣の応援のときは無料なのかもしれないけれど・・・・・。

やったー、勝ちましたね
投稿日 8月4日(水)18時46分 投稿者 佐藤 泰久 削除
一高も、不来方も、女子では二高(話題の二高です)も。ベスト8揃い踏み
です。強豪浦和学院相手に立派なものです。

試合結果は、村野井さんが書かれた直後にアップされたようです。中屋さん
の現場報告聞きたいですね。

名選手・北村尚英氏(ハンドボール)&八重樫茂生氏(サッカー)
投稿日 8月4日(水)15時54分 投稿者 村野井徹夫 削除
今頃はハンドボールの結果が出ているのかもしれませんね。
昭和34年卒の北村尚英氏も盛岡で事業を営んでいるようだから応援に行っているかもしれません。ハンドボールの名フォワードで、インターハイのベストメンバーに選ばれているはずです。その後実業団の大同製綱だったか名門チームで活躍しました。
あの頃のハンドボールはサッカーグラウンドでプレーする11人制でしたね。(これは高校だけだったかもしれません。) 彼は実業団で世界選手権にも出場しています。
ハンドボール以外にも全日本クラスで活躍した盛岡一高出身者では八重樫茂生氏(サッカー:古河電工選手・監督)が忘れられません。今でこそサッカー少年団の子どもでもボールリフティングなど当たり前にこなしていますが、母校のグラウンドに来てそういうのを披露されたのには驚いたものです。
他校ながらホッケーの沼宮内高校残念でしたね。シードされない方が良かった。岩手国体で会場になった関係で設立された部と認識しています。今年のインターハイも岩手県内に各種目そのような芽が育つのを期待しています。
私の勤務する大学では前学期末の試験も終わり2ヶ月の夏休み(学生のみ)に入っています。定期試験の採点の手を休めてHPに見入っていました。私自身の夏休みは三日とっていいことになっています(年休と土日含めて連続九日か?)がこの2ヶ月は本来の仕事の書き入れ時。暑さにめげず休まずに出勤することになりそうです。就職の決まらない学生も数名いますのでその面倒も見てやら無ければなりません。
30分後には記録が発表されるとか聞きましたが、今の時点でまだHPに結果は掲載されていません。

中屋さん、速報ありがとうございます
投稿日 8月4日(水)00時51分 投稿者 佐藤 泰久 削除
遅ればせながら、下記URL見ました。1回線対屋代(長野)、2回戦対加治木
(鹿児島)と連破ですね。不来方高も好調のようで、ともに明日もがんばって
ほしいものです。

遠い関東の空から応援してます。

http://www.ias.biglobe.ne.jp/kirokukensaku/inter/


インターハイ一高ハンドボールベスト16へ
投稿日 8月3日(火)20時40分 投稿者 中屋重行 削除
本日10時30分2回戦対鹿児島代表加治木高33対17で快勝
岩手大体育館にM旗が乱舞した。明日は母校盛一体育館13時相手は優勝候補埼玉
ベスト8目指して全校応援しよう。
40年前ハンドボール部は東北一。小山卓也氏(応援委員・天文部員。昭和50-54年 一高硬式野球部部長・現盛四校長)も現役で活躍したのを私達も観戦しています。

草野球チームのメンバー募集!
投稿日 8月3日(火)12時31分 投稿者 山田武秋 削除
事後の整理もあと来年幹事との引継会を残すのみとなりました。
さて、本欄は甲子園も開幕間近で母校の野球と応援の話題一色ですが、
「おなじ阿呆なら踊らにゃそん」というのはいかがでしょうか。
小生、20数年来続いている野球チームに所属しておりますが、中心メンバー
の平均年齢が50歳を超え、大分金属疲労が目立ってきましたので、
フレッシュなメンバーを3〜4名募集いたします。
条件は、野球が大好きなら年齢、経験は一切問いません。
活動範囲は、四谷外堀公園(四谷三角球場)をホームグラウンドに
月1回(日曜日)位のペースで試合を行っています。
これで、どんなチームか大体の察しはつくでしょうが、
弱そうなチームを見つけてはやっつけて後の酒の肴にする
(もちろん、目論見がはずれてケチョンケチョンにやられて
しまうことも多い)というのが、伝統的なチームカラーです。
ですから、都のリーグ戦に登録して緻密な野球をやりたいという
ような方は、はっきりいって不向きです。
費用は、1試合参加ごとに1000円会費で、後の呑み代は割り勘
(通常2000円程度)。試合が終わった時間が飲み会の始まり
ですが、こちらはもちろん、強制ではありません。
ぜひ、この機会に、一緒に野球をはじめましょう。
●問い合わせ・申込みは筆者(山田)までご連絡ください。
 昭和42年卒 在京疾風会  山田武秋
 電話 03-3497-1286  ファクス 03-3497-5974 山田ルーム
 E-mail yam-room@netlaputa.ne.jp

