在京疾風会・電子掲示板(2005年10月〜12月)

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(集団就職の)六チャン、 故郷(うち)に帰っておいでよ。
投稿日 12月31日(土)22時52分 投稿者 な@疾風会 削除

みんなに大事にされてるかい?
 大晦日だけど、正月には帰ってこないんかい?
今年の雪はものすごく多くて毎日大変なんだよ。
自転車で行けると所なんてないよ。それに、JR列車も全然時間通りに走らないんだ。
寒い寒い、ってそいながら。
雪かき 手伝って欲しいよぉ。んで、下駄スキーであそぼぅ。


ご祝辞ありがとうございます
投稿日 12月31日(土)20時05分 投稿者 佐藤(泰) 削除

いやはや、2005年大晦日に10万ヒットとは、偶然、偶然。

来年もごひいきにお願いいたします>ヒデオちゃん

白堊スポーツにはすぐ追い抜かれそうですな>平舘さん


祝・100、000
投稿日 12月31日(土)17時26分 投稿者 平舘 削除

おめでとうございます!!
区切りがちょうど良いいですね!!凄い!!

小生も来年追っかげま〜〜す!!(笑)
よいお年をお迎えください。

http://www.geocities.jp/taira_d_1048/


10万ヒットおめでとう
投稿日 12月31日(土)10時58分 投稿者 ヒデオ 削除

やったアクセス10万
どなたでしょうか99999と100000をクリックした方は


トップページの写真(「年越し」)
投稿日 12月29日(木)22時55分 投稿者 佐藤(泰) 削除

「た」さんから送ってもらいました。毎度ありがとうございます。私も仙台の藤川さんから手打ち蕎麦を
送ってもらってたので、写真に撮っておけばよかった。

表紙の1枚目の写真の盛岡宣伝ポスターは、私の中学の同級生・大場冨生君の作品で、2004年日本観光
ポスターコンクール金賞(国土交通大臣賞)を受賞したものです。これは「たそがれMORIOKA-賢治の冬」
で「秋」「春」も味わいがあるでガンス↓

http://www.morioka-times.com/news/0405/03/04050307.htm


先輩の皆様方、ご挨拶ありがとうございます
投稿日 12月29日(木)15時17分 投稿者 佐藤(泰) 削除

星さん、のりちゃん、早々のご挨拶ありがとうございます。

疾風会サイトも、そろそろ10万アクセスにカウントダウン(年内達成かな?)。
これもサイト立ち上げのときからの、諸先輩の支えによるもので、感謝いたしており
ます。

来年も、花見やら、在京白堊会やら、甲子園県大会やら、楽しくお付き合いさせて
ください。


疾風会ありがとう
投稿日 12月29日(木)10時26分 投稿者 白堊應援團30 星 削除

 今年は年初から、義弟哲夫の件では疾風会の皆様を煩わしいろいろお世話になりました。
 思えば当サイトの存在が「白堊應援團30」を初め各年次のWEBの立ち上げを促し、今では
「白堊スポーツ」や「白堊運動会・野球應援」サイトなど年次を越えた素晴らしいものが出
てきました。
 今後とも電子白堊会の核として頼りにしておりやんす。宜しくお願いします。


良いお年を!
投稿日 12月29日(木)09時43分 投稿者 亀楽町@のりちゃん 削除

電子白堊会の草分け的存在の疾風会HP・・参加された皆様に支え
られ、楽しく話題が展開されているのにつられて訪問するのが日課
になってしまいました。

管理人の人柄にも人気の秘密があるのでしょうね!貴君を通してN
ET繋がりで知り合えた先輩、後輩と新しい形のコミュニケーショ
ンが築けたことは嬉しいことでした。感謝しています。

【夕日の亀楽町】は懐かしさでいっぱいでしたね!健康に留意されて
良いお年をお迎え下さい。来年も宜しくです。


この1年ご苦労様でした
投稿日 12月29日(木)05時43分 投稿者 佐藤(泰) 削除

「白堊スポーツ」の人気はたいしたものです。私もずいぶん楽しませていただいて
おります。ありがとうございました。

来年も白堊健児の活躍を全国にお伝えください。

そして来年こそは甲子園へ!


お世話になりました。
投稿日 12月28日(水)07時50分 投稿者 白堊スポーツ・平舘 削除

今年1年間お世話になりました。

来年も盛岡一高の各クラブに熱烈応援をよろしくお願い
いたします!!

http://www.geocities.jp/taira_d_1048/


父の持ち物で思い出すもの
投稿日 12月26日(月)12時04分 投稿者 な@疾風会 削除

ひげそり用かみそり、牛皮のベルトで砥いでいる。シャボンはちょっとの水で豚毛ブラシでクチュクチュと泡立て、じょりじょりじょり(あぁおっかね)。
髭剃り後は、蒸しタオルで拭いて、ウーン・ウテナクリーム。
柳屋のポマードは緑色、スモカの歯磨き粉は空色。

ズック布のリュックサック、ゴムの栓をした水筒を肩から下げて(時々は両肩からたすきがけして)、ぼこぼこの飯盒にご飯をつめたお弁当。
丸型メガネは、将棋の大山名人が使っていたのと似ていて、耳に巻くようなかけ方だった。
爪切りには外科用はさみを使っていて、子どもらは全部の爪を短く切られたもので嫌な思い出につながる。
耳垢ほじくりも父にやられて嫌だった。


