[中四国近代建築スケッチブック 3]


 
旧遷喬小学校 その1
[1907年築 真庭郡久世町久世]

 津山から姫新線のディーゼルカーで40分、青い稲穂が風にうねる中国山地の谷を抜けて、人口2万人弱の山間の静かな町・久世(くせ)町にやって来た。明治時代の小学校の木造校舎が今も残っていて、そこを起点にいま独創的な町おこしが図られているらしい。久世駅から国道181号線(旧出雲街道)を15分ほど東へ歩く。
 家並みが切れ視界が開けたと思ったとき、広いグラウンドの奥に見事なシンメトリーの白い校舎が姿を見せた。旧遷喬(せんきょう)小学校との出逢いであった。
 それはまさに見事としか言いようのない美しさだ。東西に良く伸びた2階建・寄棟造りの教室の並びの真ん中に、堂々と張り出したダブルペディメントのファサード。そのマンサード屋根の中心には校章入りのドーマー窓、そして中央下部には求心的に視線を導くアーチの玄関が口を開いている。その姿は羽根を大きく広げた鳥のようでもある。
 その門の下で迎えてくださったのが久世町総務課の安東保夫さん。玄関奥の元校長室でお話しを伺った。この校舎は県の役人・江川技手が設計し、当時の町予算の2.7倍にあたる1万8000円の巨費を投じて1907年(明治40年)に竣工した。この遷喬小学較は1990年夏まで子供たちを育んできたが、200m離れた新校舎の完成に伴い、ついに現役を引退し、それからは町のシンボルとして永く保存されることになった……。と書けば簡単だが、実際は保存が決まるまでにこの町でさまざまなドラマがあったようだ。
 ここで安東さんご自身の経験を織り交ぜながら紹介してみたい。「老朽化」を理由に文部省が、遷喬小学校を要改築(危険)校舎指定したのが約20年前。新校舎建築のための補助金支給が旧校舎の取り壊しが条件であることや、敷地の少なからぬ部分が借地であったことなどから、旧遷喬小学校は解体される方向に話が進んでいった。だが、この学校が、子の代・親の代・祖父母の代にわたって親しまれてきた心の依り所であり壊すのは忍びないとする一部の地元の声に加え、建築の専門家からも「貴重な遺構であり残すべきだ」との意見が出され、保存を巡る議論が始まった。だがこの時点での町民の世論としては、保存派・取り壊し派五分五分だったという。実は安東さんご自身も、この学校の卒業生でありながら、その頃は「めげえ(=壊してしまえ)」と言う立場だったという。
「役場の職員ということもあるでしょう、貴重な税金を使ってわざわざ保存しようなんていうのは、そんなのただの郷愁にすぎんのじゃないか。ただ懐かしいから残す、というだけでは通用せんじゃろう、と思っていたんですよ」と当時の心境を振り返る。そしてそれは町民のごく一般的な意識でもあったのだろう。
【つづく】

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