<次回試合日程>
8月29日(日)14:00〜16:00 
落合中央公園(落合浄水場の上です)

試しに参加してみたい方は、この日にどうぞ。
なお、在京白亜会の縁で、すでに50年卒の水原 滋さん、
63年卒の菊池 拓さんには、加わっていただいています。
そのうち、在京白亜会でチームをつくれたらいいなと思っています。






「狂喜乱舞」
投稿日 8月2日(月)07時38分 投稿者 佐藤 泰久 削除
佐藤(泰)@夏休みモードです。

金丸君の話に出てくる「狂喜乱舞」は昭和42年卒応援委員のオリジナルだ
ったんだ。われわれが1年、2年のころは無かったし、それ以前の市営球場
でも見たことが無かったし。そうすると先輩諸氏はこれがどういうものかご存知
ないかもしれません。

そこで昭和53年甲子園で披露した「狂喜乱舞」、下記のURLでご覧くだ
さい。杉村君の伝統、見事に引き継がれておりました。

http://www.bekkoame.ne.jp/~yasatou/kyouki.htm


懐かしい・・・・
投稿日 7月31日(土)20時47分 投稿者 金丸 三郎 削除
星さんの登場で、一気に懐かしいお名前が・・・
42年卒の私の長兄が、34年卒の金丸たか夫ですので、中屋重直君の
お兄さんや奥村さんなど非常に身近な方々のお名前が乱舞していました。

また、M旗の振り方や校歌のテンポなど、応援の仕方等についてもなかなか奥深く且つ興味深いお話になっております。

われわれの時代には、マンネリ化した応援方法について、合宿を重ねながらいろいろと工夫したことを思いだしました。
壮行会等で選手に尻を向けることはいかがかと考え、校庭で円形やコの字に包み込むように選手を囲んだことや、応援歌のテンポや音程を統一するために、応援歌練習の前に新3年生だけの練習をしたことなどなど・・・
ブラバンを使わないことで、ただでさえ単調な応援に変化を付けるため、「白亜80年史」を参考にM旗より一回り大きくて両手で長い竿で振る旗を考えたり、36〜7年卒の柔道部吉田眞・藤原洋治両先輩に聞いた「お代わり来い!」の復活や我々の時代の伝説的名物男・杉村公正のキャラクターをフルに生かした扇子を持った狂喜乱舞の創作等も次々に思い出してきました。

旗の振り方は、我々の頃はすでに両サイドでかなりこねくり回し、正面では地面近くから斜め上方に振り上げ、体いっぱいを使って振るものでしたが、柔道部の両先輩の振りを見ましたら、左右のサイドでは手首を回すだけで正面でも水平に近く振るものでした。
その後、甲子園で見た後輩のものはもっとこねくり回すようなものになっていたことに驚いたことです。あの振り方ではとても歌のテンポはあげられないと思いました。
校歌や応援歌のテンポも、M旗の振り方で決まってきたのかも知れません。
小学生時代に見た、下小路中学校でのハンドボール、武徳殿での柔道などの優勝シーンでは、くるくる小気味よいテンポで回っていたM旗を覚えています。

五月の在京白亜会では、テンポは遅かったのですが、昔風の直線的な振り方をイメージして振ってみました。(ホントの所は、腰が回らず、省エネに徹したわけですが・・)

