在京疾風会・電子掲示板(2002年10月〜12月)

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後藤新平は衛生学者。おそらく、「たJ」さんも衛生学関係の人。
投稿日 12月31日(火)21時30分 投稿者 な@疾風会 削除

鉄道院初代総裁は水沢の3偉人のひとり、後藤新平男爵。後藤新平は、須賀川医学校で学び愛知医学校長兼病院長に就いた医者で衛生局長長与専斉(小説家長与善郎の父、衛生と言う語の創設者)に望まれて、2代目衛生局長として内務省に入り、工場の環境改善など労働衛生に貢献した。のちに台湾総督府長官、満州鉄道総裁、東京市長、NHK初代総裁、などを歴任した。ボーイスカウト初代総裁も後藤新平である。
 
 原敬とは1歳違いの同県人として多くの場面で重要な出会いを残している。ただ、鉄道に関して後藤新平の提唱する広軌は、のちに東海道新幹線で実現するまで主流にならなかった。
 
 そして原敬亡き後は岩手県の鉄道網も、大船渡線がナベヅルに迂回させられたほか、生保内(橋場)線と小本(岩泉)線が中断し、三陸縦貫鉄道は着工されずと、苦難の道をたどった。

http://www.city.mizusawa.iwate.jp/shinpei/


平津戸
投稿日 12月30日(月)11時22分 投稿者 ヒデオ 削除

戦前平津戸ではおにぎりを売っていたとか
アイオン台風で折れたコンクリート橋脚が転がっていたのはこのあたりでしょうか
早池峰の山頂では汽車の汽笛が聞こえたそうです


う〜む
投稿日 12月30日(月)09時40分 投稿者 佐藤(泰) 削除

「た」さんとは...新人さんいらっしゃい

「たか」さん、「たき」さん、「たけ」さん、「たば」さん、「たむ」さん...
とか2文字あると想像もつくのですが。

ひょっとして松草あだりの出でがんすか?


軽便鉄道でもいいから国内鉄道網を敷けと号令した原敬
投稿日 12月29日(日)13時38分 投稿者 な@疾風会 削除

 山田線、横黒線、大船渡線、花輪線、生保内線と立て続けに地方鉄道網を広げたのは原敬総理。帝国議会で、山猿を乗せる気かと揶揄されて、「鉄道規則を読んでいただければわかりますが、猿は乗せないことになっております」と平然と答弁した。他方、鉄道院・満州鉄道側は「わが国は広軌鉄道を建設すべし」と反対が強かったという。
 大正10年11月4日東京駅丸の内南口にて刺殺される。ホテル東日本と七十七銀行ビルの所には原別邸「介寿荘」があり昭和40年頃まで残っていた。私(なかや)はこの道路向いに生れ、レンガ塀の中にもしばしば入って遊んだ。
 「原敬墓のほか一字も彫るべからず」の遺言に基づく大慈寺の墓は有名だが、「森林太郎墓のほか一字も彫るべからず」と石見の人、森鴎外もまねている。陸軍軍医総監までのぼりつめた森鴎外は、今日の日本医師会・医学会と争ってこの道を捨てている。衛生学の教科書も残しており、医師は法律を学ばねばならないと書いた。また自身は生涯、果物を生で食べることはせず煮たり焼いたりした(殺菌の概念が理由)という。大正11年没。

http://www.urban.ne.jp/home/myhrsyuj/ougai/tuwano.html


寒いと起きるドア凍結
投稿日 12月28日(土)21時25分 投稿者 ヒデオ 削除

 松草は花巻以南から宮古に行く切符に経由地として記載されている駅でした
昨日の寒さで新幹線でドア凍結事故があったとか
ドア凍結は冬の山田線では良くあることでした
押しても引いてもだめなら思い切り蹴飛ばすそれでもだめなら運転席のドアを蹴破って乗る
発車時刻が迫っている時はほんと大変でした
昨日の新幹線の凍結事故の時は誰も蹴っ飛ばしたり非常ブレーキ引っ張ったりしなかったのかな
「た」様は今日も出勤ですかご苦労様です通勤は新幹線ですか


♪♭♯ちょっと待って、スイッチバック、スイッチバック♪♭♯
投稿日 12月28日(土)18時29分 投稿者 た@疾風会 削除

歌っているからといって泰Qさんではありません新人です。
松草駅で待っていたのですが、いざ書き込もうとしたら、文字ばけするんで、それを解決すべく奮闘しているうちにおいてかれました。
“おもさげながんす” 一駅です、松草駅まで、スイッチバック願います。

では、松草ということで...石川啄木の歌、一首、
汽車の旅
とある野中の停車場の
松草の香のなつかしかりき
えっ?違ってる?そっかア〜松草じゃなかった、夏草でしたか。、

汽車の旅
とある野中の停車場の
夏草の香のなつかしかりき

遊座先生の不肖の教え子その・..た@疾風会でした。


松草から平津戸まで8隧道、累計30個
投稿日 12月27日(金)17時56分 投稿者 な@疾風会 削除

この区間は国道106号線ならびに閉伊川と平行して列車が通っているように思う。国道は何度も改修を繰り返してスピードアップされた。私(なかや)だって宮古に行くのに山田線ではなく国道を利用するほうがもちろん多いが、閉伊川の流れと鉄橋、トンネルが落葉松やマタタビの木、そして山桜の間に見え隠れするのは非常に心地よい。 
平津戸は、早池峰山への本格的登山口である。ただし利用されるのは、門馬(かどま)というバス停であり、遠野側から登って川井村門馬に下山した場合、JR平津戸まで歩いたとしても停車する列車がうまくあればよいが、となるのであろう。
なお、門馬からの登山ルートはアイオン沢ではない。(昭和23年のアイオン台風ネタも使いたいので、どうぞ情報など教えて下さい)握り沢を使う。ただし、私(なかや)は以前この沢で大きな熊と出くわしているので、最近は使っていない。


松草は寒いよ〜
投稿日 12月27日(金)01時31分 投稿者 こっぺ@疾風会 削除

初夏の頃の区界は緑萌えるのどかな高原ですが 冬はとんでもなく寒いところです。今年の一月のとある真夜中,ひょいと思い立って星を見に区界まで行った事があります。盛岡は氷点下9度でした。雪道を走っていくと中間地点で氷点下15度まで下がり,区界のトンネルを出た所では(道の駅のあたりですね)−22℃。 そのまま松草方面に下っていくとさらに気温は低下し駅のあたりでは−24℃までいきました。さすがにその気温になるともう雪も滑りにくくなって砂利道と同じ感覚で運転できますよ。外に出て息を吸い込むと瞬間的に鼻毛が凍る。入って来る空気が気管に刺さる感じですね。明けがたはもっと寒くなるはず。
寒いところが好きな人(そんな変人めったにいないか・・)にはおすすめのスポットです。星もきれいだしね。今度の冬は藪川の「本州最低気温」ってのを体験してくるかな・・・ 


ウイルス無縁
投稿日 12月25日(水)09時22分 投稿者 ゆきお 削除

MAC-OSX(G4)を使用しています。家庭では携帯電話を
計算機に代用しています。感染の経験が有りません。
バカは風邪引かないって言うしな。得意ワザを一つ
:車を運転しながら長文メールを打つのが自慢です。

明日は、今シーズンの初滑りで那須に行きます。


Re:Re:コンピュータウィルス
投稿日 12月25日(水)00時39分 投稿者 こっぺ@疾風会 削除

どうもツマラン事に気を使わなくちゃいけなくて困りますね。 ウィルスの製造者を特定してお縄にできるソフトを作れませんかね? 誰か考えてくれ〜  


Re:コンピュータウィルス
投稿日 12月24日(火)23時53分 投稿者 村野井(1960) 削除

 シマンテック社のアンティウィルスを入れておりますが、muraichibanからのウィルス入りメールが届いたというメールが時々きます。ウィルス入りメールはyasatouさんやhosi-kさんからも時々きます。それ以外にも覚えのないアドレスから一日おき位にやってきます。多いときは日に5通もきています。
 私は、怪しげなのは開かないようにと心がけるほかないと、半分諦めの境地です。

 夕べは、必要があってアンティウィルスを一旦アンインストールしましたが、ネットは切っておきましたし、このPCそのものは上記アンティウィルスで常時監視しています。いつかウィルスにやられたことがありますが、今は発信元になっていなくてもどこにもぐりこんだのか判らない状態です。

 どうか、皆さんも自衛なさってください。

http://muraichiban.hp.infoseek.co.jp/


コンピュウタウィルス
投稿日 12月24日(火)23時17分 投稿者 こっぺ@疾風会 削除

先ほど来たメールを見たらmuraichibanさんからで ウィルス入りでした。Klezが入っているという警告が出ました。村野井さんがもともとの感染・発信源かどうかはわかりませんが 諸氏ご注意ください。今年の5月頃私はうっかり開けたメールのKlezにはひどい目に遭わされましたので ご注進まで。添付ファイルの付いているメールには特にご注意ください。村野井さん是非早急にシステムのチェックをしてみて下さい。


白樺林がカンラン畑
投稿日 12月23日(月)21時35分 投稿者 ヒデオ 削除

 区界松草間の南斜面に40年前まで素晴らしい白樺林があって林を見るのが楽しみでした
いつの春休みか忘れたけれど林が伐採されていてがっかりした思い出があります
カンラン畑になったのですか


山田線区界から松草までにはトンネルなし
投稿日 12月23日(月)13時16分 投稿者 な@疾風会 削除

盛岡天文同好会は区界に自分たちの天文台を作ろうと動いた時期がある。盛岡子ども科学館ができる前である。県立教育センターの取り壊しで譲られた望遠鏡で小岩井農場に星の天文館を作ることになり、あの話も消えた。

 田代という地名は水田のように開けた地形をいうので、各地にあるが必ずしも稲作地域ではない。ここ川井村田代も北上山系開発の一端で牧草地になったが、酪農で生計が成立つ地でないとして多くは寒冷地野菜に転じた。私(なかや)も県農業改良普及所の生活改良普及員たちと、大根やカンラン(たまな=キャベツ)の収穫が健康に及ぼす影響を調査した。山田線北側の放牧地に比べ、南側一帯は開墾に成功しておらず、狭く傾斜のきつい畑地での作業であった。

 また、昨年6月に私は山岳会の行事で桐の木沢山(1,209m)を登った。往復7時間の超難儀を強いられるヤブ山だった。山菜のシーズンといえども危険なので単独では入ってならない地域だと思う。


「壬生義士伝」再放送情報
投稿日 12月23日(月)07時32分 投稿者 佐藤(泰) 削除

今年の正月の東京12CH系「壬生義士伝」(主演:渡辺謙)が下記にて再放送されます。
(首都圏だけ?)

