Discrimination 差別 (連載第308回)

 サッカーJリーグのとある試合中、Japanese Only(日本人以外お断り)という横断幕が競技場内に掲げられたことが人種差別的だと問題になった。サッカーを見ない私にはその背景や動機はよくわからないが、伝えられるところでは、それを知っていながら撤去せず放置した主催元のクラブに1試合の無観客試合などの重い懲罰が課されたという。

 この騒動、昭和30年代から40年代にかけて外国人をあまり見かけない北海道の片田舎で育った私には、正直なところピンと来ない。幼少期に差別(discrimination)的な行為や発言を見たことも聞いたこともなく育ったせいかもしれない。先住民のアイヌに対する差別が一部にあったという話を聞いたのは、かなり後になってからだ。差別したりされたりという嫌な体験も、差別はいけないと大人から教わった記憶もないのは、その必要がなかったからだろう。その意味では、私は古き良き時代に育ったようだ。

 差別と聞いて、ひとつだけ思い当たることがある。父の転勤に伴って沖縄で中学校に入学したときのことだ。当初、私は周囲から「ナイチャー」(内地の人)とか「ヤマトンチュー」(本土の人)と呼ばれた。「内地」という言葉は北海道でも使っていたし、差別とは受け止めなかったが、あまり楽しい思い出ではない。その後、北海道に戻ると今度は「オキナワ」とはやし立てられた。もっとも、いずれもいじめというほどのものではなかったし、級友とはすぐに打ち解けた。

 今日の日本は、社会状況も住民構成もその頃とはかなり異なる。この国を訪れる外国人は膨大な数にのぼり、この国に住んでいる外国籍の人、帰化した外国出身者も含めて、様々な民族的背景を持つ人々が身近にいる。昔とは違って、差別の問題が顕在化する可能性がそれだけ高いのも仕方がない。

 ただし、いわゆる差別語については誤解も多い。私はブログで、もともと差別的な意味がないある言葉をそのように説明したところ、いやそれは差別語だと難癖をつけられたことがあった。マーケティング関連の文書ではproduct differentiationを「製品の差別化」と訳すが、調べてみたら、差別という言葉を忌み嫌って「差異化」と言い換える向きが一部にあるらしい。だが、それは考え過ぎというものだ。differentiationはどちらかというと「区別」「相違」という意味だが、人を差別する意図で使われていないことが明白である以上、すでに定着した「差別化」という用語をあえて言い換える必要はない。

 差別はもちろんいけないことだが、それを過剰に意識する一部の傾向にも、どこか嫌な空気を感じる。差別に当たるかどうかを冷静に判断できる視点を養いたいものだ。

(『財界』2014年5月13日号掲載)


※掲載日:2014年5月27日
※このページの無断複写・転載は固くお断りします。
©Yoshifumi Urade 2014  All rights reserved.