接着剤はセメダインだった
投稿日 12月22日(木)23時47分 投稿者 佐藤(泰) 削除

さすがにニカワではなかった。同じくタケヒゴをローソクであぶって嘗めながら丹念に丹念に曲げていく。等倍の
設計図に押し当てては差のあるところをさらに曲げていく。タケヒゴをニューム管に差し込む時にセメダインを
使ったっけ。

よく飛んだのは生涯でただ一機しかなかった。杜陵小学校の校庭から飛ばしたら、上空を悠然と舞い中津川を越え
て公園まで飛んでった。あとはもーショボイもんだった。

模型ヒコーキ飛ばしは何故か秋に流行った。春はビーダマ、冬(だったかな?)はベッタ(メンコ)と誰彼なく
始めるのが不思議だった。

PS.私は少年画報の購読者だった。


接着剤にはニカワを使った。画材屋に今も置いているそうな。
投稿日 12月20日(火)11時26分 投稿者 な@疾風会 削除

 月刊誌は、隣りのトッちゃん兄弟が「少年」、な兄弟は「少年クラブ」を定期購入。
 カネボウ書店が盛岡駅から自転車で運んでくる日時を知っているから、発売日には店の前で待っていた。荷を解けばすぐその場で受け取る(150円の支払はツケが当たり前)。別冊9大附録、というのがうれしかったが、本体のみはたいていその日のうちに読んでしまって交換した。

 カネボウ書店の書棚には「天文と気象」「ライフ別巻」「科学朝日」など、今のアレとは全然似つかわしくないジャンルのものが並んでいたのだ。(購読者がひとりいたから)

 模型飛行機はマサ兄が得意。タケヒゴをローソクであぶって、すぐ舐める、少しずつ力を入れて微妙に曲げる、を繰り返していた。
 接着剤は、割リバシのような飴色のポキポキ折れる不思議なニカワ。湯煎で溶かし、刷毛で塗った。


盛岡は寒そうだナハン
投稿日 12月18日(日)08時16分 投稿者 佐藤(泰) 削除

トップページは秋の小春日和から一気に、雪とつららの盛岡にかわりました。「た」さん、いつも
秀逸の作品ありがとうございます。首都圏と宇都宮は3〜4度差の感覚、首都圏と盛岡は8〜10度差
くらいの感覚カモ。

ところで、2枚目、3枚目、5枚目、に写っている放射状に飛び散っているのは水の雫の軌跡で
しょうか。かなりスローシャッターでの撮影? 気が向いたら教えてください。


確かにプロレスは盛岡では放映されなかった
投稿日 12月16日(金)22時38分 投稿者 佐藤(泰) 削除

テレビと力道山を結びつけたのはまさに「三丁目の夕日」のシーンの影響? 逆に当時テレ
ビで見たくて見れなかったのがプロレス、力道山、という記憶も蘇って来た。

なぜ盛岡でプロレスのテレビ放映が無かったというと、岩手放送TVがTBS系で、プロレス
は日本テレビ系が独占放映権をもっていたからだろうね。一説では当時のプロレスも流血を売
り物にしていたから教育上良くないので、ということも言われていたけどそんな理由じゃない
よな。

太田山の弓取りは見たことがあるから、宮錦、及川、がラジオ放送の時代かな。ラジオ放送な
ら東京六大学、長島、杉浦、本屋敷、の立教は強かった。当時は東京六大学もプロ野球並みの
人気があってラジ放送されてた。そして長島が巨人に入り、少年サンデーの表紙に登場するわけ
だね。

週刊誌の登場でその後月刊誌(少年画報、少年、少年クラブ、冒険王、、、)は衰退し、週刊誌
全盛時代なるわけだ。当初は人気はサンデー>マガジンだったけどやがて逆転、ジャンプはずっと
後だったハズ。


「三丁目の夕日」では力道山の実況放送が取り上げられているが
投稿日 12月15日(木)11時27分 投稿者 な@疾風会 削除

ニュース映画で見ましたが、力道山を盛岡のテレビは放送していない、というスタンスで話してきたのですが、、、。
「及川や宮錦も顔は知らない」とか。
 岩山に登れば少し映るどよ、と言う朋輩もいたが、本当に見たかどうか。

 昭和三四年には週刊少年サンデーと週刊少年マガジンが相次いで発刊された。前者は長嶋、後者は朝汐が表紙だったか。家ではマガジンを、トッちゃんちではサンデーを購入し、すぐ貸し借りして両方を読んだ。
その本屋は大通三丁目角「カネボウ書店」で、今は映画館通りに移っている。

 流行したフラフープは大通ニ丁目の玩具店から買った。確か丸藤菓子店の隣りでなかったか。ああ、キャンデー屋さんも丸藤のことかな。中屋という万年筆店もしばらく前に無くなったな。


う〜ん、それは知らない
投稿日 12月14日(水)19時56分 投稿者 佐藤(泰) 削除

テレビで思い出すのは「力道山」「皇太子成婚」「バス通り裏」「白馬童子」「隠密剣士」、六日町・
山崎電気でよく立ち見してたなー、ん、それは力道山のころかな。

ラジオで思い出すのは、「紅孔雀」「オテナの塔」「一丁目一番地」「ヤンボーニンボートンボー」
「赤胴鈴之助」(出たー!)ですね。

図書館にビデオの「まぼろし探偵」があるので借りてきたら、なんとビデオ自体は「こんなの?」という
感じの出来ですが、なんと言っても吉永小百合(!)、ピカピカ光ってました。必見。