12/28(土)1部・2部  18:30−21:54
12/29(日)3部     19:00−21:54
12/30(月)4部     19:00−22:04

涙腺が壊れますのでお気をつけください。

なお、映画版(主演:中井貴一)は1月中旬封切りとのことです。

PS.、「天切り松 闇語り」も面白そうだね、ちょっと読んでみるよ>雅邦君


タイムスリップ
投稿日 12月21日(土)23時54分 投稿者 こっぺ@疾風会 削除

小細沢,兼平!か〜 おお 顔が,声が,仕草が,訛りが,ありありと蘇る。今の今まで全く思い出しもしなかったのにねえ。
工藤先輩の「ひェひぇひェ」と笑う声まで聞こえてきちゃったよ。ど〜してんでしょうかね工藤さんは? 


おお!
投稿日 12月21日(土)20時37分 投稿者 佐藤(泰) 削除

兼平君とか小細沢君とか、ナツイねー。彼らは1年の最初は盛岡一高天文部員でも
あったよなー。小細沢君と「よい会」の工藤先輩が難しい哲学論争してたの思い出
した。

理屈コネさせたら「よい会」では工藤先輩と菊池先輩が双璧でしたが、小細沢君は
それの向こうをハッてたのだからたいしたもんだった。「アノナッス」という切り
出し口調まで思い出してきた。


盛岡天文同好会草創期の疾風会員追加記入
投稿日 12月21日(土)16時34分 投稿者 削除

中島Jん、高田としO、O川博正、兼平きいち、こぼそざわ心人、駒木勉(故人)。

 八木淳一郎先輩は 電子メールは使えるものの この頁は読んでないようです。


大泥棒の血
投稿日 12月21日(土)10時34分 投稿者 石川雅邦 削除

浅田次郎さんの小説を読むのは、実は「天切り松 闇がたり 第一巻 闇の花道」が初めてなのです。
「鉄道員(ポッポヤ)」も「プリズンホテル」も「壬生義士伝」も読んでいません。
久しぶりに絵になる小説だと思いました。近年では、池波正太郎、隆慶一郎、藤沢周平さんが好きです。天切り松シリーズは、映画人が映像の世界で一度は世に出したいと思う原作の一つではないでしょうか?
佐藤君の見つけたサイトは、岩手県のサイトからですね。講演は、この天切り松について聞いてみたいのですが、それよりも文庫本の出るのが待ちきれず第三巻 初湯千両を買ってしまった。
岩手県を、そして盛岡をひいきにしてくれたことよりも、作家としての浅田次郎さんに感激してしまったのが、この一連のシリーズです。俺にも、石川五右衛門の血が流れているのかと思ってしまった。


某サイトにて発見>石川君
投稿日 12月20日(金)20時52分 投稿者 佐藤(泰) 削除

これは、特ダネだよ。

雅邦君だよな、和克君じゃないよな。

http://www.pref.iwate.jp/~ritti/b01_kouen/2002_tokyo.html


環境省表彰に輝く八木淳一郎先輩
投稿日 12月20日(金)00時17分 投稿者 こっぺ@疾風会 削除

へ〜そいつはすげ-や 八木さんおめでとうございます って言っても ナナメに見ながら「なになに そんなに持ち上げたってなにもやらないよ」って言われるのが落ちだろうけど やっぱりメデタイ。 「表彰」なんてもんにお近づきになっていただいた事の無い小生はどんなもんかも良くわからんけど 文字通り同じ釜の飯を(飯盒だったかな?)食わせていただいた後輩の端くれとしては率直にうれしいですね。へそ曲がりの八木さんはこのページ見てるかな?


コングラチュレーションズ!
投稿日 12月19日(木)19時49分 投稿者 佐藤(泰) 削除

これはメデタい。

あのときの3年生はマジメな人ばっかりだったからね。とにかく
メデタい。草創期にかかわったモノとしてとても嬉しいです。

ユキオ君もそうなんだっけ?


環境省表彰に輝く八木淳一郎先輩
投稿日 12月19日(木)09時50分 投稿者 な@疾風会 削除

盛岡一高天文部昭和40年卒 八木先輩ですが、
我々の在席当時に創設した 盛岡天文同好会の代表として「大気汚染防止に多大の貢献を果たした功績」で表彰を受けます。
  なかや、コッペ、佐藤(泰)、ユキオとヒデオも 関係したんだよ。 うれしいです。

http://www.hakua.sokei.co.jp/index.htm


高橋克彦氏、齋藤純さんは本名で、中津文彦さんや北上明氏も盛岡在住です
投稿日 12月19日(木)09時33分 投稿者 削除

浅田次郎さんの御家族が盛岡のマンションに住んでおられます。
学生なので詮索しないで下さい、とおっしゃっています。


浅田次郎さんと盛岡
投稿日 12月18日(水)20時46分 投稿者 石川 削除

浅田次郎さん原作の壬生義士伝が放映されて1年。夕顔瀬橋におけるラストシーンなどが思い起こされます。そういえば、あれ以来、女房に文句をつけられると、「おもさげながんす」と言っては、ごまかす癖がついた。それとは関係ないのですが、やはり浅田次郎さんの原作で、「天切り松 闇語り 第二巻 残侠」
の中で、第五夜 花と錨の内容に、振袖おこんという女すりに惚れる海軍中尉 峯岸真吾の学歴の欄に、盛岡中学校を経て、大正五年海軍兵学校水雷科卒業とあります。浅田さんは盛岡に対して思い入れがあるようですが?誰かその理由教えてください。それはともかく、原作がとても面白い。映画にしてくれないかな。テレビは、泥棒の物語なので教育上宜しくないかもしれませんが。


旧宮古街道は歴史の道。史跡がたくさん見られる。
投稿日 12月18日(水)11時48分 投稿者 な@疾風会 削除

五十集と書いてイサバと読む、宮古からの魚介類を運搬するいわゆる塩の道。この旧宮古街道は現在の国道106号とほとんど重なっておらず、歴史を辿る野外教育に活かされているので案内者がつけば、こちらはずっと面白い。区界駅から線路の向う側を盆花という部落へ山道を下る。簗川一里塚、旧簗川小学校、曽利田一里塚、大倉峠一里塚(天狗岩)、高畑一里塚、次が佐藤(泰)さんがお好きの競馬場(八木田一里塚)。終点は盛岡城下警備の拠点、惣門だ。
区界から歩けば全25kmの健脚向きコース。

このあと陸羽街道(のちの奥州街道)につないで、紺屋町、緑ヶ丘(旧ドミニカン修道院)、松園ニュータウンの先の小野松一里塚、玉山村渋民、と全部北上川の東を北行して一里塚をたどるのも一興であろう。


「昭和19年3月12日、雪崩で山田線鉄橋から貨物列車転覆す」
投稿日 12月17日(火)09時51分 投稿者 な@疾風会 削除

表題の実話に基づいた盛岡鉄道局管内の父子3代にわたる感動の物語が「大いなる旅路」だということです(昭和歴史の語り部某より)。
未確認情報では、平津戸〜川内間の鉄橋上のことだそうですので、図書館で新聞を調べてから、紀行文の来週分でとりあげますがいいですか。
中田氏はもとより、ちばひDき君、Fじ林Aきのり君など往年の国鉄マン家族はお詳しいのではないでしょうか。

 なお、次回の「塩の道」に引き続き、今後「原敬と後藤新平」「青松葉山、桐の木沢山」「田代の高原野菜」を取り上げますので、あらかじめ予告しておきたいと思います。山田線の旅行者なかや拝。


大志田でしたか
投稿日 12月17日(火)05時58分 投稿者 ヒデオ 削除

 ありがとうございますハチロクが雪崩で脱線転覆するシーンは圧巻でしたこれは実話に基づいたシーンでした
不謹慎にも脱線転覆ついでに
大いなる旅路はデコちゃんではなく風見章子さんでした 彼女は島耕二監督作品「風の又三郎」に出演しています
デコちゃんは馬に出演盛岡でロケをしています後に木下恵介監督の下で助監督をしていた医専出身の松山善三さんと結婚 「喜びも・・・」で共演した佐田啓二の息子は映画壬生義士伝に出演 娘は盛岡出身の医師と結婚しています
善三さんは「な」さんのお父さんに教わったのかな
 