少し思い出を語ってみました。




旗振りについて
投稿日 7月30日(金)13時17分 投稿者 星邦彦 削除
 野球応援の時は、TPOに応じてグランドを向いたり(たとえばインイング途中の第3応援歌など)、校歌斉唱などは応援席を向いたりでした。問題は前方で見ると常にMの字が踊っているような旗の振り方で、これは実演しなければ理解しにくいかもしれません。それはそのうち機会を見て……
 また、オバトクには話題になっているよと言ってあります。彼は5月1日の34会には出席しました。そのとき、「昔はされる方だったから、今回はエールのリードをやりたい」と言って嬉しそうにやっていました。あれやこれやと30年代のことは書き出すと「オガシガッタ事」や「ヒョンタナ話」が尽きません。そのうち思い出話風に書くつもりです。また、角谷君(34会)が、文化部から見た当時の一高を小説風に書いています。
 これから「奥村君達と富士山サ行ってクルガラ」この辺で。ンダバマダ!

「杜の都の早慶戦」
投稿日 7月30日(金)06時38分 投稿者 佐藤 泰久 削除
「フクちゃん」と「ミッキーマウス」は、まさに「杜の都の早慶戦」。盛商に負け越
してるとは知りませんでした。盛商で思い出すのは、昭和50年夏の決勝、後の明治、
立教のキャプテン(金野、林、両選手)を擁した優勝候補No.1の一高が2−0で負
けてしまった試合です。私は仕事で応援に行けませんでしたが、仕事を抜け出して会社
の公衆電話から田舎へ電話かけ敗戦を聞いたとき(勝利を確信してたノニ)の落胆、思
い出してしまいました。秋も勝ち、春も勝ってる相手なのに、なぜ? と、一瞬ボー然
状態でした。

「泣いたフクチャン」、花北はそんなウイットのきいたことをやってたんですか。わ
ざわざその試合のために作って(勝っても負けてもあとは使えない)、しかも花巻から
運んでくるとは(そうとう苦労したでしょうね)敵ながらアッパレなものです。最近、
岩手県の高校野球は新興勢力が強いですが、花北、福岡、関高、など古豪勢もがんばっ
てほしいですね。盛商も。

私も中屋さんの無形文化財論に賛成です。古い文化というのは特定の集団の中で保存
されるという傾向にあります。比較が適切かどうかわかりませんが、私のいた大学の寮
ではダンスパーティの風習が残っていました。当時、ゴーゴーとかツイストの時代です
から、周りではまったくやっていませんでした。戦後初期(だと思うのですが)の先輩
たちのあいだの流行がよき伝統としてそのまま残っていたわけですね。ストームもあり
ました。一高のバンカラ応援は、教育上の問題もあるせいか公的な盛岡市紹介には載っ
ていませんが、知る人ぞ知る盛岡名物になっていますね。(下記HP参照ください)

http://www.kid.ne.jp/bus/zenrin/vol16/la01_8.html


二高がむすぶ縁戚
投稿日 7月28日(水)23時15分 投稿者 佐藤 泰久 削除
星さん、小原さんはそういう関係でもあるんですか、奇遇ですね。いやはや、
とぎれとぎれの記憶がだんだん繋がっていくような感じです。カッパ、ベンジ
ョゲタの各先生は知りませんがチダゲン先生は我々が入学する直前に異動
(→一関一高)になったようで、生徒会誌「白堊」に「ドテラ談義」や「旧校
舎惜別の辞」を書いておられました。人気のあった先生のようですね。

いまの一高の応援委員の旗の振り方は昔と違いますか? 少なくとも違うと
ころは昔は応援席のほうを向いて旗を振ってたけど、今は逆のようですね。ど
ちらが好ましいのか、つらつら考えるとわからなくなります。応援指揮なら前
者がスジ、選手に対する礼儀なら後者がスジという感じもします。

野球部100年記念試合、応援できてよかったですね。ゴールデウイークの
ときですか。特集テレビ放送もあったようで、同慶のいたりです。特集の一部
は見ましたが、久慈次郎の話や昭和43年甲子園出場のシーンも盛り込まれて
いました、全部見てみたいですね。

