about old hanger

●なぜ「ハンガー」なのか? -2-
異化された日用品あるいは匿名性(1)

私は、美術学校を卒業した美術系の人間です。しかも、2000年まで毎年個展などを開いておりました。「現代美術」と呼ばれる代物で、決してわかりやすい作品ではありません。むしろどちらかというと難解。美術関係ではない人から「どんな作品を作っているのか?」とたずねられると正直説明が面倒で嫌でした。(こんな作品を作っていたの→Go!
わけあって、作品制作活動は20世紀をもって無期限の休止。(わけは面倒なので聞かないでください。)

こんな私なのですが、美術作品を収集したいという気になったことはありません。しかし、洋食器は収集の対象として考えられます。特にカップ&ソーサー。これも“手を出してはいけないもの”リストに入っています。自分では集めない代わりに、お祝い事があると贈り物にします。だからといって、作家もの食器などには全く反応しません。

洋食器とハンガーの共通点は、「日用品」であること、そして特定の作者が見えない「匿名性」にあります。
このあたりに、私の食指が動いた理由のひとつがありそうです。

★“異化された”ありふれた日用品

ごくありふれた日用品は、ごく単純な用途のために作られます。
カップは飲み物を注ぐため、ハンガーは衣服をかけるため。用途はそれ以上でもそれ以下でもありません。それだけにその基本的な形態はおのずと決定され、構造も簡単です。

特に気にかけなければ、そんなものはどうでもいい。ハンガーなら服がかかればよいし、カップならお茶が注げればよいはずです。(事実、私が常用しているものは、なんのこだわりもないそんなものです。)

しかし、そこから機能性、日用性を取り払った視点で見たとき、その姿は一変します。自由を制限された形状は、その制約の中で最大限の自由を求めようとしています。ある時は、その時代に許された最大限の技術がこめられます。ある時は、より機能的で洗練されたデザインを追及します(もっとも、それらが常に成功するわけではありませんが)。また、ある時は、特定の趣味を満足させるための装飾が加えられます。日用品としてのアイデンティティをいかに高めるか、せいいっぱい存在感を求めるけなげな姿が見えます。
ある場合は工芸的な価値が生まれ、ある場合は時代性を映す鏡となり、また、ステイタスを満足させる付加価値そのものになります。
そういった姿に、日用品が、日用品であることを維持しながらそれ以上になろうとする抵抗のようなものを感じることができます。

20世紀の美術家マルセル・デュシャン (Marcel Duchamp) は、「レディメイド」という手法を芸術表現に持ち込みました。なんてことはない、既製品を使ったオブジェです。代表的な作品に『泉』(1917)があります。
『泉』は、男子用便器に“R.Mutt”という架空の芸術家のサインを入れただけのオブジェ(彫刻?)です。
それは、サインを入れられ美術館の展示空間に置かれたとたん、便器ではなくなってしまいました。便器という機能を積極的に無視したデュシャンによって芸術作品にされてしまいました。彼は、日用品の抵抗に手を差し伸べ、本当に“それ以上”のものへと異化してしまいました。(便器がそれを望んでいたかどうかは疑問ですが。)

私は、ハンガーを工芸品とも、ましてや芸術などと思っていないし、そのように仕立て上げようと考えてもいません。しかし、日用品の秘めるモノとしての抵抗力に、(それがたとえむなしくこっけいであっても)愛おしい姿を見出しているのかもしれない、などと思うことがあります。

〜続く、と思う〜