大いなる旅路
投稿日 12月15日(日)21時45分 投稿者 村野井(1960) 削除

 女優は高峰秀子ではなかったですか? どんな物語かも忘れたけれど、老いて三国連太郎と高峰秀子が並んで特急で旅するシーンが思い浮かぶ。『喜びも悲しみも幾歳月』と混同しているかナァ。列車転覆シーンは大志田駅あたりのような気がします。雪の場面でワンカットの一発勝負というような記事を岩手日報で読みました。

http://muraichiban.hp.infoseek.co.jp/


すいません乗り越ししました
投稿日 12月15日(日)06時36分 投稿者 ヒデオ@疾風会 削除

 ごめん うっかり寝過ごしました スイッチバックは山田線のかっての名物時々戻ります
うっかり乗り違えるとすると大変な路線でした
 タイトルシーン盛岡駅は建替え前の花巻駅が出演していました


トンネル数は、・・穴と数えるか?
投稿日 12月14日(土)21時58分 投稿者 な@疾風会 削除

浅岸まで19個数えて、それから飛鳥トンネル3個(3穴?)で区界駅でしたので、計22でした。
村野井先輩のご指摘で間違いに気づきました。ありがとうございます。ついでに、「大いなる旅路」へのレスポンスもお願いできましょうか。
だって、ヒデオ、俺等小学生だったでしょ、よく知ってるね。浅岸のシーンだったかな。
確かに雪崩で山田線列車が脱線してしまう映画は覚えてますよ。やはりポッポヤ高倉健と三国連太郎でしたかね。
 反射板というのは、兜明神岳の先の岩神山(1103m)でしょう。岩のピークが二つあって、一方に電波反射板、他方の岩に三角点があるのだけれど、ここまで行って来る話は予備のキープネタだったんだわさ。ちょっと待ってよ。それと遠足の児童が集団食中毒を起こしたのは、岩手の公衆衛生歴史上、大変な事態だったし、管轄が宮古保健所で盛岡から行くより3倍も時間がかかったなんて話題もある。放牧牛が汚染源となったカンピロバクター中毒の嚆矢だったと思うよ。
浅岸小学校の疑問ももう少し前に出ていれば、旧浅岸小学校と現在の状況、そして「浅岸駅が浅岸でないところにある」という項目を一日設ける案もあったがはしょったのだ、などいっぱい追加が出てくるでないかい。コッペじゃないけど俺(なかや)もヒデオちゃんには振り回されるなァ。ああ。


区界浅岸
投稿日 12月14日(土)17時59分 投稿者 ヒデオ@疾風会 削除

 浅岸の駅前に小さな学校があったけれど今どうなってるんだろう
映画大いなる旅路でなだれのシーンがあったけれどあれは浅岸or大志田
春先のトンネル内の漏水によってできるツララは怖かった 真冬のときは窓一面に氷が張りました
暖房で水蒸気が窓につき冷やされ凍ってしまうのです
盛岡に向かうとき飛鳥トンネルでのブレーキは補給制動で機関士の腕の見せ所でした
トンネルとトンネルの合間に見える南昌山北上平野は驚きでした
マイクロウェーブ反射板からの眺めはコッペさんご報告願います宮古側も教えてください
 カンピロバクターですか放牧の過密それともごみ処理場地下水脈が汚染されたのでしょうか
ごみ処理場のための山を血眼になって探している状況ですご用心


区界かぁ
投稿日 12月13日(金)22時15分 投稿者 村野井(1960) 削除

 小学校4年生のときか遠足で行きました。区界駅からすぐ急な登りだったと思うけど、3年程前に車で連れて行かれたのは道の駅。道の駅から兜明神までは往復1時間足らずのハイキングコースみたいでしたね。遠足のときは頂上の岩の数メートル手前で引返した。何か転げ落ちそうな気がしてしまって・・・。あそこから雄大な岩手山が眺められた。山田線のトンネルは区界までにいくつあったのだろう。蒸気機関車の煙が入ってきて息もできない感じでした。
 川井村のホームページに兜明神の写真があるはず。
 http://www.vill.kawai.iwate.jp/index2.html

http://muraichiban.hp.infoseek.co.jp/


区界高原、兜明神岳は通称かぶと山の話
投稿日 12月13日(金)20時43分 投稿者 な@疾風会 削除

浅岸から区界までは飛鳥隧道と名がつけられたトンネルが3個で通算21。「飛鳥」は106号線に同名のバス停があるが、実際の集落は国道よりずっと離れている。もちろんトンネル付近に住居はない。「長いトンネルを出ると、そこが峠」で区界駅。ここは道の駅も近い。
 スキー場があったよ、というお方は結構ご年配。しかも学校ぐるみ・町内会・子ども会で盛岡から山田線列車で来たよな、と懐かしい。
 現在は盛岡市教育委員会の「少年自然の家」を中心に四季を通して白樺林で野外活動が盛んに行われている。ただし湧き水「兜清水」はカンピロバクター中毒を起こして以来、飲用厳禁とされた(宮古保健所長命令)。
盛岡41会のKさん、初デートはレストランをでた後、区界方面へドライブし、そのまま成り行きで兜明神登山とあいなった。かかとの高い靴のままで「すぐだから。ちょっとだから」と、すっかりだまされて、、、、とは、まんざらでなくて結婚したのであろうK夫人(岩手医大勤務)ののろけを聞いた。


何でそんなにタフなの?
投稿日 12月13日(金)00時07分 投稿者 こっぺ@川村光郎 削除

しっかしラグビー部の連中はタフだね〜!! わたしなんぞ九ちゃんと同じことしたら即入院間違い無し。いまごろホータイやらギプスでぐるぐる巻きだわ。


果敢激突!
投稿日 12月11日(水)19時55分 投稿者 佐藤(泰) 削除

いいですねー、ラグビー部。

 闘志と闘志の触るる〜音〜、ああその音を君聞くや〜 ♪♭♯

第九応援歌はラグビー部のためにあるようなもの。

最近歌ばっかでスイマセン。


ガマとの定期戦
投稿日 12月10日(火)16時53分 投稿者 坂本 哲洋 削除

まずは、星さん在京白亜会での楽しい話しをありがとうございました。
世代を越えて語りあえるのは、やはり「ラグビー」というキーワード
があるためだと思っています。

前回予告通り12月8日、白亜クラブ(一高OB)とガマクラブの定
期戦に参加してきました。
実は前日の12月7日、ラグビー部の在京白亜会がありました。
当初出席する予定はなかったのですが、藤原哲君がでるし、我々の2
年先輩のキャプテンだった三浦さんと、村上さんが参加するというの
で、我々の同期のうち髭ちゃんと東海林君の3人で出席しました。後
からご隠居(吉田貢君)も出席でなんと同期は5名も集まりました。
懐かしい方々に会って楽しい一時でした。

うって変わって次の日。
朝目を覚ましたら雨。ふとんの中でしばし思案。うとうとしていたら
10時。そろそろと起きだして外を見ると、少年野球の声が聞こえる。
雨があがっている。急に体がうずきだした。あわてて着替えて飛び出
す。1時間位遅刻だが、キックオフには十分間に合う。

幸いグランドは芝。あまり雨の影響もないようだ。しかし寒い。
試合は20分を3本。
哲は2本目と3本目にでる。元気。
私の方は、またいいところなし。試合開始早々ラックからボールがこ
ぼれてきてサイドが空いていたので、抜けようとしたまではよかった
が、左から強烈なタックルを受けて、脇腹と左膝を傷めてしまった。
昔なら絶対抜ける間合いだったのだが。自分の思いと体の動きにはか
なりギャップがあるみたいだ。試合をこなしていないと、なかなか修
正できない。その後、どうしようかと迷いながら、つい20分間やっ
てしまった。

先輩では、田村さん(赤パンツ)が3本目にでて見事なフォローでト
ライ。もっともゴール前でノーマークの若いやつからパスを貰っての
トライ。最近の若い奴にしては感心だとおもったら、世話役の大谷さ
んの息子だという。村上さんは、最後の5分位の出場。もの足りなく
ないですかと聞いたら、この位がちょうどいいといってましたが?
見学はご隠居のみ。寒い1日でしたが、楽しんだ1日でした。
ちなみにスコアは、60対26(?)で白亜の圧勝。もっとも白亜は
学生から結構若いのがいたから無理もない。ガマは年寄りが多い。

髭ちゃん、来年こそは一緒に試合にでよう!


疾風会ラグビー部
投稿日 12月9日(月)15時46分 投稿者 白堊博物館長 星 削除

 12月7日夕、新橋は「升亀」で行われた白堊ラグビー部OB会で、疾風会ラグビー部4人に会った。以前「minimini白堊会」でお目にかかったヒゲちゃんのほか坂本・東海林・吉田の諸氏。今でも現役でラグビーをやっている人も居てなかなか元気だ。当日は冷たい雨が降り、翌日の定期戦の時も降り続いたが、試合の方はどうだったのだろう。この長雨が昨夜半から雪に変わり当地(相模原)では20cm以上つもっている。
 それにしても、10年ほど年次の違う疾風会には、いっしょに在学中していたような親近感を覚えるのはなぜだろう。彼らが2代目白堊城を目撃しているせいなのか…

http://www1.sphere.ne.jp/hakuaoen/


千葉は雪
投稿日 12月9日(月)09時00分 投稿者 ゆきお 削除

今日(千葉)は雪だ。5cmくらい積もってるかな? 自慢の四駆で出勤(5分
だけど!)した。昼からは KEK(筑波)だ。途中の景色とドライブ、楽しみ。


中津川上流、浅岸駅周辺のハイキング
投稿日 12月8日(日)18時51分 投稿者 な@疾風会 削除

かつてスイッチバックで人気があった浅岸駅も、英夫くんが紹介したように、早朝と夜に1回ずつ停車するだけ(大きい時刻表にのみ掲載)で、日中の列車はアナウンスもなく通過する。
だからこそというか、大学鉄道研究会みたいなのが「国内全線全駅乗降記録」のため、はるばる来るというからご苦労なことだ。
 米内川上流の大志田駅かいわいと、中津川の上流である浅岸駅付近の静かな山道を、釣りファン、蝶々マニア、野鳥の会、残雪期のバッケ採り、「薮こぎ同好会」など多彩な人が四季行き来している。ただし、通行止めになることも頻繁で、区界への近道だ、などと勘違いなさらぬこと。この、中津川の源流をどこまでもさかのぼると阿倍貞任の隠し砦という阿部館山(1218m)に到達する。季節にはマイタケとか天然ワサビに出会えるかも。