小原さんらへの連絡はぜひお願いします。楽しみが増えてウキウキしてきま
した。これで夏休みに突入すればなおグー、あと3日です。

泣いたフクチャン
投稿日 7月27日(火)23時46分 投稿者 中屋重行 削除
盛岡一高は「フクチャン」、盛商は「ミッキーマウス」の大看板、岩手の早慶戦とも称される好敵手。盛鉄・市営球場は超満員、甲子園出場を賭けた戦いは50戦19勝21敗
実力はともかく一高の蛮声は相手を威圧するのに充分だったし、対抗意識に燃える
福岡・一関一・黒沢尻北・花北も見事でその伝統は40年間変わらず引き継がれて居ます。
他校でも「ポパイ」等もあったと覚えていますが、中でも、はるばるリヤカーで運んできた花巻北高の「フクチャンの泣き顔」は傑作であきれるやら可笑しいやらで、さすがに脱帽、敬意を表したものです。
昭和43・53年の甲子園アナウンサーには「生きた化石」といわれてしまったのですが、一方、礼儀正しい秩序ある大応援は「岩手の応援は高校生の模範」と高く評価されたのでした。 今年のインターハイでも披露したいものです。
盛一応援団は「無形文化財・人間国宝」にも値すると自負しているのですが、私だけでしょうか?

英夫ちゃんの「ふてくされ」のはなし
投稿日 7月27日(火)07時08分 投稿者 佐藤 泰久 削除
本文を読むと、岩手県人を称えた内容で

「ふてくされは近代の病んだ表情である、というのが結論...」

というのがコラム氏の意見のようです。

岩手県人もいろいろですから何とも言えませんが、確かに、ふてくされる
より悲しい表情をする、「競争を嫌う」(コラム氏表現)人が多いのは事実
かも知れません。

都会は競争社会だから「ふてくされ」が多いのかな?(会社でもふてくさ
れてケツまくってる人をたまに見かけます)

PS.ふたつ前の「昭和33年の県大会優勝のときから...」というのは
「昭和32年」の間違いでした。


星ものがたりの続編
投稿日 7月26日(月)01時52分 投稿者 星邦彦 削除
 と言うわけで、恥ずかしながら 遂に種々の白堊HP・メールに登場してしまった訳です。校歌の音頭取りとしてあちこちから声をかけられますが、昨年も後楽園飯店で開かれた1級上の方々のある祝賀会に出席し女鹿さんにお会いしました(寄宿舎の先輩でもあります)。たいそうお元気でした。また、オバトクはメールアドレスを持っているはずですのでそのうちお知らせします。大窪君は居所は分かっていますが、連絡をとるのが難しいので時間がかかります。現在コンピュータトラブルメンテ中なのでしばし時間をください。また、府金君も横浜でげんきでやっています。
 ところで、フクちゃんは、我々よりかなり前から使っていたようです。ちなみに宿敵盛商はミッキーマウスだったような気がしますが中屋君あたり記憶にないですか?人文字は実物を写真をアップで見ると多分何年か分かると思います。
 余談ながら、オバトクとはカミさんどうし(どちらも当時超あこがれの二高生OG)が親戚筋なので(盛商の野球部監督だった森さんのマギ:ここの息子も付属の同級生兄弟は一高先輩が居ます)遠い親戚になってしましました。当時の一高と二高の先生で夫婦だったケースがあっことはご存じかな? (カッパやチダゲンなど)1年の頃は加賀野から応援団・ラグビー・悪友の奥村君とブラブラ上田まで通っていたので本町あたりで二高生に会うのが楽しみだった。向こうは迷惑だった!ベンジョゲダも同じ道を一緒に通っていた。
 昨年の夏は、久しぶりに帰盛して一高の応援委員の練習を見学させてもらい我々の時代の旗の振り方を見せたり楽しい一時を過ごしました。丁度「さんさ踊り」のときで太鼓の音が「白堊太鼓
」彷彿とさせてなんだか体が自然に動いてきて非常に感激しました。参加の皆さんもとても良い笑顔と表情でした。リズムからゆくと「阿波踊り」匹敵する乗りの良さがあると同行の者たちも言ってました。まさに同感!「白堊グループ」があれば真っ先に参加したい。毎日新聞のコラム氏の駄文なんか気にすることはない。盛岡人の良さを分かっているファンは結構居ますよ。
 話変わって、今年の野球部100周年記念の試合は、またま白堊三四会出席のため盛岡にいて応援できました。中屋君や村上君(応援OB)も居て思いっきり校歌応援歌を歌えました。ただ、私のドラ声に在校生がチラッ振り向くのには閉口しました。
 本日はこの辺で失礼……

