Placebo プラシーボ (連載第413回)

 私も年のせいか、原因がよく分からず身体に変調をきたすことがあって難儀する。先般実家に長逗留していた間に血圧が上がってふらついた。すぐ近くに内科と神経内科を診療科目に掲げている診療所があるので、念のためそこで診てもらった。笑顔を絶やさない髭面の医師は血圧を測るなり、不安や不眠が原因で起こる自律神経の失調に因ることが多いからと言って、漢方薬やら睡眠導入剤やらを処方してくれた。私は寝つきが良いほうで不安を感じてもいなかったが、それらの薬を飲んでいるうちに症状が治まった。薬が効いたか、飲まなくても自然に治まっていたかは分からない。だが、あれやこれやと検査した挙句に原因が分からないと言われなかったのは幸いだった。

 かつて私が近くで仕えたソニー創業者の井深大氏(故人)は晩年、鍼灸(acupuncture and moxibustion)や指圧(acupressure)といった東洋医学に凝っていた。漢方医を招聘して脈診(pulse diagnosis)という診断法を研究させたり、自ら漢方薬(herbal medicine)を愛用したりもしていた。技術者であり読書家であった氏の関心は伝統医学からホリスティック(holistic)医学、代替医療(alternative medicine)と呼ばれる異色の分野にも及んだ。氏の通訳を務めていた私は家電メーカーに入社してこれらの分野の語彙を蓄える必要に迫られるとは思ってもいなかった。

 薬というものは効くと信じて飲んだほうが効くものだ。これをプラシーボ(プラセボ、偽薬)効果(placebo effect)と言うこともその頃知った。このような思い込みは良いほうに向かえばいいが、逆に悪いほうに働くこともある。井深氏は気圧に体調が左右されると信じて、気圧の変化を表示できる腕時計を使っていたが、それに目をやっては「気分がすぐれないから後の予定はキャンセルしたい」と言っては秘書を当惑させていた。

 最近、ウイルス性の風邪には抗生物質(antibiotics)が効かないのに、患者の希望に応じて処方する医師が多いという記事を見かけた。抗生物質の濫用が耐性菌(antibiotic-resistant bacteria)の出現を促すので良くないという理屈は私にも分かる。しかし、だからと言って患者に「どうせ効かないから薬は出しません」と告げて終りでは、町医者としては芸が無い。当たり障りのない薬でも出して「効く人にはとても良く効きますよ」とでも言われた患者が結果的に良くなれば、それに越したことはない。

(『財界』2018年9月25日号掲載)


※掲載日:2018年9月25日
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