中欧(旧ユーゴスラビア)の旅
[§4]ボスニア-2


スケッチと文/渡邉義孝

「明日もまた友人であること」

ここが、そしてここに住み働く人々がムスリムであることを知った。ぼくは料理を食べ終わるとウエイトレスに訊いた。
「あなたには、もうクロアチア人の友人はいないのですか?」
ここで生まれ育ったという美しい彼女は思わず笑って
「ちょっと待ってて」
と言って二階へ走り、一人の青年を呼んできた。そして
「彼は私の友達、クロアチア人よ」
と少し茶目っ気をふくんで笑った。

彼はドラガン・チョバノビッチ(24)。このM.M.の店員。控えめで黒い瞳は相手をしっかりと見る男だった。
「あなたはクロアチア人なんですって? どうして今も友達でいられるの?」
という質問に彼は一瞬肩をすくめた。
「だって友達は友達だろう? 昨日だって明日だって」


▲左がドラガン。フィールドノートより

 なにもドラガンが内戦の厳しい洗礼を受けていないわけではなかった。
 ボスニア中部のザンツァ(サラエボの北70 km)で生まれたドラガンは、17才の時、サラエボのポリスアカデミー(警察官養成学校)にいた。ある日、セルビアの兵士によって校舎が襲われたという。兵士は生徒達の中から、クロアチア人とムスリムを「選抜」し連行、ドラガンもその一人として投獄された。400人ほどだったという。その時は4日間で釈放されたが……。当時アカデミーの寮では同じ部屋に、2人のクロアチア人、1人のセルビア人、1人のムスリムで住んでいた。
 「もちろん皆友達だった。連行の時、セルビア人の生徒はどうしたかって? 心の中ではぼく達を守りたかったろう。でもそれをしたら死んでいた。仕方のないことだよ。あのころは民族名が書かれたIDカードを持たされていたから、兵士にとって選別は簡単なことだったしね」

 手を止めて聞いていたぼくに、ドラガンは食事をすすめ、言葉を続けた。
 「バルカン半島はそういうところなのさ。第一次世界大戦も第二次世界大戦もここから始まったのは知っているだろう。セルビア人の友人も兵士となって向き合ったら相手を撃ち、また自分と自らの家族を守ろうとするだろう」
「ボーダーを越境し仕事に通うことについて、家族は何も言わないの?」
「別に?」
肩をすくめてドラガンは応える。
「だってこれがぼくの仕事だから。ぼくもそして彼女(ウエイトレス)もラッキーだよ。このモスタルでは70%が失業しているからね」

「でも家族や友人を失ったことへの怒りは、その集団に向けてなおも燃やされるものではないだろうか?」

 この問いはどうしても聞いておきたかった。
 今朝のドブロブニクでのクロアチア人の憤りも強く印象に残っていたし、さっきのあまりにもひどい破壊の跡を見た時、これがこのまま、このまちに住む人々の心そのものだという気がしたからだ。ここで、まさに彼らの目の前で沢山の市民が撃たれ、殴られ、焼かれて死んでいったのだから。

 確かに、この町にはいたるところに墓地があった。
 われわれが普通目にする墓地と違う異様な点は、どの墓標も同じ数字、すなわち「1992」で終わっていることだ。
 曰く「1953〜1992」、「1949〜1992」、「1969〜1992」というふうに。
 人が死ぬことは避けられない。墓地だってそれ自体が悲劇であるわけではない。しかし、どれもが同じ数字で終わっている墓地は尋常ではない。それは、強烈な人間の悪意によって、ねじり倒すように刈り取られた、未完の情念を連想させるからなのか。


↑修復されているスターリモスト

「集団に向けられた憎しみはないのか」
その問にドラガンはウエイトレスを見た。

彼女は明らかに悲しみを顔に浮かべていた。耐えがたい出来事が、この町で起きたことを物語っていた。しかし次の瞬間、ほとんど同時に同じ言葉が二人の口から出たことに驚かされた。

「That's the past」
―それは過去のことだ、と。

「なぜそう言えるのですか? 今朝出会ったクロアチアの人々はそうは言わなかった。そしてあの言葉こそ率直な感情として理解できるのだけれど……」

ドラガンは少し考えて言った。

「このモスタルの東側にはムスリム90%、一方西側にはクロアチア人80%というふうに別れて暮らしている。それでも「一色」というわけではない。このまちに10日間留まってもっと沢山の人に会ってみたらいい。「奴等とは暮らしたくない」「いや、一緒にやっていこうと思う」いろんな意見を聞くことができるだろう。サラエボでもそうだろう。ぼくも、彼女も、ボシュカイロも、それぞれが違うように。そしてぼくのように『セルビア人であろうが友達は今でも友達だ』と言う人間にも出会うだろう。どこの国でもきっとそうだろう。だからもっと沢山の人に会って欲しい。話を聞いてみて欲しいよ」

彼は更に言葉を続けた。

「家族が引き裂かれたケースもたしかにある。異宗教間婚姻の家族はその多くが米国や西欧に逃げている。100万人は下らないだろう。離婚して敵味方になったのは少数のケースではないだろうか。海外に移住した人々はもうこの国には帰ってこないだろう。平和になった今でも毎日100人単位で出国が続いているんだ。何故って? 仕事がないからさ。働いていけないんだ。日本の失業率は5%位なんだろう? 新聞は読むし、CNNだって見ているからそれくらいは知っている。でも70%の失業率ではどうしようもなんだ。停戦後、事態がよくなったとは残念ながら言えないんだ。ぼくのサラリーが年に500$。一軒の家は15,000$はするんだ。結婚して家を建てるなんてこともとても無理さ。でもぼくはこれからもここで生きていくよ。明日もここに通ってくる。それは確かなことだよ」
 ムスリム地区に通うクロアチア人のドラガンは、そう言って席を立った。

 ドラガンは、憎しみと絶望に満ちているかに見えた激戦地モスタルで出会った、またひとつの肉声である。モスタルの名を聞く度に、ぼくはこの遠慮がちなドラガンの瞳を思い出すだろう。
 支払いを済ませる。ずっと側で話を聞いていたボシュカイロが固い握手をしてくれた。ホテルが貸してくれた女物の傘を再びさして、雨のまちに歩みいる。
 今度はためらわずムスリム街に進んでみる。細い橋を渡る。さっき渡ったブルーに泡立つネレトバ川。ここにはいくつもの橋が大砲で砕かれてまさに泡となって川底に落ちている。その上に今、Most Musala(スタリ・モスト)が架け直されている。ボスニア最美の橋と言われたこの橋が、また再び二つの民族のエリアを結ぶのは、何時のことになるだろう。


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