祝、中屋さん登場
投稿日 7月25日(日)11時12分 投稿者 佐藤 泰久 削除
私、大学のころ何回か山岸のお宅におじゃましてますので、お会
いしてると思います。すぐ下の弟さんには仙台におられる時に、
重直君といっしょに東北一周自転車旅行の途中、一宿一飯の恩義に
あずかりました。息子さんからは先日メールいただきました。中屋
家とは縁深い私です。

小原さんらと付属中で同級だったとは、30年目の大発見です。
私もあの昭和33年の県大会優勝のときから市営球場通いが始まっ
たわけですが、隣りに小原さんがいなかったら、私も同じく
「爾来40年」一高野球のおっかけをやってたかどうか...。

たしか外野席応援団は、内野席に移されてますよね。昭和43年
甲子園出場の年は全試合外野席応援しました。昭和61年の決勝で
一関商工に惜敗した年は同期の川村祥平君が監督だったので応援に
駆けつけましたが、たしか内野席応援に変わってました。(この
ときは、ほぼ甲子園キップを手中にしてましたが、あの「魔の8回」、
いまだに忘れられません、クヤシー。)

考えてみると「外野席応援」もあれ以来行ってないです。母校が
勝ち進んでうまく休日と合わないと、なかなか行けません。来年は
ぜひ行きたいです。

星さんが「白堊応援団HP」を立ち上げるということですし、
中屋さんが外野席応援団副団長ということで、あの熱い時代のメン
バーが健在という感じでうれしいです。いっそのこと、女鹿さんや、
小原さんや、大窪さんをここにひっぱり出せないものでしょうか
(「白堊応援団HP」にでもいいです)。

できたら最高ですね。

また、いっぱい書き込んでくださいませ。

一高野球OB外野席応援団の復活を!
投稿日 7月24日(土)23時06分 投稿者 中屋重行 削除
中屋重直の兄・長男中屋重明とお騒がせいたしております。星邦彦氏とは附中応援団、一高2年一組のカッパカギモクの謎を知る仲です。千田栄紀氏(S44監督)は櫻城小同級、小原徳政・大窪明氏は中学同級、S31-32県大会連続優勝,S33盛高に1:2惜敗甲子園はあと一歩でした。爾来毎夏40年、欠かさず盛鉄球場・市営・県営球場に通ってます。今年も一高野球OB外野席応援団副団長(団長は船山賢一氏)、多くのOBに再会できました。野球部百周年記念対盛商OB戦では一人でM旗を振りましたが外野席の応援は禁止されて残念でした。皆様お元気で、球場でお会いできますことを願っております。

星さん、いらっしゃいませ
投稿日 7月24日(土)06時57分 投稿者 佐藤 泰久 削除
30年代に小学生でドラマの観客席側に居た管理人の佐藤(泰)です。あの
時演出側に居たのが女鹿、大窪、小原、の各選手たち、そして応援委員の星さん
たちだったわけですね。燃えたぎるようなすばらしいドラマでした。白球、純
白のユニホーム、硬球音、打ち振られるM旗、天を圧する蛮声...私にとっ
ては原風景という感じです。巨大なフクちゃん像や”M”の人文字は星さんた
ちの発案だったんだ。

大窪、小原両選手と同級生で、反安保デモのリーダーというと年代があわず
一瞬(??)状態になりましたが、「カッパやカギモクをハンドオフ」とあた
りが謎をとくカギでしょうか(イマイチ意味がわからないのでそのうち教えて
ください)。在校中華々しい活躍をされたようで、逸話が楽しみです。このボ
ード検閲無しの書きたいほうだいですので、どんどん書き込んでください。