沼宮内の思い出
投稿日 12月8日(日)09時14分 投稿者 佐藤(泰) 削除

昔叔母夫婦が住んでたので小さい頃遊びにいったよ。私の名づけ親は叔母の旦那だということ
でもあった。昔は名づけを親戚に頼んだりしたんだね。その旦那は指圧師をやっていて、
沼宮内では信望があるインテリだったそうだ。私の記憶だと、小林亜星のイメージでしたナ。

あの細長い街並み、大きく見える岩手山、、、叔父、叔母の墓参りをかねて今度
「いわて沼宮内」に行ってみよ。


トンネルばかりの新幹線だけれどもこういう見方もできる。
投稿日 12月7日(土)19時03分 投稿者 な@疾風会 削除

トンネルを出たばかりのはやてを、是非石神の丘美術館↓から見てみよう。
屋外モニュメントを前景に、背後には姫神山。
北緯40°、北京、アンカラ、マドリードと同緯度の岩手町、新駅名は「いわて沼宮内駅」だね、柴田和KOさん。

あ、ことしから日本中の緯度経度が世界測地系に変更されたので、これまでの40°標も130mくらい移動しなきゃならないよ。全ての地図が書き換えられています。これホントの話。

http://www.town.iwate.iwate.jp/museum/index.htm


東北本線八戸駅舎はとんでもなく立派になりました。
投稿日 12月7日(土)09時26分 投稿者 な@疾風会 削除

新幹線八戸駅は、これまでの八戸駅、昔の尻内です。尻内という漢字をみた中国からの留学生は、顔を真っ赤にして「ダメです、これは恥ずかしい意味です」と大騒ぎしました。
30年前に消えた金田一村も覚えていましょうか。今の金田一温泉駅はJRからIGRいわて銀河鉄道の所管に変わりました。次の目時から八戸までが「青いリンゴ森鉄道(?)」(正式にはリンゴはありませんよ)になったのです。なお、八戸線や、花輪線、山田線は従来どおりJRで、各社のロゴマークをつけた列車が入り乱れて走っています(全部乗換えが必要だという噂でしたが違いました)。

そして山田線の旅ですが、近々本部疾風会(はやてと読むのかい)がありそうなので、感想などを仕入れてから区界駅に進むつもりです。よろしく。


八戸は元の尻内?
投稿日 12月6日(金)23時31分 投稿者 村野井(1960) 削除

 八戸は元の尻内ですか? それとも本来の八戸ですか? 尻内なんて字面も悪く大分前に八戸に変更したのは知っていますが。
 東北新幹線の八戸までの延伸にともなって盛岡以北の在来線が不便になるは値上げはするは、土地の人たちは困っているというのは知っていましたが、当地にまで影響があるとは思いませんでした。「常磐線」と言ったら、東北「本線」よりも東京に近く、こちらの方が「トランクライン」だったのですがねぇ。
 つまり、今まで盛岡に行くのに、常磐線は東北新幹線と「乗継」だったのに、延伸したらそれがなくなり、接続も悪くなりました。「はやて」は全車指定席の上に盛岡から日立なら仙台で乗換時間がなくなった。ということで、時間も料金も余計にかかる。
 山田線の話題で盛り上がってますな。楽しく読ませてもらってます。

http://muraichiban.hp.infoseek.co.jp/


トンネルの割合
投稿日 12月6日(金)22時58分 投稿者 コッペ@川村光郎 削除

夕方のTV番組で言ってましたが盛岡―八戸のトンネルの比率 なんと73%だって  ほとんど地下鉄だね


腺じゃなく線でした
投稿日 12月6日(金)16時56分 投稿者 コッペ@川村光郎 削除

どうも医学用語が優先になってるようで・・・失礼 


山田腺じゃないけど
投稿日 12月6日(金)16時54分 投稿者 コッペ@川村光郎 削除

東北新幹線 盛岡以北はほとんどトンネルだそうです 何といっても陸上世界最長のトンネルがあるからね。八戸まで約100` 30分 ず〜っと闇の中。楽しくないな。 山田線ののどかなトンネル行脚とは違うからね


八戸開通記念・「はやて弁当」は...
投稿日 12月4日(水)21時14分 投稿者 佐藤(泰) 削除

アルマイト製弁当箱に入って¥1600。宣伝ポスターによると、蓋には疾走するわれらが
ヒーロー月光仮面と同じく疾走する「はやて」が並んで描かれていました。買おうと思ったら
売り切れ、だと。ザンネン。

♪♭♯ 疾風(はやて)のように現れて ♪♭♯ 疾風のように去ってゆく〜 ♪♭♯




おお、懐かしい名前
投稿日 12月3日(火)21時53分 投稿者 佐藤(泰) 削除

上戸鎖君は、「カミトサ」から「オヤジ」(上戸鎖君のアダ名)に行き着く歴史を
1年3組加藤学級の自己紹介でエンエンと語っていたのを思い出す。松山君は歯を
抜くのがカミワザのごとくなったという評判だ。

ほれほれ、上戸鎖君、松山君、出番だよ。


外山高原へのクラスハイクは覚えてますか?
投稿日 12月3日(火)17時03分 投稿者 な@疾風会 削除

山田線大志田駅で降りて40分ほど山道をたどると外山ダムに出る。
 外山高原を目的に列車で遠足という団体はもうおるまいが、今の道はかなり広くなっている。
一高時代にクラスハイクとかでここを通った人は多いはずなのだけれど、そんなに覚えていないのではないか。
後輩と話してみても、バスでもいける区界高原と混同しているようなところがある。
 私は雨の日の記憶がある。ズック靴が汚れたもので、確か下駄では行かなかった。
徐々に同行のメンバーの顔も思い出されてきた。
ほれ、松山光Oくん、上戸鎖よしOくん、、、。


はやて(疾風)も走りだした
投稿日 12月3日(火)06時35分 投稿者 佐藤(泰) 削除

きのうの東北新幹線・東京駅は混んでいたよ、
はやて(疾風)が走り出したことと、師走になったせいらしい。

鉄道の歴史、偉大なり。


(いわて銀河鉄道が発足してしまった)
投稿日 12月2日(月)21時38分 投稿者 な@疾風会 削除

これまでのあらすじ

盛岡駅から宮古までトンネルを数えながら紀行文にして掲示板への書き込みしよう。
10月30日を第1回に、沿線ネタで続ければ12月のいわて銀河鉄道(IGR)が発足する時には、ちょうど山田線を語り終えているだろうと、53歳なかやは考えた。
ところが上盛岡、山岸、上米内と進み、現在はまだ大志田駅と浅岸にかかったところにいる。
そして、スイッチバックがどうなったか、という話題が盛り上がったが、、、。
 


へ〜
投稿日 12月1日(日)21時59分 投稿者 コッペ@川村光郎 削除

どの世界にもマニアはいるんだねぇ〜 と感心。そいつを見つけ出す英夫氏にもまた感心。 こんな時インタネットってすごいなあと思いますですねー なんかオソロシイくらいだ


I love switch back
投稿日 12月1日(日)20時16分 投稿者 ヒデオ 削除

というサイトがありますごらんください
阿蘇の中学生の自由研究も是非ご覧ください 興味あればメインのページもご覧ください
http://aso.jhs.choyo.kumamoto.jp/jhs/subjects/gizyutu/97/imamuka/5switch/suittibatku.html
汽車が勾配を登っていく姿は興奮しますな
台湾の山岳鉄道で使っていた火車-蒸気機関車はピストンでなくウォームギァを使っているものがあります

http://web.ffn.ne.jp/~egamifam/index.htm


大反響に急かされて、スイッチバックネタを先にせざるを得ないワイ
投稿日 12月1日(日)16時34分 投稿者 な@疾風会 削除

大志田駅および次の浅岸駅にあったスイッチバックを期待しても、とうにそれはない。
 傾斜がきつくて登れないため、「大井川鉄道ではアプト式」「碓氷峠はスイッチバック」と教わってきたはずだが、今の線路はまっすぐつながっているのだ。
なぜ廃止されたのか、汽車より馬力があるディーゼルだから、なあに客がいなくて軽いからだ、とか理由を考えたが、
正解は「すれ違いのため待機しなければならないほど列車が通らないからです」とちゃんと物の本に書いてあった。
「旧線路の跡を辿る」という趣味の本も人気が高いが、大志田駅のスイッチバックの痕跡を確かめよう、というのも謎めいていて興味深い。


ウ〜ムさすがだ〜
投稿日 11月30日(土)23時36分 投稿者 コッペ 削除

九ちゃんのスイッチバックの「嘘つき呼ばわり・・云々」は災難でした。 でもいつ廃止になったかはちょっとわからないな。どなたか知っている人教えて下さい。 それにしても英夫ちゃんの情報魔ぶりは相変らず健在だね〜。一体ドッからあんたなページを探し出すのやら・・・しかし懐かしい写真がいっぺあるな。 できたらそのまた昔の盛岡駅の写真も見たいもんだ なんか記憶の底では三角の屋根だったような・・


スイッチバックについて
投稿日 11月30日(土)22時33分 投稿者 坂本 哲洋 削除

「な」さんの山田線の旅、懐かしく拝見しています。そのうちに
スイッチバックの話しがでてくるかなと期待していたのですが、
「コッペ君」の投稿があったので長年の疑問が氷解しました。

山田線には昔「スイッチバック」があったと記憶していたのです
が?10年位前、家族で浪板海岸に行く時、久しぶりに山田線の
お世話になったのですが、そんな箇所がありませんでした。
その頃小学生だった子供には、これからおもしろい所があると期
待を持たせて、何もなく、「嘘付き」呼ばわりされてしまった、
苦い経験がありました。
私の記憶違いで箱根と混同したのか、今は廃止になってしまった
のか、それ以来疑問に思っていました。
「コッペ君」の話しで記憶違いではなく確かにあったとわかりま
したが、何時頃廃止になったのか、その辺の詳しい方教えて下さ
い。確か昭和43年頃まではあったような?