「平安 1952 山王海」 にご記憶はありませんか?
投稿日 12月13日(火)10時37分 投稿者 な@疾風会 削除

IBC岩手放送が昭和34年、やはり新山テレビ塔の完成によって放送開始である。

 表題は、新山の下を堰き止めた「東洋一のロックヒル、山王海ダム」の堰堤に植木で形作られた巨大文字である。ここに昭和33年と37年とに、私はそれぞれ・・学年遠足で訪れている。
先月でしたが、大館市の登山同好のあや子さん(疾風会)らとこの地を縦走した折り、生き生きと山王海ダム遠足の思い出を語るものだから、いろいろと懐かしい記憶がよみがえった。
盛岡のテレビ放送草創期ネタもそのひとつ。(村野井さんのは「三丁目の夕日」というより港区芝の愛宕山旧NHKのレベルですね。街頭テレビとか。)
私はゴルフ場には行かないが、新山には展望台もあり、ヤブの中を丹念に捜すと三角点も見つけられる。


小生同級生・平藤のブログです。
投稿日 12月10日(土)15時32分 投稿者 平舘 削除

本日の「がんばろう!岩手のスポーツ」は国体少年弓道の模様です。
まんず、おもしぇ〜がら読んでみでください!

ちなみに彼は高体連事務局勤務、元黒工・三高ラグビー部コーチです。


http://wave.ap.teacup.com/hirafuji/10.html


盛岡でテレビといえば・・・
投稿日 12月8日(木)22時05分 投稿者 村野井(1960) 削除

 1952年でしょうかねぇ、国鉄の車両を使った巡回テレビをみました。夏の暑い盛りだったと思います。
今の岩手テレビ朝日のあたりなんでしょうかねぇ。窓を暗幕で覆った真っ暗な車両のところどころに受像機があって、屋外仮説ステージで演じている子供のバイオリン演奏などを映していた、みたい。櫻城の課外授業で行ったのだけど、なんだか良く分からないまま人に押されて前に進み出口から出てきました。
 松屋デパートで関連する技術展示があって、アイコノスコープなどという撮像管のことを記憶しました。その頃の撮像管は感度が低く、放送するようになってもスタジオの照明を強くしないとダメなため、夜のシーンのロウソクが熱でぐにゃりと曲がったなどという具合だった、らしい。

http://muraichiban.web.infoseek.co.jp/


帝国陸海軍は「  」西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり
投稿日 12月8日(木)15時32分 投稿者 な@疾風会 削除

(大本営発表「今8日未明」か「本8日未明」なのかと迷った。お教え願います)

 盛岡でテレビ放送が始まるのは、新山(にいやま)の鉄塔ができた時(NHK昭和33年、教育テレビ同35年)だから、東京タワーと同じか。
その前にも、大通2丁目千田電機店の前に集まって、ザァーザー・チラチラ画面を観ていた記憶がある。
 はっきり試験放送が開始となったら「ちろりん村とくるみの木」を毎日、「テストパターン」の時間からずっと、千田電機にいた。

 小学校の視聴覚室で「高学年の理科」の視聴覚授業もあった。時間前にあつまって、テレビの覆いを揚げ、鍵を開けてスイッチを入れる。しばらくして、低学年向けお話し番組が映ると歓声が上がったものだ。部屋は寒いし暗い、見上げるので疲れる、早くもテレビに飽きてしまう子もいた。


カウンター6桁用意しました
投稿日 12月6日(火)05時44分 投稿者 佐藤(泰) 削除

気にはなっていたのですが、村野井先輩のメッセージで実行。ほかのカウンターが必要か、
と思ったのですが、調べて見ますとHTML分の一部、5(桁)→6にすることでOKでした。
さあ10万目指して進行、いつもサジェッションありがとうございます。

私も「及川」「宮錦」ときますと、弓取り式の太田山を思い出しましたね。あの弓がクルクル回るのが
不思議で、何度も何度も練習したらできるようになったっけ。郷土力士は応援したなー。

杉村、伊藤、とは懐かしい。いつか顔をだしてほしいもの。グァンバレ白堊ラガー>坂本君


宮古出身宮錦
投稿日 12月5日(月)22時52分 投稿者 村野井(1960) 削除

 宮錦は前頭上位で栃錦を破って一場所だけ小結を務めたのではなかったか。引退後は年寄芝田山、その前に別名跡の年寄でしたかね。神風さんの解説は「前捌きのうまいお相撲さん」、ではなかったかしら。
 及川は県南出身の力士で本名が四股名。上田中学のK先生の教え子で、及川が勝つとニコニコしてました。
 あの頃の岩手県出身力士でもう一人忘れてならないのが、太田村出身の太田山。結びの一番のあとの弓取りは幕下以下の力士が勤めるものなのに、十両に上がってもやってましたね。南部家のご当主から戴いた重藤の弓を使ってました。あるとき弓取りのときに弓を落としてしまいましたが、立行司・木村庄之助が拾おうとするのを、手で制して足を使って拾い上げ弓取りを続けたということです。土俵に手を付くのは縁起が悪い。
 盛岡出身の立行司・木村庄之助はずっと後のことでしょうか。

http://muraichiban.web.infoseek.co.jp/


白堊のラグビーの話題
投稿日 12月5日(月)21時06分 投稿者 坂本 哲洋 削除

この3日(土)白堊クラブの定期戦が、三郷市の朝日新聞社
のグランドでありました。
相手チームは、崩壊したはずが再結成したのかガマクラブ。
疾風会からの参加者は、例年の岩手からの藤原哲君。
現地参加者は、東海林君と私の計3名。
我々より上の代では、大矢さんのみが盛岡から参加。
今年の白堊クラブの定期戦は参加者が少なく、プレーできる
者がわずか13名。相手から1名かりて14対15名の変則
マッチでした。見学のつもりだった東海林君も急遽タッチジ
ャッジをやることに。
体調不良で見学しようかとおもっていた私も、20分ハーフ
だけどロックでフル出場。一度だけゴール前に迫り、この5
年間で、一番トライに近づいたが、あえなく跳ね返されてし
まいました。無念!
試合は、結局白堊クラブの負け。
 
試合後、哲君と飲みながらラグビー談義をと思っていたら、
杉村・伊藤の元応援団の両君が迎えにきて、中途半端に終っ
た1日でした。
早明戦同様、この定期戦も衰退してしまうのか?
来年に期待!!