星さんのお話に出てくる中屋さんはこのボードにしばしば登場する疾風会の
中屋重直君(私と天文部同期)のお兄さんでわたしの天文部の先輩にあたりま
す。「ゆびとま」によれば、白堊外野応援団副団長なそうです(団長は言わず
と知れた舟山さんですね)。早く「白堊応援団HP」立ち上げてください。楽
しみにしてます。HPはHTML文で作ろうと思わないほうがいいです。少々
投資してHP作成ソフトを使うのが得策です。当HPの場合はホームページビ
ルダー2000使用で、ほとんどワープロ感覚で出来てます。

とにかく遠慮は無用ですので「30年代の一高」の逸話をいっぱい書いてく
ださい。ただし、1回につき2000バイトまでしか書けませんので長くなる
ときは何回かに分けてください。


PS.私ら昭和42年(1967年)卒のころは、「反安保デモ」は伝説のよ
うに聞かされてました。昔そういうのがあったんだって、という感じで
す。中国の文革が話題になってはいましたが、60年と70年に挟まれ
た政治的には概ね平穏な時代でした。

PS2.フクちゃん像や”M”の人文字といっても、ピンとこない皆さんのた
めに下記URLに写真を掲載しました。出典は「白堊熱球譜」です。

http://www.bekkoame.ne.jp/~yasatou/fukuchan.htm


ふてくされた顔ってどんな顔
投稿日 7月23日(金)23時05分 投稿者 佐々木英夫 削除
 今朝の毎日新聞のコラムに盛岡の事がかかれていました。
なんと盛岡の人の顔の表情に足りない物がある何かと思えばふてくされの
表情だということでした。 でも私のことを振り返るとチョクチョクふてって
いました。コラムニスタの言うにはふてる替わりに悲しい表情をするというのです。競争心についても書いてましたがちょっと感じ方がちがうような気がしました。盛岡の人の場合競争の原動力は向上心、ねたみ心等ありますが向上心の方が
強い動機付けになっていると思います。皆様どうお感じでしょうか

よき時代、30年代
投稿日 7月20日(火)21時27分 投稿者 星邦彦 削除
オス!昭和30年代に一暴れした星です。現在、「白堊応援団」のHPの制作に孤軍奮闘中です。
 今回、疾風会の掲示板を覗いたところ、昭和32年のちょうど我々が元気いっぱい活躍した時代の懐かしい名前や野球試合のことが掲載されていたので懐かしさのあまり一言…
 掲示板に登場する大窪、小原両選手は、中学以来の同級生です。中学でも野球をやっていました。野球をやりたくて一高に入ったと本人たちは言っています。私も応援委員にあこがれて入ったようなものです。だから、みんな勉強で苦労しました。中屋君も中学で応援やっていましたから同じ気持ちでしょう。彼は我々のように野蛮な人間ではないので気後れして応援委員になりそこねました。そこで、息子を応援委員に仕立てました。
 我々が2年になるとき、1級上の人たちに紳士が多かったので荒っぽい応援委員のなり手がなく(当時は風紀委員も兼務)、北口先輩の「オメダヂ手伝ってケロ」の一言で、奥村、田村、長沢、楢木、村上、星他が2年の初めから応援委員になり、女鹿投手のもと県大会の優勝のとき、応援委員を務め、演劇部や絵画部の協力で巨大なフクちゃんの像を作ったり、うちわを使った人文字などで応援を盛り上げました。
 私は、カッパやカギモグをハンドオフしたため事情によりその後4年ほど応援委員でした。そのせいか時々校歌の音頭取りを頼まれます。それが幸いして昨年後楽園飯店で女鹿さんに会いました(寄宿舎の先輩でもあります)。
 また、80周年記念の時の中央執行委員を務め、60年安保闘争で学校側の制止を振り切り、全国の高校で唯一自主デモを敢行したときの代表者です。100名ほどの参加者で後で校長に訓告処分を喰らいました。校長コレラで死んでしまえ!!
 この当時は、面接で入学を許していたらしく、やたら人生経験豊かな人やとてもユニークな人が居て、逸話をあげたらきりがない位です。当時を思い出しながら書くつもりです。
 校歌、応援歌のM旗の振り方やテンポの変化についても話は尽きません。それにつていはまたの機会に……

