Condolence 弔意 (連載第317回)

 私も人生の後半に入ったせいか、特にこの数年、身内や知人の訃報に接することが多くなった。

 喪主が遠地にお住まいの方であれば、あるいはまた故人との関係によっては、参列すべきか、香典・供花の類をお送りすべきかどうかでちょっと迷う。事前に連絡をもらえる慶事とは違って、弔事は式まであまり時間がないから、即断しないといけない。最近は身内だけで葬儀を済まされる方も多く、些少な金品でも送ると、かえってお返しの気遣いをさせることになりかねない。だから私は、親戚を除いて、ほとんどの場合は何もしないことにしている。

 とはいえ、何の弔意も表さないのも気が引けるので、せめて弔電(telegram of condolence)でも送ろうという考えに至る。ところが、例によってインターネットで検索してみたら、社用以外の儀礼的な弔電は無用と考える人も意外に多いとわかって、そこでまた迷ってしまう。

 弔電はもともと形式的な色彩が強いので、私もかつては、「御尊父様の御逝去を悼み」云々の定型文から選んで出していた(拙著『英語屋さん』p. 134参照)。文字数に応じて課金される電報料金が高くならないように、なるべく短く簡潔な文面にするのは、私のような庶民にとっては生活の知恵のひとつだった。弔電というものは、誰から来たかが問題なのであって、古色蒼然とした文面も、時として異様に豪華な台紙も、喪主によってはおそらくまったく意に介さないだろう。

 だが、弔意を表す唯一の手段を、味気ない決まり文句で終始させるのもどこか心寂しい気がする。実は、私がたまに利用している廉価な電報サービスは、一律料金で300字まで書ける。これでは、料金が高いから短文で済ませたという言い訳もできない。

 かつて英文秘書業務を担った私の経験によると、社会の重鎮であれば、お悔やみの定型表現に加えて、たとえば故人との思い出話や、その功績への賛辞を手短にまとめる。訃報に接して数時間のうちに昔の記憶をたどりながら弔電を仕上げるのは難儀でも、後日、喪主やご遺族の方と改めて話す機会があると、意を尽くして書いておいてよかったと思う。

 話は変わるが、今年の広島・長崎の平和記念式典での首相の式辞の大半が去年とほとんど変わらない「使い回し」だとマスコミから批判を浴びた。この国の式典の式辞はもとより無味乾燥な美辞麗句に終始しがちだが、いまやその類のスピーチでも内容や表現が問われるようだ。たとえ儀礼的な式辞であっても、血や心の通った挿話や気の利いた引用のひとつでも盛り込んで、棒読みせずに真摯に伝えることもまた、今日のリーダーが持つべき心得なのかもしれない。

(『財界』2014年9月23日号掲載)


※掲載日:2014年9月22日
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