ところで久しぶりにラグビーの話。
ラグビーシーズンも佳境に入り、おもしろい試合が続いています。
優勝は、社会人はサントリー、大学は早稲田かなというのが、今の
所の予想です。もっともサントリーは今日のNEC戦はかなり苦戦
していたけど。明日の早明戦もおもしろいな。いつも前評判の悪い
方が頑張るから。

私もこの10日に世田谷協会設立20周年の記念大会があり久しぶ
りの試合をしました。これまた久しぶり(約1年ぶり)にトライを
しました。もっとも相手が東京の不惑の60代(通称赤パンツ)な
ので、あまり自慢はできませんが。しかし60代とはいっても、毎
週試合をしている強者ばかりで、気を抜くとやられてしまうし、微
妙な試合でした。実際あわやトライされそうな場面が2回位ありま
した。
 
この12月8日には、一高OBとガマクラブの定期戦が昨年と同じ
クボタのグランドであります。藤原哲君も出てくるそうです。
また一緒に試合をするのが楽しみです。


山田線の駅名表示
投稿日 11月30日(土)21時40分 投稿者 ヒデオ 削除

現在の駅名表示です岩泉線も混じってます

http://www.hakueikun.jp/WEEKI/WEEKIQ.HTM


誰を乗せて走るのか
投稿日 11月30日(土)21時37分 投稿者 ヒデオ 削除

 昔山田線の建設計画のとき国会での質問だったとか
「な」さんの書き込みを読み時刻表を確かめたら快速も区界に停まらない人家がそばにないところは朝に上りか下り夕はその逆という具合 乗客が少ないといってもちょっとさびしい
こんなにずたずたになったのはアイオン台風以来ですね 
記憶にはありませんが一歳の頃母が私を連れて釜石と宮古に行く時仙人峠を山篭で越えたそうです
昔の山田線の風景は下をクリック 

http://www.bunka.pref.iwate.jp/natsukashi/station/yamadasen.html


♪♭♯速いぞはやいぞ窓の外〜♪♭♯
投稿日 11月30日(土)09時46分 投稿者 佐藤(泰) 削除

T/O


スイッチバック
投稿日 11月30日(土)02時30分 投稿者 コッペ 削除

大志田はスイッチバックで有名だったね。蒸気機関車で引っ張っていた頃は登坂能力に乏しくて浅岸と大志田の二ヶ所でスイッチバック方式で坂を登っていたんじゃなかったかな? それぞれの停車時間が長くて悠長なもんだった。特に大志田は随分あとまでこの方式でやっていたように記憶してる。なかなか大掛かりな儀式で行ったり来たり。気が付くとさっき停まっていた駅がすぐ真下に見えたりで子供心に新鮮だった。 え? 今 山田線の客車って一日に一本なの? 


宮古行きバス(106号線)は山田線沿いに走らない。
投稿日 11月29日(金)21時27分 投稿者 な@疾風会 削除

 上米内駅から先は一気に山の中に突入してトンネルが連続する。○○第1隧道、○○第2隧道、… 第4、第5と名称が読めた。そのあとの6番目、7番目、8番目は立て続けに長かった。ついに計17個(累計19トンネル)、うーん、山田線。

 停車場は大志田駅。列車に乗らないと行けない、帰れない、という場所が大志田かいわい。大志田駅から浅岸駅までは盛岡市の郊外ハイキングコースとして指定され、教育委員会保健体育課にいけばガイドマップをくれる。
 しかし、山田線の時刻表をご覧いただきたい、1日1本だけの列車をあてにしての遠足が本当に人気になるのだろうか。


んだば天気の(好い)日にサイクリングかハイキングで。
投稿日 11月27日(水)23時32分 投稿者 な@疾風会 削除

 自転車で山田線沿いに上米内まで行くには、歩道のない交通量の多い道路だけに多少怖い思いをします。 一度、犬を連れた時は安全だからと線路を歩いたのですが、鉄橋にかかると下の川が見えるからと怖がってどうしても進まなくなってしまったです。
 なお、5月の下旬頃ならば、北山から、愛宕山を経て岩泉街道に出て、カキツバタ群落、名乗、庄ヶ畑などの集落を通って行けば、タラの芽採りが楽しめます。


盛岡弁が中途ハンパであんした
投稿日 11月26日(火)18時54分 投稿者 佐藤(泰) 削除

ネィテブ・モリオカンの発音表記は下記が正しいです。

オメダヅの話ッコ聞いだバ(読んだバ)行ってみたぐなったジャ。

こんど帰盛のどぎハ(ha)、上盛岡駅がら善友保育園サ寄り道してがら上米内サいって
みるごどにするべ。

注:「ha」は「wa」ではなく「ha」と発音するという意味であります。いいなー、盛岡弁
   は味ッコあって。


風水都市盛岡
投稿日 11月25日(月)21時21分 投稿者 ヒデオ 削除

 米内のお寺の位置浄水場の位置京都とそっくり小京都と盛岡を紹介するなら米内によらないと
ヨナイのナイは沢とか川の合流点の意味だったと思うけどヨはどういう意味なんでしょうか
下記URLは京都の疎水の地図です
高洞山にはキャンプでお世話になりましたオーナーの先生に感謝

http://www.city.kyoto.jp/suido/sosuiryakuzu.jpg


上米内の浄水場は行ったことないが...
投稿日 11月25日(月)20時32分 投稿者 佐藤(泰) 削除

みんなの話聞いて(読んで)みたら行ってみたくなったジャ。

こんど帰盛したときは、上盛岡駅から善友保育園に寄り道してから上米内さいって
みるごどにするべ。


高洞山はお宝やま
投稿日 11月25日(月)11時48分 投稿者 な@疾風会 削除

  高洞(たかぼら)山は、上米内駅を登山口に(遠慮して迂回しようとすると道がわからなくなる。構内を横切らせてもらうのが一番)南に1時間半、少々荒れた道ではあるが標高522mの家族ハイキング向きの山である。岩山(341m)からもよく見える。岩山を起点に一日で上米内までヤブこぎで踏破できるという話もある。
  好事家の世界ではということになるが、植物採集や昆虫採りには、本邦貴重種の採集地としてわりと良く知られたお宝の地なのである。ただし、この山は盛岡の医師個人の私有地だということだ。
 
  生物部 千葉ひD樹くん(疾風会)、彼は今でも蝶々博士を気取っているかしらん。
  (↓下記URLの米内浄水場からの写真に見えるのが高洞山)

http://www.jdpa.gr.jp/siryou_html/70html/70_morioka.html


「水道坊やの旅」
投稿日 11月24日(日)23時43分 投稿者 な@疾風会 削除

 雨水が川になって取水され、沈殿池、ろ過池を経て、塩素滅菌されて配水される。この話は水道記念館を見学されたらよい。入場無料。
緩速ろ過池と急速ろ過池が共存している米内浄水場は、全国に類を見ないので公衆衛生学の授業の一環で私らが引率して医大生、看護学生に見学させてきたのだった(お花見ではないです)。
実は今ではあの沈殿池の水はほとんど実用にされておらずポーズとして「盛岡の水源」を見せているだけなのだ。左奥の建物の中にあるプールで、塩化アルミニウムを投入し、強制沈殿(ろ過速度が300倍違う)して水道が誕生する。その後は岩山途中にある新庄配水場に送られている。


よく前を通ります
投稿日 11月24日(日)22時20分 投稿者 コッペ 削除

上米内の浄水場は今も昔のままの面影。周辺に住宅は少しは建ってきたがまだまだド田舎ですよ。ご安心あれ。
場内には今でも比較的自由に入る事が出来る。沈殿池の回りには英夫ちゃんの言うように味のある石造りの建物(小屋ってのか?)が並んでいる。春はしだれ桜を観に大勢の人が集るけど,それ以外の時は閑散としてますね。 場内入って右手,北東の隅にアケビのからんだ東屋がある。そのすぐうしろが取水口で 首都圏の人が見たら羨ましがるような清冽な水が豊富に供給されている。 え?どうしてそんなにしょっちゅう前を通るかって? 国道が混んでいる時の裏道のそのまた裏道ですね 私にとって。 


山田線列車の始発・終点にもなる上米内駅
投稿日 11月21日(木)22時45分 投稿者 な@疾風会 削除

 朝夕の山田線列車は上米内駅が始発・終着となる。そして、盛岡と区界の間で上り下りの列車が交換できるのは、今ではここしかない。その時間は駅員が駐在するというか、改札口かホームに立つ。
 もっとも時間帯で無人になる駅は、東北本線ですら厨川駅や仙北町駅などいくらでも挙げられ珍しくもない。