近くにはアイスキャンデーのお店もありましたね。「キャンデー屋」!
投稿日 12月5日(月)17時03分 投稿者 な@疾風会 削除

東大通の洋菓子屋は盛岡花月堂。ヤキ醤油団子・こしあんダンゴが評判だった。
大通1丁目丸藤菓子店からは、上品な甘い香りの焼きたてパンが最高ごちそうだった。
また、大通3丁目のお菓子屋を「不二家さん」、大通4丁目のお菓子屋は「グリコ屋さん」と呼んで区別していた。

大相撲の巡業が、そんな大通商店街の協賛で桜城小学校特設土俵で行われ盛り上がったものだ。
その頃の郷土力士に「及川」と「宮錦」がいた。人気の前田川さんより少し前の頃だ。
盛岡駅で野次馬をしていたら、大人がやぁーやぁー大声をだすのでそれとわかった。テレビを見ていないので、顔を知らないのだから。そのあとも、開運橋通の姫の屋旅館までついて行ってワァワァ待っていたら、サイン帳に署名されて返されたことを覚えている。「朝汐」と「松登」とあった。


あと1000人
投稿日 12月5日(月)12時17分 投稿者 村野井(1960) 削除

切り番:99000ゲット
次の桁を用意しておかないとなりませんな。このサイトは1000ぐらいすぐでしょう。

http://muraichiban.web.infoseek.co.jp/


シュークリーム、ソフトクリーム
投稿日 12月4日(日)06時56分 投稿者 佐藤(泰) 削除

映画版「三丁目の夕日」で、六ちゃん(堀北真希)はシュークリームを食べて食あたりに
なります。

 「こったなウメそうなもの、見だゴドねがった」

のが食べて食あたりになった理由。

私の場合は年に1〜2度しか食べられない「ソフトクリーム」が一番だった。

いつのころからか年がら年中売るようになりましたが、昔はアイスクリームは夏しか
売っていなかった。東大通り、桜山さんの手前あたりのパーラー風の店、間口は一間も
あったかどうか、姉や叔母に連れられて前を通るとその店のほうに視線が釘付け。歩き
ながら顔が90度回転していく、「ソフトクリーム、食いてじゃー」と喉まで出かかる
のをグット我慢、思えば映画の古行淳之介君のような少年でした。

東大通りは模型屋さんといいこのパーラーといい、大通りとは違ってなにか別の世界を
を感じさせるものがありました。「エキゾチック」というか...模型屋さんもパーラー
も、今は取り壊されて無い、亀ケ池側のお店でした。


映画でみるオート三輪(ダイハツミゼット)は八百屋が最初に乗っていた
投稿日 12月3日(土)06時01分 投稿者 な@疾風会 削除

大通三丁目の酒屋と花屋はリヤカーを使っていた。時計屋と写真屋は自転車だった。
鹿島建設はトラックとジープ、労働基準局は黒塗り公用車クラウンを、それぞれ車庫に保管して持っていた。
酒井みっこ(誰もちゃん付けでは呼ばない)が棲む木材会館へは、ゴミ箱のカーボン紙を拾いに侵入した。みっこにみつかることが一番怖かった。みっこは鉄棒をふりかざし、犬のふんを投げつけるなど、とても柔道ではなかった。雪ダルマやカマクラは必ず壊された。「みっこは妹思いのやさしい子」と言われたようだが、「な」らとは「童話・泣いた赤鬼」のような関係はできなかった。


大沢川原はテリトリー外だった
投稿日 12月1日(木)20時33分 投稿者 佐藤(泰) 削除

私のテリトリーは北は大通り2丁目・さわや書店、南は東大通り・佐藤模型店&桜山さん、東は
現金田一駐車場(昔は空き地で木があったので「林」と呼んでいた)&赤川堰、西は魚市場
(現川徳?)と、けっこう狭い。肴町の川徳へ行くときは大冒険だった。

大沢川原には行かなかった。でも私が生まれる前は一家は大沢川原に住んでいて昭和20年
3月10日の空襲を経験したようだよ。ときおりB29の話題や紫波・彦部に疎開した話が出て
たからね。

柔道部の「みっこちゃん」じゃかなわねな。あの体格だ。


大沢川原三丁目の夕日、西川商店のセツ子ちゃん(疾風会)みてる?
投稿日 11月30日(水)15時07分 投稿者 な@疾風会 削除

原っぱに建築屋の土管とごま石が積み重なっていて、子供らは遊ぶのに面白かったが、ころんで顔から血を流すことも多かった。
イヌの放し飼いも映画で見るとおりだったが、魚屋の秋田犬と、肉屋のブルドッグは太い紐でつながれていた。
電信柱の電灯の下には長い時間アベックが立っていた。同じ場所で、チンピラが男の人を鼻血が出るまで殴り付けている所も見た。やられたのは床屋の新米兄ちゃんだった。

