***** 地元劇団 海童(かいどう)の公演 ***** 

演目 「龍馬が来た」

この話は史実を大いにふくらませて書かれたフィクションですが、坂本龍馬が長崎からこの五島を眺めたであろうことは推測できます。

ただこの芝居のように五島を訪ねて来たことになると、そこは各々が思いを馳せるところでしょう。

写真bP、2は場内のようすで、みなさんが静かに開演を待っているところです。(300人収容で満席)

この芝居の場面構成は、現在のおじいちゃんと孫二人が江の浜にある幕末の志士の墓の前で、掃除しながら当時を回想するというセッティングです。写真bR

写真bSは蒸気船のユニオン号が帆船のワイル・ウエフ号をロープで曳航し航海していて、そのワイル・ウエフ号の船上のようすです。

長崎を出航し薩摩に向かっていて、まもなく大しけに遭いワイル・ウエフ号は難破する。南の薩摩へ向かっていたが、南風が吹き荒れていたので北方向の五島へと流されて江の浜の潮合崎に漂着する。

bTは江の浜の海岸の騒動のようす。
乗組員16名のうち4名は助かり12名は亡くなったので、墓石には12名の名前が書いてあるそうです。

bU、7は坂本龍馬が薩摩藩家老の屋敷にて、船が難破したことを知る場面。丁度、妻の「おりょう」と新婚旅行の途中らしい。

難破事件を知った龍馬は五島の江の浜村を訪ねて、村人にお礼方々墓石の建立資金を渡し弔辞をささげた。その内容に村人は感動したという。
bX

場面は現在に戻る。bP0、11
回想シーンが終わり、おじいちゃんは龍馬の話をはじめる。

『 その後の坂本龍馬は、難破を逃れたユニオン号で下関へ行き、長州と一緒に幕府軍を撃退したという話たい。』

『 ところが、一年後に京都で凶刃にたおれ、翌年の明治維新ばみられんまま死んでしもうたという話たい。』

ナレーションによると

ワイル・ウエフ号難破事件の翌年、慶応3年10月、坂本龍馬の発案を後藤象二郎が受け継ぎ、土佐藩主山内容堂の建白により大政奉還されたが翌月11月15日、坂本龍馬は京都の近江屋で、明治維新を目前にして何者かに暗殺された。

そしてその翌年、王政復古の大号令が発せられ新政府が成立し、9月、明治と改元されたのであった。

激動の時代の流れの中で、土佐藩の郷士として生まれた坂本龍馬は、勤皇の志を抱いて脱藩した。希代の風雲児の名をほしいままにし、常に眼は未来を見通し、心を世界に開いて時代と人物を動かす胆力で、疾風の如く駆け抜けたのであった。享年三十三。

明治維新という歴史的な大変革、即ち日本国の夜明け前に、西の果ての五島有川の海に起きた悲劇を秘めて、士魂は今なお『 龍馬ゆかりの石碑 』の下に眠り続けている.....。(終)

bP2、13は海童の代表あいさつ。盛大な拍手で幕は下りた。

          

    画像は http://www.atjp.net/ 様よりお借りしました。


*****楽屋話*****

劇団「海童」には子役がいなくて、Tさんが中学生のももちゃんに出演依頼をしていたのですが、一人では恥ずかしいので出ないと言うことで、ももと同級生のいつちゃんに、どうしたものかと偶然に話がありました。

お互いに一人では出ないけど、二人一緒なら出てもいいよ〜ん♪、と言うことになり、急きょ、孫役を二人にしてもらい台本の書き直しまでしていただきました。Tさんと脚色の方には感謝致します。

ここ有川には伝統芸能として毎年1回「にわか」と言う芝居があります。各郷(8地区)が町中の10ヶ所で芝居を見せます。実に楽しいものです。

役者の方は10日ぐらい前から練習するのですが、これがうまいです。毎年、よく千両役者がそろうものです。(すぐ吉本興業で使えますョ)ちなみに私は「山車(だし)」を曳く係りに毎年参加しています。(笑)


*** 2005.02.13 ***


龍馬ゆかりの広場(江の浜郷)


1 石碑 8 潮合崎(潮やん鼻と呼んでいる)
2 案内 9 江の浜郷
3〜7 江の浜郷共同墓地 10〜12 龍馬ゆかりの広場近辺の風景



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S43年頃、当時小学校の先生3名で、遭難事件の
史実を丹念に調べてこの墓石を見つけたそうです。




*** 2005.02.21 ***

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