 私(なかや)も少し上米内駅周辺を語りたいので24日まで暫時停車したいと思います。


ボクらを乗せてシュッポシュッポシュッポッポ♪♪♭♯
投稿日 11月21日(木)22時03分 投稿者 佐藤(泰) 削除

T/O


米内といえば・・・・
投稿日 11月21日(木)00時46分 投稿者 kawamura.k 削除

山岸駅から米内への途中の左手に その昔サナトリウムという結核療養所があった。その当時は繁盛していて山の上まで病棟があった。親父がそこの院長だったので小学1,2年の私は時々病院にくっついていっちゃ遊んでいた。それこそ自然豊か というか自然しかない環境だった。病院の中を隈なく探検したり患者さんたちや給食のおじさんにかわいがってもらった記憶がある。 今にして思えばサナトリウムに連れていくだけなら兎も角,結核患者と息子を平気で遊ばせた親父も親父だと思うけれど まあスベカラクのどかな時代だったという事かな。 今は市内ではめったに見る事が出来なくなったセミがそれこそうるさいくらいに鳴いていた。近くの川ではカジカがたくさん獲れたね・・そういえばあの辺りは縄文土器,石器がたくさん出るところで中学時代は大川知氏とか木村進氏と採りに行った記憶がある。中田氏の言うように民俗学の宝庫だったかもしれない。・・・いまや影も形もないけれど


ああ 懐かしき 上米内
投稿日 11月20日(水)11時00分 投稿者 中田功一 削除

今はなき親父が駅長だったせいもあり、高校1年と2年は、上米内から汽車通。2年の頃はバイクで通ったりもしたが、懐かしいところ。今思えば、道楽でしている民俗学の資料の豊富なところだったのだが。今は都会で民俗調査は成立せず。


鉄橋から米内川を見おろして走る。下米内から上米内まで。
投稿日 11月19日(火)12時04分 投稿者 な@疾風会 削除

 下米内ニュータウンがここらの風景を一変した。
それにつけても浅岸橋と水道橋とはなつかしい。これより先の中津川は、護岸工事というのか、立派な水路が作られて綱取ダムまでさかのぼることができる。二ツ森は市民の散策コース。
 一方、こちらが主流かとも思える流れが米内(よない)川で、かかっている橋が落合橋。山田線は大きく北に向きを変えて米内川沿いにというか、たびたび川の上を線路がわたっていく。
なんだこの古い建物は、と通り過ぎるのは米内発電所。それを知っている人は、山の上からの2本の水路が外山ダムからずっと引いて来たものだということもご存知だろう。
 
そして2つ目のトンネルを出ればすぐ上米内(かみよない)駅に到着す。


山岸は南部のお城の鬼門。中津川は重要な外堀。
投稿日 11月19日(火)09時36分 投稿者 な@疾風会 削除

 不来方城の北東に位置することで最も重要な、知る人ぞ知る(知らぬ人は知らない)永福寺は、列車が止まっている間に少し観察できる。
 
 山岸駅を出ると右手に川が見えるが、そう中津川なのだ。近年、中津川橋という吊り橋を模したか虹のイメージなのか歩行者専用の橋ができた。山田線には関係ないが、「中津川にかかる橋をすべて渡ってみよう」と書かれた盛岡市内観光ガイドもある。こういうのはきらいでないが、雫石川や梁川にもどんどん新しい橋がかかるものだから、一日に探索できるものでない。
 それほど盛岡には橋が多い。


この調子で行くと・・
投稿日 11月19日(火)01時50分 投稿者 kawamura.k 削除

なさんの山田線紀行楽しいね。この調子でひと駅づつ進んでいくと 宮古まであと8ヶ月くらいは楽しめる勘定になるね。全部各駅で行くか知らないけど・・・ 


ふたつめの停車場「山岸駅」
投稿日 11月18日(月)10時37分 投稿者 な@疾風会 削除

  ひときわ大きな警告音の踏切を通れば、線路脇にCOOPマーケット。そして到着したのが山岸駅だが、ほとんど民家の庭先と同じで、ホームといってもまるでバス停みたいだ。
 近くに伝統の山岸小学校もあるが、駅を利用するのはここから盛岡駅に行って東北本線に乗換えるという通勤者がほとんどのようだ。
 もちろん無人駅なので車掌が降車客のひとりひとりに「定期券を拝見」と声をかける。

 国鉄が創案し、今では世界中の建設工場で用いられている安全指差し確認呼称(乗車ヨシ、とびら閉めヨシ)、気分がよくなってポッポ屋さんに「ごくろうさま」と私は声かけた。


シュッポ、シュッポ、シュッポッポ
投稿日 11月15日(金)20時30分 投稿者 佐藤(泰) 削除

↑これ「合いの手」デス


愛宕山から何が出はった?
投稿日 11月14日(木)22時33分 投稿者 な@疾風会 削除

 三ッ割地内のりんご畑から、待ってました山田線最初のトンネルに突入!。愛宕山隧道である。
 子供の頃、探検してくぐったという話をよく聞いたが、自分にはその体験はない。むしろトンネルの上の山を越えて歩く方に興味があった。
 現在はカラス大群のねぐらとして有名だ。ああ、だから「カラス列車」か。
 振り向けば銭神さまと言っていたと思うが岩谷稲荷神社の鳥居がみられる。

 列車はスピードを増して紅葉が丘団地を過ぎる。ここいらの道路は線路の下をやっとの格好でくぐっているので、背が高い車は全く通れないはずだ。


そうか、その方面の研究をなさっているのですか
投稿日 11月13日(水)16時56分 投稿者 佐藤(泰) 削除

そういえばS中同級生から荒○先生は甚平を着て下駄はいて盛岡市内を闊歩してるという
噂を耳にしていました。(もう10年は前の話)

山田線の話、ドーゾ。


景徳鎮の鑑定家で有名なのでは。
投稿日 11月12日(火)10時54分 投稿者 削除

 荒I先生はそんなに昔でなく知っています。
下駄はいた怪人でしょ。菜園界隈の紅街で何度か出会ったんだ。
名刺には中国陶磁器研究家とあったが、店の人が(近くの中学の先生なのよ)と教えてくれた。
 
ところで山田線の汽車旅行を再開していいですか?トンネルを全部数えてきたものだから。


F中はスゴイ!
投稿日 11月11日(月)22時32分 投稿者 佐藤(泰) 削除

「盛岡バイパスとは」とか「第2次大戦とは」とか「寄生木の考察」だとか、まぁ、中学生がそんなこと
題材にしてたのか、と正直スゴイ。私、理工系なれば、天気図、月食、というのは理解の範囲なので
あるが...しかし河童ともなると、これまたビックリですね。

わがS中は、そんなのやってたかな?記憶が無いですね。そういえば、中学校のとき何やってたか思い出
せない。理科のA先生がもらいたての給料みせびらかして、この半分は飲み屋の払いだ、とか言ってた
シーンは鮮明なのだが...A先生は荒○先生−−−>分かるよねS中同窓生の皆さん

少々酩酊しております、失礼。


オレの中学仲間は早熟だな?
投稿日 11月11日(月)12時19分 投稿者 ゆきお 削除

>なさんへ:

 1)中学生が「第二次大戦」を考えるのか! 信じられないね。オレがこの種の問題(白人の侵略
   と支配)を考え出したのは20才過ぎてからだよ。

 2)中学時代は(基本的に)遊びが中心:水泳が中心だったな! 空気銃もやっていた。チョット
   アカデミックな方向としては、天気図を3年間で1000枚は描いた。今でも天気図を診ると一言
   言いたくなるんだね。


中津川と浅野川−「街・もりおか」三題
投稿日 11月10日(日)09時39分 投稿者 佐藤(泰) 削除

「街・もりおか」11月号が届いて、お、っというのが3つありましたので紹介
します。

まずこの疾風会掲示板の常連・村野井さんの寄稿「インターネットの岩手山」。帰盛すると
小田島旅館の岩手山の見える室に泊る村野井さんらしく、岩大の研究室などライブカメラ
で岩手山映像を提供しているHPを紹介されています。ライブカメラで私も一番好きだった
「盛岡景観」がお休み中とは知りませんでした。

そして表題の「中津川と浅野川・・・心の川」。田村さんという方の寄稿ですが、田村さん
は盛岡、金沢、両方に住んだ経験がおありになり、中津川と浅野川がどこか似ている、とズバリ。
私も今年の5月に旅行に行ってたので、わが意を得たり!という感じでした。北上川は犀川に
似ている、ともおっしゃってます。(浅野川は下記URL参照)

さらに「野球少年だったころ」は千葉さんの寄稿。教育会館隣の空き地(現サンビル)での
野球の記憶(おお、これはまさに私がゴロ野球に興じた「グンセーブ」、サーカスも来た!)、
東大通は更正市場と呼ばれていたとか、盛鉄の白坂・村田のバッテリーの話とか、巨人・川上、
阪神・藤村と、一部の向きには垂涎の話題です。

というわけで、地方優良コミュニケーション誌「街・もりおか」の宣伝でした。

http://www.bekkoame.ne.jp/~yasatou/etc/asanogawa.jpg


法華寺
投稿日 11月8日(金)23時47分 投稿者 村野井(1960) 削除

 法華寺の火事は1953年。同級生に法華寺の娘が居ました。尼さんになるなどといっていたけれど、そうではなくサラリーマンと結婚しています。中1のクラスのクリスマス会(?)で彼女は日本舞踊「黒田節」を踊ることになっていました。なんで詳しく知っているかというと、私が黒板にプログラムを書くときに「黒田武士」と書いて先生に笑われたから。
 会の途中で知らせが入り、彼女急いで帰っていった。
 ホッケンジと発音してましたね。

http://muraichiban.hp.infoseek.co.jp/


えー、善友保育園の同期生いたのか
投稿日 11月8日(金)21時35分 投稿者 佐藤(泰) 削除

中田・金丸、両君がそうだとは知らなかった。私が覚えてるのは肴町の「野坂フルーツ」の
野坂君ほか2〜3名だが...。野坂君は白堊会じゃないけど近く通ったら買ってやって
ね(三河屋の向かいあたり)>盛岡組ALL