「な」の仲間はカンちゃん、トッちゃん、ショッコちゃんらだったが、敵の「みっこ」ひとりにかなわなかった。「みっこ」というのは疾風会酒井光忠(故人)のことだワイ。


ありゃー、最後は高い
投稿日 11月28日(月)20時06分 投稿者 佐藤(泰) 削除

9750円で決着してます。人気あるね。

見てきたよ「三丁目の夕日」、昔の上野駅がちゃんと再現されてたけど、あれは
写真を元に作った昔の上野駅のミニチュアをCGで完成させたらしい。

カラオケ「ああ上野駅」を思い出してしまった。↓

上野はいいねー。上野から歩いて行ける浅草もいい。浅草には啄木の等光寺がある。

  浅草の夜のにぎはひに
  まぎれ入り
  まぎれ出で来しさびしき心

            啄木

http://www.biwa.ne.jp/~kebuta/MIDI/MIDI-htm/AhAh_UenoEki.htm


安い!
投稿日 11月25日(金)20時23分 投稿者 佐藤(泰) 削除

「三丁目の夕日」54冊、2700円!

「な」さんの「夕日三丁目」は新築地、私の「夕日三丁目」は菜園亀楽町

http://page7.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/g35796526


「三丁目の夕日」は私の愛読書
投稿日 11月25日(金)06時28分 投稿者 佐藤(泰) 削除

このトシになって現代漫画は読めなくなってきた(面白さが感じられない)けど、「三丁目の夕日」と
「ゴルゴ13」は別格。特に「三丁目の夕日」はいいねー。

 昭和三十年代−−。
 あの頃は、今のように
 贅沢はできなかったけれど、
 人々の間に暖かな
 触れ合いがあった。
 今も目を閉じれば
 あざやかに甦る
 懐かしい思い出の町・・・・、
 ここは、夕日町三丁目。       西岸良平「三丁目の夕日・精霊流し」より

ギスギスした世の中を作るために働いて来たのではなかったはずだが..。漫画では確かに茶川竜之介さんは
もちょっとトショリだね。鈴木オートの奥さんに薬師丸ひろ子、いいね。浮き草のようなヒロミに小雪か。

今週か来週、見に行ってくるぞ。


♪埴生の宿も我が宿。貧しくても、どうしてあんなに楽しかったんだ?
投稿日 11月24日(木)23時48分 投稿者 な@疾風会 削除

昭和33年3月3日桜城小3年3組3時間目の算数の授業は、ほかに ホシ達夫・チバ秀樹・ハラみどりちゃん の疾風会各位も共有していましたネ。
カンノ先生は当時と同じ三戸町に現在もお住まいです。50年経ったら集まろうか。
(え?「な」って誰なんだ?か、)


「Always 三丁目の夕日」封切一番に鑑賞した。
投稿日 11月23日(水)16時20分 投稿者 な@疾風会 削除

西岸良平原作漫画の映画化。鈴木オートの父母と一平くん、しかし映画での主人公は「茶川竜之介文士さん」これが?あの?、ま、キャラが違うけど・・・
昭和33年に333mの世界一の東京タワーができた、んだ。確か、、、。
私は「昭和33年、3月、3日、3時間目、さん数の時間」の空気を(疾風会事務局長Watanabe史朗くんと共有して)経験している。菅野まさあき先生の授業の時間でのことだ。おそらく、事前に考えた上での演出なのかも知れないが、あと少しでクラス替えで散り散りになる(マンモス学校の)「3年3組」の3づくめのこの時間を、46年後の今日まで記憶させる授業をしてくださったのだ。

クラス随一のノッポのエンドーと入学以来ずっと最前列の長谷川くんを持ち出して、「(あと50年たったある日に)『やあ、ハセガワケン君、(ずいぶん)大きくなったナァ』とエンドー君が見上げたりして、な」と、すごい未来の可能性を語った菅野先生だった。
「4年進級記念 菅野学級」の印字がかすれた鉛筆を、私は(進学試験の節目のつど使用してきて)ここに持っている。…万感の思いで涙がこぼれた三丁目の夕日だった。

http://www.always3.jp/index02.html


「白堊書道」
投稿日 11月18日(金)14時41分 投稿者 平舘 削除

小生のHPに「書道」コーナー設置しましたので、興味の 
ある方はどうぞご覧ください。 

http://www.geocities.jp/taira_d_1048/


今週金曜日11.18「白堊五行歌会」。読売新聞も来ます。
投稿日 11月16日(水)21時58分 投稿者 山田武秋 削除

今週金曜日11月18日(金)午後6時半からの「在京白堊五行歌会」発会記念講演(トップページ参照)に、読売新聞も取材に来ることになりました。遊座先生からのお口添えがあったかもしれません。これで取材が、岩手日報社と読売新聞社の2社入ることになりました。お申し込みの状況では、まだかなり余裕がありますので、是非、多数の御来場をお待ちいたしております。


2005年白堊スポーツ十大ニュース
投稿日 11月13日(日)10時52分 投稿者 S50盛岡在住・平舘 削除

小生のHPで投票開始しました。是非、投票してください。

よろしくお願いいたします!!

http://www.geocities.jp/taira_d_1048/


飲み仲間の会の名前忘れた
投稿日 11月11日(金)20時36分 投稿者 佐藤(泰) 削除

8月の本部疾風会で加藤(勝)先生が言ってたね、「ナントカ会」。ヒゲさんが中心人物だった話でした。
当時は先生同士がツルんで飲み歩いているとはツユ知らず、いやーマジメな高校生でした。