女鹿投手の時代
投稿日 7月18日(日)09時28分 投稿者 佐藤 泰久 削除
千田栄紀さんと、大窪、小原の両選手は一高野球部同期ですから
(「白堊熱球譜」より)、村野井さんは彼らとおない年なわけですね。

女鹿投手は2年連続岩手県大会を制覇した左腕エースで、輝かしいスタ
ーでしたね。女鹿投手の野球部同期は少なかったので、女鹿投手が3年
の時の主力は2年生が固めていました。印象に残っているのが猛者とい
う感じの大窪捕手、隣りの小原一塁手、4番を打った府金選手などです。

女鹿投手のスター度合いがいかなるものだったかは、「白堊熱球譜」の
清水さんの寄稿や、女鹿投手本人の手記を読めば想像ができますね。
「女鹿のおかげで高校時代が楽しかった」とよく言われるそうです。

隣りの小原さんちに、大窪捕手はじめ同学年の人達が自転車に乗って集
まってきたときにはドキドキして見ておりました。足駄をはいた大柄な
大窪捕手が大声で笑ってたのを今でも覚えています。女鹿の女房役とし
て大活躍した選手でした。

小原選手についてはもっと強烈な思い出があります。何の試合だったか
はまったく思いだせないのですが(市営球場であるのはまちがい無し)、
ランナー3塁、小原選手の打席でバントのサインがでていましたが、相
手ピッチャーに見破られウエストされたのです。キャッチャーが立ち上
がり、頭よりやや上のところに確実にウエストされました。

ところが、小原選手はこのときバットを水平に構えたままジャンプをし
てバントを成功させたのです。ウエストされた時、バットを斜めにかま
えて失敗してランナー三本間憤死というケースは多いのですが、この時
はビックリしてしまいました。以来何十年間も野球を見ていますが、あ
のようなバントは見たことがなく瞼に焼き付いているしだいです。


このころは、応援席に大きなフクちゃんのマンガを飾ったり、人文字で
”M”を形どったりしてましたね。旧き良き時代でした。

正解は40回記念大会
投稿日 7月16日(金)18時55分 投稿者 村野井徹夫 削除
今年の甲子園が何回大会か気をつけていれば私の在学中は40回の記念大会だったというのがすぐ判ったのに気がつきませんでした。あの頃は青森県と一緒だったのでしょうか。記念大会は各県から1校出られた初めての大会だったと思います。確かに、西宮球状を併用したために県で優勝しても1回戦は必ずしも甲子園ではありませんでしたね。

私は1940年生れです。千田栄紀君(野球部)・佐々木淳(あつし)君(排球部・体育委員長)とは櫻城小学校で同級生です。私が中学で1年休学したために盛岡一高S34年卒業とS35年卒業の両方に友人がいます。1年のときの運動部員狩り(?)では私が運動部は無理なことを承知している佐々木体育委員長が助けてくれました。女鹿投手は上田中学の先輩でした。佐藤さん、こんな状況です。

いろいろ書きたいことがありまして、困りました
投稿日 7月15日(木)23時29分 投稿者 佐藤 泰久 削除
小山田さんが甲子園に応援に行ったとき私も甲子園に行きました。当時、私は大学の2年で、
ここにたびたび登場する盛岡の中屋先生のシュラフを借りて、応援に出かけたのです。
京都丸山公園、嵐山・桂川のほとり、野球部OBの某君の下宿、松緑会(昭六会)の大川
さんちをねぐらに転々として応援活動を続けました。嗚呼、青春の日々。

村野井さんはもしかして、女鹿投手のキャッチャーをやった大窪選手や、一塁の小原選手
と同期くらいですか? 私はなんと、小原一塁手と隣りどおしだったんですよ。小原さん
の影響でしょっちゅう市営球場にでかけてたわけです。