善友保育園というと、大林先生、チョビ髭の園長先生、瓢箪池、、、、など思い出すね。法華寺
の火事は覚えてないなー。私もその後、名門・杜陵小に通ったのであ〜る。


「戦後16年のとき」に我々は何を考えたのか
投稿日 11月8日(金)20時52分 投稿者 な@疾風会 削除

 中学の自主研究は、優秀作のみ全校生の前で発表講演された。印象深いものに「盛岡バイパス」のほか、菊池大鵬(ニックネーム、41会)先輩の「寄生木の考察」がある。植物観察だと思って聞いたら全く違った。やどりぎという小説の題名で、宮古市出身の作家について論説したものだった。
 しかし、どこからこういうテーマを考えつくのかと私が最も感動したものは、12歳のなめかわまきこさんが論じた「第二次世界大戦とは」であった。

 ゆきおくんは天気図お宅だったし、中田先生はすでに河童の研究に手を染めていた。私(なかや)は皆既月食の観測が一番よかったか。本町通のM手薬局店の宮T氏は「山田線に特急を走らせよう会」を立ち上げているとのことだ。昔から思いがあったんだろうな。


建設省に入ったK二氏と盛岡バイパス
投稿日 11月6日(水)09時35分 投稿者 な@疾風会 削除

 コンクリートヒューム管工場の塀には漫画が描かれている。踏切脇には銭湯が見えた。続いて赤坂病院が見える。交番があったはずだがと言われても列車からはわからない。五百羅漢で知られる報恩寺も山田線に向かっての広報は特にない。
 
4号線の下をくぐった。この国道盛岡バイパス計画を、中学の社会科の自主研究でとりあげて必要性などを考察したのは佐藤K二くん、升沢福Oくん達だった。40年も前のことになるが、ハイレベルな研究だ、すごいなと感心した記憶がある。嗚呼。


45000でした
投稿日 11月5日(火)18時35分 投稿者 村野井(1960) 削除

 44448から45000までの投稿数は6件では約90人にひとりですか。同一人物(小生)が独り占めしてはいけませんね。皆さん、大いに書きこみましょう。
 上盛岡駅のホームは今では無人の駅舎側に1本しかなく北側出口はないのです。かつては貨車の入れ替えをしていたあたりもマンションで、その谷間を走る列車(1両?)を何年か前に写真に撮りました。かつてはカラス列車の異名を取った山田線でした。1960年でも蒸気機関車が引っ張っていましたからね。戦後すぐの買出し列車などは機関車の前にも客がぶら下がっていました。

http://muraichiban.hp.infoseek.co.jp/


善友保育園 なtyかしい
投稿日 11月5日(火)18時14分 投稿者 中田 削除

1年間通った善友保育園。高松から歩いて通ったはず。近所に保母をしている人がいてたぶん一緒に通ったかな?
すぐ隣の法華寺が火事になったのを覚えている。金丸三郎も通った。その後仙北町に引っ越したので、長松寺保育園に通い、仙北小学校・厨川小学校と名門に通った我が幼少のみぎり。なつかしい語を見つけたので一言。


マッチ工場と上盛岡駅
投稿日 11月4日(月)19時47分 投稿者 佐藤(泰) 削除

大きな工場が少なかった盛岡では、「工場」というと「マッチ工場」を思い浮かべたもの
だった。そうか焼けてなくなったのか。

北山の有名な(!?イワテライフではね)善友保育園に通ってた私は毎日四家の方向から
「マッチ工場」前を通って山田線の踏み切りを渡り、聾学校の前を通って北山に行ってた
ハズ。ハズというのは、ほとんどどうやって通ったのか記憶が無いもので。バスなど無
かったし一人で行けるわけもないし...。

上盛岡駅も昔日の面影ないみたいだね。私の脳裏にあるのは、北山の踏み切り手前で左を
見た時、隣に製材所が見え、瓦葺の屋根の駅舎が見える、そんなシーン。


PS.村野井さん、高橋力先生の件どうもでした。私は国語を教わりました。


名須川町のマッチ工場はとうに焼失した。上盛岡駅に北側出口はない。
投稿日 11月4日(月)16時12分 投稿者 な@疾風会 削除

 往時の上盛岡駅をご存知の向きには、現在の駅舎の前まで着いていてもきっとそれと気付くまい、と言えるほど変容している。客待ちのタクシーも並んでいるが、無人駅でトイレや水道栓もない。

 県立中央病院が元の専売公社の所に建ってからは、列車で来院する患者もいるのだが、ホームは南側のみなので病院に行く方向とは逆の東へ200メートル行ってから踏切を渡るまで、絶対に線路を横切らせないつくりになっている。子供らはともかく、傷病者には非情だ。仮に西側に歩き出したら税務署の前を過ぎ、上田の通りを昔の明月館、そして光楽園を通る踏切を越すところまで迂回しなければならないのだから、まあタクシーに乗った方がいいというようなものだ。


勲四等瑞宝章です
投稿日 11月4日(月)14時17分 投稿者 村野井(1960) 削除

 1980年から岩泉、盛岡南、盛岡四、盛岡三の各高校長。全国高等学校文化連盟会長、東北高校体育連盟会長などを歴任、高等教育に尽力した。金ヶ崎町出身。
 白亜同窓会名簿によると、「S41.4〜S50.3 国語 紫波教育長」という方ですね。

 東横イン盛岡駅前に泊まり、ロビーに10部ほど岩手日報が置いてあったので戴いてきました。
 ↓このURL今日0時に復旧するはずが、6時からに延長、さらに12時からに再延長、今は復旧しているかどうか、サテ。

http://muraichiban.hp.infoseek.co.jp/


高橋力先生、秋の叙勲受ける
投稿日 11月4日(月)07時35分 投稿者 佐藤(泰) 削除

おととい法事で花巻に行ってきたのですが、岩手日報に載ってました。うっかり新聞を置いてきてしまって
何等とかはわかりませんが。盛岡組、詳報をぜひ。

「汽車」「停車場」、「な」さん、言葉の響きがいいね。啄木の歌と五輪真弓の「恋人よ」を思い出す。
盛岡の中心市街方面から一高に行くときに必ず通る山田線の踏み切り、何の気なしに渡ってたけど、汽車
が通ってた記憶はほとんど無いね。単線だったよな。

西下台から岩大農学部のところは思い出の地。いとこがいたのでよく「農園」(岩大農学部をこう呼んでた)
に遊びに行ったけど、おとぎの国のような印象だった。

次は右手にマッチ工場(!?)左手に北山の、あの踏み切りを通るかな?


踏切のカンカンカンが車内にも響く
投稿日 11月2日(土)09時37分 投稿者 な@疾風会 削除

住宅街をゆっくり走り梨木町の踏切にかかる。左手が岩大と上田小路の高いところで、右が西下台、地名に上下が付いている河岸段丘だ。アパート群の奥は見えることは見えるのだが「はてどこの道?」という不思議な感を覚えるあたりだ。長田町の陸橋をくぐり、上田踏切には多数の人。自転車の一高生もみられる。
突如、高層マンションの連なりにかわったところで上盛岡の停車場に止まる。
ここまで5分、仮にタクシーで盛岡駅から上田まで乗ってくれば、たまたま踏切にかかったりすれば15分でも利かないかも知れない。


汽車汽車シュッポシュッポ
投稿日 10月30日(水)16時18分 投稿者 な@疾風会 削除

盛岡駅の1番線ホームは迷路といえるほど遠くなった。頭上の新幹線を気遣いつつそっと発車する。夕顔瀬町で最初の踏み切りを通過した後大きく右に進路を変えて、旧4号線の通りをまたいで越えるとすぐに北上川の大きな鉄橋を渡る。左手には秀麗岩手山。

山田線の汽車の旅、はじまりです。


44448でした
投稿日 10月12日(土)22時43分 投稿者 村野井(1960) 削除

 44444はどなたが踏んだのでしょうか。私のHPはメンバーツールでカウンタの数字を1減じてからホームページを開くようにしております。今日のように昨日の数字と同じという日もあったりしてここのHPのアクセス数どころか、マンなんて何年先のことか。URLが10月1日から変更しました。前のURLでも半年はOKです。
 いつのころからか、村野井(1969)になっていました。

http://muraichiban.hp.infoseek.co.jp/


44444踏むのがこわくて...
投稿日 10月12日(土)19時27分 投稿者 佐藤(泰) 削除

掲示板に直リンしてるけど、どうってるかな?

山田君諸同窓会業務ご苦労様です。アルバム楽しみにしております。


44440アクセス番でした
投稿日 10月12日(土)13時42分 投稿者 山田武秋 削除

すごいですね。44444番目はどなたが踏むでしょうね。
今日、在京白堊会会報を発送します。主に45-46年卒が20名以上集まり、
2時から作業を行う予定です。編集作業は、不肖、私めが行いましたので、ご笑読下さい。
次は疾風会の名簿のアルバム部分の編集です。
懇親会に出席できなかった方からの写真も大分届いています。
ちょっと仕事が混み入ってきて、すぐにとはいきませんが、気長にお待ち下さい。


足の太さ戻らず
投稿日 10月11日(金)16時04分 投稿者 ゆきお 削除

早いもので、足の怪我(アキレス腱断裂)から4ケ月経ち、激しいノック練習も行えるようになりまし
た。遠投力も打つのも問題無いのですが、右足のふくらはぎの太さは(鏡で比べても)左より明らか
に細いのです。そのためか、ダッシュ力とか瞬発力が戻りません。担当医の話だと「休んだ期間の
3倍の期間を練習しないと戻らない」と言われました。これ、本当かなあ?