先生にも酒嫌いもおられたでしょう。天文部顧問の木下先生は?? ↓参照

酒の話は出てないね。(この記事、私も大枚拠出、著作権一部所有?)

http://www.bekkoame.ne.jp/~yasatou/onsi.htm


♪ ここはお国を何百里、離れて遠き満州の、赤い夕日に照らされて、
投稿日 11月9日(水)17時03分 投稿者 な@疾風会 削除

ひげの福田隆教師(美術・工芸)はシベリヤ抑留帰還兵だと言っていた。毛皮帽やベスト、マフラーのコザック姿が似合った。
♪・・走れトロイカ朗らかに、、、と唄ったかどうかは忘れた。
ウオツカも飲んだかと思うが、日本酒がことのほか好きだった。わが家にも時折寄って、中井汲泉(きゅうせん)↓からの絵手紙(いま盛岡先人記念館に展示してある)を前に酒を飲んでいた先生だった。

http://www.morioka-times.com/topics/bungei/senjika/senji10.html


ご冥福をお祈りいたします
投稿日 11月1日(火)06時16分 投稿者 佐藤(泰) 削除

佐々木監督は直接お会いしたことはありませんが、一高野球部創部100年記念の一高−盛商OB戦
での活躍をビデオで拝見しました。

ああ、この人が佐々木監督かと思って見ていましたが、インタビューのマイクをむけられて「ナーニ
、ナーニ、イイデバー」とネイティブ盛岡弁で逃げ回り、ユーモアたっぷりの人柄を感じさせる一シー
ンでした。確か一高・ピッチャー杉田、盛商・バッター佐々木の対決演出もあって盛り上がってました。
もちろんこのビデオには滝村ー金野の対決シーンもありました。

昭和が遠くなっていきますね、寂しい。


訃報・・・S50甲子園・盛商の佐々木監督逝く
投稿日 10月31日(月)20時16分 投稿者 平舘 削除

悲しいお知らせです・・・
あのS50夏決勝で県営球場を揺るがせたライバル盛商監督・佐々木宏さんがお亡くな
りになりました。

以下、今日の岩手日報より

佐々木宏氏(元盛岡商高硬式野球部監督)

30日ぼうこうがん肺移転のため死去。68歳。
盛岡商、法大でプレー。仕出し業の傍ら1965年から77年、83年から88年まで
母校の監督を務め、66年の選抜大会、75年の全国選手権と春夏合わせて2度甲子園
に導いた。

白堊杉田監督の強烈なライバルだったという話を聞いております。
あの「物凄いズーズー弁」が懐かしいです。。。

県営球場を埋めた2万5千人の大観衆の前で繰り広げられた決勝戦。
盛商・滝村−砂留のバッテリー×一高・林−金野のバッテリー、佐々木監督×杉田監督
の息もつかせぬ大一番!!
今でも脳裏に焼き付いて離れません・・・

謹んで、ご冥福をお祈りいたします。(合掌) 

http://www.geocities.jp/taira_d_1048/


東京盛岡ふるさと会
投稿日 10月30日(日)22時32分 投稿者 村野井 削除

本日開催された東京盛岡ふるさと会に行ってきました。戸澤聰氏(S.40卒)と名刺交換したら、「え? あのメールで有名な・・・」と言われてしまいました。悪評が立っていなければいいのですが・・・。佐藤(泰)さんと星さんと並べて私なそうで、それならまあ大丈夫かな?
 写真を例によって、期間限定でアップします。必要な方はダウンロードしてください。といっても、疾風会の出席者はいませんでしたね。著作権・肖像権談義が気になるところですが、アップすることについてご本人の承諾をまったく受けていないことを申し添えます。ただし、皆さんポーズをとったりしているので暗黙の承諾は戴いていると思っています。
 在京白亜会、在京白亜25会、白亜応援団30の順で書き込んで、このサイトを開く皆さんはどれかを見ているでしょうが、老舗のこのサイトにも書かないわけにはいきませんね。このような具合でアチコチ顔を出しているので知れ渡っている、ということですね。

http://muraichiban.web.infoseek.co.jp/extra/morioka-furusato2005.html


11月18日(金)18:30〜「白堊五行歌会」発足記念講演に参加を
投稿日 10月29日(土)14時51分 投稿者 山田武秋 削除

10月10日に発送した在京白堊会会報、およびこのHPのトップページでもご案内のように、11月18日(木)、「白堊五行歌会」が在京白堊会の文化サークルの一つとしてスタートします。その発足記念講演として、五行歌を創始された草壁焔太先生の講演「五行歌〜啄木を引き継ぐ21世紀の文学」を行いますので、多くの会員の御来場をお待ちいたしております。
 「五行歌」とは、五七五七五などの字数や季語などの制約なしに五行で思いをかくものです。最近、女優の黒木瞳さんが「五行詩」の本を出し話題になりましたが、中味はほとんど一緒といってよいでしょう。草壁先生は、これを石川啄木が短歌を3行に書いたところにヒントを得「五行歌」という新しい短詩型文学として確立されました。草壁先生には啄木に関する著書もあり、遊座昭吾先生とも懇意にされています。この機会に、「五行歌」とはどんなものか、啄木とどう関係しているのか、創始者から直接話を聞けるチャンスですので、講演を聞くだけでもぜひお気軽にご参集下さい。
 また、御来場の節は、このメールに返信で結構ですから、できれば事前にご連絡を賜れば幸いです。


八木さんがんばってる
投稿日 10月26日(水)23時55分 投稿者 川村(光)@疾風会 削除

火星が大接近中。 盛岡天文同好会が中の橋のたもとで連日連夜望遠鏡を並べて「星空の屋台」と称して市民に星を見せている。昨日など気温5℃。八木さんは黄色いヤッケを着て寒空の下張り切っていました。 天気が良ければ当面 毎日だとか。 行き交うOLなど結構覗いていました。 私がいると敬遠されそうなので早々に退散。 


あれ、読み間違えた
投稿日 10月25日(火)21時34分 投稿者 佐藤(泰) 削除

八木さんの受賞は、2回目か。表彰のランクも上がったわけだね。前回の受賞の話かと読み間違え
ていた。それはめでたい。それをネタに一杯やりたいものですが...

