Heathen 異教徒 (連載第372回)

 懐かしい映画がテレビで放送されているとつい昼間から見てしまう。先日は『ベン・ハー』(1959年制作のアメリカ映画)を見た。上映時間が3時間半に及ぶこの作品を最初から見たことがなかった私は、Ben-Hurという本題の直後にA Tale of the Christ(キリストの物語)という副題が表示されることに今回初めて気付いた。キリスト生誕の場面から始まるこの映画がスペクタクル史劇であると同時に宗教劇でもあったことを今更ながら思い出した。

 その場面を見ていたら自分の幼少期の宗教体験― 幼稚園のクリスマス劇で救世主の生誕を告げる星を目指して歩くターバン姿の男(たぶん東方の三博士のひとり)の役をやらされて級友から「インドカレー!」と囃された記憶やら、宣教師が空き地に大きなテントを張って紙芝居をしていたのを見に行った思い出やら― が蘇った。そんな話を家内にしたら、彼女も実家が信者でもないのに、キリスト生誕劇でその星の役を演じた記憶があると言う。

 幼かった自分にはキリスト教の教義など分かる訳もなく、家内も私も信者にはならなかった。精霊(spirit)のようなものが万物に宿ると感じる、あるいは複数の神々が同じ境内に祭られている多神教(polytheism)を無意識に受け入れてきた私のような日本人は生来、唯一絶対の神(the God)を崇める一神教(monotheism)は入信しにくいのかもしれない。

 それでは幼少期における外来宗教との遭遇が無意味かと言えば、そうでもない。その感化を受けなくても、世の中には自分たちとは違う信仰を持っている人たちがいることを肌で感じることに意義がある。

 一神教徒の異教徒(heathen)に対する感情は私などには理解しがたいところがある。博愛を謳う一神教の信者でも、信心の度が過ぎると狂信(fanaticism)に走って異教徒を弾圧、排除する動きは、残念ながらいつの世にもある。

 もしかしたら一神教徒の中には、異教徒の作った芸術作品や映像を人格形成期の子供に見せたがらない向きがあるのかもしれない。そうだとすれば、異教徒に対する理解も寛容の精神も生まれにくい。

 どのような信仰を持つ人であれ、無神論者(atheist)であれ、子供たちが異教徒に接してそれについて知り、時にはその異文化を楽しむ機会を奪わないことが、平和な世界の形成に向けた第一歩ではないかと思う。

(『財界』2017年1月10日号掲載)


※掲載日:2017年1月24日
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