どちらももいっぱい書きたいことがありますので、こんどの土日にでもしたためます。

早すぎた対戦
投稿日 7月14日(水)18時59分 投稿者 佐々木英夫 削除
専大北上との試合残念無念
でも我が一高は試合をして行きながら強くなるチームだから来年はきっと
強くなっているぞぶつかるのが早すぎました
村野井先輩の惜敗のお話は40回大会で西宮球場で試合した時のことでしょうか
代表は福岡高校だったとおもいます

総会のビデオ
投稿日 7月14日(水)12時17分 投稿者 及川昭伍 削除
昨晩在京白堊会の幹事会があり30名集まりました。
疾風会からの報告もあり、総会ビデオを購入しました。
早速見ました。感激の再現です。
疾風会は、山田君のいうように多士済済ですね。
ホームページも当分続けるとのこと、感謝します。
             会長  及川昭伍

こんにちは
投稿日 7月13日(火)16時49分 投稿者 小山田明(旧姓藤井) 削除
岩手山の写真を探していて疾風会にたどりつきました。
申し遅れました。44年卒、バスケに所属していましたフジイです。

貴会同期会開催当日に巡り合ったのも不思議な感じがします。
また、野球は残念でした。3年のとき甲子園での応援が懐かしく思い出されます。
↓下の50回記念大会のことですから村野井さんの勘違いですね。ベスト8でした。

2年上といえば‥‥ダメです。ボケが進行中のようです。
また思い出したら遊びにきます。

川崎在住

http://www1.odn.ne.jp/~cah45560/


我が祖父・村上傳助
投稿日 7月13日(火)09時16分 投稿者 村野井徹夫 削除
今朝の新聞で盛岡一高・コールド負け、残念です。このHPに既に掲載されているとは思いませんでした。担当者に敬服。きっと、甲子園出場のニュースならばもっと勇んで掲載するのでしょう。

「白亜熱球譜」の明治31年作成の野球部員名簿に母方の祖父・村上傳助の名前があり、驚くやら嬉しいやら、です。傳介は49歳だったかで亡くなっているので墓石に刻まれているのしか知りません。子供の頃墓参りのときにデンスケ爺さんなどといっては叱られたものです。父方の祖母の弟には久慈次郎氏の後輩の藤田(永野)重次郎がいます。祖父は国鉄勤めで東北管内を転々としていました。父はそのような関係で相馬中学です。父も野球をしていました。このような血筋の小生も野球好きではありますが、中学で病気したので運動部には入りませんでした。一高在学中は50回記念大会(?)でもう一歩のところで甲子園出場を逃し残念でした。

熱戦、4回までで6対1でリード
投稿日 7月10日(土)17時18分 投稿者 佐藤 泰久 削除
のようです。リアルタイムスコアボードが下記URL
にでています。

1回戦は突破か?

http://www.iat.co.jp/Yakyu1999/0710.html


早速CD買ってきました
投稿日 7月10日(土)13時16分 投稿者 佐藤 泰久 削除
工藤さん、はじめまして、HP管理人の佐藤(泰)です。

校歌のCDの件、以前新聞の社会面で大きく紹介されていたので知
ってはいました。第1曲目に抜擢されたのはたいしたものです。

聴いてみて、少し前この掲示板で話題になった校歌のテンポの件、
解明することができました。

我々の世代の校歌のテンポは、在京白堊会のビデオテープから計
測すると1番で1分ジャストくらいかかってますが、CDでは、
1番を歌うのに49秒で、我々のころよりテンポが速くなって
いることがわかります。

4番まで歌うと40秒以上の差になり、けっこうあります。その
昔、野球の試合開始とともに歌いだして、歌い終らないうちに1回
表が終ってしまった記憶があります。(^^)

我々の先輩のころは速かったとのことで、時代のテンポ感覚と
いうものがある感じがしますね。

太鼓のリズムは実際に使われてるものと同じなんでしょうか?
(CDのために脚色してるところもあるのかな?)。最近の一高の
雰囲気も含め、この掲示板に時々書いていただければ幸いです。

おす。
投稿日 7月5日(月)16時47分 投稿者 工藤林太郎 削除
おす。平成10年度応援委員の工藤と申します。
私たちの歌う一高校歌を含む「軍艦マーチのすべて」がキングレコードから発売中です(CD)。
見かけた方是非購入してみてください。
シタ。


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