そ、メイク、ホーマックだ。調べてみると北海道が拠点の会社だが、昭和28年に2店目として盛岡に
石田商会を創っている。なんで2店目が盛岡だったんだろう? あの三戸町の店だと思うけど。いまや
北海道・東北に数え切れない数の支店があるね。石田商会はホームセンターの走りだったわけだね。


ふたつ前の投稿
投稿日 10月22日(土)19時36分 投稿者 佐藤(泰) 削除

かなりネィティブな英語の投稿ですね。

ボードを間違えたのかな?


いわく旧聞に属する。話の展開に乗り遅れたものも書いておこう。
投稿日 10月22日(土)09時16分 投稿者 な@疾風会 削除

 盛岡タイムス10月12日に八木淳一郎先輩の長期連載「星めぐり」第141回が載った。
それによると、盛岡天文同好会が(先年は功労賞だったが)「環境大臣賞」を受賞したのだとある。夜空の明るさを長年定点観測してきた活動の評価だそうな。なお、ウエブ紙↓では見られないが、本連載は毎回天体に因んだ世界の切手が(写真で)挿し絵になっている。これも驚くほど続くもので、とにかく八木さん偉い。
 
 この欄で、石田商会(のちにメイク、現在ホーマック)という話題もあったが、高校生当時は上田通りの「内田商店」でペンキやシンナー、ボンド、刷毛を購入したな。向いは宇部文房具店で、ビニールテープ(40円)・模造紙(25円)・ポスターカラー(110円)・のり(20円)・マジックインク(50円)などを買いに行った。
「角材は飯岡木材店、ヘルメット(550円)は内田商店」ン?

http://www.morioka-times.com/news/2005/0510/12/05101207.htm


Q: What do you get when you cross the Go...
投稿日 10月22日(土)07時45分 投稿者 KaciBilly 削除


Q: What do you get when you cross the Godfather with a lawyer?

A: An offer you can't understand

http://www.fcan.info


♪海ゆかば水漬く屍、山ゆかば草むす屍、
投稿日 10月20日(木)09時56分 投稿者 な@疾風会 削除

 これまでに広島へはめったに行っておらないが、宇品(ウジナ)の地名は知っている。路面電車の終点(広島港)だからと思うが、井伏鱒二「黒い雨」の影響であったかもしれない。江田島へは宇品から高速艇で20分ばかり。町村合併で江田島市が誕生していた。
 呉港では戦艦大和が見学できる。映画のセット(原寸大)とはいうものの圧倒される迫力だった。なお、呉といえば以前は三国志(魏呉蜀)を連想し親しみがあったけれど、深作欣二監督の映画「仁義なき戦い」で有名になってからは、私は長居しようと思わなくなった。


江田島ねー
投稿日 10月17日(月)20時58分 投稿者 佐藤(泰) 削除

きょう偶然に会社で海軍の伝統を引き継ぐ海上自衛隊OBの方の講演を聞きました。海軍というのは同じ
軍隊でも陸軍とはだいぶ雰囲気が違うのかな、割と明るい話題が多かった。米内大将の日中戦争不拡大、
の伝統か?

五省というのがあるそうで

一、 至誠(しせい)に悖(もと)るなかりしか
一、 言行に恥ずるなかりしか
一、 気力に欠くるなかりしか
一、 努力に憾(うら)みなかりしか
一、 不精に亘るなかりしか

なかなかいいですね。千田先生もこれを唱えてたのかな。

http://sasa.zero-city.com/gosyou/gosyou.html


♪貴様と俺とは同期の桜、同じ**学校の庭に咲く、
投稿日 10月16日(日)21時43分 投稿者 な@疾風会 削除

 瀬戸内海の江田島に、天測点+一等三角点(海抜542m)探訪に行って来た。

 かつて雑誌少年クラブで人間魚雷回天の話を知り、たいへん怖かった。「同期の桜」なんて歌もその頃覚えた。
 一高では天文部顧問チダ昭夫教師は、廣島縣江田島日本帝国海軍兵學校少年兵の経歴だと聞き、江田島の印象をさらに深くした。
千田先生は肺の病気(人工気胸術)で左肩が下がり、話し方には(特攻隊ではないが)凄みがあった。
 私は千田先生からはっきりとこう言われたことがある。「お前が(大学で)物理をやればオレみたいな先生になるじャ(だから止めておけ、ニヤリ)」


姫神山、七時雨山、田代山
投稿日 10月8日(土)20時51分 投稿者 ヒデオ 削除

岩手山の影を捉えた姫神山の写真驚きました
生まれて初めてみました
里山と奥山、外山と深山の境が姫神山かと思ってました
盛岡タイムスに隔週土曜に里山スケッチというコラムが連載されています
このコラムは以前にも紹介しています疾風会linkから是非盛岡タイムスをご覧ください
里山に七時雨、田代が紹介されびっくり国土地理院のWeb地図を見たらすぐ近くに安代インターがあるではありませんか
昔奥中山から田代平を抜け荒屋新町まで歩いたことがあります 田代平に出たときは本当に感激しました
桜城の学区に戻った「な」さんは行った事ありますか
リンクはウォッちずです もう八幡平市に変わっています
田代平はどんぐりと山猫の裁判広場にうってつけのロケーションです
花巻周辺だと北緯39度20分7秒,東経140度57分23秒のあたりでしょうか

http://watchizu.gsi.go.jp/


3連休の効用
投稿日 10月8日(土)10時58分 投稿者 佐藤(泰) 削除

この秋3回目の3連休。5日働いて2日休みクセついているせいか、ドーモ調子がいかん。

休むのは結構なのでありますが、休み明けが仕事が溜まっていて、大忙し。これがなければ
Welcomeなんですが...