「イワテライフ」日記のまるとさん
投稿日 10月4日(金)14時02分 投稿者 山崎益矢 削除

 知ってますヨ〜。昨年出版した小著で、「生々洞」(深沢紅子さんの父・四戸慈文さんの別荘)を紹介した箇所を見つけて本を買い求めたことなど、「イワテライフ日記」が目にとまりました。早速、お礼のメールを出した記憶があります。でも実際にお会いしたことはありません。
 今、彼はずっと日記を書き続けているのでしょうか。日替わりの写真を観てはパワーを戴いたものです。「あなたがやっていることは、10年、20年経って、ものすごい財産だから、止めないで続けてネ」というようなことを老婆心のあまり伝えたような気がします。
 過日、一高生のお子さんを持つ読者の方から、「あのイワテ日記が見られなくなってしまって・・・。」との手紙を戴いたことがありました。その方は秋田市の方でしたが、やはり盛岡をすっかりお気に召して、梨木町に家を建たというくらいで、見られなくなった日記のことを、とても残念がっていました。
 「イワテライフ日記」は泰QさんのこのHPのリンクからも繋がらなくなっていまっせんか。続けていればいいのですが、・・・。
 小生思うんですよ。「筆が立つ」とか「文才がある」とか、中にはそうゆう方もおられるんでしょうが、文章は書きたい気持ちの力が、絵も描きたい気持ちの力がそうさせるだけなのだと、それは何に対しても言えましょう。まるとさんも盛岡の人ではないけれど、彼らにはそうした何かを感じとる能力が秘められているのかも知れませんネ。一言でいってしまえば、それを人は「感性」というのでしょうか。小生とは違った文章スタイルですが、簡潔な中にも心を引き付けるものがありますよネ。彼が現在から未来を書いているのだとすれば、小生などは現在から過去を振り返って描いているのかも知れません。物理的には仕方のないことですよネ。しかしながら、郭公鳥のように「カッコウ、カッコウ」と言って「過去」に生きているわけはありません。紛れもない現在に生きているわけですし、「古きを温めて新しきを知る」ということでしょうか。
 星先輩にはご迷惑をかけながら書き続けています。「長居し過ぎた良性のウィルス」というところでしょうか。他人任せの自分のHPもまだ出来そうにありませんので、ご迷惑は今後もしばらくは続くことでしょう。
                                          (長文のオジサン)


まるっきり当時の盛岡だ
投稿日 10月3日(木)23時48分 投稿者 白堊博物館長 星 削除

 ご無沙汰してました。半年にわたるチョー多忙な仕事が一段落し,久振りにこちらを表敬訪問したら,なんと我が若かりしころの盛岡の風景があるではないか。しばれる厳冬の夜,車はおろか人っ子一人通らない街角に街灯が凍てつく道を照らしお店も数件開いている。昭和30-40年頃の盛岡なら2月のはじめだったろうか。やがてあっちの方から黒い長靴に角巻きの「おがさん」が急ぎ足で通り過ぎて行く。自転車も走っていたなア当時は。
 このあたりから肴町の方に戻っていくと,ちょうど八幡さんへ行く道の角に「車門」という喫茶店が50年近く変わらぬ様子で営業している。今でも盛岡の原風景はあるんだなア。
 山崎君はこちらでも大活躍だ。


まるとさんが撮った「かわてつ@鉈屋町」
投稿日 10月3日(木)21時05分 投稿者 佐藤(泰) 削除

山崎さんは知っておられるかどうか、盛岡の街をとり続けたHP「イワテライフ」の「まると」
さん。仙台出身の方なのですが、そのカメラ目線はわれら盛岡フリークをあっという間に虜に
してしまいました。日々変わっていく愛する盛岡の街々がホント毎日目の前にこれでもか、
これでもかと出てくるのですから、皆メロメロになったものでした。

その「まると」さん、山崎さんとまるで同じ、盛岡では鉈屋町が一番だ、と言ってました。
私は住んでいたこともあって、「えっ」という意外な感じでした。私の場合、盛岡というと、
穀町、馬町、十三日町の一帯、上衆小路、大清水近辺、紺屋町、葺手町あたり、本町、花屋町
付近、が思い浮かびます。うーん、あれが盛岡かな、と言う感じですね。惣門−鉈屋町−神子田
は在(ざい)に抜ける道、という感覚があったわけです。

ところが「まると」さんがそう言うものだから思い起こしてみると惣門からゆるやかに下る
鉈屋町の入り口は、なるほど!と唸るしかありません。少し広い道が和田酒店にぶつかると
右は明治橋に向かう道が川原町、少し細くなった道がまさに鉈屋町、そしてまっすぐもう少し
入ったところに「かわてっつあん」があります。下記URLの写真は「まると」さんが撮った、
「かわてっつあん@鉈屋町」です。

しばしご鑑賞ください。>ALL

http://www.bekkoame.ne.jp/~yasatou/etc/natayacho-kawatetu.jpg


「馬車馬禁止」とは
投稿日 10月3日(木)18時38分 投稿者 山崎益矢  削除

 「大慈清水」や「青龍水」には仙北町方面から穫れた野菜を持寄って洗いに来る人々で賑わったようです。そのあと馬町の「青物市場衛」へと運んだようです。そのまま市場に出そうと、なかには馬車馬で乗り付けては鉈屋町の通りを塞ぎ、通行の妨げとなったわけでしょうか。あの道幅であれば、想像に難くはありませんネ。鉈や備中ぐわなどを作る職人さんが住んでいた町と思っていたら、さに非ずでした。京都の豪商「鉈屋長清」さんが釶屋山菩提院(やおくざんぼだい)という寺院を建てたのが町名の起こりのようです。


「大慈清水」も
投稿日 10月2日(水)23時50分 投稿者 山崎益矢 削除

「青龍水」の近くのスーパー「かわてつ」の脇道を抜けると、すぐ鉈屋町の通りに出ますが、左に曲がった数十b先には、「大慈清水」もありますよね。付近のオバチャン達がこぼし(小言をいう)ていましたネ。「最近の親は自分の子供が目の前で井桁(清水を区切っている木の囲い)を靴を履いたまんま渡り歩いても、何んても注意しながっけもんネェ」って。「テレビや雑誌などで宣伝されるのもいいけれどサァ、最低限の常識だけは守って貰わないとネェ」と、それから「夜遅くバイクで来てエンジンをかけっ放しで利用されるも迷惑だよナハン」とも、ある農家のオジサンは、「無人の産直所で、お金も入れずに品物だけ持ち帰る不届き者がいる」と言ってましたが、以上の事実は盛岡に帰ってガッカリさっせられたことでした。
 「鉈屋町」には一種のノスタルジアを感じます。昭和40年代の盛岡を出る前の姿そのものがそっくり残っているような気がして、一番味わいのある町です。清水を中心とした近所付き合いや住民の活しぶりも、昔と変わっていないような気がします。大慈清水の柱の一本には「馬車通行禁止」と書かれた標札があり、往時を偲ばせてくれます。


「かわてっつぁん」であんすか
投稿日 10月2日(水)06時27分 投稿者 佐藤(泰) 削除

山崎さんいらっしゃ。私ひととき「かわてっつぁん」のご近所さんでした。いつも白堊応援団30
のBBSは拝見してますので朝市に行かれてるのは知ってましたが「かわてっつぁん」や「吉田豆腐店」
(川村君から紹介あり)をご愛用とは、話がさらに繋がってきました。さらに「青龍水」、わたしの
お袋は「青龍水」で洗濯してましたし。

寄せ豆腐の件はあちこちに聞いてるうちに情報がたくさん集まってきました。八幡の「吉田豆腐店」と
夕顔瀬の「工藤豆腐店」は市中心部なので有望です。寄せ豆腐料理を出す店も何軒かあるようですので、
昼は「盛岡冷麺」、夜は「寄せ豆腐」で楽しめそうです。盛岡も3大麺だけでなく豆腐をもっと宣伝して
ほしいですね。

「おから茶」は初耳です。どこの伝統なんでしょうか、作り方は難しくなさそう。単身赴任で料理は鍛え
られてきましたのでチャレンジしてみようかな。



豆腐食べて来あんした
投稿日 10月1日(火)01時55分 投稿者 山崎益矢 削除

 帰省した折りにはいつも「神子田(みこだ)の朝市」とセットで大慈寺町の「青龍水」(「大慈寺」の前・スーパー「かわてつ」の裏)に立ち寄ります。その帰り道、八幡町の通りの「吉田豆腐店」で寄せ豆腐も買って帰ります。実家に持ち帰ってもまだ生温かかく、朝ご飯にとる「寄せ豆腐」も、なかなか乙なものです。大豆の味が口一杯に広がってきます。出来たてのものをゲットできるのも「早起きは三文の徳」と、ささやかな幸せを感じる一時でもあります。住吉町にある「佐藤豆腐店」では、季節がら、地元で採れたキノコを店頭にて販売していました。盛岡市内には個人経営の豆腐屋さんも14件ぐらいしかなく、この時代になかなか健闘しているほうではないでしょうか。
 どこで情報を得たのか、先だってオフクロが「おから(卯の花)」のお茶を食膳に並べてくれました。これもなかなかどうして、黙っていれば、お茶のつもりで飲んでいたかも知れません。
 「おからのお茶」の作り方を参考まで・・・
 @「おから」の水分を取り除く。(電子レンジでもいいし、天日でもよい)
 Aフライパンに油をひかずに、弱火で焦がさないように煎る。
以上の簡単な手順で済みます。「大豆茶」とでも言うのでしょうか。これの材料をニンジンにかえれば、「人参
茶」ということになりますが、人参のほうは、疲れ目に効くと言われています。


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