今回の3連休はヒマなので「白堊応援団30」に行って角谷さんと田舎生活談義でもして
こようかな。

みんなもなんか書いでケロ


裏岩手
投稿日 10月6日(木)07時10分 投稿者 佐藤(泰) 削除

「た」さんから岩手山、姫神山、秀逸の6枚が送られてきて、トップページをかざっいます。

とくに1枚目の岩手山の影が姫神に重なるシーンはいいですね。重なり方も微妙で姫神の山の輪郭が出ているところがgood!

またいっぱい送ってください。・・・「た」さん


教授就任おめでとう!
投稿日 10月4日(火)07時18分 投稿者 山田武秋 削除

ほんとうに、よかったですね。去年の登さんの紫綬褒章(疾風会は今年春にお祝会)といい、疾風会は朗報が続きますね。就任祝いを、また、みんなでやりますか。

私の球速は、計ったことないけど、110キロ前後だと思います。草野球では、豪速球ではないけれど、今でも球威で押すタイプです。でも、直球だけだと、ポカスカ打たれるので、カーブとチェンジアップを2〜3年前から混ぜています。でも、直球主体でずっと投げていたので、緩い球を投げるときは勇気がいりました。棒球になって打たれると、直球でホームランを打たれるより悔いが残るからです。
でも、今年の優勝の最大のカギは、守備力です。私自身の投球は去年より今年のほうが制球がよくなくて、四死球が多く、奪三振も少なかったです。でも決定戦を除く本戦で完封3試合、失点1が3試合、失点2が1試合で、最高でも5失点(この時は7-5で勝利)というのは、守備がよかった証拠です。


門出だね
投稿日 10月3日(月)20時39分 投稿者 佐藤(泰) 削除

ゆきお君、教授ですか、すごい! なんといってもわれらの歳で「これから!」というところ
がいいね。おめでとう。奥さん亡くしてたいへんな時でしょうが、グァンバリどころだね。
ということは前橋に住むのかな?通うのかな?

一方、山田君もおめでとう!ランディ・ジョンソン真っ青だね。この歳で完投なんてでき
るものなのか、奇跡だ。1回からハエのとまるような球投げてたら打たれるしね。球速は
どんなモン?


凄いです!
投稿日 10月3日(月)09時49分 投稿者 ゆきお 削除

山田さん! 羨ましいですね。一つの目標に集中した仲間の中では、さぞ盛り上がっている
事でしょう、解りますよ! 私は、妻の死と来年(群馬大教授に赴任内定)の移動があり、
今年(56才)で、正式に野球部を退部しました(7月付け)。残念ですが、妻が居て続けら
れた経緯もあり、ここで生活を立て直すためにも(詳細は省きますが)、「退部は時の流れ」
と割り切るつもりです。諸行無常、everything changes.


早朝草野球リーグ戦で優勝!
投稿日 10月2日(日)18時41分 投稿者 山田武秋 削除

早朝草野球のリーグ戦で今期、優勝いたしました。「四谷リーグ」といって、四谷三丁目近辺の飲み屋さんに集まるメンバーで作ったプライベートリーグ戦ですが、26年続いています。6チームで2試合づつ計10試合、試合は日曜日の朝6時から上智大学のグラウンドで行っています。そこで、私の所属チームが26年目にして初優勝しました。私が全試合投げて、7勝3敗。同率1位チームがあって、今日、プレーオフの決勝戦を行い、10対0の完封勝利で勝つことができました。昨年は1勝もできず最下位で、26年目にしての初優勝ですから、感慨も一入です。また、リーグ史上、最高齢エース(誕生日前だから56歳)の優勝投手、最多勝、最優秀防御率(多分)などなど、内部ではいろいろ話題豊富です。ちなみに、リーグには年齢制限はなく、メンバーは大学生から60歳以上まで、さまざまです。
長い間にはこんな奇跡も起こりますから、母校野球部にも必ずまたチャンスが巡ってくることでしょう。景気付けになればと、御報告させていただきました。


石田商会もなにかと使った
投稿日 10月2日(日)09時07分 投稿者 佐藤(泰) 削除

三戸町に事務所があって、最近では横文字のナントカいう会社になっている?(忘れた)
近くに「水戸外科」の大きな看板があった。

天文台入り口の窓枠のオパールガラス風プラスチックが割れたときに調達しに行った記憶が
よみがえってきた。(かなりアヤフヤ)

「もの作り」の名人は居たねー。ああいう腕がほしかったが、いかんせんこっちは理屈優先で
腕はカラっきしだった。


柳谷は同級生。
投稿日 10月2日(日)06時55分 投稿者 今でも仁王新町に住む・平舘 削除

「やなぎや模型店」の娘っ子は下中の同級生でやんす。
で、その娘っ子の旦那は一高の同級生(ラグビー部)でがんす。


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